ある極めて個人的なエッセイ

72歳にして小説を書き始めた
小説を書くといっても書斎に書机なんか置いて着物着て原稿用紙にモンブランの万年筆、座布団には三毛猫なんていう昔の文士気取りは生活状況が許さない、もっぱらバイト通勤の車内で古いスマホの画面見ながらの打ち込みである
最初に書いた小説(と自分では思っているが)は22500文字でこれを400.字詰め原稿用紙にすると
60枚弱になる。まあ中編小説とでも言わせてもらおうか、コレを約2週間で書いた、いや打ち込んだ
お陰で視力低下でメガネを買え変えるハメにもなりそうな気配だ。免許書き換えで高齢者講習を終えた後が唯一幸いだった。
なにせ文体を作るなんて高校生以来の事で、書き始めたは良いがさて書き上げられるのかと?
ところがである、この時代にはITなる優れモノがあり小説に必要な調べ事は全てググれば事足りるし、それどころか私が最初に書いた小説の題材、プロト(と言うらしい)も誰でもが使うWebサイトの利用中に偶然湧いてきたのである
(まぁ、これは小説を読んで頂ければ判りますがね)
それと小説とは言え事実に嘘は書けない
「ぼくは横浜駅西口のハチ公前で彼女を待っていた」とはアホでも書けない
芥川賞作家の宮本輝はそのエッセイで
小説は花も実もある嘘ばかりなどと洒落とも本音とも言えぬ事を書いていたが、彼ぐらいになればまさに嘘も方便となる
逆にトウシロがいくら博識ぶってモノを書いても
その出処は今時の読者はお見通しなのだ
下手すればググッて裏を取られかねない
其れにつけても一昔前の作家は凄いなと思う
ITなんぞ影も形もない簡単にメモ入力もググる事なんかあり得ない時代にだよ、かの松本清張は新聞社の工場で活字拾いをしながらなんであの処女作「ある小倉日記伝」や「ゼロの焦点」が書けたんだ 
今から思ば正に想像の超人である。因みに自分が浸かった生湯の桶に当たる光を覚えていると言った三島由紀夫だけは生まれながらにして文学の天才ではありますがね。
小説を書き始めて思ったのは書き手の人生経験が如何に重要かと言う事である
現に流行作家と言われる諸兄には色々な職業を経た人が多い。浅田次郎は自衛官やマチキンの集金人
原田マハは美術館のスタッフ、村上春樹は学生時代にジャズ喫茶のマスター、東野圭吾は電気工学のエンジニア、伊集院静はセミプロギャンブラー、又吉直樹はご存知コメディアンと言った具合である。
あとモノを書く上で重要なのは場数だと思う
如何にいい加減な場数を踏んで居るかである
その点では愚生も補欠ぐらいにはなりますが
五回も離婚結婚を繰り返した高橋源一郎はさておき愚生には女房子供を顧みず迄という根性も無く、矢張り性根の無い高度成長期の落とし子なんでしょうかね。
場を踏むと言うという事はそんなにたいそうな事では無く、例えば酒場で見知らぬ客と語り挙げ句に呑み潰れてその御人の家で奥さんに一宿一飯の恩義を貰うとかそう言う事なんです。
これは極端な例だか今はそういう場すら無い。
挙句にコロナが追い討ちをかける。
街は顔が見えない物言わぬマスクの群れ。人と人が触れ合えない世の中に文化なんて絶対に育たない。感性を育てる大切な時期に塾通いの日々を過ごす少年少女、情感の要らないリモート職場、毎日TVに現れる情感の無い顔の国のリーダー、このままではいずれアクリル版的家族、リモート作家、マスクマン作家すら現れそうだ。
そんな中で愚生はタラタラと携帯片手にひたすら
ヘンタイ小説を書くだけである

ある極めて個人的なエッセイ

ある極めて個人的なエッセイ

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-07

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