短篇Ⅱ

糸遊 文

蝶が羽ばたいて、そして。

 (あお)(あお)の境界線が混じり合って、ひとつの「あお」になって眼前に悠々と広がっている。雲ひとつ無い快晴、渡り鳥も飛行機すらも渡らずに緩やかに流れる風だけが波と戯れた。時折、飛び跳ねた魚が海面を叩いては水飛沫が真珠のように瞬く。
 ふと、影が差す。それは数刻、ゆらゆらと揺らめいた後に人の形に留まった。私は何も問わず、ただ、蒼碧(そうへき)の世界に沈んだまま。気紛れに吹く風が悪戯に私の髪を撫でて、乱すだけ。心地良い静寂に守れられた死――私の楽園。

 ――本当に?

 白いペンキが所々剥げたフローリングの床に揺蕩っていた影が、真っ直ぐに問う。そして一度、大きく揺らめいて形を変え始めた。翼を大きく広げた鳥に、日向で体を丸める猫に――木の枝をよじ登る芋虫に。私はただ、じっとその変わりゆく様を眺めているばかりだった。私の影ではない、何者かの影が足元で静かに崩壊と再生を延々と繰り返している。

 ざぁ……っ、

 力強い風が一陣、吹き込んだ。蒼碧の世界に真っ白な長方形が、不規則に散らばる。私の濁った眼が藍色の小さな舟を捉えた。それはそれは、小さく歪な舟で――可哀想な舟だった。一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまったように息を詰まらせ、咳込む。その間に芋虫だった影が、大きな鯨になって小さな藍色の舟を呑み込んでしまった。
 凪いだ部屋を悠々と泳ぐ鯨に名残り雪のように舞い落ちる紙片が、胎児のように躰を丸めて哭く私を嗤う。冷ややかなフローリングに熱を持った涙が染み込んで、潔白を汚してゆく――もう、限界だった。涙と激情に滲んだ視界で捉えた、鈍色に輝く万年筆のペン先。

『忘れたくない』

 ころん。

 幼子のように泣き喚く私に寄り添うように転がって来た、傷だらけの万年筆。床に散乱する紙片を寄せ集めて、ひとつひとつ丁寧に整えて本来の姿を取り戻してゆく。優雅に泳いでいた鯨はいつの間にか、枝を抱き込んで眠る蛹の形になっていた。私はただ、その蛹を通して蒼碧の世界を眺めては万年筆を奔らせる。もう、既に心は凪いでいた。

 蒼天と碧色に輝く海の滲んだ境界線に藍色の小さな舟が一艘、陽炎のように漂う。その幻想舟(げんそうぶね)へ真っ白な蝶が一匹、ゆっくりと羽ばたいてゆく。そして、陽光を浴びて瞬く海面に真っ黒な蝶が墜ちていった。

短篇Ⅱ

短篇Ⅱ

  • 小説
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更新日
登録日 2021-06-17

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