老狂日記
老狂日記
一九××年の盛夏の新月である。
主府の戦禍を免れた閑静な住宅街の、更に奥まった一角。
敷布団に、薄い青地に桔梗の群生の長襦袢だけを纏った、水蜜桃の様な肢体の女が仰臥していて、甘く柔らかい寝息を湿った闇に漂わせている。
すると、懐中電灯の一条の光を受けて、単衣をはだけられた股間があられもなく照らし出されていた。
両の太股が微かに開き、豊かに盛り上がった股間の丘を、漆黒の繁みが覆っている。
この貞淑な妻は本当に気絶しているのか。
還暦の夫は不可思議な悦びに酔いながらも、半信半疑なのだ。
妻は浴槽で寝入って発見されたきり、ニ時間も目を醒まさないのである。
似たような事態は今宵で三度目だった。
果たして、幾たびもこんな事があり得るのだろうか。
妻の寝息は静まる闇に溶け込んでいて、熟睡をしているとしか見えない。
しかし、或いは、妻はとうに覚醒していて、夫の卑猥な所業を黙認しながらも、真からは侮蔑しているのではないか。
そうも考えると空恐ろしくもなる。
しかし、たぎってしまった暴走を、もはや、押し止められないのであった。
妻の元子は華族の一人娘だ。
西の古都の実家は、とうに没落していたから、多額の結納金は言うまでもなく、今でも男が支援を欠かさないのであった。
元子はニニも年下だ。離別した男が五〇の時に、ニ八で、某数寄人のとりなしで嫁いで来たのだ。
それまでは、凋落の果てに出奔した父親に代わり、気位が高いばかりで世上には全く疎い母と、自分の生活を支えるために、華族の子女を相手に、作法と和歌の真似事の様な私塾を細々としていた。
元子は紛れもなく処女だった。
そして、貴族本家に繋がる生粋の華族の系譜に裏打ちされた、成り上がりの男にとっては崇拝に値する完璧な女だ。
元子は、砂漠の水の全てを吸いとって咲く花の如くに絢爛である。
口角が尖った唇は紅く湿って、こぼれる歯は真っ白だ。
肩までの烏色の髪は艷めいて、のぞく豊かな耳朶。富士額、三日月眉。
まつ毛は始終濡れ、潤んで見開いた目。座り心地の良い鼻に湿りが浮く。膨らんだ頬。
概括が菩薩顔なのである。しっかりした首すじ。色香なうなじ。
かの西欧画の奔放な裸婦像の女なのだ。
艶かしい声。中背。肉つきがいいが引き締まっている。
ふっくらと張った腹。釣り鐘の乳房と桃色の乳首。太ももは両が触れ合う。
肌は白いが油をひいた様に煌めいている。
尻は豊かに丸く、潤沢な肢体は華族のイメージとはかけ離れて豊潤で頑健だ。農婦の如くに健康なのだ。
しかし、漂わせる気品は、居住まいも立ち振舞いも、辺りを圧倒する。平素の所作も、華族の因習を完璧に習熟していた。
閨房の妻も平生と変わらず、淑やかさを決して崩さない。
男の誘いにはいつも従順だが、接合しても唇を噛み、声を圧し殺して、己を置き忘れて乱れる事などはない。
灯りをつけるのを拒み続けて、芳醇な裸体を晒す事もないのである。
入浴を共にする事すら、かつてなかったのだ。
昼の交合などは論外だ。当然の事の様に口淫を拒んだ。
それらをすべてしなやかに、しかし、蔑む素振りを漂わして、確固と拒絶する妻の威厳に、男はそれ以上の強要を諦めたのだった。
しかし、男は妻のそうした性向だけは、到底に不満だった。
男は久しい夫婦生活を経ても、情愛を越えて尊崇の感情すら抱いている。
それはそれで充分に満足していた。
しかし、妻の豊潤な身体を存分に貪りたいという、劣情も同居していた。
歳を経るに従い、その情欲は増幅していく。
男はもっと奔放に交わりたかったのだ。
谷崎が、「瘋癲老人日記」を書いたのは、幾つの時だったのか。
「鍵」もそうだ。何れも京マチ子で映画化された。「華麗なる一族」の完熟した魅力には未だ足りない歳だが。いったい、耽美主義と言われる作家の、晩年のこの一連の物語に流れる主題は何なのか。
失われて行く、いわゆる「日本の美」なのか。
縄文のテロリストの私には全く同意できない。
そもそも「美」とは何なのか。
一九××年八月一五日、戦争が終わった。
負けると思っていたが、いざ現実になると、男は茫然と佇んだのだ。
元子は玉音を聞き、泣き崩れた。
男はそのわずかに痙攣する尻を眺めていた。
御門は人間宣言もした。皇室にも繋がる家系であろう、妻の系譜に対する、男の畏怖と敬愛が崩壊した。
御門制の虚構が剥がれて、真実が明らかになった今となっては、妻の身体も唯の女体なのではないのか。
一月前のあの夜の晩酌に、ふと、妻を酔わせようと思いついた。
何時もは形ばかり口をつけるだけの妻が、その宵に限っては応じたのであった。
男はさらに酒を勧めた。
酔った妻が、やがて、風呂で寝込んでしまったのである。
初めての出来事だった。
裸の妻を寝床に運んで、医師を呼んだが、昏睡しているだけだから心配ないと言う。
だが、朝まで目を醒まさない。
後日に総合病院で診察を受けたが、異常は認められなかった。
男はその時に、初めて妻の全裸を堪能したのだ。
そして今夕、男は期待を隠して、再び、酒を勧めたのだった。
やがて、思惑通り、妻は浴槽で昏睡したのである。
男は秘密の営みに耽溺してしまったのだった。
男はカメラを用意している。
股をおお開きにさせて、陰毛の数を数えた。
ズイキを股間に立て掛けて、シャッターを切る。
女の身体にうっすらと汁が滲むのを、取りつかれた男は知らない。
元子は薄目の底から、全てを覗いていたのである。
元子にとっては、永らく蔑んできた、北の国の貧農の三男から成り上がった男などは、夫とはいえ愚かな平民の一人にしか過ぎないのであった。
戦争に無惨に敗れようが、御門がどう変節しようが、元子の誇りは微塵も揺るがないのである。
ー終ー
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