党員の女
党員の女
1️⃣ 変貌
「その女があの党の党員だと知ったからだ」と、なぜ、そんな女と抱擁の真似事をしたのか、という問いに、男は実に生真面目な顔で答えたものである。
再び、煙草に火をつけて、「溺れる魂は藁をも掴むと言うが…」と、深秋の夕暮れに佇む男が、「実に忌々しい話なんだ」と、重い声音を離れ離れに述懐し始めるのだった。
モジリアニの絵に潜んでいる様な女かも知れないと、男は茫茫と思う。いや、何かの映画で見た記憶があるフランス共産党の党員の、ある女のイメージとも重なったのか。だが、確か太縁の眼鏡をした初老で堅固な体躯の記憶だから、モジリアニとも、その女の実像ともかけ離れてはいるのだが。
統べるところ、あの時、自分は実に重篤な鬱の狭間を彷徨していたのかも知れない、と、男は続けるのである。
或いは、若い頃に会ったパリ帰りの、細長い指で紙煙草を巻いた女が醸し出していた雰囲気に似ている気もしたからなのか。
何れにしても、こうした空気の女を、男は決して好きではないのである。芳醇な色気というものを、到底、感じる事が出来ないからだ。
むしろ、男の歓心は豊満な肉体、ルノワールの画布で息づいている女達なのである。だから、平生なら全くの無関心な対象の筈なのだった。
頚椎の手術をして一ヶ月後に退院した。すると、全ての関係者が、まるで自然の摂理だとでも言う風に、いつの間にか、彼の日常から消え去っていった。こんな有り様に陥ってしまった男の再起は、最早、不能だと判断したのだろう。
誠に男自身がそう思い定めていたのだから、世情の手のひらを返した変化などは、不可思議な沙汰ではななかったし、医師が少なくとも一〇年は残ると言う、凄まじい後遺症は、いかなる理不尽な仕打ちをも批判する気力をすら、男から奪っていた。
そうしたある日の午後に、事務所の近くの、行きつけだった小さな喫茶店の女主人が訪ねてきて、遅れた見舞いを詫びた。
丁度、参議院議員の選挙の只中だったから、何かを切っかけに、男があの党の分析と批判をしながら、ある女に触れた。
男が中学三年の時に赴任してきた、大学を卒業仕立てのグラマーな英語教師だ。男は授業を受ける事はなかったが、刮目した。
服装に頓着しない女は、いつも黒いズボンなのだが、女の意に反して、安価な生地が女の豊満な肢体に貼りついて、女の肉感を悪戯に露出するのだ。男はその尻と股間を夢想しながら、幾たびも自慰をしたのである。そして、当時から、女は某党の党員なのだという噂が、狭い集落には、まことしとやかに、あった。
その女が、ニ〇年を経て、党公認の参議院選の候補者になったのだ。だが、外宣に立った女の装いは一変していて、男は驚愕した。まるで性的魅力で集票せんが如きの戦略すら感じた。男が指導する労働組合からも、様々な卑猥な邪推や揶揄が飛び交ったのである。男のこんな話を女主人はどんな気分で聞いていたのか。
それから一週間ほどして、女主人がある女を連れて、再び訪れたのである。
離婚して一年、三人の子供があり、生活保護を受けている。あるセミナーを受講していてその会費が足りない。五〇万を借りたいと言うのである。男は承諾した。
2️⃣ 混濁
それから一週間ほどして異様に蒸し暑い夕間暮れ、首府のセミナーから戻ったと言う女がやって来た。落涙しながら礼を言う。明らかに躁の極みにいるのだろう。
そして、無造作に話の段落を変えると、顔をあげて、直截に男を求めた。
男は躊躇して、体調を解説したが、女は肯定しないのであった。やにわに立ち上がると、青いワンピースを脱ぎ払い、素早く真裸になった。
大柄だ。スポーツをしていたのか、三八で三児の母だというが、引き締まっている。
女の肌は白いが、輝きを失って乾燥している様に感じた。尻も扁平で貧弱だ。むしろ、排泄機能しか連想させない。
貧相な乳房と乳首。ふっくらと張って痙攣する腹と縦長の臍も、取り立てて欲情を刺激する程のものではないのである。
その上に、太ももが空けているのは男は嫌いだったのである。
典型的な狐顔だが、男の趣向は狸顔なのだ。だから、男にとっては、この女は決して美人ではない。今時の世上は、こうした容貌にどんな評価をしているのだろう。男は欲望の一片も感じていないのであった。
知ってか知らずか、ソファの男の脇に女が座った。汗の臭いが鼻に留まる。
口が乾くのか、舌で唇を舐める。それとも、愉楽なのか、唇を噛む。その唇は薄く肉感がない。
やがて、不具合に妖艶なあえぎの間にこぼれる歯も、到底、綺麗とは言えない。結われている髪も平凡だ。数本が顔に貼り付いている。髪からのぞく耳すら貧弱だ。
狭い額、薄い眉、大きな目も朦朧とし、鼻にしっとり湿りが浮く。膨らんだ頬。うなじにうっすらと汗。
しかし、声だけは男が初めて耳にする、透明で、迷い鳥のように妖しく喘ぐのである。
股間で男の指が蠢いているから、ぶざまに股を拡げるのだが、何よりも男が嫌悪したのは、女の性器が汚いのである。扁平で外陰唇が非対象なのだ。こんなものは男は始めて見た。
こんな女と、なぜ、性交の真似事をしているのか。女が党員だと言ったからだ。いったい、どんな性交を党員の女はするのか、そう言うと、女は笑い、本当の嬌声はもっと凄いわよと、返したものだ。
俳句を一緒に作ろうと言った女は、実に陳腐な初心者だった。
タロット占いを、まるで中世の魔女の様に駆使もした。
そもそも、セミナーというものが、何の事はない、宗教詐欺の焼き直しだったのだ。しかし、女はその実態を完全に黙秘した。そうした時の男を見据える目は、まさに狐付きの文字そのままにつり上がる。ヒステリーで自己防御するのだった。
そして、セミナー参加者の若い男との一度限りの性交を、今までの全ての性遍歴のごく一片として、躊躇いもなく、舞台の主人公の台詞の如くに、女は独白するのであった。
いったい、性交の秘密の記憶までを淀みなく供述するこの女は、どれ程に自身を肯定しているのか。その確信は何によって構造されているのか。
この女にとって、性交の意味は何なのか。男は、女という生物の実態を些かも知り得ていない浅薄を、改めて悟った。
そして、この女にとって党とはどうした価値なのか。社会主義思想が、如何ほどに女を形成しているのか、男には思い至る道筋すらない。
男が貸した月の返済は三回で止まっていた。
やがて、女の性行を確信した男が、ある企みを試みる。男がその為に書いた短編を電話で読み上げると、聞きながら女は激しく自慰をした。男が儀式を演出する。女は応じた。
終いには、女が真裸になって南無阿弥陀仏を唱えた。セミナーで、ある独善に支配されている女は、さぞや屈辱だったに違いない。それとも、奇異な性技として受容したのだろうか。
何れにしても、それから暫くして、女は残金を返済し、別離を宣告してきた。その後に出来損じの歌謡曲の様な短い手紙が届いた。
ある種の奇異な世界というものを、その党は創ってしまったのだろう。あの女は、紛れもなく、そこの住人だったのだと、男は短く嘆息した。ニ〇〇五年の狂気に似た盛夏の出来事である。
ー終ー
党員の女