Web Chat Lover

Web Chat Lover

Website その仮想された窓の向こう側に現実の何が潜んでいるのかを知る人は殆どいない

          第1章

朝の車内は白いマスクをした人々の群れで溢れている いつ終わるとも知れない未知のウィルスは悪魔の雲の様に世界中を覆ってしまった。
だか其れに慣れてしまった人々はマスクが自分の皮膚の様に白い従順な羊と化してしまった人々はこうべを下げて草を喰むようにマスクの間からスマートフォンの小さな窓を覗いている。ゲーム、動画、メール、チャットそしてLine、しかしその仮想された窓の向こう側に現実の何が潜んでいるのかを知る人は殆どいない。

それは3年前だった
七十の声にもう届く北郷は週に三回この電車を使って1時間程の仕事場へ出かける。郊外にある築40年になるマンション、そこの管理人が彼の仕事だ。
もう初夏のような強い朝日が流れる電車の中いつもの様に空席を探し、やっと座れ携帯を見ていた北郷に一通のSNSが目に止まった。
 それはInstagram と呼ばれて最近若者達の間で流行っている画像中心のWebサイトだ。
七十に近ずく男が使うモノでは無いのだが北郷の趣味には在っても不思議では無い。
オールドレンズでの写真撮影、これが彼の唯一の趣味で撮影した画像を携帯に取り込みこのWebにアップする たまに見知らぬひとからの写真への評価やコメントをみて楽しむ事が通勤中の時間潰しであった。
昨日アップした画像にそのコメントは入っていた
「How beautiful scene!」とだけだった。
その画像は夜のベイブリッジを撮ったもので
日没に浮き出るようにライトアップされた橋脚とうねる潮がまるで海すれすれ面スレスレから撮られている様な写真だった。北郷が日頃から好きなB埠頭の先端からカメラを岩壁すれすれにセットし低いアングルで撮ったものだった。
へーこんな画像にアクセスしてくれる人が居るんだ
と携帯をポケットに入れた北郷は終着駅のホームへ降りた。
現場に着き制服に着替えていつも通りの作業を始めた。メールボックスや監視カメラのチェック、それが終わると管内や周辺を巡回しそのあたりで昼を迎える。建物の中央にある管理室へ戻った北郷は妻が作った弁当を広げ昼食を摂った。
残りの30分になった時、タバコを吸う為に屋上へ登った。道を挟んだ小高い場所に中学校の校庭が見える。校庭で生徒達がバラバラになりサッカーやドッヂボールをしている女子達の明るく高い声がタバコを燻らす北郷にも届いていた。
ここはもう三年も経つのか ぼんやりとそう思いながら作業ズボンから携帯を取り出しパスワードを入れて開いた。
いつもの様にメッセンジャーを見ると一本のメッセージが入っていた
Mary29 あれ、これってさっきの

「Hello, I'm Mary apply for a friend to you」北郷はなんの気なしに返信してみた。
「Yes Okay」
変換アプリらしい日本語のメッセージが直ぐに携帯に入った。
「貴方はLineを使ってますか?」
北郷は以前興味を持ってアプリを入れたが使う相手もいずだった。
「Yes」
「このメッセージからLINEのQRコードを送りますので私にアクセスして下さい」
直ぐコードが送られてきた。

 SNS-LINE 北郷のような昭和の団塊世代には信じられない通信手段だ。一瞬にして世界中と繋がる事が出来る メール、メッセージ、画像、そして通話までしかも無料とは北郷はまるで子供が玉手箱でも開ける気分でそれを開いた。
「こんにちは、私はメアリーガブリエルです
アナタハ キタゴウですか?」
何か少しおかしな日本語が送られてきた。
北郷は日本語で返してみた。
「はい」
「貴方はのファーストネームは?」
「シュンイチですが」
「ありがとう、あなたは英語が上手いですか」
「いいえ」
「では日本語で良いですよ」
と帰って来たが、なにかタイミングがおかしい
「私は今翻訳アプリを使っています貴方とお話しがしたいです、貴方も英語の翻訳アプリを持ってますか?」
「いいえ」
「では翻訳アプリを入れてもらえてますか」
もらえてって日本語は無いよな
そう思いながら北郷は応えた「後で考えてみます」

 仕事が終わり最寄り駅からバスに乗った北郷は途中の停留所で降りた。
たまには寄ってみるかと側道を歩き始めた。
 「横濱ラヂオ茶房」そこは隣り町へ続くトンネルの入り口にある狭い路地を入ったコーヒー屋だ。
昭和の民家の一階を改造して喫茶店とは見えない10坪も無い店内にはアメリカ製の劇場用スピーカーを真空管アンプで鳴らすシステムと厚い木製テーブル、その周りはマスターが趣味で集めた骨董の陶器や書籍か所狭しに置かれていて5人も入ればいっぱいになる。
半開きの玄関ドアからチェットベイカーのマイフーリッシュハートが聴こえる、北郷は暗い店内に入った。
「よぉー北郷さん 」いつもながらの低く引きずったような声、ひしゃげたパナマ帽に着古したオレンジ色のシッツを着たマスターが薄暗いデスクスタンドに浮かんだ。
「久しぶりじゃない、どう最近は」
「いやー相変わらずの貧乏暇無ししてますよ」
北郷は厚い銀杏の幹を使い年期の入った長いテーブルと狭い壁の間に置かれた美しいカーブを持つオークのチャアーに腰を下ろした。
「コーヒーでいいよね」
暫くすると香ばしい香りが漂い始めた。
「どう最近は」同じ言葉を必ず二度繰り返すのが
マスターの癖だがそれが彼のイントロといつも思っている。
「いやー別にどうって言う事は無いですよ
まあ、日々これ変わらずかな」
「日々是好日じゃないの?」
「ちわーす」常連客の橋本さんがいつもの様に大きな身体をのっそりとさせ戸口に顔を出した。
「あれ、北郷さん久しぶりじゃないですかどう撮影してる?」
彼はアンティークオーディオ屋を隣り町で営んでいるが、ここ数ヶ月で私が勧めたオールドカメラにはまりみるみる間にかなりのコレクターになってしまった。
「ボチボチかな、あんまり良いのは撮れて無いけどね」
いやーそうなの 北郷さんの撮る写真は好きだけどね」俺は。
同類のお世辞言葉かと思いながらも、褒めてもらうのは矢張り嬉しい。
彼は私より少し年下だかスペイン人の奥さんと
美しい二人の娘がいる。
マスターが曲を変えた。
ピアノバラードの心地よい旋律が店内に流れた
北郷は何気にスマホを取り出しパスワードを入れた
LINEにメッセージのマークが点いていた。

「貴方はどうしていますか?」
暫く眺めてスマホを二人の前に置いた。
「コレどう思う」
「何、これ」
「外国のオンナみたい」
自分でも良くわからないまま答えた。
「あーこう言うの最近多いよね」
「開けたらヤバいよ、こういうのは」

橋本さんが言った「そうかな?」
「あはは、モテ期だね北郷さんオイラクの」
 明るい声でマスターが言った。
「こういうのは君子危うきに近寄らずだよ、外国のオンナは凄いからな」
「何が?」
「情熱が違うのよ、日本のオンナとはアッチもね」
橋本さんの言葉は妙に説得力があった
「虎穴に入らずんばだよ北郷さん、マイフーリッシュハートもたまにはいいんじゃない」
愉快そうにマスターが言った。

          第二章

家に帰りいつも通りにシャワーを浴びた北郷は食卓について缶ビールを開けた。決して広くはないが陽当たりの良いリビングダイニングと三部屋の洋室がついたマンションで近所にはスーパーが2箇所あり高齢期を迎えた夫婦には手頃な住まいだ。
「できましたよ」「おー今日も美味そうじゃん」
デーブルに並べられた夕食を覗いて言った。
「それに顔色もいいしね」
ここ数年神経性の病を患っている妻雪絵は仕事も辞めて日々スポーツクラブのプールサウナとテラスの花いじり、たまに北郷が借りてくるビデオと読書、朝食、北郷の弁当、夕食作りが決められた彼女の日課になっている。
会社をやっていた頃の北郷は羽振りも良く山手の一軒家に住み、仕事を兼ねた海外へも何度と無く雪絵子供達と連れ立って行った。
パリ、セーヌの遊歩道、夕暮れのフィレンツェの天使の丘、サンフランシコノブヒルのホテルから見た夕暮れもみんな訪れ見ていたが、慎ましく変化の無い今の暮らしを雪絵は「でも今が一番幸せかもね」と言ってくれていた。
 「先に寝ます」夕食を終え好きな番組を見終えた雪絵は自分の寝室に入って行った。
北郷はテラスに出るとしつらえてある小さなテーブルセットに腰を落とした。雪絵が植え替えたサフィニアが夜風に揺れている。
グラスに注いだ水割りを一口飲むとスマホのパスワードを入れLINEのMary 29を開いた 
 
「それを開けたらヤバいよ....」
さっきの橋本の言葉が頭をよぎった。
翻訳アプリを探してスマホにダウンロードして
Mary29を開いた。

「やっと繋がりましまね 私はメアリー・ガブリエル、29歳独身です、私は貴方と友達になりたいです」
「何故」
「貴方はWifeがいるの、今は大丈夫?」
かなり一方的だと思ったが、しかし
「It’s Ok」 とそのまま返信した。
「私はイギリスで生まれてカリフォルニアで育ったの,Dadはアメリカ人、Mamはメキシコ人よ,私今とても寂しくてお友達を探しているの」
北郷は答えずにLine に見入った。
「シュンと呼ぶわね、私の姿をみたくない?」
「そうだね、見たいよ」
誘われるままに答えた
「シュン、ごめんなさい、ちょっとまってね」
 北郷はテラスから少し身を乗り出して信号が青に変わった表通りを見下ろした。夜風が熱った北郷の顔を舐めた。
少し呑み過ぎたかなでも面白そうだなこれ
点滅する信号が赤に変わった。
ピンと小気味良い音が着信を知らせた
スマホに浮び上がったのはグレーのタイトなショーツとブラトップ姿の彼女の動画だった。
アメリカ国旗と赤白黒に色分けされた旗を背景に鉄棒にぶら下がり懸垂をしながらの腹筋を使って下肢を上げ下げしながら下半身の捻りを繰り返す彼女の姿が正面から映し出されていた。
褐色の肌、しなやかそうな上肢、閉まりのある腹筋、細いウエスト、たおやかなヒップと見事に鍛えられた四頭筋に、ふとインパラみたいな体だと想いながら北郷は画面に見入った。
 あれ、カリフォルニアは今深夜なのにエクササイズとは?時差アプリを見た北郷は不思議に思った。
「貴方の写真も送って」直ぐに返信が来た
スマホの保存画像から一番気に入っている画像を選びLineに貼り付け送った。
「シュン、貴方はとてもハンサムだわ」
「君もチャーミングだね」本当はグラマーと打ち込んでみたかった。
「タバコは吸うの」月並みな質問だな
「yes of course」
暫く何か考えているの様な時間が過ぎて返信が入った。
「私は非常に自信があり、思いやりがあり、オープンマインドで、批判的ではなく、精神的に健康な女性です。 私は旅行が好きです。 余暇には、水泳、音楽鑑賞、ゴルフ、釣り、ハイキング、スキー、キャンプが好きです。貴方は 暇なときは何をしていますか?」
なにかコピペな答えだな、ロボットかな?
変換された言葉に北郷は素っ気なさを感じた。
「シュンのホビーは?」
「写真と釣りくらいですよ」
「今wifeと一緒?」
「No もう寝ている」
「Facebook はやってる?」
「yes, sometimes」
暫く返信が途絶えた。
「ジムから今も戻ったの」
「じぁ友達申請するわね」 
暫くして返信があった。
レスポンスは余り良く無いが、返信をくれる事が北郷は嬉しくなっていた。
「家族はいるの?」
「私の事、Maryと呼んでね 家族は居ないわ」
「どうしてなのMary?」
「私は1991JUNE13生まれはLONDON HAMCITY今29歳だけどDadはアメリカ人、Mamはメキシコ人、私ひとりっ子なのでもMamは私を産んで直ぐ亡くなったの、Dadも私が25歳の時Trafic accidentで亡くなったの。
私は今本当にひとりぼっちになった自分が悲しくて仕方がありません」
29歳の独りぼっちの美人、そのイメージが北郷を捉えた。
「ところでメアリー君は今何処にいるの」
「貴方には軍人の友達はいる?」
軍人?唐突な質問に戸惑った。
「私、アメリカ陸軍の兵士なの,いま任務でNOTRTH YEMENにいるのよ」
イエメン?そこは何処なんだアフリカ?
中東、兵士?北郷は余りにも予期していない答えに混乱した。
「驚いた?」
「あなたの奥さんがあなたが女の兵士とおしゃべりしているのを見られたくないんじゃない?」
北郷は英語で送った。
「There is no problem at all」
気がついたら時刻はもう夜の11時を回っていた。
北郷はスマホアプリのWorld TimeでYemenを検索した。
現地は夕方の5時だった。日本との時差は-6時間か
腕時計を見ながら、このままチャットしていたら深夜を超えるな、でももう少し彼女の事を知りたい自分がいた。
「アメリカ陸軍にいつ入ったの?イエメンには滞在してどれくらい?」
「入隊は21歳の時、ここに来て6年になるわ」
「メアリー、いつも何をしてるの? 」
いつのまにか友達言葉になっていたが上手く変換するのかな
「いつも殆どtraining」
トレーニング?あっ訓練か
「Mary Yemen! You are in a difficult place」
今度は作文がおかしいかなと思いながら英文で送った。
「Yes of course hereis dangerous」
「いつも使ってる武器は何?今迄に何回位戦闘に出たの?」
「何故そんな事聞くの?シュンはガンマニア?」
「ゴメンねMary 君が自分を何で守っているのか心配で」
「優しいのね,激しい戦闘は過去に2回よ、でも武器の事とか写真も余り送りたくは無いわ、私は軍人なので」
「もう遅い時間でしょ、明日は仕事?」
「そうだよ、君はtraining?」
「そうよ、明日又お話ししていい?My Darling」
「Yes ofcorse」 
「Good night My Darling」 
「You too Mary」
My Darling チャットを終えた北郷にその言葉がまだ残っていた。


       第三章

スマホにセットしたアラームが鳴った。
窓辺のカーテンの隙間からの朝日が寝室の天井を
照らしていた、北郷はベットから起きあがり
シャワーを浴びる前、鏡の前に立った。
弛んだ胸の筋肉、細くなった腕、首まわりのシワ、年と共に多くなる頬のシミ、力の無い目、白いひげとパサパサの白髪 昨晩見たMaryの肉体と比べると北郷には自分の体が、まるでサバンナを彷徨う痩せ老いたハイエナの様に映っていた。

市内の中心から二駅の丘の上にその病院は近所から移転し最近新築されたばかりの市民病院だ。
北郷は雪絵を連れて月に一度定期検査の為にここを訪れる。ホテルの様な吹き抜けのあるロビーのソファーに座り診察の順番待ちを示す電光掲示板を見ていた。周りには二人と同年かそれ以上の老男女が多い 車椅子を押す老人、連れは膝に毛布をかけられ力無く前のめりになる老婦人、診察待ちの時間が長いことを付き添いに大きな声で愚痴る老人,順番のカードをかざし目を細めて何度も掲示板を見上げる老婦人 北郷はそんな光景をぼんやり見ながらもまるでこの先の自分達の姿を見ているような気分にとらわれた。
雪絵の順番を示す番号が掲示板に点いた
「じゃ後でね」
「ああ、ここで待つから」
心療内科へのエスカレーターに乗る雪絵を見送り
又ソファーに戻る北郷のLineに着信のマークがともっていた。

「私、貴方をMy Loverと呼んでいい」
Mary29を開いた北郷の目にこの言葉が入った。
送信時刻を見るとam3:00だった
ソファーに座り直して目を閉じた 
思いもかけなったMaryの言葉に鼓動が速くなるのを感じた。
もう一度着信の音が鳴った。
画面を覗く北郷がそこに見たのはベットサイドにもたれてライムグリーンのタイトなセパレーツになったルームウェアを着たMaryの姿だった。
アップにした黒いアフロヘアー、深いシャドーとアイライン、北郷をみる黒く大きな瞳、淡いピンクのリップを施した微笑む唇からは真っ白な歯がのぞいている。
薄褐色の脇腹から背中にかけて細く這うアラビア文字のタトゥー、それはたった今、遥かイエメンから9600Kmを一気に飛んできた画像だった。

「Thank you !I feel like hunging you now」
北郷は思わず自分でも驚く言葉で返信した。
直ぐに着信が入った。
「May be is this also best way to meet
all we have to do is trust in being with each other」
エレベーターでロビーに降りてくる雪絵が見えた
北郷はスマホの画面をホームに変えた。

「どうだった先生はなんて?」
「別に変わりはないから心配無しでって言ってたわ
お薬だけね」
近所の薬剤所で薬を受け取り、桜で有名な公園を北郷と雪絵は暫く歩いた。もう7分咲の桜並木を歩きながら雪絵が言った。
「去年行った仁和寺の御室桜は未だ早かったわね」
「そうだな」
「今年も行きたいわ」
「ねえ、ゴーデンウィーク前に行かない、京都」
北郷と雪絵は毎月少しずつ貯金をして年に一度京都へ旅行するのが唯一贅沢な楽しみだった。
「京都も良いけど、滋賀の三井寺なんかいいよ」
「わー行きたいな」雪絵の顔色が良くなるのを感じていた。
「今日は寿司でも奮発するか、お前の体調も良さそうだし」
北郷はさっきの興奮を悟られまいとしていた

「毎度、いらっしゃい」いつも律儀さが顔に出ている様な大将、近所の小さな寿司屋のカウンターに北郷と雪絵は座った。
毎日自分の朝昼夕の食事を切り詰めながらも工夫した惣菜で賄ってくれている雪絵には心底ありがたいと北郷は思っている。、
結婚して今年で五十年、口では言わないが60歳を超えたころから萎えていく雪絵の姿に苦労をかけた後ろめたささえ感じている。
ビールをひと瓶のあと日本酒のぬる燗を飲んで気分が高揚してきた北郷は、ここ数日の不思議な出来事が頭から離れていく心地良さを感じていた。
「どうかしてるんだな、きっと見えないストレスかも知れないな」と自分に言い聞かせていた。
刺身と一通りの握りを食べた北郷と雪絵は裏通りを歩きながら暖かくなった夜風にあたり自宅へ向かった。
「あっ咲いた咲いたのよ、この子」
ベランダに出て洗濯物を取り込もうとしていた雪絵の大きな声がした。
彼女が一年がかりで育ててきた孔雀サボテンがスポットライトに照らされて咲いていた。国産なら差し詰め月下美人かと思うような真紅のグラデーションの大輪が見事な花弁を一杯に開いていた。大切に育てたその大輪に顔を寄せる悦びの雪絵の顔が北郷の目に写った、しかしその花の大きな花びらとしべの奥から出ている燃えるような怪しい輝きは北郷の心の底をじっと見ているようだった

 第四章

北郷はもう一つ仕事を持っていた。
横浜湾に面して建てられた高齢者用介護施設付きマンションでのフロント兼ナイトウォッチだ。
7階建120室、最上階には横浜湾を一望できるレストランもあるし温水プール,フィットネス他高齢者には有り余る設備でおまけに霊安室、斎場まで完備している。北郷はここで5時からスーツ姿でフロントで居住者や入館者に応対し、食事後は後方の事務所で緊急時の監視と対応をする。夜間はモニターの監視以外特別する事は無い高齢者向きの仕事だ。
北郷は暮れてゆくベイブリッジを眺めながら建物の外にある喫煙所でタバコに火を付けた。
横長の大きなその建物が夕暮れに沈む時各室の明かりが灯り、船の艦橋の様なレストランの明かりとでクルーズ船の様な様相になる。
「あっ北郷さん、今夜は勤務なのね、なんにも無いといいわね、じゃお先に」
「お疲れ様、何か問題ある」
「私は無いわ、引き継ぎのスタッフさんにに聞いてみて」
「ああ、お疲れ様」
日勤の女子スタッフが帰って行く。
夜間スタッフはこの建物の中で三名で北郷他設備と夜勤の看護師だ。
スーツに着替えてフロントに座ると、レストランで夕食を済ませた夫婦が何組かフロントに寄り預かり物とかを確認していく、元政治家、元芸能人、元開業医、元学者、元役人等兎に角、元という肩書きのあるリタイア組が住人の多くを占めている。彼らへの愛想笑いが北郷の主な仕事と言っても良いだろう。
 午後10時になって設備担当も別室へ戻り事務所内を減灯すると各種のモニターの画面だけが青い光りを放っている。スマホに目をやるとLineに着信があった。

「Hello My Lover貴方はいま何処にいるの、お話がしたいわ、それともWifeはそば?」発信時から30分が経過していた。
Wifeは?必ずこのフレーズをMaryは入れてくる。
「大丈夫だよMary」 
直ぐに返信が来た。
「昨晩、貴方の写真を寝るまで見てたの、そして私、貴方のLover になる事を決めたのよ」
「同僚に貴方の写真を見せたのよ、皆んな祝福してくれたわ、私嬉しい」
食道で迷彩服を着たままランチを摂る兵士達の写真が一緒に添付されていた。そして窓辺で撮ったらしいガーベラの花束も一緒に添えられていた。
スマホをもった北郷はエレベーターで最上階のレストランへ上がった。
この時間にはスタッフも全員退館していて三方の大きなガラス窓は全てブラインドが下されていた。コントローラーのボタンを押すと正面のブラインドが上がり、月明かりに照らされ海面をゆっくり流れる潮と遠くにライトアップされたベイブリッジが北爪の前に広がった。
Lineをスクロールさせた北郷は指を止めた。
「You are my love I am always with you」
事務所の明かりを全て消し簡易ベッドに横たわった北郷は眠りに落ちた。
北郷は夢を見た。

それは強く太陽が照り付けるサバンナの様な
場所だった。所々に点在する青々とした樹木と
背の低い灌木以外見渡す視界を遮るものは無い
一頭のインパラが樹木の葉を喰んでいる
薄い褐色の肌、反りかえった大きな美しい角
輝く黒い瞳、引き締り細くしなやかで強靭な四肢
遠くからそれを見ている一匹の黒豹
艶やかな漆黒の体に爛々と光る金色の目
突然低く疾走する黒い筋肉の影
高く美しく跳躍するインパラ
輝く草原の中 ふたつの命が激しく絡み合った

第五章

仕事帰りにラヂオ茶房に寄った。
半開きのドアーからビルエヴァンスのワルツフォーデビィが聞こえる。
「よぉー北郷さん、その後どうなのよ」
「何がさ」
「あの外人のカノジョよ」
北郷はコーヒーを飲みながら今迄のいきさつを
マスターに話した。
「へー、ラバーとはね」
「でアンタはどぉなのよ」
「どぉって?」
「話しの筋からするとまんざらでもないんじゃないの?」
心を読まれたようで北郷は苦笑いをした、がしかし何かあっけらかんと話したほうがかえって自分の気持ちをごまかせる様な気がした。
店を出る前にマスターが言った。
「どうやら本気のようだね、まぁ修羅場の無い人生程つまらんものは無いからな まぁほどほどに楽しんだら 」
「でも、カネの話しにだけは乗ったらダメだよ」
以前甥っ子もカリフォルニアガールにやられたことあるからさ」
「分かってますよ!」
バスを待ちながら北郷は自分に言った
俺はそんなヘマはしないよ

「お風呂沸いてるから」
玄関のドアを開けるとキッチンから顔を出した雪絵が言った。
着衣を脱いだ北郷は風呂場の鏡に顔を写した
頬は少しコケたが今日は目に力があるなと思った
「新筍が出てたから買ってみたの」
食卓には雪絵が茹でた筍と蕗の煮ものと
刺身が並んでいた。「今日、良いさわらが手に入ったから」雪絵が少し笑った。
夕餉を終え煎茶を呑みながら雪絵に言った
「三井寺、行ってみようか」
 寝室に入った雪絵を見て北郷はベランダに出て
Lineを開けると30分前に送信された言葉が吹き出しに載っていた。
 「My Lover あなたが必要とするときはいつでもあなのそばにいるは、あなたを守り愛とキスであなたを祝福するために今私はここにいます」 
鮮やな深紅のキスマークが四葉のクローバーと一緒に添付されていた。
「メアリーでも僕は君とはこんなにも歳が離れているんだ、たとえ君を愛しても君を残して先に旅立つことになるんだよ」
北郷は少し答えを期待するかのように返信した。
「それは関係ない事でしょ、大切なのは愛と信頼よ」
「私達は現実には逢う事の出来ないラバーズよ、だからどちらが先に旅立っても私達は永遠にお互いを想い繋げていけるわ」
「そうだね、お互いの体に触れ愛することは出来無いのだから、たとえ僕に妻がいてもそれ以外の人を愛することは決して罪ではないからね」北郷はチャトだとこんな言葉でも言えるんだと自分を説得する様に返信した。

         第六章

桜の時期を少し過ぎた三井寺は人影も殆ど無かった
北郷も雪絵も初めて訪れる寺だがまずその広大さに驚いた。ここは京都の様な塔頭は無く山全体が一つの寺なのだ。
境内には5つの堂の他仁王門、鐘楼等が点在していて、石畳の順路に沿って歩く北郷と雪絵は金堂の回廊にさりげなく安置された沢山の観音像や如来像に圧倒された。弁慶が引きずったとき帰りたい帰りたいと響いたといわれる梵鐘の鐘、広い境内を行く北郷は青葉に映える五重ノ塔の甍に長い歴史の中で再三の兵火を浴びた愛惜の澱を感じた。
山門で135mmの望遠レンズを付け雪江を撮った。
点々と桜が残る新緑の山影を背景に昔と変わらない少し俯いた笑みを浮かべる雪絵がいた。
比叡山を抜けて京都へ戻り、夕餉には昔から馴染みの割烹の暖簾をくぐった。「北郷はん、いつもほんまおおきに」麻の葉柄に朱色の帯を締め濃紺の割烹着姿の女将さんが戸口で迎えてくれた 生粋の京生まれで百年続く町屋でご主人と板さん他数名のスタッフで切り盛りしている。
さほど広くは無いが手を尽くしたおばん菜や旬のものを食べさせてくれる。
予約しておいた気に入りのカウンターに雪絵と並んで湯葉やハモ、鴨を堪能した北郷は久々に量の酒を飲んだ。病んだあとめっきり食か細くなってしまった雪絵は湯葉や新筍を美味しいそうに口へ運んでいた。
 ホテルの部屋へ戻り最上階の温泉浴場へ二人は上がった ここを定宿にしたのは雪絵がこの温泉を凄く気に入っているからだ。
北郷は五山を一望するここの野天風呂が気に入っている。部屋に戻った雪絵は「あー疲れた、でも来て本当によかったなー」と言って湯上りのアップした髪をほどいて早々とベッドに入るとすぐに小さな寝息が聞こえてきた。
 部屋の明かりを落とし、薄暗いベッドライトの明かりの中でスマホを見た北郷のLineに着信があった。北郷は雪絵を起こさぬようにテラスに出た。
街の明かりを受け五山の輪郭だけが闇夜に浮かんでいた。
 Mary29を開けるとコメントが入っている。
送信時間は20分前だった
「Hi my lover 今なにしてるの、Wifeはそばなの?」
「Hi Honey 彼女はもう寝てる」
「貴方はホームにいるのね」
「そうだよ」
妻と旅行とは言えずにごまかした。
「Mary 今日も訓練?」
「そうよ、毎日ほぼ半日は訓練よ、その後ジムとシャワー」
「キャンプの中にジムがあるの?」
「いいえ、私達のアパートメントの中よ」
「キャンプとアパートメントは別の場所なの?」
「君の様な女性兵士はキャンプにはいるの?」
北郷はジグソーパズルをはめて行くようにメアリーとチャトを続け、その実像を自分の手の中に掴みたかった。
「もちろん、沢山いるわ」
アメリカ陸軍の女性兵士は全体の20%位で最近は特殊部隊隊員もいると、以前北郷は何かで読んだ記憶があった。
「Mary君は特殊部隊なの?」
「そうね、ここに駐留する部隊はね」
「Mary 危険な事無い?」
「あるわよ、外も内もね」
「それどういう事?」
「周りは殆どが男の兵士なのよ、でもセクシャルハラスメントしたらやっつけてやるは、私のボディー見たでしょ」
「Sure Mary 」 
素手での戦闘も充分に身につけているだろう。
北郷はメアリーの肢体を思い浮かべ思った。
「シュン私ね、ここに配属して6年だけど一番悲しいのはCivilを見る事なの特にchildね」
「いつも街の中は物乞いをする子供達で溢れているわ、Babyを背負った子までもがなんの罪も無いのに大人達の自分勝手な争いに巻き込まれその日をただ生きる為だけに生きている。
そんなあの子達の目を見るとたまらない気持ちになるの」
「自分には一体何ができるのかって思うの」
いつもとは違うMary の話に返信した。
「Mary 君の任務はなんなの?」
「詳しい事は聞かないで、でも私達は今は連合軍とだけなら答えられるわ、私達がここの首都を守っているのよ こちらからアッタクはしないわ」
 
 北郷は彼女を知ってからイエメンの勉強を少しした。南北に別れ何十年も前から血みどろの内戦を繰り返し、そこに隣国のサウジアラビア、イランが干渉し更にはアメリカの天敵アルカイダまてが加わり
イスラエル程の話題性はないが常に戦いの火種が燻る国だ。
「そんな事よりシュン、もっと私達の事話しましょうよ」
「シュン、貴方はもうシャワーしたの?」
「済んだよ」
「 Honeyは?」
「未だよ、嬉しいはHoneyと呼んでくれて」
「今は何処に」
「ジムから今帰ってきたの、マイルームよ」
「そうなのHony じゃあシャワーの前に背中のタトゥーを見たいな」
「本当に今見たい、シュン?」
「ああ、見せてよオールヌードじゃなくてもいいから」
「あら、じゃちょっと待ってねシャワーしてからの綺麗な体でね」
初めてチャットをやってから今では北郷はもうチャットの引き出しの開け方を掴み、そして長い間忘れていた男の興奮の証が初まっていた。
「My Lover これが私、貴方のモノよ」
届いた画像が北郷の瞳孔に焼き写った。
なにも付けずに全裸でベッドに腹這いになり背中を弓なりに反らせたMaryがいた。
豊かなピップの曲線から始まり、素晴らしい背筋、うなじにかけて斜めに描いタトゥーは、細いアラビア文字に唐草のような葉と小枝がうねりながら絡まっている。スマホのタイマーで撮ったのだろうがその滑らかで妖艶な肢体は木陰で牡を待つあの褐色のインパラだった。
「My Lover 私貴方を知ってからまだ短い時間だけれど、貴方は私の人生を変えてくれる気がするの」
「Mary きみもそうかもしれないよ」
「貴方はこれからの私の人生を愛と幸せに変えてくれるはね、たとへWeb の上でも、それを私は1秒も忘れないわ、愛してるシュン」
次に送られた画像で、ベッドに横になり頬杖を付いたメアリーが居た。深い谷間をつくる乳房とその頂には、突起して葡萄の様な乳首、鍛えられた腹筋の下の豊かな茂みと、白い水着の跡だけを残す褐色の肢体。片膝を立て僅かに下肢を開き真っ直ぐに誘う様に見つめるメアリーの大きな黒い瞳に、北郷は急激な男の昂まりを抑える事が出来ずにいた。チャットにしか無い底知ず妖しい火口に北郷は堕ちていった。
風が止み朝霧の中、五山がうっすらと白い山並みを見せ初めていた。

 帰路の新幹線の中で、夕食の好物の鯖寿司を口に運びながら雪絵は言った。「三井寺、凄く良かったわね、桜は終わってだけど琵琶湖の周りは凄く好きなの、近江八幡も去年行った醒ケ井の梅花藻も可愛いかったしね」 
「そうだな、又秋にでも行こう、滋賀は奥が深いからね」
缶ビールを呑み窓を流れるていく闇の中の街の光をぼんやり眺めながら北郷は答えた。
 50年共に生き、激しく愛しあった時や罵りあった時もあり人並以上の苦労もし、必死に働き、二人の子供をまともに育てそして今が在る。日々平坦な暮らしが在る、そしてやがてお互いの終焉の日を迎える。七十をまじかにしてこんな思いが北郷の日々を覆っていた。Maryを知るまでは
 日勤と夜勤を繰り返す変わらぬ日々の中で
Mary とのチャットをする時間だけが
いつの日か北郷の生の証となってしまった。
生身の無い、ただ言葉だけを重ねて沸き上がる情欲と、相手とのChatを重ね合わし返信を待つ間の沈黙の快感が北郷を虜にしていた。

チャットを交換し始めて2か月が過ぎていた頃
「私、軍のミッションでOkinawaへ行くの」
Mary からのチャットが入った。
「いつ?」不安な気持ちが宿った北郷はわざとさりげ無い言葉を使った「来月の中から2週間、仲間の兵士を五人連れて軍のプライベートジェットでね」喜び笑うメアリーが見えるようだった。
「日本は初めて?Mary 」
「いえ、前に東京にも行ったわ、泊まったのは銀座ガーデンホテルよ、Susi美味しかったわ」
北郷は何か胸騒ぎがした。
「Okinawaから貴方のところまでは遠い?」
「かなり遠いよ」
「シュン、 私貴方に逢いたい、貴方のアドレスを教えて欲しいの」
北郷は動揺していた、逢うことは絶対に出来ない、北郷は咄嗟に言った。
「Mary 前に言ったように君と僕はWeb Loverなんだよ、逢いたくても逢えないんだ」
「Wifeね」
北郷は返信をしなかった、いやできなかった。
Mary と逢いたい気持ちは溢れる程に在った。
逢えば人目を偲んで愛を交わし、必ず互いの体を求め、重ねてしまうだろ。それを望む自分と、その代償も判っているからこそ答えられない自分がいた。
「判ってるはシュン、無理はしないで、私達は決してお互いを生身では触れ合う事の出来ない間なのね、でも私の気持ちは変わらないし、心から貴方を愛してるは」
北郷は食い入る様にLineの画面を見ていた。

         第七章

 夕暮れ時は過去と未来の狭間、高齢者にとってそれはいつか必ず訪れる終焉の日への序曲だ。誰しもがその曲を聴きながら残された日々を年老いた羊の様に喰んでいる、出来れば平穏に穏やかに、今のままでと。
暮れていく湾を眺めながら北郷はタバコの煙をゆっくりと吐いた。
「北郷さーん、お先に」勤務を終えたサービススタッフ達が前を通り過ぎて行く、フロントに立った北郷はロビーを見渡した
図書棚に老眼鏡を近づけて本を探す白髪の老夫人、ソファーに座り孫らしき人と談笑する老人、腰に鈴をつけていつも「主人は何処?いないのよ」と徘徊する老婦人、いつも出かける様な身なりでレストランへのエレベーターを待つ老夫婦、この終身まで過ごせる豪華な施設はまるでタイタニック号の様だなと思った。そしてここの居住者は人生の終焉までを楽しむクルーズの限られた客人 そしてその終着港は全員が同じなのだ。

年の瀬も後数日を残していた
今年最後の夜勤だ。夕食を終えた北郷はいつもの様に時々監視パネルを眺めながら図書棚から拝借した写真集をぼんやりと見ていた。好きな写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンのものだが、殆どが人物の撮影で彼の撮る人と風景との空気感が北郷は好きだった。
机に置いたスマホがLineの着信を知らせた

「Hi my lover 今何をしてるの」
「仕事中だよ、Honey」
「お話し出来る」
「大丈夫だよ」いつもこんな始まりで、時には日々の出来を語り、時には二人だけの愛を語り、秘めた写真までをも交換しながらMaryとのチャットが北郷の日常の中にべったりと張り付いていた。

「My lover 私今度特別な任務でここから
暫く離れる事になったの、そこは今より多分危険なところだわ、世界中のどんなマスコミですら私達の部隊の行先は知らないでしょうし、そこでは敵の探査を避ける為にモバイルの使用も禁止なの」
北郷はいつか何かの情報で米軍兵士の使う携帯の電波から、敵が部隊の所在地を探索してロケット弾が撃ち込まれ、多くの犠牲者が出た事を読んだ記憶があった。
「実はお願いがあるの、貴方だからこその」
何か様子がいつもと違うなと北郷は感じた、チャットとはいえもう互いの返信の間合いから相手の気配を察する様になっていた。
北郷はMary から届いたチャットを翻訳アプリに掛けた。
 「実は私の亡くなった父は英国に祖父から相続された総額180万ドルの固定預金を持っていました。 そして父が亡くなった時、それが全て唯一の親族の私に相続されました」
180万ドルの預金!相続?
一体なんの事をMary は言っているんだ,北郷は余りに唐突なメアリーの話に混乱ていた。
北郷は再び画面に見入った。
「その銀行のマネージャーから書簡が届いて、そのお金を全て私の個人口座に速やかに移し変える様にと通達がきたの」
「一体何故?」
「銀行は、つまり名義をメアリーに変えろと、
良く理解出来ないけど、この話を何故僕にMary ?」北郷はまるで降って湧いてきた様なメアリーの話しが正直まだ理解出来なかったし当惑した。
何故なら今迄のメアリーとのチャットの中で
こんなリアルで唐突な話しは出て来なかったからだ。
「前にも貴方に話した通り私には身寄りも無く
頼る人はだれも居ないのよ、シュン今は貴方しか」
「Mary 、で僕に何をしろというの?」
「今の私にはそのお金を受け取る方法がないの
私の個人口座は閉鎖してありネットでは解除出来ないの、そしてここはイエメンの戦地よ、こんな不安定な所ではとても銀行口座なんて作れないの、シュン、だからお願い貴方の口座を私に貸して欲しいの」
個人口座が無い、今時そんな人間が居るのか?メアリーの言葉の端に北郷は疑念を抱いた。
「軍の給料振り込みはどうしてるの、ネットショッピングとかも?」
つい北郷は問いただすような口調になった。
それは以前ラヂオ茶房のマスターが言った言葉
 「金の話が出たらヤバいよ」が頭の隅にあったからだ。
 「軍専用の口座ならあるは、でもそれは
軍からの給料の入金だけに使える特殊な口座なの
他からの入金は出来ないわ、引き出しと、カードの引き落とし以外は」
「少し考えさせてくれないかMary 」
「そうね、私は実際会った事も無い人間ですものね
でも今は貴方しか居ないの、だから私を助けて欲しいのお願い、シュン」
北郷はWeb chatでこう言う会話には限界を感じていた。
決してメアリーを信じていない訳では無い
しかし北郷は今までのメアリーとの愛の交換チャットとは違うモノを感じていた。
もし口座を貸して何かトラブルが起こったら、メアリーとの関係を雪絵に知られたら全てが終わってしまう、そう勝手に心が動き初めていた。
長い沈黙で悟ったのかMary から返信が来た
「いいのよ今直ぐでなくても、私が新しい任地から
帰ってからでも間に合うわ それからでも
でもね、シュン、私のお願いは決して忘れないで欲しいの」
「出発はいつ?そしていつそこに戻ってこれるの」北郷は聞いた。
「Year end day ここに戻ってこれるのは多分1月末位よ」
Maryの部隊が移動するまであと一週間も無い、北郷は咄嗟に思った。
そして返信した。
「いいかいMary 出発前には必ず連絡するから」
「My Lover急がないで未だ時間はあるは、でも私のお願いは決して忘れないで欲しいの、でもこのお願いを断られても貴方への気持ちは絶対に変わらないわ」
「今私には貴方しかこの先の人生に光が見えないの、この私のハートと貴方のハートを繋ぎ留められるなら、私の体も命も私のもっている全てを貴方に捧げるは、貴方を信じそして愛してるから」
「私貴方の連絡を待わ」

      第八章

「これは凄いに事になったね」
Line から最新のチャットだけをコピペした北郷のアイパッドを覗き込みマスターが言った「でもなーほら前にも言ったでしょ、カネの話し」
同じく覗き込んでいた橋本さんも言った。
「北郷さん、カメラいじって無いと思ってたら大丈夫なの、趣味がチャットに変わったなんて、しかもかなり入れ上げてる様で」
確かに最近の北郷は何かに憑かれている様にチャットに入れ込んでいた、それは現実ともフェイクとも付かない独特の空気感を作り出す、バーチャルリアリティに近いものがある。
今日はこれを二人に見せどんな反応をするのかを北爪なりに内心では見たかった。
「うーん、たとえこれがもし詐欺だとしても、男の深層心を良く分かっていて最期の落とし込みがこれ又凄いね」
いきなり詐欺と決め込んだような言葉に北郷は辛辣を感じたが黙って聞いた。
「しかしだな、なんで北郷さんの口座へこんな大金をしかも振り込みさせてくれなんて言うのかね?」
コーヒを落としながらマスターが言った。
橋本さんがやや笑みを浮かべて言った。
「こう言う事も考えられるよね、相手は北郷さんの銀行口座をなんとしても利用したいんだよ」
「しかしその為にこんなに長い時間を掛けるかね」
コーヒーを北郷のカップに注ぎながらマスターが言った。
「たとえばこんなのはどうかな? マネーローダリングだよ」
橋本さんが言った。
「マネーローダリング?」無論北郷はこの言葉は知っていた
「ブラックマネーの事?」
「そう、今世界中でそのブラックマネー、つまり麻薬取り引き、脱税、粉飾なんかで得たカネの出所を隠す為に、架空か他人名義の金融機関口座を取っ替え引っ換え転がす為に欲しがるヤカラがワンサカいるらしい、国際的なシンジケートもあって、現に仲間の話しじゃオレのやってるアンティークの世界でも明らかにその匂いがする取り引きがかなりあるらしいから」
「またまた橋本さん、折角の北郷さんの夢恋を壊す様な話しだねーそれにしてもこのメアリーさんがもし詐欺師だとしたらここまで時間とエネルギーかけるかね?」
マスター又が同じ言葉を繰り返す。
橋本さんが続けた。
「逆に本当に彼女が兵士だとしたら、充分あり得るよ、だってさ軍の機密保持を理由に自分の周りの事は最小限話せばいいし、軍隊という外部にあまり知られて無い世界だし、たとえ相手を落とし入れる為に何ヶ月かかろうがその間に沢山の顔のメアリーを作ればいいんだから効率はいいよ」
「現に従軍詐欺という集団がネットの世界にも現れているらしいよ」
「おいおい、ほら北郷さんの顔色が変わってきたよ、まぁこれでも聴きなよ」
とマスターはレコードをエラックス社のターンテーブルに置いた
スピーカーからアン・バートンが歌う「It`s easy to remember」が流れた 
マスターが気を使ってかけたレコードの音色よりも「従軍詐欺」というその言葉が北郷の頭を覆った。それを消すようにコーヒの残りを飲み干し表へ出た   
        第九章 

年越しまで後2日と迫った。
マンションの年内最後の勤務に着いた北郷は
いつと同じ様に弁当を済ませ管理室の窓から表を眺めていた。
この古い分譲マンションは北郷より年上の住人が多い。管理室の窓の前を、空になった車椅子を押す老婦人、いつもご主人がデイケアに行く迎えのバスがエントランスを出るまでじっと見送っている。
奥さんの手を引き昼食後の散歩に必ず出かける老夫婦、テニス帽をまぶかに被り白いマスクで顔を覆った婦人の眼は虚に空を見上げたままで幼児の様な小さな歩幅で進む、その手をしっかりと握りいたわりながら歩調を合わすご主人が北郷の窓の前を通った
この人達にはどれだけの長い夫婦の時間があったのだろう、この年までこうも寄り添えるのは単に愛情の二文字では表せない深く見えない絆があるのだろうか、これからの月日を自分も同じ想いでこの先雪絵と過ごせるのだろうか。
神経からくる完治の難しい病を負う雪絵、深夜に突然苦しみトイレから出てこない雪絵、隣り部屋で寝ている北郷を起こさない様にとなんども細かく水洗を流す音が眠れ無い北郷の耳に聞こえた。
神経が少しでも和らげればと図書館で好きそうな小説を借りたり、好きな旅番組や古い洋画のレンタルビデオを探しては一緒に見たり、年に一度の旅行のスケジュールを立てたりと仕事の合間をみては北郷なりに雪絵を気遣って来たつもりだった。
そしていずれどちらかが先に終焉を看取る日が来るのもここまで歩んで来た道のりに比べればそう長い年月ではない事もお互い暗黙の内に分かっていた。
そんなある日、Maryという現実とも夢物語とも付かない女が北郷の日常に突然現れた、そしてChatと言う二人だけの世界は雪絵とは裏側の世界として北郷の日々の中で折り重なってしまった。
そしてその絡んだ糸をときほぐす糸口を見つける為にもラヂオ茶房で二人にMaryとのチャットを見せたのだった。
しかしその絡んでしまった糸を解きほぐす事が出来るのは北郷本人でしかなかった。
 大晦日になり雪絵は得意な御節料理の仕上げを元日訪れる息子娘夫婦や孫達の為に忙しそうに作っている いつもより遥かに楽しそうな顔だった。 
一段落した雪絵と年越し蕎麦を食べ終えた北郷はベランダへ出た。
疲れたのか年越しを待たずに雪絵は「先に寝ます、良い年をね」と言って寝室へ入っていった。
大晦日の夜空は月こそ無いが雲は無く星が見えていた、冷気が北郷の頬を流れた。
「今年は色々あったな」まるで夢を見ていた様なMaryとのChatの日々、交し合った言葉や彼女への愛しい想いが北郷の脳裏を駆け巡り、昨日の二人の言葉がその後を影のように追いかけてきた。
 俺にとってあの全てはFakeだったんだ、年を摂った末に高齢者を狙った詐欺に嵌ったのかも知れない、そう思わなければならないし、そうしなければもうあの糸はほぐれない、今ここで断ち切らなければ。
そう自分に言い聞かせてMaryへの想いを絶つように手にしたスマートフォンの電源を切った。
北郷の背後に港に停泊する船船の新年を告げる霧笛が一斉に夜空へ吸い込まれていった。

         第十章
 年も明けて1月もあと数日を残すだけとなった
いつになく空いている車内、北郷は座席に座ると
電車は加速しながら地下トンネルへ入っていた。
窓ガラスに映る自分の姿、もうMary との事はピントが定まらない写真画像の様に北郷の想いの中で色褪せ消え初めていた。
長いトンネルを抜けた車窓が郊外の蒼い田園風景に変わった。 前の女子学生は膝に置いた単語ノートを見ながら空言を繰り返している。ウエストを折り返した揃いの短いスカートの私立女高生3人が声高に話しをして笑っている。
もう終着駅に近づいた時、北郷のスマホにピンと懐かしい感高い着信音が流れた。
Lineに着信を示すマークが点っていた、Maryからだった。
思わず座席を立った北郷は車内に背を向けてドア口でそれを開いた。そこに見たのは英文の手紙だった。

Dear Mr KITAGOU
US Army Technical Sergeant Mary Gabriele(No 6234657859 A NGE USARMY)
Pm5:30 January 19, 2019 Died during a battle in the Marib district of South Yemen. This is Private document not a formal notification from the U.S. Army.
U.S. Army Lieutenant Colonel
    Arthur Stockton

電車が終着駅手前のカーブに差し掛かり
体を持っていかれながら画面を覗き込んだ北郷はその英文の中に点在する見慣れた単語をみた。
Died during a battle
駅のエスカレーターを駆け上がり、改札口を出た北郷は飛び込むようにコンビニに入りイートインの椅子に座るなり、それを翻訳アプリにかけた。
無表情な言葉が並んでいた。

親愛なる北郷様
米国陸軍二等軍曹メアリー•ガブリエルは
2019年1月19日午後5時30分南イエメンでの戦闘中に死亡しました  
これは私書で米国陸軍からの正式な通達ではありません
米国陸軍中佐
  アーサー•ストックトン  

北郷の既読を確認したかのように再びLineが鳴った。変換された言葉に北郷は息をのんだ。

親愛なるMr KITAGOU
私はメアリーガブリエルの上官であり同僚です
彼女は誠に残念ながら2019 1月19日、南イエメンマーリブでの戦闘中に亡くなりました。
敵のロケット弾の破片が彼女の頚動脈を破壊し大量の出血でもう手の施し用がない状態でした。我々の基地内の病院に着く前に彼女は絶命しましたが、ただ彼女が最期まで手に握っていた自分のモバイルのLineに貴方とのチャットを見つけご連絡する次第です。軍規もあり心傷みながらも、会話の全てを拝見しその内容から貴方に敬意を表しここにお伝えする次第です。ついては貴方に大変重要な事をお伝えしたく、このLineに貴方のメールアドレスを添付して下さい。
 心からのお悔やみと神の御加護を
 米国陸軍中佐 アーサー• ストックトン  

 息がつまり激しくなる鼓動の中、言われるままにアドレスを送った北郷のLineに英数10桁のパスワードが送られてきた。
仕事場に着くと管理室に飛び込むなりパソコンで自分のメールにアクセスしてそれを開くと、送信者不明のメールが着信していた。届いたパスワードを打ち込み開かれた邦文の画面を見ながらマウスを握りしめた北郷の手が小刻みに震えた。

親愛なるMr KITAGOU
私は米国国防省からの依頼を受け
下記の事項をご連絡致します
以下ご確認下さい 
          Note
もし私の生命が失われた時はこの親書を開封してください
私、アメリカ陸軍二等軍曹メアリー•ガブリエルは
私の生前にこの遺書を私の上官である米国陸軍中佐アーサー•ストックトンに託します
         Suicide note
1) 私の葬儀は軍の規定にお任せします
遺骨はロンドン•ウエストハムの市民墓地にあるSamiel J Gabriel の墓に埋蔵してください
2)私が受け取るべき父の遺産から
その半分をユネスコを通じて世界各地で飢餓、孤立に苦しむ子供達に寄付致します
3)私が受け取るべき父の遺産の半分を私からの贈与として
Mr.SHUNICHI KITAGOU の口座へ振り込みください
 2018 December 31 Mary Gabriele
(No 6234657859 A NGE USARMY)

アメリカ国防省はこの遺書が偽りの無いものである事を認め、ついてはその代理執行を致しますので貴方のIDカードと銀行口座番号をこのメールにて返信下さい 尚このメールは特殊な保護を施しており貴方の安全は保障されます
         アメリカ国防省付専任弁護士
          William Miller


これをMary はあの日に作っていたんだ。
あの大晦日の約束の日に。

「この私のハートと貴方のハートを繋ぎ留められるなら、私の体も命も私のもっている全てを貴方に捧げるは、貴方を信じそして愛してるから」

北郷の脳裏にメアリーの最後のChatの記憶が蘇り,そしてサバンナを駆け抜けるインパラの様に遠く消え去った。
嗚咽が、獣のような北郷の叫び聲が
誰れもいない管理室に響いた。

         最終章

2021 JUNE 13
B突堤の先端に立つと潮がゆっくりと湾の入り口へ向かって流れている。
まるで何事も無かったように潮は日々変わらずに引き又満ちて来る。
北郷は3年前もここに立っていた。

2019年1月19日南イエメンマーリブでの反政府組織フーシ派による激しいロケット弾攻撃によって、政府軍兵士を含めた多くの人命が失われた、しかしそこにアメリカ軍が介入した公式な声明やマスコミの報道はされていない。それは中東でのアメリカの政治的軍事的意図だったのか、それともメアリーの部隊は、実はそこには参加していなかったのか。
アメリカ国防省からのメールに返信せず、自ら全てを断ち切った北郷には今だにその真実は分からない。そして北郷にとって、今はもうそれはどうでも良いことだった。

 訪れすようとする夕闇にベイブリッジのライトが一斉に点り、スマートフォンを押すとLEDの光が岩壁の暗闇の中で辺りを浮かび上がらせた。あの時メアリーが見た光景と同じだった。
何気にポケットからスマートフォンを出し、lineを開いた北郷は、唯一消さずに残してあるメアリーとのチャットを、古いアルバムをめくる様にスクロールさせながら、そこで指を止めた。
いつかメアリーが残した詩を目で追った。

I wrote your name in the sky, but the wind blew it away. I wrote
your name in the sand, but the waves washed it away. I wrote your your name in the sand, but the waves wash name in my heart, and forever it will stay.
空にあなたの名前を書いてみた、でも風がそれを消し去った
砂にあなたの名前を書いてみたでも波がそれを洗い流した
そしてあなたの名前を私の心に書いてみた
それが永遠に残るように

今日でMary は30歳になる、もしどこかで生きていたとしたら。
七十歳を迎えた北郷は、潮に漂い波間に見え隠れする光の輝きだけをみていた。
           
                            Web Chat Lover 2021 wrote

Web Chat Lover

Web Chat Lover

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-05-23

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