原発の儚4️⃣
原発の儚 著者不詳
≪禁忌に抗い挑戦する季刊誌『地下文学』より転載(不定期)≫
4️⃣ 奥宗オウス
あの忌まわしい盛夏の敗戦から遅れて数ヶ月、四五年の晩秋に引き揚げて来た、部下の奥崇オウスが、その足で命の恩人の浪江を訪ねて来た。
奇跡のような再開を一、二杯のコップ酒で確認すると、「積もる話は…。お前、取り合えず湯を浴びろ。臭くて堪らん」と、浪江が笑った。
街外れの農家の寂れた借家だが、五右衛門風呂がついていた。
夜来から気狂いしたかの様に、酷く蒸し暑い昼下がりで、ついさっき、浪江が行水をしたばかりだったのだ。
奥崇が水ともつかぬ温い湯に浸かっていると、歪んだ音を立てて引き戸が開いて、浪江の妻が現れた。
「背中を流すようにいいつかりました」と、目を伏せた女が呟くように言った。
挨拶もそこそこだった戦友の妻は、改めて視線を送ると、豊満な肢体にふくよかな狸顔なのである。
迷わずに、奥崇は礼を言いながら、湯船を跨いだ。
男が長身で頑健な広い背中を見せると、黎子が石鹸を泡立て始める。
「浪江がお世話になりました」
「とんでもない。上等兵は、いや、ご主人は命の恩人なんです」
「あの人は大陸のことは何も話してくれないものですから」
「私だって、そうです。話そうにも、余りに…。御門のためにした、正義の聖戦と思い込んでいましたが。まあ、一晩開ければ、民主主義の世になって。現人神といわれた御門が、人間宣言をした、今だから言えますが。大陸や半島の植民地は、悲惨や残酷、生き地獄の有り様でしたからね」
「でも、奥さん。戦争は戦場ばかりではなかったんです」
黎子の手が、男の首筋辺りで止まった。
「勿論、銃後の奥さんや、ご婦人達がご苦労されたのは、承知の上ですが」「驚いたのは、ある小説の話です。聞きたいですか?」
女が頷く気配を察して、「一〇日ばかり前です。漸くたどり着いたばかりの首府の闇市は、戸惑うばかりの賑わいで。確かに貧しいには違いないが、顔色などは、つい、三月ばかり前まで戦渦の只中にいたとは、信じられないくらいに晴れ晴れとしていましたよ」「私などは、母国に帰還したとも思えずに、幻影に紛れ込んだ亡者の気分で…」「それでも、長らく飢えた腹を久し振りに満たして、雑踏を歩いていると。書店、と言っても、数個の木箱に古本を並べたばかりの露店ですが…」
「こう見えても、私は中途で入隊はしましたが、哲学の学徒でして。眺めていると、『御門の儚』という真っ赤な装丁の一冊に目が止まった。だが、著者名がないんです」
「初老の主人に聞くと、戦中に地下出版された綺談だと言うんです」
「首府では、ふとした縁があって、青柳という侠客の事務所に寄宿していたんですが。帰って、早速読み始めると…」
男の話が止まったから、手を休めた女も息をつめた。
「私などは初めて読む類い稀な綺談で。大陸の植民地に派遣された我が軍の、異様な場面なんです。いわば、私達の事が書いてあるんだ」
「こんなところに、私達以上に、しかも、私などは信じて疑わなかった、あの御門制と決然と対峙していた作家がいたんだ。実に驚きましたよ」
女の手は動かない。
(続く)
原発の儚4️⃣