ハイリ ハイリホ(3)

一ー二 パパ

 竜介の声が、驚きから悲痛な叫びに変わった。いけない、いけない、また、他の事を考えていた。竜介の声で俺は目が覚めたのだ。白昼夢の中で営業マンと会話するためじゃない。
「パパが大きくなっているんだって」竜介の言葉をそのまま繰り返しながらも、冴えない頭の中では、何を言っているんだ、俺をからかっているのかと怒りと疑問の声が発せられる。
 残念ながら、俺の成長期は、既に終わっている。身長においても、仕事においても、人格においても、これ以上大きくなることはない。哀しいかな、寂しいかな、これだけは断言できる。年に一度の人間ドックで、気休めに身長を測ることがあるが、これも体重を確認するための付録みたいなものだ。
 反対に、体重だけは確実に増えていき、その一キロ一キロにあきらめと失望が刻み込まれ、今年も一年が終わるのだ。下腹のまわりのみが盛り上がりをみせ、体重線が一本、また一本と増えていく。この一本が十年なのか、四十歳代の俺には、今、四本の皺が刻み込まれている。腹の皺が年輪なわけだ。腹の線が俺のこれまで生きてきた成長の証なのだ。だが、年相応の皺を見て、何とか減らしたい。
 一歳でも、二歳でも、若く見てもらいたいという最後のあがきの気持ちがふつふつと沸いてくることもある。もちろん、十代、二十代の人から見て、三十九歳も、四十歳も、いくら若く見せようとささやかな抵抗をしたとしても、同じおじさん、中年のひとくくりの中にはいってしまうだろう。俺だって、本当に若い頃は、腹の線が無いころは、同じ眼を持っていた。
 新入職員として入社した俺の職場の直属の上司は、年の頃は四十前だったはずだ。ワイシャツの胸の部分が左右に引っ張られ、皺が上下に幾重にもでき、砂丘の風紋のように見えた。太っているのか、ワイシャツが一回り小さいのか、どちらかはっきりしろと言いたかった。今日は無礼講だという宴会の席で、ワイシャツの胸の部分を引っ張り、上司の物まねの一発芸をしたところ、笑いこける同僚と、むっとした上司の顔が今も思い出される。
 その四十代に、俺は光栄にもなった。だからといって何をする訳でもない。このままでは駄目だ、何かをしなければという気持ちは、俺の心の中で、小さい泡として、割れては消え、消えては現れるが、決して互いが結んで、大きく成長することはない。俺の体の成長は、既に終わっているのだ。そして、失望だけが永遠に続く。
 それに比べて、子供は毎日が発達・発展だ。柱の傷じゃないけれど、居間の見せかけの大黒柱に貼ってある紙には、竜介の身長が五年前から印されている。三か月で二センチ伸びることも不思議ではない。成長とはうれしいものだ。身内のことだからと言うより、他人事だからこそうれしいのかも知れない。
 自分の成長期の時に、背がいくら伸びたからうれしいという感情は湧いてこなかった。今、この時の瞬間を生きている人にとっては、成長の過程なんてものは、どうでもいいことなのだろう。前へ、前へ進む人間にとって、後ろなんて振り返る必要がない。また、その暇もない。後ろを振り返っても、前へ進んでいるため、過去の自分の位置が確認できない。振り返っても、さっき立ち止まった場所よりもさらに前へ進んでいる。お前の居場所はもうここにはない。前にあるだけなのだと時間が呟く。足跡がそう語る。
 その点、俺はどうだ。成長が止まった俺は、ここで終わったのかと悟るときこそがこの世のお終いなのか。ここが俺の居場所だ。俺の最終地点だ。ここしか前へ一歩も進めないのだ。後退することも許されない。この息苦しさは何だ。酸素が切れかかっている。我が息子よ、前へ進め。もっと向こうには、新鮮な空気が待っているぞ。
 まあ、それでも毎年身長を測っていれば、そのときどきで若干の変化はある。やはり、身長が伸びていればうれしいものだ。だがその原因は、散髪もせず、二か月もほったらかしの頭のせいだ。不思議なことに、髪の毛や指や足の爪だけは他の器官におかまいなしに確実に伸びている。末端成長。憂鬱だが、唯一成長している部分だ。
 だが、髪の毛が少なくなっている人は、確実に身長も低くなっている。猫背の人間は、また、少し、猫に近づいている。にゃあ、にゃあ、にゃあと日がな一日戯言を囁き続ける。縁側から落ちて、たんこぶでもできれば、背が伸びたことになるのか。今さら、大相撲部屋に入門するわけではない。たんこぶを増やしても、何のもうけも利点もない。
 また、話がずれた。ひょっとすると、俺は、眠りながら頭を打ち続けているのか、起きているときでも、身長を測るために柱に傷をつけているのか?どちらにせよ、この年齢で、身長が低くなるのは理にかなっているが、伸びるだなんてかっこうが悪い。ガリバー君じゃあるまいし、折角、新調した背広がチョッキになってしまうし、ズボンだって裾は大きく切ってしまったので、修復のしようがない。切りすぎた布切れを、つぎあて用のためにもらったところで、タンスの隅にしまい込んでしまい、どこにいったのかわからない。また、見つけ出したところで、今更、端切れを繋げることはできない。チョッキと半ズボンの取り合わせなんか、いくらエコ、消エネの時代にマッチしているかもしれないが、ぶかっこうすぎる。着ているうちに、チョッキと半ズボンの繊維質が伸びて、ちょうどよくなる。ピッタシ、カンカンだ。(少し古いか)
 だが、それにも限度があるだろう。知らない間に、ズボンのお尻の部分が、縦一列に破れて、大きな窓が開き、周りからくすくす笑われているのにも気がつかず、一日が過ぎることになるだろう。それだけは、勘弁してくれだ。後ろ指じゃなくて、後ろ尻だ。後の祭りか、後の赤っ恥か。
 それにしても、くだらんことだけは、次々と想念が沸く。頭の中にやかんがあって、くだらんの素のパックを入れると、湯気となってふつふつと湧き上がってくるのだ。時には、ピーピーという音が鳴り響き、せっかく押さえつけたふたを吹き飛ばしてしまうこともある。
 仕事では、いいアイデアは浮かばないが、こうした何の役にも立たないことは、自分でも楽しい、嬉しい、哀しいくらいに噴き出してくる。本当に、満足、満足、不満足、不満足だ。このアンビバレンツな気持ち。誰も俺を止められない。どうだ、誰か、俺を止めてみろ。草原を走り抜ける蒸気機関車か、ハイウェイを猛スピードで逆方向に走る車。それが、俺なのだ。
 しかし、こんなことで大見得を切っても仕方がない。それに、一体、誰に対して、自慢しているのだ。困ったもんだ。それともこれが俺の成長の証か。
 待てよ、ふと、やかんの中から、疑念が湧いた。俺の身長は確か百七十五センチ。ソファーの長さは二百センチ。眠気に襲われ、体全体でソファーに倒れこんだときには、ソファーの中に十分余裕のよっちゃんで、うまく納まっていたはずだ。俺の耳が最後に聞いたのは、ずっぽりという音だった。ひょっとしたら、すっぽりかも知れない。何かに抱かれるというなら、すっぽりだ。ずっぽりだと溝に落ち込んで、急いで家に帰って足を洗わないといけない感じがする。ゆったりとおやすみの気分じゃない。その点、すっぽりだと、体全体がソファーに、うまく納まった感触だ。いい響きだ。ソファーが母のごとく、俺をやさしく包み込んでくれたのだ。
 そう言えば、ここ数年、誰かに抱かれたことも、抱いたこともない。こうして無機質なソファーだけが俺の母胎なのか。俺の体から限りなく体温を奪うだけのソファー。それを知りながら、永遠に身を委ねる俺。哀しいがゆえに心地よい。ゆできれない、冷えカエルよ。それは俺だ。ただただただただ、冷たく眠れ。と、思う間もなく、睡魔がまぶたを閉じさせた。愛よ、今一度。

ハイリ ハイリホ(3)

ハイリ ハイリホ(3)

パパと僕の言葉を交わさない会話の物語。一ー二 パパ

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-29

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