名前も知らない【13-14】

古瀬

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13-1

13-1

 彼女の部屋のリビングには、一枚の絵が飾られている。
 暗い部屋で抱き合う、男女の絵だ。ふたりとも頭部がターバンのような白い布に覆われていて、顔は見えない。
 部屋には日差しがわずかに斜めに差し込んでいて、着衣のまま褥の上で重なっているシルエットがかろうじてつかめる程度だ。行為の中にあるようにも見えるけれど、肌が全く露出していないせいで官能的な雰囲気はない。ほの暗さと、何とも言えない悲しみを感じさせる。
 男女どちらが上になっているのかもわからない、ただ細身の身体が重なり合っている静かなその一枚に千紘はインターネットで出会ったと言っていた。
 あまりに好きな絵だったからと、どうにかして作者を知りたいと思ったらしい。ファイルの名前や画像検索から何とか辿りついた作者のアカウントには、アフマドという名前の青年の写真が載っていた。趣味で絵を描いているという、レバノン系アメリカ人だった。
 思い切ってSNSでフォロー申請をしてから、翻訳アプリを駆使してメッセージを送ったと言っていた。あなたの絵をとても好きになったからプリントして部屋に飾りたいと思うんだけど、いいかな、と。彼は日本から届いた拙い英語のメッセージに歓喜して、もしそれが実現できたら部屋の写真を送ってくれと千紘に返信してくれたらしい。
 千紘はその画像のデータを(最も高画質なものを彼がダイレクトメッセージで送ってくれたと言っていた)USBに納めて、近所のカメラチェーンの店に持って行った。そしてA4サイズのキャンバスプリントを依頼したという。
 手元に届いてすぐに、彼女はその絵を部屋のソファ横にある、小さなカフェテーブルの上に飾った。スマートフォンでその周囲一帯を撮影して自らのアカウントに投稿し、アフマドに知らせた。
 とても素敵だ、という意味のコメントの後に、彼のアカウントに自らの住む家の窓辺の画像がアップロードされた。A4サイズの用紙に、千紘の部屋の画像がプリントされたものが貼り付けてあった。日本の友達の家に僕の絵が飾られたんだ、と絵文字つきで書かれていた。
 彼は現在シカゴのはずれに兄弟と住んでいて、塗装工の仕事をしているらしい。それ以来、たまに連絡をくれるという。海外でもニュースになるような事件や災害が国内で起きた後は、無事を確認するメッセージも届くと言っていた。

 ――なかなか、勇気あるね。
 どこかで購入したと思っていたそれを眺めながら告げると、彼女はいつものように答えた。そのままプリントして飾るの、気が引けて、と。そして椅子をくるりと回転させ、ひざを抱えた恰好で続けた。
 ――でも、きれいでしょ。ちょっと悲しくて、温かみもあって。
 ああ、と答えたはずだ。真夜中のマグノリアハイツで彼女のキータッチやマウスのクリック音を耳にしながら、ソファの肘掛けに頭を預けてぼうっとそれを眺めているのが僕も好きだった。間接照明のほのかな灯りと、小さな音で流れるAMラジオ、仕事をする千紘のたてる、控えめなたくさんの操作音。
 あまり口数が多くない彼女は、音量を絞った状態で深夜ラジオをかけっぱなしにしていた。時折その時間ならではの下品な投稿にこらえきれずに下を向いて、くく、と笑いをこらえていることもあったし、小さな声でやだ、とあきれていることもあった。

 そんなリビングからふたりで寝室に移動したのは、昨夜の日付が変わる直前だっただろうか。
 隣人らしき人物が慌ただしく玄関のドアを閉め、共用廊下を小走りで移動しているような音で目覚めた。寝坊でもしたのだろうか、焦った様子で鍵を閉める音も周囲にまでよく響いていた。
 僕の胸のあたりにぴたりと身体をつけていた千紘が、同じようにもぞもぞと動き出した。
 何時になるの、という声が、胸のあたりで聞こえる。眠っているあいだに身体を丸めてしまうらしく、朝の彼女はよく布団に埋もれている。
「ええと――七時か、まだ」
 言いながら、彼女の後頭部に右手を廻した。
 しっとりとした髪の感触が、手のひらを通じて伝わってくる。

 この頃は、少し忙しかったらしい。
 一週間ぶりに会った昨日の千紘は、小さく元気がないように見えた。何かあったのと訊けば、つい仕事に熱中してしまったと言う。
 僕は続けて、食生活と睡眠時間についていつもよりやや強めに尋ねた。彼女は若干おどおどとしたような様子になって、ちゃんと食べてたし寝てたよ、と誤魔化すみたいに言った。僕の彼女は、本当に本当に嘘がつけない。
 どうせ軽いものばっかりで済ませてたんだろ、栄養が足りてないんだと言い聞かせて市内のうなぎ屋に連れて行った。放っておくと、この人はひどく繊細に生活してしまうのだ。

 焼杉で作られたうなぎ屋の椅子に向かい合って座り、近況を報告しあう。僕は鎌田さんとのあいだにあった先日の出来事を彼女に向かって説明した。
 千紘はうんうんといつものように静かに頷いていたけれど、鎌田さんの奥様の名前が出てきたあたりで目を大きくして固まってしまった。そんな、そんなことって本当にあるの、と、目をぱちぱちとさせていた。
 
 ――見せてやりたいよ。俺、変態みたいだったもん。

 湯呑をテーブルに置きながら告げると、彼女は小さく噴きだした。変態、という言葉がおかしかったらしい。それわたしもちょっと読みたい、と真面目な表情で言うので、鍵がかかったアカウントだから見れないよと伝えた。
 奥様方にももてるんだね、とそっけないような言い方をして千紘は僕を見た。何もないよとまた繰り返したが、ふうんと返ってくるだけだった。

 来訪の数日後、鎌田夫妻は再びエディフィカンテを訪れた。
 そしてあれは奥様の一種の創作物であり、日常の憂さを晴らすために自ら用意したアカウントであることを喜和子先生に説明してきたという。一種のイメトレというのか、書いている内容がリアルであればあるほど現実がそうなっていく、という話をアイドルの追っかけ仲間から聞いたのも熱が入ったひとつの理由らしい(僕はその一言により恐ろしいものを感じたのだが)。盗撮の件に関しては、おまじないみたいなもので正直そこまで重く考えていなかった、と。
 厳重注意という形で話は終わったけれど、鎌田さんが館内でしたパフォーマンスによって僕と鎌田由利子さんの不倫疑惑はあれからも父兄の中で噂話として生きていた。おどおどとしていたほうが長引くと思うから何もなかったようにして、と喜和子先生から言われていたものの、おそらくこれが原因と思われるようなタイミングで新規入会したばかりの生徒が三人辞めていった。雄大くんも、ほとぼりが冷めるまではしばらく休ませるつもりらしい。それを聞いたときは、さすがに胸が痛んだ。
 麻子は毎日ネットを監視しているという。レビューサイトや地域の掲示板、SNSなんかをくまなくチェックしているらしい。名誉棄損なんて事態になったら黙ってないから、と息巻いている。
 発表会前のエディフィカンテは、よりによってこのタイミングでと思えるようなトラブルで忙しさを極めていた。


「仕事、行きたくねえ」
 千紘の髪を弄びながらぼやく。頭頂部に顎を乗せると、彼女のシャンプーの甘い香りがふわっと立ち上った。
 ベッドの中に潜っていた彼女が、顔を上げて僕のほうを見る。面倒ごとに巻き込まれてかわいそうに、という顔だ。針のむしろとまでは言わないものの、この頃は送迎や付き添いのために館内を歩いている生徒の母親からの視線が痛い。ああこの人か、というような、ああは言っても本当はそういう仲だったのではないか、と疑うような視線。同年代の男性講師ふたりにも、同情的に励まされてしまった。

「気にしないだけって言っても、それはそれで面倒だね」
「結局皆好きなんだよ、こういう話」
 口にしすぎたらげんなりした気持ちもふくらんでしまいそうだ。頭の中でやめやめ、と打ち切る。
 まだ埋もれている彼女の頭を出すように、布団を剥いだ。息苦しくないの、と尋ねると、隙間から空気が入るから、と簡潔に彼女は答えた。やわらかくて、温まっていて、寝起きでどこかとろんとしている。今日は午後まで仕事はしないで休んで、と昨日寝る前に約束させたのだ。過保護だと笑われながら。
 起きようか、と言い合う。
 亮太と寝ると一晩中温かくていい、と千紘は静かに上機嫌みたいだった。

13-2

 医療と健康、という棚の前をしばらくうろついて、これだろうと思えた書籍を一冊引っ張り出してみる。近所にある大学に合わせてなのか、理工系の書籍が多い書店だ。近くにあるスポットライトが手元をやわらかく照らす。
 最先端治療とケア、と副題に書かれている。イラストが多く、患者本人や家族向けの一冊だということがわかる。ぱらぱらとひらいてみたものの、内容はほとんどスマートフォンで調べてすでに知っていることだった。
 棚に本を戻して、ひとつ息をついた。背表紙に書かれていた監修者の名前が同じだったことから、そういえば最近小森の話を聞かないな、と思う。

 父の生活は、昨年の今頃と比べて大きく変化したらしい。
 数年前に食道がんを経験したという二番目の兄が、気を揉んであれこれと勤務の形を整えてくれたと言っていた。出勤日数が減り、この頃は自宅の書斎で仕事をしている日も多い。病院には、母が付き添っている。
 地元に戻るたびに、父と顔を合わせてはいる。母には難しい力仕事や実家の雑用を代わりに行うこともある。親戚や友達、友達の父親が同じ状況になっても同じようにするだろう。できることには、手を貸している。
 でもそれだけだ、と行くたびに思う。肉親だというのに、父と他の知り合いとの違いや境というものがあまりない気がする。そのくらい遠い存在になってしまったような気もするし、わずかに残っている情のようなものを駆使して接しているような気分になることもある。
 諦めを幾重にも重ねていってすっかり期待がなくなったところに、一掴みくらい残っていたもの。彼のためにとっておいたというわけでもない、僕自身の人格の底に敷かれた、一種の憐れみのようなものだった。
 
 地元に帰るたびに普段よりも浮き沈みが強くなる僕に、千紘は何も言わなかった。
 わたし側の事情をあれだけ簡単に汲み取れるってことは、亮太にだって色々なことを考えなきゃいけないようなことがあったってことでしょ。そう言って、いつも通りにしている。空気で伝わってしまうのかもしれない、僕の抱えていることも、何となく察しがついているようだった。

 ソファに座る彼女の膝に上半身を預けながら、ある日ぽつぽつと口をひらいていた。父との不和、病気、それから治療について。
 閉じているのが当たり前になっていたことを外に出してしまうのは、やはり抵抗があった。口調はぶっきらぼうになり、千紘の相槌によってやっと意味のある話として繋ぎ合わされるようになった。
 膝枕のかたちで、背中や肩に触れられながら父との関係を打ち明けた。言葉は何度も詰まり、彼女に聞かせたくなかった内容も、自分にできる最大の要約をして伝えた。千紘は僕の話をいつもより慎重な様子で聞いてくれた。
 僕が少しでも気落ちした素振りを見せると、彼女は途端に年上っぽくなってしまう。頑固に閉じた僕の姿勢をごく自然に崩し、そして甘やかしてくる。
 そんなにたやすくほどかないでくれ、と思いながらも、僕の中にある頑なさは彼女によってもっとも自然なかたちに戻されてしまう。

 変な感じなんだ、と告げた。
 何かもう、どうでもいい。扱いが面倒だし腹も立つんだけど、もう好きにやれよとも思うし、関心が持てない。全然知らないやつの、俺とは接点がない人生見てるみたいな気持ちにもなる。
 顔を合わせれば、まだそんなこと言ってんのかって思ったりもする。情けなくなることもある。でもそれも、地元を離れたら案外あっさり消えたりする。
 こんなことなかったんだよ、と言った僕の前髪のあたりを撫でながら、千紘は言った。

 ――ずっと終わらないと思っていたことなのに、終わりそうな気がする?

 ぽつんと一滴の水が落ちるような、静かな指摘だった。僕の感情を動かそうと思っていない、本当のことを探るような。
 そうかもしれない、と答えた。
 考えたこともなかった、ひとつの終わりを迎えようとしているのかもしれない、と。

 千紘は続けた。

 ――どんなに時間が経っても変わらないと思っていたことが、意外なところで終わったり変わったりすることもあるよね。
 ――あいつを許した、ってわけじゃないんだよ。和解したいとも思わないし。
 
 彼女はうん、と頷いた。
 そういうふうになるのは難しいし、しなきゃいけないわけでもないよ、とも。
 
 ――きっと、何をしても力を奪えない相手になったんだと思う。
 ――俺が?
 ――そう、お父さんにとって。

 そうかな、と言った。実感はまだなかった。
 終わらない憎しみを抱えて生きていくのだと、そう思っていた。頭の中で繰り返される父の声を突き放す毎日を、これからも続けていくのだと思い込んでいた。
 この気持ちを絞り出しきることなんてこと、到底できないと思っていた。
 拍子抜けと戸惑いと、何とも言えない怒りが頭の中を巡っていた。
  
 
『原悟史、嶋岡に続き結婚します!』
 スマホにそう届いたのを見て、思わず声が漏れていた。うわ、まじか。
 少し離れたところで私服のジャケットを羽織っていた麻子が、何かあったー? と訊いてくる。
「いや、地元の友達のひとりが結婚するって」
「えー、めでたいじゃん」
 春を待つ、という表現がぴったりの二月半ばだ。麻子に付き合えと言われ、終業後に彼女の馴染みのバルに出かけるところだった。麻子は、よく食べよく飲みよく踊る。ジャズダンスの基礎クラスを受け持っているけれど、ラテンの動きも得意で妙にさまになる。
「最近、余興で踊ってないな」
「いいよな、芸があるやつは」
 並んで建物の外に出る。先週と比べればわずかに和らいだ寒さのように感じるけれど、出勤時にはまだネックウォーマーが必要だ。

 原とは中学からの付き合いだ。
 中学から剣道ひと筋で、潔癖な雰囲気のある少年だった。今は館林にある携帯電話ショップの店員をしている。母方の実家が酪農をしていて、夏休みに何度かバイトをさせてもらったこともある。小森とはもっと幼い頃から仲が良かったらしい。
 同じ店で働いている女性と付き合っているのはちらと聞いたことがあったけれど、自分のことはあまり話さない男だ。その後のことは、知らないままだった。
 既読の数はすぐに五を超えた。夜までには全員が目にするだろう。

『原おめでとう 前言ってた、同じ店の人?』
 真っ先に質問をしたのは嶋岡だった。
『そう、三年経ったから』
 原の返答のあとに、嶋岡の次は原だったか、と小幡が続けた。地元に残っているひとりだ。自分から多くの話題を振ってくるような性格ではないけれど、反応は早い。
『式いつ?』
『ちょっと先だけど、来年の夏かな。場所川越なんで、全員来て』
 恥ずかしいけど、と笑っている絵文字がついた。

 通知のために連続して震えるスマートフォンを、ポケットの中に押し込む。同じように自分のものを取り出して何か調べていた麻子に、返信しちゃっていいよ、と間延びしたように言われる。あとでまとめて送るからいい、と答えた。

「いいなあ、結婚式」
 麻子が足でリズムを刻みながら言う。どこかぼんやりしたような口ぶりだった。
「結婚願望――」
「バリバリにあるよ」
 自らのスマートフォンに目を落としたまま、麻子は言った。エディフィカンテの裏口、スタッフ用の車が出入りする小さなガレージに僕達は立っていた。
「え、そうなの?」
「なんで皆意外そうに言うの? わたし普通に子供も欲しいんだけど」
 家庭的に見えないのかな、と麻子はひとりごちた。そういうわけじゃないけど、と慌てて答える。自由で身軽な雰囲気があるせいかもしれない。
 そろそろ行こう、と麻子が顔を上げた。仕事中はまとめている髪を下ろして、大ぶりのゴールドのピアスを両耳につけている。服は全身黒だ。

「男児をね、ふたりばかり育てたいんだよね」
 歩き出しながら、彼女は言った。
 男、と繰り返すと、そうと頷く。今時ちょっと珍しいな、と思った。第一子に女の子を希望する人が知り合いには多かったから。
「すごいやんちゃなのをすこぶるいい男に育てるのって、良くない?」
 いい男、という言葉がいいなと思った。麻子らしくて。
「まあ、まだ婚活する気ないけど。その前に経営とかも勉強しなきゃいけないし」
 やることがいっぱいだよ、と呟く。だから気晴らしは必要、とも。
 三十年ほど前、喜和子先生がひとりでフラメンコ教室を始めたのがエディフィカンテの起源らしい。次第に知り合いのダンサーが講師として加わって、今の形になったと言っていた。
 手伝ってよね、と肘で突かれる。促されたような気がして頷いたけれど、具体的なことはあまり頭に浮かばなかった。数年先の自分の未来ですら、実際のところうまく頭に描けない。
 いつもの店の自家製ソーセージをビール片手に頬張りながら、麻子は今日も言うのだろう。ホリーとはさあ、できたら友達として出会いたかったよね、仕事場じゃなくて、と。麻子ちゃん俺のこと好きすぎじゃない? と訊いても否定しないのは酒が入っているときだけだ。
 ――ぶっちゃけ、全然惚れてはない。でもホリーは話の通じ方がえぐいから、近くに居てもらわないと困る。
 僕には将来的な家族計画まであけすけに話す麻子は、実は他の講師陣には自分の話をほとんどしない。きびきびと面倒見のいい麻子姐さんではあるけれど。
 大通りの脇で、停まっていたバンがそろそろと動き出す。何らかの街宣活動をしていたらしい。後部座席で女性がふたり、のぼりのようなものをたたんでいるのが見える。
 色々思いを巡らせていたらしい麻子が、幸せになりたいー、とふざけてこぼした。

 
 帰り道、電車の中で外の景色を眺めながら、つい過去に戻っていた。
 高校時代から付き合っていた彼女に求婚したと嶋岡が連絡してきたのは、僕達が二十三を迎える年のことだった。僕達も知っているその相手からはすでに返事をもらっていて、これから親族顔合わせの日取りを決めるのだと言っていた。彼女の両親は嶋岡の人となりを良く知っていて、初めて挨拶に来た日からよくここまで頑張ったと言ってくれたらしい。
 初めて付き合った人とそのまま結婚まで漕ぎつけてしまった友人に、僕達はそれぞれ呆けたような気持ちで感想を言い合った。あいつらしいと言えばあいつらしいけど、なかなかできることじゃない、と。久しぶりに会った当人にそんなことを話した僕に向かって、嶋岡はどこかのんびりとしたような口調で答えた。俺はおまえ達みたいに鋭い性質じゃないからなあ。
 確かに、ぴりぴりとした気分で十代を過ごした僕や櫂谷とはやや異なる空気の中に嶋岡はいた。斜に構えた視線で周囲を見ていた僕達の皮肉を中和できるような何かを彼は持っていた。思うところはたくさんあったはずだけど、何となく彼は王道に近いようなところに常にいた気がする。大人を説得したかったら嶋岡を連れて行けば失敗がないと思うような、そういうものを彼は持っていた。
 
 ――俺の知ってる中で、一番優しいやつって堀井だと思うんだ。

 独身最後と囃し立てられながら地元の近くにある店で飲んだ時、嶋岡は僕に向かってそう言った。
 飲酒が解禁されてまだ三年、物珍しさで色々飲んでみたい時期を終えそれぞれの定番が何となくできた頃のことだ。彼は梅酒のロックで顔を赤くして、僕の隣で店の壁に寄りかかって座っていた。
 ぽろっとこぼれてしまったようなその一言に、僕は思わず眉を寄せていた。
 
 ――何、急に。
 ――なんだろ。俺かなり酔ってる?

 逆に質問しないでよ、と笑うと、彼は同じように気持ちよさげに短く笑った。
 そしてテーブルの上の焼き鳥が盛られた皿を自分のほうに引き寄せながら、でもやっぱりそう思う、と嶋岡は続けた。
 
 ――恭一はさ、揉めた相手に地獄に落ちろって本気で言えるんだよ。そんで実際にそいつがめちゃくちゃな目に遭っても、全然心動かないでしょ。

 言いながら、彼は焼き鳥の盛り合わせの中からつくねの串を引っ張り出している。
 櫂谷を下の名前で呼ぶのは、友人達の中でも昔から嶋岡だけだ。

 ――でも、堀井はそれができないだろ。

 あえて僕とは目を合わせずに告げられた、ごく控えめな指摘だった。
 酒によってつい出たことにしては思慮のある話し方だ、と思った。嶋岡にしかできないような。
 そうでもないよ、とも言えずに、手元のグラスに視線を落としていた。
 葛藤が多いのはおまえのほうだ、と言われたような気がした。櫂谷のような鋭さも、周囲の顔色を窺わずに自らを貫くような強さも僕にはない。嶋岡のような安定感も、人の中を落ち着いて渡れる術も、実は知らない。
 僕が答えに迷うことで生まれたわずかな沈黙の中に、少し離れたところで飲んでいた小森の声が響いた。原がからかったのだろう、むきになって何かを言い返している。早口で、大人げない物言いだ。想像以上に激しい反応が返ってきたのか、原が懸命になだめている。

 嶋岡は、ちょっといたずらっぽい顔をして僕を見た。

 ――おまえももっと、あれくらいやっていいんだよ。
 ――さすがにあそこまでは、俺できないわ。
 
 小声ではあったけれど、茶化して言い返した。
 嶋岡は小さく噴き出して、僕の背中をあいている右手で一度軽く叩いたのだ。

 
 そんなことを思い出したのは、翌日に彼と顔を合わせることになるとどこかで予感していたからだろうか。
 帰宅して鍵を取り出しているところで、スマートフォンが鳴った。宮津蓉子さんからメッセージが届いたことを知らせる音だった。
 良いニュースではなさそうだ、と思いながら部屋に入る。

 予感が外れることはなかった。
 そこには櫂谷が休暇を取って部屋を出て行ったこと、自分が戻るまでに荷物を片付けて家に帰るように伝えられたこと、彼女が居る限り自分はそこに戻らないと厳しく告げられたことが綴られていた。

14-1

14-1

 ろくでもない色が、身体に詰まってる。

 昔、彼が手元に目をやったまま呟いた一言だ。僕達がまだ同じ制服を着てあの町にいた頃だった。
 夏休みだったはずだ。市街地を見下ろす、地元ではそこそこ有名な夜景スポットでもある自然公園に僕達はいた。彼がまだスケッチブックを持ち歩いていたから、高校一年だっただろうか。
 容赦なく照り付ける日差しから隠れるように日陰を探して、桜の葉で光が遮られるコンクリートの階段に僕達は腰を下ろしていた。櫂谷はそこでスケッチを、僕は当時の友人達のあいだで回し読みされていた漫画を数冊一気読みしようとしていた。
 じっとりとした暑さだった。すでに足の甲にサンダルの日焼け跡がついていた。
 持って来たペットボトルは、ふたりとも早々に空にしていた。公園の水道水をつめて、それを浴びたり飲んだりしながら過ごしていた。櫂谷は黙々と鉛筆を走らせていたけれど、時々ふと顔をあげ、近くで鳴いていたアブラゼミを追い払うために大声で叫んでみたりもした。
 そんな中で、思い出したように言ったのだ。ろくでもない色が、身体に詰まってる、と。

 ――色?

 うつ伏せに寝転がった姿勢で僕が尋ねると、彼は鉛筆を走らせながら頷いた。こんなこと、おまえにしか言えないけどねと付け足している。恥ずかしいじゃん、ガキの自意識過剰みたいに言われそうで、と。
 ぼそぼそしゃべる彼の声のあいまに、紙の上を走る鉛筆の音が小さく耳に届く。さらさらと迷いのない、心地良い音だった。

 ――あっちこっちから入ってきて、ほっとくと詰まるんだよ。

 首からかけていたスポーツタオルで額を拭い、彼はペットボトルに手を伸ばした。荒っぽいような仕草でキャップをあけて、流し込むように水を飲んでいる。
 
 ――そうなると重くって、だんだん目が曇ってくる。そいつらを片付けないと、やること何にも、現実味がない。

 変声期を迎えた櫂谷の声は、周囲の友人達の中で最も低かった。見た目とは少し不釣り合いに思うくらいで、本人も気にしていた。母親から毎朝小奇麗な服を手渡されるような生活を彼はしていて、実際に当時の彼は人目を引くきれいな少年だったと思う。

 櫂谷の言葉に促されるまま、僕はその場で想像していた。
 ただでさえあふれるように感情が湧き上がり続ける、自意識に手を焼いている自覚がある年頃だ。それだけでも充分持て余しているというのに、さらにこいつは他の何かの相手をしなくてはいけないのか。
 自らを芸術肌だと思いたくなかったのか、あの頃の櫂谷は感受性とか多感さみたいなものを見えないように隠したがっているように見えた。感性が豊かであることよりも、洞察力や本質的なものにひらけていることのほうがよほど重要だ、そう思っているように僕には見えた。
 絵を描くという行為が暮らしの中に当たり前にある環境で当然のように手を動かしてはいたものの、櫂谷自身から美術に対する情熱や熱意を感じたことはあまりなかった。本当にしたいことなのか、それとも別の何かを心の中では求めているのかも。聞いてはいけないような気もした。
 それでも、きっと必要なことではあるのだろう。そう思っていた。現実と自分のあいだに流れ込んでくるそれと向かい合う、ひとつの手段として。
 話が途切れたような気がして、僕は彼のほうに顔を向けた。
 櫂谷は鉛筆を動かしながら、わずかに笑っていた。自嘲を覚えるにはまだ早いはずの年頃なのに、彼はすっかりそういう感情を身に着けているように思えた。
 僕のほうに目をやらないまま、彼は言った。
 
 ――俺はこういうことしてないと、おまえ達のいるところに、行けない。

 何か、返事ができたかは覚えていない。おそらく、しなかったはずだ。彼の一言を受け止めるような言葉をあの頃の僕は持っていなかった。
 蝉の声だけが響いていた。
 夏の午後、照りつける光の強さと、緑や土の匂い。

 後ろのほうで、自転車のベルを鳴らす音が響いた。
 振り向くと、キャップを被った嶋岡が僕達に向かって大きく手を振っていた。ここにいるって、堀井のおばさんに聞いたから、と。当時から大柄だった嶋岡の履いているハーフパンツから、白くがっちりとした足が覗いていた。
 彼は自転車を停めて、機嫌よさげに歩いてきた。よく見ると、風呂敷に何かを包んでたすきのように肩に斜めにかけている。紫色の、渋い色合いのそれは途中で大きく盛り上がっていた。
 櫂谷と僕は、並んで不審そうな顔をしていたのだろう。嶋岡はああ、という顔をして、風呂敷の盛り上がった部分を腹のあたりまでずらし折り目に手を入れた。そしてどうだと言わんばかりに、中から小玉スイカをひとつ取り出した。差し入れ、と言っている。年寄りみたいな色の風呂敷背負って来るなよ、と櫂谷があきれて言い返す。
 昔から良識に長けた子供だったけれど、嶋岡は稀に周囲を驚かせるような自由な言動をするやつでもあった。深夜うちの裏に僕を呼び出しに来る時も、かっちりしたコートを着た櫂谷の横で彼はよく半纏を羽織って立っていた。
 
 ――ていうか、これどうしたの。
 ――仏壇からかっぱらってきた。
 ――罰当たるぞ。ていうかおまえのところ、今年初盆だろ。
 ――大丈夫だよ。ばあちゃん、俺のこと溺愛してたから。

 しれっと言って、彼は再びその風呂敷に手を入れた。十徳ナイフを出して、さっさとスイカに刃を入れてしまう。櫂谷は信じられないという顔で僕を見ている。
 嶋岡は機嫌よく、かつひどく雑にスイカを割って僕達に差し出した。ああ塩忘れた、などとのんびり言っている。
 
 ――何か、おまえって幸せそうだよな。

 スケッチブックを畳んで脇に置き、櫂谷は笑った。深刻な気分がすっかり散ってしまったような、あきれたような表情だった。
 そして嶋岡の差し出した果汁が滴る歪なスイカを、渋々とした様子で受け取ったのだ。


 メッセージを確認してすぐに、僕は宮津さんに電話をかけた。彼女は何を言っているのかほとんどわからないような鼻声で、ぐすぐすと泣きながら状況を説明した。帰って来てって何度も送ってるのに読んでくれないんです、どこにいるのかもわからないし、職場の人も何も教えてくれない、と。
 この短い時間によくそれだけの行動がとれたと思い尋ねると、櫂谷が出て行ったのは三日も前のことだと言う。絶句した僕に、彼女は言ってなかった、と気づいたように呟いたのだ。
 埒が明かないと、原付を飛ばして彼の部屋に向かった。
 宮津さんは腫れあがった目でドアを開け、僕を見上げて首を横に振った。連絡はない、という意味か、ここから出ていく気はない、と伝えたいのかはわからなかった。
 部屋の中に入るのは気が引けたが、すぐ近くにある大通りのファミレスに彼女を連れ出すことはできなかった。身なりを気にしてのことだった。仕方なく部屋に入り、彼女の淹れたコーヒーを前に詳細を聞き出した。僕が最後に彼と会ってから、もう三か月近かった。

 調子が悪い様子はなかった、と彼女は言った。
 最近は比較的ゆるめのスケジュールの仕事が続いていて、落ち着いていたらしい。仕事納めの後に一度喧嘩はしたけれど、帰省の予定がなかった櫂谷は同僚やこっちの友人と何度か飲みに行ったくらいであとは部屋にいたようだった。
 喧嘩っていうのは、と訊いた僕に、彼女は恥じ入るように俯いた。わたしが、お正月の準備をしたからです、と。この期に及んでわたしとそういうことはしたくない、いかにも家庭ぶったようなことは辞めてくれって。

 ――別れ話、あれからもされてたんですか。

 気まずい質問だったが、もうしないわけにいかなかった。
 宮津さんはくしゃくしゃにしたティッシュで鼻の下を抑えながら頷いた。化粧ももうしていない、涙で濡れて腫れた目。後ろでひとつに編んだ髪はすっかりほつれている。
 彼が雨の中で宮津さんの話をしていたのを思い出した。別れ話をしてもしても通じない、別の星の女だ、と。去年の春、僕が千紘と出会った日だった。

 ――僕、あんまり人のことに口出しってしたくないんですけど。

 僕の切り出した言葉に、彼女は一度小さく震えた。それから身構えたように身体を固くして、おそるおそるといった様子で僕のほうに視線を移した。

 ――宮津さん。もう、あいつとは潮時なんじゃないですか。

 案の定、彼女は僕の言葉に衝撃を受け、ぎゅっと目を閉じた。閉じた瞼からまた新しい涙があふれて、頬や食いしばっているだろう口の周辺が紅潮する。
 彼女はそのまま、再び首を横に振った。いやです。
 長く続く彼女の嗚咽を耳にしながら、僕は部屋を見回した。
 櫂谷は、もともと物を集めることには関心がない。衣類もそう多くないし、装飾品だって数えるほどしか持っていないはずだ。家具や家電のデザインにこだわりがあるのは見て取れるけれど、短期間部屋を離れるとしてトランクひとつでも充分間に合う。実際に、1DKの部屋で目につくのは宮津さんの選んだだろう物ばかりだった。

 ――だって、恭一さん、苦しんでるんですよ。
 ――あいつは昔からそうですよ。何もしてやれなくて、心苦しいですけど。

 周囲の言葉で、簡単に下ろせるような重荷だったら良かった。でも彼の持っているのは、そういう類のものではなかった。
 平常心を失っている相手に対して、言い過ぎた、とも思った。それでも、やはり櫂谷とこの人は長く一緒にいられるふたりには見えなかった。
 宮津さんは濡れた目で僕を睨みつけたけれど、言葉は返ってこなかった。
 とりあえず、一旦でもいい、荷物をまとめて家に帰ることを考えてくださいと伝えた。僕は友人達と櫂谷を探します、と。何かあったら、報告しあうことも提案した。
 静かに洟をすすり続ける宮津さんに頭を下げて、僕は櫂谷の部屋を出た。階段を下りながら、スマートフォンを取り出した。


 嶋岡は、まだ起きていた。
 ここ数時間のあいだに知った事情をすべて話すと、彼はひどく穏やかな声で「居場所はわかってる?」と訊いてきた。
 これから心当たりをあたるつもりだと答えた。当人は携帯電話の電源を切っていること、彼の所持している小型のラップトップが部屋になかったこと――そのままなら、行先を調べた痕跡でもあるかと思ったのだ。前回はきれいに消去されていたけれど――を続けて告げる。嶋岡は小声で参ったな、と呟いた。
 実際は、櫂谷が深刻な気分で行動したとも断定できなかった。僕達の中にあるのは、以前の彼が同じようなことをした時に一種の覚悟があったという記憶だけだ。楽観することも冷静でいられないのも、そのせいだった。
 宮津さんだけを相手に事を起こしたなら、僕には連絡が来たはずだ。少し前にあったように、こういうことになると思うからうまくはぐらかしてくれ、と。適当にビジネスホテルに泊まるとか、例の社長の家にいるからと言って僕を巻き込んだだろう。そうしなかったことが、さらに不安を膨らませた。
 とりあえずそっちに行くよ、と嶋岡は言った。合流してから決めよう、堀井の家で仮眠取らせてくれる? とも。
 承諾して電話を切った。日付が変わるまで、三十分もなかった。

 僕の部屋に到着した嶋岡と三時近くまで当人と心あたりのある相手に連絡をしたが、櫂谷の居場所を掴むことはできなかった。
 力尽きるようにして眠った翌朝、地元で暮らす小幡からの連絡があった。
 昨日彼の父親の勤務する博物館に、櫂谷らしき人物が長く滞在していた、と。

14-2

「盲点」
「普通はそうでしょ。長く地元戻ってなかったんだし」
 嶋岡はコンビニ袋を助手席に座る僕の膝にパスするように手渡し、彼にしては少々荒っぽい仕草で運転席のドアを閉めた。彼の愛車はライトブルーのノートだ。
 エンジンをかける前に、袋の中から購入したばかりの栄養ドリンクを取り出して手渡す。僕の部屋から歩いて数分のところにあるコンビニで、僕達は朝食を仕入れたばかりだった。
 カーナビには、すでにここから僕達の地元までの経路が表示されていた。二時間程度と書かれている。土曜だから、もう少し遅くなるかもしれない。

「どうせなら、三日前に知らせて欲しかったわ」
 助手席で、つい口にしてしまった。隣から小さいため息と、だよね、という同意が聞こえる。
 嶋岡と話し合って、宮津さんには行先を知らせないことにした。同行したがるかもしれないし、そんなことになったら櫂谷と落ち着いて会話することが難しくなる。
「俺も悪かったんだ。もっと早いうちに入っていけばよかった」
「いや、恭一のほうが嫌がるでしょ、それ」
 嶋岡は少しだけ笑ったけれど、目元のあたりには疲れが浮かんでいた。
 娘が風邪をひいたとかで今週は予定がかなりずれこんでしまい、寝不足の状態らしい。久しぶりにゆっくり休めるかと思った週末、二十三時過ぎにかかってきた僕からの電話で彼は非常事態を悟った。ナイロンバッグに着替えを詰め込んで、すぐに家を出たと言っていた。
 奈津さん大丈夫だったの、と奥方の名前を出して尋ねると、日頃の行い、と彼は笑った。同じ高校だったから、彼女も当然僕達のことをよく知っている。

「堀井は、その人と何度も会ったことあるの」
 圏央道を目指しながら、嶋岡は焦った様子もなく静かに運転している。
「昨日入れて、三回だったかな。あとは話で聞いてただけ」
 宮津さんがどうやって櫂谷と知り合ったかも知らない。同じような趣味もなかったとしたら、やはり図書館で出会ったのだろうか。自分から積極的に異性に寄っていったことはほぼないと言っていいだろう櫂谷は、基本的に来るもの拒まず去る者追わずの姿勢でいる。
 本来の整った容姿をあえて崩すような恰好に、愛想のない応答。それでも、時折見せる彼の無防備な純粋さに囚われてしまう女子は少なくなった。自らの望んだ形の関心が向けられないことに気づいた相手が去っていくのも早かったが、当人はあまり気にしていないようだった。
 宮津さんは、櫂谷にとってもきっと初めてのタイプだったはずだ。どちらかというと気が強そうで華やかな感じの女性が並んでいることのほうが多かったから。

「あいつ、異性が相手になると本当にだめだね」
 嶋岡が小さくため息をついた。好きでもない相手はべらせるからなあ、とぼやくように呟いている。
 あの人はなぜか放っておけない、という意味の言葉は、僕も何度か聞いたことがあった。名前も覚えていない、どの子だっただろうか。彼自身はマイペースで奔放に暮らしているのに、こっちの話なんてほとんど聞き流されてしまうのに、放っておいちゃいけない気がする、と。

「言葉が通じない、みたいなこと前言ってなかった?」
 信号のない横断歩道に立っていたカートを押す老人のために、彼は車を停めた。どうぞ、というサインを相手に送って愛想よく笑っている。
「男同士の感覚で女子と話そうとしてたからなあ」
「愚痴に真顔で解決策出したりね」
 揶揄ではなくそう伝えると、嶋岡はうわ、と小声で言った。
「そんなことしてた?」
「なんで怒ってるか理解できない、どうして話が通じないんだ? って」
 櫂谷らしいといえばらしいエピソードだ。本人がそれを希望していたかは別として、家を出るまで彼は母親からほとんど完璧と言っていい身の回りの世話をされていたのだ。自分から何かを察する必要がなかった彼は、多くの女性が持っているコミュニケーションの性質に恐ろしく鈍感だった。
 青になった信号を確認してアクセルを踏みつつ、嶋岡はあいつらしい、と言っている。
「高二まで、絵ばっかり描いてたし」
「そういうところ、やっぱりちょっと独特だったよなあ」
 懐かしい気分になったらしい。嶋岡の声が若干やわらかくなった。

 
 色が入ってくる。放っておくと、身体に詰まる。
 単純な色彩の話ではなかったのだろう。そういうふうにして喩えるしかない、あらゆるニュアンスとか、エッセンスのことだったはずだ。雰囲気や風合い、感情や直感といったもの。味わいを超えた、時には彼の内部を圧倒するような何かも。
 それを外に押し出すための手段が、描くことだったとしたら。
 それを手放してしまった櫂谷の中には、色が溜まり続けていたのではないだろうか。それに片を付けないと僕達のいるところに来られないと言っていた彼は、あれからも自らの中に入り込んでは降り積もる色から逃れられず、内側から埋もれてしまったのだろうか。


 一度だけ、櫂谷から真夜中に電話がかかってきたことがあった。
 彼が自らの内面と現実の帳尻合わせに苦心して、ひどい状況になっていた時期のことだ。僕達が地元から離れた場所で成人し、学生を終えた順番で就職や就活をするようになった頃だった。当時の櫂谷は社会活動ができるような状態ではなくて、地元のグループとも疎遠になっていた。
 カナダから戻ったばかりの僕はレンタル屋の店員をしていて、周囲で最も時間に余裕があった。正直に言えば、日本に長居する気もなかった。英語圏に出てしまった時に切り替わる「僕」の人格のほうが、僕自身にしっくりときていた。こっちでは信じられないようなあらゆる不便さも危険も向こうの生活にはあったけれど、それを差し置いても快適だった。
 バイト先から帰り、食事を済ませてシャワーを浴びたあとの時刻だったはずだ。これからの生活のことをぼんやりと考えながら、僕は自分の部屋でほとんど消音に近いところまで音量を絞ったテレビをかけっぱなしにしていた。月間洋楽ランキング。耳慣れてきた音楽が流れる。最近店でもよく耳に入る曲だった。部屋の暗がりの一画に色があふれ、携帯電話にはバイトで仲良くなったばかりの女の子からのメールが何度か届いた。
 ふらふらと暮らすモラトリアム真っ只中の若者の、何でもない夏の夜だった。


 櫂谷恭一、という名前が表示されているそれに手を伸ばした。まだガラケーが主流の時代だ。二つ折りのそれをひらいて、僕は通話ボタンを押した。

 ――はい? 櫂谷?

 そう答えたけれど、返事はなかった。むこうで、何かがざあざあ言っている。
 彼の言葉が聞こえるより先に、まずい、と思った。雰囲気から異様なものを感じて、ついその場に立ち上がる。
 窓辺に移動して、僕はベランダにつながるカーテンを開けた。雨は降っていない。水辺にでもいるのか、シャワーでも使っているのだろうか。

 ――櫂谷? どうした?
 
 強めに繰り返した。
 彼はぼそっと何か言ったようだったけれど、僕の耳には聞き取れなかった。

 ――なあ、大丈夫か? 今、どこにいる?

 声に自然と焦りが入ってしまう。
 彼が鼻の詰まったような声で、大丈夫だ、と言った。ろれつの危うい発音に、酒か薬だ、と思う。もしかしたら、その両方かもしれない。

 ――今、どこにいるんだ?
 ――外だよ。
 ――外って、どこ。
 ――近所だよ。別にあぶなかねえよ。

 彼は言った。あまり説得力のない響きだ。
 彼のところに向かおうかとテレビの画面に視線を移したけれど、すでに終電は終わっている時刻だった。当時櫂谷が住んでいたのは練馬だった。

 ――おまえ、今酒飲んでる?
 ――けっこう。
 ――帰りな。もう二時近いよ。

 なるべく刺激にならないように告げると、彼は少し不貞腐れたような声を出した。寝れねえんだもん、と。新しい薬が全然効かねえ、足ばっかりぞわぞわして気持ち悪い、と。

 ――外にいるほうが楽なのか。
 ――まあ、ちょっとは誤魔化せる。 

 彼の話す言葉のむこうで、まだざあざあという水音がする。
 そこ、川でもあるの、と尋ねると、櫂谷はああと言った。川っていうほどのもんじゃねえよ。水汚えし、たぶん下水だ、と。身を乗り出していやしないかとはらはらした。
 独特の間が続いた後、彼がふと思い出したように続けた。
 
 ――おまえの服に俺が釣り針引っかけたの、ああいうのを川って言うんだろ。

 故郷で川釣りをした記憶が蘇ってきたらしい。
 少しだけ声はあかるくなったものの、少し奥のほうはまだ不穏なものが揺れている。何か僕が余計なことを言ったら、それを傷口にして内側にあるものがあふれてきてしまいそうな。

 ――そう、だな。

 そうだな、と言った。ようやく、それだけが言えたようなものだった。
 言いながら、僕は少し泣きそうになっていた。

 釣りをしようと思い立ったのが午後だったから、渓流まで行けるほどの時間はもうなかった。
 行先に迷ってから、結局近所で一番川幅の広い河川敷にいつもの面子で集まった。そこで、櫂谷が振った釣り竿から飛んだルアーが風に流されて僕の服の裾に引っかかったことがあったのだ。
 互いに危ねえと言いながらげらげら笑って近づき合った、あれはいくつの頃だっただろう。
 夏の日差しに強く光る川面と、猛暑の中でもひどく冷たかった水の作る流れ。力強くて、濁りがなくて、僕達の持てあます憂鬱や拗ねを強く押し流していった。
 あの頃抱えていたどんな気持ちも、まるでお構いなしみたいに。

 家に帰ればきっと、いつものつまらないやりとりの繰り返しだとわかっていた。
 僕達はそれぞれがまだ幼くて、まだまだ自分自身の輪郭をはっきりと得ることができていなかった。崩れてしまいそうな、無防備に脆い表面に新たな傷が入ることをいつも怖がっていた。前の傷を回復し終える前にやってくるだろう次の衝撃に身構え続けて暮らしていることに嫌気がさしていた。
 逃げ出せないあの世界の中で、どうにか自分自身を守っていた、あの頃。
 
 僕の出した弱気な返事に、櫂谷は一度鋭く息を呑んだ。
 そして、こみ上げたような声で僕に尋ねたのだ。

 ――なあ、なんでおまえは越えられたんだ。

 出会った頃の幼い彼ですら、あんなに心細い声は出さなかった。
 だって、櫂谷恭一は他のやつらにはないものを確かに持っていた。才能も、彼にしかない激しい鋭さも、潜在的なリーダーシップだって持っていた。子供のうちから、あまりに厳しいものを内側にたたえて燃えていた。おまえ達のいる秩序になんて端から用がないとでも言いたげなあの佇まいに、まるで何かを問われ続けているようで大人達すら緊張感を覚えていたのに。

 越えられてなんかない。
 そう思ったものの、口には出せなかった。
 俺は逃亡しただけだ。あそこからは離れることができたけど、まだまだあいつの言葉が身体中に染みになって残ってる。動くと響いて、うるさくてたまらない。どこに逃げてもついてくるそいつに、耳を貸さないようにどうにか振舞ってるだけなんだよ。
 倒れないように。
 だって倒れたら、あっという間に飲まれて蝕まれてしまうから。

 ざあざあという音だけが、僕達のあいだを流れていた。
 何も言い返せなかった僕に、櫂谷はため息をついた。放った言葉を後悔しているような、自分自身にうんざりしているようにも聞こえる小さなため息だった。

 ――ごめん。俺やっぱおかしいな。帰って寝るわ。

 櫂谷はそう言って、僕の返事を待たずに電話を切った。



「――堀井は、最近むこう帰ってた?」
 館林市の表示が見えてきたところで、しばらく黙っていた嶋岡に尋ねられる。彼の運転は重いような、ゆったりとした安定感がある。
 ぼんやりとしていたせいか、すぐに返答できなかった。頭の中で、嶋岡には事情を全然話していなかったことを思い出す。
「けっこう戻ってるよ」
 僕の答えが意外だったのだろう、嶋岡は眉を持ち上げながら、え、そうなの、とこちらを見た。
 実は、という前置きをしてから、僕は簡潔に父の事情を説明した。長い話にはならなかったし、彼相手にそうする必要ももちろんなかった。
 嶋岡はしばらく眉をひそめて、そっか、もう親世代もそういう年齢だもんな、としみじみと呟いた。バイトしながら行き来するのも大変だろ、と。
「まあ、そこまでまめに帰ってるわけじゃないから」
 そんな期待もされていないだろう。そして、その予想を裏切らない僕のことを情の薄い身勝手な息子だという目で周囲も見ているだろう。その通りだけれど。
 父に起きていることに対してリアリティを感じていない、というわけではなかった。祖父が亡くなった時も、昔の担任が不慮の事故で他界したと聞いたときも、そのあっけなさに衝撃を受けたのをまだ覚えている。この現実の重みがまるで思い描けないというわけではなかったけれど、それ以上の出来事になってくれないだけだった。
 嶋岡は、それ以上僕に家の事情を尋ねなかった。近況を話す機会がなかったしなあと言ってから、何かを思い出すような表情を浮かべる。最後に会ったのって、小森が一緒だったっけ、と。

「そう、あの、チリワインの――」
 そこまで言って、ああ、と思った。
 彼も同じことを思い出したらしい。あの日の帰りも忙しなかったな、と短く笑う。

「あの後、あの人何ともなかったの」
「ベンチで少し休んで、バス停まで送ったよ。ごめん、お友達にもお礼を言っておいてって言われてたのに忘れてた」
 口をひらきながら、僕の頭には千紘の顔が思い浮かんでいた。
 彼女の顔に、もう、という小さな不満が表れているような気がした。本気で怒っているわけじゃない、すぐに緩むような、でもむっとした表情だ。

 僕の声に、思うところがあったらしい。
「そっか、あれがきっかけで、仲良くなったりしたわけか」
 僕のほうも見ず、嶋岡が面白そうに告げる。長年の付き合いはこういうところが油断ならないな、と思う。
「まあ、そんな感じ」
「きれいな人だったもんな」
「本人は、あんまりそう思ってないけど」
 千紘が容姿を褒められるようになったのは、成人を迎えた後かららしい。幼い頃はもっとぎょろっとした目をしていて、身体も棒きれみたいだったと言っていた。顔色も良くなくて、雰囲気も緊張して硬い、まるでアダムスファミリーのウェンズデーだと男子に何度もからかわれた、とも。
 彼女の、リラックスした服装が頭に浮かんだ。ソファの上で横座りをして、ちょっとだけ困ったような笑顔で僕を見る。千紘が過去について話す時、いつもする表情だ。
 週末なのに連絡をしてないな、と思った。
 今日は、家で仕事をしているだろうか。 

「いいなあ。俺なっちゃんと出会うの早かったから、皆もっと俺にそういう話して欲しいんだけど」
 笑って告げたあとに、少し慌てたように付け足す。後悔はしてないけどね、と。
「櫂谷もあれだし?」
「そう。原は良かったけどね。小幡も、いいやつなのに奥手だから――」
 そのまま、あの頃の話題になった。隠しようがない、未熟で不格好だった初恋とか、それぞれが背中を押して進んでいった関係。嶋岡は当時を思い出してひっそりと笑っている。そわそわとした心配を紛らわすのに、ちょうど良いと思える話題だった。このまま行けば、地元まで一時間かからずに到着できるだろう。

 嶋岡はそこで、印象的だったいくつかのエピソードを僕に語った。
 そして今に意識を戻して、大変な時期に支えてくれる人がいて良かったな、と前を見たまま僕に告げた。

名前も知らない【13-14】

名前も知らない【13-14】

  • 小説
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更新日
登録日 2021-06-08

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