新約マザーグース

福田

愛は呪いと知れ。

一章/一篇 ストレイ・キャット

一章/一篇 ストレイ・キャット

猫の鳴き声がした。
窓を開けると、外側に迫り出した手すり付きのフラワーボックスの中に、顔見知りの野良猫が座っていた。
煤けた白猫は、ピンクの鼻から鼻水を垂らして、迷惑そうに俺を見ている。

「紛らわしいな」

にゃ、と、開いた口から覗く牙は欠けている。
クロと仲良くしていた時は、ちゃんと生えていたのに。

「お前もクロ、捜してくれてんの?」

ティッシュで鼻水を取ってやったら、猫は喉を鳴らした。
こいつも十分可愛いけど、やっぱり俺はクロがいい。
一年前。付き合っていたカノジョと拾ってきた黒い子猫。黒猫にはトラウマがあったからあまり乗り気じゃなかったけど、カノジョが欲しがっていたから許した。でも、物書きになる夢を追って、フリーターに甘んじている俺に、カノジョは愛想を尽かして出て行った。大きくなったクロを置いていったのは、その分の思い出なんていらないってことだろう。そういえば、俺がカノジョにあげたものはクロしかなかった。
黄色い目、長い尻尾に艶やかな毛並みを持った黒猫。
カノジョがいなくなってから、俺と俗世を繋ぐのは、クロしかいなかった。カノジョと違って女々しい俺は、思い出がないと人間ですらいられなかった。
なのに、クロは、半年前から帰って来ない。半野良猫状態で飼ってはいたけど、夜になったら帰ってきていた。それが、半年前から、夜になっても朝になっても、帰って来ない。

「ツナ缶あるから帰って来いって伝えてくれよ。連れてきたらお前にもやるからさ」

あらかたダニを潰すと、白猫は俺を用無し認定したらしかった。詰まった鼻を鳴らしながら伸びをして、柵の隙間からアスファルトに降りていく。
のそのそ歩いていく外は、夜明けの乳白色。
澄みきった冬の空気は、汚れた四畳半を清めていくようだ。
あぁ、寒い。こんなに寒いのに、お前は何処で暖を取っているんだろう。縄張りや人間に気を遣って蹲っているなら、俺の傍で伸びていた方がずっといいだろうに。

スマホに来たメールは、今日も選考落ちのお知らせだった。気晴らしと望みをかけて開いたSNSには、クロの目撃情報はなく、わざわざ、俺の呟きに繋げて誰かが呟いている。

──『飼いきれないなら飼うな。飼い主失格』

こんな最悪な気分でも、俺は働かなければならない。
ダルすぎる。
耳の穴にイヤホンをつっこんで雑踏を歩く。
居酒屋の出勤時間は、帰宅ラッシュにぶつかっている。
逆方向に足早に歩いていくサラリーマン。OLさん。学生たちにetc──。
どいつもこいつも充実してるんだろうな。帰ったら、愛してくれる家族がいて、美味い飯が出て、見たいテレビ見て、悩むのは明日のことだけで、これから一生のことについて胃を痛めたり吐き気を催したりすることもなく、眠れば良い夢を見るんだろう。羨ましい。俺もなりたい。どうしたらなれるんだろう。そもそも俺の人生の選択肢に、そんな平穏はあるんだろうか。

にゃあ。

鼓膜に響く猫の声。こんな音、この曲に入ってたっけ?

んにゃお。

脛に何かが擦りついてくる。見ると、黒い固まりがいた。ゆらゆらと長い尻尾が揺れて、大きな黄色い目が俺を見上げている。
艶やかな黒猫は、ちょうどクロと同じくらいの大きさだ。

「猫?」

妙だ。こんな街中に猫がいるなんて。
誰かがキャリーバッグから猫を落とした可能性がある。だって、こいつは首輪をしている。
薄汚れた赤い首輪。
あれ?
胸の所に下がったタグには──見覚えのある携帯番号、てか、俺の番号。

「く、クロ?」

声が震える。
心臓をバクバクさせる俺を置いて、クロは踵を返して、走っていく。

「クロ!」

クロは一瞬、立ち止まり、俺を一瞥すると、建物の隙間に入っていった。
慌てすぎて、イヤホンのコードを踏みちぎる。いいや、構ってられない。
クロが入った路地の前に走る。
人間は体を横向きにしないと進めない広さの道の真ん中で、クロは黄色い目を光らせて俺を見ている。
まるで案内でもするようだ。
どのみち、クロが落ち着いてくれなければ捕まえることも出来ない。
捕まえたら写真を載せよう。飼い主失格なんて、もう二度、言わせない。
リュックを体の前で抱いて、俺は路地に入りこむ。すると、クロは走り出す。
跳ぶように誘導するクロ。
室外機。不法投棄の電化製品。自転車。植木鉢──。
クロが容易に越えていく障害物にことごとく引っかかる。鬱陶しい。二本の足を恨む日が来るとは思わない。

「まっ、待って、待ってクロ!」

長年の喫煙が肺を弱くしている。呼吸が間に合わない。酸欠だ。目の前がグラグラして、クロの姿が分身して見える。

「待って……」

ダメだ、諦めたら、クロが、クロがいなくなってしまう。いなくなったら俺はもう、どうやっても生きていけない。
瞬間、目の前が真っ白になった。
気付けば、膝をついていた。どうなったんだ。
周りを見ると拓けていて、目の前には世界のテイストが違う、メルヘンな屋根付きの一軒家が建っている。

「クロ……クロ、どこ行った?」

行ける場所はあの家しかないけど、あの家は何なんだろう。
屋根の縁に『鵞鳥の巣』と書かれた木製の看板がかかっている。
出窓のショーウィンドウの中で、重みのあるベロア素材のカーテンが脇に縛られていて、鵞鳥の置物が並んでいる。
店内は棚が並べられていて、外国の土産物屋にあるような、よく分からない小物が飾られている。
目を凝らしても、クロが潜んでいる気配はない。でも、扉には猫用の出入口がついているから、入ろうと思えば入れるはずだ。
俺は扉を開けた。

二篇 彼は誰?

この甘い匂いは、金木犀か?
やけに薄暗いと思ったら、シャンデリアに刺さっているのは、電球じゃなくてロウソクだ。金木犀の匂いがするロウソクでも使っているんだろうか。
仄かな灯りが、壁にかかった飾りやモビールを反射している。
扉から入った右側には、向かい合う革のソファの間にアンティークのローテーブル。正面には、カウンターに、タイプライターみたいな古すぎるレジが置いてある。
いかにもこだわりの雑貨屋って感じだ。でも、従業員が見当たらない。
カウンターの向こう側は居住スペースらしく、真っ直ぐな廊下の途中に、二階へ繋がるハシゴがあり、突き当たりの奥の部屋は扉が閉められている。
従業員がいるとしたら、あの部屋だろうけど。

「こ、こんにちは〜……」

一応、声をかけながら、棚の間や下を見る。
猫が潜めそうな場所を覗けるのは、従業員がいない今しかない。

「クロ帰るぞ、ツナ缶やるから」

俺はどこかにいるクロに、ひそひそと訴えた。
頼む、出てきてくれ。頼む。


「何をお探しで?」


上げた頭がモビールにぶち当たった。モビールの揺れを手で抑えて、声がした方に体を向ける。
革のソファに深く腰かけていたのは、千鳥柄のお洒落なスリーピーススーツを着た、青年だった。
シャツの襟から、首に入った模様が見える。
黒い前髪が斜めに下がって、嘘みたいに黄色い瞳で俺を見ている。窺っているような。
俺は生唾を飲みこんだ。

「ねっ、猫、が入っちゃったみたいで、すいません」

「どんな猫かな。白?」

ジャケットを広げると、白猫が一匹、出てくる。

「それともグレー? トラ柄もいる」

と言うとグレーの猫と、茶トラ、サバトラ、キジトラが飛び出す。

「二色に三毛猫、ポインテッド、白が入ったやつに──」

口にされた猫が続々出てくる。
鳩が出てくるマジックの猫バージョンだ。
ジャケットの内側から猫が溢れて止まらない。出てきた猫たちは、あっという間に床を埋めつくし、テーブルの上、棚の上、出窓の上に……キリがない。
見渡す限り猫だらけ。
猫の大合唱。
なんだこれ、夢、夢だよな、そうだよな、ありえない、現実にしがみつかないと、もう我を忘れそうだ!


「くっ、黒、黒猫です、目が黄色で尻尾が長い女の子!」


軽い破裂音がして、大合唱が消えた。
恐る恐る目を開ける。
薄暗い店内には、俺と若者しかいない。

「黒猫はこの子?」

彼が指を鳴らした手を開くと、小さな黒猫の置物があった。
受け取ると軽い。
目の部分には黄色いビーズ。長い尻尾が背にくっついて、滑らかな木目は、クロの艶やかな毛並みを思わせた。
ここ最近、ずっとクロのことばっかりだった。
おかげで、クロに導かれる白昼夢を見て、猫が大集合するありえない幻覚も見た。
もう笑うしかない。
力無く座った革のソファは、とてもよく沈んだ。

「飼い主失格。その通りだ。俺は自分のことばっかり」

名前も知らない誰かを見返したい。
愛されて生きていたい。
だからカノジョにフラれた。思い出を捨てられないくせに、もう名前も覚えていない。

「彼女から聞いた?」

「聞くって、猫に? だいたい半年も帰って来ないんです。十分な証明だ」

顔を上げて、初めて、向き合う彼がタバコを吸っているのに気が付いた。
紙タバコを挟む指の先から手の甲、袖から覗く手首まで、曼荼羅とペイズリー柄を組み合わせたようなタトゥーが刻まれている。魔法陣のようだ。

「君に物語を運んだ彼女が、そんなに薄情だとは思えない」

「物語?」

「隠さなくてもいいですよ、先生」

青年は煙を吐いて、黄色い瞳を細める。瞳孔が縦長に見えるのは気のせいだ。でも、どうして俺が物書きしているって分かったんだろう。推理物では、袖についたインクのシミで見破るけど、今は令和。原稿を書くのに手なんか汚さない。タイピングで指の皮が厚い自信はあるけど、それだって事務仕事のせいかもしれないのに。

「な、何で?」

「顔に書いてある」

「顔?」

無意味に顔を触る俺を、青年は口の端を吊り上げて笑う。
ハーフなのか知らないが、外国色の強い顔面がそういう怪しい表情をつくると様になる。
彼は組んだ足の膝に肘をついて、小首を傾げた。耳たぶから垂れ下がる、大判のピアスが揺れる。

「ちなみに先生。君には呪いたい誰かがいるだろう。僕が呪ってあげようか」

絶句だった。声が出ない。こいつ、何でこんなに俺の事を知ってる。いや、いや落ち着け。慌てるな。俺の顔を週刊誌で見たのかもしれない。あれを読めば、俺があいつらを恨んでるなんてすぐに分かる。物書き志望で成功に恵まれず、フリーターをやってることも。そうだ。そうに違いない。しっかりしろ。俺は雰囲気にやられている。この甘い香りと異国の雑貨。それと、俺を窺う彼の黄色い目のせいだ。

「の、呪いっていうのは言葉のあや?」

話をそらすと、彼は、面白そうに鼻を鳴らした。

「まじないと呪いの違いは何だと思う」

急な禅問答。だが専門外じゃない。

「まじないは遊びで呪いはガチ、とか」

「あながち間違いじゃない」

青年は煙混じりの息を吐く。

「ここにある雑貨にはまじないが詰まっている。悪戯程度の害を与える魔法を、人間に売ってるんだ。この店自体にもまじないがかかっていてね、まじないを必要としている客、もしくは僕が必要としている存在を呼びこむ」

壁飾りのガラス細工が輝いている。リンリン、と、互いにぶつかり合って音が鳴っている。風は吹いていない。

「危険な呪いは裏メニュー。特別な顧客にしか売らない」

「そんな特別を一見さんの俺に? どうして」

「君が閉じこめているその呪いが欲しい」

青年は、ずっと目を細めて俺を見ている。
まじないも呪いも魔法も非現実的で、作り話は確定しているのに、惹きつけられて仕方がない。

「僕は自分で魔力を作れないから、人間の協力が必要なんだ」

「ま、魔力?」

タバコが灰皿の中で潰される。
青年はジャケットを正して、背もたれに体を預けた。

「これ以上は対価がいる。君が払うのは呪いだ。君の呪いを僕にくれるなら、僕の全てを話そう」

週間連載の漫画並に続きが気になる。だからって適当な返事をしてはいけない気がした。作り話なのに彼にかかると本当のようで、適当に返事をしてしまったら、俺は、呪いどころか命まで奪われてしまいそうだ。

「い、いやいい。今からバイトに行かなきゃいけない」

俺はリュックを抱いて立ち上がった。すると、青年は軽く肩をすくめる。

「そう。それは残念」

と、立ち上がり、革靴で床を鳴らして、俺の行く手を塞ぐ。
顔面の造りが良すぎて、ドキドキする。特に黄色い瞳に目が引かれて、思わずまじまじと見つめてしまう。
その先で、彼は少し首を傾けて、目を伏せた。顔を寄せられると、金木犀の香りが強くなる。何故だか反射的に目を閉じてしまうと、耳の傍で、すん、と匂いを嗅ぐ音がした。
え、何、何なの?
目を開けた俺は、困惑が表情に出ているのだろう。青年がクスクスと笑う。

「君の匂いを覚えた。近い内に会いに行くよ。君が必要になった時に」

瞳孔が、縦に鋭く伸びる。


「ね、先生」


肩に衝撃が走った。

「突っ立ってんなよ、邪魔だな」

と、凄むのは、ガラの悪い男だった。喧騒の中、通り過ぎる人の気配をヒシヒシと感じる。

「え」

俺は大通りに立っていた。クロと出会った、ちょうどその場所だ。

「あ、ごめんなさい……」

男は舌打ちをして、歩いて行った。
訳が分からない。何だ?
地面に落ちたイヤホンを手繰って、耳に入れると、音楽が流れている。焦りすぎて、踏みちぎったはずなのに。
クロに会った後の出来事が綺麗さっぱりなくなっている?
スマホの時計も、最後に見た時間のままだ。クロだけじゃなくて、あの店も青年も、全部が白昼夢だったのだろうか。
でも、俺の手には、青年に貰った木彫りの猫がいる。

あの黄色い目。縦になった瞳孔──。

俺は、狐ならぬ猫に化かされた、のか?

三篇 三角形を押して

「へえ、不思議ですね」

俺の話を聞いて、花ちゃんは目を丸くした。
性根が腐った人間が多いこの居酒屋で、花ちゃんのような良い子は貴重すぎる。

「疲れすぎって感じだよね」

「クロちゃんのこともあるし、気を休められてないのかもしれないです」

「そうなのかなあ」

スマホが鳴った。メールは今日も選考落ちだ。

「また選考落ちた。自信あるやつだったのに」

「あ、私もオーディション落ちたばっかりです。お互いに大変ですね」

動画サイトの有名歌い手が何か言っている。
俺は唇を尖らせた。

「花ちゃんはネットで人気じゃん」

「私はプロになりたいんです!」

「俺はそもそも知られてないの」

こっちはフォロワー二桁だぞ。作品に反応はないし、あったとしても、クロの飼い方に関するムカつく批判くらいだ。

「間宮さーん」

と、下呂くんが声をかけてきた。
下呂くんは大学生だ。無理に今風になろうとしてイキっているから、あまり好きじゃない。

「猫、見つかったんすか」

彼は、非喫煙者の花ちゃんの前で、電子タバコを吸う。
確かにここは休憩室だけど、そういう気が遣えないのは如何なものか。とは言えず、俺は頭を振った。

「いや、全然。音沙汰もない」

「そうすか。じゃあ、やっぱりこれかな……」

ぶつぶつと呟きながら見るのは、最新のスマホだ。

「これって?」

「あ、見ます?」

下呂くんはニヤニヤしながら、テーブルにスマホを置いた。
画面には動画の再生ボタンがでかでかと表示されていて、それを押すと動画が始まる。
公園のような場所を撮影者が歩いていく。フォーカスされているのは、一匹の黒猫だ。
黒猫は、人間にビビってベンチの下に逃げこむ。ベンチに近付いたカメラも、下を覗きこむ。
猫の黄色い目が爛々と光っている。
撮影者の手が、猫用のおやつを持って、猫に差し出す。匂いに釣られた猫が、そのおやつに顔を近づけた。
その時。
撮影者は猫の首根っこを掴んだ。
唸りをあげる猫を引きずり出し、振り回した勢いで──。

スマホがテーブルから飛んでいった。

「あんたサイテー!」

「なんだよ! 俺はただそうかなって」

花ちゃんと下呂くんの言い合いを聞きながら、俺は床で回っている下呂くんのスマホを拾う。
手が震える。胸くそ悪い。けど、確認しないといけない。

「だからってこんなの見せないでしょ!」

「だから、確認だって言ってんだろ!」

続いている虐待動画。
猫だった固まりが地面に放られる。くた、と落ちた首には、首輪がついている。
赤い、首輪。

「ねぇ、間宮さん。この猫、違いますよね」

下呂くんが軽薄な笑みを浮かべているのはいつものことだった。

「あぁうん、違う」

違うはずだ。違くなければいけない。
俺はヘラヘラしながら、下呂くんにスマホを返した。仕事場で私情を出すとろくなことにならない。


「何だ、そっか。つまんねー」


気が付いたら、下呂くんが鼻血を出して倒れていた。
皆が寄ってたかって大騒ぎしている。
拳がヒリヒリすると思ったら、関節の出っ張りが真っ赤になって、皮がめくれていた。
妙に冷静だ。あぁ、殴ってしまったんだな、と他人事なくらいには。
ただ、花ちゃんが怯えきった目で俺を見るのが嫌だ。
死んでいくあの黒猫と同じじゃないか。

四篇 通り名

雨が降る冬の夕方は、氷点下まで気温が下がっているようだ。コンビニで買ったばかりの温かい缶コーヒーがもう冷えている。
絆創膏の下で、剥けた関節がヒリヒリ痛んだ。
今日の仕事を果たしたバス停のベンチで雨宿りするのは、なかなか惨めだ。
それはそうか。明日から無職だし。
あぁ、どうしてこんなことになったんだろう。
夢ばかり見ていたから?
猫をちゃんと飼わなかったから?
自分ばかりだったから?
分からない。分からないけど、もし、神様が俺を傷つけるために猫を殺すような人間を創ったのなら、今すぐ殺しに行きたい気分だ。
タバコを咥えて、火をつける。この鼻につく焦げた臭いを出さずに着火する方法を俺は知らない。

「やあ、前途多難だね」

噂をすれば、あの青年だった。
彼はさした傘を肩にかけて立っている。彼の周りだけ、雨に烟るロンドンの街道のようだ。
俺は鼻を鳴らした。

「顔に書いてあるだろ」

青年はひとつ空けた隣に座った。懐から取り出したタバコを咥え、先を指で擦ると、何故だか火がついている。やっぱり焦げた臭いはしない。手品だってこんなことはないだろう。焦げると臭いが出るのは、自然の摂理なんだから。
思い返されるのは、謎の白昼夢。
黄色い瞳。
猫の瞳孔──。

「なあ、あんた本当に呪いが使えるの?」

青年は、ふっと煙を吐いて笑う。

「だったらどうする」

やって欲しいんだろう、と言いたげに、黄色い瞳が俺を見る。
本当に呪いがあるのか。呪いで人が死ぬのか。
それを確かめるのに、猫を殺す人間もどきは適している。
俺は、吸い殻を水たまりに捨てた。

「こいつを、呪って欲しい」

ひとつ空いている席に、スマホを置く。画面に、下呂が開いていた動画投稿者『あまつかさ』のプロフィールを広げて。

「なるほど、結構」

それを一瞥して、青年は俺にスマホを返した。どうやら必要じゃなかったらしい。
彼は、吸いさしのタバコを吐き捨てると、擦り合わせた両の手のひらに、ふぅーっと煙を吹きつけた。
異常に密度の濃い煙がモヤモヤ、ボコボコ。
まるでドライアイスの固まりのように、手の上を蠢く。
そうして、もう一度、彼が息を吹いた時、その手には、高級な図鑑並にデカくて分厚い本が一冊、乗っていた。
黒光りする革の表紙にはタイトルがなく、代わりに、色とりどりの宝石が星のように埋めこまれている。
青年は、間の席にそれを置いて、表紙を開いた。
ページがない。いやページはあるが、厚みを形成しているそれらには小窓のような穴が整然と空いていて、それぞれの中に、小瓶が並んでいる。
小瓶の中の液体は、紫がかった黒色をしている。
これが呪いの色か。

「この中から好きな物を選んで」

「す、好きな物?」

ゲームのキャラ選択みたいな軽いノリで、青年は言う。

「ピンときた物がいい」

呪いなんかピンとくるわけない。そもそも呪いからピンときてないのに。
俺は指をさまよわせる。
よく見ると小窓には一つずつ名前がある。これは『ロンドン橋』で、こっちには『ハンプティダンプティ』『メリーさんの羊』もある。
この小瓶たち、全部、マザーグースの詩が名前になっているのか。もしかしたら、名前が呪いの内容とリンクしているのかもしれない。だとしたら、やっぱり人間もどきには『ハンプティダンプティ』になってもらわないと。

「これにする」

俺が指さした『ハンプティダンプティ』の小瓶を取って、青年は俺に目を細める。

「では、君の呪いを頂こう。すぐにメディアが騒ぐ。期待しているといい」

青年が本を閉じると、叩いて出た埃のように煙が出て霧散した。そこにはもう本はない。
あのタトゥーだらけの手。魔法陣みたいだと思ったけど、どうやら間違いじゃないらしい。そうじゃないともう説明がつかない。

「あんた、魔法使いなの?」

青年は懐に小瓶をしまいながら、肩をすくめた。

「僕らに性別はない。好きな時に好きな性別で好きなように生きている。僕がこの性別なのも、好きだからだよ」

思わず、笑ってしまう。
否定しないんだ。いや、彼は最初から隠してすらいなかった。俺が、ありえないからって白昼夢とか疲れのせいにしていただけだ。

「名前を聞いても?」

「……名前?」

飄々としていた彼が、急に眉を顰めると、ものすごくいけないことをしてしまった気になる。

「え、なんかごめんなさい……」

「いや」

平気、と、彼は呟いて、咳払いをひとつした。

「僕らは名前より、通り名の方で呼ばれるのが普通なんだ」

「じゃあ、その通り名は何?」

青年は俺を見て、器用に口の端を吊り上げた。


「マザーグース」


車のヘッドライトが通り過ぎた。瞬きよりも早い一瞬で、青年は姿を消していた。

五篇 ハンプティダンプティの報せ

マザーグース。確かにその詩集のモチーフとして魔女の婆さんはいる。
それがあの青年?
性別に囚われず自由に生きる存在が魔女であるのなら、彼の通り名が『マザーグース』でもおかしくない。

「魔女、ね……」

寒さに耐えながら吸うタバコは格別だ。眠っていない脳が冴え渡る気がする。
青年から貰った黒猫の置物は、手持ち無沙汰で触るのにちょうど良かった。

『──男性は、ハンドルネームあまつかさとして、動物虐待の動画を動画サイトにアップロードしており──』

「えっ?」

ラジオ感覚で静かに流していたテレビに、釘付けになる。
あまつかさ。動物虐待って。三日前、俺が青年に呪いを頼んだ奴、だよな……?

『──警察は、今回の事故は捜査に関連していない。ご冥福をお祈りします、とコメントを発表しています』

ニュースは次に切り替わってしまう。情報が少なすぎる。

「あまつかさ、自殺」

検索をかけてすぐに出てきた大型ネット掲示板のリンクを押す。
猫殺しが意外と有名人なことにイライラしている場合じゃない。レスの波の合間に情報になりそうな物を見つける。

──『ワイ、近所なんだがトラウマすぎて仕事休んだ』
──『くわしく!』
──『いや詳しくも何も爆発したみたいになってた。飛び降りってあんなにバラバラになるんか』
──『電車に轢かれたらとはいうが飛び降りでバラバラは聞いたことない』

スマホが振動して、思わず放り投げた。心臓がバクバクして痛いのを、息をして誤魔化しながら、画面を見る。知らない番号だ。

「もっ、もしもし?」

と、耳に当てた受話口の向こうで名乗るのは、近くの警察署の名前を口にする男の人だった。

『実は、動物愛護法違反者の証拠品の中に、あなたの電話番号が書いてある首輪を見つけたのでお電話かけさせて頂いた次第なんですが……。心当たりはありますか?』

「は、はい、飼っていた猫につけてました」

『そうですか……。この首輪、お返し出来ますがどうしますか?』

「あっ、あ、えっと、クロ、うちの猫はどこに?」

『……申し訳ありません。我々の力不足です』

力不足。じゃあ。じゃあ、やっぱり、あの動画は。

「いっいえ、大丈夫です、ありがとうございます、あっ首輪、貰いに行きます」

『分かりました。そのように話を通しておきます。失礼ですが、お名前を頂戴してもよろしいですか?』

「間宮朔、です」

『間宮さんですね。では、都合の良いお時間に警察署にお越しください』

失礼します、と、丁寧に電話は切れた。
自然と溜め息が出て、その息は震えている。
駄目だ。泣いたら止まらなくなる。早くクロを迎えに行こう。これ以上、独りにして、寂しい思いをさせる訳にはいかないから。

六篇 詠う者

警察の人は詳しい話をしなかった。俺も特に聞かずに、パケに入ったクロの首輪を貰った。
薄汚れた赤い首輪は、変な所で千切れている。俺の番号が書いてあるタグの透明な部分には、拭ききれなかった赤黒い欠片がついていた。
あ、クロどこに埋めたか聞けばよかった。いや、言わないってことは分からないんだろうな。
もういいや。もういい。
汚いアパート。
俺が住む一階のフラワーボックスの下には、誰かが棄てていった自転車がある。そのパンクしたままの後輪の前に、見慣れた白い固まりがいた。
煤けた白猫は、俺を見るなり、にゃん、と鳴いた。
多分、柵を越えても窓が開かないから、諦めてここに座っていたんだろう。
大きな丸い頭を撫でると、喉からゴロゴロが鳴る。呑気なのはクロが帰って来ると信じているからか。
俺みたいに。

「ごめんな。クロはもう帰って来ないんだって。お、おれ、俺のせいで」

声が震える。
口も震える。
目の中が熱い。
頬が熱い。
耳も熱い。

「お、俺が、ちゃんとしてなかったから。俺が、俺が、クロを──」

手の平に乗る小さなクロ。鉛筆でじゃれるクロ。両手で丸を作ると顔を突っこんでくるクロ。布団の上で毛繕いするクロ。枕を使って寝るクロ。フラワーボックスの中で白猫と並んでうたた寝をするクロ。陽の光で輝く黄色いビー玉みたいな目。俺の声に反応して向く耳。通り過ぎざま、わざと触れていく長い尻尾。
クロ。クロ。クロ。
可愛い俺の黒猫を。


「死なせてしまった……」


俺が飼い主失格だから。
涙がお湯みたいに熱い。
嗚咽に嘔吐く俺を置いて、白猫は行ってしまう。


「間宮サン」


振り向くと、青年が立っていた。
マザーグースの魔女。
彼はタトゥーが敷き詰めてある手を組んでいる。組み合わさったマンダラが、新しい模様のようだった。

「君の殺意は想像以上の呪いを生んだよ。ありがとう」

呪い。そうだ。

「あいつは何か言ってた? 死ぬ前に、何か」

青年は、目を左上にやってから、肩をすくめる。

「どうして俺がこんな目に! と言っていた。野良猫を駆除しただけだ! とも」

何だそれ。謝って欲しいわけじゃなかったけど、そんなに開き直られると一周まわって笑える。
泣きながら笑っている俺は、頭がおかしいだろう。
あぁ、おかしい。今になって気付くんだ。クソ野郎が死んだって、クロは戻らない。
ただ、生きている理由のない現実だけがある。

「なあ、あんた、魔女なんだろ。だったら、猫の一匹くらい、生き返らせてくれよ」

「死からは僕らも逃れられない」

「だったら、俺を殺せ!」

喉が縮む。息を吸うと、穴が空いたホースみたいな音がした。
このまま窒息してしまいたい。クロが死んだのに、クロを殺した俺が、どうして生きていける。

「頼む、殺してくれ、頼むから……」

蹲う俺の背中に、温かい何かが乗せられた。

「僕は君の呪いが欲しい。だからその望みは聞けない」

そよ風のように髪を触るのは、彼か。

「代わりに未来をあげよう」

顔を上げると、青年の顔も近くにあって、その手が優しく、涙を払ってくれる。

「君には僕の奇跡を記してもらう。それは新しい世界の経典になる。僕が神になれば、死の底にいる彼女を救える。君はもう二度と、眠れない夜を過ごさなくていいんだ」

にこやかに詩を唄う唇に惹かれる。


「一緒にこの世界を創り変えよう」


一緒に。誰も一緒に生きてくれない俺と、一緒に。
あぁ、魔女の甘言であっても構わない。失うものは何も無いんだ。
頷いた俺の右耳に、青年は手を添えた。
耳たぶに課された質量は、揺れるとチリチリと鳴る。

「証をつけた」

と、彼は自分の左耳を示す。
既に大判のピアスが揺れているその耳の縁には、二連の黒いリングピアスがついている。

「今から君は僕のファミリアだ」

音が、頭の中に反響する。
視界がぼやける。
滴に揺れる水面のように、波が、頭の中に、世界に、広がって、広がって広がって──。

二章/一篇 変身


──『朔。お父さんを恨まないであげて。あの人は、とても可哀想な人なのよ』──

見ている。ずっと見ている。
お父さんがくれた、黒猫のぬいぐるみ。
何もせず、何も話さず。
お母さんが動かなくなっちゃったのに、お父さんは電話もかけてこない。
何もせず、何も話さず。
ずっと見ている、テレビの向こうのお父さんは楽しそうだ。

壁の向こう側でも。
どうして?
どうして、母さんと結婚した?
俺を作った?
邪魔にするなら、何もかもしなければよかったじゃないか。
好感度だ?
知ったことじゃない。
世間は頭がおかしい。テレビに出て、ヘラヘラして、くさい演技をしてるだけの男を誉めそやして。母さんも同じ。あんな奴のどこが可哀想なんだ。
可哀想なら、家族を置いて、他の女と仲良くしてもいいのか?
息子を邪険にして、違う家族を作ってもいいのか?
ふざけんな。
黒猫なんて大嫌いだ。
あいつが好きな物、好きだった物。全部、全部、大嫌いだ。
ハサミで切り裂いたぬいぐるみの黒猫。目だった黄色いボタンが転がって──小さな丸い前足に押さえられる。

「クロ」

呼ぶと、ボタンよりもずっと綺麗な黄色い水晶体が、俺を見上げる。
触ろうと手を伸ばすと、クロは、踵を返して走って行ってしまう。

「行かないで、待って、頼む、クロ! クロ……」

いやだ、待ってよ、どうして。どうして皆、俺から離れていくんだ。お願いだ。離れないで。傍にいて。生きる理由になってくれ。頼む、頼むから。


「置いていかないで」


……ここはどこだ? 肌に触るこの感じ。柔らかくて滑らかで心地良い冷たさ。
視界に広がる白から、太陽の匂いがする。あぁ気持ちいい。こんなにふかふかでいい匂いがする布団で寝たのは何十年ぶりだろう。そもそも、こんなに深く眠ったのも久しぶりだ。
喉から、地鳴りのような音がした。
聞き覚えのあるこの音。
猫が喉を鳴らす音にそっくりだ。
……その音が、どうして、俺の喉からする?
首を持ち上げると、視界の端に黒い物。見れば、艶やかな黒い毛に被われた猫の下半身がある。そのなだらかな線は、間違いなく俺に続いている。つまり、この猫の下半身は──俺のだ。
いや、まさか。あ、まだ夢の中ね。
擦った顔に柔らかい感覚。
手のひらには、ピンク色の可愛い肉球がついている。というか、手そのものが丸い。指も丸いし短い。力を入れると、黒い毛の間から鋭い爪が、にゅっと出た。
え、なにこれ? え? なに?
辺りを見渡す。
夢にしては、現実的な部屋に俺はいた。
フローリングに、白い壁に、天井は三角形。左を見れば、小さな窓に、赤いベロア素材のカーテンがかかっている。右を見れば、異世界に繋がりそうな、アンティークのごつい姿見が置いてある。
鏡面には、ベッドが映っていて、そのベッドの上では、黒猫がこっちを見つめている。その猫の左耳の先には、黒いリングピアスが二つ付いている。
鏡は反転するから、つまり、左耳は右耳。ってことは、あのピアスは、マザーグースの魔女が俺につけたやつ?
だったらあの猫は……?
恐る恐る、右手を持ち上げた。
鏡の中の黒猫は、俺の真似をする。
持ち上げた手で右耳を触ると、頭の上の方で妙な感覚がした。
耳? これが耳?
何かの間違いだ。耳がこんなに頭の上にあるわけがない。だって、俺は人間だ。
そう、人間だから、分かる。
鏡に映っている、俺の動きを真似する黒猫が、自分自身だということを。
ひゅぅっ、と喉が締まった。
その時、耳が勝手に音を捉えた。鏡から少し離れた横の床に開いた入り口から、足音が聞こえてくる。
警戒を強くする俺の目の先で、入り口から頭を出したのは、あの青年だった。

「やあ、起きたね。間宮サン。調子はどう?」

あっけらかんと彼は言った。
頭の中に走馬灯めいた記憶が駆け巡り、俺は唐突に理解した。俺を猫にしたのはこいつだ!

「起きたら猫になってて、調子いいわけあるか!」

頭ではそう言っているのに、口から出る声が猫の威嚇する鳴き声で、余計にイライラする。それなのに、青年は肩を軽くすくめただけだった。

「何よりだね。怒りは元気の証拠だ」

「ふざけんな! 一から十まで説明しろ!」

「説明と言われてもね」

ベッドが軋んだ。布団が青年の体重を受けてへこむ。
俺の隣に座った彼の首の横には、大口を開けた蛇の横顔が描かれていた。怖い。彼が、タバコに火をつけて、一服するのから、俺は目を逸らした。

「このピアスは僕の魔力で出来ている。君は魔力に耐性がないから体がびっくりして、一時的に猫になっているだけだろう。明日には人間に戻れる」

薬の副作用みたいに魔力を扱われても、ピンと来ないし、信用もできない。

「本当だろうな」

「嘘をついて僕に得が?」

確かに。
青年は、ふっと煙を吐いた。

「間宮サンにはこれから修行をしてもらう」

「しゅ、修行ぉ?」

また突拍子もない。猫の声すら裏返ってしまうほどだ。

「僕は君の呪いが欲しい。パンドラの箱の中身がね。でも、それを開けられるかどうかは君次第。僕は、君が自分の手で鎖を壊し、箱を開けられるようになって欲しいんだ」

「詩的すぎてよく分からない。具体的に話してくれ」

と、見上げると、青年は、ふん、と鼻を鳴らした。

「君はどうして父親を殺せない?」

「え?」

「箱にある呪いはとっくに殺意を超えている。それなのに、君は箱を開けようともしないで、黒猫ばかりを追っている。何故か。開けられないのを知っているからだ」

また。また、この感覚。
頭に声が響く。酷い気分だ。
猫の虐待動画。
引きちぎれた首輪。
バラバラになった『ハンプティダンプティ』の詩を知ったのは、子供の頃。
父と再婚相手が喘ぐ声を聞きながら、部屋で読んだ、あの詩集。
ぐるぐる渦巻く記憶の中心には、箱がある。モンスターが化けていそうな古びた木箱。それに巻きついて厳重に蓋を閉ざすのは、黒く輝く太い鎖だ。

──『朔。お父さんを恨まないであげて』
──『あの人は、とても可哀想な人なのよ』

そう、小さな文字で書いてある。びっちりと隙間なく。だから黒い。


「重すぎる愛は呪いのようだね」


息を荒くする俺を、やっぱり青年は楽しそうに見つめている。

「修行の内容は一つ。人を殺すことに慣れる。これだけ」

「は、犯罪者になれって?」

「そんなくだらないことは心配しなくていい。君は僕のファミリアになった時点で、人智を超えた領域にいる」

「でも、そんなこと、俺には出来ない」

「何故?」

「何故って……」

見上げた彼は、本当に理解できないという表情をしていた。
なんてこった。魔女と人間は根本的に倫理観が違う。それなのに、俺はこいつの相棒になってしまったんだ。ため息が出る。

「普通の、どこにでもいる普通の人間に、そんなことは出来ないんだよ」

繰り返して強調すれば、流石の魔女も分かるだろう。そう思ったのに、青年はケラケラと笑っている。

「そう思ってるのは間宮サンだけだよ」

「どういう」

意味だ、という質問は、じゅぅ、という音に消された。
青年が、タバコを握りつぶした手を広げると、煙が蝶の形になって羽ばたいていった。

「ひとまず話は中断しよう。今からお客様が来る」

「き、客?」

「裏メニューのお客様さ」

裏メニューは呪い。つまり、人殺しの依頼だ。
毛皮の中を冷やす俺を、青年は、ひょいと持ち上げた。
急な高低差に胃が浮く。腕にしっかりしがみついている様は、飼い主に甘える飼い猫のように違いない。
不本意中の不本意だけど、人間に戻れないなら仕方ない。戻ったら──戻ったら、どうしよう。
逃げる?
逃げたところで、生きていく意味なんかない。
クロがいない世界なんて。

二篇 修行をはじめよう

ハシゴを下りて、廊下を行き、レジカウンターに入ったと同時に、正面の扉が開いた。
モビールが揺れて、壁飾りがキラキラ光る。

「いらっしゃい。お待ちしておりました」

と、彼の出迎えを受けながら入ってきた男の人は、ガタイがいいのにスーツを着ていて、顔には切り傷の痕が無数にある。
見るからに、ヤバいお仕事の人だ。魔女もそういう仕事の人は怖いってわけか。変なところで人間的だ。
男の人は、アンティークのテーブルにアタッシュケースをぶつけるように置いて、ジャケットの懐から出した一枚の写真を、青年に手渡す。

「今回はこいつを頼む。いつも通り、ブツはそっちで選んでくれ」

今回は。いつも通り。常連ってワケだ。
青年の手元にある写真には、スキンヘッドの爺さんが写っている。テレビでよく見る、組合の会長だ。つまり、この爺さんを殺して、自分が空席に座るってことだろうか。だとしたら、これは歴史的瞬間なのでは?

「承りました」

興奮する俺がバカみたいに思えるくらい、青年は落ち着き払っていた。
彼が頭を下げると、男の人はさっき入ってきたばかりの扉から出て行った。
空気が一気に緩む。緩むと、何だかアタッシュケースの匂いを嗅がなきゃいけない気がしてきて、俺は、テーブルの上に飛び下りた。
うわ、臭い。何かが焦げた臭いが強烈だ。
思わず鼻を擦る俺を、ソファに座った彼がクスクスと笑う。
うっ、しまった。思わず猫みたいな仕草をしてしまった。これじゃ猫の姿を受け入れてるみたいだ。

「あ、あの人、やがつく仕事の人だ」

そうじゃないぞとアピールするための質問に、彼はタバコに火をつけながら、頭を振った。

「さあ。僕はあまり詳しくない」

「得体が知れない奴から仕事、貰ってんの?」

「人間は嘘をつく。裏切らないのは対価だけさ」

アタッシュケースの鍵が開けられる。
その中身は──鼻血が出そうだ。贅沢なインクの匂いが溢れている。百万の束が、こんなに雁首揃えているなんて、まるで、ドラマや映画だ。
札束に夢中になる俺の鼻先に、呪いの詩集が置かれた。
インクの匂いが呪いに染まる。
人間の時には感じられなかった呪いの匂い。例えようのない不快な生臭さがする。
小窓の中では、呪いの小瓶が鎮座している。
無意識に探した『ハンプティダンプティ』の小瓶は、中身がすっかりなくなっていた。俺のために使われたからだ。でも、じゃあ、呪いはどうやって貯まっていくのだろう。

「ここにあるのは呪いの原液だ」

青年は、さっき貰った写真を、小瓶たちに翳しながら言った。

「原液は恐怖で出来ている。マザーグースの詩に集まる恐怖でね。間宮サンは、先生だからご存知だろう」

創作物としてのマザーグースへの、恐怖。ってことだろうか。確かに、俺が知る限り、マザーグースの詩は、ホラーやサスペンス、ミステリの創作作品でよくモチーフにされている。死や殺害を仄めかす不気味な内容が多いからだ。でも実際はただの童謡。ナンセンス詩。それを大人が勝手に解釈して、勝手に恐怖しているだけにすぎない。そんな恐怖が、呪いの元になっている。

「けど、今じゃマザーグースは知られすぎて、ただの歴史でしかない。恐れるに値しないのさ。だから、最近は呪いの貯まりが悪くて、困っている」

「困ってる?」

「僕は自分で魔力を作れないから」

それは初対面の時にも言っていた。何だか怖くて聞けなかった、お預け状態の話。

「つ、作れないと、どうなる?」

ドキドキして聞く俺に、青年は、小窓から瓶を取り上げながら、ニヤリとした。

「死ぬ」

「えっ」

「さあ、間宮サン」

青年は詩集を閉じた。

「修行の時間だよ」

修行。つまり、あの呪いで組長を殺せ、と。

「えっ、いや、無理無理無理! だって、ヤーさんだろ?! バレたら殺されるって!」

「僕のファミリアなんだから大丈夫だよ」

「やだやだ。絶対やらない。ヤーさんに追われて、警察にも追われるとか無理。映画の主人公じゃないんだよ、俺は!」

体中がボワボワする。多分、毛が逆立っているのだろう。
青年は、アタッシュケースの蓋を閉めた。そうして、ため息めいた長い息を吹くのに、タバコは短くなる気配がない。

「じゃあ、こう考えようか」

指先までタトゥーが敷き詰められた手は、金木犀の匂いがする。指の背で額を撫でられれば、頭がボーッとしてくる。

「君は宅配人。この素敵な荷物を、宛先の彼にお届けする。君がやるのはそれだけさ。ね、簡単だろう」

届けるだけ。それなら確かに簡単──なわけがない。危ない。しっかりしろ、俺!
青年のなでなでを身を捩って回避して、俺はアタッシュケースの背面に回りこんだ。

「出来ないって!」

「君なら出来るさ。僕は知ってる」

「さっきから」

ふと、思い出す。屋根裏でも、修行を拒絶した俺に、彼は笑った。

──『そう思ってるのは間宮サンだけだよ』

「あんた、俺が……出来ないと思いこんでるだけって言いたいのか?」

「それを打ち壊すための修行だ」

打ち壊す。それがかかるのは『愛』で出来ている『鎖』だ。

「人殺しで?」

「罪悪感を感じることはない。彼らは罪名のない犯罪者。裁かなければ、世界は変えられないし、僕は生きていけない」

『鎖』が縛る箱の中身は『呪い』だ。俺が持つ、父親への殺意を超えた『呪い』を、魔女は欲しがっている。

「どうして?」

「僕は自分で魔力を作れない。だから、役目を果たして還る呪いを、摂取して生きている。この原液と、確かな殺意が混ざって出来た呪いは、人間が唯一、作り出せる魔力だ」

「だ、だったら俺だって、前みたいにその瓶で」

「前回の君は相手に恐怖していなかったら、原液を使った。けど、パンドラの箱には、恐怖も殺意も上等レベルの物が揃っている。僕がその呪いを貰うには、君がその手で呪いを成就しないといけない」

呪い、つまり、魔力が得られなければ死ぬ、かは定かじゃない。けど、彼が神様になって、世界を変える未来は訪れないんだろう。そうしたら、クロも取り戻せない。

「あぁ、そうか……」

単語が美しい円を描いて繋がって、ようやく気付いた。
俺はまた、平穏じゃない選択肢を選んでしまったようだ。でも、これはクロが運んできた物語だ。過程がどうであれ、きっと、終わりは悪くないはず。
そうだろ、クロ。

「分かった。やる。やります」

頷いた俺の顔を、青年の両手が包んだ。

「そう言ってくれると期待していたよ」

俺がクロにそうしていたように撫でて、嬉しそうに目を細めている。
そんなになのか。そんなに、俺が期待通りに動くのが嬉しいのか。
そうなんだ……。

三篇 ジャック

猫の息も凍る冬の夜に、組長は、立ちションに勤しんでいる。
あぁやだやだ。
何が悲しくて、酔っ払いジジイの立ちションなんか見てなきゃいけない。だいたい、自宅の高級マンションはすぐ近くなのに何で我慢できない。
でも、まあ、隙ではある。
鞄はその足の間。近づいて、この瓶を鞄に入れるなら今だ。行くしかない。
よし。
瓶を咥えて、植えこみから這い出る。冷えたアスファルトを忍び足で行く。
息は止めておこう。意味無いけど気分が違う。
鞄の隙間から、瓶を入れる。
ころん。
よし、入った!

「あぁ? おい、野良猫!」

ひぇ、バレた?!

「オレァ猫が嫌いなんだ、あっち行きやがれ!」

バレてない。よかったぁ。
そそくさ走って、また植えこみに身を潜ませる。
ちくしょう。帰りたいのに、帰れない。
着けているクロの首輪と首の間に捩じこんだ、空の密封瓶。これで、還る呪いを収拾しないといけない。
青年は、勝手に蓋が開いて、呪いを吸い取るって言っていたけど、どうなんだろう。でも、そうであってくれないと、猫の俺じゃ瓶の蓋を開けられない。

「ったく、イタズラしやがって、猫め」

組長は、野良猫が顔を突っ込んでいた鞄の中を探る。そして、見たことのない瓶に気が付く。

「なんだぁ、これ」

ポンッ。
コルクが鳴る。間抜けな音と引き換えに、呪いが溢れる。
呪いを吸った組長の野太い悲鳴が辺りに響くのに、誰も出てこようとしない。
ふと、悲鳴が途切れる。
見ると、首が、ころん。転がった。血飛沫もなく、組長の太った体が、どうと倒れた。
不自然に真っ直ぐな切り口が、真っ黒なドライアイスみたいに蠢く。
あの動き。魔女が詩集を出した時の煙にそっくりだ。てことは、あれが還る呪い?
答えるように、首輪に挟んだ密封瓶の蓋が開いた。
掃除機より凄まじい音がして、俺は思わず目を閉じた。
カチンッ。
と、振動と同時に吸引音が消える。
目を開けると、アスファルトに、組長の死体だけが転がっていた。
これで終わり?
なんだ。思っていたよりあっけなかった。

「間宮サン」

声が降ってきた。顔を上げると、伸びてきた手に抱き上げられる。青年は、俺に顔を近づけて、柔らかく微笑んだ。

「よく出来た。やるじゃないか」

微笑まれて、褒められた。嬉しい。でも、それよりも、血の臭いがキツい。鼻の性能が上がってるせいだ。

「は、早く戻ろう。バレたらヤバいって」

「本当に君は怖がりだねぇ」

「怖がりとかじゃないから!」

青年は、鼻でため息をつくと、指を鳴らした。

パッと。

気がつくと、俺たちは、雑貨屋に戻っている。
俺は青年の腕から飛び下りて、ソファに登った。

「もう何が何だか」

顔を擦りながら呟いたその時、ボフンッとベタな爆発音と共に煙が満ちて、視界にあった丸い猫の手が、見慣れた人間の手に戻っている。足も、背丈も、何もかも、人間に元通り。嬉しい。嬉しいけど、もう、頭が追いつかない!

「そんな時間か。何か食べるかい、間宮サン」

売るほどたくさんある壁掛け時計は、深夜十二時をさしていた。
なるほど。シンデレラ方式ってわけだ。

「いらない」

「そう。残念だ」

ジーパンのポケットに手を突っ込むと、皺の入ったタバコの箱があった。中身は──全部、折れている。確かに残念だ。

「はぁ……」

向かいに座る青年は、俺が回収した呪いの密閉瓶を眺めながら、煙を吹かしている。
結構なヘビースモーカーらしい。まあ、あれがタバコなのかどうかも謎だけど。
……ん? 今、間宮さんって言った?
あれ? 思い返せばずっと名前で呼ばれてる気がする。

「何で俺の名前、知ってんの?」

「あぁ」

青年は、思い出したというような声をあげた。

「僕は黒猫と感覚を共有できるんだ。黒猫であれば、モチーフでもいい」

「モチーフ」

あっ、あの黒猫の置き物。そういえば、あれを触っていた時に、警察から電話がきて、名前を名乗ったんだ。
いや、違う。黒猫ってことは、もっとずっと前──。

「クロの感覚も共有してたってこと?」

「君に関する情報は彼女から拝借した」

なんだ、道理で詳しいはずだ。週刊誌なんかよりも、よっぽど事実だもんな。
謎だったことに、不可解だけどそれなりの理由がついていくと、少し安心する。

「これ、君への対価。報酬の方がいいかな」

そう、青年がテーブルに置いたのは、分厚い茶封筒だった。持ち上げると重い。報酬って……まさか!
ちらりと覗いて──悲鳴が出そうになった。アタッシュケースで雁首揃えていた百万の束の内の三つがここにある。

「こっ、こ、こんなに?!」

驚きすぎて吃る俺に、青年は、肩をすくめてみせた。

「君が箱を開けるためなら、僕は何だって協力する」

もう笑うしかない。

「信じらんない。俺は夢を見てるのか?」

「起きれば分かる」

「そのジョーク、最高だな」

改めて、青年を見る。
マザーグースの魔女。性別を超えた存在。
彼が味方になってくれるのなら、こんなに心強いことはない。
もっと知りたい。彼のこと。

「あのさ」

黄色い瞳が俺を捕らえる。やっぱり、嘘みたいに綺麗だ。

「な、何て呼んだらいいかな、その、マザーグースじゃなんか……羽毛布団みたいでカッコ悪い、というか」

「僕は別にそれでもいいけど」

「いや、なんか距離も感じるし」

まごまごしすぎ。告白みたいで気持ち悪いな。
ちらっと窺うと、彼は目を伏せて、ふぅ、と、煙を吐いている。表情は浮かばない。
教えてくれないかな。最初に聞いた時もはぐらかされてしまったし。


「ジャック」


俯く俺に差し出されたのは、木製のシガレットケースだった。取り出し口から、タバコが一本、飛び出している。
顔を上げると、青年は──ジャックは、困ったような、呆れたような、そんな表情で微笑んでいた。

「……そう呼んでよ、サク」

俺は、タバコを受け取った。

「ありがとう」

咥えたその先に、火が着けられる。
息を吸うと、体中いっぱいに金木犀の匂いが満ちた。

三章/一篇 来訪者

一週間前からニュース番組は、組長の不審死を特集している。
首が落ちてるんだから当たり前だけど、どんな専門家を呼んだって、真相が分かるはずがない。
呪い、なんて。
非科学的すぎる。
俺だって、通帳の預金残高に、三百万の記載がなかったら、夢の話だと思う。
一人殺して、三百万──。いや、目的を見失っている。これは修行だ。燻っている呪いを成就し、ジャックに魔力を提供するための修行。
俺は、あのクソ親父を殺す。
罪名のない犯罪者を。
俺と母さんを苦しめたくせに、幸せになっているあいつを。
古いテレビは、電源を消しても残像が残る。
人を殺した奴が刑事ドラマの主演?
ふざけんな。
窓ガラスが割れたのは、俺がリモコンをテレビにぶつけたからではなかった。
鼓膜に刺さる砕け散る音。
咄嗟に黒猫になった俺の首根っこが掴まれる。目の前に突きつけられた顔は、白い鳥型のマスクを被っている。
ペストマスクとは少し違う嘴の短さ。出張っているゴーグルの左上に『T』のアルファベットがある。

「捕まえたよ、アーサー」

くぐもった声には少年的な低さがあった。
言いながら振り向いた窓から、もう一人が入ってくる。
パーカーのポケットに手を突っこんで、俺の作業テーブルを踏みつけて──随分、偉そうな態度だ。

「当たり前だろ。喜ぶな」

もう一人の声は低くて、少年よりも年齢が高いように思える。アルファベットは『A』だ。

「間宮朔。人でなし」

俺の名前を呼んで、右耳のピアスを弾く。
見下して、高圧的なこの態度。
こいつらは一体、何者だ?

「答えろ。テメェの飼い主は誰だ?」

飼い主だって?
ぼわわっと、背中の毛が逆立つ。

「俺はペットじゃない」

突然、重量が真横にかかる。
放り投げられて、ふわっと胃が浮く無重力は一瞬で、俺の体は眼下のアスファルトに直滑降していく。
いくら着地が得意な猫でもこれは、死ぬ!

「おっと!」

また覚えのない声。
目を開けると、俺を抱きとめていたのは、赤いツーブロックに金メッシュが映えるイケメンだった。

「サプライズの手間が省けた」

彼は言って、俺を、後ろにいた女の人に手渡した。
彼女は、ブロンドのショートボブの似合う碧眼の美女なのに、ゆるく波打つ前髪がかかる顔の右側が、酷いケロイドに覆われていて、右目は白く濁っている。

「は〜い、初めましてね。坊や」

醜さを少しも卑下していない、アメリカンな明るいノリだった。笑うと、口元のほくろが際立つ。

「は、はい、初めまして……」

「あたしはキティ。あっちの彼は、ベティよ」

紹介も海外ドラマみたいだ。
座った大型バイクの後部座席は、彼女たちのなんだろう。
彼女を見上げると、その首には黒いチョーカーがついている。

「あたしたち、魔女なの」

「えっ」

ぺたんと猫の耳が下がった。
ジャック以外の魔女は初めてだ。不安。何をしに来たんだ。ジャックの知り合いか? だとしても理由が分からない。分かるのは、鳥マスクと違って敵意はなさそうってことだけ。
そもそも、あの鳥マスクは何なんだ?
また謎が多すぎて、頭がパンクしそうだ。

「かわいい駒鳥が、一羽、二羽」

ライダースのたくましい背中が、言う。相手は、俺の家を破壊した鳥マスクの二人組だ。

「どうする? 持って帰ってやってもいいぜ。ちなみに家には子猫がいる」

ふふ、と、彼女は笑って、白いファーコートを着直す。

「トム、退くぞ」

『A』はアーサーで『T』はトム。
あのアルファベットは、名前の頭文字らしい。
アーサーの撤退命令に、トムは背中を向けた。

「家ごと刻んでやる!」

彼は腰にさしたナイフを抜いた。真っ白な刃が暴力的に光る。

「おいおい、待ってくれ!」

ベティは途端に怖気付いて、左腕を伸ばす。が、その腕は、容赦なく斬り裂かれる。
血が。
縦に割れた肉から噴出した血が、鳥マスクを汚し、ベティの悲痛な悲鳴が響き渡る。それなのに、キティは、コンパクトミラーを見ながら、唇に真っ赤な口紅を塗り直している。

「とっ、止めないの?!」

慌てる俺に構わないで、彼女は唇を擦り合わせて、セクシーな破裂音を出した。

「トム、やめろ! 言うこと聞け!」

「こんなのなんてことない!」

あっちでは、トムとアーサーが言い争っている。
トムの上半身は、ベティの腕から噴出した血で染まっている。
確かに腕には血管が集中しているけど──何か違和感だ。
蹲ったベティが、掠れた笑い声を出す。

「手遅れだ。俺の血を浴びたんだからな」

縦に斬り裂かれたライダースの袖から、真っ黒な左腕が見える。あれは、タトゥーか?
それにしても、傷がないような……。

「彼の血は爆弾なの」

キティは俺のおでこの毛を逆立てながら、言った。


「爆弾の魔女だから」


爆発音の後、割れたゴーグルの片目部分が、バイクの前に落下した。数々の肉片と共に。途端に、血の臭いがキツくなる。
違和感の正体はこれだ。あんなに大量だったにも関わらず、ベティの血からは臭いがしなかった。

「まだやるか?」

ベティは完治した左手で、アーサーを挑発する。
アーサーは悔しげに身を引いた。すると、背後の景色が陽炎みたいに揺らいで、彼はその中に姿を消した。
すごい。移動魔法ってやつ?

「あぁ、ベティ!」

俺が膝にいるのに!
キティはベティに走りよって、抱きついた。

「あなた最高だわ!」

日本人同士だと見るに堪えない口付けを、二人は交わす。

「僕ちゃんにいろいろ教えた?」

ベティは、赤いロリポップを舐めながら、俺を見下す。
ちくしょう。人間への戻り方が未だに分からないのが悔やまれる。

「あなたがボマーだってことだけよ」

「流石だな、キティ」

何が流石だか分からないけど、二人を盛り上げるには十分だったらしい。洋画の濡れ場並の激しい応酬。羨ましい。じゃなくて。

「あ、あの〜、俺に何か用事があったんじゃ?」

俺が声をかけて、二人はようやく離れた。

「そうそう。俺たち、お前に用があるんだよ。ちょっと聞くだけの、すぐ終わる用事がな」

キティが、俺を抱き上げる。
嫌な予感がする。

「な、何を?」

「お前のご主人様について」

耳に何かが触れた。鼻につく甘ったるい、匂い。


『おやすみなさい』

二篇 ベティ&キティPart1

『起きて』

頭の奥が痛む。
首も痛いし、腕も痛いし、背中も痛い。霞む視界に、俺の膝。
頭をあげれば、黒白のチェス盤みたいな壁の模様が眩しい。

「こっ、ここは……」

肩を触られて振り返ると、キティが妖艶な笑みを浮かべて、通り過ぎて行った。
思うように体が動かないと思ったら、椅子の背もたれに両腕を縛られている。足は自由なようだけど、このままじゃ逃げられない。

「俺たちの城へようこそ」

ベティが俺の前にやって来る。彼は、こっちに向けた椅子の背もたれに肘をついて、ロリポップを舐める。

「緊張しなくていい。質問は二、三しかない。ぱっと答えてくれたら、俺の特製カクテルを振舞ってやる。これが対価。悪い話じゃないな?」

ベティが手で示した先には、バーカウンターがあって、その丸椅子にキティが座っている。いじっているのは俺の財布だ。
どうしよう、考えないと。
こうして拘束されている以上、答えない、という選択肢はないんだろう。でも、彼らが何故、ジャックのことを知りたがっているのかが分からない内は、安易に答えることも出来ない。

「対価……」

そうだ、対価だ。対価のふりをして、逆に聞き出してやろう。こっちは何にも知らないんだ。聞かれたとしても、答えられないのはどうしようもない。それを利用しよう。
上手くいく保証はないけど、やるしかない。

「だったら足りない」

強気に出た俺に、ベティは楽しそうに笑った。

「ビビらないね、僕ちゃん。じゃあ、何が欲しい?」

「俺の質問に答えろ」

「そしたら答えてやるって?」

「嘘偽りなく」

そもそも知らないし。
俺が心の中で舌を出していることに気付かず、彼は、手を叩いた。

「いいね。始めよう」

うまくいった。
ベティが、黒いシャツを腕まくりすると、両腕に、真っ黒なタトゥーが現れる。左腕はさっきも見たけど、右腕にもある。
炭みたいな黒に、赤のアクセントは花びらのような絵だ。
生唾を飲みこむ。大丈夫。タトゥーは慣れている。

「あ、あの白い鳥マスクは何者?」

「基礎編ね。オーケー。あいつらは駒鳥だ。人間には、魔女狩りって言った方が伝わるか?」

「まだ魔女狩りが?」

「天敵はどこでも存在する。魔女がいるなら魔女狩りもいるし、逆も然り。自然の摂理だな」

これで、奴らの態度に理由がついた。
奴らは、魔女に関わる全ての者を嫌って、蔑んで、駆除している。
魔女狩りだから。

「あいつらは子どもだが、鳥籠で鍛え上げられた狩人だ。僕ちゃんは手を出さない方がいいぜ」

言われなくても、人の家を平気で壊して、猫を放り投げるような連中には、例え駒鳥じゃなくても近付かない。

「サクちゃんよ、ベティ」

キティの横槍が入る。彼女は、俺の免許証を眺めている。
写り悪いのに。

「サクね。覚えた」

距離の詰め方がエグい。
ダメだ。二人のペースに呑まれてはいけない。

「鳥籠って?」

質問を重ねる。
ベティは、舐めていたロリポップを口から出した。赤いガラスのような飴。

「駒鳥が飼われている場所だ。あいつらの飼い主は、魔女から脱退した裏切り者の末裔たち」

陽炎の中に消えていったアーサー。魔女の末裔なら、あれくらいの芸当は余裕ってわけだ。駒鳥という存在が全てそうだとすれば、確かに、俺は敵わない。

「それで、あんたたちは?」

「俺たちは、魔女協会の魔女。ていうか、魔女は普通、協会に管理されてる。何もかもな。好き勝手して、また人間様を怒らせないように」

「俺は人間だけど?」

「もちろん。でも、ファミリアだ。その中でお前は特に珍獣。飼い主が不明ときてるからな」

「不明?」

「お前のご主人様は協会に未登録だ。だから、調査をしにきた。俺たちはこの街を管理してる、ちょっと偉い魔女だから」

駒鳥と魔女協会。対立する組織なのに質問が同じなのは、正体不明のジャックを警戒しているからか。でも彼が捕まらないから、人間で、ファミリアで、なのに警戒心の薄い俺に的を絞ったわけだ。こんなの、ジャックは予想していたはずだ。
わざとか?
これも修行の内ってこと?
どいつもこいつも……俺をバカにして。

「他に質問は? ないな。次は俺たちの番」

ベティは勝手に話を進めた。

「サク。お前のご主人様は誰だ?」

「ご主人様じゃない」

「それは悪かった。じゃあ、お友だちの名前は?」

──『ジャック』
──『そう呼んでよ』

と、彼は言った。本名だとは一言も説明されていない、ということは、ジャックは、いわば愛称、あだ名だ。名前じゃない。

「知らない」

「名前も?」

ベティが飴を噛む。灰色の瞳が、俺を睨む。

「知り合ってちょっとだ。俺もあいつも、そんな根掘り葉掘り聞くタイプじゃないし」

「嘘偽りなくって言ったよな」

「だから嘘ついてない」

飴が砕かれて、白い棒が床に落ちていった。
空気が沸騰するように、動くのを感じる。

「……お前はファミリアだ。お友だちと従属契約をしてるってこと。それなのに何も知らない? つまんねぇジョークは死んでから言え」

やば……調子乗るんじゃなかった……。どうしよう。俺、殺されちゃう。

三篇 ベティ&キティPart2

「ベティ」


キティがヒールを鳴らして、やって来る。彼女は、タバコを詰めたシガレットホルダーを手にしている。

「交代しましょ」

「でも、キティ」

「サクちゃん、タバコ、いいかしら?」

頷く。

「ありがとう」

キティは、流れるようにタバコに火をつける。その仕草は、モノクロ映画の女優みたいに美しい。椅子から立ったベティと入れ替わりに、座る姿も。

「この力は、こういう風に使いたくないの。だから、あなたから話して欲しかったのだけれど……残念だわ」

「ち、力?」

そう、と、彼女は、艶のない赤い唇の隙間から、煙を吐く。

「……あたしはね、誘惑の魔女なの」

キティは、うなじに手を回す。
首につけたチョーカーを外すと、丸と三角を連ねたような線だけのタトゥーが、首を一周して刻まれていた。
それが、淡く黄金色に光っている。


『ねぇ、あたしのお願いを聞いてくれる?』


頭の奥が痛む。声が響く。

『あなたのお友だちの名前を教えて?』

答えてはダメだ。分かっているのに。声が喉から溢れる。

「う、ぅ……じ、ジャック……」

咳が出る。苦しい。何なんだ、この感覚は。気持ち悪い。

「ジャックなんかごまんといる」

カウンターの丸椅子で、ベティは貧乏揺すりをしている。
キティは鼻でため息をつきながら、煙を吐く。

『彼の通り名は?』

「ぁ、う、ま、マザーグース」

言葉が胃酸のようだ。喉に染みて、激痛がする。

「マザーグースの魔女はもういないわ。最後の彼女が契約移行をしたもの」

「あぁ。契約してる悪魔の力が弱くなったから、だったな」

「まさか、悪魔が?」

もう止めてください。と、言いたいのに口が動かない。脳の神経がバグってるみたいだ。

『彼の目的を教えて?』

「の、呪い、を、俺の呪いを、魔力に、する、ため」

『それだけ?』

「か、神、になるって言ってた。く、クロを、取り戻して、くれる……」

『神になりたい理由は?』

理由?
理由なんて──知らない。
ベティが手を叩いて、大笑いするのが遠くに聞こえた。

「キティ! もういい。分からないことが分からない僕ちゃんに聞いたって無駄だ」

「どういうことかしら、ベティ」

「わざと教えてないんだ。俺たちへの対策ってとこじゃないか? 大したヤツだぜ」

俺の前髪を引っ掴んで無理やり上げた彼は、楽しそうに飴を噛み砕いている。

「僕ちゃん、いいこと教えてやる」

吐き出された飴の棒が、顔に当たった。

「魔女は不死身じゃない。人間が心臓で血を循環させてるのと同じで、魔女も心臓で魔力を作って、体中に送り出してる。分かるか? 心臓がなければ、魔女も死ぬんだ。魔女のふりが出来る、不死身の存在なんてひとつしかない」

──『僕は自分で魔力を作れないから人間の協力が必要なんだ』

魔力を作れないから、呪いが欲しい。
そう俺は理解していた。けど。あぁ、確かに、彼は『心臓がないから』とは、口にしていない。
俺は『魔力』という単語に、目を眩ませてしまっていた。


「お前のお友だちは、悪魔だ」


悪魔?
悪魔なら、神にはなれない。
神になれないなら、クロは戻ってこない、のか。
……え、嘘、嘘だ。
そんな嘘ついて、何の得がある。
違う、違う。ジャックは、俺に生きる意味をくれた。
俺が生きる意味。
クロと生きていく未来。
それが、それが嘘なんて、そんなわけがない。
違う、違う違う違う──。


「違う!」


喉が開く。

「あいつは、ジャックは、嘘なんかついてない!」

脳の神経が正常になった気がした。急に酸素を吸ったせいで、余計に吐き気が増す。

「あ、あたしの誘惑を解いたの?」

何だか知らないけど、キティが驚いている。
ざまあみろ。ゲロでもかけてやる。
盛大にえずいたその時、喉の奥から這い上がってくる、太いチューブ状の存在を感じた。
外に飛び出た胃液と一緒に見えたのは、黒光りする鱗が集合した頭部だった。その尖った口の先端からは、小瓶の蓋が見えている。

「キティ!」

ベティが叫んでも、もう遅い。
俺の口から出た蛇は、瓶を噛み砕いた。
真っ黒な呪いの煙が、あっという間に充満して、キティとベティの悲鳴も呑みこんでいく。
俺もやばい。息を止めないと……!
蛇は、俺の首を通って、肩を通って、背中に回る。
縛られた手に鱗の感覚がした後、拘束が解けた。
急いで、袖で口を覆いながら、部屋を抜ける、前に、財布と免許証を回収する。
劇場みたいな重い扉を開けると、上り階段だ。

「待て、クソ野郎ッ」

ベティだ!
早くしないと爆弾にされる!
駆け上がる勢いのまま、外に飛び出す。
ここは……駅前の飲み屋街?!
こんなところに魔女がいるなんて、とんでもないな。
今は昼間。人通りどころか人影もない。よし。
俺は猫になって、歩道を飛ぶように走った。ヒゲが痺れる。導いているのか?
感覚のままに、路地裏に飛びこむと──目の前に『鵞鳥の巣』の建物が鎮座していた。

四篇 愛は呪い

「お疲れ様」

床に伸びる俺の前にしゃがんで、ジャックは軽薄な笑みを見せている。

「ジャック……!」

安心したけど、段々、怒りが湧いてきた。
こいつは説明不足にも程がある。人を勝手に猫にしてもヘラヘラして、今もしている。

「助けたってことは見てたんだな?」

「どうだろう」

「見てたってことは俺が言いたいこと分かるな?!」

「まさか。僕はエスパーじゃない」

いつもの定位置。革のソファに深く座って、足を組み、金木犀のタバコをふかす。
俺は、あんたのせいで死ぬ思いをしたっていうのに。

「何で、駒鳥のことも協会のことも黙ってた!」

「いいじゃないか。彼から説明を貰ったんだろう」

「俺はあんたから聞きたかったんだよ!」

ローテーブルの上で、にゃあにゃあ鳴き喚く俺に、ジャックは肩をすくめて、腕を広げた。

「じゃあ、どうぞ?」

ムカつくー!
人間だったら殴ってやるのに、猫ではせいぜい猫パンチしか出来ない。そんなのこいつには「可愛いね」で終わりだ。ちくしょう。どいつもこいつも。
いいさ。分かった。
聞かれないから言わない。
そういうスタンスなら、一から百まで聞いてやる。

「協会に登録しないのはどうしてだ」

ジャックは、肘掛けに肘をついて、垂れ下がるピアスを触る。相変わらず主張が激しい大きさだ。

「僕は、人間から呪いという魔力を貰わなくちゃいけない。そのためには、人殺しが必要だ。魔女狩りが繰り返されるのを恐れて、人間の顔色を窺っている協会とは合わない」

協会が人間の機嫌を取っているのは、ベティも言っていた。ということは、ジャックも知っていたってわけだ。
そういう大事なことは教えてくれないくせに、神になるって野望だけは、俺に打ち明けた。
どうして?
ベティが言ったように、俺を撹乱に使いたかったのなら、それすら言わない方がよかったはずだ。
万が一、というか、もう起きてしまったけど、俺が捕まって、人間が支配している世界を創り変えるという計画が協会にバレてしまったら、絶対に阻止しにくるのは、明白だったのに。
なのに、言った。

──『お前のお友だちは、マザーグースの悪魔だ』

ベティの言葉。やっぱり本当なのか?
本当は神になれなくて、でも、俺の呪いは欲しいから、俺の気を引くための嘘をついた?

「魔力が作れないと……心臓がないと、魔女は死ぬって」

黄色い瞳が伏せられる。
何を考えているだろう。ここで、悪魔らしい悪魔にでもなってくれたら、俺はまだ引き返せる。

「それは彼らの知識不足だ」

ジャックは冷静に、答える。

「悪魔とひとつになれば、死を引き伸ばすことは可能だ。けど、それは魔女にとって、あまりにリスクが高い。魔力消費が激しいし、魂を乗っ取られてしまったら、取り返せないからだ」

「あんたはひとつになったって?」

彼の指が、タートルネックの襟を直す。
首にある蛇のタトゥーは、今日は隠れて見えない。

「タトゥーは契約印。範囲が広ければ広いほど、得ている力も、対価も大きい」

爆弾の魔女、ベティは両腕に。
誘惑の魔女、キティには、首を一周したタトゥーがあった。
ジャックは、俺が知る限り、両手、両腕。それと首。
悪魔と一体化していない二人と比べれば、確かに広範囲だ。
そうか。だから、心臓がなくても生きていられるってわけだ。
とはならない。理由がついても、おかしいものはおかしい。

「本当に心臓がないの?」

「あぁ、ないよ。見せようか」

ジャックにとっては、何事でもないらしい。
ベストのボタンを外して、裾を持ち上げる。
浮いた肋骨。茨に巻きつかれ、のたうち回る蛇の身体の一部が、薄い腹に描かれている。そして、その左胸には、三日月のタトゥーの窪みの中に、穴が空いていた。
文字通りの穴。
ベストの裏地が向こうに見える、穴。

「し、心臓は、なくなっちゃったの?」

「駒鳥に盗られた。今は鳥籠のどこかにある」

裾を直して、ジャックはタバコを吸う。

「早く取り戻さないと、僕は神になるどころか生きてもいられない。それまでの呪いは応急処置だ」

「応急処置? じゃあ、俺のパンドラの箱は、神になるのには必要ないってこと?」

「今の僕では、鳥籠へのゲートを開けることが出来ない。出来ても返り討ちに遭う。君の呪いは、そうならないために必要なんだ。安心して。帰る時、君は彼女を抱いているだろう」

「ち、ちょっと待って……」

ジャックが神になるには、心臓がいる。
その心臓を取り戻すには、鳥籠に攻め入る必要がある。
攻め入るには、俺の呪い、つまり、魔力がいる。
ジャックがそれを摂取するためには、俺が呪いを、自分で成就しないといけない──母さんの鎖を壊して、パンドラの箱を開けなきゃいけない、と。
こういうわけか?
理屈は通っている、はずだ。
今の俺の頭じゃ、通っているようにしか思えない。
分からないのは、あとひとつだ。

「あ、あんたは、どうして神になって、世界を変えたいんだ?」

「呪いのない世界で生きたい」

「呪いで生きてるのに?」

「僕が好きでそうしていると?」

黄色い瞳が、俺を睨みつけた。
頭の中をつついてくる、これは誰の感情だろう。
辛い。痛い。悲しい──。

「サク」

ジャックは、ため息をついて、タバコを右手に持つ。

「僕らを苦しめている愛は、呪いだ」

壁の飾りが鳴っている。
筋張った指が、左手の甲を撫でている。

「愛のせいで、僕は心臓を奪われ、君は自由になれない。けど、世界は、愛されない僕らを同情するどころか、異端だと嫌って、置いていく」

間違いない。その通りだ。だから、羨ましかった。道行く人たちが、明日を待ち望んでいるのが。みんながそうなのに、俺だけが違うから。

「だから、僕は神になる。創り変えられた世界は、僕らのように、愛に呪われる存在を救済する。繁栄する全ての命に、安寧をもたらすものになる」

ジャックは、右手でタバコを握りしめた。
立ち昇る煙に、思わず、見とれる。

「愛は、呪い……」

悲しい響きが、口に馴染む。

「君もそう思うね? サク」

あぁ、絆されていく。
誰にも期待できなかった共感を、俺は今、ジャックとしている。
彼といれば、きっと、いや、確かに俺は、平穏な未来を生きていける──。

「最後に一個、いい?」

見上げると、ジャックは普段通りの笑みになった。

「もちろん」

「俺の家、どうにかしてくれる?」

「あぁ、そうだね」

一瞬、考える素振りをしたジャックは、何を思いついたか、急に俺を抱き上げた。

「だったらここに住めばいい」

「え、マジ?」

「僕といれば、駒鳥にも魔女にも襲われないさ」

短い前髪のせいか、彼が本当に笑うと幼さを感じる。

「これから楽しくなるね」

それを見ると、俺は何だか嬉しくなってしまうのだ。

四章/一篇 彼女は何で出来てるの?

パソコンを閉じる。
イヤホンから音楽を聞きながら、美味いコーヒーをすすれる日が来るなんて、思いもしなかった。
平日の喫茶店は来客が少なくて、落ち着く。余裕なく歩いていく目の前のガラス越しの雑踏に、優越感だ。いいね。金持ちになった気分。


「あれ、あれあれあれ〜?」


に、水を差す下品な声。

「朔くんじゃないの。元気してた〜?」

四年前に辞めた編集会社の元上司。
父親のネタをすっぱ抜きたいがために、こうやって俺に集りにくる。
俺が睨んでも、高溝は、眼鏡の奥の糸目を更に細くして、デカい口を歪ませている。
無精髭に白が混じっているのを、カッコイイと思っているバカ。

「聞いたよ〜。バイト先、クビになっちゃったんだってね。これはもう本格的にウチに戻るしかなくなっちゃった感じだよね〜」

店員さんの視線を感じる。
この鬱陶しい若作りジジイ。俺の優越感が台無しだ。
帰り支度をして、喫茶店を出る。出てもどこに行くとか予定はない。どうしたものか。

「応募も上手くいってないんでしょ。そしたらウチで、売れる本、書いた方がいいって。絶対売れるの、お墨付きだよ?」

父親の暴露本。父親で稼げって?
確かに若い時はそういう風に思っていたけど、今はとんでもない。ふざけるな。どうして大嫌いな奴に依存しなきゃならない。

「俺は小説を書きます」

はあ〜、と、高溝は、大袈裟にため息をついた。

「朔くん、あのね」

なれなれしく、肩に手が乗せられる。

「キミももう二十七。アラサーだよ? そろそろ現実、見なきゃいけない頃じゃない?」

イラつく。俺のことを分かりもしない奴が、ペラペラペラペラ──。


「あの、すいません」


可愛らしい声がした。振り向くと──典型的な、地雷系の服装をした女の子が立っていた。
目元にはワインレッド。長い黒髪の中には白が入り、それを高い位置でツインテールにしている。

「あ?」

高溝は、女の子を威嚇する。自分の好みじゃないからだ。

「その人、困ってます。警察、呼びますよ」

女の子は、上目遣いに睨みつけて、スマホを持ち上げた。
カイコガのスマホカバーは、指が埋まるくらいにふわふわしている。

「困るな〜、キミ。大人が二人で話してたら、それは大人の話をしてる時なの。お子ちゃまが邪魔するんじゃないよ、全く」

彼女の目は、冷笑する高溝ではなく、真っ直ぐに俺を見ている。
俺は、静かに首を振った。
すると、彼女は、口元から八重歯を覗かせて微笑んだ。

「あっ、お兄さん、あの人呼んでますよ。後ろです」

後ろを見ろ、ということらしい。もちろん、振り返っても、誰もいない。
え、でも、だから?
その時、視界の隅にいた高溝が倒れた。

「たっ、え?!」

高溝は、白目を剥いて鼻血を出して、完全に失神している。
持病? いや、こいつは健康とゲスさを売りにしているから、そんなものはないはずだ。

「大丈夫です。すぐ目が覚めます」

混乱する俺に対して、女の子は、ぞっとするくらい冷静だった。
俺が後ろを向いた一瞬で、この子は高溝に何かをした。物理的には片付けられない何かを。
彼女は俺を見上げると、また八重歯を見せて笑った。

「行きましょう!」

「えっ、あ」

ぱっと俺の手を取って、彼女は走り出す。
緩く波打った髪の束が揺れると、飾りのリボンも揺れる。
赤と黒と白が混ざる。
彼女の手は、白くて冷たくて硬くて、女の子どころか生きているのかも分からない。
この子も魔女の類いだろうか。
そうだとして、もう驚けない自分が、俺は少し心配になった。

二篇 キャットファイト

駅前の広場まで来て、彼女はようやく手を離してくれた。
俺は真冬なのに汗だらけで息も絶え絶えなのに、彼女は正反対だ。

「すいませんでした。手、引っ張っちゃって」

「あぁ、はあ、いや、助かりました」

彼女の靴は、飾りベルトがたくさんついた厚底靴だ。なのに走って、息切れしないって。

「お兄さんは敬語なんですね」

「え?」

顔を上げると、彼女は、前髪を直しながら、はにかんでいた。

「マシロちゃんたち、大人の男の人に、よくタメ口きかれるんです。可愛いからですかね?」

マシロちゃん、たち?
個性が多すぎて飽和している。
何て返せばいいのか分からない。とりあえず笑っておこう。

「ははは……」

「ふふ、お兄さんは優しいですね」

あれ、好感触だ。

「えっと、お名前を聞いてもいいですか?」

「あ」

教えていいのか?
でも、教えないと不自然だろう。

「間宮です。間宮朔」

「マシロちゃんはマダラメマシロです。斑の目に草冠の茉、色の白で、斑目茉白です」

丁寧に素晴らしいけど、ここは『たち』じゃないのが気になる。
法則があるのかな。分かったところでだけど。

「あの、間宮さんは、ここら辺に土地勘あります?」

茉白ちゃんは、薄茶色の瞳で俺を見つめた。
いかんいかん。未成年にドキドキするな、俺。

「ま、まあ、多少ですけど……」

「実は、茉白ちゃんたち、お店を探してるんです」

「お店?」

「鵞鳥の巣っていう、不思議な雑貨屋さんなんですけど……ご存知ですか?」

ご存知です。とは言えない。
ジャックを狙う、駒鳥と協会の存在を知ってしまった後だ。
この流れで、明らかに人間離れしている茉白ちゃんは、信用出来ない。

「い、や、知らないです。ごめんなさい」

「そうですか……」

しゅん、と、眉尻を下げる茉白ちゃんに、いたたまれなくなる。でも、ごめんね、茉白ちゃん。俺にはジャックがいないといけないんだ。
鳴ったのは、俺のスマホではなかった。
茉白ちゃんは、自分のスマホを確認して「電話だ」と呟いた。

「あぁ、どうぞ出てください。俺は行きます」

一刻も早く帰りたいし。
俺の心の内は、いつも誰にも知られない。

「ごめんなさい。またどこかで」

茉白ちゃんは、王子様みたいな言葉を残して、離れて行った。

「ってことがあったわけ。どう思う?」

「どうって? あ」

ジャックは、俺のスマホを机に置いた。どうやら、ゲームオーバーになったらしい。
俺が心配しているのに呑気すぎる。

「絶対、普通じゃないだろ、その子。この店のことも知ってる。タトゥーはなさそうだったから、駒鳥なんじゃないか?」

「導かれていないのは確かだね」

うーん、と、ソファに寝ながら伸びるジャックは、完全に猫だった。
店の奥のリビングだから、完全に寛いでいる。
こっちにある家具は、アンティークを超えてボロボロで、ジャックが寝ているソファも、俺が座る椅子も、耳障りな音が鳴る。

「気になんないならいいんだけど」

お湯に浮くコーヒーの粉をスプーンで沈める。
渦が出来るくらいかき混ぜると、強い香りがした。優しさのない香り。お店のコーヒーがいかに洗練されているかよく分かる。

「おや、もうこんな時間か」

ソファから立ち上がったジャックは、俺からティーカップを奪うと、コーヒーを一口飲んだ。

「ごちそうさま」

「用事?」

「今から裏の依頼人が来る。君はどうする?」

「いなくてもいいの?」

「構わないけど、配達先の情報は聞いておいた方がいい」

「参加する」

「だったら猫になっておいで」

「えー、たまには人間がいいんだけど」

「猫の方が場が和む」

ジャックはリビングから出て行く。

「何だそりゃ」

飲んだコーヒーは酷く薄味だった。
よくこんなの飲んだな。
もったいないけど流しに捨てて、俺は猫に変身した。
廊下を走っている最中に、モビールが来客を知らせる。

「いらっしゃい。ここは鵞鳥の巣だよ」

ジャックの声と共にレジカウンターに飛び乗れば、強烈な香水の臭いが鼻をついた。

「へえ、マジであったんだ。うさんくさ〜」

ヒョウ柄女はそう言って、棚の小物を物色し始める。
どう見ても、誰かを呪いに来た客ではない。

「導かれた人間だけが来るんじゃなかった?」

ジャックは、一瞬、顔をしかめた。
珍しく不機嫌だ。黙っておこう。
ヒョウ柄女に続いて入ってきたのは、セーラー服の女の子二人組だ。

「あの、呪いを売ってるって見たんですけど」

手前のポニーテールの女の子が言った。

「誰を?」

彼女の後ろから、もう一人の女の子が控えめに進み出てくる。
ショートヘアを緩く巻いている女の子。

「……こ、この人、です」

ショートちゃんがジャックに差し出した写真には、明らかにチャラい男が写っている。

「あと、あの人もです!」

ポニーテールちゃんが、突然、大声を発して、ヒョウ柄女を指さした。

「きょうこっ」

ショートちゃんが諌めても、もう遅い。

「はあ?」

ヒョウ柄女はドスの効いた低音を出した。
一気に空気が緊張する。

「呪いが本当か、ここで証明してください! あの人を、今、ここで、殺してください!」

きょうこちゃんは、猪突猛進なアクティブタイプのようだった。
ジャックは、渋い表情をしながらも沈黙している。

「ケンカ売ってんのかよ、クソビッチ」

ヒョウ柄女ときょうこちゃんは、猫のケンカみたいに近距離で睨み合う。

「だったら、あんたのカレシはサルでしょ」

あのチャラ男はヒョウ柄女のカレシらしい。
てことは、浮気とかそういうやつか?

「てめぇ!」

ヒョウ柄女が、きょうこちゃんに掴みかかった。
こんな狭いところでキャットファイトは大迷惑だ。

「やっぱ俺、人間の方がよかったんじゃないか!?」

俺の叫びのせいじゃないと信じたい。ジャックが、嫌な表情をして、ため息をついたのは。
彼は、呆れたように額を撫でた手で、指を鳴らした。

三篇 黄色い薔薇

怒号が止む。
ヒョウ柄女が消えている。
きょうこちゃんが、腰を抜かすその足の先に、黄色い薔薇が一本、落ちている。

「満足?」

きょうこちゃんは、無言で頷いた。
ジャックはタバコを咥えて、火をつける。
俺も驚いた魔法に、女子高生二人も驚いている。でも、ジャックには魔法とも呼べない些細なことだ。

「では、対価の話をしよう。彼女と彼の二人分。どれくらい出せる」

マジか、ジャック。女子高生に金の話……。

「ふ、二人分?」

「そのつもりだったんだろう」

二人は顔を見合わせて、ショートちゃんが、恐る恐る口を開く。

「ひ……百万です」

「一人分の額だ」

二人の顔色が変わる。
どういう経緯か知らないが、チャラ男とヒョウ柄女を呪うために集めた資金を、ここに来て足りないと一蹴されたら、それはそうなる。
いくらなんでも可哀想だ。

「ジャック、相手は子どもだぞ」

「ここに来た以上、大人も子どもも関係ない。殺意を持った客人として扱う」

猫語の俺に、ジャックはハッキリと反論した。

「僕は、僕の力を見せた。今度は君らの番だ。殺意を見せてくれ」

手品のように手からマッチ箱を出して、床に放り投げる。落ちた拍子に、箱からマッチ棒が散らばった。

「ひっ」

きょうこちゃんは、足をひっこめる。
さっきの威勢はどこへやら、腰を抜かしたまま、氷点下にいるみたいに震えている。

「ゆ、ゆい……」

どうしよう、と、ショートちゃん、もとい、ゆいちゃんを見る。
ゆいちゃんもまた、真っ白な唇を結んで、マッチ棒を見つめている。
喉が、ごくり、と、動く。
ゆいちゃんは、マッチ棒を取った勢いで箱も拾い、横面に擦り付けた。
黄色い薔薇の花びらに、揺れる火を近づける。
熱が、花の色を変えた。
瞬間。
ヤカンが沸騰したような、耳を刺す、けたたましい悲鳴。
猫の耳には強すぎる音。目眩がする。
でも、それは徐々に。
ゆっくりと消えていく。
薔薇が燃え尽きる。後には、焦げた臭いだけが残った。

「これで、いいですか」

ゆいちゃんは、ジャックにマッチ箱を突き返す。
さっきまで、おどおどしていた女の子とは思えなかった。

「結構」

ジャックはマッチ箱を受け取った指で、ローテーブルを示す。

「そこから好きな物を選んで」

テーブルの上には、既に、詩集が開かれてある。
女の子二人は、困惑している。
当たり前だ。いつもジャックは言葉が足りない。
仕方ない。猫の力を見せてやろう。
黒猫が、意味深に近くを通り過ぎて、ローテーブルに飛び乗る。そうして一声。愛らしい鳴き声が導きになって、二人はソファに座った。
いいね。あとは、そう。小瓶に目が向くように、匂いを嗅いでみたりして。
二人はすぐに、それらが呪いだと気が付く。
困惑ではない、複雑な、でも嬉しさが強い表情を見合わせて、二人で呪いの詩を選ぶ。
タイトルは──『口先だけの男』だ。

「あと対価も」

ジャックは本当に容赦ない。
きょうこちゃんが慌てて、封筒を差し出す。

「頂こう。結果はメディアで知るといい」

相手と対面するソファに座りながら、ジャックは煙を吹いた。

「ありがとうございました」

と、二人は出て行った。
疲れがどっと噴き出す。まるで、嵐のようだった。

「サク」

詩集を消す、ジャックの顔色は最悪だった。
今までだって不健康そうだったけど、今は真っ青で、今にも倒れそうだ。

「依頼は頼んだ。……少し休んでくる」

「わ、分かった。お大事に」

ジャックが、レジカウンターの奥に引っこんでいくのを見送る。
大丈夫だろうか。魔力が少ないのに、魔法を使ったせい?
もしそうなら、俺は──もう、修行なんて言っていられないのかもしれない。

四篇 法則の正体

猫のヒゲが痺れて、届け先を、俺に伝える。
冬の真夜中。
車通りも人通りも無いに等しいくらいに少なく、首輪と瓶が擦れる僅かな音すら大きく聞こえる。
アーケードの商店街も静まり返っていて、店は全部、シャッターが下りている。
怖い。

冷えた空気のせい?
街灯の蛍光灯が無機質に白いせい?
集る蛾が感電している音のせい?

違う。もっと、こう、本能的な予感だ。
目と鼻の先で、ペンキをぶちまけたような音をたてて、何かが投げ捨てられた。
何だ? 路地から?
蛍光灯が照らす。
物体から溢れる赤。
あれは何?
分からない。
形は人だけど、頭らしきとこには、髪も皮膚もない。二つ並んだ穴の下に、大きな穴が一つ、空いているだけだ。
それなのに、密閉瓶の蓋が勝手に開く。
あの物体が、届け先だと言うように。
金属を引きずる音が、どこかからする。
冷える。冷える。
寒さのせいじゃない。
危険だ。逃げなきゃ。でも、体が動かない。
路地から現れたのは──間違えようもない、個性的な服装。昼間に出会った、茉白ちゃんだ。


「あれぇ、クッキーくん」


毛が総毛立つ。
昼間と同じ声。
昼間と同じ女の子。
なのに、何だ。禍々しさの格が桁違いだ。
こっちに体を向けた茉白ちゃんは、引きずっていた斧を肩に担いだ。
真っ白で、巨大な斧。
ファンタジーでも、デカい魔物が持っていそうな武器を、細い女の子が、楽々と担いでいる。

「サクサククッキ〜」

あはは、と、人形みたいに彼女は笑う。
白い顔に、返り血を浴びて。

「昼間に会ったよね。茉白と」

茉白?
彼女の一人称は『茉白ちゃん』……いや、茉白ちゃん『たち』だった。
まさか。


「びこくんね」


我に返る。茉白ちゃんの顔をした謎の人物が、すぐ目の前に立っていた。

「嘘は嫌いなんだ」

白い手が、ぬっと伸びてきた。
視界が塞がれた!
痛い痛い痛い!
どうなってる?!
内側から何かを引っ張り出される!
コンクリートに、瓶が落ちる。
呪いの瓶と密閉瓶。それと、クロの赤い首輪。

「な、なんで」

地面についた手が──猫の手じゃなくなっている。人間の、俺の手だ。

「そっちの方がずっといいね」

走ってもいないのに、酸素が足りない。
とりあえず、落とした三つを手のひらに掴む。

「それ」

厚底靴のつま先に、赤黒い液体がついている。

「おまじない。ううん。おまじないより強烈だね。そのピアスからも、同じ匂いがする」

うるさいうるさい。息するな。心臓止まれ。見透かされる。

「ねぇ、クッキーくん」

斧の頭が突き立てられて、コンクリートに亀裂が走る。

「びこくんたちと一緒に逃げちゃおうよ」

亀裂上に破片が浮いている。
そっと手の中に隠して、引っ掻くと、少し動く。
光明ってやつか。
取れた破片を、隙をついてぶつければ、さすがの化け物も怯むだろう。そうであれ。

「に、逃げる?」

バレないように、会話を続ける。

「だって、びこくんたちとクッキーくんが出会ったのは、運命だ。そう思うよね?」

びこくんは、俺の前にしゃがむ。
揃えた両膝に、肘をついて。

「茉白は駒鳥に追われてる。クッキーくんは魔女にもだ。びこくんが二人を守ってあげるよ。びこくんは強いんだ」

「こ、駒鳥に追われてる?」

「茉白は家出したんだ。茉白は駒鳥じゃなくて、魔女になりたいから。でも、それって駒鳥には裏切りだ」

頭を振る。

「お、俺には、ジャックがいる」

「もちろん。悪魔くんも一緒だよ」

「え?」

「茉白も、クッキーくんも、悪魔くんも、みーんな、びこくんが守ってあげる。だからさ、びこくんを悪魔くんに会わせてよ」

おかしい。
ジャックを悪魔だと疑っているのは、ベティとキティだ。魔女でもない茉白ちゃん、いや、びこくんが知っているはずがない。
あの二人と繋がっていなければ──。
笑える。逃げる気も守る気もないじゃないか。

「嘘つきは」

剥がれた破片を掴む。


「お前だ!」

五篇 決意

横面に向かって、思いっきり、振り抜く。
固まりを握った拳に衝撃はなかった。でも、びこくんは、悲鳴をあげて、後ずさった。
拳を見る。
手からはみ出した破片の先端に、血がついていた。
びこくんを見る。
彼女? は、裂けた両の口の端から、血を垂らしている。


「面白いじゃん、クッキーくん……」


昏い微笑みに、口の端が耳まで裂ける。
行き場をなくした皮膚が寄り集まって、唇の左右に形作るのは、芋虫みたいな顎だった。
驚愕。
あまりのショックに、悲鳴が喉の奥で震えた。
強烈な腐臭と共に噴出された白い何かが、俺に向かって飛んでくる!
足、足が、腰が抜けて、動かない。
どうしよう、死んだ。
俺、死んでしまった!
閉じた目の暗闇に、金木犀の香りがした。

「ジャック!」

ジャケットを翻す、彼の背中が頼もしい。

「何しに来たのかなぁ、悪魔くん」

びこくんは、顎から垂れる糸を引き抜いて捨てる。
相対したジャックは、糸を受けて、焼けた左手の動作を確認している。
白煙の中で、爛れた皮膚が再生するのを、俺は見た。

「協会と繋がっている。……そういうことだね、君ら二人は」

びこくんの表情が変わる。

「二人?」

異様に長い舌で酸性質の糸を掬いとって、怪しく笑う。

「そうだよ、びこくんと茉白は二人なんだ」

芋虫の顎が皮膚に戻り、皮膚は口の避けた部分を塞ぐ。
茉白ちゃんの顔で、びこくんは、ジャックを指差す。

「お前、嘘つきだけど悪くないね」

ジャックの顔は、こっちからじゃよく見えない。
ピアスが揺れた。

「頼みがある」

「ご褒美。それと内容による」

「協会への伝言だ。ご褒美は──」

俺を一瞥して、ジャックは肩をすくめた。

「サクと週末デート権はどう?」

勘弁してくれ。
ただの化け物ならまだしも、びこくんは虫の化け物だ。
虫はダメ。無理すぎる。


「あぁ〜、いいですね。素晴らしいです!」


声の質が変わった。
八重歯を見せて微笑むのは、昼間に見た茉白ちゃんで、ついさっきまでの、びこくんとは、明らかに違う。
口調?
雰囲気?
いや、死の予感がしないんだ。

「それで、茉白ちゃんは何とお伝えしたらいいです?」

ジャックが横目で俺を見下ろす。
黄色い瞳は、真夜中でも健在していて、腰を抜かす無様な俺が映っている。


「彼は僕の黒猫だ。僕の自由に扱える。と」


背中を、冷や汗が通り過ぎた。

「分かりました。一言一句、間違いなくお伝えします」

茉白ちゃんは頷いた。
スマホを下敷きに書いたメモを折ったかと思うと、俺を見る。

「間宮さん」

紙飛行機になったメモが、俺の足元に落ちてきた。書いたのは、ジャックの伝言じゃないのか?

「それ、茉白ちゃんの連絡先です」

広げると、確かに、丸文字で連絡先が書いてあった。いや、不真面目だな。

「週末にお会いしましょうね」

茉白ちゃんは手を振って、踵を返すと、出てきた路地に入って行った。
あぁ、行った。よかった。
俺は、メモをジーパンのポケットに捩じこんで、ようやく立ち上がった。

「ジャック」

ありがとう、が、引っ込む。

「鼻血でてる!」

「ん? あぁ」

ジャックは慌てる様子もなく、鼻血を手で拭う。
真っ赤な血。悪魔だったら赤くないはずだ。

「今日の魔力が切れた。歩いて帰ろう」

俺の手の中で、小瓶が所在なさげにしている。

「ごめん。今日、出来なかった」

「いいさ。仕方ない」

ジャックは、血で汚れた指で火のついたタバコを挟む。

「早く箱を開けられるようになるといいね」

「うん……」

つい、目的を見失う。
呪いを配達しているのは、人の死に慣れて、父親を殺すための修行だ。
パンドラの箱を開けて、ジャックに魔力を渡すための。
そう。グズグズしていられない。今までみたいに、逃げ続けるわけにはいかないんだ。

新約マザーグース

読んでいただき感謝です。今後もご愛読よろしくお願いします。

新約マザーグース

小説家志望のフリーター、間宮朔は、行方不明になっていた飼い猫に導かれて、不思議な雑貨屋『鵞鳥の巣』に辿り着く。そこには『マザーグース』を通り名に持つ青年がいた。彼は朔に「新しい世界の経典を書いて欲しい」と、持ちかける──。夢と現実。嘘と真実。愛と呪い。その間で開かれる、パンドラの箱の中身とは。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-06-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 一章/一篇 ストレイ・キャット
  2. 二篇 彼は誰?
  3. 三篇 三角形を押して
  4. 四篇 通り名
  5. 五篇 ハンプティダンプティの報せ
  6. 六篇 詠う者
  7. 二章/一篇 変身
  8. 二篇 修行をはじめよう
  9. 三篇 ジャック
  10. 三章/一篇 来訪者
  11. 二篇 ベティ&キティPart1
  12. 三篇 ベティ&キティPart2
  13. 四篇 愛は呪い
  14. 四章/一篇 彼女は何で出来てるの?
  15. 二篇 キャットファイト
  16. 三篇 黄色い薔薇
  17. 四篇 法則の正体
  18. 五篇 決意