ドラゴン

ある日の埠頭で

ドラゴンとは体長1m以上幅指五本以上の大きな
太刀魚の呼称だ。九州では遥かに大きなドラゴンが
いるらしいがここではそこまでは釣れ無い
いや生息していないのだろう 
僕はこれまてに何匹かの太刀魚を釣り上げたが
このドラゴンを上げた事は無い

その日も其れを狙ってバイクに乗り岸壁へ出かけた
僕は入口の門番に軽く会釈をして全長1キロはあるだろう埠頭の先端へバイクを走らせた
作業を終えた夕方の埠頭倉庫はどれも大きな扉を閉じて静まりかえっていた。昼間は行き交うコンテナートラックも今は姿が無い。人影も無い灰色のアスファルトが続くその直線をバイクで飛ばすと離陸するパイロットの様な気分になる、だから僕はこの場所が気に入ってる
「ここからは海」埠頭の先端にはこの大きな看板がたっている、でもいつ見ても何か冗談めいているなと僕は思うけど、だがそれが迫ってくると
じゃあここらあたりで離陸するかなとバイクのアクセルを思い切りふかしてみたい気分になる
先端でバイクをターンさせて埠頭で働く作業員休憩室の前に停めた。フロントに括り付けたロッドケースとタックルボックスを下げて岸壁の際へ向かう
中潮の上げ七分、僕の好きな地合いだ
秋の風が目の前にそびえるベイブリッジの橋脚を抜けて港の入り口の灯台へ向かって海面を渡っていく
対岸に停泊した大きな客船の船室の明かりが遠くゆらゆらと海面に光っている。そろそろ陽が落ちる頃かなと僕はタックルボックスからルアーを取り出しラインのフックに繋いだ。夜光のホワイトラメワームにメタルジグヘッドのシングルフックを差し込んだシンキングミノだ。僕はこの仕掛けで何度かこの場所で太刀魚を釣り上げていた

僕はいつも自分独りの釣りだか、一度だけ職場の子をここへ連れて来た事があった。心身障害者用ホームで共同生活をしている25歳の利用者だった。
その子は岸壁につくなり「わーすげぇ、こんなとこ来たこと無いよ」と叫んでいた。
「海釣りした事あるの?」簡単な仕掛けをセットしたサブのロッドを渡し彼に言った
「はい、昔お父さんと」
その日彼は小さなカサゴを一匹釣りとても嬉しそうに携帯バケツに入れた魚をしゃがみ込んでいつまでも眺めていた。
それから数ヶ月後、彼はホームを出たきり戻って来なかった。駅前で宗教組織のビラを配る姿を見かけた仲間がいた。

「そろそろ地合いかな?」キャスティングを繰り返しながら僕は腕時計を見た
雲間から差し込む日没の斜光が岸壁の際に置かれた赤茶色のコンテナーを照らしている
そこに人影があった。たまに来る知り合いかなと
僕はラインを出したままのロッドを赤錆びたブイに
立てかけて近づいた。
女性だった、スマートフォンを額まで持ち上げて
しきりにフラッシュを焚いている
「何を撮ってるんですか?」僕は話しかけた
「こんにちは、あっ今晩はですね」

並びの埠頭の巨大なガントリークレーンの照明が
僕らの場所まで伸びていた。
「ここの景色撮るなら、フラッシュ要らないんじゃ無い、で何を撮ってるの?」と僕は言った
「ありがとう、でもこの景色なら毎日みてるから」
額にかかった染めていないストレートな黒髪を
かきあげ、僕を見てその人は言った
細い顔に薄く引いた細い眉毛、シャドウの無い大きな眼だった。整った顔だな、でも何故こんな場所に?と一瞬僕は思った。
「あれを撮ってるの」とその人が指差す方向に
先程の大きな客船が岸壁を離れ船体に取り着いたタグボートが船尾をゆっくりと廻している
「クィーン・エリザベスよ」
そうか今日が出港の日か、二年に一度この港に寄港するクィーン・エリザベスだった
「好きなの?あの船が」
「世界一美しい船なの」又フラッシュを焚きながら
その人は言った
それは僕も思っていた、以前この船が寄港した時
停泊していた桟橋に彼女を見に行った事があった
この港に帰国する外国のクルーズ船は何かみんな海の上のデパートみたいだが、クィーン・エリザベスは違った。総トン数を競う様に次々と建造される世界のクルーズ船の中では旧型船になったが、伝統の白と深い紺で色分けされた船体、赤いファンネル、鋭く尖った船首から船尾への流れるラインとそれに調和した艦橋と客室は他の客船を圧倒する品格がある

「いつも撮るの?」その人に言った
「わたしね、ここで働いてるの、入港する貨物船の積み荷の通関作業をしてるの」
「だからここに入港する船の情報は全て分かるわ」
「あーそうなんだ」
「でも私にとってクィーン・エリザベスは中でも格別な船なの」
「へー何故なの?」 こんな殺風景な所で働くこの人は何か不思議だな?
僕はそう思いつい話しに聴き入った
「いつかあれに乗るのが夢だったの」
船体を廻し終えたクィーン・エリザベスは
進路を湾の中央へ採り港外へ向かって進み始めていた。何隻かのタグボートが彼女から離れ見送る様に寄り沿っている
高々と離港の汽笛を鳴らした彼女は僕らが立つ岸壁の前をゆっくりと進んでいった
デッキからメローなジャスが聞こえその上に立つ沢山の乗客がみんな手を振っている
「サヨナラー」  「サヨナラー」
岸壁の縁に立ってその人は大きく手を振り何回も言った
「でもクィーン・エリザベスに独りでは乗れないのカップルじゃなくちゃ」
「あーそうなんだ」僕は一緒に手を振りながら言った
風が止み上げ潮にみるみる水位が上がっていく
「私、今月で此処を辞めるんです、8年目に」
「へーどうして?」 僕は海面から目を離して聞いた

僕はこの場所が真冬には遮るものが無い湾からの肌を切るような寒風と真夏にはアスファルトを溶かす様に容赦なく太陽が照り付けるのを知っている
通いの市営バスは朝と夕方しかなく、停留所は正面ゲートにしか無いまるで陸の孤島だ、勿論コンビニなんかあるはずも無くいつも潮の匂いだけが漂う無機質極まりない男の仕事場だ。
「ここに8年もか、僕はつぶやいた」

「世界一週に出るのよ、来月この港からピースボートで」
ピースボートなら僕も知っていた
安い料金で世界一週をする船の旅で、若い連中には人気がある
「へー凄いな」 僕は見送るエリザベスから視線をその人にむけた
僕の顔は見ないで未だエリザベスを見ながらその人は言った
「私ね毎日この場所でお祈りしてたの世界一周船の旅をさせて下さいってね、そうしたら当たったの抽選に、独り部屋の船室、唯窓のない船底ですけどね」
湾の入り口にある赤と白の灯台を抜けたクィーンエリザベスは暗い海面を沢山の客室の明かりを輝かせながら本線航路へ入り視界から遠ざかっていた

「香港からインド洋へ入りスエズ運河を抜けて地中海へよ、そこから大西洋、そして南太平洋ね」
エリザベスから目を離したその人は僕の方を向いて嬉しそうに微笑んだ
「自分へのゴ・ホ・オ・ビ」その人はわざとリズムを付けて言った
「自分へのご褒美ねー」僕も相槌を打った
「あーでもここで毎日お祈りしてた甲斐があったわ、世界一週なんてとうてい夢でしたからね、あたしには」
髪を後へなびかせながら手を広げて大きく背伸びをしながらその人は言った
白い首筋から胸へのラインが綺麗だった
「あっもう戻ら無いと、残業中抜けて来ちゃったの」
「今夜釣れるわよきっと、私お祈りしてあげるから」岸壁の縁から離れて歩き出したそのひとは僕へ向って少しお茶目な目で笑い、小さくおじきをして去って行った。
白いカーディガンが暗く遠い街灯の先に消えた

岸壁の際に戻り、ロッドを大きく振りかざして力一杯振り投げるとトルクの効いた穂先から「ヒュッ」と鋭い音を残して遠く暗い海面へ向かってルアーが飛んでいった
ルアーが着水したのを見て暫く沈めてからゆっくりとリトリーブを始めた。
海中を泳ぐルアーの小さなバイブレーションがラインを通じて伝わって来た

岸壁との中程までリトリーブさせた時、ロッドのグリップを握る僕の手にガッツンと今迄感じた事の無い大きな魚信を感じた。
「来たっ!」同時に穂先が大きくしなりドラックが鳴りラインが勢いよく出ていく、ロッドを素早く立てた僕はドラッグを締め更にロッドを煽った。それに反発したラインがグイグイと海底へ引き込まれていく、ラインが持つか、フックが外れるか、10ポンドのショックリーダーが噛み切られるか更にリールを巻き無理矢理ロッドを立てると暗い海面を銀色の輝きを放つ魚が突き破った
魚とのやりとりを繰り返しながら力が弱り岸壁際に寄った魚を
僕は一気に抜き上げた。
オレンジのサーチライトに空を舞った魚が岩壁を叩きのたうち回った
太く鋭く輝くエナメル質のやいばのような魚体、それは紛れも無くドラゴンだった、ゆうに1mをこえるドラゴンだった

呆然として岩壁に立ち尽くす僕の視界から
エリザベスの輝きは遠去かりもう見えなくなっていた


                               ドラゴン

ドラゴン

ドラゴン

  • 小説
  • 掌編
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-05-25

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