アクアテイル

序章

 
 その腕には生まれたばかりの赤子が抱かれていた。
 男は歓喜した。
 ――扉は開かれた。我々は偉大なる力を手に入れたのだ。
 双子はすやすやと静かな眠りについている。
 男の足下には、一人の女性と一人の男性とが倒れていた。
 そんなことに、男が気付こうはずもない。
 そう、運命の扉が今開かれたのだから。

第一章

「渚、お前今日ひまか?」
 帰りのホームルームが終わり、教科書を鞄にしまっていた渚は、振り向かずに答えた。
「いや、今日はまっすぐ帰るよ」
「なんだよー、素っ気ないな。なんか用事か?」
「え、なになに、もしかして彼女とデート?」
「ちょ、聞き捨てならない」
 あっという間に三、四人に囲まれてしまい、渚は呆れてため息をついた。
「何でそうなる。勉強だよ、勉強。お前らそれでも受験生か」
 「受験生」という言葉が出た瞬間に、その場にいた全員が白けてしまったことは言うまでもない。「息抜きだって必要だろー」と誰かがぼやいた。
 食い下がる友人たちを適当にあしらい、渚は三年三組の教室を出た。駐輪場に向かい、通用門を出ると遠く眼下に海原が広がった。
 県立加美山高等学校は、加美山の中腹に位置する県内きっての進学校である。
 加美山町は三方を山に囲まれ、南面は入り江になっている。主に漁村として栄えたこの町も、バブル経済のころには静かな環境と自然に恵まれている点から地価が高騰し、多くの住宅が建った。
 町の中心を横切る線路を渡り、しばらく下ったところに渚の自宅がある。二階建ての戸建てで、母親の趣味に合わせて造られた外装は、港町にはいささか不似合いなメルヘンさである。
 車庫に自転車を置き、玄関を開けると見慣れたローファーがきちんと並んでいる。
「おかえり」
 リビングから顔を出したのは、セーラー服を着た少女である。その後ろから母親も「あら帰ったのね」とひょっこりと出てきた。
「藍、お前今日来る予定だったか?」
 思いがけず彼女が上がり込んでいるのを見て、渚は目を丸くした。
「ふふ、ううん。最近お互い忙しくてゆっくり会えなかったじゃない。さすがに遊ぼうとは言えないから、一緒に勉強しようかなって」
 ポニーテールをくるりと揺らして、藍はリビングへと引き返した。
 中学校のころから付き合っている藍は、高校から県外の女子校に通っているため、そう毎日会うわけにはいかないのだ。
 クーラーのきいたリビングに入ると、すっと汗が引いていく。筆記用具を出し始めたところで、母親が「今日も暑かったでしょ」と言って氷の入ったオレンジジュースを持ってきた。藍ちゃん、涼しい時間になるまでゆっくりしていってねー、と言う母親は一人息子の彼女にすっかり惚れ込んでいて、渚が驚くほど仲が良い。
 自室から問題集を数冊持ってきた渚は、すでに英語のノートを開いている藍の向かいに座った。
「そういえば、藍はやっぱり県外に出るのか」
 大学の話である。
「そうね、県外もけっこう受けるかも。どちらにしろ県内の大学ってそんなに多くないし、夏休みのオープンキャンパスで何校かいいところがあったから」
 そっちはどうなの? という藍の視線に、
「おれは、できたらここから通える範囲の大学に行きたいと思ってる」
 きっぱりと言い切った渚をじっと見つめてから、「じゃあ遠距離になっちゃうかもしれないわね」と藍は冗談めかして微笑んだ。
 察しのいい藍のことである。隠したつもりの渚の迷いに気付いているに違いない。
 まさか自分が進路のことでこんなにも悩むことになろうとは思わなかった。小さいころから要領が良く、高校受験の時も、担任には「お前は絶対大丈夫だろう」と太鼓判を押されて今の高校に入ったのだ。入学してからも成績は常に上位をキープしている。
 大学も、選ぼうと思えばいくらでも選べる。この状況が、渚にとっては己の首を絞めているのだ。
 互いに無用な会話を自らするようなタイプではないので、そのあとは黙々と自分の課題に向かう時間が続いた。気が付けば、晩夏の日は傾き、空の半分以上が藍色に染まっている。
「やだ、もうこんな時間になってたんだ。私、帰るね」
 腕時計に目を落とした藍は、あわてて机の上を片付け始めた。
「送ろうか?」
「ううん、いい。送られるほどの距離じゃないしね」
 玄関まで一緒に行くと、後ろから夕食の準備を中断した母親がぱたぱたと小走りでやってくる。
「藍ちゃん、もう帰っちゃうの? またいつでもいらっしゃいね」
「はい、ありがとうございます」
 お邪魔しました、と丁寧なお辞儀をして藍は扉を閉めた。
「母さん、おれ少し散歩してくるよ」
「今から? だったら藍ちゃんを送っていったらよかったのに」
 怪訝そうな顔で言われて、渚は苦笑した。
「送らなくていいって言われたんだよ。夕飯、何時くらい?」
「それでも送ってあげたらいいのに。こういう時間、意外と危ないんだからね。一時間以内には帰ってきてちょうだい」
 頷いて外に出ると、さわりと潮の香りを含んだ風が頬をなでた。空にはまばらに星が輝いている。渚は、この箱庭のような町を気に入っていた。
 加美山町に引っ越してきたのは十年前、渚が小学校に上がったばかりのころだった。それまでは大阪の中心部にほど近い場所に住んでおり、山や海とは無縁だったため、最初にこの町を一望した時は興奮したものだった。
両親の教育方針で、都市部に住んでいながらも割と自然に接する機会があったのだが、自然に守られているかのようなこの町にこれから住むのだと思ったとき、単純にうれしかったのだ。
 電灯の点りはじめた坂道を下り、車道を渡った先に、海岸が広がっている。まるでプライベートビーチのように小ぢんまりした海岸だが、加美山町の人々にとっては心安らぐ場所となっている。
 海は深い闇に沈もうとしている。さざ波の音が耳を撫でた。
「はる」
 渚はしずかに海に呼びかけた。
 浜辺に穏やかな波が打ち寄せる。波音に耳を澄ますようにそっと目を閉じ、数泊後に再び開けたとき、目の前には大きな朱色の鳥居がそびえていた。
「久しぶり、渚」
 少年はにこりとほほえんだ。

アクアテイル

アクアテイル

なぜ、こんなにも海が恋しいのだろうか。 運命を抱えた少年と少女が選ぶ道は、果たして何に続くのか。 さざ波の音を感じるファンタジー。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-29

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