ひさしぶりね

かんの

話したいことは、山ほどあったはずだ。
中央線から山手線に乗り換えて、上野駅へ向かっていた。いつものウェストポーチを肩から斜め掛けし、持っている紙袋にはリンゴが3つ入っている。新宿で一度降りて、駅前の果物屋で買った。リンゴを食べると機嫌が直ると、言っていたのを思い出して。
上野駅は、路線が集まっている。その大きな発車時刻案内板を見て、帰ってきたな、と感じる。なに口から出るべきかと地図を見る。何十回と通ったはずなのに、その行き方は忘れてしまっていた。
スマホを見ながら道を歩いていく。懐かしさがよみがえってくるかと思えばそうでもない。記憶から彼といた8か月だけすっぽり抜け落ちてしまっているみたいに、わたしは彼との思い出をほとんど忘れてしまっていた。リンゴも、昨日手土産を考えている時に、絞りに絞って思い出したのだ。思い出したくないことは、自己防衛で無意識に改ざんしたり、心の奥に鍵をかけて仕舞ってしまうのだと本で読んだことがある。
駅から少し離れると、東京とは思えない景色が広がる。落ち着いた街並み。溢れる緑。そこに彼の住んでいるアパートがある。今日はその近くのカフェで待ち合わせていた。この街を離れる前に、一度顔を見たいという話だった。
フローズンヨーグルトが売りのカフェ、東京にいくつあるのだろう。中に入ると、彼の方がわたしを見つけて手を挙げた。わたしが来るまで扉が開く度に振り返っていたのかと思うと笑ってしまう。
少し老けたな、と思う。目の横に皺が増えていた。背伸びた?わたしは言った。彼は首をかしげていた。
はじめましての気持ちだった。大きな目は、席に座ってしばらくしても、一向にわたしを見ようとしない。それでもやっぱり、実際に会うと滲み出てくるものもある。上を向いた上唇と、今は塞がってしまったピアスの跡を、当時のわたしはシャープでクールだと思っていたはずだ。見るたびに貪りつきたい衝動に駆られて、その感情を抑えるのに必死だった。あれはたしかオーストラリアに行く前の空港、柱の影に彼の手を引いて、人が行き交うロビーでふたりは隠れて深いキスをした。
でも、それも遠い過去。唇も耳たぶも、ただその役割を果たしながらそこにあるだけだった。見れば思い出す感情があるけど、それは今の感情ではない。恋は魔法であり、解けてしまえば二度とかかることはないのだと知る。解けるまでの賞味期限、それは突然やってくる。そのことを、わたしたちはあの冬、身をもって経験した。
最近はよく眠れてる?ぼちぼちだね、と彼。彼もわたしもやや睡眠障害だった。だから夜の過ごし方が合っていた。どちらかが先に寝てしまいその寝顔を見ることもなかった。ほとんど同じような時間に呂律が回らなくなっていき、ほとんど同じタイミングで眠りについた。眠れない時はふたりで『エイリアンズ』を歌った。わたしたちは、お気に入り同士だった。でも、それももう5年も前の話だ。
この5年間、彼のことを思い出さなかったと言えば嘘になる。それは季節を感じるように、道端で、コンビニで、玄関で、彼の声が聞こえた。実体があることはほとんどなかった、もう正解かも確かめられない男の声を、わたしは彼の声だと認識していた。
運ばれてきた紅茶に2つ砂糖を入れて回した。ここのお砂糖は白じゃないからたくさん入れることにしている。身体に入れるものには気をつけている。今は特に、注意しなければならない。
そっちから誘ってきたのに、彼は全然楽しそうじゃなかった。こういう人だった、テーマパークに行っても温泉に入ってもわたしが抱き着いても、この顔。嫌いだった。こういうところ、ずっと。なにがよくて付き合っていたのだろう。顔とセックスだけかもしれない。わたしが恋人に求めている全て。
彼を抱いた時のことは、こうして会ってみても思い出せなかった。あなたのものがどんな形をしていて、どんな味がして、どんな感覚を得たのか、もう忘れてしまった。あなたとさよならした後に、似たようなことをいっぱいの人としたから、どれがあなたのものなのか、もう思い出すことはできないんだと思う。
調子がいい女、と評されることが多かった。わたしも、その呼び名にしっくりきていた。気分屋という言葉で表すには少々安っぽすぎた。たしかに少々空気の読めないところもあった。おじいちゃんのお葬式に光物をしていってしまって、そこから親戚に会うのもバツが悪くなっている。
彼がいなくなった後、わたしは酷く荒れたはずだ。ほとんど覚えていないから、そういう言い方になる。酒を吐くまで飲んで、吐いたらまた飲んでいた。連続飲酒を2か月続けた。それで記憶がすっぽり抜けたのだろう。あの日を境に酒は、見るのも嫌になった。
彼がトイレに立った。わたしは彼のトイレの時間を合計でどれくらい待ったのだろう。一回の睡眠時間分くらいにはなっている気がする。この、離れ離れの時間は好きだった。
別れ話は電話でした。付き合おう、そうしましょうという関係ではなかったが、別れるという言葉の意味は共通していた。好きな人ができて、その人とうまくやっていくのだと言った。いつまでも、いつまでも一緒にいると思いこんでいたのに、突然背中にポンと用済みの判子を押されてしまった。
彼と会えなくなることが、当時のわたしからしたら想像もできないことだった。彼と会えなくなる、今まで月の半分は一緒にいたのに、彼が生活からいなくなる。
もう一度はっきり繰り返した、腹に決めた声だった。その声をきっかけに、足元がおぼつかなくなった。今まで当たり前にあって、わたしを支えてくれていた床が一気に抜けていく感覚。フリーフォールを富士急ハイランドに行かずとも経験できた。喜んでいる場合ではない、元々絶叫なんてだいきらいだ。
なにも聞こえなかったみたいに、その日あったことや最近考えていることを彼に話した。終始ふざけていたわたしは、強がっていただけだった。いつもの話で飲み込んでしまえば、無かったことになるような気がした。彼は、ノンストップで続く話の合間に何度もわたしの名前を呼び、現実に連れ戻そうとした。それでわたしも大人しくなった。
受け入れる準備はできていた。ただ、そのまま食べるには少々毒が効きすぎていた。彼は、会って話していたとしたら、レストランとか予約して、そこで話していたのかな、ともしもの話をした。レストランを予約してもらえるくらいには、愛されていたのだと思った。親友にその話をすると、そういう“言葉のわすれもの”していく男は嫌いだと言って、わたしの代わりに怒っていた。彼女のことを好きになった男は、幸せだろうなと思った。
その“言葉のわすれもの”という言葉が、ずっと心に残っていた。次付き合った人と別れる時に、わたしもなにか残してやろうと努力した。でも、できなかった。一度好きになった人に対して、そんな酷いこと、わたしには。
心に残る言葉は、できたら前向きなものの方がいい。悲しい言葉は、嫌でも忘れるのに時間がかかってしまうから。それか、対人じゃないものの言葉ならもっといい。偉人の名言とか、映画の一言とか。
彼の映画の趣味は、なんというか、言葉を選ばずに言えば、バカとしかいいようがなかった。内容のない、ただ見ていてスカッとするだけの映画を彼は好んだ。音が大きくて、演出が派手で、人がいっぱい死ぬ、そういうわかりやすい作品。世の中にこんなに表情豊かな映画があるのに、どうしてこんなハズレ作ばかり好むのだろうと思っていたが、言葉では伝わらない仕草に潜む心の機微な動きや、繊細な心情の変化の美しさが、彼にはわからないようだった。話していてもそうだった。わたしが喜怒哀楽を示しても、自分自身にない感情は想像もつかないようだった。
彼はわたしの気持ちなんてお構いなしに、思ったことはなんでも口に出した。ライブハウスの前を通った時は前の彼女と来た話をし、1年前にセックスしてた女の子からラインがきて誘われたけど断った、なんてことまで全部をわたしに話して聞かせた。最初のうちはわからなかったけど、そのうちそれが彼の無意識の自信のなさから出ることだと理解することができた。だって、その女の子たちは、わたしの目の前にいる彼となんの繋がりもないから。わたしがそうだからそう思った、いつでも会えると思っていた男に特定の相手ができれば、気持ちはなくても舌打ちくらいはする。また探すのが面倒だから。でも、確実に代わりはいる、そもそもどうしても繋ぎとめておきたい関係だったとしたら、そんなに連絡が空くことはない。
そこからは、特に何を言われても気にしなくなった。絶対に結婚してくださいと今まで3人の女の子に言われたと聞いた。彼に結婚歴はなかった。わたしは3人の女の子がその気持ちを180度変えるほど彼はひどい態度を取ったのだと思った。
わたしは、4人目になった。
彼に比べてわたしは、言わなければなかったことにできると思っている気がした。彼と初めて会った日、彼に会う前他の男と会っていた。これから好きな人とと会うから、その時に欲を抑えきれなくならないように、そう言って。わたしには、頼めばやらせてくれる男が数人いた。その日の男はその中でも特別だった。でもわたしは、あなたに会う前は他の男とセックスしてたの、そんなこと彼に言わなかった。訊かれなかったからだ。隠していたわけではない。
他にも彼に言わなかったことはたくさんある。お尻の下にある傷は元彼につけられたものだとか、新しいコインケースはいつかの男が誕生日のお祝いでくれたものだとか。他の男と行ったところも友達と行ったと言った。わたしにとって、それが彼を大切にするということだった。8か月という期間は短く、いつか伝えようと思っていた秘密を言う前に別れてしまった。美容整形や摂食障害なんて比にならないくらいの、わたしが墓場まで持っていくと決めていること。
送られてきた荷物と一緒に手紙が入っていた。そこには、わたしがふたりでいる時に空気を悪くしていてそれが嫌だったと書かれていた気がする。読んですぐ捨ててしまったから確かめようがない。手紙だけではなく、それまでもらったものも、取ってあったふたりで行った場所のチケットも、写真も、なにもかも全部を、わたしはその場で捨ててしまった。
楽しかったね、ありがとう、最後の手紙なんて、それだけでよかったのに。
トイレから帰ってきた彼が、イスに座り直す。ハンカチを持っているのは好印象だ、家もいつ行っても綺麗だった。ハンカチを仕舞う代わりに、はいこれ、と言って、彼は鞄から白い紙を出した。受け取ると、折りたたまれた紙の間になにか入っていた。CDと押し花。ヤマボウシの花。彼の家の前に咲いていたわたしの誕生花を、ふたりで押し花にした。たしか彼のドイツ語辞典の間に挟んで、そのまま会わなくなってしまった。
捨ててよかったのに、わたしが言うと、つい最近これを見つけて、君のこと思い出して会おうと思ったから、と彼は理由付けた。ヤマボウシが繋いでくれた縁なのか。
5年も前のものを今頃見つけるなんて、ドイツ語は上達しなかったでしょ、とつつくと、左の口角をあげて見せた。
ハッとする。
彼にはなにか物事が起こった時に、いい時でも悪い時でも、どちらかの口角をあげる癖があった。その癖はわたしにも移り、彼と別れてからもそれが出て、しばらくはそのたびに彼を思い出していた。彼にもそういうことがあったのだろうか。尋ねてみることにした。別れてからの生活を、わたしはなにひとつ知らない。彼は知っている、わたしはなんでもブログに書いてしまうから。
彼はしばらく考えて、なにもない、と言った。彼はそれまでの日々がなんだったのかというくらい綺麗さっぱりわたしのことを忘れてしまっていたようだった。そういえばそれが上手な人だった。お酒を飲んで眠れば大抵のことは忘れられると言っていた。わたしもそうだった、でもわたしの場合は消すのではなく、完全に上書きだった。そういえば彼と付き合うのだって誰かに振られたばかりだった気がする、それを忘れたくてわたしは彼と付き合い出したのだ。その男のことは顔も名前もひとつも覚えていない。そうやって考えると、彼のことは覚えている方なのかもしれない。
もう5年も経つんだな、と思う。
会って一時間も経っていないのに、顔を見れて嬉しかった、と彼は会を閉めにかかっていた。わたしは、こちらこそ、と軽く会釈した。
ごめん、帰らなきゃ。彼はなんの用事もないのに、最後いつもそう言う。これ以上君とは一緒にいられない、そう言われているような気がして、言われるたびに胸が傷んだ。そんなに急いで帰ってなにをするの。訊いても、いつも家事が溜まっているだとか、見たいテレビがあるだとか言って、わたしの表情を濁らすのだ。それがすごく嫌だったから、彼がすごく嫌だと知っていたことをあえてたまにした。それは、アポなしで家に行くということ。
最後の1か月は、距離を置いていた気がする。それがどうして距離を置くことになったのかがずっと思い出せない。些細なことだった気もするし、すごく大きなことだった気もする。でも、もうどうでもいいことだった。
子宮が傷む。
うまくいってるの、と彼は訊いた。左手の指輪を指していた。うまくいってるよ、店内の電飾で煌めく、夫が買ってくれたティファニーの指輪。
結婚式で横にいるのが、彼でなかったことに驚いた。彼と別れて3年経って付き合った1つ上の恋人と、2年付き合って結婚した。一般的に愛し、一般的に愛されていた。彼といた時の胸焼けするような恋心ではない。でもそれは、彼のものよりも固くて強かった。
夫との生活はずっと60点だった。同じことをして同じ話をして毎日が過ぎた。彼との生活は90点だった、でも、20点の時もあった。サウナみたい。わたしはぬるま湯にずっと浸かっていたかった。
いや、きっとそれは嘘だ。自分の行動を正当化するための後付けに過ぎない。わたしはずっと熱くて苦しいお風呂に浸かっていたかった。90点の毎日がよかった。でも、それは叶わなかった。すごく望んでいたような気がする。いつか、それが80点になり、70点になっても。お湯がぬるま湯になってしまっても、同じ90点のお湯だったものなら、それでよかったと思っていた気がする。
唯これだけ、彼に対してひとつだけずっと思っている。あの電話で、彼が唯一言、なにがあっても別れたくないと、ずっと一緒にいたいと言ってくれたら、そこになんの根拠もなかったとしても、全てが変わっていただろうということ。振りほどく手をそれでも掴んで抱きしめてくれたなら、それまでの全てを許せたということ。それを教えたら、彼ができないと言ったこと。彼の中のわたしの価値が、それほどまでになくなってしまっていたこと。それを、申し訳ないと思ったこと。
次に会った女の子にはそうしたのだろうか。わたしが教えていなかったら一生知らなかったことで、次の女の子は彼に抱きしめてもらえたのだろうか、繋ぎとめてもらえたのだろうか。地球上にそんな幸せな女の子がいるなら、わたしはそれが一番憎い。その子もきっと、半年と持たないのだろう。それでも。
隣のテーブルから赤ちゃんの泣き声がして、現実に戻る。腹が立ってなにか言ってしまう前に、帰らなければいけないと思った。でもひとつだけ、これだけは聞いておかなければならなかった。
今、誰かいい人はいるの。わたしは訊いた。彼はうん、と頷いた。紅茶を飲む。砂糖は入れすぎた。それが見栄でも本当でもどっちでもよかった。彼がその答えを選んだことに、懐かしさを感じた。
いてもいなくてもこの人はうんと言うだろうと、訊く前から思っていた。
太陽が出ていた。店を出て、反対側へ歩き出す。どこへ引っ越すの、とは訊かない。わたしたちの人生は、もう永遠に交じり合わない。それがわかっていたから、今日は来たのだ。
彼は、下を向いたまま、君のこと忘れられなかった、と言った。ヤマボウシで思い出したという証言と矛盾している。でも、指摘はしなかった。わたしも、と小さく返す。
これからも忘れないでいてよ。つい言ってしまった。わかった、彼が言う。そうして手を高く振る。心の中でなにかが光った。彼から送られてきた、心の糧、“人に覚えておいてもらえる“ということ。それは、薬指よりも光っていて、眩しくて、目を細めた。
リンゴは、渡し忘れてしまった。

ひさしぶりね

最後まで読んでいただきありがとうございました。

ひさしぶりね

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-06-05

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