徒歩で測るきりん。走らない僕ら。







 改札口は出入口にあって清算を済ませる。設定価格最低の120円から1000円以下の,それなりの長い道のりも,同等に,かつ,一回で清算を済ませる。120円の人にとってはこれから行く足取りを妨げられることなんてないだろう。1000円以下で,また500円以上の道程を揺れてやって来た人にとってはホっと一息なんてつけるかもしれない(集中した書道家が,一筆をそっと置くように。)。
 短い電子音はすごく周到なのだ。人の心も考えてる。綿密に,細やかに,そしてさり気なく。





 ラインが赤と白で交差する,綿100%のチェックのシャツには胸ポケットが付いていて,僕はその狭くて苦しそうな空間に事務室の彼女から貰ったメモを収めていた。既に昨日は抜けて次の日の11月23日は始まっていて,時刻は午後の2時を過ぎた。僕は鏡の前に立ち,2度目の身嗜みをチェックする。僕の髪は頭頂部から放射状にストレートになっていて,髪が太く,伸びればサイドが最も膨らむ。しかも首元に近い『うなじ』は逆毛だ。伸びれば燕の尻尾にように耳の後ろから『顔を出す』。そろそろ切りどきの合図は季節の訪れと共に,彼らがきちんと示してくれる(直近では春に切った。季節はそろそろ夏になる。)。金欠のためにそれこそ伸ばしに伸ばした髪を,現状において到達できる形にどうにか落ち着かせて(またそれを整髪料で維持してみせて),鼻の穴や歯の状態にも神経に乗った注意を注ぎ,『それで産まれたこと』から始まるできる限りの手入れを施して僕は,その日の準備を整えた。紺のジーパンは履いているし,靴は(クリーム色のスニーカーを好んで)これから履こうと思うのだ。BAR『サバンナ』に向かうために。
 恋人たちの会話が決して不穏な,そして確信に迫った重大な2人の事柄に決して及ばず,愛撫未満の柔和な世間話に留まる駅と駅の距離を『最寄りの』と言えるなら,BAR『サバンナ』は僕の日当たりが良いが冬には乾燥しやすい自宅から『最寄りの』といえる駅間の距離にあると言えた(当該駅に至るまでの電車内で,深刻な先行きを醸す恋人達を僕は見かけない。)。電車内では音楽を聴く方で,『最寄りの』距離は音楽を聴ける時間を暮れる(長くはないが短くもなく。)。曲の好みはジャンルでは決めていない。ロックもテクノサウンドも多いし,アイドルソングも少なくない。クラシックも,落語とラジオの間に収まっている(そしてランキング上でも良く聴いている。)。『聴く基準』のようなものを初対面の人あるいは知り合って間もない人に言わなければならないとしたら,「こちらを向かない作り手(または歌い手の)の後ろ姿を見れるかどうかで決めている。」と吸った息を吐くように述べるだろう。作り手(または歌い手)はもう次の作曲もしくはレコーディングに向けてもう走り出している(世に出した曲を信じて。聴き手の耳の中で立ち上がる,同じだけれどももう別の自分たちを信じて)。耳にはめたイヤホンでは別のアーティストの新曲を聴き,合間に自分の曲をほんの少しイントロだけ耳にする。そうして再びの,前を向く。そういうアーティストと曲との信頼関係が聴き手として感じてしまうもの。冷たくも温かい関係性(それは父親と男の子の関係性に似ているのかもしれない。もしくは母となった娘を後ろで見送る,さらなる母との)。
 BAR『サバンナ』への道のりは,電車賃にして310円。乗り換えなんて要らない,1本の電車で行けた。2度はカーブを曲がったかもしれない。音楽に紛れたうたた寝を,短く切ってしまった僕が3回は起きたから。




 僕の自宅から『最寄りの』駅には改札が控える出入口が3つある。しかし感覚的には大きい2つと半端な1つ,というのが『正しい』。東口と西口は出る場所を大きく変える。一方は更なる場所へ,細かく着くことを可能にしてくれる『四つ脚』のバスを待つロータリーへと繋がり,もう一方は楽器店を地下に控え,地上1Fに豪奢な服飾が透明でクリスタルなウィンドウの中で佇む服飾店を目立たせて(上階には複数の飲食店と1つの貸店舗を抱えて)建つビルから始まる街へと連れて行ってくれる。違う場所へと連れて行くのが駅の出入口に内在する『アクセント』だとしたら,最後の1個はやはり半端だ。改札が開けたその場所はどちらかといえばロータリーに近い。けれども人々の歩みを引き込む街の,油断して飼い主に見せた飼い犬のお腹のような丁度中腹の地点にも出てしまう(その辺りには人気のコーヒーショップや隠れて人気の,ベジタブルな弁当屋さんもある。)。さらには降りた電車が去って行く,ガタゴト鳴る線路の真下でもあって大体がいつも暗い。時には車も通ったりする(そう,そこはすぐに車道で,歩道でないのだ。)。ここには『東南口』とかの名称もあるのだろう。だからやはり半端なのだ。
 僕は改札を出るとしている腕時計を見るようにしている。何かの間違いがあって『約束の時間』を遅れたりするのは回避したいためである(例えばそれは予定通り行かなかった乗り継ぎや,スマホが案内してくれない混雑する人並みであったり。)。僕は『最寄りの』駅に着いた後,混雑する人並みをかき分けたのか押されたのか判断つかないままに,3つあると言われる出口のうちの,半端な1つの『東南口』の改札を通った。改札は『おやおや。』と言わんばかりに開いて閉じた。グッと発つための力強く鈍い車輪の初動を感じさせ真上の線路を,僕が乗らない電車は去って行き,僕は暗い車道を注意して渡る。それは上手いこといった。車は一台も来なかった。
 彼女の声を立てずにメモが語るBAR の位置は4回角を曲がる必要と,その間の短い複数の直線に,比べて長い2つの直線を歩む道程で辿り着くことになっていた。1つ目の角は右側にたまに寄るスーパーマーケットを待たせる地点なのですぐに分かった。そこまでにはパチンコ屋,牛丼屋,そして真向かいのラーメン屋がやたら目に入り,『ココが終着』とばかりにステーキハウスが角の真っ正面に大きく構えている。そこを左に曲がる。ここから先は通ったことはあるのだが覚えるものがないという1つ目の,長い道程が続く。よく見ると金券ショップが背が低く狭そうなビルの3階に入っており,それは小さな飲み屋が階下にあった(細い質屋も隣にあった。)。ここは低くて小さな細い通り,と言えるかもしれなかった。通りの幅だけは狭くなかった。
 通りが街の血管ならば,建造物が器官になって,その他が街の感情にもなる。それは冬には街路樹のイルミネーションかもしれないし,イタズラ心のイミテーションかもしれない。2つ目の角を曲がり,走れば十分に間に合う先で売られていた焼き立てドーナツを兄妹と思う2人の子が買っていて,2歩ぐらい下がって母親は何かを思って待っており,3人を通り過ぎた後にはジョグに勤しむ女性に出会う。白いパーカーにピンクのパンツ,『できる男』風の茶色がかった大きいサングラスを小顔に収めて,ポニーテールを揺らして駆け抜ける。イヤホンは長めで楽しそうだった。少なくとも苦しさなんて,感じていなかった。時折のブティック,二枚腰が自慢な個人商店。近くで気張る,新進気鋭のセレクトショップ。『街の中心』というものがどこにあるかは人それぞれだけれども,段々そこから遠くなれば街はバラバラさを強め,意外と裏切り大体で彩り,しかしそれでも『街を辞めない』。未だ青いゴミ箱は業務用をサイズとして,パンパンに膨れていた。3つ目の角を僕は今迎え,曲がった。『街の中心』を僕は考えた。行く道路は長い2つ目で,信号なんてありやしなかった。





 4つ目に曲がった角がまだ目に留まる近さで横に長い店内のBAR『サバンナ』の入り口は縦に立っていた。ドアーは基本的にそうである。しかし『サバンナ』のドアーで作られる入り口は,生きている樹齢深い1本の木をそのまま持ってきたような生存感を残していた。木目調を超えた年月,外側に繋がるための真鍮のバー。半開きの『隙間』に,開いて解る幅の『厚さ』。ドアーには勿論『なるべく入るのは後にして下さい。』と丁重に断りを入れた『CLOSE』がかかってはいたが,『隙間』に甘えて中に入った。彼女は『出来るだけ早く,そう,出来れば明日にでも』と言っていたし,何故か電話番号が記されていなかった。彼女のペンの動きを思い出してもそれはミスとは思えなかった(『あえて』,なのかについて確信は持てなくても)。事前に取れない連絡は当日の訪問とならざるを得ない。だから僕は『ここにいる』。そして一歩目から,石造りの廊下は鳴る。スニーカーであっても。好んで履くクリーム色でも。3時間過ぎても 1分もかからない縦の廊下を抜ければ店内はどうとでも良くなる広さで,開店前のために緩んで眠った午睡(シエスタ)の匂いがした。『誰かが居ない』というのが似合わない正面に奥まで伸びるカウンターと右方向に長方形に残したスペースに並んだテーブルに,椅子は逆さまのままに数々とかけられ,床は掃き掃除をし易くした分だけ何をすることもできず,抜けた廊下の終わりから見える壁掛けの絵画から,『BARの顔』となって種々のチアーズを可能にしてきた基酒やワイン,ビールまで名品と呼ばれるモノの,『楽屋裏にあるべき素顔』まで見えた。中にもう少し進んで入って後方右奥のステージにも『音楽はない』。一段上がって特別に,鳴り響いても誰も咎めやしないのに(勿論ココにいる,僕だって。)。
 そろそろ呼び鈴でも探そうか。そう思ったことを察したようにBARカウンターの外れ,僕が歩んだ右奥方向とは丁度反対の左奥からまだ正装に着替えていない白シャツに灰色のベストと一緒にが伸びた背筋に長い腕を備え,美味しいカクテルを『必ず作ってくれる』と確信できる男性が現れて幾分驚き,大方はすぐに出迎えて,僕にとても微笑んできた。もう挨拶は済ましたかのように,拒絶なんて知らないように。そして言うのだ。
「こんにちわ。いかがなされましたか?」
 店内には勝手にいることを咎められもしないことに瞬間に取りかけた構えを下ろすこともできず,一方で『半開き』はそういうことかもしれないと改めて納得して僕は目を見て言葉を次いだ。
「勝手に入ってすみません。僕は○○大学の学生で○○○○と申します。大学の掲示板に貼り出されていた『動物園』のバイト募集に申し込んだところ,事務の方にこのBARを訪ねて面談を受けるように言われ,その面談を受けに来ました。」
 聞いた男性は『なるほど。』で『確かに。』という風に頷き,改めて僕を見た。
「うちは電話を置いていないもので,『いつも誰かに来て頂く』ことにしているんです。それがオーナーの方針なのです。だから,あなたの時間を取らせてしまって申し訳ないと思います。オーナーも,今謝った僕と同じ気持ちなのです。」
 男性は浅いが気持ちを込めたお辞儀をした。彼はオーナーの方針に従い,オーナーと同じ気持ちで謝った。そこに彼は居るようで,見えないオーナーの代理人としてしか居ないようであった。『どこまでも眼を瞑る』,鎖を知らないドーベルマン。それが結局は一度も変わらなかった,男性である彼『サトウ氏』の印象であった。





 BAR『サバンナ』はジャズバーブームに押されてその初めての扉絵を開いたわけでなく,飲食業を会社で営むオーナーの,唯一の個人経営店として1993年頃からその経営を開始した。道楽なんてこれっぽっちも思っていなかったオーナーは例えば突然の出会いに落ちる女性に髪の毛の,そのこぼれ落ち方の素敵さになるように,店に力を注いだそうだ(冗談とは言いたくない雰囲気がBARには息づいている。)。会員制の決まりも当初からあくまで形式にしていて,『連れ立ってこられ,楽しくなって』いれば次回の来店が保証される『半会員制』(オーナーが言うそうだ。『半開き』も関わっているという。)となって訪れる『ヒト』に飽きず好まれ,バブル経済の危機も緩やかに乗り切って今に至る。
 飲めるアルコールはカクテル,ワイン,ビールまでで焼酎,日本酒は提供していない。店内で演奏される主たる音楽はバップジャズで,週3回で行われる週末の演奏リストに連なっていた。フリーな部分もあり,しかし基本的な約束も忘れない演奏スタイルはそのまま店内のルールのようになっている。サトウ氏がそう教えてくれた。




 BARカウンターの椅子三脚ほどを下ろしてもらった一角に僕は座り,サトウ氏はカウンター内に入って,軽いランチを奢ってもらう事になった。遅起きしてしまい,朝食とも昼食ともいえるトーストにエッグベーコンを食べ,3時間前かけてもまだ消化し切れていない胃を抱えて僕はサトウ氏に,サラダボールとコーンスープを頼み,その通りに頂いた。サトウ氏の歓待はタイミングが良く及んでいて,僕がスマホから顔を上げると『ああ,やはり今ですね?』とサトウ氏は実現した注文を目の前に差し出してくれたのだ。サラダボールに盛られたサラダはレタスが主で,ブロッコリーに豆類,細かいベーコン,時折のコーン(その多くは底に上手く沈んでいた。)で構成されていた。コーンスープはふと立ち寄ったように湯気を連れ,冷たいスプーンの一口目との温度バランスまで楽しめそうだった。その気持ちのままにスプーンを手に取る。すると木製のテーブルの手元が心許なくなった。フォークがなかったのだ。取り皿は浅い底を露わにも見せているのに。僕の視線に気付き,「いつもの癖を披露してしまいました。」と苦笑いして裏からフォークとともに再び現れたサトウ氏はフォークをよく忘れることを僕に言い残した。『それは何故か?』と,だから僕は聞かずにいられなかった。見えないオーナーはこちらに向かっているという。そしてサラダボールと一緒にコーンスープは食べずにいられない美味しい時間を過ごし始めたばかりである。『まだまだ』なのだ。面談の前に談笑をしたって何も減りやしない。
 改めた名乗り,大学生であること,バイトの面談に幾分緊張はしていて,前任者の有無及び何かコツのようなものはないか(前任者は居た。合格の可能性はなくは無い。)。場の雰囲気と2人の間の初対面の緊張をならすように,僕とサトウ氏は会話をこなしていった。サトウ氏はテノールで上手く歌えそうな息づかいと声の基低音の高さを軽やかに使って話すので,挟まりそうだった緊張はもうなくなり,親密さの芽吹きの成長を十分に感じた。だから甘えて聞いてみた。何故よくフォークを忘れるのかを。




 サトウ氏は何時間後に控える開店時間へ向け,念入りに(そう,とても念入りに。)カウンターを拭きながら,「思うんです。忘れた後,そのことを指摘された時に,フォークのことを何故忘れるのだろう。何故覚えていないのだろうと。」。そう言いながら,話し始めた。
「私が生まれ育った環境で,食事に供された食材はそのために作られた特別な食器を用いて口にします。いくら私達が生まれながらにして有する『ヒトの手』が万能の道具としての機能を有していて,行おうと思えばその『ヒトの手』で食材を,調理されているかいないかに関わらず,食することが可能であるにしても,私は食器を用いて食事をします。それは手に続き万能なお箸であり,補助的なナイフであり,そして西洋のフォークです。私はそれを使ったことがあります。自宅の棚の,3つある棚の,食器を仕舞うことに用いてるものの引出しに,それは1番左の引出しに仕舞われているのです。仕事柄,私は綺麗を心掛けているのでフォークの爪先に,1掬いたりとも汚れは残したりしません。そしてこうして,フォークのことを私以外のヒトに,別の他人に口で語ることは出来るのです。貴方だから、というわけではありません。ここには他意はありません。貴方には好印象を抱いております。ラインが赤と白で交差している,綿100%と思われるチェックのシャツも,そこに付いている胸ポケットも,細身のスキニーデニムも,ミルキーウェイを渡ってきたようなそのクリーム色のスニーカーも,そして理性が強そうなその名前も。ただ,事実としてあるのです。私はフォークのことを私以外のヒトに,別の他人に口で語ることは出来るのです。」
 サトウ氏が言うことと一緒にブロッコリーを咀嚼したためか,そのフレーズは奥歯で噛まなきゃいけなくなったみたいにモシャモシャっと残った。私はフォークのことを私以外のヒトに,別の他人に口で語ることは出来る。私はフォークのことを私以外のヒトに,別の他人に口で語ることは出来る。僕はゴクっと飲み込めた。歯には異常は感じなかった。
「つまりはこういうことです。私は他人がフォークを使用することを要している時に,それは大体が西洋料理をお客様に差し出す時で,このBARの少なからずのメニューに関してということになりますが,その時にフォークを共に出すことをよく忘れるということになります。『よく忘れる』ということは,『共に出せる時もある』という事実も含んでいます。これを成功というのなら,その理由が分からない謎なのです。月の満ち欠けなのかもしれない。私の調子がいい日は見上げれば満月である日が少なくないです。また,自分もフォークを使う場合もあります。これは恐らく『フォークを確実に出せる』ルールになりそうです。あるいはオーナーの目を感じる時も。オーナーは仕事ぶりをさり気なく,しかし確実に注意してチェックしているので。今述べられた以外にも『諸要素』は挙げられると思います。しかし,これらが『噛み合いはしない』。ある要素があっても別の要素があれば失敗もする。経験則から基準なんて導けないのです。フォークは私の中の,記憶のスポットライトに照らせれず,真っ暗で開かない緞帳と舞台の合間に落ちたまま,エンドロールを迎えそうになるのです。例えばガラスの靴のように,それがないと出会いもなく,だから別れもなくなってしまうのに。毒の入った赤い林檎のように,訪れた悲劇の後の,運命めいた出会いもなくなるのに。バーテンダーはある意味でアクトレスでなければなりません。シェイカーを振るだけではなく,グラス1つの拭き方,カウンター内の移動の仕方,ただの立ち姿まで私達は見られていて,お客様が抱くその印象が笑顔や会話に現れてその都度店へと循環し,結果として『それがお店』になるのです。失敗はあっても『大いなるもの』であってはならない。助けられても『それはほんの少し』に留まらなければならない。私はとても不完全です。何処にあるかも知れないスウィートスポットに,何時落ちるか分かりもしない。だから『私は綱渡りをしている』。だから私は『偉く背筋が』良いのです。」
 コーンスープはほんのり甘く,汗などかかない温かさで,温いなんて言えない調整が施されていた。ここBAR『サバンナ』のカウンターに座って30分は経過したと思うが(先程見た腕時計は20分の経過を示していた。僕は良く時間を確認する。腕時計で確認する。),サトウ氏以外に従業員は今はいないようであった。足音もしないし,気配も無い。何よりサラダボールとコーンスープは裏にこもったサトウ氏が暫くして僕に持って来てくれたのだ。誰かがいれば頼んで談笑することも出来る。しかし,誰もいないのであれば訪れた客人を,1人にしてランチの支度をするしかない。サトウ氏は今は1人だ。そしてサトウ氏にはそうそうの抜かりは無い。コーンスープはほんのり甘く,汗などかかない温かさで,温いなんて言えない調整が施されていた。ただサトウ氏はフォークを忘れたのだ。スウィートスポットの,真っ暗闇に。その失敗は『大いなるもの』ではなく,助けられたら『それはほんの少し』には必ず留まる。これは実際に戸惑って困った,僕が思う事なのだ。サトウ氏へ抱く信頼は初対面でも『これだけはある』のだ。
 僕は『しかしとても美味しく満足している』というペースで進めていたフォークとスプーンと,自分の手を休めサトウ氏に聞いてみた。
「今までお話頂いた限りで僕は,それは何か身体的あるいは精神的な何かが影響していると思ってしまいます。何の他意もなく,様々な器官が機能して生きる『ヒトという』現象を総合的に考えて,そう思ってしまいます。サトウさんはご自分でどうお考えなのですか?」
 僕の様子には先程から『気付き,満足していました。』という風に頷き,サトウ氏は『ご心配なく。』という目尻を浮かべて微笑んで答えた。
「私も同じ可能性に思い至りました。私はここBAR『サバンナ』でバーテンダーとして働いており,これからも働き続ける意思を持っています。だから『この失敗』を繰り返したくなく,根治とまでいなかくとも,ある程度折り合いを付けたいと切に願っています。なので私は幾つかの医療期間において私自身を診てもらいました。できる限りで,余すところなく。結果として,私に身体的疾患は見当たりませんでした。精神的にも軽い鬱傾向があると指摘される以外は,特に何もなかったのです。」
小さいコップで水を飲み,サトウ氏がいう事を聞いて僕が何かに唸ろうとしたとき,サトウ氏は「ただし,」と僕の思考の機先を制し,続けて言った。
「医療機関での診療の結果の明瞭さと問題の無さ。それは私と私自身がとても気にしている,私自身が私のこととしてどうにかしたいと思っている『こと』との間を埋めはしませんでした。しかし消極的ながら得るものはあった。私とその『こと』との関係は身体的または精神的な疾患を原因としない,ということです。その『こと』はあくまで私がある意味では望んでしていることであるかもしれない,ということです。仮定ながらそう考えると『次に進むための一歩』は得られます。私は何を望んでその『こと』を繰り返すのか。まさに私は『何を望んでいる』のか。この『望み』が私が考えるべき『次のこと』になるのです。4:3から16:9に変わったテレビジョンのように,私の中の明瞭さと奥行きを増しながら。」
 何もないことは何もないことなりに(それは六角形の鉛筆を机の上で転がすこともなく,彼女の浮気なんて見つけることさえ出来なくても。彼らなりに,できる限りに)物事をもたらす。この世において無駄なんて,意外にないかもしれないのだ。無駄の方が稀有なのだと思っていてもいいかもしれないのだ。いささか浪漫めいていて,風がセンチメンタルに吹くのだとしても。
「その『望み』は見つかったのですか?見つかったとして,その中身は僕がサトウさんの意思でその口から聞いても良いものなのでしょうか?」
僕は控えめに,あるいは言わなくても問題ないという気持ちと意向を込め,サトウ氏に聞いてみた。サトウ氏はやはり微笑んで『なるほど。』と思ったように口を開いた。
「カウンターに差し出すべき料理ほど形はハッキリとせず,だからといって使用済みのナプキンのようにへたっていて『もう戻りはしない』とまで進み切ってもいないのですが,その答えは『一応』,というところです。そしてそれは貴方にお見せは出来ると思います。そこに恐らく問題はない。僕はフォークでするべきことがあるのだと思っています。それは僕個人のことで,それをしているところを直接の当事者以外に見せてはならない。当事者の一方は私です。その他方に立つもの,それが何人なのか,それが誰なのか,もしくは『誰でもない何か』なのかを含めて分かりません。また,するべきことについても分かり切ってはいません。今は概ねの方向が決まっているだけです。そしてその概ねの方向は奇妙なものではあります。」




 奇妙なものは人をあくまで遠巻きに近付ける。しかし僕とサトウ氏の会話はカウンター越し,2人の顔が物理的に見えてしまう距離で行われている。奇跡のひと匙を持ってしても決して遠巻きにはならないだろう。だからサトウ氏は続きを話さない。だからサトウ氏は僕を見る。
 だから,僕は話す。
「僕はカレンダーを手作りしています。白紙の12枚に,生きている各月の過ぎた一日を書き込むのです。それは日記のようでもあり,しかし決定的に違います。予め決められた日々を生きるのを好まないというハードボイルへの道を歩んでいる訳でないです。西暦は僕から離れて生きているようにありますし,今日の訪問のように僕の足取りは約束の日とそこで動く時間へと向けて歩んでいます。また産まれたての卵を温めるように一日一日を心掛けて生きている訳でもないです。僕は日がな一日を,空腹時のスポーツ飲料のように素早くかつ,効率的に過ごしもします。その方が多いのかもしれません。僕が思ってるより。人が指摘するぐらい。」
 サトウ氏はきちんと,『偉く背筋』を伸ばして聞いている。
「書いて増える日々は月が終われば消えて去り,また白色の日々が始まります。それを繰り返します。僕が生きている限りで,僕が死を迎えるまでに。一日足りとも欠かさずに,たった一日も急いだりせず。ルーティンは終わりません。僕の意思は途切れません。朝起きて僕の好きなものがベーコンエッグからハムエッグ,しかも固めの卵の茹で具合いとなり,履くものがスニーカーから革靴へ,しかも特にジョン・ロブのみに両足を通していくとしても,『寒い』と『暑い』の大まかな二分割に関わりなく眠るのに、用いた布団を最後には捲り,二本足で立って黒い机の前に立ち正方形のペン立てから一本の,前日には研いでいる2Bの鉛筆を手に持って必ず紙にその日を書き留めます。それから洗面を済ませに部屋を渡るのです。朝食のメニューから好きなサラダボールを抜いたとしても,僕にはそういうところがあります。そして僕のそういうところが変わりはしません。」
 僕は実際の事実とその気持ちを乗せた言葉で言ってみた。サトウ氏は『確かに。』,そして『なるほど。』と頷いて真剣に,微笑んだ。何かは伝わったのだ。何処かで零れ落ちたものがあっても伝わったのだ。
「書き留められるカレンダー。そう思うだけでも良いものですね。」
 サトウ氏は心を乗せて測るように,カウンター上に置いていたシェイカーを持たずに横に一度回した。質量なくサトウ氏にある靄のようなイメージをそこに集める儀式のようであった。
「ご自分の臍の緒って見たことありますか?」
 僕は『YES』の意図で頷く。小学校1年生の頃に学校側の教育的指示で(勿論保管されていれば,ということであったが),母親から,母親と一緒に,自分の臍の緒を見てきなさいと言われたことがある。その教育的指示の効果が今の僕のどの辺りの部分になって生きているかは排水口を流れていったコンタクトレンズよりも知りはしないが,僕は自分の臍の緒を見た。桐箱から綿に包まれて現れた僕の臍の緒は『思ったより短い。』。それが小学校1年生の素直な感想だった(残念さも混じった。)。干からびて,乾燥して,母の胎内で僕の命を繋ぎ育んでいた命の一部は今や頼りなく見えた。色はよく覚えていない。黒が多かったようにも思う。
「一般的に臍の緒は干からびて乾燥し,短くなります。それは身体の成長でもあり,回復でもあるのでしょう。臍の緒は干からびます。乾燥して短くなります。それが一般的と思うのです。」
サトウ氏は『一般的』にチェックマークを確実に入れたまま話す。
「私も幼少の頃に父親に,2年前に亡くなったのですが,その父親に見せてもらいました。とても恭しく,男の手で桐箱を大事に開けて。そこに眠っていた私の臍の緒はとても長く瑞々しかった。上下には過不足なく等分の切り口があって,ポロっと取れたとは到底思えない。触れば弾く弾力も,傷付ければどうしても出る血まであるように,僕の臍の緒は眠っていました。保管されずに,とても大事に。私はそのことを不思議に思ったりしませんでした。同級生に聞いたり,ましてや見比べたりも。幼少時のどの時期を取っても,『臍の緒』が話題に上がる機会は私とその周囲には無かったのです。その違いに,その特異性に気付いたのは私と妻との間に息子が生まれ,育ててからです。息子の臍の緒は最初から短くて瑞々しさを保ってはおらず,最後には干からびて乾燥し,入浴してから取れました。それは決して私の臍の緒とは違いました。『一般的』な『臍の緒』でした。その時に私は気付いて思ったのです。私の大きな違いは私が命を持ったその時から,私のものとして既にもうあって,今も失くなったりしていないと。」
 サトウ氏は続ける。
「2年前に父親は亡くなりました。多くは有りませんが父親の意思で個人的に私達に,私と姉,妹の3人に遺品も遺贈されました。しかし父親がその意思で私に遺したものの中に,私の臍の緒は桐箱とともに残ってはいませんでした。先に母親が亡くなっていたのですが,その遺品整理中に無くなったのかもしれません。紛失したという可能性です。あるいは意図的に失われたのかもしれません。父親があえて私に残さないというようにその特徴をどこかに置いて,そのままにしたのかもしれません。いずれにしても私は自分の『臍の緒』について『実際的に』考える機会を失いました。私は私の脳内で,複雑な感情を連れ立って,そして『想像上で』,グルグルと,そうグルグルと,思い返してまた思い出すことしか出来なくなったのです。」
 サトウ氏のおよそ人との違いは父親の手で父親とともに記憶に残り,自身が授った男の子の息子によって知らされ気付き,そして自身の父親の死とともに実際的に失われてしまった。『臍の緒』は見ることも手に取ることもできないまま,サトウ氏の中で息づき今も桐箱の中で眠っている。サトウ氏はそれと接触するには自身の中で自身とともに,自身の複雑な感情を連れ立つ想像をもってするしかない。それしかないのだ。今となっては。
「私はフォークを持って私のその『臍の緒』と決着をつけたいのだと思います。そしてそれはとても他人に見せてはいけない。直接の関係を有する,決着の過程と結果に血を流し息苦しくなり,また流した涙を伏せた顔を上げなければいけないような当事者の,身内で行わなければならない性質を生来的に備えている生まれなのです。他人には見せてはいけない。事を済ませ,流れる時に落ち着いて襟元の乱れを直すことが可能になった頃に私は他人に,必要とする人に必要とする時に,フォークを手渡すことが出来るようになる。そう思うのです。」
 忘れることは守ることにもなり,渡さないことは大切にすることにもその緒が繋がる。無意識による意図的な,そして無作為的な決断。荒唐無稽で信じられないと遠くから人数確認のように指を差せても,サトウ氏の考えと思いはそこにあって大切だ。きちんと向き合って大事な,とても個人的で蹴飛ばせない背筋の良さだ。
だから僕は聞いた。
「それは内心で,とても自由に?」
サトウ氏は応える。
「はい,それは内心で,とても自由にです。」




 それで僕らの主だった会話は終わりに近付いた。僕はもうコーンスープを飲み終わっていたし,BAR『サバンナ』の本格的な開店に向けてサトウ氏も本腰を入れて準備する必要があった。スプーンと一緒にフォークも,もう洗われなければならなかった。何より僕には違うステージが用意されたのだ。
 BAR『サバンナ』のオーナーは当然のように玄関から店内に入ってきた。夕方に向け影は伸びるのが自然だ。オーナーの影もそうであった。だから僕は最初に見たのだ。首の長いきりんのような,誰も踏まない真っ黒なオーナーのその影を。






 僕は手が長いという。量販店で売られる大量生産スーツを買いに行った時に担当者に教えられた(首が太いことを知ったキムラとそう変わりない。)。手には身長に適した長さというものがあるらしい。僕の手はそうではないと,担当者は言うのだ(勿論ただの事実として。スーツを買いに来たお客様に担当者は冷たくしないと社則になくても思うだろう。店舗の売り上げはかなりの割合で色々と大事なものだ。)。
 身長167cm,体重55kgと数値化したフィギアな自分の肩口から下へと,その長い手をはめ込んでみる。例えば人より浅く腰を曲げて,足元に落ちた物を取る(受け取ったレシートや。床に置いていたリモートコントローラーなど。)。例えば人より手がぶつかる(曇り空が雨雲になっていないか空を見る時,急ぎ足で何もないのが不思議な夕暮れの駅構内。別の人の手,意味を持って建てられた建造物の一部。)。彼女の肩へ大きく回し懐の深さを感じさせ,あるいは『とても』すり抜けられる。僕の長い手は文字通り一長一短だ。悲しみもでき喜びもできる。その点はBAR『サバンナ』のオーナーも一緒だろう。その長い首もきっと一長一短に困ったり,納得したりもしている。





「初めまして,僕はここBAR『サバンナ』のオーナーでマサルと申します。できる限り急いで来たのだけれど,待たせてしまったね。申し訳ない。」
 『サバンナ』のオーナーで名前を『マサル』と名乗った男性は右手に付けていた腕時計を見て確認し(恐らくブシュロン。),『おっと,1時間にもなるのか。』と言ったように唇を口元だけで動かして,『宜しく。』と言うように握手を求めてきた。僕は進められたカウンター背後すぐのテーブルの椅子に腰掛けながら長い手を伸ばして握手をした。力強く,手の平を広げて離れてから僕はオーナー・マサルが椅子に座ったのを確認してから,きちんと椅子に腰かけた。
 オーナー・マサルの服装は頭に冠詞のTheをつけるべきカジュアルで,くり抜いたような白が眩しいシャツに黄色というよりは『イエロー』というのに適したネクタイを,お手本にしたくなる頭を綺麗に魅せながら締めていた。カウンターから背後すぐのこのテーブルに移動する際に確認したデニムはストレートで,細長いシルエットの2本の足を中に収めていた。折れやすい男らしさ,なんて形容矛盾が決して名作でない広告コピーのように浮かぶ。たった数歩でわかる広い歩幅を,一歩一歩踏みしめる力強さがそう感じさせるのだろう。オーナー・マサルは決して柔でなく,敏捷性を隠している,と告発できそうだった。
 オーナー・マサルが目の前でクリアファイルから数枚の書類を取り出してる中,サトウ氏がレモンウォーターを淹れたグラスを乗せていたコースターと一緒にテーブルに置く。一つはオーナー・マサルで、もう一つは僕だ。同じく左利きなのだろう(サラダボールのサラダとコーンスープを頂いた僕は確かに左利きだった。サトウ氏はそれを見ていた。),対面に座るオーナー・マサルの位置から左側に(僕から見て右側に)1つのグラスをそっと置いたサトウ氏が,オーナー・マサルの背後を回って今度は僕から見て左側に(オーナー・マサルの位置から見て右側に)もう1つのグラスを置いて一歩下がった。『グッドラック』と言わんばかりに,先程から変わらずの微笑みを浮かべて。
 僕が苦笑いをして『善処します。』と表現したのを見たオーナー・マサルは『おっ』という表情を驚きのように軽く浮かべて,出した書類を話すべき順番のように並べながら僕に話し掛けてきた。
「サトウとはもう仲良くなったみたいだね。彼,背筋が偉く良いだろう?」
 人柄よりもサトウ氏の偉い背筋の良さを指摘するのは,しかし僕には納得できた。だから僕は同意して「はい,意地悪く崩してみたくもなりました。」と答えてみた。
 オーナー・マサルは短くも力強く,快活に笑い,「うん,分かるな。それはそれは意地悪く崩してみたい。」と応え,2人してカウンター内で『準備』を進めるサトウ氏を覗くように見た。気付いてサトウ氏は『?』という疑問と『何か言いましたね?』という確信を持って再度微笑み,軽く困ってから『準備』に戻っていった。
 正面向いて僕とオーナー・マサルは秘密を見つけた子供のように口角を上げ,オーナー・マサルは椅子に腰を深く沈めてイエローなネクタイの頭を必要なんてなく直すように触った。それで面談は始まったと分かった。僕にとって必要だとばかりに,その居住まいを更に正した。
「一応,本人確認からさせて貰うね。名前は○○○○君。○○大学の学生でその大学を通じて募集していた『動物園』のバイトに申込みをしたんだね?」
「はい。」と言い,『問題はありません。』とは言わずに思った。
「うん,それで今日は事務の女性の指示されたこの場所で,僕の面談を受けに来た。ということだね?」
 やはり「はい。」と言い,今度は「そうです。」と声に出して伝えた。僕の声は珍しく少し構えていた。
「はい,了解です。」とオーナー・マサルは言い,手にしていた1枚目の用紙を『ご苦労様』とばかりに元あった位置に置き,何も持たないフリーな状態の手を自身に近いテーブルの浅い位置で組んで僕を見て言った。
「面接っていってもそんな難しいことをする訳じゃないんだ。知能指数を推し量ったり,クリエイティビティの閃きを観測するようなテストもしない。要は1つ,君に任せていいと僕が思えるかどうか,ということなんだ。」
 面談において対等な立場はかえって宜しくなく,手元にあるカードの背面だけをこちらに見せて有利に事を進めるのが『正しい』面接になる。一方的関係で良く,また一方的関係でなくてはならない。オーナー・マサルもそのルールは守っている。でも少し降りている。僕にちょっと近付きつつ。
「信頼の形成は個人的で良いと,僕は思っている。何かしてくれたからでもなく,何かしてくれるからでもない。また,信頼した後でそれが神経衰弱のカードのように捲られて,期待した絵柄と数字を備えていなかったとしても,僕が信頼することの問題とならない。信頼はその都度抱き,そして自分の意思で更新をし続けるもので,理由となる自由な要素で様々にある色々な種類の中で,『最後の瞬間』にしか行えない総合的な判断だ。先の未来の約束はその後でする。オーナーである僕は予測と予防もしなくてはいけないからね。でもそれはまた別の立場の,別の機会にすべき話だ。今必要なのは『信頼』の話,『最後の瞬間』にすべき,『信頼』の話だ。」
  僕と違い眼鏡を掛けていないオーナー・マサルの2つの目は黒目がちで,二重の瞼で睫毛を従えて僕を見た。視線は査定になり,またここに来て調査の色を帯びてきている。少し降りて,僕に近付いた距離はそこで止まっている。こちらを見ている。じっと見ている。
「そこを踏まえて1つ質問するね。君は初対面,といっても共にテーブルで対面して暫くは経ったのだが(腕時計を見る。やはりブシュロン。),うん,15分くらいか,まあ初対面と言って差し支えない僕に対して,君はどうやって自己紹介をする?それを僕に教えて欲しい。」
 鼻に乗せ,耳で引っ掛けることで支えている僕の眼鏡を直し,サトウ氏が差し出し,店内に残る午後2時以降の熱気に遅れないように汗かく水滴が零れるグラスで手を濡らしながら,僕はレモンウォーターを飲んだ。手はまた後で拭けばいいと思った。先程のサトウ氏のように。これまでの自分の通り。 
 『自己紹介』は1人じゃ出来ない。これは耳で聞くより抽象的な,思い浮かべるよりは観念的な意味でを持つ。『自己紹介』は1人じゃ出来ない。とても用意周到な人が明日に向かって新たなる部屋で,1人黙々と『自己紹介』の練習をしていたとしても,その人はもう1人じゃない。100人は入る会議場の90人は眠っていて,耳を傾けている残り10人の中にたった1人いるその人に,『こう知って欲しい自分自身というもの』を終わりまで語り始める。受け止めて欲しい『貴方と貴女』だ。たった1人の部屋の中,新たなる明日に向かって用意周到な人が練習をしていたとしても,やはり『自己紹介』は1人じゃ出来ない。たった1人じゃ何も叶えられない。
 しかしオーナー・マサルが僕に『語って欲しい。』と求めるのはもう少し厄介だ。それは『自己紹介』ではない。『自己紹介』における『僕のやり方』で『僕の方法』だ。僕が僕を彼に,どう見て欲しいと思っているというのかという願望が露骨に現れて手に取れる,『その語り口』だ。彼は僕に近づこうとしている。彼の広い歩幅をもって,驚くほどに深いところに。
 他人との関係における自己認識の願望を躊躇いなく迷いなく語れるほどに僕は,理性的なハンドル操作と勇気あるブレーキングを身につけてはいない(実際に僕は免許を取っていないし,F1の知識はセナとマクラーレンのコンビネーションに囚われて,もう止まっている。)。しかし沈黙は良くない。話さないと進まない。対面のままになってしまったら,僕はきっと何処にももう行くことは出来ない。だから僕はまず降りることにした。ヘルメットを外してでもメカニックとともに自車の調子を相談して,息もアイドリングも整えることも辞さない,老獪で巧みなドライバーのように。アイルトン・セナと闘った,ルノーのアラン・プロストのように。
「『自己紹介』の目的はそれを聞く相手に,それは1人から2人以上という状況を想定しますが,『僕』に関する情報を提供し,相手と共に架空の『僕』を関係性の出発点として共有して置くことにあります。その目的から考えると,僕の自己紹介の『方法』について述べるなら相手に提供し,架空の『僕』の骨格と肉付きを左右する僕に関する情報の,『内容と加工の仕方』ということになると思います。そこに僕の,『願望という形の個性』が顔を覗かせると。」
 僕の出だしを見て聞いていたオーナー・マサルはブシュロンの腕時計を右の人差し指と親指でクイっと弄り,今度は時間を確認することなく指を2本とも離した。レモンウォーターはまだ飲まれていない。その一滴も彼の喉を潤して通り落ちたりしていない。
「その情報は氏名はもちろん,年齢や出身地,出席者の社会的地位とその意識を考慮すれば学歴や身上経歴,高尚な趣味についても,場合にはなければ作ってでも,含まれます。ここでジョークを,品位の程度を上手く上げ下げして調整したものを,BLTサンドを美味しく際立たせるマスタードのように効かせれば,情報は活き活きと鼓膜を震わせ胸を打ち,素敵な架空の『僕』が堂々と立ち上がるという理想が現実になりもするでしょう。」
 オーナー・マサルは『なるほど。』という具合に長い首で頷き,見て聞いている視線で『それでその先は?』と促してくる。彼はまだあまり動かない。彼は今度は時計も触ったりしていない。
「でもここまではまだ『一般論』になると思います。特異とも言える『個性』はまだお腹のどこかで隠れている疾病のように見えてはこない。取り出す何かが必要になります。見つける兆しは『それであった』と後から語れる形が要ります。そのために僕は考えなければなりません。少し落ち着く必要もある。もう1杯のレモンウォーターと,サトウ氏の心遣いに甘えても。」
そう言って僕は『実際に』サトウ氏が差し出してくれたレモンウォーターをもう1杯飲んで,喉を潤した。見て聞いていたオーナー・マサルは最後まで,今度は視線だけで僕のその様子を見ていた。そして『確かに。』とばかりにサトウ氏が彼の左側に(僕から見て右側に)差し出してから置いていたレモンウォーターを手に取り飲んだ。今度は僕がその様子を最後まで見ていた。彼の長い首の半端な位置の,喉仏が唸って喉を潤していた。彼がコップを置いたことによって,僕の話は再開する。
「『僕というヒト』を考えてみます。『僕というヒト』が今も気にしていることを考えてみます。直近のことから良く思い出せるものです。オーナーが僕へ今から未来にかけて『信頼』してくれるのか,引いた椅子がガタっと鳴った事にオーナーとサトウ氏が嫌な気持ちを抱かなかったか,その前のサトウ氏との交流に不備はなかっただろうか,食事のマナーに少しでも従えていただろうか,ここへ勝手に入ってしまったことは『本当に大丈夫な』ことなのだろうか。遡ればまだあります。素敵なジョグをしていた女性からカレンダーに今日を書き込めたこと,そして腕時計の時間の正しさまで,気にしていることは恐らくまだあります。次々と引っ張り出せるとも思います。後向きで前を向く。後ろ足からよく歩く。転けても頑固に前を向いたりしない。だから『気にする』をすることが出来る。とても後向きな『僕というヒト』。壮大なサバンナを前にして鞄から取り出し手に持った双眼鏡を,僕は今まで走ってきた走行距離と歩数と曲がり具合と直線ぶりに目を凝らすために使い切る。見えない鎖を見い出す『ヒト』。それが僕の傾向だ。考えて,そう思います。」
  今すぐ言える一番古い記憶なら,そこに友達がいるだろう。間違って目に指をいれてしまってその友達が涙を流しているのに,幼稚園の先生が向けたカメラにした『ピースサイン』。友達は笑って片目を擦って,僕は上手にピースした。泣いたりなんてしてない。両目は眼鏡を要する今も,面談中も,終わった後もきっと泣かない。泣く理由がない。
「後ろ足から良く歩く僕はだから僕を構成する情報を,未来を感じさせるのでなく,過去を良く感じさせて加工し,引きずるように語って見せると思います。到達する今の僕に向けて,ちょっと息苦しく,三角形の頂点に向かって手を引くように。それが僕が採用する『僕というヒト』の『自己紹介』の仕方です。」
 言い終わって黙って,僕は僕の言葉を振り返ってみた。やっぱり過去に向かっていた。コクピットから降りてヘルメットを外したらレモンウォーターは,もう半分しか残っていない。そう思った頂点は僕の今となって,三角形を象った。




 瞬きは一度でオーナー・マサルは,「後ろ足からよく歩く,転んで頑固に。」と口で転がすように呟きとともに「うん。」と言ってレモンウォーターを手に取り,もう1杯の喉を潤した。オーナー・マサルと僕のコップは容積まで同じで,彼のレモンウォーターももう半分しか残っていなかった。腕を組めばジャケットは突っ張って袖口が短くなる。彼が身に付けるブシュロンが『ヒト』でいえば片目だけでそっとこちらの顔を覗いて,または可愛くウインクして『尽くした善処は届いてる。』と届けて教えてくれた。そしてオーナー・マサルは何かを良く考えているように見えた。
「僕はね,君も見て分かると思うんだけど,『ヒト』より首が長いんだ。小学校の時分のあだ名は『きりん』。高学年だと『クビナガゾク』だ。それが結構気になってね,隠せもしないのに僕は下を向いてよく歩いたよ。」
 オーナー・マサルはそう言って今度は僕より先にレモンウォーターを一口飲んだ。そろそろ宙に抜き出しになってきた冷えた氷が置かれたグラスの,『ヒト』には概ね気にならない衝撃でカランと鳴って,オーナー・マサルは話を続けた。
「他人から見て言われるよりも下を向いて歩くことは楽しい事が多かった。まず歩く道の癖が分かる。平坦になっているようでそうじゃない。凸凹して,あちらこちらが剥げたり崩れたりして。見た目じゃないと解る。じっくり見てみないといけないと解る。植物もよく見つかる。黄色い花が逞しく,よく咲いていた。図鑑で調べなかったことを後悔しているよ。こういうのは『オトナ』になって感じることだ。ありきたりだけど,やっぱりね。あとは行き交う人の足元の靴。靴は決めていた方が良い。決めないよりは遥かに良い。下を向いて歩いて解った僕のことだ。こうして君と対面している,僕のことだ。」
 オーナー・マサルはそう言って,僕と目を合わせることだけだとばかりに歩くように下げていた視線を長い首で支えて彼は,顔を上げた。オーナー・マサルの話とともに彼を見ていた僕と目が合って,僕は「分かるように思います。」としか言えなかった。そんなに素直になれないのが大学生で,はぐらかす未熟な『オトナ』だ。僕らは2人してレモンウォーターを飲み干した。2人してレモンウォーターは,もう半分も残ってはいなかった。
 それから僕は合格したようだ。オーナー・マサルがそう言った。





「M駅は知ってるかい?△路線の終着駅である△駅から,類似の路線名も通っていてややこしい◎駅から乗り継ぐマイナーと言えばマイナーの路線の,中途の駅なんだけど。」
 オーナー・マサルは面談を合格した僕にしか見せない2枚目の紙を手にとって見せ,バイト先である動物園の概要とその場所を記載した内容を,反対側から一応に見ながら僕に聞いた。生憎M駅は知らなかったが,乗り換えのポイントとなる◎駅は知っていた。ややこしい類似の路線名も。上京した頃僕は間違えたのだ。反対方向に戻るには長い階段を登らされた。設計者はそういう意図は有していなかっただろうけど,僕はそう思って駆け登る足を動かした。
僕は◎駅を『知っている』ことを伝え,類似の路線名に対する理不尽にも大事な過去を伝えた。オーナー・マサルはニヤっと綺麗な擬音が聞こえそうに笑いを浮かべ,『僕と同じだ』と言わずに伝えた。
「僕は◇方面に向かっていたよ。君もかい?」
「いえ,僕は□方面ですね。もともと向かおうとしていたのが◇方面でした。」
 僕のすぐの答えを聞き,オーナー・マサルは言った。
「なるほど。僕らはとても似た間違いを犯して,しかし決定的に違ったんだな。」
『確かに。』で『なるほど。』であった。僕とオーナー・マサルが犯した間違いは似ていて,しかし決定的に違ったのだ。





 動物園はM駅から車で2時間の山の中腹にあって,自宅からは遠くてなかなか行けない場所にあった。公安委員会から『もういいぞ。』という運転の太鼓判を貰っていない僕は動物園まで,従業員の人が運転する車で同車させてもらえることとなった。正直この段階でバイトを断られるかもしれないと感じた。しかしそもそも,チラシの募集事項に『要運転免許』という記載がなかったのだ。もとより同車による通勤は決まっていたのだろう。
 オーナー・マサルは3枚目の紙を手に『仕事内容』を説明しようとしていた。その前に僕は確認しておく必要があった。
「あの,オーナーはここの動物園とどういう関係があるのですか?例えばこの動物園の経営権を有しているとか?」
 オーナー・マサルはこれを聞いて『しまった,そうだ』という表情に「ああ,そういやそうだった。」と一緒に「言ってなかったね。」と思わず言った。
「ここの動物園は市営なんだけど,ここの園長が大学での僕の友人でね,ミムラっていうんだ。そのミムラがBARのオーナーは『ヒト』を見る目があるって言って,バイトの面談を無償で僕に頼んでるんだ。数多い小さいことから数少ない大きいことまで,一応借りがあるもんでね。僕は一応その任を引き受けているんだよ。ありきたりな、理由だけどね。」
 オーナー・マサルの微笑みが苦笑いっぽくて,それまでありきたりに思えた。でもそれ以上僕には何も言えない。ありきたりは覆せない。だから僕は「なるほど。ありきたりですね。」と応えた。そこでも続けてオーナー・マサルは苦笑いを続けて,僕がすべき動物園の仕事内容に話しを進めた。
「動物園での仕事は主に清掃だ。園内を箒などの道具を使って綺麗にする。砂埃とかはどうしようもないから,来客様が捨てて行ったもの,特に行儀悪く捨てていったものの片付けだね。次いで事務方のちょっとした手伝い。パソコンは(僕は頷いた。),じゃあエクセルとかのパソコン事務とかを手伝ってもらう。そして最後にして欲しいのは,園内の動物の観察。青いベンチに座っての,檻の外からの観察だ。」
「観察ですか?檻の外から?」
 僕はすべきこととして,必要な『後向き』としてオーナー・マサルに聞き直した。「そう。」とあっさり繰り返して,オーナー・マサルは念を押すように言った。
「青いベンチに座っての,ね。」





(第二章了。つづく。)


 
 





 
 

徒歩で測るきりん。走らない僕ら。

徒歩で測るきりん。走らない僕ら。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-30

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