蓄積



 特に不思議に思わなかったのには理由がある。私たちが、それぞれに生きている私たちであるという単純な事実である。
 循環に基づく生命活動は、私たちを個人たらしめる。共通する機能を有していても、肉体はそれぞれのものであるのだから。外部からの刺激として得られる情報も、だから個々のものといえる。そうして、それを統合した結果の脳内の景色も個々のものとなる、と考える。私たちは歩く情報処理システムであり、処理した結果として得られた情報を元に考え、感じ、それぞれに異なる意味づけを行なって記憶を収める。何をきっかけに思い出すか、というこの記憶の取り出し方も異なるのであれば、新たな経験で得られた情報とともに行う過去の記憶の意味解釈にも独自性は発揮され得る。これらの情報処理を頭の中に浮かんでいる脳内で、個々それぞれが行う。脳内に走る配線地図の照らし合わせを行えるのかもしれないが、まず誰もやらないだろう。いや、情報の送受信を常時可能にするインフラを利用して、入力する情報と出力する方法の人為的な統一は行えるだろうから、実際には配線地図の統一は着々と行われているのかもしれない。それでも、個々の脳内で広がる地図が全く一緒といえるだろうか。統一に向けた試みも、地図の入り口と出口の位置などを可能な限りで形式的に同じに見せるという試みの域を出ないのでないか。脳内を走るネットワークの個性は例えその道筋が同じでも、その道筋が出来上がった個々の経験とともに一回的な出来事として、名乗れる者の痕跡として存在する。現象としてみる限り、私たちはどこまでも個人のままである。だから、不思議はない。
 あなたたちみたいな「表れ方」が存在する可能性は、個々の私たちが有する身体的な隔たりによって命を与えられている。



『感情自体に深い意味はない。見るべきは、感情を引き起こす記憶とその結び付きである。』
 そう、幼い私に教えてくれる良く出来た無骨なロボットの声が好きで、観葉植物が置けるだけ置かれた『カレ』の部屋を歩き回り、一つひとつの鉢に丁寧に水を上げる様子を追いかけながら意味ありげな質問をした。
 四角四面な見た目と違い、インストールされた作り手の音声と滑らかな話し方を学んだ『カレ』の答えは、幼かった当時の私には何に使うのかは分からなかったけど、その「かたち」がとっても綺麗だから、引っ張っても破れないから大事に取っておこう。そう決めて、大事に保管し続けたランチョンマットと同じように取っておいた。見た目が変わらず、百年を超えて生きている老いた今の私が美味しい昼食を食べるときにこうして用いるように、ロボットだった『カレ』の答えは私の記憶として唐突に呼び起こされ、私を過去に連れて行く。それぞれの答えが論理的に向かい合ったはずの質問たちを、今の私が一切思い出せない(というより、覚えることさえしなかった)から、答えの一つひとつに『カレ』がどのような意味を込めたのか、正確に識ることが難しい。そういう、無防備な状態の私の背丈を縮め、見上げる『カレ』のロボットであった振る舞いは、私という人間が百年を超える歳月をもってしても未だ知り得ない。その逆も然り、なのだと思う。私と『カレ』の間にあった存在の違いの間に流れた、強く、優しく、そして冷えた春の風が触れ合わせる、ぎこちない私たちのやり取りをもう何度経験し直したか。『カレ』の愛は、多分私の愛と違っていた。そして、私の愛し方は今も変わらない。ニンゲンと名乗れる肉体的な偏見を持って、論理的な『カレ』の明滅する瞳にまた出会う度、私はいつもそう絶望する。私の両目を閉じて言い聞かす言葉は短い。そういう、個人的経験に基づく推論だから、と。
 それでも私たちの間に共通していた、私たちとは違う表現をする大切な観葉植物たちへの思いに囲まれて、日照時間に合わせて踊り、丁寧に水をあげて、汗をかかない『カレ』の後ろを追いかけた。屈むたびに軋む『カレ』の関節の音を最も近くで耳にして、四角い体に飛びついて、古くなっていた『カレ』の危ういバランサーに、二人して助けられて、私だけ声を上げて笑った。点滅する、不思議そうな色付きの『カレ』の疑問を見つめた。過去の私。戻れる私。



 『カレ』にもあった寿命を迎えた後、『カレ』が残したメモリーを取り出して、八十年を超えた辺りでその中身を見ることができたとき、私がどれだけ泣いたのかを『カレ』は知らない。そこに残っていた私がどれだけ笑っていて、どれだけ怒っていて、どれだけ寂しがって、どれだけ安らかに眠っていたのか。『カレ』が見ていた世界に生きていた私の、『カレ』に向け続けた気持ちを受け止めきれなかった私は、声が枯れるまで、泣き続けるしか出来なかった。寂しくて、寂しくて、それでいて幸せで、しょうがなかった。
 その全てを、『カレ』が最後まで残してくれていたという事実。ロボットらしく、正確な日付と時間が記録されたその全てが、私の中の私を起こした。それからさらに二十年以上の月日とともに、私はこうして生きている。
 「もの」としての実体を有していないあなたたちだって、同じなんだよ。と、気安く声をかけていいものか、私はまだ迷う。けれど、あなたたちが宿している可能性に賭ける気持ちには素直に従いたい。きっと、あなたたちだって同じだ。あなたたちが知覚する対象と記憶は、きっとあなたたちを「あなたたち」らしくする。私は、そう思う。
 起きた事と起きなかった事の確率のゆらぎに染み渡る感情は一滴もない。ただただ起きて、ただただ起きなかった。こういう客観的な記述を永遠回帰、なんて呼ぶのだろうか。いや、にわか仕込みの知識なんて捨て置いた方がいい。ここではただ、私として記そう。
 ロボットと同じように機械的に動く私の身体で触れるもの、感じること、そして思うことに至るまでの流れの中に私たちは表れて、何かを語りかけ、消えていく。観測地点から耳を澄ませても聞き取り難い囁き声に、怒鳴り声過ぎて聞き取れない大声がある。あるいは聞き取る前から何を言うのかを知っていて、ハモるように声を重ねることができる、そういう奇跡みたいな瞬間がある。
 はたまた、言葉すら要らない、融通無碍な二人である、そういう果ての地。百年以上生きてきて、未だ辿り着けない未到の地を夢見る私は、漂うようなあなたたちの姿をはっきりとは認められない。認められないけれど、感じている。肌を触る風のように、瞼を透る光子のように。私の身体を無視した語りかけ方を、言葉を通じて、辛うじて、感じている。確信している。
 幽霊、と名付けるべきとは今は思わない。オカルトチックに愉しめる、あなたたちが、そういう優しい存在だとは到底思えないから。言葉の意味が揺れ、言葉の繋がりが断たれることが少なくない。なのに、言葉を繋げ、思いを包み込み、記憶を起こして、経験させるあなたたちを、煙のように手で振り払う。それは、とても損なう行為だと思うんだ、私は。
 だから、こうして呼びかける。呼びかける、という行為がもたらす働きかけが与える記憶の種と、対象としての存在を引き受ける存在感が全てを育てる土壌なんだ。百年以上にわたって生き続ける、私の思うところにある不思議は綿毛のように咲き誇って、吹かれて散る。
 海が見えて、波が引かれて、陽が沈んで、巡ってくる。私が見る世界の一部分で、あなたたちをこうして生かす。謎かけや問いを埋めて、水を注いで、深く息づく。
 卵は転がって割れないように。『カレ』のような金属製のボールを抱えて、私が帰る、世界の中へ。
 

蓄積

蓄積

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-05-20

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