泥の中を這う
視点が変わると見えるものも変わります。面白いと思うものは増えます。
泥の中を這いまわって進むのさ。
逃げ場がないと感じるときは、きっと、一番最悪なシーンを繰り返している。
漫画の中の主人公。ドラマに出てくる恋人たち。純粋無垢の子供たち。ああ、なぜそんなに、世の中を、人を疑わずに生きてゆけるのか。僕は不思議でならなかった。人を疑うことは悪いことだという固定概念が、誰かを疑う僕自身を責めている。
僕の母親は、正義感の強い女だった。僕はそんな母親が好きだったし、尊敬していた。自分の正しいと思ったことは決して曲げない強い女だった。
世界は広い。世界は広いが、個人の世界は個々の持ちうる知識の中で構成される。限界がある。そして、境界がある。僕らの正義は、誰かの正義じゃなかったりする。世界の中身は個々の世界で小さく複数存在する。文化も違えば様式も違う。
信念。真直ぐ。なんて聞こえのいいことだろう。
同級生の母が、子供を家に残して浮気相手と遊びまわる。子供を保護して、僕の家に連れ帰ることが多かった。母は、子供を保護しながら同級生の母に注意喚起をしていた。それは、彼女が彼女を、強く友達だと思っていたからだと思う。おそらくここに偽りはない。同級生の母は、注意喚起を受け入れず、現状をご主人にお話しする形となった。結果、その家は離婚。
僕の家も離婚になった。
母は、他人の家の問題に介入しすぎたのだ。父としばしば喧嘩になることがあったのは知っている。父は僕に似て、世界を斜めに見ている。母の信じた正義は、僕らの平和も壊していった。まるで台風の目のような人だと思った。
僕はこのころ、まだ母と正義を信じていたから。離婚後も母について行った。僕もいつかは、その信念で誰かを守れる立派な人に…そんなことを考えて育った。
幸せだった。幸せだった。お金がなくても。あなたが僕と暮らしてくれるなら。僕を見ていてくれるなら。幸せだった。
高校を卒業してから、僕は就職すると決めていた。進学なんてする学力も、お金もないのも知っていた。普通に勉強して、狙った会社の内定をいただいた。母を残して、遠くの寮で働くことにはなるが、寮生活で外に出ることが少ない職種のため、仕送りぐらいはできるだろう。僕を育てるために働きづめだった母が、少しぐらい自分のことにお金を使えるようになればいい。そう思っていた。
家を離れる一か月前。僕が家から消える前。
彼女は、僕に同級生のご主人と再婚することを告げた。
僕の思考は停止した。嵐の前の静けさ。数日、ただ笑うだけの人形のように過ごして。後々ふつふつと沸いては溜まる憤りに咽かえった。
ああ、そうか。そうか。僕は、邪魔だったんじゃないか。僕は必要ないじゃないか。僕は。
あなたの世界に要らないじゃないか。
まるで毎日が嵐のようだった。朝から晩まで、日から月まで。四六時中嵐のようにあれている。母のいう『父親に似てきた』という言葉も、傷口を刺されるように痛かった。何もいい方に考えられなかった。母の事だから、きっとやましいことはない。母の選んだ人だから、きっと悪い人じゃない。そうやって、いいことを考える気持ちなんて、残念ながら微塵もわかなくて。学校行って、帰宅して、部屋に閉じこもって。暗い部屋の中で、自分が生まれてしまったことを、ただただ悔いるしかなかった。
信じていたもの。やろうと思っていたこと。大事にしていたこと。大事にしようとしてた人。僕の居場所。こんなちっぽけな僕の居場所。嵐は、全部持って行ってしまった。
世界の外にポツンと一人、放り出されてしまったような孤独感。僕の信じた世界が消失していく喪失感。胸をまるっと抉り取られたような虚無感。ここに居なければよかった。生まれなければよかった。なんで。なんで。なんで。なんで。僕なんか産んだんだ。
あなたの信じた正義は、あなたの何を救ったでしょうか?
僕じゃないことは確かでしょう。
他人のせい?そうさ。人のせいにしたいさ。世界に要らないこの僕を。僕を産んだ彼女も、生まれてきてしまった僕自身も。憎い。ああ、憎い。俺を要らないという彼女も、要らない程度のこの俺も。大嫌いだ。俺は、俺なんか大嫌いだ。誰を信じて生きろというのだ。誰も信じられるわけがない。誰も。誰を信じたところで、俺の能力不足でいつかはきっと捨てられる。何もできない俺なんて、きっと誰にも愛されない。愛。そう。愛。溺れるほどの愛がほしい。窒息するほどの愛がほしい。溺れて死んでも構わない。
ああ憎い。何にもない。何にもない。俺はなんにも持っていない。愛されるべき才能も。愛嬌も。顔さえ。俺は誰にも愛されない。たまに、酷く悲しくて理由もなく出てくる涙を、笑う奴がいる。笑われるほど恥ずかしい存在なのか。ああ、だから愛されないんだ。だから、必要とされないんだ。どうしようもないクズだから。誰にも必要ないんだ。俺は。ああ、俺には。
何もない。
ずっと繰り返す最悪な状況。鮮明に思い出せる言葉。殴り合いの喧嘩。喧騒。部屋に閉じこもった日々。たまに思い出す。楽しかった思い出。今はない、僕がいた世界。孤独。喪失。虚無。ずっとずっと、繰り返していた。僕の時間はここでずっと蹲って止まっていた。
晴れの日に締まっていたカーテンを開けたときの、日差しの明るさ。ガスマスクをやっと外した時の解放感。僕の泥沼に一緒に入ってくれる安心感。自分が浸かった泥沼を、ただただ見て嘆いているだけの僕に、言葉を差し出してくれる人は泥の中でも輝いている。あなたのように輝けるかはわからないが、汚れていてもいいからあなたの隣に居たいと思った。きっとあなたは、汚れた僕も見てくれる。
ずっと、誰かに見てほしかったんだ。
悲しみを繰り返すのに忙しくて気づかない。気づいていて、動き出せない。気が付け。気が付け。きっと僕らが繰り返し見ている悪夢は、大きな世界の中の一つだ。泥の中に寝そべって、どうか空を見上げてほしい。僕もあなたも、ちゃんと世界の一部であるということをどうか、思い出してほしい。生まれたことを悔いるのも。どうして産んだと恨むのも。誰かのせいなど投げ捨てよう変わらなくていい。そのままでいい。誰かの世界に入る事にこだわらなくていい。誰かの正義に守られることなんか考えなくていい。僕は僕の世界を作り、僕の正しさを柔らかく考えてゆく。正しさは、誰かと同じ必要なんかない。一番大事なことは、僕の正しさで僕の世界を守ってゆくことだ。
僕は泥の中を這って進む蛇だ。
さあ、君はどうする?
泥の中を這う
視点が切り替わる体験をした俺はおそらくかなり運がいい。