追認



 彫刻という表現行為も、突き詰めれば抽象的に振り切れることは、アーティゾン美術館で見ることが出来たイサム・ノグチ氏の作品が証明している。また、抽象的な彫刻表現に対面したとき、概ね沈黙せざるを得ないことを筆者は実際に経験して知っている。
 非言語的表現は、言語化できる。私が見たもの、感じたことを言葉にできる。
 例えば、もの派と言われる作品は用いられているものともの、そして鑑賞する私(又は同じ作品を見ている私たち)との間に生じる関係性について、反応した記憶や知識、刺激された感情、思い付いた発想などに言葉を重ね、その内容を論理的に外部へ出力できる。抽象画については、描き手によって意図的に削り取られ又は意味不明瞭に用いられたモチーフの形象に理性的判断を揺さぶられながら、大胆に又は繊細に画面を彩る色味に呼び起こされた内面の動きを、言葉の力を借り、近似値として一人の鑑賞者が取り出す努力を行える。
 または、洗練された商品を見て、その機能と一体になったデザインの見事さに舌を巻き、その感動を文字や声で誰かに伝えることができる。
 伝えたいことが伝わった喜びの過程には、何を伝えたいと思ったのかというフォーカスの動きが伝える側の内面で生じている。一見して把握できたことや、もやもやしている感覚を言語化していく過程で思いも寄らなかった発想や学び、拘りなどが言語化され、客観化されることで誰かに差し出せる「かたち」を得る。その「かたち」に認められる特徴は伝える側において大切なこと、譲れない一線、重要な点として対象から取り出されたものと考えることができる。
 対象を見る行為にも言語は無視できない働きを見せる。鑑賞者の言語を中心にして、非言語的表現との対話が始まり、ときには言語による理解を超えた衝撃を受ける。その衝撃を再び、言語をもって「かたち」にしようと試みる循環は、人が用いる言葉の外にあるものとの接触にもなると私は考える。
 言語の意味をもって世界の全てを記述するのとはまた違う、理解可能な意味の限界線で勇気をもって行うアクロバットなアプローチは、世界の層を厚くする。その結果をまた、見つめて言葉にする又は言葉に「しない」楽しみが人の内面世界に生まれる。
 言葉から、その意味から離れられない人だからこそ行える世界との接し方は、したがって対象に備わる意味認識が可能な要素に左右される面が否定できない。この面で、筆者は抽象的な彫刻表現に戸惑いを覚える。
 彫刻は、人体といったモチーフの見た目の再現性もさることながら、それぞれのモチーフが物として有する存在感を表すと考える。形状、肉厚、大きさ、重心、質感といった彫刻表現から認識できる情報を統合した脳内のイメージは、私たちの脳が認識する数学の図形やベクトルにより導かれる重心の理屈に支えられ、鑑賞者が抱く心象と化す。この心象は、彫刻表現が鑑賞者の内部で蓄えられた流動的な意味群に触れたことで固形となった「本物」であり、そのままのかたちで彫刻表現に還っていき、投影され、その作品の本質となる。訴えかけてくるというより、私たちが識ってしまうのが彫刻表現の本領である、と鑑賞の機会に接して筆者は実感する。
 ならば、と心象を形成するメッセージが判読し難いのが抽象的な彫刻表現と言えるだろうか。ただ、その判読の困難さはメッセージが意味不明であるというのとはまた違う、とも思う。横浜美術館の常設展示でシュルレアリスムの彫刻作品を鑑賞したとき、そのまま丸ごと受け止めて、愉快にも不快にも感じればいいという感想を筆者は素直に抱けた。シュルレアリスムだから、という先入観があったとも思うが、それ以上にこんがらがって、解きほぐせない塊の表現をそのまま胸元に投げ込まれたような真っ直ぐさに、思わず反応できた結果でないかと想像している。
 筆者が特に向き合ってみたいと思う、イサム・ノグチ氏の彫刻作品にあると感じる抽象的表現は意味不明とはだから異なると考える。この考えに伴う感覚を言葉にするのは難しいが、その表現に感じる判読困難さは判読可能なはずの困難さ、こちらが用いる言語と一列ずつズレているような食い違いに近い、と言えるか。
 花崗岩の各断面に認められる明らかな質感の違い、加工と未加工の混じり合い、直線の表現と曲面の表現の出現が作品全体に存在する『魚の顔 NO2』を鑑賞したとき、筆者は心中で唸ったのを覚えている。そのとき、ジャコメッティ氏の彫刻作品と比較していたのは次の理由によるものだったと今なら考えられる。すなわち、奇妙ゆえの対象にある本質の取り出し方が明確なジャコメッティ氏の作品に対して、イサム・ノグチ氏の作品はその表現の大きな声量だけを伝えてくる。その音圧に驚く鑑賞者でしかなかった筆者は、感じ取れそうで感じ取れないもどかしさにある意味で苛立ちを覚え、また感じ取れない勿体無さに悔しがって、声に出さずに唸った。作品が見せる口の動きに基づき、互いの間に存在するズレをどちらに合わせればいいのか、上か下か、左か右か、あるいは斜めか、迷いに迷う、そういう邂逅だったのだと述懐する。
 『三位一体』を鑑賞したときにも同様の経験をした。行ったり来たり、何度も目にしたが一語も理解できなかった、と言うのが言い過ぎだと思い、言い直してみても私には上手く「聞き取れなかった」という、結果があまり変わらない言葉になってしまう。
 解答を出し、用意された答えを参照してもその文字が滲んでいる。そのために推測の作業を試みて、一問、一問に該当しそうな正解の候補は数多くないのに、一つ一つの推測が滲む文字との確かな不一致により間違いなく否定される。そういうもどかしさを氏の抽象的表現に感じて止まないのである。
 したがって、筆者がイサム・ノグチ氏の作品と真正面から取り組み合うには工夫が要る。その声を知るためのアプローチを探る必要がある。
 自然物を扱う表現に手を加える氏の発想の一端に触れられる何か、「かたち」にするために削り減らしていく、そのまま残すという選択を、または「かたち」同士を組み合わせて表していくという表現に迫れる何か。
 存在することで、周囲の景色を巻き込む意味の変容のプロセスに参加する、鑑賞者としての心構えを切り替えるスイッチングの仕方。正座に痺れた足を元の状態に戻す密かなコツのような、知恵。
 そういうアプローチをもって、夢を見るような心持ちで、氏の作品の内部にある輝きから生まれ、現実に伸びていく濃厚な影をどこまでも追いたい。そういう負けず嫌いが彫刻表現の周りを回る、筆者の動きを生んでいる。




 『ハルカの光』で紹介されていた『AKARI』に見惚れて、ドラマの内容にも心打たれて、イサム・ノグチ氏の名前が筆者の中でより一層太文字になった。オーディオ特集の雑誌と同じように、照明特集の電子書籍を買ってしまったりした。易々と手が出せない素敵な照明器具は写真であっても不思議と心穏やかになり、何かの作業を机上で行いたくなる。黙々と夢中になれる喜びに時間を捲れた。
 『そりとむくり』で出会えた澄川喜一さんの「そりのあるかたち」のひとつを見たとき、根拠なく「救われた」と思い、距離を空けてしゃがみ込んだ場所からナンバーを忘れてその形を暫く見つめ続けた。その形は今もはっきりと思い出せる。それぐらい焼き付けてやる、と躍起になって見つめ続けた。そりの組み合わせが生む各作品固有のリズム、つまり時間が静かに数多く佇む空間で、日頃流れる筆者固有のものに合った形とリズムに出会えた。それが何より嬉しかった。その気持ちから、尽きることのない、漲るものを得られたのだと思う。
 ものの形には、見た目以上のものがある。その事実を筆者は経験則で知ったのだ。その幸福を手放してはならないと自戒している。
 違う対象物の間に人が勝手に見出しているかもしれない、ものとものとの間に流れる「時間」性。これをヒントにすれば、『魚の顔 NO2』を理解できる取っ掛かりを得られるか、と思い付く。横回りに鑑賞できるあの作品を想像上でも縦に回転させ(又は筆者が回転して)見つめれば、作品としての永続性を感じ取れるかもしれない。そういう期待を抱いてみる。
 筆者の中の、意味群のどこかが疼く、と続けて記すのは言い過ぎかと反省した。行ったり来たりを繰り返しても、言葉に乗せられてしまった自分自身にも気付いてみたい。そう思うからだ。
 光にもの、そして言葉。どこか心許ない儚さを噛み締めながら、出会える機会をただ待ってみたい。それもまた、「私の力」だと感じる故に。

追認

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-05-27

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