アルカンシエル(3)
あてもなくさまよい、見知らぬ町にたどり着いた僕は、拠点を見つけたといわんばかりに、しばらくその小屋に住みついた。
一週間近くたっただろうか。リュックにつめ込んできたインスタント食品や缶詰の類は底をついてしまったが、歩いて行ける距離に小さなスーパーがあったので食事には困らずに済んだ。
また、うれしいことにそのスーパーの近くに銭湯もあったので、風呂にも不自由しなかった。
最初は、そんなにこの小屋に長居するつもりはなかった。
落ち着ける宿が見つかるまでの間だけだと思っていたのだが、特に不便もないため、居座ってしまっていたのである。
許可をもらっているわけでもないのに、勝手にそこで寝泊まりするのは多少気がひけたし、大人としていかがなものかと気がとがめたが、ついつい居心地の良さから抜け出せなくなっていた。
何も問題なく生活できるから、というだけではない。
宿に泊まると、当たり前ではあるが、必然的に毎日誰かしらと顔をあわせることになる。
ふみこんだ会話をすることはないにしても、人とのちょっと会話でさえ、今の僕には苦痛になりえてしまうのだ。
その点、小屋には僕しかいないから、誰とも関わらなくて済む。
前よりも少し、ひとり言が増えた気がするが、気楽な日々だった。
それに、宿に泊まるには金がかかる。
そこそこの宿にしばらく泊まれるだけの貯金はあるのだが、食事代と風呂代しかかからない小屋での生活を思うと、宿を探そうという考えはすぐに首を引っ込めてしまう。
根っからの貧乏性らしい。
そして正直、いつこの前みたいに人に見つかってしまうのかとびくびくしながら生活する反面、どこかわくわくした気持ちもあった。まるで少年が秘密基地を見つけたかのようだ。
少年時代、特に小学生や中学生だった頃は、秘密基地、という響きにひどく憧れを持ったものだ。
当時の仲間たちと、ダンボールやぼろ布を寄せ集めて、自分たちの手で憧れを、そして冒険の象徴を作り上げようとしたこともあった。
「けっきょく、完成したんだっけか」
遠い記憶を探ったが、完成した立派な秘密基地の姿は頭のどこにもなかった。
おおかた飽きっぽい少年たちは、別の夢中になれるものをすぐに見つけたのであろう。
そう考えるととても皮肉だった。
少年時代に手に入れることのできなかったものが、今さら手に入ったのだ。
しかし反対に、何もかもが新鮮で美しく見えた虹の日々を失い、今、僕の手中にあるのはどんよりと曇った毎日だった。
おまえはいつから道を間違えたのかと、思わず自分に問いたくなる。
間違った道を歩んできてしまったのならば引き返したい、そしてもし正しい道があるのならばその道を見つけたい、そういう思いから僕は、もともとの僕の場所から逃げ出し、ここにいるのである。
ふと、妻と娘の顔が頭に浮かんだが、ドアの開く音がそれをかき消した。
はっとしてそちらを見ると、この前の少年だった。
小柄な方の少年だ。今日は一人のようで、大ちゃんと呼ばれていた背の高い少年はいない。
「どうしたんだい」
困惑と、今度こそ出て行かなければならなくなるのだろうかという焦りを押し殺し、僕は冷静を装ってたずねた。
すると少年ははにかむように笑い、一冊の本を僕に向けて差し出した。
よく笑う子だな、そう思った。まだ二回しか会っていないが、少年の笑顔が頭に焼き付いた。
本の表紙には大きく虹が描かれており、にじのみち、と大きなひらがなでタイトルが書かれていた。
どうやら小さな子が読む絵本のようだった。
「その本がどうしたんだい」
再びたずねると、少年はやはり何も言わずに僕に向けて、本を差し出す。
どうしたものかと、とりあえずその本を受け取ると、やっと少年が口を開いてくれた。
「虹のおじさんの本だよ」
「この前いっていた本のことか」
ぽそりとつぶやくと、少年は大きく頷いた。
子どもの幻想に付き合ってやるべきか、それとも現実を据えてやろうか、迷っていると、少年は僕の腕に自分の腕をからませてきた。
「僕ね、字がうまく読めないから、おじさんに読んでほしい」
はしゃぐ子どもの相手をするのは得意なほうではない。むしろ自分でも不向きだと思うし、そういうふうになりそうな場面を避けてきた。
しかし少年の腕の温もりが僕の気を変えたようだった。
とてもか細く、心配になってしまうような細さだったが、子ども独特の温かい体温が、僕の緊張を緩ませた。そういえば通勤電車以外で人にふれたのは久しぶりだな、と心の中で苦笑してしまった。
昔は娘とよく手をつないで出かけたのに、と寂しげな感傷にひたろうとする自分をとめ、僕はベッドに腰をおろした。少年も並んでベッドに座る。
本を開くと、少年が大きくこちらに身をのりだし、僕の読む話に耳を傾けた。
アルカンシエル(3)