御髪


・一番目


私が髪を綺麗というとき
私は見た目を褒めている。
私が見た目を褒めているとき
私は私の髪を貶している。
又は、私より綺麗と思っている。
私の髪も綺麗だけど、
あの子の髪はもっと綺麗だ、と。


私の髪も綺麗、というとき
誰かの髪と比較している。
私より綺麗じゃない、
見たこともない、
誰かの髪が綺麗じゃない。
そう思っている。
けれど、誰かの髪が綺麗じゃない、
と思える私は、髪が綺麗じゃない、
そういう時を知っている。
私の髪がそうだったり、
あの子の髪がそうだったとき。
髪が綺麗じゃない。
それを知っている私は
髪を綺麗にしたい、そう願った。
努力した。
だから私の髪は綺麗になった。
私の髪は綺麗だ。


私の髪は綺麗だ、そういうとき、
私の髪が綺麗かどうか。
それを判断できると私は思っている。
艶めいた髪に見惚れたり、
触った髪が柔らかかったり、
絹のような細さが束ねられたり、
あらゆるアレンジに応じる、素直な髪だったり。
一つでも、これに当てはまる髪は綺麗だ。
私はそう言う。
私はそう思う。


髪を綺麗だという私の綺麗、は
どこまでも通用する、のかどうか。
私は悩む。
私は自信を失くす。
「綺麗」に込められる私の綺麗は
どこかの誰かの綺麗になって、
どこかの誰かの綺麗に届かない。
そこで話し合われる綺麗は、
私の綺麗を広げたり、
私の綺麗を頑なにする。


綺麗を誰かと話し合った。
綺麗を誰かと共有した。
綺麗を誰かのものとぶつけ合って
綺麗だと思うものを誰かと撮ってみた、書いてみた。
私が髪を綺麗だと言ったとき、
嬉しそうにありがとう、と髪が綺麗なあの子が言った。
ううん、と私が照れて答えた。
その子は私が綺麗だ、とは言わなかった。
けど、手櫛で梳く髪が靡かれた。
それは私の髪?
残念ながら覚えていない。
私は、綺麗を綺麗と思う。
どんな理由で綺麗と思う?
艶めいているから、
柔らかいから、
絹のようにまとまっているから、
アレンジが決まるから、
だから、何故?
私の綺麗は、どこに繋がっている?
どこに綺麗を置きたい?
綺麗をどこに置いてみたい?
休火山の斜面の灰色が広がる、日帰りの観光地を訪れた私とあの子はスニーカーを履いて、走り出す。


詩の匂いを嗅いだ私たちは、綺麗に口を開けて笑う。短く伸ばして、声に出して、私は綺麗に、綺麗を手放す。
たなびかれる人の綺麗な髪は、
少しだけ観光に来た他の人に迷惑をかけて、怪訝な顔をされた。


一番目の髪は綺麗だ。
一番初めに到着して、私は高らかに宣言する。


・石室


 切る手間を省き、表面を綺麗に拭き取り、まるまる一個の林檎を齧り、咀嚼し、飲み込み、それを続け、芯を残して美味しく頂いた。その後で残った芯をその日初めて使った包丁で真っ二つに切り、それらをまとめて袋に入れた。口を縛った袋には他にも昨日の夕飯に用いた食材の皮や残り滓などを入れていた。半透明のビニール袋の外側から透けて見える色々は、しかし汚いとも言えない。部分、部分で見れば、じゃがいもの皮の色と林檎の皮の色の重なりは悪くないし、腐らせてしまい、丸ごと捨てることにしたパプリカのはっきりとした赤は半透明に映えて見える。納豆の空箱の人工的な形状はビニール袋の外側から触ってみれば愛着が湧く。もやしか何かをその中で育てたことがある経験は、捨てるより価値のある再利用への迷いを生じさせる。その迷いを出かける時間に合わせて行動すべき優先事項に基づいて、振り払う。ゴミを入れたビニール袋を大きなゴミ袋に落とし、次の行動を取る。身支度は整えているから、あとは戸締まりと荷物の準備だ。そう考え、直ちに終えた戸締まりから荷物を順次、その日の鞄に入れようとファイルから、タブレットからと手に取る。そのときにワイヤレススピーカーを利用して部屋中に流していたのは、武満徹氏が友人の追悼のために作曲したものだった。フルートの旋律が隙間風のように不安に聴こえる。同じく準備をする彼女がそう言って、朝に流すのを止めて欲しいと嫌っていた。確かにそう聴こえる。しかし、それは屋内に居る自分のイメージで聴くからで、外に居ると思って聴けばいい。それに成功すると、その旋律は遠い過去から流れてくる鎮魂歌であり、この世の始まりから流れ続ける自然の風音であり、生きている私たちが死に向かいつつも今に残る身体で感じている自然との一体感だ。いや、抵抗感と言った方がいいかもしれない。いずれにしろ、外に向かっている感覚だ。僕は、朝にこの感覚を思い出すのが好きなんだ。身が引き締まるし、目が覚める。だから、準備する時間に流すんだ。そのことを、理解してくれるかな。そう言った。
「初めて聞いた。それが貴方なんだね。」
 彼女はそう答え、こちらを見つめた。いつも思う、彼女の顔は人形のように全てのパーツの距離感が整っている。その彼女が「初めまして」と挨拶をしてきた。その語感には温かみを感じた。そう思って、僕は戸惑った。
 それが、質問の形式を取りながら僕が彼女に求めたお願いであり、そして言外にその曲を流すのを止めてくれという彼女の要求に対する僕の拒絶の意思であった「理解してくれるかな」に対する答えとして噛み合っていないことは直ちに理解できた。だからもう一度、「理解してくれる」かを彼女に聞き直す必要はあった。しかし、僕は彼女に聞き直さなかった。聞き直さないまま曲を流し、準備を続け、鞄のチャックを締めた。腕時計で現在時刻を確認し、予定どおりの時間であることを確かめ、鞄の持ち手を掴み、玄関にそれを置いた。すぐ近くの彼女の鏡を見ながら襟を直し、袖口を気にして時計を揺らした。髪は特に直さない。よし、と最後の身支度を終えた。そして、同じく準備を終えそうな様子を見せ、リビングに一度、戻ろうとする彼女に声をかけた。
「うん。頑張って。」
 と背中を見せ、人形のような顔だけをこちらに振り向けて言う彼女の口元を見ていた。いつもは見せない形だった。僕はそれを覚えた。そして、あの曲を消すことを忘れていた。
 僕は彼女の後ろ姿に短く何かを答え、玄関を出た。外廊下を歩き、エレベーターより階段を下る選択をしながら、スマートフォンを上着の内ポケットから取り出して検索を開始した。打ち間違いのない関連ワードを打ち終わり、検索をかけた。意味のある情報はページに表示され、僕はそれらに目を通してステップを何回か飛ばした。一階に到着した頃には目的に適う検索にはならなかったと判断を下した僕は、エントランスの自動ドアが開ける朝に姿を晒し、海沿いにある真向かいの燈籠とフェンスを超えてこちら側に吹き荒ぶ強風に煽られたままじっとした。目は閉じてある。潮の匂いを感じた。そのまま一分、二分と過ぎて風は弱まる。しばらくして、風は止む。
 僕は目を開けた。蒸し暑い晴れ間に吸い込まれた意識を、年季の入った建物のスロープがもたらす速さによって引き戻した。僕は路上に出た。
 歩き出した僕は、そのまま手に持っていたスマートフォンの真っ暗な画面を見ながら髪を直した。手櫛で直せる髪型だ。生まれて初めて、僕は僕自身に対してそう言った。  
 スマートフォンを仕舞った手ぶらな片手でレンズのフレームを上げ、最寄りの駅へと通じる歩道を進み、小石を蹴飛ばし、転々とする様子を見届ける。小石は歩道に沿って植えられている街路樹と、その足元の雑草が茂る暗がりの中に消えていった。何が起こるんだろう、と理由もなく思った反応をしたことを僕は覚えた。
 自然にそれを覚えていった。

御髪

御髪

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted