フローレンス

田中 暁

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私がフローレンスを庭で発見したのは、午後5時22分だっただろうか。
何かゴミのようなものが落ちていると思っただけで、その時に処分していたら、この物語は始まらなかったかもしれない。
ちょうど手に乗るようなサイズで、しかしそれは確実にうごめいていた。刈り草の下にダンゴムシでもいるのかと思って手を伸ばすと、瞬時に、私の手に収まるように丸まった。私は新たな研究材料として、それを採取した。

部屋に持ち帰って顕微鏡で確認すると、どうやら単なる植物の切れ端ではないらしい。律動、つまり呼吸をしているようなのだ。私はビーカーに水を注ぎ、しばらくそれを育てることにした。

3日ほど経つと、最初はしおれていたように見えたそれは、明確に息を吹き返してきた。下の方まで根を張り、上部には花が開き始めた。まだつぼみであるが、驚いたことに顔のようなものが確認できる。私の気のせいであろうか。

一週間後、事件は起こった。なんとその物体は、ビーカーを飛び出して、根を足のようにして、ひとりでに歩き始めたのだ。上部の花には明確に表情が確認でき、それは笑っていた。まるで、もう一度自由を手にした時の解放感をあらわしたような、そんな表情であった。私はそれを抱きかかえてみた。私は生涯、子を授からなかったが、初めて自分の子を抱いたような、不思議な安堵感を覚えた。私はそれを大事に育てようと決心し、それを「フローレンス」と名付けた。

「フローレンス!」
フローレンスは、自然が大好きであった。太陽を浴び、川を泳ぎ、大地や草木に触れることを愛した。今も目の前で、海辺の砂場を駆け回っている。反対に、人工物はあまり好きではなかった。例えば、ビルディングに連れて行ったり、車のガスなどにも嫌悪の表情を浮かべた。テレビ、スマホなどのメディア、これもあまり良くなかった。それらの近くにいると、いささか繊細過ぎるほどに、調子が悪くなった。フローレンスは調子を崩すと、もともとの緑がかった肌が茶色に変色するのだが、そういう時はまた自然の豊かな川に連れて行って、綺麗な水をやると生き返った。

フローレンスとの生活が始まって一年ほど経った頃だっただろうか。私は再び、庭先でうごめく物体を発見した。今度は紫がかったもので、私は興味本位で部屋に持ち帰った。フローレンスは少し怖がっていたが、また彼女の時と同じようにそれをビーカーで育て始めた。
それは順調に育っていたが、そのスピードには目を見張るものがあった。フローレンスの時とは違い、ちょっとばかりお行儀が悪いというか、肥料を与えても欲望のままに吸収する、といった感じであった。そして一週間ほどすると、突然私の目の前から姿を消した。割れたビーカーだけがそこにあり、私の胸にも妙なわだかまりが残った。

フローレンスには不思議な力があるようで、その純朴な見た目と可愛らしい笑顔は、人々の心を癒した。私の住んでいる村、ここマルタハンの近隣の住民達からも評判が良かった。その日心が荒んでいるような人も、フローレンスに会うと次第に心が晴れていくようであった。また、道端で言い合いをしている夫婦のそばにフローレンスが行くと、二人ともいらだった表情からなぜか少しずつ笑顔に変わっていき、最後には笑い合ってハグしている、といったようなこともあった。

ある日フローレンスと散歩していると、彼女が突然足を止め、何かを言いたげな表情をした。先に断っておくが、彼女はどうやら言葉を話すことはできないようであった。それは学習して習得するといったものではなく、そもそも彼女には不要なものであるらしい。私もそれをなんとなく感じていたし、理解していた。だからこの時も、彼女は指をさすなどの動作で私に伝える他はなかった。彼女が指し示す方向を見ると、「都市化計画」という看板が空き地に打ち立てられていた。マルタハンはのどかな農村であったが、時代の流れとともに、いよいよ都市化が推し進められるらしい。悲しい事実であるが、私としてはそれを半分受け入れていたつもりであった。しかし、フローレンスといえば、とても不安げな表情をして私の目をじっと見ているのだ。私は彼女の感性を信じ、この頃から、一方的な都市化に対してのいわばアンチ、「自然再興」運動を開始した。フローレンスと共に様々なイベントで呼びかけるに連れ、これは瞬く間に賛同者を増やしていった。すると政府もこれを無視できなかったのであろう、「都市化計画」の看板はある日取り除かれ、計画の延長の噂が私たちの耳に入ってきた。フローレンスの不思議な力が、物事まで変えることができることを知った瞬間であった。

そのようなこともありながら、フローレンスと幸せな毎日を暮らしていたある日、テレビで「ドクダミ」という女優が活躍していることを知った。彼女は紫を基調としたきらびやかな衣装を身にまとい、どこか見覚えのあるような顔であった。そして、彼女はポリティカルな発言も憶測無くすることで有名で、あろうことか、そのインタビューで私達の「自然再興」運動を非難し始めたのだ。
「巷で噂の『自然再興』運動ですが、私たち人間の成長にとって、足枷になるに過ぎません。皆で一丸となって発展を目指している時期に、なぜ後退しなければならないのでしょう。こういった目障りな派閥はいずれ淘汰されていくでしょうし、誰がやらなくても私達が行使することになるでしょう。もし当事者がこのテレビを見ているのであれば、覚悟しておくことです。」
といった過激な内容で、彼女はその発言でより一層周りを虜にしたようだった。

しかし、私たちもそのような脅しに屈することなく、今まで通り各種イベントで呼びかけたり、署名や募金運動をしながら、支持者を集めていた。

するとある日の夜。その日は大雨であったが、玄関先でノックする音が聞こえるので出てみると、なんとあのドクダミという人物がそこに立っているのだ。それから両脇には黒い帽子を深く被ったトレンチコートの男を二人携えている。彼女はぶしつけにずかずかと家に上がり込み、どかっと椅子に座り込んだ。
「私はドクダミ。内容はおわかりですね、博士。」
私はとっさに、怖がるフローレンスをカーテンの後ろに隠した。
「さて、なんのことやら。」
「おとぼけを。今すぐ、あなたの野暮ったい活動を中止していただきたい。さもなければ、こちらにも考えがあります。」
「あなたたちは、一体何を目指しているのですか。私は自然と共生していきたい。この辺りの自然は保護されるべきです。私は、研究で疲れた時など、時おり原生林のある川辺で散歩をしてみると、とても心が満たされる思いになります。あなた達だってそれは同じでしょう。」
「冗談を。」
ドクダミはばっと立ち上がって、今にも噛みつきそうな表情をしながら、こちらへ迫って来た。
「私には植物の気持ちもわかるが、人間には勝てるわけがない。だから植物を含めこの世界のありとあらゆるものは、人間が管理できるようにしないといけない。今まで人間はそれを目指して発展してきたし、これからも成長していく。あなた達には止められるわけがない。」
紙一枚の距離まで顔を近づけられた時、私はふと思い出したのだ。そうか、この目、この感じ、そして紫の洋服。もしや私が二番目に育てた植物ではないか、と。どうやらその思いはドクダミに悟られたようで、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「そうですよ、博士。あの時はありがとうございました。私以外にも、人工化の波に苦しんで人にならざるを得なかった植物はいたようですが…。救ってもらったことには感謝します。だけど、これからは私の道を行く。私なりの復讐劇が始まるんです。クロボウ!」
そこまで言うと、ドクダミの合図で、傍にいた二人の男たちの拳銃が火を噴いた。私は床に倒れ、フローレンスは驚きのあまりカーテンから飛び出してしまった。
「あら、そこにいたの。」
ドクダミが勝ち誇った表情で、フローレンスに近づいていく。
「あなたも、わたしと同じ。あなたの力は侮れない。だから、人間に復讐するか、ここで終わるか、選びなさい。」
フローレンスは少し怯んだが、すぐさま血を流して倒れている私に覆いかぶさり、私を庇った。ドクダミは残念と怒りの入り混じった複雑な表情を浮かべ、小さな声で“そう”とつぶやき、私の時と同じように二人の男に合図した。
銃声
銃声
銃声
しかし、不思議なことに、フローレンスと私は無事であった。拳銃から発せられた弾は、どれだけ撃ってもフローレンスには当たらないのだ。屈折して、壁などに跳ね返っている。これに業を煮やし、ドクダミは自前のステッキで私達にとどめを刺そうとしてきた。すると、一羽の小鳥が窓から入ってきて、そのステッキの先をくちばしで制した。続いて玄関から小鹿が走り込み、ドクダミの足をすくった。家の壁にツタがみるみるうちに生え回り、その大きな幹から伸びてきたつるがドクダミと男たちに絡んできた。ドクダミは不利な状況だと判断したのか、悔しそうな表情を浮かべながら、男たちとそそくさと逃げ帰った。

フローレンスが泣いている。彼女と出会い、初めて目にした涙だった。フローレンスは不思議な力を持っていたが、どうやら心の傷を癒すことはできても、実際の傷を癒すことはできないようであった。死にゆく私に対して、何もしてやれない無力感を感じているのであろうか。体中の水分が失われ、どんどん茶色に干からびていった。
「博士!」

後章

僕の名前はニケ。勝利の女神と一緒の名前だけど、そんなことはない。今まで負け通しだ。成績もサイテー、運動もサイテー、人付き合いもサイテー、いいとこなんてないさ。学校でも変わり者。よく問題を起こすし、先生に叱られる。この前だって、5階の屋上から飛び降りた。そのおかげで、近くの木に足を挟んでいたリスが落っこちてきたんだから、逆に僕に感謝すべきなのさ、ハッ!親も友達も先生も大嫌いだけど、村はずれに住んでいる博士だけは違う。今日も博士に新しい研究を見せてもらいに行くのさ。

「ヤー、博士」
ちりちり髪にガムをくちゃくちゃ嚙みながら、ニケは博士の家に入ってきました。
「おお、ニケ。今日も来たな。」
博士は研究の途中でしたが、ひとつも嫌な顔をせずに、ニケを迎え入れました。
「何やってたの」
「おお、今日はな…」
と、いつもの調子で博士の説明が始まるのです。ニケはそれを、普段人前では滅多に見せないキラキラと輝いた目で嬉しそうに聞くのでした。博士も、人に話を聞いてもらうことが大好きなので、どんどん話が膨らみました。

ある日、ニケが大変沈んだ様子だったので、博士は心配になって聞いてみました。
「ニケ、今日はどうしたんだ。随分悪いな。」
「だって、博士。家も学校もなにもかも面白くなくて。僕は一体どうやって生きていけばいいか、わからなくなったのさ。」
「そうか。それは君くらいの年になったら、誰でも一度は思うことだ。」
と、博士はぽんぽんとニケの肩をたたいてあげました。そして、
「ニケ、おまえさんは何を望む?」
と優しい口調で尋ねました。ニケはしばらく考え込んだ後、勇敢な口調で、
「僕にしかこの世界でできないこと。僕の役割。それがしたい。」
と言いました。博士は安心した様子で、
「じゃあ、それを見つけるんだ。」
と静かに言って、研究に戻りました。

ニケは博士の言葉どおり、あっちこっち行って、自分にしかできないことを探しました。黒板消しの当番についたり、魚屋でお手伝いをしたり、道端で靴磨きをしてみたり、教会で祈ってみたりしました。でも、どんなことも、“自分にしかできないこと”ではない気がしてなりませんでした。

月日は過ぎ、いつもの通り博士の家に遊びに行った時、博士はニケにとんでもないものを見せてくれました。それは緑色の植物でしたが、人のように表情が豊かで、嬉しそうに部屋を動き回るのです。それを見た瞬間、ニケは甚だ勘違いをして、
「博士、それ、僕にくれよ。僕が育ててみせるよ。これ、やりたいことだよ!」
と叫びました。博士は少し困った様子で、
「やや、ニケ。それはまだ早い。育てるということは慎重さが必要だ。」
と落ち着いた口調で諭しました。博士はニケの性格をよくわかっていたつもりでしたが、それでもニケは、自分の思うようにいかなかったので、
「なんだよ博士。僕にしかできないことを探せって言ったの、博士じゃないか。もういいよ!」
と言い放ち、帰ってしまいました。それからはしばらく、ニケは博士の家に行かなくなりました。

それから、ニケも学年が上がり、少しばかり大人にはなりましたが、まだ毎日友達との喧嘩が絶えませんでした。一対一ならともかく、何人でも相手をしようとするので、毎日悲惨でした。この日もボロボロになって道端でいじけていると、ちょうど博士とフローレンスが通りかかりました。ニケは博士に気付きましたが、きまりが悪くなり、うつむいたままです。博士も困った様子でした。しかしフローレンスは、恐れを知らない無邪気な様子でニケに近寄り、指でつつき始めました。ニケはこれを振り払おうとしましたが、だんだんこそばゆいのが面白くなってきて、フローレンスと一緒に笑いました。博士もつられて笑いました。最後には、三人とも笑っていました。

三人は一緒に博士の家に帰り、夕食を共にしました。そこで博士は改めてニケに、フローレンスを紹介しました。ニケは、以前自分が見せてもらった植物がこの子に成長したという不思議なお話に、目をキラキラと輝かせて喜びました。フローレンスも、初めての同じ年頃の友達に、興味津々でした。
「どうやらフローレンスはニケのことが気に入ったようだ。」
博士は冗談のようにそう言いましたが、心の中では確信していました。そして、なぜ悪行ばかり行っているように見えるニケに、フローレンスは抵抗なく近寄れるのか、それは不可解ながらも、フローレンスの感性からすれば、わかるような気がしました。

それから更に月日がたち、ニケに新しい発見がありました。ニケの家は貧乏で、学校に行きながら働く必要がありましたが、たまたまやってみた史跡の発掘作業が、とても面白かったのです。もともとニケが持っていた探求心に火が点いたのかもしれません。他の大人たちが早々と家に帰っていく時間になっても、ニケは時を忘れて発掘に熱中しました。そうしているうちにニケは、将来は発掘の専門家になりたいと思い立ち、お世話になった博士のところへ報告しに行きました。もちろんフローレンスにも。

大雨の中、博士の家に近づいてきた頃合いです。
銃声
銃声
銃声
ニケは真っ青になり、家に向かって走り出しました。すると、窓から一羽の小鳥が入っていくのが見えました。続いて玄関から小鹿が走りこむのが見えました。家にいよいよ近づいてくると、家の周りを大きなツタがめきめきと絡み込んでいくのがわかりました。そして玄関に立った瞬間、紫の洋服を着た女と二人の男が飛び出てきて、ニケはぶつかり尻もちをつきました。すれ違いざまに、ニケは紫の女と目が合い、すごく気分がざわつきました。正気を取り戻して博士の家に入ると、そこには血を流して倒れている博士と、それを抱きかかえるフローレンスがいました。
「博士!」
ニケは博士のところへ駆け寄りました。フローレンスは涙で顔がくしゃくしゃになり、茶色に干からびかけていました。博士は、最後の力を振り絞るようにニケに語りかけました。
「ニケ、よく聞け。これからおまえは、フローレンスと一緒に、逃げるんだ。彼女を守りぬけ。これは、“君にしかできないこと”だ。」
ニケには、博士の言うことはよくわかりました。しかし、ニケは大粒の涙を流して顔を歪めながら、答えました。
「違うんです。僕はもう自分の役割をすでに見つけました。それを見つけた瞬間に、あなたはそれを捨てろと言われるのですか。それは残酷なことです。」
博士はふっと安堵の表情を浮かべました。ニケが自分で役割を見つけたことが嬉しかったのです。しかし、博士はこう付け加えました。
「それは良かった。しかしニケ。今は彼女と逃げなければ、彼女は死んでしまう。いつまた奴らが襲ってくるかわからない。夢は夢で追い求めなさい。おおいにそうしなさい。しかし、今目の前の現実を無視してはいかん。」
博士はそこまで必死に言葉を絞り出すと、いよいよ容体が悪くなりました。
「博士!」
「もう行け。フローレンスはこの世のカギだ。どんな時、どんな状況になろうと、絶対に守りぬけ。」
そこまで言うと、博士は静かに、とても穏やかに、永遠の眠りにつきました。ニケの心中は大変複雑でぐるぐる回っていましたが、とうとう心を決めて、もういない博士に向かって
「わかりました。」
と低い声色で言いました。わざと膝を打って自分を奮い立たせたあと、ずっと泣き崩れているフローレンスの手を取り、博士の家をあとにしました。最後にもう一度博士の方を振り返ると、今までの毎日が鮮明に蘇ってきて感傷に浸りそうになったので、慌てて前に向き直り、“いこう”と誰に言うのでもなく声に出してから、フローレンスと一緒に走り始めました。

フローレンス

フローレンス

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-06-05

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