生きるってこと
第一章
0
「生きるって、なんなんだろうね」
それが、彼女が僕に語った最初の言葉で、そして最後の言葉だった。
はじめて話す人に、いきなりこんな事を言うのは正直どうかとは思うけれど、けれどその言葉には彼女っていう存在が凝縮して込められているかのように、僕にはそう思えた。
彼女は、極端に人と関わりを持とうとはしなかった。
もちろん、僕も例外ではない。だから、たとえ一言だけでも、たとえ意味不明な一言だけだとしても、彼女に話しかけられた僕は、きっと彼女にとって特別な存在になっていたのだろう。僕にとって彼女がそうであるように。
その特別が、好意なのか敵意なのかは今となっては、(今でなくても判断できなかったのだろうけれど)判断できない。それ以前に、それをハッキリさせようともあまり思わない。知りたくないわけではないけれど、知らないならそれでもいいかもしれないなって、そう思っているし、当時もそう思っていた。
誰かの悪意や敵意の対象になりたいなんていう人はあまりいないだろう。僕だってできることならば、そんなものにはなりたくない―――
1
彼女はあまりにも不確かで、不鮮明だった。
僕は当然ながらそんな彼女のことを理解することはできなかったし、僕以外の人だってそれは同じ事だった。
彼女はとにかく気持ちが顔に出ない。行動にも出ない。もしかしたら何も考えてはいないし、何も感じてはいないのかもしれない、なんてことを多くの人が真剣に考えてしまうくらい、まったく出なかった。
まあ、実際のところそんなふうにまじめに考えていた奴は僕だけで、他の人はそんなことはなかったと思うけど。
彼女は綺麗だった。儚げ、といったほうがより正確かもしれない。
触ったら壊れそうな、それこそ深窓のご令嬢という言葉を連想させるようなくらい、儚かった。
だから当然、男共は彼女に注目し、アタックしていった。
けれど土日を挟んで月曜日からは、彼女に見向きもしなかった。
その光景は、あまりにも歪だった。
男共はもちろん、女連中も一切不自然さを感じていなかった。彼女だってそうだった。つまり、それを不自然に思っているのは僕だけだったのだ。
僕は男共に尋ねた。
「どうして突然彼女のことを諦めたんだ?」と。
すると、奴らは、まるでおかしなものを見るように、この世にあってはいけないものを見るかのように、そんな風に僕を見ながら、
「彼女って、誰のこと・・?」と、答えた。
「え・・・?だ、だって、お前ら先週まではあんなに群がってたじゃん!お、おいおい、さすがにこんなすぐに忘れたとは言わせないぜ?それに、彼女はあそこに今だって居るじゃん!」そう言いながら、僕は彼女の席を指さした。
けれど、やっぱり彼らの態度は変わることもなく――いや、むしろ悪化していった。彼らは僕を気持ち悪そうに見ていた。気味悪がっていた。
「お前、もしかしてアイツの事を言ってるのか・・?」
「え、まあ、たぶんそうだけど・・・」
「お前知らないのか?アイツ、休みのうちに事故にあって死んだんだってよ」
「は?いや、じゃあ、あそこに居るのは誰なんだよ。事故で死んだ?そんなまさか!彼女は今そこにいるじゃないか!あれから何があったのかは知らないけどさ、いくらなんでも言い過ぎだろ!」彼女の席を再び指差しながら、僕は怒鳴っていた。理由は、わからなかった――
「いや、お前こそ何いってんだよ。そこには誰も居ないじゃん。お前、ちょっと熱でもあるんじゃねーか?幻覚見てんじゃねーの?」
「もしかして麻薬でもやっちゃってる?」
「おいおい、そりゃねーだろ!」
「まずいぜ!ジャンキーなんかと話してるとマッポさんに俺らまでしょっぴかれちまうぜ!」
「やべえな!」
「ジャンキーから逃げるぞー!」
「「「ギャハハハハハハハハハハ!」」」奴らは笑っていた。けれど、そんなことに構ってはいられなかった。
もしかして、彼女は僕にしか見えてないのか?
でも、それならば、なぜ?
彼女が死んでいるから?
彼女が――幽霊だから?
まさか、と思いながら彼女の方を向いた。
彼女もちょうど僕の方を向いていた。
そして彼女は僕に、こう言った。
「生きるって、なんなんだろうね」
そう言って、彼女は消えた。
消失、した。
目を疑った。目の前で人が消えたのだ。こんなこと、普通ならばありえない。でも、実際に起きた。それはつまり、やはり彼女は死んでいるということの証拠で――――
僕は、気絶した。
2
目が覚めると、そこは保健室だった。
どうやら突然倒れた僕は、クラスの男共に担がれてきたらしい。保険の先生の姿はここにはなかった。
『生きるって、なんなんだろうね』
「ひっ……!!」
落ち着くと、先ほどの光景が蘇ってきた。背筋が凍る。あれは現実だったのだろうか。できればそうでないといいのだけれど、そう上手くは行かないのが現実なわけで。つまりは、あれは現実だったということ。
気持ちが悪い……。
それと、何か恐怖心のようなものも感じる。
「うう…ああ…」
だから僕は走った。
どこまでも、どこまでも、走った。
たとえ何が起きたとしても、止まるつもりは毛頭なかった。
体力の尽き果てるまで、己の限界に達するまで、ずっとずっと走り続ける。
それが、ありえないものを見たことを必死になって忘れるための手段だった。
そんなことで、あのショッキングな映像を忘れることができるとはまったく思わなかったけれど、だからといってその場にじっとしていることはできなかった。
僕は彼女と深い交流を持っていたわけではない。唯一のつながりはクラスメートだということ。なので、葬式に呼ばれることもない。だから、きっとしばらくすれば忘れられるのだろう。あんな事を目撃してさえいなければ。
でも僕は目撃してしまっていたわけで、だから忘れられない。それは「たぶん」ではなく、ほぼ確信といってよかった。
走り始めてから、どれほどの時が経過しただろうか。きっとそう長い時間ではなかったのだと思う。自分で言うのはなんだけれど、僕は体力がない。だからそんなに長いこと走り続けることはできないのだ。けれど、とても長い時間走り続けていたように思えた。
ちょうどそこは河原だった。あの、青春ドラマとかでよくあるような、そんな場所だった。僕はそこで大の字になってみた。別に誰かと拳で語り合ったわけではないのだけれど、まあいいだろう。
何もしないで居ると、やっぱりあの光景を思い出してしまう。
『生きるって、なんなんだろうね』
さっきのように、やっぱり恐怖心はあるのだけれど、少し前までにはなかった感情が生まれていた。それは、好奇心だ。彼女がもし本当に幽霊なのだとしたら、その仕組みを解明するってのはすごく憧れることだ。
だから、調べてみようと思った。
「いてて……」
僕は頭痛持ちだ。全力疾走し続けたのだから、頭痛がやってきたとしても何らおかしくない。というか、逆に痛くならないほうがおかしいくらいだ。
薬を飲みつつ、どうやって調べるのかについて、思いを馳せていた。
3
考えた。
考えて、考えて、そして考え尽くした。
けれど、幽霊なんてものは存在しない、という結論が出るばかりで、肝心の調べ方については見当がつかなかった。せめて、もう一度だけでも彼女を見ることが出来れば、何らかの方法が思いつくのだろうけれど、その彼女に会う方法も思いつかない。だから、とりあえず彼女にあった場所――教室――に行く事にした。
の、だが―――
「あれ、ここどこだっけ?」
我武者羅に走っていたせいで、ここがどこだか見当がつかない。
「おいおい、嘘だろ……。この年で迷子とか冗談じゃない…!」
おろおろしていると、とつぜん、強い風が吹いた。
生い茂る雑草が揺れる。
砂が舞う。
これは、既に使い古された予兆だ。
だから、僕には次の瞬間何が起きるのかがいともたやすく想像できた―――
「…………」
世界が、止まった。
予想通り、そこには彼女がいた。
彼女は何も語ることをせず、ただじっと僕を見つめている。
その姿からはやはり、何の感情も見出すことはできなかった。
僕は突然の出来事に驚き、声が出せない。
いや、それはきっと違う。僕は彼女が再び僕に話しかけてくれるのを待っているのだ。けれど――
「………」
「………」
彼女は一切口を開くことはなく、自然と僕らは見つめ合っていた。
そんな沈黙に耐えられず、僕から話しかけることにした。
「君は、幽霊なのか……?」
いきなりそんな質問をするのはどうかと思ったけれど、彼女には回りくどい質問は無意味だと思った。場を和ませるための世間話などはもっての外だ。
「………」
けれど、それでも彼女は口を開かない。
僕は彼女に無視されているのか?そんな考えが頭をよぎる。けれどそれならば彼女の方から僕のところへやってくる理由なんてない。つまり、そうではない。彼女には、僕に会いに来た理由がある。それが言いにくいことだから何も言わない、そう考えるのが妥当なところだろう。ならば、僕は彼女が言いやすくなる状況を作るまでだ。
「ねぇ、何か用?」
「………」
まだ、駄目、なのか…?
彼女は僕に用があってここに来たわけではないのか?
でも、ならなぜ、彼女はここにいるんだ?
もう一度尋ねようとした。だけど、それはできなかった。
彼女は消えていた。
あの教室で、突然消えた時と全く同じく、消失していた。
今度はもう二回目なのでさすがに気を失うということはなかったけれど、それでもやっぱりこの怪奇現象を受けいれることはできず、ただただ呆然と、その場に立っていた。
4
『生きるって、なんなんだろうね』
僕は、『生きる』ということについて、考えていた。
『生きる』というのは、『そこに在る』ということだと思う。『そこに在る』からこそ『生きている』のであって、『そこにない』ものは『死んでいる』のだ。
でも、彼女が求めているのはそんな答えではないのだと思う。
僕にはその程度の答えしか出すことはできないのだけれど、もしかしたら彼女はその真の答えに辿り着いているのかもしれない。
にも関わらず、それを受け入れていない。だからこそ、他者の意見を求める。その他者が、偶然にも僕だった。今回のことは、実のところでそれだけなのであって、それだけでしかないのだろう。僕が彼女のことで一喜一憂しているのも、彼女にとっては実に瑣末なことで、他人ごとなのだろう。それはたしかに悲しいことではあるけれど、自分の気持を他人に完全に理解して欲しいと願うのはとても傲慢なことだ。そんなことができるはずがないのだ。だから僕はそれを受け入れるしかないのだろう。そうやって理屈ではわかってはいるのだけれど、やっぱり悲しいことには変わりないわけで。本当に、ままならないなあ……。
「生きるって、なんなんだろうな」
彼女のようにそう呟いてみた。そうすれば、彼女の気持ちを少しは理解できるのでは、という願いを込めて。そんなこと、できるはずがないのに―――
「何してるんだ、お前?」
「え?」
そこには、クラスの男共の一人、尾澤(おざわ)幸雄(ゆきお)がいた。幸雄くんは、その名前のせいで嘘つきの政治家と犯罪者の政治家の融合体だとか揶揄されているけれど、かなり良い奴だ。だから、クラスメイトが河原で大の字になってブツブツ言っているのを見たら、放っておけなかったのだろう。
「ねえ、幸雄くん」
「なんだ?」
「生きるって、なんだと思う?」
「突然どうしたんだよ。哲学にでもハマっちゃった?」
「………」
「楽しいってことだろ」
「どうして?」
「生きてるからいろんなことが楽しいんだよ。生きてなかったらそんなことを感じることもないじゃねーか」
「でもさ、生きてると辛いこともあるよね」
「そりゃあるだろ。辛いことがあるからこそ、楽しいことを素直に楽しいって思えるんだよ。辛いことは人生を楽しむスパイスなのさ」
「幸雄くんは、すごいなあ。僕にはそんなふうに思えないよ。僕にとっては辛いことは辛いこと、それでおしまいさ」
「すごくなんてないさ。ただ人よりちょっとばかり前向きってだけだろ」
「それがすごいんだよ」
「お前は人より後ろ向きって感じだけどな」
「………否定はしないけどさあ……」
「まだ、アイツのこと気にしてんのか?」
「?」
「アイツのことは、お前は何も悪くないよ。だから、早く忘れちまえ。辛いことはたしかに人生のスパイスにはなるけど、あまり度の行き過ぎたやつはただ本当に辛いだけだ。そういうことは忘れちまえばいいんだよ。俺らの脳はちょうどいいことに物事をすぐに忘れられるようにできてるからな。まあ、授業で聞いたこととかもすぐに忘れちまうのが玉に瑕だけど」
「いったい、何を…?」
「あん?もう忘れてんのか?ちょいと早すぎる気もするが……まあ、忘れられたんならいいか。何度も言うようだけど、お前は悪くないんだから」
「だから、いったい――」
「じゃあな、俺は帰るよ。また明日、学校で」
「え、あ、うん……」
そうして幸雄くんは去っていった。彼の言っていたことはいったい何だったのだろうか。正直、よくわからなかった。けれど、なぜだかとても救われたような気がする。だから、よくわかってはいないけれど、僕は幸雄くんのことが好きだ。もちろん友達としてって意味だけど。
「あ。幸雄くんに帰り道教えてもらえばよかった」
既に幸雄くんの姿は見えなくなっていた。
5
頭が、痛い。
比喩ではなく、頭がかち割れそうなほど痛い。
薬を、薬を飲まなければ――――
「………」
目が覚めると、そこは夜の河原だった。
「あー…帰り道がわからないからまた大の字になっていろいろと考えているうちに寝ちゃってたのか。こんなとこで……」
さすがにそろそろ帰らなくては親も心配するだろう。
「帰るか…」
帰り道はわからないけれど、まあ、そのうち辿り着くだろう。
結論から言うと、それは失敗だった。
いや、もしあのまま河原で寝ていたとしてもきっと同じ事になったのだろうから、あまり関係はないのかもしれない。けれど、親に電話するなりなんなりして迎えに来てもらうべきだった。そうすれば、こんなことになることもなかったのに―――
「へーいボーヤ。こんな時間になーにしてるんだー?お兄さんたちちょっと金なくて困ってんだよなー。貸してくんね?ってか貸せやゴラッ!!」
暴走族(まだ絶滅してなかったことに驚いた)に絡まれてしまっていた。
「すみません、僕、お金持ってないんで」
「ヒャヒャヒャ!!『ぼくぅ~』だとよ!!最近のガキはみんな金持ちだってのは知ってんだよ!!ゴタゴタ言わずに早く出せや!!」
「いえ、ほんと持ってないんで……」
「あ~?生意気言ってんじゃねーよ糞ガキィ!!」
「がはっ……!?」
殴られた。
ああ、誰かに殴られるなんていつ以来だろうか。
僕は基本的に争いごとが嫌いだ。喧嘩なんて、小学生の頃に数回やった程度だ。身体だって全く鍛えていない。だから、衝撃に顔が歪み、内蔵が揺すぶられ、胃の中のものが逆流し、嘔吐してしまった。
「うっわ~キッタね~」
「最近のガキはモヤシばっかりだな!」
「って、おいおい。このガキ、マジで金持ってねーぞ」
「ヒャオ!マッポが来る前にとんずらこくぞ、野郎ども!!」
「「「ヒャハヒャハヒャハヒャハヒャハッ!!」」」
そうして暴走族どもは去っていった。けれど、僕はまだ立ち上がることもできない。
そのとき、また強い風が吹いた。
ああ、また彼女がやって来るのだ。
今度こそ、何かしゃべってくれるかな。
あれ、なんだろう、瞼が重いや……
さっき寝たばっかりなのになあ……
ああ、頭が痛いや。薬を飲もう。
おっ、やっぱり彼女が出てきてくれた。
ああ、でも、もうダメだ。
眠くて眠くてたまらない。
もう、寝ちゃおうかな。
『生きるって、なんなんだろうね』
「さあ、楽しいって事なんじゃないかな」
おやすみ―――
6
僕には友達がいる。
彼にも友達がいる。
彼女にも友達がいる。
みんなみんな、友達がいる。
きっと、親友だっているのだろう。
けれど、僕には親友がいない。
よくいる八方美人だから特別に親しい人がいない、とか、そういうことじゃない。僕は八方美人だなんてお世辞でも言えるような人間じゃない。まあ、八方美人がお世辞なのかどうかは置いておくとして。
僕の目指す対人関係。それは浅く狭く、だ。浅く広く、でも、深く狭く、でもない。浅く狭く、だ。
誰かと深く関わるのが怖い。もし、自分のことを百パーセント理解している人に出会ったら、人はどうするだろうか。少なくとも僕は、その人には絶対関わらないようにするね。それが無理だったら少しでも距離を置こうと努力するさ。
誰かのことを知りたいと思うことは、決して悪いことではない。けれど、誰かに知られたくないと、そう同時に思っていることも忘れてはならない。
要は、距離感が重要なのだ。近づきすぎるのはよくない。「俺に近づきすぎるとやけどするぜ」なんていうわけではないけれど、実際誰かに近づきすぎるのは危険だ。
人は誰かのことをよりもっと知りたいと思う。けれどその反面、知りたくないと思ってもいる。
だって、考えてごらん。たとえば僕には好きな人がいて、その人にちょくちょく話しかけているとする。でも、その人は僕のことを鬱陶しいと思っているかもしれない。僕のことを嫌っているかもしれない。もしそうだとしても、知らなければ今までどおりやっていける。だけど、知ってしまったらその関係はもろく崩れる。きっとそれはもう修復不可能だ。知らぬが仏はまさに真理。
では、彼女はどうだったのだろうか。
彼女と同じクラスになってから、数週間くらい経った。クラスの男共は彼女の周りに群がっていた。まるで転校生扱いだってくらいに。だけど、彼女がそんな彼らに言葉を返したことを、いや、反応を見せたことすら僕は見たことがない。それでもまったくあきらめずに群がってたっていうんだから、まったく感心するよ。尊敬はしないけど。
彼女を一言で表現しろって言われたら、いろいろな言葉が思いつくけど、でも最終的に選ぶ言葉は、「孤高」だ。誰も寄せ付けない、誰にも近寄らない。彼女は、もしかしたらこの世界に彼女ひとりきりだったとしても生きていけるんじゃないかと思うくらい、孤高だった。
それは、僕が昔憧れていた存在。ずっと昔から、そうありたいと願い続けて、けれどすぐに自分にはなれないと気づき、諦めきってしまっていた存在。だから、僕は彼女のことがすごく気になった。それが恋なのかどうかは僕にはわからない。ただの憧れだっていう可能性の方がずっと高いだろう。そもそも、僕は誰かを好きになったことなんて、ただの一度もないのだから、恋だっていう可能性はあまりにも低すぎる。まるで夢物語だ。
僕は言うなればそう、恋に恋しているのだ。
誰かを好きになってみたいと思っている。孤高な存在になりたいと思いながらそんなことも思っているのだから、我ながら矛盾しているとは思う。けどまあ、それには目を瞑ろう。とにかく、僕は恋に恋しているのだ。
僕が今まで、ただの一度も誰かを好きになったことがないのには、当然理由がある。僕は、人間の醜さを知っているからだ。人間は、醜い。どうしてここまで醜くなれたのかと、逆に尊敬してしまうくらい、醜い。
僕の嫌いな言葉は、いくつかあるのだけれど、その中でダントツに嫌いなのは「絆」という言葉だ。なんてうすら寒い言葉なんだろうか。人間の醜さを象徴しているかのような言葉だ。
人が最も好む関係。それはもちろん、ギブアンドテイクの関係だ。ギブだけだと、なんで自分だけと反感を持つし、テイクだけだと、なんだか借りを作っているかのようで、無性に不安になる。ただより高いものはないってやつだ。
けれど、人はギブアンドテイクの関係を極端に嫌悪する。貸し借りだけの関係なんて嫌だ、なんて、どの口が言えたことなのだろうか。そんな関係を一番好んでいるくせに。
そんな、気に食わない関係を正当化するために使われる言葉、それこそが「絆」だ。いやはや、何度口にしても寒気がする言葉だ。
孤高を望むくせに、恋に恋をする。
恋に恋しているくせに、人間が大嫌い。
それこそが、僕。
もし、僕って存在を一言で表現しろって言われたら、僕は迷わずこう答えるよ。
「矛盾」
断章
少年には友達がいなかった。
親友が、ではなく、友達がいなかった。
他者と「友達」という言葉の定義に違いがあって、相手は友達だと思っているけれど自分はせいぜい知り合い程度にしか思っていないとか、そういうことでもない。
間違いなく本当に、少年には友達がいないのだった。
けれど、少年はいじめられていたわけではない。
ただ単純に、友達がいないというだけの話だ。
でもそれだけでも、周囲との隔絶は明確だ。
現に少年は浮いていた。
少年はその現状を嘆いていた。
少年は友達が不要だったわけではない。できなかったのだ。不要だから作らないのと作れないのとでは、大きな違いがある。
少年はいじめられていなかった。けれど、それはあくまで客観的事実でしかなく、少年自身はいじめられていると思っていた。友達が一人もできない原因は、己ではなく他者にあるのだと決めつけて、己は何も悪くないと自己弁明していた。
だから、少年は教員に助けを求めた。
教員は、嫌そうな面倒くさそうな顔をした。
手間の掛かる仕事を増やされたのだから、それも仕方のない事だろう。きっと彼は、そういう問題は生徒間で解決するべきだと思っていたのだろうし、実際にその方がいいのかもしれない。
だがしかし、少年にはそんなことはどうでもいい。現実として、教員は己の味方をしてくれないと、そう理解するだけだ。
次に少年は親に助けを求めた。
でも、少年の被害妄想は今に始まったことではなく、彼らは今までにも少年にそう言われ、何度か学校を問い詰めたことがあった。その度に、それは全て少年の作り話であると思い知らされており、いい加減懲りてしまっていた。
だから、彼らは少年のことを適当にあしらった。
そして少年は、ついに己の味方は一人もいないことを理解した。
それから少年は、ドラッグに逃げた。
きっかけは些細な事だった。
少年が全てに疲れ果て、街をふらふらと彷徨っていたら、今風の若者に話しかけられた。その男はドラッグの売人であり、その誘惑に少年は負けてしまった。それ以上でもそれ以下でも、もちろんそれ以外でもない。本当に、ただそれだけの話なのだ。
少年は、ドラッグに溺れた。
次から次へと買い求めた。
少年には友達がおらず、貯金もかなりのものになっていたので、資金面ではそれほど苦労することもなかった。そう、なんら苦労することもなく、ドラッグを手に入れることの出来る環境にいてしまったのだ。もし少年がもっと貧しい家庭に生まれていれば、きっとここまでひどい事にはならなかったのだろう。けれど少年はそうなってしまっていた。
少年の記憶は、次第に穴だらけになっていった。
都合の悪いことも、良いことも、種類を問わず、忘れていった。
あまりの薬物乱用により、脳に異常をきたしてしまっていたのだ。
なのに、そうだったのにも関わらず、誰一人として少年の異常に気づくことがなかった。誰も、少年のことなど見てはいなかった。クラスメートも、教員も、親も、一人残らず全員が、誰も気づくことがなかったのだ。
普通ならば、本来ならば、そんなことはありえない。たとえ気にしていなかったとしても、少年の変わり様は実に顕著なものだったのだから。
少年は、運が悪かった。そう言うしかないのかもしれない。言葉では実に簡単だ。でも、現実はそんな言葉では表すことのできないくらい深刻だ。
少年の将来は、すでに失われていると言っても過言ではなかった。
第二章
1
「そういや、知ってる?」幸雄くんが突然尋ねてきた。
「何を?」
「いや、ニュース見てねーの?最近、ガキが麻薬取締法違反で捕まったことだよ」
「ああ、そういえばそんなニュースあったね」
たしかにそんなニュースはあった。でも――
「でも、なんで突然?」
「ん……特に意味は無いんだけど、っていうかただ世間話で会話を広げていこうかと思っただけだよ」
「あーなるほど。でもそれならもっと取っ付きやすい話題にして欲しかったなあ」
「じゃあお前がしてみろよ」
「……政治の話でもする?」
「ノーセンキュー」
「だーよねー」
暴走族に襲われてから必死の思いで帰宅すると、すでに登校する時間だった。幸雄くんとまた明日って別れていたので、サボるのはちょっとばかしアレだったから登校してきたのだけれど、眠い。あと身体中が痛い。うーん、やっぱりサボっちゃえばよかったかなー。
「ねえ幸雄くん」
「あん?」
「彼女、どうなったか知ってる?」
「彼女?誰のこと言ってんだ?」
「奥(おく)窓(まど)麗(れい)華(か)さん」僕の言う「彼女」ってのはもちろんあのゴーストちゃんのことだ。彼女はそういう名前なのである。さすが深窓のご令嬢って感じ。
「……今日、夕方から雨降るらしいぞ。傘持ってきたか?」
「…いや、持ってきてないけど…」
あからさまに話をそらされた。いったい、なぜ…?
「あとそういえば」
「今日はその言葉多いねー」
「なんで、俺に対してだけ話し方違うんだ?」
「あー……確かに違うねー。そんなに意識してるってわけでもないんだけどね。幸雄くんと話す時ってなんか和むっていうか、リラックスするっていうか」
「つまり、そっちが素だってこと?」
「そうだね。『俺』っていう一人称とか、それに見合った喋り方ってあんまり好きじゃないんだよね。なんか野蛮っぽくて。でもまあ、他の人と話すときはそうしないと舐められちゃうからね」
「さりげなく俺のことを馬鹿にしやがったような気がするぞ!」
「気のせいだよ」
「そうか……って納得できるかっ!」
「ははは」
「笑い事じゃねえええええええ!!」
ああ、やっぱり幸雄くんと話すのは楽しいな。
でも、やっぱり眠いや。
なんか僕、そればっかりのような気がするけれど。
「いててっ」
「どうした?」
「頭痛が……」
「保健室行くか?」
「いや、大丈夫。いつものことだから。薬飲めば大丈夫だよ」
「そう、なのか…?」
「やだなー、幸雄くんは心配性すぎるよ」
「楽観視しすぎて損することはあっても、心配しすぎて損することはないだろ?」
「早死にしそう」
「うるせえ。気にしてることを言うな」
「気にしてたんだ!?」
「なんちゃって」
「………」
「………頼む、なんか反応してくれ」
「ちょーっと難易度高いかなーって」
「ちっくしょおおおおおおおおおおおお!!」
そう言って、幸雄くんは走り去っていった。
はて、もうすぐ授業始まるけど、どこ行くんだろう。
まあ、いいか。
とりあえず、薬飲んで大人しくしていよう。
あと授業前にちょびっとだけ寝ておこうかな。
ああ、眠い眠い――――
なんて思ってたら、すぐに教員は来てしまった。
幸雄くんは、遅刻扱いされた。
今まで無遅刻無欠席だったのに。
2
さて、ようやくやってきた放課後。ようやくって言ったけれど、体感時間ではすごく短かった。授業も何一つ覚えていない。ああ、授業中爆睡しちゃってたのね……。
さて、気を取り直して、今日こそ彼女のことを調べよう。
でもその前に、もう一度だけ薬を飲んでおこうかな。
あんまり飲み過ぎると、耐性ができてしまい、薬の効果がなくなっちゃうってのは理解しているけれど、かといってこの頭痛に耐え切るのも至難の業なわけで。つまりはやっぱり薬を飲むしかないんだよね。いやまったく、困ったことだ。
そのとき、風が吹いた。
「ああ、くる……」
調べようとは思っていたけれど、その方法は依然として思いついてなかったからラッキー。
「ハロー、奥窓さん」
「………」
「うーん、今日こそはなにか喋って欲しいんだけどなー」
「………」
さすがにもう慣れた。気絶までしちゃってたなんて、今ではもう考えられないくらいだ。まあ、そんなに慣れたいことでもなかったけれど。
けれど、やはり彼女は何もしゃべってはくれない。
だから、僕は一人で勝手にしゃべり続けることにした。
「生きるってどういうことか、だったよね」
「………」
「僕なりにそのことについて色々と考えてみたよ。生きるってのは、辛いってことだ。人生ってのは基本的に辛いことばっかりだ。もちろんそりゃあ、楽しいことだってあるよ。けれど、楽しいことってのは辛いことに比べると圧倒的に少ないし、インパクトだって弱い。人はいいこと探しよりも嫌なこと探しのほうが得意な生物だからねー。悲しいことに。一生が修行、いや責め苦かな。辛いことがあってもそれを機に成長することなんてほとんどないもんね。いやー、ほんと、生きてるって辛いねー」
「………」
「そういえば奥窓さん。今日、どうして学校来なかったんだ?いや、その質問はおかしいか。今来てるわけだし。じゃあ、どうして時間通りに学校来なかったんだい?遅刻だよ。遅刻は幸雄くんだけで十分さ。幸雄くん今日遅刻しちゃったんだよー。無遅刻無欠席が俺の自慢だ、とかしょっちゅう言ってたくせにそれすらも無くなっちゃったんだよ。まったく笑っちゃうよねー。それならいったい幸雄くんは何のために生きてるんだっての」
「………」
「う……」
さすがにもう限界だった。相手が何の反応もしてくれないのに一人でずっと話し続けるって、すっごく辛いことだったのね……。これからは授業中、挙手発言してあげようかなって思った。
「生きるって、なんなんだろうね」
「へ……?」奥窓さんが話しかけてきた。でも――
「いや、それについてはさっき答えたじゃん。もしかして、あれじゃ不満だった?」
「………」
「まただんまりですか」
わからない。まったくわからない。いったい彼女は何がしたいんだ?何が目的で僕の前に現れて、そして何のために同じ言葉ばかりを言い続けるんだ?僕にはそれに意味があるとは到底思えない。だけど彼女はそれに意味を見出しているということなのだろうか。わからない―――
「あの、さ。いい加減教えてくれないかな。どうして君は同じ事ばかり言うんだ?そして、どうしてそれ以外は何も言わないんだ?最後に、君は幽霊なのか?」
「………」
「はあ……」
そろそろ、もうダメだ。
僕は、震える手で彼女の肩を掴んだ。そして、そのまま押し倒し、無理矢理にでも言わせようとする。
身体が勝手に動く。
自動化していた。
すでに意識が介在する余地はない。
自らの身体を、支配することができない。
身体の支配権を僕よりも高次元の存在が握っているかのようだ。
その誰かが、僕に本能のままに動けと命令している。
理性を捨てろ、と。
その女を。
奥窓麗華を。
犯せ、と―――
「はあ、はあ、はあ……」
自然と呼吸が乱れる。
僕は、理性を捨てていた。
人は知性と理性があるからこそ、他の生物よりも上位の生物として扱われる。つまり、今の僕は人ではない。獣だ。理性を捨て、本能のみに従う獣だ。だからたとえば誰かが説得したとしても、それには何の意味もない。今の僕は言葉を理解することすらもできないのだから。
これは普通なことなんだ。
生物として、当たり前のことなんだ。
現代人が最もよくため込んでいるものは、マネーではなくストレスだ。ストレスを溜めることはもちろん身体にいいわけがない。
だから、解放する。
本能を、解き放つ。
先のことなどどうでもいいし、そもそもそこまで考えが及ぶことすら無い。
「うおああああああああああああああああああああ!!」
僕は叫んだ。やはりそこには、知性など欠片も感じることはできなかった。完全に、獣だった。
だから、僕はここがどこなのかを忘れていた。
「なあ、お前、そこで何やってんの?」
「へ……?あ、先生……」
理性アンド知性、回復。
「なんか、突然誰も居ないところで喋り出したと思ったら、床に倒れこんで。それから獣みたいな叫び声まで上げちゃって」
「ええと、それは、うーんと……」
「そういえばお前昨日突然倒れてたよな。まだ体調治ってねーんじゃねーか?」
「へ?あ、いや、うん、そう!そのとおり!ザッツライッ!俺、ちょっと保健室行ってきます。いやー、昨日あんまり寝てないから寝ぼけてんのかもしれないですね!」
「おいおい、何やってんだよお前」
「じゃあ、ちょっと今日はもう早退させてもらいます!すいません、さようなら!」
そして僕は教室から走り出ていった。
いやー、恥ずかしー。
奥窓さんもいつの間にかいなくなってるし……。
3
さて、これはいつのことだったか。
いつのことだったかは覚えていないけれど、これは確か放課後だ。
その日は金曜日で、週末を目前に控えており、教室は阿鼻叫喚の地獄絵図だったのをよく覚えている。よくもまあ、毎週毎週そこまで喜べるものだ。
とにかくその日、
僕は、彼女に告白した。
まさに、一世一代の大勝負というつもりで、僕は告白した。
「生きるって、なんなんだろうね」
すると彼女は、そう答えた。
僕にはまったく意味が分からなかった。そんな言葉が、告白に対する答えだとは到底思えなかったし、思いたくもなかった。
僕は、微かな希望を託して、
「どういう、こと?」と、尋ねた。
すると彼女はこう答える。
「生きるとは、辛いということ。生きているから辛いのであって、生きていなければ辛いと感じることはない。けれど、わざわざ自分から辛い目に遭おうとするのは奇人変人の行いよ」
「だから、どういう…!」
「あら、まだ分からないのかしら。それとも分からない振りをしているだけ?ならば、もっとわかりやすく言ってあげるわ。お断りします、と言っているのよ」
世界が、暗くなっていく。
ああ、彼女はこうもよくしゃべる人だったのか。
こんなにもたくさん話しかけられたのは、きっと僕だけじゃないだろうか。
そして、彼女に何らかの感情を抱いてもらえたのも、僕だけなんじゃないだろうか。
でも、その感情は、僕の求めていたものじゃない。
彼女の僕を見る目は、風呂場に発生したカビを除去しなきゃいけないな、ああ、面倒くさい、と思っているようなときの目に酷似していて――――
僕は、彼女を壊すと決めた。
完膚なきまでに粉々に、ぶっ壊してやると決めた。
彼女が許せない。
なぜ。
なぜ告白を断るんだ?
あまつさえ、その方法がまた酷すぎる。
彼女は僕をどうしたいんだ?
そうか、わかった。
彼女は僕を壊したいんだ。
でも、残念。
僕は壊れないよ。
壊れるはずがない。
その前に、僕が、君を壊す―――
「ねえ、奥窓さん」
「なにかしら。まだ私に用があって?」
「いや、別に用ってほどではないよ。まあ、ちょっとした質問かな」
「いいわ。聞いてあげる。答えてあげるかどうかは、まだわからないけれど」
僕は彼女の返答を聞き、ほほ笑み、そして息を吸った。
「僕は君をずっと見てきた。それは好きだからってわけではなくて、僕が昔から憧れている存在が、まさに君のような人だったから。ずっと、ずーっと見てきた」
「ストーカー宣言か何かかしら…?」
「でも、いや、だからこそ、僕は気付いてしまったんだ。君は、偽物だって。君は孤高の存在なんかじゃない。ただ、カッコつけてただけなんだって。僕には君が、理解できない。孤高の存在がカッコいいってのはまあ、僕にだって分かるさ。僕だってそんな存在に憧れているからね。だけど、だからこそ!僕は僕がそうなってはいけないと思っている!僕なんてのはどうしようもなく取るに足らない存在で、こんなヤツになれる程度のものが僕の憧れていた存在だなんて、たまらなく嫌だから!だから、僕は君のことが大嫌いだ」
「なら、なぜあなたは私に告白してきたの?好きだから、でしょ?となると、あなたの言っていることは矛盾しているということになるのだけれど」
「それは、君のことを少なくとも嫌いではなくなろうと思ってやったことだよ。誰かに嫌われるのも、誰かを嫌いになるのも気分が悪いからね。もし君がイエスと答えるようならば、好きになることはありえないけれど、けれど嫌いではなくなると思ったのさ」
「……あなたは、狂ってる……」
「はは、そうかい?まあ、そう思うのは君の自由だ。気に入らないけれど、思想の自由は全国民に認められているしね。でもね、言論だって自由なんだよ?」
「何を言いたいの?」
「君は、カッコつけていた。それは間違いない事実だ。カッコつけていたということは、誰かの目を意識していたということでもある。もうその時点で、孤高の存在とは呼び難いよね。他の人達と何も変わらない。まったく同じ、取るに足らない俗物だ。僕は人間が嫌いだ。大嫌いだ。君みたいに、どうしようもなく醜い屑しかいないからね。そうそう、僕ってね、潔癖症なんだ。だから、ゴミを見るとそれを取り除かずにはいられない。ああ、ちょうど、ここにもゴミがある。大きな大きなゴミだ。袋に入りきるかな?入りきらなければ、カットすればいいかな?」
僕は彼女の方へ一歩歩み寄る。
「ひっ…!!」
彼女が後退する。
すぐに僕がまた一歩進む。
彼女が後退する。
また、僕が進む。
後退する。
進む。
手が、届く――――
「おっと」
でも、ふと気がついた。
「ああ、素手でゴミを触ったら手が汚れてしまう。手袋をはめるか、別の道具を使わないと。家に取りに戻ってるよ。ちゃんとそこで、僕に除去されるのを待ってなよ」
「……その前に、最後にもう一回いいかしら……」
「なんだい?」
「生きるって、なんなんだろうね」
「いつか死ぬってことだよ」
そう言って、僕は家にゴミ袋を取りに戻った。
しばらくして元の場所に戻ると、彼女は死んでいた。
車に轢かれて、死んでいた。
どうやらあれからずっと同じ場所に呆然と立っていたようで、曲がり角を曲がってきた車がそれに気づかず轢いてしまったらしい。
僕はそれを見て、
「ああ、人間って、死んでからも汚いんだ―――」
と、言った。
4
足りない。
足りない足りない足りない足りない足りない―――
薬が、足りない。
頭痛が、止まらない。
あの薬がないと頭痛はちっとも引かない。
だから、薬が薬が薬薬薬薬薬薬薬薬薬―――
「おい、おいっ、おいっ!」
「っ……!?」
「やっと正気を戻したか……」
「ゆき、おくん…?」
「ああ、そうだよ」
「どうした、んだ?」
「本当にわからないか?」
「え、うん…」
「薬をやめろ」
「へ?」
「聞こえなかったか?薬をやめろ、って言ったんだよ」
「どうして?」
「それは麻薬だからだ」
「何を言ってるんだ、幸雄くん?僕は頭痛薬しか――」
「だから!それが麻薬だって、言ってんだよ」
「意味が、分からないなあ……」
「分からなくたっていい。薬をやめてくれれば、それでいい」
「納得出来ない」
「しなくていい。薬をやめろ」
「ちょっと横柄過ぎないかな?」
「だからなんだ」
「気にいらない」
「……」
「幸雄くん。僕は君のことが好きだし、尊敬もしてる。でも、君の言いなりじゃない」
「俺は力づくでもお前から薬を離す」
「じゃあ僕は、力づくでそれを防ぐよ」
僕と幸雄は同時にバックステップを取る。距離があまりにも近すぎて、そのままでは少しでも油断した隙にやられてしまう可能性が高かったからだ。
だが、そう思っていたのは僕だけのようだった。
幸雄は、着地と同時に前へ、すなわち僕の方へ跳んだ――
「がはっ……!?」
幸雄の拳が僕の鳩尾にクリーンヒットする。
しかし、僕もやられてばかりではない。
反射的に右脚を前へ出す。
「チィッ!」
幸雄の脚に当たる。それによって幸雄はバランスを崩す。
僕はその隙を逃さず、顔面を殴り飛ばす。
そして、後ろへ倒れた幸雄に馬乗りになって殴り続け、僕が勝つ――
だが、そうはならなかった。
幸雄は右手を地面につき、それを軸とすることで、僕の拳を避け、そのまま体当たりをしてくる。
今度は僕がバランスを崩す番だった。けれど、僕には幸雄のような芸当は真似できない。
だから当然耐えきれるはずもなく、転倒する。
その隙を幸雄は逃さない。
彼の考えも僕と同じだった。やはり、僕は馬乗りになられる。
そして幸雄は僕を、殴る殴る殴る殴る―――
勝敗は既に決したといってもいいほど、絶望的な状況だった。
だがしかし、僕は敗ける訳にはいかない。
脚を振り上げ、幸雄の頭を蹴る。
幸雄は完全に油断していたので、見事に決まる。
強い衝撃に、幸雄の脳が揺れる。
そして、とどめとばかりに立ち上がり、幸雄の顎にアッパーを食らわせた。
これで、僕の勝ちだ―――
幸雄が倒れた。
勝利を確信し、僕は横になって、大の字になった。
動いたのはごく短い時間だった。けれど、肉体的にも精神的にも強大な負荷がかかっていた。やっぱり僕は、運動不足のようだった。
このとき、僕は完全に油断していた。既に勝ったものだと、思い込んでいた。
突然幸雄が跳ね起きる。あまりに突然なことで僕は一切反応することができず、気づいた時にはまた馬乗りになられていた。
「………」
「………」
これは僕にとっては大ピンチだったが、幸雄にとっては絶好のチャンスだったはずだ。だが、彼は攻撃に移らない。
「薬を、やめろ」
「………」
あくまで彼は、僕を説得するつもりのようだった。
けれど、僕は何も悪くはないのだ。
ただ、幸雄が僕に理不尽な要求をしているに過ぎない。
なぜ、頭痛薬を使用することがいけないのだ?
理解、できない。
理解しようという気はあっても、どうしても理解できない。
だから僕は、頭突きを食らわせた。
今度こそ、幸雄は気絶した。
僕は確かに争いが嫌いだけど、必要なときはたとえどれだけ嫌いだとしてもやってみせるんだよ―――
第三章
1
「僕は、誰だ……?」
これは冗談ではない。本当に、僕は――もしくは俺は――自分が誰なのか分からない。
覚えているのは二人の人間の名前。
奥窓麗華と尾澤幸雄、それだけだった。
だが、その二人についての記憶もおぼろげで、ほとんどよく覚えていない。
麗華は僕の恋人で、幸雄は僕の親友。それくらいしか覚えていない。
とりあえずここは、知っている人に会ってみることにした。
けれど、二人がどこにいるのかなんて僕にはわからない。分かるはずもない。
だから、手当たり次第に歩きまわることにした。
この町にはいろいろなものがあった。スーパーマーケット、コンビニエンスストア、ファミリーレストラン、学校、駅、大きな橋、公園、役所、河原、住宅街、エトセトラ。まあ、どこにでもあるようなものばかりだったけれど。
でも、そのどこに行っても記憶は戻らない。何も、わからない。
ここには既視のものは何一つなかった。いや、ここにはというのは誤りだ。どこにも、既視のものはない。それは、なんだかすごく悲しいことだった。
そうやって少しの間歩いていると、一人の男が僕の方に寄ってきた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「いやまったく、今日はいい天気だね」
「そうですか…?」今日は太陽が全く見えないくらい曇っていた。
「おっと、失礼。僕は晴れの日が嫌いなんだよ。日光を浴びるとそれだけで体力が吸い取られていくような気がする。だから僕にとっては曇りの日こそがいい天気の日なんだよ」
「はあ……あの、失礼ですが、会ったことありましたっけ?」
「……あるところに、ある少年がいました」
「?」
「彼は、親友がいないどころか友達すらいなかった。やっぱりそれはいろいろとつらいものがあったんだろうね。彼は自分がいじめられていると思った。ボッチの人にとっては体育教師が好んで言う「はい、二人組作ってー」ってのが苦痛だって言うし、彼もそうだったのかもしれないね。
で、彼は担任にそのことを相談した。でもあ~ら残念。その先生は消極的なことに積極的な今時のサラリーマンみたいな人なのでした。だから先生はなんの役にも立ってはくれませんでした。
それから彼は親に相談した。まあ、他には頼る人はいなかったんだろうね。でも、今までにも同じようなことは何度もあってね。だから両親は息子に被害妄想癖があるって知ってたんだ。で、適当にあしらった。そしたら彼は、薬に手を出した。
まあ、そっからは言うまでもないけど、少年は破滅したよ。少しずつ、少しずつ、少しずつ、記憶がなくなっていって、そしてついに完全になくなった。もしかしたらまだ何か覚えているかもしれないけど、でもどうやら自分の名前も、住所も、通っている学校も、そういった重要なことは何一つ覚えていないみたいだ。
そんな人は、もう社会にいるべきではない、隔離されるべきだ。社会に意地汚く残ったって、自分だってつらいし、当然周りにも迷惑がかかる。まあ、ぶっちゃけ邪魔なんですよ。どっか言ってくれないかなーって思ってるわけ。お国は障害者雇用機会均等法なんていう巫山戯たルールをつくっちゃってるけど、実際には障害者なんて邪魔でしかないのと一緒。いや、記憶をなくした奴なんて、障害書と一緒じゃなくて、障害者そのものだね。
だから僕は、そんな社会のゴミを掃除しようと思いまーす。ねえ、それが誰のことかはわかってるよね?」
「…誰のことなんです?」
「本気で言ってるのかい?もしそうなのだとしたらその図太さには畏怖の念を抱かずにはいられないが――ああ、忘れてたよ。そういえば記憶障害を患ってたんだったね。それなら仕方ないのかな?あれ、ってことは、自分のやらかしたことも忘れちゃってるってことなのかな?それは困るなー。君にはちゃんと罪を償ってもらわないとねー。ああ、この国の法で、じゃないよ。この国の法では君は裁けない。いやまあ、麻薬取締法違反で豚箱行きにはできるだろうけど、そんなことは僕としてはどうでもよくて、君に償ってほしいことはもっと別にある」
「いったい、あなたは何を――」
「ああ、ごめんごめん。自己紹介がまだだったね。奥窓敬介と申します」
「おく、まど……?」
「おや、どうやら思い出してもらえたかな?それならいいんだけど」
「麗華のお父さんですか?」
「……は?」
「いや、だから、今僕がお付き合いさせてもらっている麗華さんの―――」
「ッ――――!!」
「なっ―――!!」
男は突然殴りかかってきた。あまりにも突然なことで、反応などできるはずがない。いったいどうして、彼女の父親がいきなり殴りかかってくると想像できようか。娘はお前のような奴にはやらーんっていうような雰囲気でも無さそうだったし。
「……何を、するんですか?」
「いったい、どの口で娘と付き合っているなんて言えるんだ?」
「どういう意味です?」
「お前が、娘を――麗華を殺したんだ!!」
「何を言っているんだ、あんたは……?」
この男は何を言っているのだろうか。僕が麗華を殺した?んな馬鹿なっ!なんでそんなことをしなければならないんだ!意味がわからない。
なのに、そういう風に男に対して怒鳴る気には、まったくならなかった。なぜ―――?
「じゃあ(、、、)、どうしろっていうんです?」
僕の口から出る言葉は、汚名を着せられたことを咎めるものではなく、むしろその汚名を肯定していた。そんな、意志とは裏腹に動く口が、恨めしい。
「だから、言ってるだろ。償えって」
「具体的には?」
「君にも、死んで欲しいんだよ――」
そう言って男はバッグからナイフを取り出す。
僕は反射的に後ろへ跳ぶ。
だが、それを男は見越していたのだろう。もう片方の手で握っていた砂を僕の目に投げつける。
「ぐあっ!!」
目がやられる。
だが、そのまま突っ立っているわけにはいかない。
走る。
目を開けることができず前方不注意も甚だしいが、走る。
「待てっ!!」
男の叫び声が聞こえる。が、もちろん待つはずがない。
走る走る走る走る走る走る走る――――
そして――――
僕が最後に聞いたのは、車のクラクションの音と、急ブレーキの音だった。
2
僕は、死ぬのかな。
ああ、きっとお前は死ぬよ。
ちょっと幸雄くん、あんまりそうはっきり言わないでくれる?傷つく……。
あ?そんな事言ったって、事実なんだから仕方ないだろ。
まあ、確かにそうだね。きっと、僕はもう死ぬんだろうね。
そうさ。今のこの世界だって、死の世界一歩手前みたいなもんだしな。
うん。なら僕は、この世界で貪欲に生きてみようかな。
ほお?
あの世界でやり残したことが、あの世界に未練が、ないわけじゃない。たとえば、奥窓さんがどうして僕以外には見えなかったのか、とかね。
奥窓、ね……。
彼女がどうかした?
いや、なんでもないよ。
そう?
ああ、なんでもないさ。
そう、それならいいけれど。
なあ、生きるってなんだと思う?
おやおや、奥窓さんと同じ事を訊くんだね。
奥窓?何言ってんだよ。これはいつだったかお前が俺にしてきた質問だろ?
ああ、そういえばそんなこともあったね。
で、どうなんだ?お前はそのことについて長いこと考え続けて、いろいろな意見を聞いて、そして自分でもいろいろな考えを持ってきた。今は、どう思っているんだ?生きるってのは、どういうことだと思う?
そうだね…、生きるってのは、楽しいってことさ。
違う。
違うって……幸雄くんが言ったことじゃないか。
ああ、そうだ。俺が言ったことだ。お前の意見じゃない。俺は適当な誤魔化しに興味はない。俺が聞きたいのは、お前の意見だ。生きるということに対して、お前はどう思っている?
生きるってのは、チャレンジするってことだと思う。
なぜ?
生きてるとね、辛いよ。あの世界には、悲しいことや、苦しいことばかりだ。なんとかして避けられることもあるけど、でも避けられない事のほうがずっと多い。その辛さから逃れるには、やっぱり楽しいことを見つけなきゃならない。だけど、それがまた難しい。僕は欠陥人間だからね。素直に物事を楽しいって思うのが苦手なのさ。だから辛い。でも、でも、さ。僕は楽しいって素直に思うことは嫌いだけど、楽しむことはしたいんだ。だから必死になって、いろいろチャレンジする。
奥窓の正体を調べてたのも、それか?
うん、そうだよ。僕はお化けなんて大嫌いだ。ゴースト奥窓さんを初めて見た時に気絶しちゃったのも、まあ、それが原因なわけだしね。でも、僕は彼女の正体を探った。結局わからなかったけど、僕はすごく楽しかった。その間にも辛いことがないわけじゃあなかったのが残念ではあるけど、でもそれだって生きてるってことがよく実感できた。あの世界はとてつもなく不条理だからね。人生イージーモードで生きていける人もいるのに、僕みたいに無茶苦茶な高難易度の人生もある。確かに、それにはすごく不満はある。だけど、ゲームだって、あんまりにも簡単すぎるやつなんてすぐ飽きちゃうんだ。やっぱりある程度難しくないと面白くない。もしかしたら、僕ぐらいのがちょうど一番面白いくらいの難易度なのかもしれないね。まあ、希望的観測だけどさ。
それが、お前の答えか?
うん、そうだよ。
あの世界に未練はあるか?
さっきも言ったように、未練はあるよ。
じゃあ、戻りたいか?
……それは、どうだろう。
あの世界に戻って、罪を償うつもりはあるか?
罪?
ああ。でも、今はまだ分からなくていい。それを知るのは戻ってからでも十分だ。
悪いことをしたら、その責任を取る。そんなのはさ、子供でも知ってるよ。まだ学生だけど、でも僕らはもう十分大人といってもいい年齢だ。だから、僕は責任を取るよ。罪を、償うよ。
そうか。だったらお前はここにいてはならない。もう俺に、会ってはならない。
どう、して……?
俺はお前が創りだした逃避先だからだよ。
どういうこと?
だって、よく考えてみろよ。ここはどこだ?
僕の、精神世界みたいなところ、かな。
ああ、そうだ。そのとおりだ。そんな場所に、お前以外の人間が入ってくることができるわけ無いだろ?この世界にいられるのはお前と、お前が創りだしたものだけだ。だろ?奥窓。
………。
なっ!どうして、奥窓さんまで………。
今のお前に説明したところで、理解できないのは十分わかってるさ。でも、理解できなくてもいいから覚えていろ。俺が言ったことを。いや、違うな。忘れろ。俺のことは、全部忘れろ。じゃあな――――
3
目を覚ますと、そこは病院のベッドの上だった。
車に轢かれはしたけれど、奇跡的に怪我は少なかったそうだ。
今までは正直な話、自分が生きていようが死んでしまおうが、どうでもよかった。
でも、今はそうではない。
僕には、やることが、やらなければならないことがある。
それを果たすまでは絶対に、何があっても死ぬ訳にはいかない。
それはきっと、すごく辛いのだろう。
でも―――否、だからこそ、それには意味がある。
僕は罪を償わなければならない。
それは、簡単に終わらせてはいけない。
僕が苦しんで、初めてその償いには意味があるといえる。
具体的にどうすればいいのか。
だから、自分が正しいと思えることをやる。
それが本当に償いになるのかどうかはわからない。
けれど、僕はやってみせる。
これは、もしかしたらただの自己満足なのかもしれない。
でも、たとえそうだとしても、僕は償いをするべきなんだ。
だから、僕は、歩き出した――――
終章
「男の子には、お友達がいませんでした。だから男の子はとても悲しかったのです。それで彼は先生に助けてもらおうとしました。けれど先生には何も出来ませんでした。次に男の子は、お父さんとお母さんに助けてもらおうとしました。でも、やっぱり二人にも何も出来ませんでした。
それから男の子は、悪いお薬を飲むようになってしまいました。そのお薬には、悲しいことを少しの間だけ忘れることのできる力があったのです。でも、身体にはとても悪いものでした。そんなお薬を、男の子はたくさんたくさん飲み続けました。悲しいことを少しでも忘れていたかったから、そうするしかなかったのです。そして少年は、いろいろなことを忘れてしまいました。他にも、ある女の子にすごく悪いことをしてしまいました。そのせいで、その女の子のお父さんはとても悲しみました。
その時になって、ようやく男の子は自分が悪いことをしていると気づいたのです。でも、もう遅すぎました。男の子には、もうどうすることもできません。だけど、男の子は、少しでも正しい人になるために、お巡りさんのところに行きました。そして、牢屋に入れられました。悪いことをしたら、その分の悲しい目に合わなければならないのです。
しばらくして、牢屋から出た男の子は――いえ、もうすでにこの時には男の子ではありませんでした。立派な一人の男の人になっていました。その男の人は、自分のような悲しい目に合う人がもう現れずに済むように、国中を旅して歩きました。男の人がまだ男の子だった時のように、お友達がいなくて悲しんでる子がいたら一緒に遊んであげたり、そうでない子達には自分の悲しい出来事を教えてあげて、もし近くにそんな人がいたら助けてあげて欲しい、とお願いして回りました。みんな、男の人のお話を真剣に聞いてくれました。男の人は、そのことがとても嬉しかったです。これで、少しでもかわいそうな子が減らせたなら、男の人にとってはこれ以上にない幸せなことだったのです。
それと、男の人は、昔悲しませてしまった、あの女の子のお父さんに会いに行きました。もちろん彼は怒りました。どうして今になって自分のところにやって来るのか、彼には分からなかったのです。でも、どれだけ彼が話を聞いてくれなくても、男の人は一生懸命謝りました。ごめんなさい。ごめんなさい。しばらくして、彼は男の人を許してあげる事にしました。
これで男の人は、もう十分にやることをやりました。それでも彼は、旅を続けました。まだまだ、助けてもらっていない子はたくさんいます。そんな子たちを、みんな助けてあげる事はできません。でも、一人でも多くの子を助けてあげたかったのです。男の人は、今でもそんな旅を続けているそうです。おしまいおしまい」男が紙芝居を読み終えました。すると、
パチパチパチパチ
拍手が鳴り響きました。彼は、その音を聞くたびにとても幸せな気分になります。
「ねえ、おじさん」
そんな彼に、一人の男の子が話しかけました。
「なんだい?」と、彼は答えます。
「その男の人って、おじさんのこと?」
「さあ、どうだろうね。ただおじさんはお話をみんなに聞かせているだけだよ」
「ふーん、そうなんだ。ぼく、そのお話の男の人のこと、好きだよ」
「っ――!!」
「もちろん、おじさんのことも大好きだよ!」
「ああ、うん、ありがとう……」
彼は、あまりに嬉しくて、泣いてしまいました。
「おじさん、だいじょうぶ?どこか、いたいの?」
男の子がそんな彼のことを心配します。
「ううん、どこも痛くないよ。ただ、嬉しくてね……」
「へー。へんなおじさん」
「はは、そうだね」
「ねぇ、またお話聞かせてくれる?」
「うーん、そうだね。ごめんよ。僕はまだこのお話を聞いたことのない子供たちにも聞かせてあげなきゃいけないんだ。だから、子供たちみんなに聞かせてあげたら、それから聞かせてあげるよ」
「それって、いつ?」
「どうだろう。十年後くらいにはなんとかなるかな」
「それじゃあおそいよ!」
「ごめんよ」
「むぅ、やっぱりおじさんのこときらい!」
そう言って、男の子は走って行きました。
彼は少し悲しかったけれど、次の場所へ向かうために歩き始めました。
「今のやっぱりうそ!大好き!」
男の子の大きな声が聞こえてきました。
やっぱり彼は、嬉しくて、泣いてしまいました。
生きるってこと