眩み夢

マヨねーず

『貴方に本当の私を知って頂きたく思い、この回想録を残しておくことにしました。



 私は薩摩の生まれ、武家出身で軍人の父親と華族の母親の間に出来た子供でした。

 父親は軍の中でも優秀な部類に入る方のようで、息子の私にはその優秀な血が流れているのだといつも仰っていました。軍人とは何たるかが詳細に書かれた書物を非常に沢山私に読ませたり、父親自ら稽古や勉学の相手をして下さったりしました。

 母親は上級階級の人間として持つべき行儀作法を事細かに教えて下さいました。

 それは功を奏したようで、私はまるでお手本かのように真面目で誠実な聡い人と育ちました。恵まれた家庭、精悍な父親、淑女な母親、その間の私はさぞかし祝福されし子供のように映ったことでしょう。



 ですが同時に愛情を知らない子として育ちました。

 母親は私のことを異様に嫌っており、父親の居ない日には毎日のように罵りました。と言うのは、両親は見合い婚なのですが、母親は一族が華族ではあるもののあまり良家とは言い難い所の出であり、見目麗しく、まだ若いということから父方の親族から援助を受ける形で嫁に来たものでした。その為父親の前で軽はずみな事を言うことは出来ません。私を罵る事は同じ血の流れる父親を罵る事と等しいようなのです。

 ーーいつも、お前は碌な死に方をしない、と言われました。機嫌が悪い時に叩かれるのは最早日常茶飯事で、酷い時には窓から落とされる事もありました。

 この時の私の怪我は酷いもので、頭部に傷跡が残ったものの一命を取り留めたのは奇跡に近いものでした。何故こんな所から落ちたのかを聞かれましたが母親は私が遊んでいて飛び降りたと周りに言い広めるなどし、先手を打っていました。甲斐甲斐しく私の看病をしていたフリもあって、外面だけは良い母親が疑われる事はありませんでした。

 そんな経緯もあり私は母親が嫌いで嫌いでしようがありませんでした。母親の所為で女性にすら嫌悪感を覚え始めていました。そんな母親はある雨上がりの日、玄関の前にある石段から足を滑らして亡くなりました。転んだ先で頭をぶつけてしまったらしく、柘榴が砕けた様のようで酷い有様だった、と女中が言っているのを聞きました。しかし私には特にこれといった感情も湧かず、成る程確かに碌な死に方をしないな、と思ったのみでした。



 父親はとても厳格な方でした。うまくモノが覚えられない時には竹刀を持って私を叩くのです。稽古に失敗した暁には其れこそ鬼の様な形相で怒り、殴る蹴るの暴行を加えた後に何一つ灯りのない離れに一晩閉じ込めるのでした。埃っぽく黴臭い、暗い離れに。そして扉の向こう側から延々と私を否定する言葉を連ねるのです。

 たとえ上手くいったと思った時でも父親はまるで誰かと比べるような言い方をもって叱責し、一度として褒めて下さることはありませんでした。



 そんな環境だったからかそれとも天性によるものなのか、忌み嫌うべき悪癖が私の中で生じてしまっていました。

 それは自分が、殺される様を想像するというものでした。しかも単に殺されるのではなく、手酷く嬲られた末に惨たらしく死んでゆくのです。

 あれは今でも忘れる事ができません。あるとても暑い夏の日のことです。十一の頃、私は父親に連れられて田舎の祖父の家に帰省していました。と言っても私自身は特にすることはなく、ただ父親と共に居たくないが為に、いえ、親類の誰とも一緒に居たくない為に山に猟をしに行ったり川に泳ぎに行ったりしていました。

 私はあの空間が苦手でした。皆が下卑た厭らしい笑みを浮かべながら前の戦争の成果を話し合うのです。何人殺しただの、どう殺しただのと。

 一度会話の席にいた際に、何故そんなにも命を軽く扱うのか、と聞きました。確かに軍人は戦地で人を殺すでしょう。ですがそれはあくまで国を守る為であるのです。決して人を殺すための戦いでは無い、そう然るべきなのです。

 ですが私の話を聞くなり彼らは腹を抱え私を指差して「青い青い」と言いながら笑うのです。そして「そんなことを考えるのはほんの一握りだけだ、いつかはそんな綺麗事を言う余裕も無くなる」と言ってまた笑うのでした。

 実際に戦地へ行った方々の言葉だけに幼い私にも深く突き刺さりました(父からは優秀な軍人であると聞いていましたが尊敬の念などこれっぽっちもありませんでした。ですが彼等の言う事は正しく正論なのです)。しかしそれ故に認めたくない自分がいたのです。私はあのような話が繰り広げられる家に居たくないのでした。



 さて、その日はいつもの様に川に向かっていました。川へ行くには土手を超える必要があるのですがその手前には溝があり、容易には通れないようになっています。そのため私は入りやすい所を探して横を歩いていました。

 すると前から経芳つねよし兄様が犬を連れて歩いていることに気が付きました。兄様、そう私が声を掛けると微笑んで手を振り、近づくと私の頭を撫でて下さいました。経芳兄様は私より四つほど年上で、初めて私が田舎に来た頃に知り合った方でした。お互いに一人っ子だからか私を弟として非常に可愛がってくださるのです。

 私は兄様が好きでした。肉親にすら嫌われている私に他人であるにも拘らず優しくして下さる方だったからです。いつもの様に頭を優しく撫でられ、心の中でやはり兄様は優しい人だ、純粋で清廉で高潔な方だ、と思った時でした。



 急に彼に頭を殴られ、人気のない路地裏まで引きずられました。そして動けないようにする為に鳩尾に蹴りを入れ、蹲った私の頭を掴んで地面に叩きつけたのです。

 困惑と痛みで声を出すことすら出来ないのをいい事に私に殴る蹴るの暴行を加えます。抵抗しようと手を挙げると彼は持っていた匕首で私の手を刺すのです。痛い痛い、私は掠れる声で血を吐きながら叫びました。腹を殴られた際に内臓を傷つけてしまったのでしょう、口からは血が止まらないのです。しかし誰にも気付かれません。そしてその度に彼はニヤリと嗤うのでした。

 一通り殴って私の体が鬱血し、顔面は腫れ上がり、血を吐くほどにまでボロボロになるととうとう飽きてしまったのか手に刺さった匕首を引き抜いて私の声帯を切り、最後に犬に私を食べさせました。そうしてようやく私は絶命しました。



 そこで私はようやく我に帰るのです。そうです。そういう妄想をしてしまったのです。実際にはそんな事はされておらず、ただ川沿いを歩いていた少年と、犬を散歩させていた青年がその場に立ち竦んでいるだけなのです。何故突然このような映像が頭に浮かんだのか訳がわかりませんでした。



 断っておきますが決して元来の私の癖ではありません。そんな悪趣味は持っていなかったはずなのです。誰が好き好んで自分が殺される様を想像するでしょうか。このような事はこの時初めて起こった事だったのです。私が長年付き合う事になる悪癖はここから始まったのです。



 青白くなった私を心配して兄様は背中をさすってくださいましたが、私はその手を跳ね除け急いで家に帰り、厠に走り込みました。そして喉元まで来ていた酸味を吐き出しました。不快感も吐けるのであれば一緒に出してしまいたかったくらいです。あんな映像を見て耐えれる人なんてそういません。脳を直接犯し、身体の末端まで支配してくるようなあの醜劇に耐えれるはずがないのです。

 腹の底から湧き上がってくる液体をあらかた出し、あたりに酸っぱい臭いが立ち込めた頃、私はようやく落ち着きを取り戻しました。しかしある異変に気が付きました。胸の動悸が止まらないのです。それは何かに圧迫された様な嫌なモノではなく、どちらかといえば何かを渇望するような、これから待ち受けるものを喜ばしく思っている、そんな期待感を示すモノだったのです。

 まさか、そう思いました。体中から汗が噴き出し服がジットリとします。無意識のうちに呼吸が速まり、思わず顔を覆った頬は熱く上気しているのが分かりました。私は何故か、どうしてかあの妄想で気が昂っていたのです。

 意味が分かりませんでした。目の前が暗くなった気さえしました。ですがどうあっても現実は変わらなかったのです。

 堪らなくなった私は庭に飛び出て井戸の水を目一杯身体に掛けました。地下水の冷たさは暑い夏の中でも変わらないようで、何度か水を被る内に身体の昂りは消えてゆきました。ですがあの妄想はなかなか脳裏からは消えず、思い出す度に私の背中にはゾクリとした感覚が走るのでした。



 この地獄絵図はいつしか私の日常と化していました。大柄な与太者が街中を闊歩しているのを見てはその逞しい手に首を絞められ、立派な健脚を持つ飛脚に出くわせば足蹴にされ、酷い時には雄弁な者にその巧みな口車に乗せられ自らの首を掻き切ってしまうのです。

 外で人と出くわすたびにこのような妄執に囚われました。自分ではどうすることも出来ず、ただただ自分の死ぬ様を見届けねばならないのです。

 何故か家にいる時はこの悪癖は起きませんでした。親類の者に殺される夢など一度として見ることはなかったのです。しかし私は家に居たくはありませんでした。家族と共にいる時の嫌悪感の方が私の身を潰してしまいそうだったからです。

 幸か不幸か、あの妄想を手で数えられる回数以上に見てしまえば、慣れというものが生まれてくるのでした。

 ですが兄様に殺される時のみ身体に震えといいますか、余韻が残るのです。親愛なる兄様であのような妄想を(無意識ではあるのですが)してしまうのは一種の背徳感めいたものを覚える行為でした。

 ですので外出時は出来るだけ兄様に会わないよう時間を早めたり、時には隣町まで行ったりしました。

 けれども何という運命の悪戯でしょうか、私があの日の事を忘れそうになる度に兄様と何故か出くわすのです。誰にも行き先を教えていませんでしたので恐らく、あくまで偶然なのでしょう。そして時々兄様は私に着いてきました。兄様と共に何かをするのはとても嬉しい事なのですが、私はこの悪癖故に素直に喜ぶことが出来ません。

 特に兄様と鳥猟をした時は肝が冷える思いでした。兄様は非常に銃の扱いに卓越している方で、離れた場所にいようと、動いていようと、簡単に撃ってのけるのでした。

 一方私の方はというと、三発に一発当たれば儲けものという程度でして、しかも偶に仕留めきれないことがありました。するとそれを見兼ねたのか兄様は私の後ろに回り、抱き込む形で銃を持って私に手ほどきして下さいました。どう持つのか、どう構えるのか、どのように狙うのかを丁寧に教えて下さいましたが、恥ずかしいことにほとんど頭に入ってこなかったのです。というのは、あの忌むべき妄想が頭の中で繰り広げられていたからなのです。



 私は山を走っていました。草木を掻き分け足がもつれないよう気をつけながら懸命に走っているのです。後ろから銃声が響くと同時に弾丸が腕に命中しました。あまりの痛みに私はよろけて地面に倒れ込んでしまいます。

 鈍くも激しい痛みに悶えていると背後に気配を感じるのです。そうです、彼が銃を持って立っているのです。しかし一向に撃ってはきません。それどころか逃がそうとする素振りすら見せるのです。私は腕を抑え再び走りました。泥に塗れ草木に身を揉まれながら無様にも逃げ回りました。

 山は下りに差し掛かり、もしかしたら逃げ切れるかもしれない、そう思った頃です。後ろからまた銃声が鳴りました。私は顔から倒れ込んでしまい、ゴロゴロと決してなだらかでは無い坂道を落ちていきました。徐々に足から血が流れてきました。枝を踏む音が近づいてきます。私と違ってゆっくりとした歩調です。嗚呼、何と酷い人なのでしょう。彼は楽しんでいるのです。まるで蟻の足を一本ずつ千切るかのように。分かってしまったのです。

 ですが、何とまあ妄想の中の私は愚かなのでしょう。また逃げ出したのです。当然のように彼はゆっくりとした歩調で近づき、そして蟲のように這って逃げ惑う私を撃つのでした。

 四度目となると彼も飽いてしまったのか、もう逃すそぶりも見せず、私の身体を末端から撃ち抜き始めたのです。撃たれるたびに短い悲鳴が喉から溢れ、やめて止めてと泣いても銃声は響き続けます。

 やがて息も絶え絶えな私が血を吐き、兄様、と言ったところで、それはそれは人の良い笑顔を浮かべた彼が銃口を私の頭に向け、



バンッと



 雉を撃ち落とした音で我に帰りました。まぎれもなく私の撃った音なのです。一発で獲ることができたので兄様は非常に褒めてくださいましたが、私はそれどころではありませんでした。

 雉を撃った音と兄様が私を撃った音が重なったのです。もちろん実際には私は撃たれていません。ですが本当に撃たれたかのような感覚が頭に残りました。まるで妄想が現実に近づいてしまったかのようでした。

 体中から汗が吹き出し、顔面は赤く茹で上がっていました。手足も恐怖からか、はたまた何か別の感情からか震えており、兄様にばれやしないかと思うと文字通り生きた心地がしませんでした。

 兄様と別れ、家路についている最中も鼓動は激しく音を立て続けました。



 私はこの妄執を『オノレノ未熟サユヘ』に見る愚かな嫉妬の夢だと考えました。というのも今まで私の妄想に出てきたのは皆私が羨望の念を覚える人ばかり、心身立派な方ばかりなのです。

 故郷に帰った後、今まで以上に勉学にも稽古にも精進しました。幼年学校に入った後も真面目に修学し、自分を磨くことに尽力しました。

 周りが自分と同じ子供ばかりだからかそれとも日頃の生活の賜物か、幸いにもあの悪癖が起こることは徐々に減っていきました。



 軍学校にて私が身につけた中で最も役に立ったのは処世術だったように思います。集団行動を重んじるこの場では個人の意思が強過ぎることは良しとされません。特に私の場合父親が名のある軍人なので注目を集めやすいのです。

 当然そんな私を好ましく思わない輩も多くいました。初めのうちは無視をしていたのですが、そういった輩は相手が何もしないでいると図に乗ることが多いのです。せっかく拭きあげた靴を汚されたり、時には服を取られることもありました。たまったものじゃありません。

 そんな私が見るに耐えなかったのか、懇意にして頂いている先輩達が対処法や愛想笑いなど色々教えて下さいました。そのお陰もあって嫌がらせはみるみるうちに無くなりました。もっとも陰では腹の中が分からない奴と言われ続けましたが。

 幼年学校を指導生徒として卒業後、士官学校も口八丁手八丁に過ごし、この時期にはもう私の悪癖はすっかり消え失せていました。他人をおだてる事は自分にも相手にも嘘を吐いているような気がして初めは躊躇していたのですが、あまりにも容易く相手を懐柔出来るとなると罪悪感はとうに消え失せていました。



 それから二年ほど経ち、特にこれといったこともなく無事に少尉になることができ、師団で自分の隊を率いての生活が始まりました。

 ある日いつものように一通りの演習を終え業務の報告をし、兵舎に戻ろうとしたところ、懐かしい姿を見つけました。

 兄様です。あの人がいたのです。何年振りだったでしょうか、再び相見えることのできた感動に私は日頃の処世術も少尉としての面目も忘れ、彼の元に行ってしまいました。

 ですが私を見た兄様の様子はとても苦々しいものでして「規律が乱れる故、部下に対してその呼び方はおやめ下さい」などとそれは他人行儀に言われてしまいました。

 確かに部下である人間に私が敬語で話しかけるのは不味かったと思い、それに対して了承し謝ると、兄様は用は済んだとばかりに立ち去ってしまいました。

 久方ぶりの再会にもかかわらずこのような結果に終わってしまったことに悲しい気もしましたが、どんな形であれきちんと規律を遵守する兄様をとても好ましく思いました。

 責任ある身でありながら未だ幼稚な私とは違う、素晴らしい方。何年経っても変わらず美しい人、そう思いました。



 ガンッと突然頭が重くなりました。あの悪癖がぶり返したのです。また兄様に殺される夢を見たのです。

 去ったはずの彼に後ろから頭を殴られ地に伏してしまいます。仰向けにされ、彼は私に馬乗りになると首を絞め始めたのです。とても苦しくてもがいていると、思い切り顔面を殴られます。何度も何度も殴られ、鈍い音が響き渡るのです。ですが誰も助けに来てくれはしません。おそらく鼻が折れてしまったせいでしょう、上手く息が吸えません。なんとか呼吸をしようと肩を大きく揺らすと、再び、先程よりも強く首を絞められました。徐々に意識も薄らいでいきます。私はもう抵抗することをやめました。

 心の中でどうせ妄想だ、と油断しているフシがあったのでしょう。急に彼は私の耳元に顔を寄せると「死んでしまえ」と呟いたのです。心臓が飛び上がるかと思いました。驚いて声を上げようとしましたが首をきつく絞められているので声が出ません。私は為すすべもなくまた死んでゆきました。



 目が覚めたあとも私はしばらく呆然としていました。妄想の中で兄様が話したのはこれが初めてだったのです。いつも以上に、そして明確に強い殺意を向けられました。兄様に殺される夢を見るたびに私の現実が如実に蝕まれているように思えました。傷つけられた箇所がジンジンと痛んだ感じがしました。



 息を荒げながらもなんとか平静を取り戻し、あの妄想癖が再発したことに胸が締めつけられるような心地を覚えながら兵舎に戻ったのですが、そこで中尉殿に声をかけられました。嬉しそうだなと。思わず心臓が縮み上がりました。慌てて表情を取り繕って敬礼をし、発言の意味を問いました。中尉殿は少し笑いながら「息が荒く頬が赤い、おまけに目尻が下がっている」と仰いました。

 私はこの瞬間表情が固まったことでしょう。殺される白昼夢を見て喜ぶだなんて考えられません。おかしいに決まっています。

 ですが思うところもありました。あの夢を見て恐怖を抱いたことがないのです。兄様を恐ろしいと考えたことがないのです。何度も、何度も殺されておきながら。

 胸の奥底に隠された自分の一面を垣間見た気がしました。生まれて初めて、自分というものを得たように思えました。

 正直なところ複雑な心境でした。どう向き合えば良いのか分からないのです。殺されるのが嬉しいだなんて相談誰にも出来やしません。私はこの思いを再び奥へ奥へと追いやりました。



 兵舎では幾度となく兄様と出会いましたが、兄様に嫌われてしまったのか碌な会話を交わす事ができませんでした。

 あまりに昔と態度が違うので(部下と上司という間柄になってはいましたが)一度兄様に何故こんなにも素気無い振る舞いをなさるのか尋ねました。私はこんなにも貴方を慕ってやまないのにどうしてかと。兄様はそれはそれは大きな声で「昔と変わりませんなあ」と笑いながら言いました。昔、共に遊んでいた時に向けられた顔と同じです。その笑顔に兄様だ!昔のままだ!そう喜んだ時です。不意に胸ぐらを捕まれ、射殺すような目付きで「だから嫌いなんだ」と続けました。絶句した私を見てもう一笑いすると「冗談です」ととってつけたかのように言って立ち去ってしまいました。

 よほど私にとって衝撃的だったのか兄様の後を追うことも出来ず、その場にへたり込んでしまいました。



 はっきりと拒絶されたにもかかわらず私は兄様のことを想い続けました。何故彼はこんなにも私を惹きつけてしまうのでしょうか。久方振りに会って以来、私は兄様以外での妄想に耽ることは無くなっていました。理由はよく分かりません。私の考え通り『オノレノ未熟サユヘ』に見る妄想であるならば、もう見なくてもおかしくはありません。言い方は悪いですが、地位は私の方が上ですし体格だって良くなりました。頭の良さだって負けてはいない筈です。単に尊敬する方、と言うだけなら兄様以外でも妄想を見るはずです。

 何日もかけ、悩みに悩みましたが結局答えは見つかりませんでした。



 兵舎では大国の動向を案じ、近々戦争が起こるのではないかともっぱら話題になりました。皆国の為に命を散らさんとする覚悟のようですが、やはり故郷に人を残して来ている者はどこか躊躇しているようでした。

 一方私は戦場で死ぬのは当たり前のことであり、逆にそれ以外をどうして望めるのか不思議でした。と言うのもおそらくこの思想は父親の教育によるものなのです。長い年月をかけて凝り固まった頭では思いつきもしませんでした。

 兄様を捕まえて死ぬことをどう思うか聞きました。人として軍人として優秀な兄様ならきっと私と同じだろうと思ったのです。ですが当然といった顔で「嫌に決まっているでしょう」と言われました。兄様でさえそのように考えることに驚きを覚えました。



 夜に兵舎の見回りをしていると、こそこそと抜け出そうとしている下士官を見つけました。挙動不審だったので捕まえて何をするつもりだったのかを問うと、花街に色を買いに行くつもりだったというのです。そういうものは休日の自由時間に行くものだ、と叱ると、薄く笑いながら私も一緒にどうか、と誘ってきたのです。呆れてものも言えませんでした。悪びれもせずあろう事か私まで巻き込もうとしたのです。私はこういう手合いが大嫌いなのです。明日廊下の掃除をするという罰を与えると彼らを兵舎に戻しました。

 ここだけを見るとまるで私が潔癖な人間のように思えるでしょう。ですが私がこれを断ったのは女性が嫌いだからなのです。化粧で顔を隠して、下卑た厭らしい笑みで人を惑わす狐のような人間が気色悪いのです。

 一度だけ上官に連れられて遊郭に行ったことがあります。本当は行きたくなかったのですが、上官の顔を立てるためにお供したのです。最初はただ酒を注いでいただくだけでした。ですが時間が経つにつれて雰囲気が変わってゆくのです。隣に座っていた女郎が熱を持った息を吐きながら私にしなだれかかってきました。その時の蛇のように腿に這いよる手を、私を見る目を今でも思い出します。とても気持ち悪くて仕方ないのです。

 当然このような女性ばかりでないことは分かっています。ですがやはり親の影響とは子に色濃く残るものなのだと痛感しました。



 さて明くる日、私はめでたいことに旗手に選ばれました。ですが情けないことにその役職に就いた途端、死ぬことが怖くなったのです。今まで夢の中とはいえ何度も死んできたというのに。死にたくない死にたくない、どうせ死ぬのなら……。そう考えたところで思わず息を呑みました。兄様の手で死にたい、そう考えたのです。疑問には思いましたが、初めて抱いた欲望を私は簡単に受け入れることが出来ました。そしてこの思いは日に日に強まっていくのです。



 数日後、私は父親に食事に誘われました。私に関心を持ったのはおそらくこれが初ではないでしょうか。酒が進んだのか珍しく父親は饒舌でした。特に興味が無かったのでほとんど聞き流していましたが、突然信じられないことを言い出したのです。それは兄様、経芳兄様が私と実の兄弟であるというものでした。私が士官学校に通っている間に兄様のお母様が亡くなられたそうで、その葬式に顔を出した際に出会ったらしいのです。

 平静を装って聞いていましたが、内心は喜びと怒りに震えていました。

 どうやら母親と結婚する前に付き合っていた女性がいたらしく、その方との間にもうけられた子供が兄様らしかったのです。ですが父親はその女性、兄様のお母様とより私の母親との結婚を優先しました。彼女は身分が低かったようで、父親は世間体を気にしたのです。

 兄様が私を嫌うのも当然です。私は言わば自分の母親捨てた男の息子、選ばれた方の子供なのですから。本来なら自分が享受する筈のものを全て私が奪い去っていたのですから。

 ですが私は兄様を羨ましく思えました。同じ男によって生まれた人間でありながら、兄様はどこまでも自由に見えたのです。同じ血の流れた、血を分けた兄弟だと言うのに。清廉で純潔で高潔な、何人にも縛られることのない兄様と巧言令色で狡賢い雁字搦めな私。何が違ったと言うのでしょうか。



 ここでようやく兄様に殺されたい理由が分かりました。これです。まさにこの違いだったのです。地位が高かろうが体格や頭が良かろうが埋めることの出来ないこの歴然とした差。これを埋めたかったのです。私を殺す事で落ちて欲しかったのです。そしてどうか私の、他人によって形成された人生を兄様の御手で否定して欲しいのです。そうすることで私も自由になれると思うのです。

 身も心も軽くなったように感ぜられました。悩みも不安も何もない状態がこんなにも楽なのだと初めて知りました。

 私はこの茶番のような宴会が終わると早々に自室に帰り、此度の戦争に向けて準備をしました。



 これで私の回想録は終わりです。この後はご存知の通り戦地に向かったことでしょう。

 決して私は祝福されし子供ではありません。貴方は知らないでしょうが父親は私が幼い頃から貴方を本当の我が子、私より自慢の息子であると思っていたようですよ。何と言ったって私の比較対象にされていたのは貴方だったんですから。私がどう足掻こうとも一番は貴方なんですから。

 それだけでも伝わっていれば幸いです。



 ところで戦地への出発前に貴方も私に戦場で死ぬことをどう思うかと質問になりましたね。その時私は「たとえ敵兵に殺されようとも、国の為に散ることが出来れば本望だ。生きて勝利出来れば尚良い」と答えました。きっと貴方は私らしい模範的解答と思ったことでしょう。ですがあれは嘘です。本心は貴方に殺されたい、ただこれのみなんです。

 今思えば、幼少期に家に居たがらなかったのも言い訳だったのでしょう。あの頃から貴方に殺される幸せを味わいたいがために、貴方と会っていたのかもしれません。



 これを貴方が読んでいるということはおそらく私は死んでいるのでしょう。

 出来ることならば貴方ともっと親密に、肩を並べて生きたかったのですがそれは叶いません。

 ですがもし貴方の記憶の片隅に少しでも残ることが出来れば私は幸せ者でございます。



 何があろうとも貴方をお慕いします。どうぞ私の分まで末永く生きてください。貴方の人生に祝福があらんことを。』



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ヒュンッ ヒュンッ



 前からも後ろからも、四方八方に銃声と爆音、怒号が聞こえてきます。弾丸が雨のように降り注ぎ、辺りには硝煙と血の臭いが立ち込め、眩むような熱気に無意識の内に呼吸が浅く速くなってきました。



ババババババンッ



 ほんの数十メートル先、味方の兵士達が機関銃で撃たれ、彼等の血肉が四散します。あまりに沢山の兵士が一気に倒れました。皆が一斉に腹這いになったかと見紛うほどです。一瞬の出来事でした。もしあそこに居たのが自分であったならと思うと身震いが止まりません。



 死にたくありません。

 誰とも分からない者に殺されるだなんて、そんな死に方だけは絶対にしたくありません。



 軍旗を強く握り、敵とも味方とも分からぬ死体の山を踏みしめ、思い切り叫びながら旗を振ります。敵兵は此方に気がつくと小銃を抱えて走ってきました。味方はそれに対抗するように歩兵銃を構え、先端に着剣された銃剣で突き刺さんとばかりに突進しました。



 兵士達は蟻のように群がり、私のすぐ目の前にはどちらのものとも知れない血飛沫が飛び散ります。互いがまるで獣の様に目を血走らせ唸り、歯を剥き出しにして熾烈な戦いを繰り広げます。

 老いた古兵は痛む身体を無理矢理動かして敵味方の中を這いずり回り、たった今初めて人を殺した新兵は顔面を蒼白させながらもう動く事のない敵兵を壊れたかのように何度も何度も刺し続けます。右にも左にも誰ともつかない肉片が転がり、辺りには臭気が立ちこめます。地面は元から赤褐色だったかのような風貌に変わり果てました。



「嗚呼……」



 これが戦争?これがあの人たちが嬉々として語った場所なのですか。まるで地獄のようです。いえ、これは、ここは最早、地獄そのものなのかもしれません。どちらかが死に絶えるその時まで永遠に続く、救いようの無い場所なのです。

 泥沼の中私に出来ることは味方を鼓舞させる事のみ。張り裂けんとばかりにただひたすら声を張り上げます。



「我らが祖国の為に!

撃でぇ!!

殺せぇ!!!」



 浅くなる呼吸、溢れかえるほどの鉄錆の臭い、頬を伝う生暖かい汗、死屍累々の足元、目の眩むような光景は時が経つにつれて一層鮮明なものとなる一方で私の意識は酩酊したかのように曖昧なものとなりました。



 どれほどの時間が経ったのでしょうか。少しずつ銃声音も声も減り、僅か数名の味方の兵士達が血塗れになって立っているのみでした。

 噎せ返るような腐臭と硝煙の臭いが漂う中、未だ銃弾は周囲に飛び交いますが、既に敵兵は何人か撤退している模様です。



勝った!

我々は勝利したのだ!



 そう思った時です。

 弾丸が頬を掠めました。心臓が止まり、背筋が凍りました。武器を持ち合わせていない私に対抗する手段はありません。何より足が動きませんでした。ここまでか、そう思いました。腹をくくりました。ですが一向に二発目は来ません。

 恐る恐る目を開き、冷静に周りを観察してみました。

 すると並々ならぬ殺気を感じました。弾丸が飛んで来た方向です。それは後ろから飛んできたものであり、明らかに敵によるものではありません。

 ですが何があっても必ず私を殺さんとする確固たる意志が感ぜられます。単なる殺意だけではありません。焦燥と憐み、哀しみ、そして恐怖が織り交ぜられていると分かりました。

 目線が再び私に注がれます。痛い程に刺さります。



「嗚呼、兄様……」



 私は直感的に口にしました。

 自然と笑みが溢れます。いえ、それどころか頰がだらしなく緩んでしまっているかもしれません。

 この死が蔓延る空間では今の私はきっと異様に写っている事でしょう。ですがそれは何ら不思議な事ではないのです。皆が絶望感に打ちひしがれる中、私は幸福の絶頂にいるといっても過言ではないのです。

 貴方を想って止まない者が貴方からの熱視線を浴びてどうして分からないことがありましょう。貴方に撃たれた箇所がじわじわと熱を帯び始めます。そこが痛む度に胸の高鳴りが止まる事を忘れたかの様にけたたましく鳴り響くのです。



 兄様、この言葉を口にする度に心が震えます。

 この世で最も美しい言葉。

 貴方は私が大嫌い。

 だからこそ焦がれるのです。



 貴方と出会ったあの日に戻りたい。

 昔の様に微笑みかけて欲しい。

 あの泥臭くも美しかった日々をもう一度味わいたい。

 兄弟として過ごしたい。

 全て叶わない、叶う事はないとわかっています。だからこそ貴方を尊く感じるのです。



 きっと私を撃つ時に手でも震えたのですね。私を殺すのが恐ろしいのでしょう。人を殺すのが怖くてたまらないのでしょう。心優しい貴方の事です。罪悪感に苛まれるのでしょうか。それとも後悔にかられるのでしょうか。私には分かりません。どちらにせよ貴方は私の事を思い続ける。どう平静を装おうとも私を殺したという罪を拭えないまま、その事実と共に生き続けるのです。私という存在が澱のように貴方の心に残り続け、不意に浮かび上がっては貴方の意識を私が独占するのです。そうなることでずっと貴方のそばに居られるのです。



 私はとても嬉しく思います。清い貴方が私を殺す事で穢れる。私のせいで模範的とも言える崇高な貴方は下劣な凡夫に成り下がる。善良な一市民が憐れな咎人となるのです。だのに、大嫌いな、憎い男の息子である私を貴方の手自ら殺して頂けるとは何たる幸福でしょう。名誉の死を頂けるだけで無く、愛しい貴方にこの粗末な命を捧げられる、これ以上の誉れが存在しましょうか。



 嗚呼、何と愛おしい兄様。愛すべき兄様。尊敬と執着と嫉妬の入り混じった貴方への想いはあまりにも長く熱に晒され最早原型を留めていません。それでもなお、私の中で燻り続ける炎は留まるところを知らず、この醜愛は募っていく一方なのです。



 さあ、兄様。撃って下さい。私は一歩も動きません。貴方ほどの腕前であれば二度目を外す事はないでしょう。早く、兄様早く私を撃って下さい。このままでは敵兵に撃たれてしまいます。それは絶対に嫌です。兄様に撃たれたいのです。貴方に殺されたいのです。さあ、早く、ねえ、兄様。ああ、待ちきれません、勿体ぶらないで、早く、早く兄様、兄様兄様、兄様、兄様、兄様兄様兄様、兄様、兄様、兄様、兄様兄様兄様、兄様、兄様!



「あにさっ…」



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 俺はその場にへたり込んだ。

 嗚呼、やってしまった。この手でアイツを殺してしまった。身体中から震えが止まらない。歓喜の震えだったはずなのに。

 死んだ。アイツは死んだ。戦争と関係なく、国のためですらない死に方だ。哀れでみじめ、そんな死に方にわざとしてやった。



 母さんは可哀想な人だった。貧しいながらも女手一つで俺を育て上げてくれた。あの男に捨てられたのだと分かっていながら、それでもいつか戻って来るのだと信じて俺に縋り続けて生きていた。

 心労がたたって母さんが亡くなったあの日、あの男が俺を実の息子だと言ってきたとき腸が煮えくり返りそうだった。今まで一度も顔を見せに来たことがなかったというのに。母さんを見殺しにしたくせに。俺に苗字さえ残してくれなかったくせに今更になって俺を求めた。

 あの男さえ来なければアイツのこともただの幼馴染として扱うことができた。いや、たとえ来ようともそう接するべきだった。

 だがどうだ?実際に会ってみたら昔みたいに接するなんて無理だった。俺の母さんを捨て殺した男の息子、俺が本来いるはずだった立ち位置にアイツがいて。何食わぬ顔でそれを享受しているのが腹立った。俺が持ってないものを全て持っているのが羨ましかった。それでいて何よりも俺に執着したアイツが痛ましかった。

 お高くとまった世間知らずの少尉様。人を疑う事を知らない、清廉で高潔で可哀想なアイツ。いともあっけなく死んだときはやっぱりアイツもただの人間なんだと思った。

アイツが死んだおかげで俺は自分を肯定できる、そう考えたからこそ思うところはあれ罪悪感なんて感じなかった。



 心臓がバクバクする。冷や汗が流れ続ける。手からはアイツからの書置きが滑り落ちた。

 何でだ。俺はアイツをずっと殺したかったはずだ。

 だのに、

 殺さなければよかった。

 俺は酷い後悔をしている。気付きたくなかった。これは罪悪感から来たものじゃない。ただ、知りたく無い事を知ってしまった恐怖だ。アイツは、アイツはおかしい。一発目を外した時、少なくとも逃げる事が出来た。いや、逃げるべきだった。そして逃げたアイツの馬鹿面でも拝んでやろうと思ってた。

 だが!アイツは逃げなかった!怖気付いたんじゃない。逃げる気がなかった。撃ったのが俺だったから。俺が撃った事が分かったから!他の誰でも無い、アイツが尊敬してやまない、兄であり友であった俺だったからだ!

 あの男がどう思ってたかなんて知らない。

 アイツの過去がどんなだって関係ない。

 俺に祝福だって?違う。これは呪いだ。

 アイツの死に顔が離れない。

 クソが。

 ああクソッ。

 畜生!

 あの顔といったら!







『…兄様』

『兄様、貴方をお慕いしております』

眩み夢

身分が低いながらも自由に生き、みんなに求められる兄と、身分が高いながらも雁字搦めで、それなのに味方も理解者も誰一人として居なかった弟の話。

二人には同じ父を持つ・母を亡くす・互いに相手を清い人間と信じてやまないという共通点がありました。

境遇の差など沢山の違いがありましたが、最大の違いは自分の人生を肯定したいか否かでした。

最終的に二人は自分の願い(自分の為に相手を殺したい・殺されたい)が叶いましたが、弟が生きている間にはどちらも相手の本意を知る事が出来ません。

最後の『』は弟の死に際の言葉です。

悩みと葛藤が複雑に重なってしまったこの兄弟の話を少しでも理解していただけたなら幸いです。



ちなみに友人からは「クレイジーサイコホモ弟の話」とずっと言われてます。
断じてBLではありません。あくまでも親愛・敬愛です。

眩み夢

「兄様、貴方をお慕いしています」 明治時代、一人の将校が書いた回顧録紛いの手紙から始まる、二人の人間の複雑な関係の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-05-12

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