山手隧道

北爪 正人

         第一章

カーテン越しに差し込む日差しがもうリビングの中央まで伸びている、夜明け前にようやく寝落ちした信介は朝昼兼用の簡単な食事と洗濯を済せ、ベランダの日差しが低く変わった頃、カメラをぶら下げてマンションを出た。
逆光で西日の眩しい本牧通りを暫く歩き、信介は隧道の入口を夕方の斜光で撮ってみようかと丘の上に出る細い石段を登った。
その隧道は昭和三年に作られて長さは200m位で相州堅石という石で組み合わせられた入口には銅板で山手隧道と刻印されている。
隧道とは昔、死者の棺が置かれた部屋と入り口を結ぶ道であると信介は何かで読んだ記憶があった。
ふと其の記憶を蘇らせた信介は西洋の城壁の様に石を組み上げて造られた手前のアーチ橋と蔦が下がる隧道の入り口を眺めた。
それは観光地として栄える元町と置き去りにされた様に寂れた本牧の町をつなぐ回廊の様で、同時に信介自身の過去と今を覗く遠眼鏡の口の様でもあった。

信介は望遠レンズを構え丘の上から 隧道の出口に焦点を合わせてシャッターを切っていた。
西日が丁度良い具合に影を作り隧道からの歩道を照らしている。何枚か撮っているうちに、丁度隧道から出て来る一人の女がフレームに入った。
白地にカーキと葡萄色の太い縦縞の和服を着て、
手にした白い日笠の間から白足袋の草履を見せて小さな足取りでアスファルトの上を歩いている 。
ピントを合わせて西日の斜光がそのひとを浮き上がらせた時、信介はシャッターを切った。
そのひとは隧道を出た角の路地に入ると視界から消えた。信介はカメラのビューアーを覗きその画像を拡大してみた。
日笠の合間に少し俯き加 減の白い顔に大きな薄いサングラスを掛けアップにした黒髪が覗いていた。 「上手く撮れたな」少し気を良くした信介は大きな教会の裏手にある日陰の道を壁づたいに歩き 、長い石段を降りた信介は下道に出ると腕時計を見た。

未だ日没迄には少し時間が在る コーヒーでも飲んで帰るかと隧道横の路地に入り馴染みの扉を開けた。
「よーいらっしゃい、なに今日は仕事は」
年季もののストローハットを阿弥陀に被ったマスターが薄暗い明かりの下で笑った。
「たまには休ませてよ」信介が挨拶代わりに言うと
「いつも休みじゃなかったっけ」と又マスターが笑った 。
「撮影かい、良いの撮れた?」と信介が下げているカメラを眺めて言った 。
「うーん大したもの撮れて無いけどね、まあいつも通り」
「コーヒーだよね」
「そうだね、この時間でもここ酒無いしね」
「あははー悪いね、一様純喫茶だからさ」
五人も入れば一杯になる昭和の住宅を改造したこの店はクラッシックなオーデ ィオ 装置と大きな分厚い銀杏材のテーブルにアンティークな木の椅子が置かれ 、其れを 取り巻く様に骨董の陶器や絵と書籍、レコードで溢れている 。
「純喫茶と言うより古道具屋だろが、マスター」
「古道具屋はやめてよ、せめて時代屋っていつてよ」コーヒーをネルの布に落としながらマスターが言った。
「女房のいない時代屋だよな」信介が切り返すと
「あっはは、偶には夏目雅子 見たいな女がふらりと入ってこないかねー」とマスター が軽口を言う 。
そんな冗談を交わしながらのひと時が信介がこの店を気に入っている理由だ。
マスターと信介はほぼ同年代、お互い 七十が届く所まで来ている。そしてマスターは 信介と同様に女房に先立たれたがお互いその話しに深く入る事はついぞ無かった。
「コーヒーどーぞ、今日のは豆がいいよ」
と薄口の備前焼きの器を信介の前に置いた 。
「ちょっと良いのが撮れたかな」コーヒーの香りが漂うテーブルの上に信介は隧道で撮ったカメラの画像を置いた。
鮮やかな縦縞の着物を着て斜光に自分の影を曳くその人が写っていた。
「あれ、この人さっきここへ来たな、信ちゃんがくる少し前に帰ったけどね」
少し驚いた様子てマスターが画像を見て言った。
「へーそうなの初めてのお客?」
「そうだね、なんでも近所に住んでる様だったね」 「一見さんがこんな場所に珍しいよね」
「コーヒー飲みながらビル・エヴァンスを聴きたいといってたよ」
「着物にビル・エヴァンスか、ちょっと不思議だね」
「うーん、黙って聴いてたから声かけなかったけどね、聴きながら何か本読んでたな、 小一時間位居たかな」
マスターはレコードを手にとりターンテーブルに置いた。テーブルのディスクライトだけの薄暗い部屋に ジョニー.ハートマンが流れた。
信介は其の低く呼び起こす様な声の響きと先程撮った女の写真をかぶらせていた。

         第二章

バイクのフロントを切る初夏の風がヘルメットから覗く信介の顔に当たり流れて行く。
朝の早い日の出に町はもう目覚めているが人影はまばらだ。犬を散歩させる老婦人、 ランニングウェアで走る主婦、仕出しをする弁当屋、日課の様にいつも店の前でラジオ体操をしているラーメン屋の店主 日焼けし所々綻びた市場のテント。
信介は週に三回仕事場への通勤でこの通りから 隧道を抜けて隣り町の駅まで軽バイクで走る。
道路は一直線でその両側に昔からの商店街がある。
だか年を重ねる毎にシャッ ターを閉じたままの店や売られて歯抜けになった空き地が多くなっていた。
其の跡地に建てられたシティー型マンションにはこの町を知らない沢山の人や家族が暮 らしている。
結婚当初信介が世帯を持った町からこの町に移り住んでもう四十年近くになる。
その頃、この町は未だ駐留米軍兵士達の広大は住宅地だった。フェンスで囲まれた道路際のエリアには映画館、ドルだけが通用するスーパーマー ケット、ボーリング場、テニスコート、広い野球場とプール、区切り無く続く芝生の中に点在 する木造のアメリカンハウスと、そこは正にフェ ンスの中のアメリカだった。
フェンスが切れるエリアの端に信介家族が暮らしていたマンションがあった。
夏の夜の日米合同盆踊り、バーベキュー大会,ナイターテニスと信介と紗栄子は小学生だった子供達を連れてこの地ならではの団欒の日々を過ごした 。
今は跡形も無く高級な住宅地に生まれ変わった広大な芝生の土地や木造のアメリカンハウスは信介が紗栄子と一男一女の子供達と暮らしたその日々と同じに家族のアルバ ムだけを残して人々の記憶から今は消えていた。
信介は紗栄子が逝った時からその記 憶のアルバムを何度も繰り返しめくる日々を過ごしてきた。
しかしそこには信介と紗栄子の四十五年の暮らしが蘇る事の無い記憶として封じ込めらているだけだった。今はもう信介はそのページを開くことさえ避け始めていた。信介は思い出だけになった紗栄子を今でも信じたくは無かった。

バイクを走らせる信介の前に薄暗い隧道の入り口と側道を照らす蛍光灯の無機質な 光の列が見えてきた。
信介は紗栄子が逝ってから今でも誰もいない家のドアーを開けるのが重かった
「少し呑んでいくか」信介はバイクを駅前の駐輪場に残してバスに乗った。隧道を抜けたバスは信介のマンションより二つ手前の停留所で止まると信介だけを下ろして走り去った。
その辺りは未だ米軍エリアがあった頃には軍人やその家族を相 手にしたカフェバー、ディスコ、ピザハウスなどが点在していた場所だ。
中でもその店の名前を取ったバンドと今ではスパースターになったロック歌手 Y が 無名時代に出演していたライブハウスの G は今でも細々とやっている 。
信介はその同じ家屋にあるリノリューム張りの古い階段を上がった。
店内にはまばらに先客がいた。
三人の女のグループがステージで其々マイクを握 ってスクリーンを 見ながら歌っていた。
「あら、片桐さん久しぶりね、いらっしゃい」
女の子達の歌声に負けない位高くいつもの明るい声でママの久美子が言った。
信介はいつものカウンターに腰掛けた。
「お疲れ様、まずは生かな」ママが言った。
ハーフジョッキに注がれたビールが信介の乾いた喉元に沁みた 。
「こんばんは、お久しぶり」 ママとは仲がいい吉江さんがカウンターの奥から挨拶した 。
彼女はこの近所で 昼間喫茶店をやっていて店が引けるとこの店に顔を出す、ママが 独り身の吉江 さんの夕食をしょっちゅう作っているからだ。
「はあい、出来たわよ」ママが吉江さんの夕食をカウンターに置いた 。メバルの煮付 けにひじきとサラダとご飯が並べられた
「メバルか、今がシーズンだな」
「良かったら片桐さんもどお、もう一人前あるから」 ママが言った。ここで呑んでから家で独り夕食の準備も今日はいやだなと思った信介はママの言葉に甘えた。
「そう言えばさ、今日はJの命日だよね」
二杯目をハイボールに変えた信介に吉江さんが言った。Jはこの町で育ったロックミュージシャンで歳は信介と同じく位か、そのハスキーな声とフェンダーを抜群のテクニックで弾いて、楽曲は全て彼のオリジナルと、一時はテレビのヒットチャートを賑わせた男だった
「Jもあそこまで登りつめてさ、何で死んだんだろうね、最期はアル中でそこかしこの バーで暴れてさ、終いにはもう誰からも相手にされずバーの片隅で行き倒れたんだからさ、全く人の人生って判らないもんだよね」吉江さんが言った。
「判らないのが人生なんじゃないの、誰もそれを決められないから」 カウンターに肩肘をつきハイボールのグラスを眺めて信介は言った。
信介の頭の中を好きなJが夜の雨を歌ったロックバラードが流れた。
「ところで最近釣りはやってるの?」ママが話しを変える様に信介を覗き込んで言った。
「いや、あれ以来一度も」
「もう三年目だね、紗栄子さん」
信介の表情を確かめる様にメバルを信介の前に差し出しながらママが言った。
ステージではさっきの三人組みが 交互に振りをつけながら流行りの女子グルー プの歌を歌っている。
紗栄子はママと仲が良かった。
昼間ママが勤めている会社で一緒に働いた事もあった。ある年、信介は忘年会に紗栄子を ここへ連れて来た。普段からこういう場所は余り彼女の好みではなかったが、その日は常連 の客達に愛想を撒きながらカラオケから流れる懐かしい曲に体でリズムを 取ったりして楽しそうだった。
メバルを摘もうとてハシを上げた信介は小骨をほぐすのが苦手な自分にいつも「貴方いつまでも下手なんだから」と必ず身をほぐしてくれた紗栄子を思いだした。
「おじさん、私の唄、刺さったでしよ」
湧き出た紗栄子への想いを呑み込むようにハイボールを煽る信介に、歌い終えてトイレに立った若い女が声を掛けた。
スツールを回して振り返る信介の眼 にこの店の 開店に贈った大きく引き延ばされた二枚の写真が入った 。朝日に耀く町並みと夕日に照らされて沈むこの町だった。
「ここも年内には閉めることにしたの」
信介の背中で久美子ママが言った。

その夜信介は夢をみた。
隧道を紗栄子と子供達と歩いている。今日は日曜日で大桟橋の近くにある洋食屋へ夕飯を食べに行くのだ 。そこは昔外国船の船員達が良く利用していた店でその異国の雰囲気が紗栄子も気に入っていた。赤のギンガムチェックのテーブルクロスが掛かったテーブルの周りをいつ も子供達がグルグル回っていた 。信介は夢の中でそこへ行く途中の隧道を歩いていた。子供達はその薄暗い中を歩くのは少し怖がって二人とも信介の両手を握って離さない、ここは昔電車が通っていたんだよと話しながら歩いて行くと隧道の中程で前を歩いていた紗栄子が突然に降り向き微笑みながら信介を見つめたその口元が動いた。
「さ・よ・う・な・ら」と音の無い聲を残して紗栄子はもう振り返らずに信介の両手に子供達を遺したまま入り口の光の中へ小走りで向かい薄い影となって消えて行った。
「紗栄子、紗栄子」自分が呼び叫ぶ声に信介はベットから跳ね起きた 。
夜が白々とカーテンの向こうで明け初めていた。

朝昼兼用の食事をパンと紅茶で済ませた信介はマスターの顔が見たくなりバイクに乗り店へ向かった。
「よー信ちゃん、今日は仕事は?」ハンチングの日差しを上げてマスターが言った。
「いや休みだけど久しぶりに寝坊しちゃってさ起きたらこの時間」勘のいいマスターには明け方夢から覚めて眠れぬままだったとは言えず信介はその場をつくろった。 「そう、まあ偶にはいいじゃんお互い歳なんだからさ、今コーヒー入れるからゆっくり してきなよ」
こう言うさり気無い言葉か一番いいと信介は有り難いと思った。  
「ところでさ以前話したあの女の人ね、あれから二日おきに来るのよ」
「あーあの着物のひとの事」
「そーだよ、あの人だよ」
「良かったじゃん、常連が又増えて」
「そーなんだけどね、何か不思議なんだよね」
「何がさ」
「何時も違う着物でさ、なんか誰かを待ってる風なんだよね」
「誰かって誰をさ、まさか昔の山手の麗夫人じゃあるまいし」 マスターが入れたコーヒーを一口飲んで信介は言った。
「山手の麗夫人があのトンネル歩いて来るかい?」
「そうだな、トンネルは似合わないよな」
そう言った信介に昨夜の夢がよぎった。
「それとさ、あの人来ると必ずビル・エヴァンスを聴きたいって言うのよ、かれこれここにあるアルバムは殆ど聴いたね、あの人は」
「何時もエヴァンスをねー、何かそれも気になるな」 マスターの話を聴く内に信介はその人と会って見たくなった
「彼女、今日も来るかもよ」
「あー来るといいね」信介は何気に言った。
其れからマスターと取り止めの無い話している間、
客は三人だったがその人は訪れ無かった。

          第三章

その日も仕事帰りに信介はマスターの店に寄った。
半開きの扉からピアノの音が漏れていた。
「ビル・エヴァンスか」信介は店内に入った。
薄暗い店内に先客の半身の輪郭だけが浮かんでいた。信介に気づいたマスターはいつもの挨拶も言わずに目配せをした。白熱球のテーブルライトがその人を写し出した。紺地に細かな立湧文柄の紗の着物に象牙色の半衿、葡萄色の帯をしたその人は手にした本から顔を上げた。色の薄い大きなサングラスの奥に少し驚いた様な瞳が瞬いている。少し古風な趣の色白な美しい人だった。
「片桐さん、まあ座ってよ」マスターが言った。
「ああ」 片桐はその人とは斜め向かいに腰を下ろし「コーヒーでいいですか」マスターがまるで初めての客の様に信介に尋ねた。
「こんにちは三田村です、初めまして」 その人は小さく丁寧に会釈をしこうべを上げて信介を見た。 サングラスの奥の瞳は落ち着きを取り戻していた 「片桐です、片桐信介と言います」
「貴方が片桐さん マスターからお名前は」
マスターは黙ってコーヒーを落としている。
「何かお二人ともかしこまってさ、まるでお見合いの席みたいだね」いつもの調子てマ スターが間に入った。
三田村さんが小さく笑った。
つられて信介も笑い、場が少し和んだ。
マスターがアンプのボリュームを落とした。
「はい、信ちゃんコーヒーね」
マスターがウェッジウッドに注いだコーヒーを信介に渡した。
「何を読んでいるんですか」その人の手元にある和紙でカバーされた本を指さして信 介は尋ねた。
「あ、これですか、竹久夢二の詩集です、恥ずかしいわ」 三田村さんは本当に恥ずかしそうに言った。
「何故恥ずかしいんですか」
「だって今時女学生見たいでしょ」
「あはは、今時女学生なんで言葉自体が又いいね」マスターが何時もの調子で言った
「片桐さん、夢二読んだ事あります?」
三田村さんが小首を傾げて聞いた
「いやー流石に夢二は、僕は朔太郎ばかり読んでました、高校時代ですが」
「まあ、私も萩原朔太郎好きですよ、月に吼えるとか」 「女性では意外だな」信介が言った
「じゃあ、小説家では?」
「三島由紀夫が好きなんです」 三田村さんが応えた
「三島ですか、僕は大江健三郎かな、あっこれも高校の時ですが」
「三島に大江、こりゃ水と油だね」
レコードを変えながらマスターが笑って言った
エヴァンスのブルーイングリーンが流れた。
旋律に溶けむ様に聴き入る三田村さんの横顔に
白熱灯の陰が掛かっていた。
その横顔に初対面では無い様な何か信介と同じものを潜ませている寂しさを感じた。
「ところで何んでビル・エヴァンスが好きなんですか?」 信介は尋ねた。
「それは話すと長くなるから今度又お会い出来たらその時にでも、私そろそろ帰ってごはんの支度をしなければならないの」 三田村さんが言った
壁に掛かった古い柱時計が小さな余韻を残して六時半を告げた。
店を出た信介は夕食の惣菜を買おうと近所の商店街を歩いてみた。この町唯一の鉄道がある駅へ続く長い商店街でそこは昔帝国陸軍の射撃場になっていたらしく今は商店街の蛍光灯に照らされた真っ直ぐな直線の道が駅まで続いている。
惣菜を提げた片桐はふと立ち止まって馴染みの古書店を覗いた。相変わらず無口な店主は奥でうず高く積まれた本に囲まれている。
出物の写真集でも無いかと本棚を流し見ている信介にその本が目に止まった。
竹久夢二画詩集だった。生涯読むことなど無いと思ったその本を手に取りページをめ くる信介の目に其れが入った。

宵待草
待てど暮らせど 来ぬひとを
宵待草の やるせなさ
今宵は月も 出ぬそうな
暮れて河原に 星一つ
宵待草の 花が散る
更けては風も 泣くそうな

本を棚に戻し表へ出た信介は三田村さんの顔を思い浮かべた。笑顔の奥に何か計り知れない憂いを持つ様なその顔が浮かんだ。

         第四章 

紗栄子が逝ってから一年ほど経つと信介にはずっといつまでも変わらない抑揚の無 い日々が訪れた。
ベランダの花花も咲かずにいつか枯れていった。
帰宅して風呂に入り新聞を広げ、買った惣菜を摘んで缶ビールを 呑み、偶にカメラをいじりながら焼酎を呑んでベットに潜り込む、紗栄子を亡くした後、そんな 日々が音も無く時を刻む時計の様に繰り返されていた。
紗栄子とは旅先で知り合い恋愛し結婚式してから 四十五年、若い頃の信介は十五年のサラリー マン生活を経て会社を初めた。起業した頃は紗栄子と一緒にがむしゃ らに働いた。車で紗栄子と帰宅するのは社員が皆んな帰った後も仕事を続け、夜遅くにな日々もあった。
未だ小学生だった姉弟もセールの時にはビラ配りをしたり、高校に入ると息子は信介の会社で倉庫の仕事を手伝ってくれた。
紗栄子は信介の車で一緒に出社する日でも決して子供達にコンビニやスーパーの出来合いの食事を与えたことは無かった。
夜遅くまで子供達の翌日の食事を作っていた。
幼稚園のバスを見送り、弁当作り、桜の下の入学式、運動会、家族で近場への旅行 やキャンプの楽しい思い出の日々は、何処の誰にでも在る家族の記憶のアルバムの 様にうず高く積まれてやがて色あせていく。
バブル崩壊と共に信介の事業も頓挫したが紗栄子は外に働きに出てくれた。信介も職場を変えながら其れでもなんとか子供達は大学を出て結婚し家庭をもった。楽しみは月々僅かな貯金をして紗栄子との旅行だった。紗栄子が好きな京都へは桜、紅葉とその時期には毎年訪れた。
何度も休みながら石段を上がって観た三千院の紅葉、仁和寺の境内に咲く御室桜、作庭が見事だった大俳優の嵯峨野の山荘、鴨川の土手桜、北野の夜桜、紗栄子の好きな京野菜を探して歩いた烏丸界隈、琵琶湖周辺のお寺も一緒に巡った。
テラスの花を愛し、孫達の成長を見守る、誰しにも大きな驚きやときめきは無いが役目を終え高齢者になった夫婦が共に生きる平和で小さな幸せがある。そんな日々を信介と紗栄 子も送くろうとしていた。「今が一番幸せかもね」そんな紗栄子の言葉がこれからを生 き、そしていつかお互いの終焉を自然に迎える、それが信介の支えになっていた。
しかし病魔に襲われ突然余命半年を宣告された紗栄子はその時を待たず、散る桜の花の様に信介の前から去ってしまった。
子供達には同居も勧められたが信介は断った。
もう父親としての役目はとうに終わっていたし、お互い気遣いながら暮らすのも嫌だった。
紗栄子が逝ってから信介には残された時をただ喰む様に暮らして行く日々だった。
信介はひと知れない海の底にひっそりと住み付いて、いつかそこで息が絶える過去の記憶を持たない老いたサカナの様で居たかった。
もう紗栄子の思い出もそこに沈めたかった。


         最終章

その日の午後三田村さんは店を訪れた。
信介が最初に彼女を撮った着物を着ていた。
伊勢木綿に遠目でもはっきりと判る太いカーキとえんじ色の縦縞が染め抜かれている。
黒地に象牙色の大きな唐草模様の刺繍が入った帯、白い半衿にも共色の花柄が覗いている。
今日は白足袋に赤い鼻緒の 下駄を履いている
「コーヒーにします、それとも烏龍茶にしますか、良い茶葉が入ったので」マスターが 尋ねた。
「じゃあ烏龍茶を頂きます」三田村さんは応えてから片桐の方に半身を向けた
「先日お会いしたばかりなのに私、今日でここも別れなんです」
薄いアンバーのサングラスに白熱灯の光が映っていた。
「えっどうしたんです、三田村さん」
「さえこです 三田村さえこ」 茶を入れているマスターと信介の目が合った。
「さえこってどう書くの」信介は思わず尋ねた。 「さえ渡るの冴子なんですが、何か?」
少し不思議そうに三田村さんが答えた。
「いえ、亡くなった家内も同じ名前なんです、字は違うけど」
「さえこ」信介は懐かしいその響きに捕らわれた。「片桐さん、奥様を亡くされたのですか」
「ええ三年前ですが」
「お気の毒に、私もなんですよ主人を三年前に」
サングラスを外した冴子さんはゆっくりとお茶を飲み信介に言った。
「いつも着物なんですね」 唐突に信介は聞いてみた。
「はい、でも着物を着始めたのは主人が亡くなった時からなんです。それまでは着物 なんて着た事なかったんですよ」
「それは何故」 信介は聞いた
「いつも白衣姿でしたから、でも主人は本当は着物好きで、私にいつか着て欲しいと言ってましたので」
「白衣ですか。あの病院で着る?」予期しなかった答えに信介はあらためて冴子さんを見て言った。
「私と主人は病院をやっていたんです、他の町で」
「そうですか、病院を経営されていたんだ」
「経営といって小さな病院だったんです」
「二人とも同じ医科大学で知り合い卒業してインターンになり結婚して そして小さな町 で開業したんです」 信介はその場所を聞いて、そこが県内でも都会とは縁遠い山と大きな川に囲まれた静かな町な事を知っていた。
「最初は患者さんもあまり来ずでしたが、主人の評判が良く 患者さんも増えてきました、でも主人は学友に頼まれて私達が休診日の時は そこの医師もやってたんです、 休みは月に 一、二 回だけでした。そして三年前、親友の病院で診察中に突然倒れたんです、それが彼の最期でした」
冴子さんは関を切ったように話しを続けた
一期一会とは言えこの狭く灯りの乏しい部屋にお互い最愛のひとを失った男と女がいるとは、信介はそれが偶然がなした事では無い様な気がした。
あの写真がこの場所へ信介と冴子さんを呼び寄せたのではと、思った。
信介とマスターは唯、黙って冴子さんの話に聞き入った。
「主人は遊びもせず偶に学会や私と一緒に製薬会社のお呼ばれに出るくらいでしたわ、院での診察や施術が終わると待合室のソファーに座って水割りを飲みながらジャ スを聞くのが好きでした。
あと趣味はテニスくらいで、たまに仕事が休みの日には殆ど私と近くのクラブで私や 仲間とプレーをしたり遊んですごしてました、あとは兎に角仕事仕事で」
「ビル・エヴァンスは主人がいつも聴いていたんです、好きで院の待合室でもいつも流 してましたから。なんでも野毛の千草というジャズ喫茶で学生時代アルバイトをしてい た頃から好きだったと」
冴子さんは自分の言葉を噛みしめる様に言った。マスターが納得した様に信介をみた。 「突然主人が逝ってしまった悲しさは信介さんあなたと同じです、もう誰にも会いたくも無く、お葬式も身内だけで地元の教会でした」
「ここに来たのもあのトンネルの上の外人墓地に彼を祀ったので、彼の生前からの希望でその為に私二年間ここの山手教会で毎週礼拝に出ました」
「あっごめんなさい、ついこんなお話しで」
まるで古くからの友人であるかの様に冴子は心を開いて信介に話をしていた。
彼女の内を覆っていた霧が風に流さてその本当の心の中を見せてくれていると思った。
そして信介には判った。
この人は自分と同じに愛する人を突然失った、それが残されたものだけが知る果てしなく深い哀しみの淵な事を。そして冴子はその淵から這い上がり悲しみ濡れ染みたその体を拭い去ろうとしているのが。

「冴子さん、これから何処へ?」
冴子と再び逢いたい気持ちと、もう逢いたくても逢えないだろうという思いが信介の中で交差していた。
たった二度しか逢ったことが無い冴子に信介は紗栄子の面影を重ねていた。
もし紗栄子が彼女だったらきっと同じ想いになるだろうと思った。
「鎌倉に住みます」冴子がはっきりと言った。
「鎌倉に?」 信介は一瞬驚いたが直ぐに、きっとこの人には其処が一番合っている場所なのだと思えた。
「彼が亡くなるまえに鎌倉の七里ガ浜に家を建ててくれたんです、父親から譲り受け た土地に、でもそこには今まで住みたくなかったんです、そこで彼と過ごしたのはたった半年でしたから、ですからお墓が近いこの近所にアパートを借りたんです」
「でも私決めたんです、彼が遺してくれたあの家に住んで、そこでこ彼と暮らそうと」
「えっそれは?」信介は思わず聞いた
「信介さん、あの人生きてるんです」
信介の目を見た冴子ははっきりといった。
「三田村啓治は今も私の中に居るんです、白衣のあの笑顔のままで生きているの、あの最後に建てた家で私を待ってるの、一緒に選んだ赤いシステムキッチンで私がお料理を作るのを」
抑え切れないあふれる情感に濡れた冴子の瞳を信介は見た。
少し開いた店の扉から傾き始めた夕日が差し込んでいた。ビル・エヴァンスのワルツフォーデビィーがほの暗い店内に流れた。

店を出た信介と冴子は隧道への路地を歩いていた。 並んで歩く信介の同じ歩幅が冴子には嬉しかった。
信介の中で先程聞いた冴子の話しが物語を聞かされた子供の様に離れず、留まっていた。
隧道の入り口に佇んだ二人の長い影が歩道に落ちた。「途中まででね」 冴子がいった。
信介と冴子は言葉も交わさず山手隧道に入っていった。
車道をいく車のテールライトが二人を追い越していく、隧道の中ほどに来た時、冴子が信介を見て言った。「信介さん、ここでお別れしましょう」 その顔を覗き見た信介に冴子は言った。
「信介さん、紗栄子さんは貴方の中で眠っているわ、お会いしたばかりだけど私にはそれが分かるの、紗栄子さ んが貴方の中で生きているのが」
「貴方が紗栄子さんを目覚めさせないだけなの、
紗栄子さんは貴方に逢いたいのよ」
「信介さんそれを忘れないで」 突然サングラスを剥ぎ取り冴子は崩れ落ちるように信介に言った。
抱きとめようとする信介の腕の感触に冴子もそれにすがりたかった。
「絶対にそれを忘れちゃ駄目」
小さく唇を嚙み締め真っ直ぐに信介を見てその言葉を言った冴子の瞳に、溜まっていた雫が溢れ出て白 い頬を伝っていた。
叫びにも似たその声を残して冴子は隧道の出口へ向かって駆け出した。
遠去かる微かな下駄の音が残り、振り返ら無いゆれる袂と赤い鼻緒が信介の目の中で潤み、小さくなり隧道の向こうへ消えていった。
見えなくなるまで冴子を見ていた信介は隧道の出口へ向かって歩いていた。
潤む信介の目に眩い夕陽を浴び茜色に染まる本牧の街並みが映っていた。

その夜、寝落ちする前の信介はキッチンに立つ紗栄子の水音を聞いた様な気がした。
「紗栄子か?」
暗闇に向かって信介は尋ねた。

山手隧道

山手隧道

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-16

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