ヒュプノフィリア

神崎あかり

 人類の失敗した科学はたくさんある。爆弾、核兵器、毒ガス、もっと遡れば鉄砲……そして最近の科学は何だと思う?
 そう、明晰夢研究だ。夢というものについてだからこそ知っておかなければならない。
 そう雄弁に語りながらチョークで黒板を叩きつける音に、舟を漕いでいた僕はぱちんと弾かれるように目を開いた。
 隣に座っている君が頬杖をつき、こちらを向いてクスクスと笑った。笑わなくたって良いじゃないか。
 空っぽになった弁当箱の入った袋から温い保冷剤を出してほっぺたに当て、眠気を飛ばそうと試みる。君が大きな欠伸をしたのにつられて僕も大きな欠伸をした。
「じゃあ内藤、次はお前に読んでもらおうか」
 そんなところを見られていたらしい、周りから囁くような笑い声が聞こえてきた。
 背筋を正し、教科書をしっかりと握る。眠気に耐えながら、指示された文章を読み上げ始めたのだった。

 白く透き通った肌に、はっきりした顔立ち。それに反してときどきついている寝癖に、いつも皺だらけのシャツ。君はどことなく勿体無い人だった。僕がそれを指摘すると、君はあどけなくはにかむのだった。まぁまぁ、というのが口癖だ。
 君は誰かの悪口を言ったり誰かの恋路を語ったりはしない。ふっ、と浮かび上がった日常の些事を話しては、昼間の白い光に吸い込まれそうな笑顔を浮かべるのだった。
「ねぇ、明晰夢研究って信じる?」
 今日の話題は明晰夢らしい。確かに今日の先生の剣幕には何かがあったようにも思える。
「人類の失敗ってのは言いすぎじゃない? でも良いよね、好きな夢を見られるようになるんだから」
「だよねぇ。内藤は夢とか見るの?」
「全然見ないね。ここ最近は全く見ない」
「ふぅん」
 話に着地点は無い。逆にそっちは、と尋ねれば、君にしては珍しく難しそうな顔をした。君はいつも飄々と笑っているように思ったからだ。
 それからまたぱっ、と明るい顔になって、辺りに花を散らしながら、僕は見るよぉ、と呑気に答えた。
「不思議な夢から怖い夢まで見るよ。先が気になっちゃって二度寝しちゃったりするんだよねぇ」
「まさか毎日の遅刻の理由がそれだとか言わないよな?」
 えへへ、と君はまたはにかんだ。えへへじゃないだろ、と僕が返しても、そうだねぇ、とはっきりしない返答が来るだけだ。
 君の遅刻癖を学年の先生皆が知っている。いくら説教をしても改善しなくて、ついにはお手上げになったとのことだ。来たいときに来て、居眠りばかりをして、皆と帰っていく。
「あんまり遅刻すると単位落としちゃうからね」
「高校でそんなことあるかなぁ」
「あるんだよ。君と進級できなかったら僕も悲しいんだから、ちゃんと勉強するんだよ」
 大丈夫だよ、と言う君のことは信用できない。もうこの学年でもヒュプノフィリアで留年が決まっている学生がいるというからだ。君がヒュプノフィリアというわけじゃないけれど。
「今度家まで起こしに行こうか?」
「プライベートな空間に入るのは無しだよぉ」
「君が元気に起きて学校に来てくれるならそれで良いんだよ」
 口酸っぱく言っても、君にどれだけ届いているかは分からない。窓から吹く風が君の髪を揺らすたび、細い君が攫われてしまうのではないかと思う。ふわり、吹いた風が君を奪って、君は青空を気持ち良さそうに飛んでいくのだ。
 君が睡眠に逃げてしまうとしたら、僕はどうしたらいいか分からない。そんなことは無いようにしてほしいと思う。
 そんなことを考えていたら、チャイムが鳴ってしまった。君は大きな欠伸をして、さぁて寝るぞぉ、なんて居眠りの準備を始めた。いざというときは消しゴムでも投げて起こしてやろう──僕は教科書を開き、隣の席ですやすやと眠る君を見ていた。

 なんとなく胃がもたれるような気分になって目を覚ます。悪夢でも見たのだろう、だが目覚めた瞬間にぱっと忘れてしまった。
 体を起こしても、怠い。熱でもあるんじゃないかと思うくらいで、体が鉛になったようだ。それでも朝はやってくる。学校には行かねばならない。
 一応隣の部屋の扉をノックする。返事は無い。扉を開けても、一人の幼い娘が枕を抱きしめて眠っているだけだ。カーテンから浅緑色の光が差し込んでも、君の顔が照らされても、君はきゅっと目を細めて眩しそうにするだけだ。薄いまぶたが開くことは無い。妹の部屋の中は朝から夜までいつもこうで、時間が止まっているみたいだ。
 いつものことだと分かっていても、ついつい溜め息が出る。僕が頑張って学校に行っている間、妹はこうして眠りの世界に浸っている。ヒュプノフィリアとはそういう心の病気だ。
 理由は分からない。妹が話してくれないからだ。起きては眠り、起きては眠り、眠れなくても目を瞑り続ける。そして延々と浅い眠りの中で、明晰夢を見続ける。
 お母さんは泣いていたし、お父さんは妹を叱りつけたのだけど、妹は口を開くこと無く、結局ベッドに逃げてしまった。お父さんもそのうち叱るのをやめてしまった。
「お前は良いよな」
 ふと、そう呟いてしまう。僕も自由に夢を見られるならば、夢の世界へ逃げたりもしたのだろうか。
 重たい体を動かして制服を着る。ずるりずるりと不器用に体が動くたび、起きて生きることの難しさを思い知らされる。だからこそ妹を羨んでしまうのかもしれない。
 今日もヒュプノフィリアに背を向けた人々が鉄塊に詰め込まれていく。そのうちの一人が僕だ。覚醒の世界は不自由で重たくて、何かに引っ張られているよう。黒金の溶けた金属が張り付いて離れないかのよう。人間は空を飛べるようにはなっていないのだ。

 最初は二日に一回だった君の遅刻癖が、やがては欠席へと変わっていった。君は学校に来なくなった。
 いよいよ先生たちも血相を変えた。怠学となればそれはグループの問題になる。いじめも非行もグループダイナミクスの中では共同体の歪みで失敗だ。
 君が叱られているのをこっそり盗み聞きしたことがある。君は口を噤んで何も言わなかった。ただ怠けていることを受け止め座っているだけだったのだ。可哀想になったのか、生徒指導の先生は君にカウンセリングを受けるように指示した。
 教室から出てきた君に、僕は急いで走り寄る。がっ、と胸ぐらを掴んで、いつものように話そうとして──僕は固まった。
 ほんの一瞬だけ、見えてしまったのだ。君が酷く虚ろな顔をしているのが。
 僕は手を離すと、へらっと笑う君を見つめてしばし黙り込んだ。それでも言わなくてはならないと思って、当初の予定どおり詰め寄る。
「あんなに言われて、言い返さないのかよ」
 君はきょとんと目を丸くした。まるでそんなこと頭に無かったかのようだ。君がそんなに馬鹿なはずが無い、そう思っていたのに。君は、あー、と唸ると、そうだね、と言って微笑んだ。
「次はそうするかも」
「君はどうして学校に来ないんだ? 僕に話してくれたって良いだろう、だって僕たちは……親友、だから……」
「最近ねぇ、寝るのが楽しいんだぁ」
 突然君はそんなことを言った。唖然とする僕に、君は頭を掻いて照れ臭そうに続けた。
「いくらでも寝続けられるってくらいに寝てるんだぁ。好きな夢を見られるから、夢が面白いんだよ。そしたら、学校に来るのヤになっちゃって」
「馬鹿なこと言うなよ、ヒュプノフィリアじゃないか」
「そういう病気、あるよねぇ。そうなのかもしれない」
「じゃあなんで、そんな病気に……」
 僕の質問に君は答えなかった。さぁね、なんて軽く流して目を逸らした。
 どうして僕にも教えてくれないんだ? 僕はこんなに君のことを気にしているのに。僕はこんなに君のことが好きなのに……
 心の中でどろり、黒い粘質の液体が湧き上がったような気がした。ソイツは僕の理性を呑み込んで、僕に大声を出させた。
「僕は、君のことが心配なんだ!」
「……心配してくれてありがとぉ」
 はっ、と我に返る。君は申し訳無さそうに笑っていた。皺だらけのシャツによれよれのズボン。僕がなんとかしっかりさせたリボン。それらがなんとなく、胸をざわつかせるような感覚を覚えた。
「いつもいつも。ごめんねぇ、内藤」
「なんで美里が謝るんだよ。今の、悪いのは僕のほうだ」
「なんか、謝らなきゃいけないな、って思うんだ」
 まるでフラれたみたいだ。僕は呆然となって君を見つめた。君は取り繕ったような笑みを浮かべると、帰ろっかぁ、といつもどおりに声をかけてきた。
 僕は恥ずかしくなって、俯きがちで君の後ろをついていった。よく見れば、君の細かった四肢はさらに細くなっていたし、振り返る君の笑顔には力が無くなっているような気がした。
 どうして気がつかなかったのだろう。君のことが好きだったなら、一番に気がついてやるべきだったのに。それが悲しくて、虚しくて、僕はこれ以上君を責めることができなかった。
 君は普段どおり他愛も無い話を始めた。今日見た夢がどうだったとか、偶然見たテレビがどうだったとか。僕はそれでも怖くて、君の顔を見ることができなかった。

 君と僕は、駅にいた。線路は海水で満たされていて、辺りには何も無かった。それでも駅だと分かったのは、看板とプラットホームのおかげだ。青空は無限に広がり、入道雲がもくもくと上がっている。
 これが夢だと気がついたのは本当に偶然で、座ったまま動けないのを自覚したからだった。その瞬間からは、手を自由に動かすことも、足を自由に動かすこともできるようになった。
 君は変な話をしていた。明晰夢になるその前までは、理屈が通った話だと思って聞いていた。僕が話を遮ると、君は目を見開いて口を閉じた。
「美里。これは夢なんだ」
 潮風が吹いて、微かに体が冷える。君の姿が塵になって飛ばされてしまわないようにと、必死で君の姿を想像する。
 僕はそんな君に近づいて、顔を見合わせた。君は一切抵抗しなかった。ごめんねぇ、と僕に謝ることも無い。そう気がついたとき、僕の中で留めていたどろどろがまた吹き上がった。
「美里。僕は君のことが好きなんだよ」
 君は何も言わない。何を言うかなんて想像がつかない。君のことを、粘着質の黒い波が呑み込んでいく。
 固まった君にゆっくりと顔を近づけ、口付けをしたそのとき──目が覚めた。時刻は十二時を回っていた。唇には何の感覚も残っていなかった。開いたカーテンから、眩しく白い光が僕を叩きつける。
 これが明晰夢かと、汗をかいた手を見つめた。先が見たいと思って、また目を閉じる。そうしたとき、僕がヒュプノフィリアと同じことをしていることに気がついた。
 休日とはいえ遅い目覚めに、下の階で過ごしていた両親が顔を顰める。二人はいつもこうだ、妹のことをサボっているだなんて思うような人だから。僕もそんな親に似てしまったのだ。そんな二人にも話しかけようと思うほど、今日の自分は違っていた。
「あのさ。七海がヒュプノフィリアになったのって、なんでなの」
 両親は驚いたような顔をした。それもそうだ、僕から妹の話をすることはまず滅多に無いからだ。僕は妹のことを好きでもないし、嫌いでもない。羨むくらいには関心を持つけれど、妬まないほどには無関心だ。
 口を開いたのは母のほうだった。ヒュプノフィリアと説明されたときには酷くヒステリックになっていたが、今はもう放任主義に走っている。吐き捨てるようにこう言った──何も知らないの、と。何も教えてないもの、と。
「ヒュプノフィリアっていうのは、鬱病の一種でさ。治癒困難な鬱病って言われてるわけさ」
 そう言う母の顔からは一切の悲しみを感じ取れない。もう諦めている、といったところか。父も続けて、無感情に言った。
「鬱病になった理由は分からんがね」
 僕はそれを聞いて戦慄した。鬱病になった理由を「分からない」と一蹴した二人にもだが、君のことを思い出したことが理由だ。
 君が、鬱病? あの、清々しく笑っていた君が、何か思い詰めていたのか?
 何も無いのを装って、僕は足早に自分の部屋に戻る。息を整えて、一人で考え込み始めた。しばらくベッドの上でぐるぐると寝返りを打っていたが、眠れそうにもない。君のように自在には眠れない。
 そうして無為に時が過ぎていくのを、胃が軋むような罪悪感を抱えて過ごしていた。

 チャイムが鳴る。談笑は徐々に鎮まり、先生が入ってくる。出席をとり、授業が始まっていく。
 そこで君の名前が呼ばれることは無くなって、そろそろ三ヶ月が過ぎる。
 アルバイト代が出た今日という日に、僕は君に会いに行こうと決めていた。住所は君の家に遊びに行ったことがあるから覚えている。君に会うことだけを考えていると、時計の針は凄まじく速く進み、あっという間に放課後になった。
 君の家に向かうまで、電車という鉄塊を待っている間は、まるで夢に見たような光景だった。海水では満ちていないが、無限に続く青空と白い雲を見るたびに汗を拭ったものだ。
 あのとき、僕は君にキスをした。今となっては、少し汗ばんだような匂いがした気がする。思い出すだけで心臓が跳ね回るほど痛い。
 電車に乗ってる間、僕は「無」だった。皆がしているようにスマートフォンにしゃぶりついてはいなかったし、眠りの世界で遊んでもいなかった。ただリュックを握りしめ、遠くの景色が過ぎていくのを眺めていた。
 君の家へ向かう道で、近づくにつれて足が速くなる。君に会いたい。今すぐにでも君に会いたい。そして話がしたい。誰もから忘れ去られつつある君のことを、僕だけが覚えている。
 その足取りはまさに、夢を見ているように軽かった。
 鬱蒼とした住宅街の一角に、君の家がある。チャイムを鳴らしてみると、母親らしき人が応答した。
「内藤七瀬です。美里の友達です」
 母親は少しして扉を開けてくれた。美里に会いに来てくれたの、ありがとう、と言う顔は窶れている。昔の僕の母みたいだ。恭しく頭を下げて、階段を上っていく。
 ぴったりと閉じられた扉の向こうに、君がいる。コンコン、と軽くノックをしても、返事は無い。ドアノブを捻ったとき、自分の鼓動の大きさに気がついた。ドッ、ドッ、と心臓が叩かれるような気分だ。それでも勇気を出して、扉を開けた。
 夕暮れの茜が差し込むそこには、綺麗とはとても言えない部屋が広がっていた。輪っかになった延長コードがドアノブに絡み付いている。部屋の床は服で埋め尽くされている。ゴミ箱に入り切らなくなったゴミはたくさんの袋に分けられていた。それでも足りなくて、床には薬のゴミが落ちていた。
 心臓の音がすっ、と止んだような気がした。
 僕はそれらを掻き分けて、上着が何枚も掛けられた椅子に座った。汚い部屋とは反対に、君は綺麗なベッドですやすやと寝息を立てていた。
「久しぶり、美里」
 返り事は無い。
「あの日からずっと夢を見ないよ、僕は」
 君は隔絶された世界で、荊姫のように眠っていた。まるで王子様のキスを待っているかのようだった。起き上がってまた、おはよぉ、と言ってくれるのをしばし期待して、その期待は静かな寝息に無惨に打ち壊された。
 君は夢の中で何をしているのだろう。明晰夢をどうして見ようと思ったのだろう。君はきっと必死になって明晰夢研究を漁ったのだ。そうして明晰夢を自在に見られるヒュプノフィリアたちに出会ったのだ。そこに僕が入り込む余地は無かった。
 僕はそっと立ち上がり、君の近くへと寄った。夢の中でしたように、ゆっくりと顔を近づけていく。彼の寝息が唇に触れる。僕はそれを塞ぐようにして、君に唇を寄せた。
 長い接吻だった。唇を離しても、君のまぶたは震えることも無く、君が王子様を見つめることも無かった。覚醒の世界という仄暗い絶望の幕が垂れ下がって、僕をすっぽりと覆い隠していった。
「……ごめんな、美里。気がついてあげられなくて」
 僕は椅子に戻り、眠りこくった君を見つめている。部屋に刺す茜が柔らかい青へと変わるまで。君が愛した夜の世界が訪れるまで。
 王子様のいない荊姫の城からは、君の寝息だけが聞こえてくるのだった。

ヒュプノフィリア

ヒュプノフィリア

眠りに愛される病・ヒュプノフィリア。人々は明晰夢を求めて眠りにつく。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-06-12

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