異風の儚1️⃣
異風の儚 1️⃣ 著者不詳
≪禁忌に抗う季刊誌『地下文学』より転載(不定期)≫
1️⃣ 鯉子
一九三八年の盛夏。
北国のある大滝のほとりの、一握りばかりの集落である。
滝壺の縁の洗い場で、赤い半襦袢に、赤い腰巻きの豊満な女が洗濯をしている。
すると、矢庭に、水面に顔を出した男が長い息を吐くと、二かき三かきして、縁の岩に手をかけた。
同時に、竹槍が抜き出て、先端に大きな鰻が刺さっている。
重い乳房を揺らして歩み寄った女が、「凄く大きいこと」と、素早く外して、魚籠に放り込んだ。
中には、二匹の鯉と鯰がいる。
「たまげるほどの鰻を、取り逃がしてしまったんだ。悔しくてならん」
「今日の獲物だって、みんな大物だもの。夕餉の菜には充分だわ」
「気苦しいばかりの猛暑が続いてるからな。精をつけないとな」
「去年に続いての日照りで、大変な騒ぎだもの」
「年端もいかない童までが身売りする始末だ。憤激した若い軍人が反乱を起こしたしな。首謀者の一人は花田花の三男坊らしい」
「知ってます」と、男の眼前に、漆黒の陰毛を曝した桃色の太股が、淫蕩に覗いている。
「やったのか?」
「お義父さんったら。やだわ」
「お腹空いたでしょ?山鳥が、もう、焼ける頃合いだわ」
男が気合いを引き連れて、岸に上がった。褌ひとつの頑健な裸だ。
石を組んだ即席のカマドに、肥えた二羽の山鳥が脂を滴らせている。
男がウィスキーを、喉をならして飲み始めた。
「腕っこきの漁師がいるから、ここは極楽だわ」「川も山も、何分にも守り神様の賜物だ」
「米がとれなくても、昔から食べてきたのは粟や稗なんだし。この通り。大滝神さまの恵みは無尽蔵だもの」
「そういう訳だ」
石工の生業で鍛えぬかれた、男の赤銅色の身体に、ただ一つ身に付けた赤い褌のたるみから、陰嚢が覗いている。
視線を湿らせた女が惚れ惚れと、「相変わらずに、立派な身体だこと。幾つになりました?」
「四六だ」
「到底見えないわ」
「お前は?」
「二七を越えたわ」
「すると、あの婿は二六か。あんな奴まで徴兵するとは。御門も雲行きがおかしいな」
「また、あの人の事を…」「違いないだろ?何から何まで半人前だ」
「今はお国の人柱ですよ」「その国というのが、嫌いなんだ」
「生きて帰れるかどうか?」
「あんな男でも不憫なのか?」
目を移した女が、「山鳥が焼けましたよ」と、話題を混濁させると、男がかぶりついて、ウィスキーで流し込んだ。
(続く)
異風の儚1️⃣