名前も知らない【11-12】

古瀬

名前も知らない【11-12】
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11-1

11-1

 妹から連絡があったのは、久々に会った櫂谷と以前から約束していたビリヤードを終えて居酒屋の小さなブースに座っていた時だった。
 鳴ってるぞと彼に指さされて手にしたスマートフォンに、妹の名前が表示されていた。
 妹だ、ちょっといいかなと尋ねる。
 そんなことわざわざ訊くなとでも言いたげに、櫂谷は手をひらひらとやった。

 立ち上がって、手洗いのほうに向かいながら電話に出た。
「はい」
「お兄ちゃん?」
 絢乃の第一声は、どこか怪訝そうだった。周囲の音を拾ってしまっているのかもしれない。
「うん」
「その音、外?」
 かけなおそうか、と妹が続ける。
「いや、いいよ。どうした?」
 内容には大方想像がついたけれど、手洗いの前にあるベンチに腰を下ろして訊いてみる。
「父さんのこと」
 絢乃は若干の躊躇を感じさせるような声音で告げた。
 そうだろうな、と思いつつ、ああと返事をした。

「放射線治療、父さんにはそんなに効果なかったみたい」
「――そう、なんだ」
「うん。やっぱり、手術も視野に入れたほうがいいって」
 落ち着いた声で妹は言った。もしも目の前に僕がいたら、目を見ながら、反応を確かめながらこういう言い方をしただろうなと思えるような。
「そうなったら、出てこられる?」
「いや行くよ、さすがに」
 廊下に敷かれた、ごつごつとしたタイルの柄に目をやりながら答える。余計なことを考えてはいけない時は、呼吸を深めながら周囲をよく観察すればいい。狭い場所にはまりこんでしまった魚みたいに、思考はそれ以上のどこもいけなくなるから。
「――来るよ? あの人達も」
 絢乃の声は、食い下がるようだった。
「だろうな。身内だけって連絡しても――」
「絶対来るよ。お構いなしじゃない」
 妹は小さなため息をついた。こういうところは母にそっくりだ、と思う。

 全員が男の四人兄弟の末っ子、という立場だったら、大人になっても半人前の扱いが続くのは致し方のないことなのかもしれない。
 祖父の興した小さな会社に三人の伯父が成人した順番で入社していった時も、芳夫にこの仕事は難しいぞと散々はやし立てられたと言っていた。それぞれが別の分野で優秀だった上三人の出来の良さに続くことができなかった父は、祖母や周囲の女性陣の口利きで何とか入社が許されたようなものだったらしい。それぞれが職場や学生時代からの付き合いがあった恋人と結婚していく中で、父だけが見合いの席を必要とした。
 長男と次男の仲が良かったことから、伯父達それぞれが社内で上へ上へと登っていっても派閥のようなものはできなかった。それなりの困難も問題も起きたらしいが、摩擦というよりも団結力の強さゆえのすれ違いだと生前の祖母が言っていた。
 その中に、力のある存在として入ることができなかったのが父だった。

 五分ほどの電話を終えて席に戻ると、櫂谷はテーブルの上に置いていたスマートフォンに指を滑らせていた。顔を上げて僕に気づくと、そのまま眉を寄せる。
「おまえ、もしかして吐いてきた?」
「いや、電話してきただけだけど」
「顔、青白いぞ」
「何ともないよ」
 腰を下ろしてグラスに手を伸ばす。周囲で自分の他に飲んでいる人を見かけたことはあまりないけれど、ここで僕はよくミントジュレップをオーダーする。
 僕の返事に、櫂谷は納得していない様子だった。スマートフォンや箸に手を伸ばしながらも、ちらちらと僕のほうをうかがっている。

 櫂谷とのあいだに、嘘をついたことはないはずだ。方便と言える程度の、面子を守るための小さな隠し事ならしてきたけれど、その手のことを気にするようなやつじゃない。気を廻しただけだろうと、互いに対して思えるような相手だ。
 もしも僕が自分のために彼を欺いたら、櫂谷はそれにすぐに気が付くだろう。人の持っている表裏には人一倍敏感だから。自らに何らかの利益があるはずだという目的を持って自分に近づいてくる人間が、彼には昔から掃いて捨てるほどいたのだ。
 ――友達だって顔したところでさ、別の場所で全く別のこと言ってるやつってわかるんだよ。全然芯がねえ、媚びばっかり強いやつって。
 彼が僕や嶋岡に気を許しているのは、僕達がそういったことに関心が薄いか、同じように嫌悪を抱くタイプの子供だったからだろう。誰にでも面倒見が良いようで嶋岡は好きではない相手には驚くほど淡泊だし、僕は僕で、湿ったような打算の雰囲気にうんざりしていた。自らの父親が、その手のことにひどく執心する人物であったことにも。

「――親父が」
 グラスを濡れたコースターの上に置きながら口をひらく。
 櫂谷は小さくはっとしたような目をしたが、何も言わずに僕の次の言葉を待った。
「病気して。今の治療がだめなら手術だって言うんだ」
 彼は若干眉を寄せたような顔つきで、僕のほうをじっと見ている。
「重いのか」
「腹切って開けるかもしれない」
 僕の返答に、彼は息を飲んだようだった。

 僕が地元にいるあいだにもっとも神経をすり減らした相手が誰か、櫂谷は知っている。
 どうしようもない感情を持て余しながら、あの町で別の場所に焦がれてばかりいたこと。誰より父親を憎んでいたことも、あの家の中で、息子の存在を踏みつぶして自らの下に敷いておきたかった父の数々の言動がどんなふうだったかも。
 僕の口から次に出てくる言葉を、櫂谷はきっと想像している。
 迷惑なことだ、あんなやつ生きようが死のうが関係ない。あるいは、年老いた父への同情的な感情がこもった一言だろうか。それとも、面倒な事になった、しばらく向こうと行き来するようになるけど割り切ってさっさと終わらせるよ、とか。
 そのどれもが、僕の中にはあった。

「亮太」
 櫂谷は、複雑そうな顔をして僕のほうを見ていた。
「俺、憎みすぎたのかな。これが本心ってものが、わかんなくて」

 近くに行けば、父の放つ嫌味を不快に思う。煩わしくも思うし、面倒だ、と思う。彼の余計な一言が次の自嘲の種になるのを感じるし、波だって起こる。
 そのくせ、すでにはるか昔の出来事のようにも感じる。通り過ぎてもう長い、過去にあった何かを思い出しているだけのような気がしてくる。昔のことを思い返しているうちに今がおろそかになっているだけのような、ふっと吹いた風で我に返れば、やはり過ぎ去った過去の影だったような気がしてくる。あの頃と今の色合いがあまりに遠すぎて、困惑してしまう。
 僕の中で、剥がれ落ちようとしている過去だ。今、終わろうとしていること。
 その独特の気分の中にある何とも言えない距離感に、どうも慣れない。母や妹のような、あるいは彼の周囲にいる人達のような感情移入ができないままだった。

 櫂谷は、何も言わなかった。
 手にしていたものを置き、左手でゆっくりと頬杖をついている。

「別に、ひとつに絞るようなことでもないだろ」
「――そうかな」
「おまえのところの親父さん、昔から強烈だったし」
 彼は遠慮したような声でぽつりと告げて、水滴で濡れたグラスに手を伸ばした。

 櫂谷恭一があの櫂谷正臣の一人息子であることを、父はもちろん早いうちから気付いていた。
 小学五年で、僕は櫂谷と初めて同じクラスになった。目立つ雰囲気の持ち主だった櫂谷の存在は以前から知っていたものの、それまでの四年間で接点はなかった。
 打ち解けるまでいくらもかからなかったのは、櫂谷のほうが僕にさっさと気を許してしまったからだった。まるで最初から「おまえにはわかるだろ」とでも言いたげに、他のクラスメイトには簡単に口にしないような本音を僕相手にはぼそっと述べた。櫂谷が僕を見る目は、最初から信用に足る人物だと思っているような、そうであってくれと願っているような切実なものすら感じさせた。
 実際に、僕達は最初から気が合う子供同士だった。関わり合いになりたくないこと、遠ざけておきたいこと、そしてどうもひっかかる、そのままにしておけないことが彼と僕ではよく似ていた。子供なりに、受容しがたい何かを共有できる関係だったのかもしれない。
 櫂谷恭一はそうやって打ち解けた友達だったけれど、父には僕達の関係がそうは見えていないようだった。

 ――有名人の息子に取り入るなんて、おまえもなかなか強かだな。

 彼と互いの家を行き来する仲になって数年が経った頃、休日のリビングで父が言った。櫂谷からの誘いに乗って、午後から書店に出かけるところだった。
 言葉の意味が理解できずに、どういうこと、と尋ねていた。どうせはっきりとした意味はわからないだろうと思っているようなその物言いに、ひどい嫌悪感を覚えた。十五の終わり、制服が冬服になったばかりの時季だっただろうか。
 父の風当たりがきつくなっていったのは、中学に上がって以降のことだった。それまでは仲が良いわけではないとしても、そういうものだと思える何かがあった。関係の中に、正当さがまだ生きていた。父が父として、まだ僕の中に存在していた。
 その了承や納得が、ある日尽きてしまった。右も左もわからない子供から少年と呼ばれる年齢を迎えるにつれて、父から僕に向かう言動は不自然に歪んでいった。当時の父から見た僕は、いつか彼の知っているあらゆる醜悪さを煮詰めたような性格の子供になっていた。
 打算的で欲深く、怠惰で狡猾。
 父の中にいる僕は、そんな子供になっていた。

 それは、豹変と言えるような急激な変化だった。
 僕の何気なくしていた行動は、ある日から父の解釈を通すことでべたっとした依存的な人間の取るそれになった。
 あんなことをするのは褒められたいからだろう、注目されたいからだ、人から良く思われたいからだ、怠けるため、強欲だから、計算高いからだろう。
 そこまで考えて動いていないと思うような何気ない言動に、いつしか父は激しく反応するようになっていた。元々情緒が安定しているという人物ではなかったけれど、僕や妹が大人に近づくにつれて彼からの扱いはより辛辣なものへと変わっていった。
 そんなつもりはない、という意味の主張には、意味がなかった。
 彼はすべて自分にはわかっているんだぞ、という表情で、はいはい、とか、わかったわかった、などと繰り返した。僕のしたほんの小さな失敗を、冗談だと言いながら嬉しそうな顔つきで囃し立てるようになるのもすぐだった。
 痛くもない腹を探っては濁ったものが僕の中に見当たらないかと目を凝らしている父の口元は、いつも歪んだように端が持ち上がっていた。嬉々としたと言っていいくらいの、あの独特の気分の高揚に子供の僕は確かに戸惑っていた。
 後悔を、反省を、あるいは自己嫌悪を感じている時に追い打ちのようにやってくるそれに、当時の僕は慌てて内側のシャッターを下ろしたのだ。

 僕の中に映り込んできた、父にとっての息子像と、その歪み。
 周囲にいる他の誰からも感じたことがなかった、違和感に満ちたその人物の輪郭は、やがて亡霊みたいに僕の周囲を漂うようになっていった。父から見えていた僕は、打算的で虚栄心が強く、少しでも人の中から注目されたくて、周囲からの承認と評価に飢えた人物だったはずだ。
 それを直視することもなく、自らの欲求を満たすために生きている、狡賢く、利にさとい子供。

 ――それ、俺じゃなくてあんたのことだろ。

 実際にそう口にすれば、その何十倍もの言葉が繰り返されるのを身をもって知っていた。彼から塗りつけられる泥のような感情によって、僕の中に冷たく暗い領域が広がっていった。
 何をしても何を言っても変わらない、おまえは醜い、という意味を持った視線。僕を塗り固めてしまおうとする、あの重く粘る泥。
 父から押し付けられる、汚れてべたついた着ぐるみみたいなその人格に自分を乗っ取られてしまわないこと。
 心の穴を開けられた部分から、自尊心を漏らさないこと。
 生きていく力を、そこから吸われてしまわないこと。
 あの町で、僕はそのことを第一に考えて生きていた。

11-2

 飲みすぎたつもりはなかったものの、良くない酔い方をしてしまったらしい。
 気づいた時には、櫂谷に連れられて店の近所にある複合施設のベンチで項垂れていた。
「おまえがこんなになるなんてよっぽどだね」
 櫂谷は僕の脇に立って、たまに喫う加熱式煙草をくわえやや呆れたような声を出した。
 脳髄に直接アルコールが流れ込んでしまったような、重く鈍い痛みが頭をすっぽりと覆っている。冷たい夜風が頬に当たる。肌の表面にしんと染みて、鼻の頭から冷えていく。
 ごめん、と言ったつもりだったが、ほとんどまともな発音にはならなかった。
「謝んなくていい」
 意味は通じたらしい。すっぱりと彼は言った。

 黒のスウェードのジャケットを羽織った櫂谷は、甘い匂いの煙を周囲に漂わせている。
 僕の横に腰を下ろして、彼はひとつ浅いため息をついた。

「あのさ」
「――うん」
「昔っから言ってるけど。おまえ何にも悪くないからな」
 わずかに苛立ったような声で、友人は言った。
 ずきずきと痛む頭を片手で抱えながら、顔を上げる。
 櫂谷は前を向いたままだ。半分睨むような目で、暗闇のほうに視線をやっている。

 それは、彼らに繰り返されてきた一言だった。

 ――まあ、おまえは悪くないよ。

 多くのことを話したわけではなかったけれど、空気で感じ取っていたのだろう。
 僕のしていた葛藤に、櫂谷も嶋岡も同じように繰り返した。おまえは悪くない。
 その一言に、僕はいつも沈んだ気分を引っ張り上げられていたのだ。
 
 目をあけているのも苦しいと思うような酔いの中で、振動音に気づいたのは櫂谷だった。
 またスマホ鳴ってねえか、と訊きながら、彼は僕のほうを見た。
 どこにしまったか、思い出せなかった。感触も遠い。ジャケットのどのポケットだったか、それとも鞄のサイドポケットだっただろうか。
 僕の反応の鈍さに、櫂谷はああもう、ともらしながら僕の鞄に手を伸ばした。開けるぞ、という言葉のあとに、それを引っ張り出した。
「ほら、出れるか」
「誰って」
 書いてある、と尋ねると、彼は目を細めてそれを読み上げた。

「中上千紘」

 ああ、という声は出たものの、まともな返答はできないだろうと頭の片隅で思う。
 千紘に、迷惑も心配もかけたくなかった。
「そっか。いいや――あとで」
 かけなおすから、とは言わず彼の持つスマートフォンに手を伸ばした。

 僕の出した声に、思うところがあったのかもしれない。
 櫂谷はそれをすっと自分のほうに引いて、僕に訊いた。
「彼女?」
「そう」
 うっかり頷いてしまう。ぐらりと、視界が傾いだ。

 櫂谷はふうと息をついてから、僕の意思に反することをした。
 通話を押したらしい。自らの耳元に僕のスマートフォンを運んでいる。
「もしもし――」
「櫂谷、ちょっと」
 つぶれたような声で何とか口にする。
 彼は僕にむかって、うるさいとでも言いたげに手のひらを突き出した。

「ああ、すみません急に。俺、亮太の幼馴染です。今こいつと飲んでたんですけど、潰れちまって。彼女さんですか」
 あろうことか彼はそこから立ち上がって、ベンチから離れてすたすたと歩いて行ってしまう。
 ちょっと待って、と何とか言葉にしたが、当然櫂谷にその声は届かなかった。

 千紘は、今週は少し忙しいと言っていたはずだ。
 クリスマスから年末年始にかけての、季節の印刷物制作の仕事が続いているらしい。もうピークは過ぎてるんだけど、やっぱり駆け込みもあるから、と。
 だから会うのは来週にしよう、と決めていた。
 成田山にでも出かけてみようかと話していたのだ。
 
 通話を終えた櫂谷は、先ほどと同じような表情で戻ってきた。
「迎えに来るってよ」
「え」
「そこにいてくれって。今日は自分のほうに泊めるからって」
 俺のところでも良かったんだけど、すぐ来られるって言ってさ――。

 少しやりすぎたと思っているらしい。
 櫂谷はやや恥ずかしそうに、そう言った。

「年上?」
「そう」
「かなって思った。変な飲み方はしない人ですよね、何かありました? って」
 櫂谷の言葉に、千紘の声を思い出した。
 ぱちりとひらいた両目も、小さな鼻も、首筋から体のやわらかな線も。

「優しそうだった」
 ベンチにどっかりと腰かけて、櫂谷は言った。
「優しいよ。すごく」
 後頭部を揺らさないようにしながら告げた。
 
 千紘の、静かな空気感を思い出した。
 部屋に通い続ける僕に、こんなことばかりじゃ退屈じゃないのと尋ねる声のやわらかさや、買い物に行った先で彼女の持っていた荷物に手を伸ばした僕を見上げるときの目。身体に力が入らなくなるまで抱き合ったあとの、シーツに埋もれてぼんやりとしている姿。
 僕の髪に手を差し入れ、彼女は手櫛でそっと髪を梳いてくれる。
 言葉を使わない、彼女のくれる静かな労りが僕に降り注ぐ。憐みではない、深いところからやってくるやわらかなものが、僕の今までしてきた選択を許してくれる。暗いものを無理に打ち消したり膨らませたりしないで、彼女はただそれがそこにあることを受け容れてくれる。
 そんな彼女に対する気持ちをどうすることもできなくて、表しようがなくて、僕は犬猫のように身を摺り寄せてしまう。もっともっと、芯のところでくっつきたくて、触れているだけでは足りなくなる。
 どうしてこんなになってしまうのか、時々恐ろしくなる。千紘が千紘だったから、僕が僕だったから起こる、ただそれだけのことのような気がしたりもする。
 共に迎えた冬の中で、僕の彼女への気持ちは深さを増すばかりだった。

 二十分ほどで駐車場に滑り込んできたココアブラウンの車が、僕達を見つけてパッシングをした。広大な駐車場の隅、店舗から離れた場所にいた僕達の周囲には他の車は停まっていなかった。
 エンジンを止めた千紘は、いつもより少し慌てた様子で僕達に駆け寄ってきた。

「どうしたの、亮太」
 ほんの少し微笑んだ様子で、彼女はそう尋ねた。
 僕にそう尋ねてすぐに、隣に立っていた櫂谷にむかって頭を下げている。
「教えてくださって、ありがとうございます。中上です」
「櫂谷です。すみません、呼び出したみたいで」
 櫂谷が千紘に向かって少し固い声で謝っているのが聞こえた。

 おかしな光景だな、と思いながら、ふたりの話す姿を見ていた。
 酒量が多かったわけではないことを櫂谷は彼女に説明していた。疲れが溜まっていたのか、あまり寝ていなかったのか、そんなことを推測しあっている。
 櫂谷さんのことも送りますと言った千紘に、彼は家まではここからすぐだから大丈夫ですと断っていた。初対面の相手に見せる、警戒した友人の声だ。
 櫂谷に、言える立場じゃないけれど、そっと話してやってくれ、と思っていた。
 俺達とは種類が違ってもこの人の通ってきた道だって険しくて、失ったものも大きくて、その上千紘の内側にはびっくりするくらいやわらかい場所があるんだ。そこに俺の欲しいものが全部詰まってる、と。
「亮太、立てる?」
 ふたりが近寄ってきて、両側から僕の腕を掴んだ。
 櫂谷の肩に手を回されて、そのままゆっくりと立ち上がる。千紘は途中まで同じようにしていたものの、ドアを開けるために車の数歩前でそっと僕から身を離した。
 櫂谷に押し込まれるようにして、僕は千紘の車の助手席に腰を下ろしていた。

「明日にでも、連絡するように伝えますね」
 窓を開け、千紘は櫂谷にむかって告げた。
「すみません。亮太のこと、頼みます」
「櫂谷さんも、お家まで気を付けて」
 失礼します、と千紘は彼に頭を下げた。


「戻しそうになったら、これ使って」
 県道十九号に入ってすぐの信号で、エチケット袋を手渡された。
 車内は静かで、彼女はやはり少し緊張した面持ちで車を運転している。
「――ごめん」
「謝らないでいいよ。いつもと同じように飲んでただけなんでしょ?」
 前を向いたまま、彼女は静かにそう言った。
「でも」
「大事にしてくれてるのは嬉しいけど、病人じゃないからね。このくらいは平気だよ」
 白のカットソーの上に、裏が起毛になっている分厚いチャコールグレーのパーカーを羽織っている。
 デニム姿で、いつもより少しカジュアルな雰囲気だった。

「明日の仕事は、いつも通り?」
「うん」
「じゃあ八時くらいまで寝てていいよ。駅まで送ってあげるから」
「いい。適当なところで降ろしてくれたら、このまま帰る」
 
 僕の一言に、彼女が表情を曇らせたのが伝わってきた。
 僕の家の近所に繋がるゴルフ場の脇道を無視して、千紘はさっさと自分の家のほうに向かって車を走らせていた。
「ちょっと待って、そっち――」
「待ちません」
 遮るように告げて、彼女は強めにアクセルを踏んだ。あっという間に小貝川を渡る橋まで辿り着いてしまう。
「ちいちゃん――」
「コンビニだけ寄るけど。でもあとはまっすぐうちに帰ります」
 珍しいと思えるほど、彼女ははっきりと言い切っていた。
「そんな顔色の人、放って帰れるわけないでしょ」
 声が静かに怒っている。
 半年近く一緒にいる彼女の、初めて見せる顔だった。

 
 マグノリアハイツに到着したのは、二十二時を過ぎた頃だった。
 千紘に支えられながらいつもの階段を何とか上って、ふらふらしながら廊下を進む。
 玄関に入ってすぐに、彼女に鞄を下ろされて上着を脱がされていた。
「手洗いとうがい、できる?」
「うん」
 数十分ほど前よりも身体は楽になっていた。千紘に付き添われたまま洗面所まで進み、手洗いとうがいをし、彼女に促されて歯も磨いた。左右に動いていた僕の手が止まると、千紘はもう、と言いながら背伸びをして、ちゃんと磨くの、と僕の腕に手を添えた。
 追い剥ぎみたいに着ていたものを脱がされ、彼女の部屋着を着せられてしまう。大きなサイズのパーカーは、この頃は彼女よりも僕が着ていることのほうが多い。
 ミネラルウォーターのペットボトルを片手に持った彼女に手を引かれて、ベッドに身体を横たえた。今日は本当に良くない酔い方をしてしまったらしい。何とも言えない気持ち悪さと頭痛が続いていた。
「寝れる?」
「たぶん」
 千紘はベッドに座ったまま、リモコンを手にエアコンをつけている。てきぱきと動いている姿が、いつもの彼女の様子と違って新鮮だと間抜けなことを考えた。
 身体の上に布団をかけられ、部屋の電気が消え間接照明だけになる。

「じゃあ、このまま寝ちゃいなさい」
「いやだ」
 手を伸ばして彼女の腕を掴むと、千紘は呆れたように声を出して笑った。
「今日はずいぶん頑固じゃない?」
「隠してた本性のひとつだ」
「そうだね。何となく、そんな気はしてたんだけど」
 千紘はおかしそうに頷いた。完全に酔っぱらいをあしらう姿勢だ。
 それでも、手つきはいつもと変わらなかった。僕の前髪をそっとあげながら、額から頭にかけてを彼女はそっと撫でてくれる。

「何か、いやなことあった?」
 そっと尋ねられた言葉に、ああ、とだけ答えた。
「そっか」
「うん」
「話してみる?」
「まだいい」
 僕の断言するような口調がおかしいらしい。彼女はくすくす笑いながら、そうなんだ、と頷いている。
 話したくないならいいよ、まだ気持ち悪いだろうし、とも。

「千紘さん」
「うん?」
「急な話で悪いんだけど、俺とノルウェー行かない?」
 手だけでは足りなくなって、僕は彼女を布団に引っ張り込んでいた。
「ノルウェー?」
「鮭獲って暮らそう。俺漁師になる」
 抱きしめながら告げる。千紘は僕の腕の中で懸命に笑いをこらえている。
「似合わないよ。それに今はほとんど養殖じゃない?」
「じゃあ農家だ。アイダホででっかいジャガイモ作って暮らそう」
「そんな気軽に。従事してる人に失礼だよ」
「別に聞かせてるわけじゃないだろ。俺一度やるって決めたら頑張るもん」
 トラクターの国際免許ってあるのかな、何から準備したらいいんだ、と続けると、千紘は我慢できないとばかりに声を出して笑った。亮太、悪酔いするとこうなるんだね。それにどうしてそんなに第一次産業にこだわるの。
 笑い声につられて、やっと少し気持ちが晴れた気がした。

 彼女を抱きしめながら、再び口にしていた。
「誰も知り合いのいないところで、千紘と暮らすんだ、俺」
「うん」
「誰にも気兼ねしないで。千紘と、楽しく生きるためだけに働いて。帰ったら一緒に飯食って、めちゃくちゃいちゃついて、くっついて寝る」
「うん」
「他のこと、何にも考えないで。しわくちゃになるまで、死ぬまでずっと」
 話しているうちに、それがとても遠い夢みたいに思えた。僕達は別に道ならぬ恋をしているわけじゃないのに、決して実現することがない、夢物語みたいに。
 勝手に、鼻の奥がつんとなった。

「亮太?」
 驚いたように、千紘が僕を見上げた。
 いやな酔っぱらいだ、大失態だと頭の中で思いながらも、僕は素早く彼女の胸に顔を押し付けていた。


 翌朝、目が覚めた時にはベッドにひとりだった。
 カーテンの隙間から入る光で、室内があかるくなっている。
 自分の部屋ではないことに気づいてサイドテーブルに目をやると、時計は七時半をさしていた。
 扉のむこうのキッチンから、コーヒーの匂いが漂ってきていた。
 フライパンで何かを焼いている音も。

 ああ俺、死ぬほど格好悪いこと、した。

 昨夜の残っているぶんの記憶が蘇って、頭を抱えた。
 腕を上げると同時に、二日酔いに近い痛みがずき、と頭の中を走る。
 サイドテーブルに置いていた、飲みかけのミネラルウォーターのふたを開けて半分ほど喉に流し込んだ。

 そろそろと寝室のドアを開けた先で、彼女は朝食の支度をしていた。
「おはよう」
 さっきまでこっそり鼻歌を歌っていたとでもいうような、いつもより若干機嫌良さげなおはようだった。
「――おはよ」
 決まりが悪い気分で、何とかそう返した。
 
 朝のあかるい光の中で、彼女は静かにキッチンとテーブルを行き来していた。
「顔洗ってきて。仕事行く前に、ご飯食べよう」
 テーブルの上には、サラダとトースト、ふたつの種類のカップがすでに置かれている。
 この部屋に泊まる日はいつも十時過ぎくらいまで寝てしまうから、朝の空気に満ちたリビングに立つのは初めてだった。

 千紘は僕に近づいてきて、
「食べて薬も飲まないと。その顔じゃ、頭痛いんでしょ」
 うん、と頷いた。
 彼女の表情に、ふと昨夜の記憶が蘇ってくる。

 誰も知り合いのいないところで、死ぬまで一緒に暮らしたい――。

 昨夜の自分の言葉を思い出して、恥ずかしさに目が合わせられなくなった。
 あまりにストレートすぎることを、あまりに堂々と口にしてしまった。
 その上昨夜のいかれた僕は、その想像に気持ちが昂ぶりぼろぼろと泣いてまでいるのだ。
 
 僕の気持ちが伝わったのだろう。
 千紘は僕を見上げながら、耳貸して、と言った。
 かがんでくれという意味だろうと言われた通りにすると、彼女の腕が僕の首に巻き付いてくる。
「昨夜のことは忘れて欲しい、って思ってる?」
「――できれば」
「でも、完全に忘れて欲しくはない?」
「その通りです」
 いたずらっぽく言われるのも初めてだった。
 彼女も充分恥ずかしそうだったけれど、互いにどこかで笑い出したくなるような気持ちを持っているように思えた。

「わたしはノルウェーよりアイダホがいいかな。あったかそうだし」
「そう?」
「食品工場で働いて、週末は一緒に教会や映画やウォルマートに行くんでしょ?」
 どこかで見聞きしたステロタイプを口にしてみただけだろうか。それはひどくのどかな生活に思えた。
 だだっ広いアメリカの田舎町で、大きなつばの帽子をかぶって、日焼けした顔で笑う千紘。

 似合わないな、彼女には。
 そう思いながらも、素朴なその暮らしを想像するとちょっと笑えた。

 もう八時になるよ、と彼女が時計を見て告げる。
「本当だ」
「急いで顔洗って来て」
 言いながら、彼女はキッチンに戻って行った。

「亮太」
「うん?」
「忘れるけど、忘れないね」
 シンクの前で水道に手を伸ばしながら、彼女は楽しそうに言った。

12-1

12-1

 裏が分厚く起毛加工されているスウェットパーカーをかぶって、ネックウォーマーを頭の上から首の位置に向かって下ろす。ボアの裏地が鼻先をくすぐって、間抜けなくしゃみを部屋の中に響かせてしまう。
 ブルゾンのポケットの中に、喜和子先生からもらって使ったまま冷えて固まった使い捨てカイロがあることに気が付いた。引っ張り出してくず入れに放る。
 正月ムードも遠ざかって、日常に戻ったと思える一月の半ば。
 八時半の自宅で身支度をしながら、僕は何とも言えない気分でカレンダーに目をやっていた。

 昨年の大晦日には、千紘と一緒に横浜まで出かけた。どうせ互いに帰省する予定もないし、少しだけ贅沢をしようという話になったのだ。以前嶋岡達と食事をした店で、向かい合って計画を立てたのを覚えている。
 海と山と街のどれがいいか、話しているうちにどれも捨てがたくなって、仕方なくペーパーナプキンで千紘がくじを作った。じゃんけんで勝ったほうがそれを一枚選んでひらくと、そこには彼女の左上がりの文字で『街』と書かれていた。
 混雑を避けるために、朝早くに家を出た。千葉のほうからアクアラインを通って、午前中のうちに横浜市内に辿りついていた。
 今だって海から離れた場所に住んでいるわけではないけれど、東京湾の真ん中を走りながら僕達はとても開放的な気分になった。千紘と違って山育ちの僕には、大人になってもどこかで海がレアなものだという意識がある。運転しながらそう述べると、新鮮な感覚らしく目をぱちぱちとさせて驚いていた。小学校の登下校から、海の見える道を歩いていたらしい。
 みなとみらいの周辺でベタなデートをしたい、と言った千紘の要望に応えることにした。クリスマスを終えた街はどこか落ち着かないような雰囲気だったけれど、赤レンガ倉庫の前を楽しそうに歩いている彼女を見ているだけで心が和らいだ。スマートフォンでさりげなく横顔や歩く姿を撮影する僕に、彼女は呆れながらも笑っていた。

 防寒には気を配っていたけれど、海風で冷やしてしまった気がして少し休もうと屋内に入った。
 雑貨店の店先に並んでいたマフラーやイヤーマフを見て、ふと思い立って彼女の頭に白のニット帽をかぶせた。クリーム色に近い、きらきらとしたラメが少し入った、編み目のゆるい帽子だった。
 普段は中性的な雰囲気の服装を好むくせに、千紘にその白いニット帽はほとんど殺人的と言っていいほどに似合った。
 突然いたいけな雰囲気になった彼女の姿がおかしくなって、口元を抑えて笑いをこらえた。怪訝そうな目で見上げられてしまう。

 ――なに?
 ――途端にイノセントな雰囲気になるの、やめてよ。

 笑いをかみ殺しながら告げると、彼女は「亮太がやったんでしょ。取ってよ」と抗議してきた。髪が乱れるから一言断って、とも。

 ――いや、もうこのまましてて。可愛すぎ。お兄さんが買ってあげよう。
 ――いいよ、わたしが白のニットキャップなんて恥ずかしい。

 そう言って帽子を取ろうとした千紘に、だってすっごい似合ってるよ、と言い返した。後ろから彼女の両肩に手を置き、鏡の前まで導く。
 僕に笑われながらそこに辿りついた千紘は、鏡に映った自分の姿にはっとした顔をした。
 そして、頬を赤くして恥ずかしそうに俯いた。

 カウントダウンまでは身体が持たないだろうと、予約していたレストランで夕食を済ませて早めにホテルの部屋に戻った。
 年越しの瞬間に打ちあがった花火を、千紘は眠気を我慢しながらも嬉しそうに眺めていた。こんな年越しをするなんて、春には考えてもいなかった、と。
 元気になるまでは静かに暮らそうと思っていた、と彼女は打ち明けた。ただ静かに巣穴にこもるみたいにして、気力や体力が湧き水みたいに自分を満たすのをただ待つつもりでいたらしい。
 ベッドに並んで横たわり、夜景を眺めながらぽつぽつと話をした。今までのこと、最近のこと、そして迎えたばかりの新しい年のこと。
 何だかもう心がいっぱい、と笑う彼女と、一時を過ぎてから大きなベッドでくっついて眠った。子供や犬猫のように、小さなひとつのかたまりみたいになって。

 ふたりでいると本当にふたりきりになってしまうね、と彼女は言う。わたし達別に天涯孤独なわけでもないのに、家族も友達もいるのにどうしてかな、と。
 同じことを思っていたんだな、と思わされた。
 そのつもりがなくても、彼女といると封をしたようにぴたりと空気が閉じてしまう。千紘を閉じ込めたいわけでも他者を拒絶したいわけでもないのに、近づけば密着し、そして完結してしまう。始まりと終わりの両方にいるような、何とも言えない空間になる。
 夢から覚めたような気分で、ひとりの部屋や仕事に戻る。
 そうすると今度はばらばらのピースの中に立ち尽くしているような気がして、ひとつになれた相手がいたことを強烈に思い出してしまう。彼女が恋しくなる。還りたくなる。
 そういう気持ちになっている時は、逆にこちら側のほうが夢みたいだと思う。早くこのざらざらとした手触りの夢から覚めて、千紘の側で満たされたい、と。


 階段のほうから急いたような足音が近づいてきたとき、僕は夕暮れのレッスンルームにいつものモップをかけようとしていた。専用のクリーナーを水で薄めるために、バケツに手を伸ばしたところだった。
 麻子が小走りで僕のほうに近づいて来るのは、別に珍しいことじゃなかった。身軽な、時に過剰にも思えるボディタッチ(という名の軽度の暴力)も、話している途中もふいに身体が動いてしまうようなところも彼女にはある。その上彼女は経営上バイトにはあまり話さないほうがいいようなことまでぼろっと僕に打ち明けてしまったりするので「それは俺には言っちゃだめだ」と僕がたしなめる側になることも、稀にだがあるのだ。
 何かあったのだろうかと顔を上げた瞬間に、これから口にするだろうことが軽い噂話の類ではないと気が付いた。麻子の顔に、不安げな表情が浮かんでいたからだ。

「ホリー、ホリー」
 僕の前までいつもの姿勢で走ってきた彼女は、はいていたスニーカーの底をきゅっと鳴らして立ち止まった。
 なに、と尋ねる前に、彼女は乱れた呼吸のままで僕に尋ねた。
「あんたの恋人って、うちの関係者じゃないよね?」

「違う、けど」
 まったく予想していなかった質問につい動揺して、そう答える。
「だよね、さすがに違うよね」
「何かあった――ってことだよな、その調子じゃ」
 掃除は一旦中断しようと、濡れていた手を首からかけていたタオルで拭う。

 麻子は眉を寄せたまま僕に告げた。
「雄大くんのお父さんが、あんたと奥さんのこと疑ってる」

 頭の中が、真っ白になった。

「――どういうこと?」
「今、雄大くんのお迎えだって、お父さんが下に来てて。妻が個人的にお世話になってる、堀井って講師がいるはずだから会わせてくれって」
「俺、講師じゃ」
 ない、という響きと、いやそっちかよ、と言う麻子の声が重なった。
 
 少し前の、雄大くんとの会話を思い出していた。
 ――うちのカーチャンが、おまえのこと、イケメンて言ってたぞ。
 ――これからはリョータのファンになるって。
 ああ、という音が自分の口から漏れていた。そうだ、韓国俳優だかの追っかけをやっていて、旦那さんに見つかってひどく揉めたと言っていた。

「何もないのね?」
 強い口調で確かめられて、ない、と答えた。全然ない、ありえない、と。
 麻子は頷いて、
「なら、うちもきちんとそう主張できる。ついてきて」
 難しい顔のまま、踵を返した。

 突然のことに戸惑いを感じながらエントランスへと急いだ。僕がその場に現れたことで、空気が一度激しく揺れた気がした。
 白のタイルが敷き詰められた土間の部分に、何名かの奥様方が固まっている。雑談をしているふうを装っているものの、こちらの動向を伺っているのが気配から伝わってくる。
 玄関を入ってすぐの場所にある、あまり使っていない守衛室のドアが開いている。蛍光灯のあかりが漏れてきていた。中にいるだろう雄大くんのお父さんがドアを閉めないよう言ったのかもしれない。
 ドアの裏に、雄大くんの姿が見えた。
 僕に気づいて、難しい顔をして近づいてくる。

「おれ、何も言ってないよ」

 傷ついたような、抵抗や怒りも入った一言だった。

「大丈夫。誤解だから、心配要らないよ」
 いつもより声を大きくして告げる。雄大くんの一言が、何かを肯定しているように響いたからだ。
 彼は小さく頷いたけれど、納得できてはいないようだった。不安げな表情に、麻子が脇から僕にだけ聞こえる程度の小声で呟く。辞めさせるって言われてたから。
 部屋の中から喜和子先生が出てきて、僕に向かって入って、と告げた。


「失礼します」
 守衛室という札がついているものの、稀に面談に使うくらいで普段は閉められている部屋だ。小ぶりのスチール棚がひとつと、病院の待合風のベンチ。テーブルを挟んだところにいくつかの折り畳み椅子が重ねてあるだけの、三畳あるかないかの小部屋。
 あかりがつけられ客人の通されたその部屋のベンチ側に、ひとりの男性が腰かけていた。
 ややがっしりした体型で、眼鏡をかけている。度数がきついのか、目がひどく小さく見える。誰が淹れたのか、彼の前にはまだ湯気のあがる緑茶が置かれていた。下手をしたら、これから僕はあれを被る羽目になるんじゃないだろうか。
「お待たせしました。堀井です」
 彼の前で頭を下げる。彼は僕のほうを見て、君か、と呟いたようだった。
「雄大の父の、鎌田賢一です」
 まったく動かない表情で彼はつづけた。
「それとも、鎌田由利子の夫と言ったほうがいいですか」
 背筋に湿った冷たいものがぴたと張り付くような声だった。

12-2

 喜和子先生が僕に向かって、座ってと椅子を指した。鎌田さんは何も言わない。再び失礼しますと告げて、僕はそこに腰を下ろす。
 入口に立っていた麻子がドアを閉めようとすると、
「いや、開けておいてもらえますか」
 強く抗うような響きで、鎌田さんが訴えた。内輪で話を済ませるつもりはないのだろう。
 麻子に代わって、喜和子先生がわかりましたと答える。いつもとは違う、朗らかなところをすっかり閉じている声だ。

 数秒間続いた沈黙を破ったのは喜和子先生だった。
「堀井くん。鎌田さんのおっしゃっていたことは、麻子から聞いた?」
「はい、少しですけど」
 慎重に答える。喜和子先生も同じように頷いたけれど、そりゃそうよね、という感情も微妙に含まれている目に見えた。麻子が僕を連れてここに戻るまで、三分かかっていないはずだ。
「――僕が、雄大くんのお母さんと、その、必要以上に親しい仲だと」
 親しい仲、という言葉に、鎌田さんは一度ぴくりと肩を動かした。

 喜和子先生は、ええ、とうなずいてから僕に尋ねた。
「それは、本当の話なの?」
「いえ、全く身に覚えはありません」
 喜和子先生と鎌田さんに向かって、僕は強く訴えた。

「雄大くんの送迎で、何度か挨拶はさせてもらっています。でもそれだけです。個人的に何か話したことも、連絡先を交換したこともありません」
 携帯を確認してもらっても構いません、と続けると、鎌田さんの目がきっときつくなった。
「履歴を消しながら連絡だってできるでしょう」
「そう言われてしまえば、そうかもしれませんが――本当に、こちらも心当たりがないんです。正直、僕も寝耳に水で」
 答えながら、今まで何度か雄大くんのお母さんとした会話を思い返そうとした。
 いつものあいさつ、雄大くんの様子、発表会の通知――。やはり、彼女といわゆる男女の仲に繋がるような会話をしたことはなかった。
 喜和子先生は、黙って僕のほうを見ている。僕があまりに過剰な反応をしたら代表として制するつもりだったのだろう。
「それに僕、付き合っている女性もいますし」
 口にしながら、千紘の姿を思い浮かべていた。こんなごたごたした世界から身を引いてひっそり暮らしている、現在の僕の清涼剤みたいな人。

 僕の主張があまりに意外だったのだろう。
「――妻の話と、それではだいぶ違うんですが」 
 鎌田さんは、先ほどからあきらかに勢いを落としてそう述べた。困惑しているようだ。それでも、充分に警戒した声だったけれど。
 だからその妻の話とやらを言ってくれよ、と言いたい気持ちを抑えていると、喜和子先生がさりげなく鎌田さんに訊いた。ちなみに今日奥様は、と。
「この話が発覚してから、実家に帰ってます。今日も連れて来たかったんですが、絶対に嫌だと」
 やましいことがあるからだと思ったのだろう。
 それなら自分ひとりで真相を確かめると、彼はここに出てきたようだった。


「ええと、これは挑発とかではないんですけど」
 前置きをしてから、こっそりと両足を地面につけた。彼が激しく反応したときは、自分の身も喜和子先生も守らなくてはいけない。
「鎌田くんのお母さんと僕をそこまで疑う理由が、何かあるんですか? 証拠とか、こう、目に見える――」
 あるわけがない。だってそんなこと全くしていないから。
 内心ではそう思いながらも、僕は極めて腰を低くして鎌田さんにそう尋ねた。

 彼はふう、とひとつ息を吐いてから、何も言わずに脇に置いていたバッグに手をかけた。あるのかよ、という言葉が、鎌田さん以外の三人の頭に浮かんだ気がした。喜和子先生は驚いたように肩を震わせ僕を見ている。疑われていないと思っていたのに。
 鎌田さんは大きな目玉クリップで止めた、分厚いA4用紙の束を僕達に向かって差し出していた。
「拝見、しても」
「はい」
 彼が頷くのを待って、僕はその紙の束に手を伸ばした。

 それは、鍵をかけたSNSのアカウントで彼の妻がしたためていたらしい、なかなかきわどい内容の文章だった。日記や記録の類にも、願望にも、創作物にも見える。

 夫のモラハラに耐えている頃に息子のダンススクールで出会ったR先生と、気づけば恋に落ちていた。送迎のタイミングで少しずつ話すようになって、ある日出先で再会して連絡先を交換した。こんな年上の人妻からの連絡なんて迷惑かと思っていたのに相手は思いのほか積極的で、毎日のようにメッセージが届く。節々に熱っぽい言葉が入るようになり、ダンススクールのお休みの日に、彼とデートした。海の見えるところまでドライブをして、そのまま近くのホテルで結ばれた(・・・・)――。

 背筋が凍るほど、それはリアルなツイートだった。
 私生活と自らの願望らしきものを、彼女はそこで見事に混ぜ合わせていた。
 毎日五つくらいずつ増えていくそのツイートの中で、僕らしき人物は毎回ひどく情熱的に彼女を求めていた。そして旦那さんとの暮らしから必ず助け出す、一生離すつもりはない、などと耳元で囁いていた。

 文字しか印刷してないんで、と言いながら、彼は自らのスマートフォンを手にして操作し、僕に向かって滑らせてきた。
「これ――」
 ツイート以上に恐ろしい世界がそこに広がっていた。
 彼女の妄想が垂れ流されていたそのアカウントのヘッダーに使われていた画像は、盗撮されただろう僕の画像だったのだ。

 仕事を終えたあとらしい、スクールの駐車場に停めていた原付の前に僕は立っていた。まだヘルメットをする前で、スマートフォンを耳に宛がい笑っている。着ているジャケットや髪の長さから、去年の十二月の上旬くらいの画像だろう。
 前髪やスマホで顔の半分は隠れ、全体にもわずかにぼかしが入っていたものの、見る人が見れば僕だということは一目瞭然の画像だった。
 自宅との往復だけの日は電車を使うから、この日は千紘の部屋から出勤してきたのかもしれない。

「これは――ちょっと、言葉に」
 なるわけがない、と思った。
 鳥肌を通り越して、腕から首にかけてしびれすら感じた。

 画像は加工されていて、ピンクやオレンジに近いふわふわとした色合いが写真全体にかかっていた。手書き風の英字フォントで『大切な時間、彼からのメッセージ』という意味の英語が記されている。

 僕は周囲が驚くほど青ざめていたのだろう。
 鎌田さんが、気まずさを含んだ重苦しい響きで僕に訊いた。
「これは、妻の妄想だってことですか」
「はい。どういうつもりで書かれたのかわかりませんけど」
 胃のあたりから何かが上がってきたような気がして、思わず口元に手をやる。気持ち悪、と小声で言ってしまい、喜和子先生が慌てて麻子に向かって棚の上のティッシュを取るよう求めた。
 麻子は叔母の指示に従い箱ティッシュをテーブルに置いて、ちょっと大丈夫? と僕の背中をさすった。そしてあたかも独り言というように、ていうかこれ、ホリーが訴えるほうのやつじゃないのと続ける。鎌田さんがはっとしたように目を大きくした。
 嘔吐するところまではさすがにいかなかったものの、生々しい言葉と画像に僕はすっかり調子を崩していた。

 喜和子先生が、小さく咳払いをしてから居住まいを正した。
「この様子ですから、堀井の言うことに間違いはないと思います。雇用するときにも保護者や関係者とのお付き合いは原則禁止と言っていますし、それが既婚者だったらなおさらです。大きくないスクールですから、他人様のご迷惑になったり醜聞になるようなことは経営にも関わりますし」
 背筋を伸ばして彼女は述べた。鎌田さんは黙って俯いている。
「うちの堀井は、そういうことがわからない人物ではないと思っています」
 喜和子先生は厳しい声で続けた。
 ふうと息を吐いてから、麻子と僕に向かって尋ねる。

「ねえ、わたしにはこういうネットの世界のことってよくわからないんだけど――これ、どれくらいの人に広がってそうなの?」
 言われて、僕は手元に置いたままになっていた鎌田さんのスマートフォンに手を伸ばした。
 フォロー数が二十、フォロワー数が三十五、と記されていた。その全員が彼女のツイートを日常的に確認しているわけではないにせよ、何らかのかたちで内容は知られていると思っていいはずだ。麻子も同じことを考えていたらしい。フォロワー何人、と訊かれたのでそのまま答えた。
「とりあえず、三十五人の目には入るかたちになってる。でもこのあたりの人とは限らないし、名前もイニシャルだから。特定は、まだされてないんじゃないかな」
 あとでパソコンからも確認してみるけど、と麻子は答えた。喜和子先生はそう、と頷いた。

 ひとり後ろで立っていた麻子は、喜和子先生の後ろにすっと近づいた。僕のほうをちらと見て、唇の端をわずかに持ち上げる。
 彼女がたまにする、無邪気かつ残酷なスイッチが入ったのがわかった。
「どちらかというと、ネット経由って言うよりは――」
 麻子は言って、ゆっくりと目の前に座る鎌田さんのほうを見た。

 わざと大事にしようという意図をもってエントランスで騒ぎ立て、今も話し合いをホールまで聞こえるようにとドアを閉めさせなかった人だ。きっと今も、他の奥様方はちらちらとこちらを伺っているだろう。自分の大切な子供を、不倫の横行するようなスクールに通わせることはできないから。
 麻子の「どうしてくれんのよ」という目でじっと見つめられた鎌田さんは、眼鏡の中で無意識だろう瞬きを繰り返していた。


「よくアカウント消さなかったね、雄大くんのママ」
 鎌田さんの出て行ったエントランスで、麻子は腕を組みながらふうと息を吐いた。
「あのスマホ、本人のだったのかな」
「ありうるね」
 声にも力が入らない。すっかり気力を使い果たしてしまった気分だった。
 彼ら夫妻がこれからどんなかたちになるにしても、真実が不確かな状態のままここに来たのは間違いだったな、と他人事みたいに思う。
 鎌田さんの持ってきた『不倫の証拠』は、コピーを取らせてもらった。アカウントを消さないことを約束し、そのURLも共有させてもらう。書いてある中まで見ることはできなかったが、鍵をかけた外からも電話しながら大口を開けて笑っている僕の姿は確認できた。
 まずは奥様とよく話し合ってください、とお願いをした。書かれている内容が事実無根であること、なぜそういったことをしようと思ったのか、も。そして周知されている内容がスクールの経営や僕の私生活に影響する場合はそれなりの手続きを取らせてもらうことになるということも、旦那さんから説明してもらうことにした。

 あなた達はここで待っていてと僕達を上履きのままエントランスホールに待機させていた喜和子先生は、残っていた父兄と生徒達に困ったような笑顔で頭を下げ続けた。自分に詰め寄ってきたひとりの保護者に「何かの間違いだったみたいです、騒ぎ立ててごめんなさいね」と告げ「いずれきちんと説明させていただきますので」と続けた。僕への視線は半数以上が同情的だったけれど、保護者と不倫したという疑惑が晴れることはしばらくないだろう。

 何とも言えない表情の鎌田さんを駐車場まで送り出し、戻ってきた喜和子先生はスタッフだけになった玄関ホールで、はああ、とため息をついた。よたよたと歩きながら、自らの左手で右の肩を揉んでいる。
「長年やってればトラブルなんて避けられないけれど、こういうのはさすがに初めて」
 麻子はまだ気が立っているような様子で、何なのあのオッサン、証拠っていっても一方的じゃないの、とぼやいている。
 喜和子先生はどっと疲れたわ、と続け、それから顔を上げた。
「麻子、少し落ち着いて」
「でも」
「かっとしすぎよ。頭を冷やしなさい。上、閉めてきて。堀井くんは事務室に」
 僕達の先に立ち、喜和子先生は歩き出していた。

「喜和子先生――その、すみませんでした」
 ふたりだけになった空間で、彼女に向って頭を下げる。
 喜和子先生はそれには答えずに、とりあえず入りましょと事務室のドアを開けた。先ほどまでそこにいたらしく、電気もエアコンもつけっぱなしになっていた。
「あなたが謝ることじゃないでしょ」
「でも」
「それとも、あれはやっぱり本当のことなの?」
 重い表情で尋ねられて、ないです、と繰り返した。気まずかった。内容が本当なら、彼女は僕が人妻の身体に手を出し味わい尽くしている全容を知ってしまったことになる。
「ただその――雄大くんから、以前言われたんです。彼のお母さんから気に入られてるって」
「そんなの、普段からあることじゃない。池田くんだって山中くんだって、生徒にもママさん達にもきゃあきゃあ言われたりしてるでしょ。連絡先渡されたりとかもしてるし」
 若手の講師の先生方の名前を挙げながら、喜和子先生はソファにゆっくり腰を下ろした。ぐったりとした感じで背によりかかっている。
「あなたの態度に問題はなかったと思ってるわよ。麻子、やたら堀井くんに構うでしょう? やりづらいこともあるんだろうけど、うまくやってくれてるし」
「それも、反省点なんですが――」
 この頃は関係が砕けすぎているような気はしていたのだ。互いに仕事に対する情熱はあるから、支障をきたしているというわけではないけれど。

 喜和子先生はソファに埋もれたまま続けた。
「あの子が後を継いでくれるって言いだしたとき、嬉しくてね。わたし自身も甘やかしてる自覚があるのよ。あの子よそでは二年くらいしか働いてないから、まだまだ世間知らずで」
 苦笑いしながら、彼女は言った。
「少し、態度を見直そうと思ってます」
「ごめんなさいね。わたしからも言っておくから、堀井くんも、色々教えてやってくれる?」
 困った娘のことを話すような表情だ。
「いえ、僕のほうも、気が緩んでました。まさかこんなこと」
「想像できないわよ、普通」
 先生は朗らかに切り返した。
 鎌田さんからは、事実関係がはっきりしたところで再び連絡が来ることになっている。奥様と揃って謝罪に来ることにもなるかもしれない。

「あとは――妙な噂が立たないことを願うばかりね」
 祈るように、喜和子先生は顔の前で自らの両手を擦り合わせた。

名前も知らない【11-12】

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名前も知らない【11-12】

  • 小説
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  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-05-26

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