銀
いつも通りの帰り道だと思っていた。
それが裏切られたのは、信号待ちの交差点。ふと目をやった信号機の足元に、卵の殻が転がっているのに気が付いた瞬間だった。
卵の殻。
しかしそれはどう見ても、スーパーに並べられているような白くて小さな鶏卵の殻ではなかった。
まず、大きかった。両手に収まりそうなくらい。そして色は、淡いピンク色だった。そして――きれいに半分に割れて、そこに落ちているのは、どうやらその半分だけのようだった。
朝、学校に向かったときにはなかったように思うけれど、どうだろう。
間抜けな電子音が、あたりに鳴り響く。信号が変わった。
私は卵の殻からいったん目を離して青信号を見上げた。
なんだか、とても興味がわいた。私は少し周囲を見回す。田舎町の十字路。意味もなくスクランブル。車どおりは、まったくない。
平日の真昼間だから、そんなものか。
私は、制服のスカートを折りたたんでその卵の殻の前にしゃがみこんだ。
卵の殻は、その内側を空に向けて転がっていて、透き通るような雨水をすこしため込んでいた。内側はピンク色。外側を覗き込むと、そちらもピンク色。ただ、内側よりも少し濃い。
卵は、きれいに、横まっすぐに割れたようだった。しかし、もう半分はどこに行ったのだろう。私はもう一度、注意深く辺りを見渡した。
でも、それらしき色は視界に入らなかった。少しだけ歩き回ってみる。ここは町の郊外のほうなので、周囲は畑ばかりで開けている。道路そのものは確かに三車線で広いが、通り道に使われるばかりで車どおりは平日の昼間でなくても少ない。
畑のほうまでのぞき込んでみるが、それらしきものはやはり見つからなかった。
どこかに吹き飛ばされてしまったのだろうか。
信号はとっくに赤になっていた。
私はもう一度卵の殻の前に座り込んで、じっとそのピンク色を見つめた。
恐竜の卵かもしれない。大きな鳥だろうか。卵。卵だ。
中身はいったい何だったのだろう。何が生まれたんだろう?
*
「――それで、俺のところに持ってきたわけ?」
「うん」
「よしてくれよ。危険物だったらどうするのさ」
「たぶん大丈夫、触ってもやけどしなかったから」
「危険物ってのは、いろいろあるんだよ、銀」
そう私の名前を呼んで、鍾真は私の目を見た。
すでに夕方だった。とはいえ季節がら、まだ日は出ている。鍾真はちゃんと学校に通っているから、学校の外で鍾真に会うにはこの時間まで待たないといけない。
私は、隣の家に住んでいるクラスメートである鍾真の家の、玄関先に立っていた。
「はぁ……まあ、いいや。夕飯食べてく?」
「……いいの? でも、少し申し訳ない」
「最近あんまり来てなかったろ? 別にいいよ」
鍾真は優しい。と思う。
「でもその、何? 卵の殻? あとでちゃんと返して来いよ、なんかこう、誰かのものかもしれないし」
「……確かに。誰かのものだったら、困るね」
なんて話しながら、私は鍾真の家に入れてもらう。靴をそろえて脱いで、リビングに顔を出して、ちゃんとお辞儀する。
「お邪魔します」
「あら、いらっしゃい銀ちゃん。夕飯は?」
「頼むよ、銀の分も」
そう鍾真が答えながら、私を促すように見て階段を上がっていく。
鍾真のお母さんは、とても優しい。私はもう一度お辞儀をした。「ありがとうございます」と、いうと、キッチンに立っていた鍾真のお母さんは微笑んで、いいのいいのと手を振ってくれる。
私も鍾真に続いて階段を上った。
正面にある部屋の扉が開かれている。そこが鍾真の部屋だ。
いつでも部屋はきれいに整頓されている。鍾真は私と違ってすごくまじめで、几帳面だ。そう本人に言うと、否定されるけれど。
「お茶か……カルピスがあったかな、どっちがいい?」
「カルピスお茶割り」
「……ちゃんと全部飲めよ?」
「カルピスおねがいします」
「はいはい」
鍾真が階下に飲み物を取りに行ってくれている間、私は部屋の真ん中においてある小さなテーブルの前に正座した。そして、背負っていたリュックを慎重に下ろして、中からタオルのかたまりを取り出す。
殻は想像以上に丈夫だったけれど心配だったので、タオルでくるんで持ってきた。
机の上にそれを置こうとして、机上の勉強道具に気づいた。何冊かの参考書と、ノートとが雑に閉じられていた。勉強中だったのかもしれない。私は、いったん卵の殻を鞄に戻し、それらをそろえて机の端によけた。
それから机の上にタオルのかたまりをそっと置いて、タオルをまくっていく。
すぐに、ピンク色の卵の殻が現れた。
道端で見たよりも、色が落ち着いて見える。部屋の照明のせいかもしれない。
矯めつ眇めつしてみる。何の卵なんだろう。大きい卵といえば、ダチョウだろうか? でもピンクの卵なんて知らない。鍾真は物知りだから、知っているかもしれない。
「はい、お待たせ。――って、おお、それが?」
「うん。卵の殻」
「うーん……卵っていうか……まあ、言われてみれば、卵の殻、だな」
鍾真は二つのコップをテーブルに置いた。氷がぶつかって涼しげな音を立てる。
「言われてみれば?」
聞き返すと、鍾真は私の正面に腰を下ろしながら答える。
「これパッと見たら、卵だとはまず思わないだろ。割れたボールか何かかなって思うよ」
「……言われてみれば」
私は直感的に卵の殻だと思った。そこに違和感はなかったけれど、確かにそうなのかもしれない。
「人間は、ものに勝手に意味を持たせようとするからな。自分の知識では説明できないものを見ても、自分の知っている知識で無理に納得しようとする」
「なるほど……」
ちょっと難しい言い回しで、よくわからなかったけれど、なんとなくわかるような気もする。鍾真は物知りだ。
「でも、これは卵だよ。すこし、内側に、薄い皮がある。ゆで卵みたいに」
「うん、確かに。……でもさすがに、ピンクの卵なんて聞いたことないな」
「しかも、こんなに大きいよ」
「確かに……」
うーむ、と鍾真はうなった。
私はそんな鍾真をじっと見つめる。透き通るような真っ黒い瞳を伏せて、卵を観察している。考え込むときの鍾真はいつも周りを気にしない。私はそんな鍾真をじっと見つめるのが何となく、好きだ。
ずっと昔から、鍾真だけは私と仲良くしてくれる。どんなことがあっても。
「でもさすがに、俺もお手上げだよ。専門外」
「専門って?」
「すでに解明されていること」
なるほど、よくわからない。
「ちょっと調べてみるか」
「うん、何かわかるかな」
鍾真は立ち上がって、パソコンの置いてある机のほうに移動した。
いつも、鍾真は私の話を聞いてくれて、真剣に、一緒に考えてくれる。
私は殻の前に両肘をついて、じっと眺めた。
「もう半分はどこにいったのかな」
「もう半分?」
鍾真は少し間を開けて、ああ、と納得がいったようにつづけた。
「確かにそれが卵だったとしたら、何かが生まれて、卵は真っ二つに割れたはずだ」
「うん、でも、なかったの」
「ほかには何かなかったのか? 生物が生まれた痕跡とか」
「なかったと思う……」
何もなかった。ただきれいに、殻が落ちていただけだった。
やっぱりこれは、卵の殻ではないのだろうか?
結局、目ぼしい情報は何も手に入らないうちに、鍾真のお母さんが私たちを呼びに来てくれた。
私はそのあとも考えた。なんだか、すごく気になった。でも、それ以上の情報を得ることは私たちにはできなそうだった。
でも、鍾真と鍾真のお母さんと、三人での食事は楽しかった。料理もすごくおいしかった。卵の殻のことはきっと、どうしようもない。答えを知ることもできそうにない。でも、それでも良いような気がした。鍾真と一緒に何かを考えるのは楽しかったし、それだけで十分だった。
ありがとうございました、お邪魔しました、とお辞儀をして家を出るころには、周囲は暗くなっていた。今日は少し、蒸し暑い夜だった。夏が近づいているのを感じた。
「じゃ、ちゃんと明日の朝にでも返しておけよ」
「うん、そうする」
私は当初の予定通り、卵の殻をもとの場所に戻すことにした。
鍾真と別れるとき、私はふと思った。
鍾真はいつか、この家を、この街を出て、どこかに行ってしまうのだろうか?
私たちはもう高校二年生で、きっと鍾真は頭がいいから、大学を目指すのだろう。机の上に広げられていた勉強道具がなんとなく忘れられなかった。
そうしたら私は、独りぼっちなのだろうか。
私は殻の中に、取り残されて、独りぼっち。
*
私は真っ暗な街を歩いて、交差点に向かった。
なんとなく、気が変わった。やっぱり明日の朝ではなく、今日のうちに殻をもとの場所に置いておこうと思ったのだ。もう少し手掛かりがないかどうか、見てみたくもなった。
ゆるやかにカーブする道路の先に、交差点が見える。
鍾真と一緒に来ればよかったかもしれない。でも、今は何だか鍾真のそばにいると、さみしくなりそうだった。一人でもさみしいけれど。
車どおりはやっぱりほとんどない。私は道路の真ん中を歩いた。車が通るときには、よけた。
暗がりに、スクランブル交差点の赤信号が目立った。
――あれ。
私は、人影を見つけた。
その人は、交差点のど真ん中にたたずんでいた。
何をしているんだろう。気になった。私に背を向け、空を見上げているようだった。
私は近づいていった。スクランブル交差点の信号のところまで行くと、その人は良く見えた。
まず目をひいたのは、銀色の髪だった。
「……あの……」
私はなぜか、そう声をかけた。少し、かすれたけれど、その声は届いたようだった。
その人物は振り向いた。雪みたいにまっしろなワンピースが、揺れた。
「…………この町の人?」
そう問われて、私は頷いた。その瞳は信号機の赤色に輝いていて、本当はどんな色をしているのかは見当もつかなかったが、鋭く射貫くような視線だった。
「そうです……」
そう答えると、その人はまた、空を見上げた。こちらを、もう見ることはなさそうだった。私は少し安心した。
「……望まれたように生まれられなかった経験はある?」
突然の問いに、私は少し考えた。
望まれたように、生まれられなかった経験。
「……あると、思います……」
「どんなふうにのぞまれて、あなたはどう生きているの?」
私はまた、考えた。
不思議と、落ち着いていた。なんだか、こうして会話をするということは、すごく当たり前のことのような気がした。私があのピンク色の卵の殻を見て、当たり前のように卵の殻だとわかったように。
「私の名前は、銀といいます」
言葉はよどむことなく、流れるようにこぼれた。
「……きれいな名前ね」
「でも……そんなきれいで、強い人間には、なれませんでした」
「ふうん……」
その人は振り向かなかった。
ただ、何かを探すようにその人は首をかしげ、それから、ゆっくりと歩きだした。
もしかしたら? いろんな直感が私の頭をめぐって、騒ぎ立てて、それから消えた。
その人が歩いていくのを、その銀色の髪が星空に光って、揺れて、遠ざかっていくのを、私はただ静かな思いで見つめていた。
なぜか胸がつまるような思いがした。こらえるように、夜空を見上げた。
晴れ渡って、涼しげな風が吹いて、天球の主役となろうとする夏の大三角形が、季節が変わりゆくことを教えてくれた。
*
次の日、町中を銀色の霜が覆った。
私は鍾真と一緒に、その街を歩いて学校に向かった。
屋根も、道路も電柱も、ポストも。びっしりと霜が覆って、町中は大騒ぎになった。あまり気には留めなかったけど、ニュースでさえなにやら騒ぎ立てていたっけ。
「……どういうことだと思う? 鍾真」
「って言われてもなあ……」
鍾真はさすがに考え込むことも放棄して、困ったようにつづける。
「変だよな。異常気象……ってのも、違うのかな」
「どうだろう。でも、いきなり冬が来たってわけじゃ、なさそうだね」
ここ数日、ずっと晴れていたっけ。今日はどちらかというと、昨日よりも暖かいくらいだ。町中を覆った霜はもちろん溶け始めていて、歩く地面はシャーベットみたいにぐしゃぐしゃだ。
「昨日の殻といい……何か関係あるって思うのは、さすがに考えすぎか」
「でも、うん。どうだろうね。あの卵は、なんだか暖かそうな感じがしたし……」
「暖かそう?」
私は、鍾真に昨夜のことは話していなかった。卵の殻は結局、なんとなく持って帰ってしまって、今も鞄の中に揺れている。
「ピンク色で……優しい感じが、した気が――」
と。
その時、私は思い切り足を滑らせて、泥と水浸しの路上で転んだ。ばしゃ、と水しぶきが、あがって、鍾真のズボンを濡らした。
「おい、大丈夫か」
痛い。
とっさについた手のひらがすりむけた。膝もついてしまった。座り込んだまま、私はぼんやりと手の平を見つめて、立ち上がれない。
「銀。ほら、大丈夫だから」
なんて鍾真の声は遠くから聞こえるようで、私は重い頭を上げた。鍾真は手を差し出してくれていた。瞬きを繰り返して、はっとする。焦点が合う。目が合う。
「……ごめんね」
「大丈夫か? あー、ちょっと擦りむいたな」
「うん、大丈夫……」
怖かった。怖い。鼓動が早くて、頭がクラっとする。
「どうする? 家に戻るか?」
「……ううん。学校までいく」
「無理すんなよ」
私は……たったほんの少し転ぶだけで、どうしてこんなに怖いって思うんだろう。膝がずきずきと痛む。覗き込むと、すりむけて血がにじんでいた。けれど、大した傷じゃない。わかっているのに。わかるのに、どうしてこんなに怖くて、身がすくむんだろう。
学校。クラスメイト。みんなの声。言葉。向けられる目。
なんでこんなに、怖いものばかり――ちがう。
なんでこんなに、私は弱いんだろう。
「やっぱり帰るか?」
「いい。ごめんね、ズボン、水飛ばしちゃった」
「ん? いいってそんなの。とりあえず、学校までは歩けそうか?」
「うん……」
銀色。
ふっと思い出した。銀色の女の子。あの子はなんだか……悲しそうだった。どうして今、あの子を思い出すのだろう。
私には、鍾真がいる。
だけど――鍾真もいつかは、ここから離れて、いなくなって、ずっと遠くに行ってしまって……。
そうしたら、私はどうやって立ち上がればいいんだろう。
独りぼっちの私を想像した。そこには誰もいない。転んでしまった私は痛いのが怖くて、誰かに笑われるのが怖くて、何にも考えられなくなって頭は凍り付いて。
立ち上がれない。独りぼっちで。ずっと。
その姿は、なぜか、あの子の銀色の後ろ姿に重なって――。
「――銀、おい、銀?」
声に、はっと意識を戻す。
そこは、あのスクランブル交差点だった。
「卵の殻、どのへんに落ちてたんだ? 返すんだろ?」
「あ、そうだね、えっと……」
私たちは、青信号になるのを待って、二人で反対側に渡った。それから、信号機のそばで、鞄からタオルの包みを取り出す。
そこで、私は気づいた。
「割れてる……」
「え?」
タオルの中で、殻は二つに割れていた。
「さっき、私が転んだからかな……」
壊れてしまったものは、取り返しがつかない。なんとなく悲しいような、だれにかわからないけど、謝らなきゃいけないような、そんな気がしてしまう。
「あー、まあ、いいだろ、別に、きっと誰のものでもないし」
なんて、鍾真は昨日とは真逆の事を言った。
「しょうがないよ。元あった場所に置いて、行こう」
「うん……」
ピンク色の殻は、色あせることもない。私は、信号機の足元をタオルで拭いた。けれど少し迷って、私はタオルを道路に置き、その上にそっと殻をのせた。
「それなら、汚れないな」
「うん、割っちゃったから、今更かもしれないけど……」
「じゃ、行くか」
私たちは一緒に歩きだした。
鍾真と話している間、悲しいことも、痛いのも、怖いのも、全部忘れられた。
考えたくない。知らない。
鍾真がいなくなることなんて、知らない。
私はいつものように、そう蓋をした。
何度も何度も、そうやって、逃げてきた。
見ないふりして。
でもそうしていれば、怖くない。どんなに怖くなっても、そのたびに蓋をしていれば。
「ねえ、鍾真」
「ん?」
「今日も鍾真の家、行っていい?」
「ん、いいよ。宿題でもやるか」
「うん、ありがとう」
違和感も迷いも不安も、全部。全部。蓋をして。
ただこの時がずっと続けばいい。
ずっと。
ふと、膝の擦り傷が、ズキンと痛んだ。
*
次の日もまた次の日も、なにごともなく過ぎた。
あんなに街をびっしりと覆っていた霜は溶け切って、その水分もやがて蒸発して、再び、初夏の乾いた街になった。
結局、原因は不明だったという。謎の異常気象、あるいは超常現象としてしばらくは世間をにぎわせるだろうが、それもそのうち消えていくのだろうと思う。
卵の殻は、置いたその次の日に、もうなくなっていた。タオルは残されていたので、私は持って帰ってそれを使っていた。
その後も一週間、二週間、なにごともなく過ぎた。
しばらくして、膝の怪我は治った。学校には行ったり、行かなかったりした。行っても途中で帰ってしまうことばかりだった。鍾真とは、一緒に学校に行ったり、ほんのまれに並んで帰ったり、家に行かせてもらったりした。ご飯も時々一緒に食べた。
一か月、二か月。過ぎて、真夏が訪れる。いつも通りの日々は、ぼんやりと、飛ぶように過ぎていった。
鍾真はだんだん勉強に力を入れるようになった。私も一緒に勉強した。している風を装った。何も考えてはいなかったし、目標も未来の事も何も考えつかなかった。
日々は過ぎた。
いつも通りの帰り道が繰り返され、それが裏切られることもなかった。
「――そんな風に生きていて楽しいの?」
そう問われたとき、私は久しぶりに、明確な意思を持ってその相手に目を向けた。
「――あなたは誰?」
と問いながら、記憶が刺激され、その横顔、銀色の髪に見覚えを感じた。
もう、冬だった。
雪の降りしきる、正午。
まるで早朝か夕方のように暗い、真昼だった。
「楽しいの?」
その人は私の質問には答えなかった。ただ、繰り返すのみだった。
「……楽しい、とかはよくわからない、です」
首を傾げた。傘につもった雪がぱらぱら、と滑り落ちていった。
そこは、いつか卵の殻を拾った交差点だった。車は、一台もいない。
私はその人と並んで信号が変わるのを待っていた。
「……私の事、知ってるんですか?」
質問を変えてみた。
その人は、私のほうを見ない。
ずっと、変わらない信号か、さらにその向こうの空なのか、を見ている。
私も諦め、正面を向いた。
「銀、って名前なんでしょう」
「……はい」
銀。ズキン、と痛むような気がするその胸を、気にしないようにする。
「あなたのほうが似合いますよ。銀、って名前」
そう言ったとき、目が合った。
不機嫌そうなその目は、ほんとうにその通り、銀色をしている。不思議なのだけれど、すごく自然で美しい。私が思わず見とれてしまうと、つい、と視線を外された。
「……私は、別にこうなりたかったんじゃない」
なんだか見た目の神秘さとは裏腹に、子供のような口調。そして、気を取り直したように続ける。
「あなたは、それに甘えているんじゃないの」
「甘えている……?」
「名前を裏切ることに、慣れて、あきらめているんじゃないの」
私は答えられなかった。
「それじゃ……進み続ける人に、おいていかれてしまうよ」
それは、冷たく心を刺した。
鍾真の姿が私の脳裏によぎった。でも。
「……でも、怖いです」
信号が、パッと変わった。
青い。ふりしきる雪にぼやける。
電子音。
「割ってみたらいいよ。……あの殻みたいに」
その人は、一歩踏み出した。歩いていく。傘もさしていないその人は、雪の中に立つと、いまにも溶けて消えてしまいそうだった。でも、しっかりと立っていた。確かにそこにいた。
ああ、私もああいう人間になりたかった。
きれいで、でも弱くない。強く輝く、銀。
無責任な親が理想におぼれて名付けたくだらない名前だとしても、それでも、その名にふさわしい人間に、なってみたかった。
その人は、最後に振り向いた。さみしそうな、悲しそうな目で、私のほうを見たのだった。
私は何と言ったらいいのかわからなかった。
「……殻?」
そう、かすれた声で訊いた。
けれど言葉は返ってこなかった。
まるで雪に溶けるように、銀色の女の子は消えてしまった。
ああ、なんだろう。
手のひらにつかんだ雪が溶けてしまったときのような、さみしさを感じた。
さみしい。
ああ。そっか。
雪の中で、私は泣いていた。
信号は赤になった。
泣くのなんて、いつぶりだろう。でも、なぜだか、腑に落ちていた。
感情に蓋をして、何も見ないふりをして、知らん顔で過ごす日々は、空っぽのまま終わっていった。ずっとそうやって生きていくなんてことは、できないのか。
「でも……怖いよ……」
でも……。
おいていかれるのも……。
たとえいつかおいていかれるとしても、私は……。
鍾真と過ごした日々を、ちゃんと覚えていたい……。
感情に蓋をして逃げ続けた日々に、思い出なんか一つもなかった。
信号が、変わった。
私は涙をぬぐって、踵を返した。
青信号を背に。
学校に、戻ろう。
笑っちゃうぐらい、私は変わっていない。ずっと。逃げて、逃げて逃げ続けてきた。
今でも怖い。学校に向かう足が震えて、今にも立ち止まりそうになる。
クラスメイトはどんな顔をして私を見る?
『割ってみたらいいよ、あの殻みたいに』
あの子はいったい、誰だったんだろう?
私の事を知っていたの? どうしてなのだろう。
そんな風に思ったとき私は、胸に暖かさを感じた。
はっと思いいたって、制服の胸ポケットに手を入れる。
そこには、卵の殻の破片があった。淡いピンク色。それはほのかに暖かい。鞄の中にいつだか見つけて、それ以来、ずっと持っていた、かけら。
もしかして、ずっと、暖かかったのだろうか。
優しくて、暖かい。
私は、その破片を胸に、一歩ずつ歩いた。
あの子は……本当はどう生まれたかったんだろう。
そして、どう生きているんだろう。
考えた。
逃げないで、蓋をしないで、考えた。
雪の降りしきる町。コンビニの光が雪にぼやけていた。街灯が光っていた。車が私の横を走り去る。
怖いけれど。
世界は、色とりどりで、雑多な色に満ちていた。
ひとつひとつ、見つめながら歩いた。
*
「あれ――銀?」
驚いたように目を丸くして、鍾真は言った。
私は笑った。
「戻ってきた」
「濡れてんじゃん」
「うん、雪すごくて」
昼休みの喧騒。まだ、少し授業が始まるまでは、時間がある。
鍾真は鞄からタオルを出して、私に差し出した。鍾真はいつも当たり前のように優しくて。
「……ねえ、鍾真」
私は髪を拭きながら切り出す。
少し、いや、すごく怖い。
だけど、胸もとの暖かさを、感じる。
「鍾真はさ……なんで、私にそんなに優しくしてくれるの?」
そう問うた瞬間に、肩の荷が下りたような気がした。
鍾真はまた、驚いたような顔をした。
そして、困ったように目をそらす。
「なんだよ。別に……幼馴染だろ?」
「……? そういうものなの?」
「そういうもんだろ。なんだ急に」
「……うーん」
そういうものなのだろうか。
「じゃあ、……鍾真は私の幼馴染だから、私も鍾真に優しくしたい」
「本当にどうしたんだよ急に。なんか吹き込まれたのか?」
今度は、あきれたように私の目を見た。真っ黒で、きれいな瞳。
「お前といると楽しいからそれでいいよ」
「……そうなの?」
「むしろ、お前は楽しいのか?」
私は、じっと見つめ返した。なんだかもしかすると、鍾真もそれをずっと聞きたがっていたのではないかという気がした。
「うん。楽しい」
「ほんとかよ」
「うん。私鍾真のこと好きだから」
「……お前なあ……」
盛大な溜息をつかれた。
なんだか知らないけれどあきれられてしまった。
好きという表現がよくなかったのだろうか。
「まあ、いいや。お前の言いたいことはわかった」
「よかった」
「ほら、授業始まるぞ、受けてくんだろ」
私は頷いて、自分の席に向かう。
今はまだ、少しずつでも、強くなれるだろうか。
あの子みたいに。
肩にかけたままのタオルから、鍾真の匂いがした。
いつか、またあの子に会いたい。
その時は、自信を持って名乗れたらいいと思う。
私の名前は、銀なのだと。
銀