殉職した猫
現代とは取引の時代であり、愛も取引される。
「殉死など馬鹿らしい」
当然のことだ。死んだら元も子もないし、全財産をただで売り渡す馬鹿などいるわけがない。しかし、この逸話が伝える者達の愛は破滅を内包しており、破滅をもって完結する。現代人は、それを狂気の沙汰と言うだろう。
これはとある田舎街で起こった悲劇である。明治時代の物語。
裕史は駐在所に勤務する若い巡査だ。小百合は彼を愛し、その職務を支えた。彼女は八つ年上の女房だった。その時代には珍しいことだ。仲睦まじい夫婦は子宝に恵まれず、タマという虎猫を我が子のように可愛がっていた。
その日、小百合は制服の手直しをしている際に、指に針を刺してしまい、手当てをしても血は流れ続けた。その頃、裕史は着物姿で老婆の世間話につきあっていた。田舎の駐在所ではよくある光景だ。タマは事務机に寝そべり、老婆に撫でられていた。年寄りの癒しはタマの唯一の仕事だった。と、そのとき、少年のような顔立ちをした警察官が、息を切らして駐在所に駆け込んできた。
「先輩!すぐ本署に来てください!」
「何があったんだ?」
「話は後で!自分は先に行きますので急いで下さい!」
裕史は老婆を小百合に任せ、綺麗に手直しされた制服の袖に腕を通すと、金色のボタンを留めた。
「あなた。気をつけてね」
「心配しないで。また猪でも出たんだろう」
小百合は不吉を予感し、タマは懸命に自転車をこぐ裕史の背中をじっと見ていた。
裕史が署に着くと、彼の同期や後輩達が招集され、署長が彼らの前に立っていた。裕史が慌てて列に加わると、署長が悲壮な面持ちで口を開いた。
「今回は死を覚悟せねばなるまい」
裕史は署長に尋ねた。
「何があったのですか?」
「隣村でコレラが発生したのだ。村人の移動を禁じたが、このままでは死を待つだけだ。緊張は限界に達しており、暴動の怖れもある。消毒液を荷車で村に運び込み、消毒の仕方を村人に教えなければならない。しかし、彼らは消毒液を毒薬と疑っており、激しく抵抗することが予想される。また、こちらがコレラに感染する危険があるため、単身で村に入ることになる。これは命懸けの任務だ。だから、未来のある君達に命ずることはできない」
「では誰が行くのですか?」
「私が行く」
「署長にも孫がいるじゃないですか!それに署長が不在で誰が指揮をするのですか?」
すると、後ろの列から声が聞こえた。それは裕史を迎えに来た後輩だった。
「自分に行かせて下さい。僕はまだ独身だし、体力だって自信があります」
その声は震えていた。死に怯えていることは明らかだった。裕史は、同期と後輩達に言った。
「俺が行くよ。俺だって体力には自信がある。大丈夫。どうってことはない。署長、自分に行かせて下さい」
裕史は駐在所に戻ると小百合にわびた。すると彼女は毅然とした態度で言った。
「こんな日が来ることを覚悟しておりました」
しかし、彼が抱き締めると彼女は泣いた。仄かな光の中で二人は肉体を貪り、愛は狂熱を帯びた。その燃え盛る情念の前に、快楽など陽炎に過ぎなかった。その愛は、燃え尽きるために燃えていたのだ。
乱れた髪を整えた小百合が、「私のことは気になさらなさらず、職務を全うして下さい」と言うと、裕史はまた彼女を抱いた。そんな二人を、タマが部屋の隅からじっと見ていた。
裕史が荷車を引きながら村に入ると、女達の慟哭が聞こえた。藁葺きの家屋に近づき、中を覗き込むと、若い女が幼子を抱き締めて泣いていた。夫らしき男が、「だめだ!離れるんだ!」と説得をしても、女はその手を払いのけ、息絶えた我が子を離そうとはしなかった。と、そのとき、裕史は背後に人の気配を感じた。
「村を焼きに来たのか!人殺め!」
「荷車にあるのは毒薬だろ!」
「騙されないぞ!」
村人は、鎌や竹槍を手にして迫った。するとそこにタマが現れて、腹を見せて寝転がったのだ。
「タマ。だめだよ。忙しいから遊んでやれない。村の皆さんに、消毒薬の使い方を説明するんだから邪魔しないでおくれ」
裕史が笑顔でタマを叱ると、緊迫した空気がほぐれ、村人は皆武器を下ろした。
裕史は消毒の仕方を説明し、村人を励ますと、タマとともに村を後にした。しかし、やがて悪寒と高熱が彼を襲った。彼は廃墟と化した古民家に入り、己の死を覚悟した。彼は、身をすり寄せるタマの首輪に手紙の入った御守り袋を括り付け、タマを外に出してから引き戸を閉めた。
タマは小百合の着物に爪を立てた。彼女はその様子から異変を察し、御守り袋の中の手紙に気づいた。
「僕は疫病に感染し、もうすぐ死ぬ。家屋とともに死体を焼くよう署に要請してくれ。小百合。さようなら。幸せになってください」
署員が古民家を遠巻きに囲み、大声で裕史に呼び掛けていると、裕史の後輩が家屋に入る許可を署長に求めた。しかし、小百合はきっぱりと言った。
「やめて下さい。あなたを道連れにすれば主人は悲しみます」
そう言うと彼女は制止を振り切り、彼のもとに走ったのだ。
裕史はもう息絶えていた。小百合は彼の亡骸に添い寝をすると、その耳元で嗚咽を漏らした。
「私をおいて逝ってしまったのですか。もう抱いてはくださらないのですか」
小百合は着物を脱ぎ捨てると、裕史の亡骸を慈しんだ。誰がこの淫らを、この冒涜を責めることができようか。愛の狂熱を、愛のなんたるかを知らない者達に、彼女を責める資格などないのだ。
小百合は、着物を着直して乱れた髪を整えると、懐からマッチを出して藁に火をつけた。火は瞬く間に燃え広がり、もうもうとした煙が家屋を包んだ。木材の割れる音が響き渡り、紅蓮の炎は天をも焦がした。
火が静まり、裕史の後輩達が焼け跡を捜索すると、川の字に横たわる遺体が発見された。それは幸薄き夫婦と、一匹の猫の亡骸だった。
終わり
殉職した猫