ドン・キホーテに憧れて

マヨねーず

--昔はもっと充実した生活を送っていた筈なのだ。

可もなく不可もない、変わり映えのしない生活を送る「私」と若き隣人の交流話。

カラン、カラカラカラ……



布団の横に積んでいた缶のタワーが崩れ落ちる音が一日を始めさせる目覚まし時計となっていた。日に二本、一週間で十四本の酒の缶が部屋の一部を占領する。寝る前に飲み干しては枕元に置いてそのまま横になる、という生活を続けているせいだ。未だ覚醒しきっておらずぼんやりとした視界で崩してしまった缶を拾って元のように積んでいく。どうせ不燃ごみの日に捨てるのだから、事前に袋でも用意しておいてその中に入れる方が場所はとらないし、衛生的だし、何より捨てるのが楽だとは分かっているのだが、そうする気力はいつも湧かなかった。手に握られた安っぽい柄のアルミには度数九%の強炭酸と書かれており、これと同じものが他に何本も転がっていた。お気に入りの銘柄というわけでもなければ特段おいしいというわけでもない。どちらかといえば香料とアルコール臭がきつくてあまり好きではない。比較的安価で手軽に酔えることだけがこの酒の価値だ。それでもコストパフォーマンスの点で言うなら六本ケースで買う方が良いし、二本も飲んでまで酔いたいのならウィスキーだとかウォッカだとか度数の高い酒を瓶で買ってチビチビと炭酸か氷で割った方が安上りではある。だというのにそうしないのは目先の安さに安易に釣られてしまう愚かさと禁酒しようとしては失敗してしまう堪え性の無さが原因と言えるだろう。というのは瓶やパックで買ってしまうとついつい飲み過ぎてしまうのではないかと意味のない謙虚さが出てしまい、一日で飲み干してしまえる缶なら次の日にはすぐにでも禁酒ができる、と謎の自信を抱いてしまうのだ。当然今まで一度も成功したためしはないのだが。



アルコールが回った時の高揚感と全身の脱力感が堪らなく好きだった。喉や腹には熱が溜まり、胸の動悸音が少しずつ速まっていくあの心地はいつでも気分を良くしてくれる。いや、正確にはどうでも良かった気分にしてくれるというべきか。ふやけてしまった脳ではすべてが些細なことに思えるのだ。そうやって思考の枷も外れ身体が浮遊感を覚える頃には天も地も境目などない、まるで世界と己が一体化したような不思議な感覚に浸った。不安や恐怖が多幸感や安寧とまぜこぜに溶けては一緒に消えていき、まどろみの中靄のかかった意識はやがて夢の世界に誘われて閉じていく。これこそがまさに最高の瞬間なのだ。



逆に目覚めは最悪の瞬間だ。舌根に絡みつくねっとりとした甘さと喉の渇きが干からびた身体を襲う。水分を求めて動こうにも節々に鈍い痛みが走り、途端に布団に吸い寄せられてどうしようもない虚無感や喪失感に包まれた。目の前には空っぽになった缶が自分と同じように倒れている。それを見るだけでどこからともなく降ってかかる悲しみといったらもうやっていられない。



けれども時間の流れとは常に一定であり、何をしようがしまいが朝を迎えては夜も更ける。SNSでは同時刻に生産的活動をしている人達が山のようにいた。対する自分は布団の中。焦燥感を抱かずにはいられない。かと言ってやりたいことなど何も無い。あるのはやらなければならないことだけ。軋む手足に鞭打っておもむろに起き上がるとコンピューターを起動させた。社員コードを入力して出勤に印が入ったのを確認すると一人侘しくカタカタ仕事を始める。時勢上仕方のないこととはいえ、面白くもない作業をただ単調に進めるのはなんと虚しいことだろうか。誰と話すこともないと時間感覚も狂っていく。たった五分でさえもやっとの事に思える。



ジャン、ジャンジャカ、ジャーン



決まった時間に隣室から聞こえてくる下手くそなギターが金切り声をあげることでようやく昼を回ったのだと認識するのだ。



自宅にいると昼休憩すらも長く感じる。しかし活力溢れるSNSの人達とは違い、持て余した時間で小洒落た料理を作る気にはならない。これが食べたいという物も思い浮かばないので、いつも通り湯を沸かして食べ飽きたカップ麺を啜る。これすらも事務作業のようだ。



胃にものを詰めてもまだ休憩時間は残る。余程のことがない限りは仮眠に充てられた。別に眠い訳でも寝足りない訳でもないのだが、いかんせん他にやることがないのだ。だからといって仕事を早めに始めたくはない。時間外労働なんてお断りだ。暇だからといって仕事をする奴はもはや仕事に侵されていると言っても過言ではない。ワーカーホリックというやつだ。そんなものになるのは御免だ。



なけなしの休息も終わってしまえば残り五時間の労働が待っている。世間一般の勤務時間である八時間とは最大労働時間ではなかっただろうか。それだけ働いて加えて残業すらしなければやっていけないような社会は正直おかしいと思う。だがそんな文句を言ったところで誰かに聞いてもらえる訳でも何かが変わる訳でもないのだ。同じことを考えている奴はきっと多いだろうに、世間から軟弱者呼ばわりされるのが関の山だろう。全くもって世知辛い世の中だ。



それでも黙々とパソコンと対峙していれば終わりも見えてくる。ふと窓の外に目をやればとうに日光は消え失せていた。今日もついぞ陽の光を浴びる事はなかった。いや、一応ガラス越しには当たっていたのだが、それで満足してしまうと流石に人間としてまずい気がして肯定できないでいた。



外に出るのはもっぱら夜が回ってから。それも毎日ではなく冷蔵庫が空の時だけ。スーパーに行って値札の貼られた惣菜や時間が経って萎びた野菜をカゴに放り込んでいく。適当に安くなった商品を手に取っている内に、あるコーナーに辿り着く。酒コーナーだ。一目しただけで酷く心が惹かれた。駄目だと頭の中に警鐘が鳴るというのに足は自然とそちらに向かった。そう広い店内ではないが種類は割と豊富である。期間限定ものや新商品まで揃えておりどれも目移りするものばかりだ。しかし結局手に持っているのはあの安っぽいデザインの缶が二つ。アルコール依存症なのだろうかとも思うが、たった二本呑んだだけで事足りるのであれば違うのかもしれない。ただ習慣になってしまっているだけだ。



帰宅途中、ふと空を見上げれば星がいくつか顔を覗かせていた。久々に綺麗に見えていたのであれは何座だろうか、と小中学生の頃の記憶を引っ張ってみたが、思い出している途中で分厚い雲が全て覆ってしまった。一切の光は遮られ、不安定な空模様が辺りを支配する。輝かしい満天の星空を幼少期と捉えたならば、虚ろな曇天は今現在なのだろうか。そんなふうに考えて不意に頭を振った。自分はロマンチストでも、ニヒリストでも、ましてセンチメンタリストでもない。なんでもないのだ。しばらくして雲は流れ再び光が姿を見せるのだが、視線は前方斜め下に固定され、薄汚い夜道を覚束無い足取りで歩んだ。



玄関を開けて迎えてくれる室内は外となんら変わらない寒さと薄暗さを持ち合わせていた。そんな冷たい雰囲気も電気をつけてしまえばたちまち消え失せるのだが、褪せた蛍光灯の明かりで彩られた部屋に温かみは感じられなかった。むしろ時折聞こえてくる隣人の一指一指確認しながら鳴らす震えた

音と相まって、時化たようにすら見える。



ベーン、ベーン……ベン、ベーン



パサついたおかずを食べている間、聴覚に届くのは自分の咀嚼音と隣人のギター。彼、と言っても見たことも話したこともないのだが、便宜上彼はとにかく毎日決まった時間にギターを弾いていた。おそらくは趣味なのだろうが下手の横好きという言葉がお似合いな御手前だった。聞くに堪えないとまではいかずとも、何度やめちまえと思ったことだろうか。けれども何故かは分からないが彼のギターを聴くと懐古的な憧憬の念と寂寥感を抱き、不思議にも苦情も壁ドンもしようとは思えなかった。



そしていつもこの腹に響く不協和音を背景に酒を飲むのだった。プシュと気の抜けた音が手元から鳴る。口にした途端にアルコールが鼻を突き抜け、喉を焼く感覚を覚えた。それはやがて食道を通過して胃に熱をもたらす。薄っぺらい幸福感にも似たその熱はどんどんこの身を浸食した。四肢は徐々に弛緩し、全体的に地に沈んでいく。身体は重く、意識は軽く。明日の為にとふわつく頭とぼやけた視界を何とか制御して寝床に移動した。掛け布団の上に転がり全身を預ける。己を受け止めた羽毛布団は体重でへこむ部分とそうでない部分に分かれ、丁度布団に抱き締められているという表現がピッタリだった。



片手で空いた缶を弄ぶ。逆さにして口の上で振ってみるが、一滴たりとも残ってはいなかった。仕方なしに床に置くが、手が滑ったようでカラカラと転がっていってしまった。それをどうにも拾う気にはなれず、行き場を失った腕は自分の目を覆うように添えられた。昔はもっと充実した生活を送っていた筈なのだ。それがどうだ。今ではこんな体たらくだ。何が違うんだ、何が変わってしまったのだろうか。趣味、そう趣味だ。ここ最近自分は趣味の時間を思う存分取れていなかったではないだろうか。そんな大層なものでもないただの読書や映画なのだが、そういえば書類以外の活字をろくに読んだ記憶がない。幸い明日は休みだ。折角だから久々に趣味に時間を費やすのも良いじゃないか。身体の休息は必要だが心の休息も同様だ。時間はもっと有意義に使うべきなのだ。……前も同じことを考えたことがあったような気がする。その時はどうしたんだったか。何があったんだったか。答えは結局出てこず、思考はゆっくりと霧散した。



翌朝、喉の渇きと全身の筋肉痛で目が覚めた。やはり最悪な気分だ。どうしてこうなると分かっていながら酒を飲んでしまうのだろうか。いや、これは今更考えても仕方のないこと。やめられるのならとっくにやめている。愚問だった。ヨロヨロと台所に向かい蛇口を捻る。何の変哲もないただの水道水だが、この瞬間だけはなにものにも変え難いオアシスのような存在だった。干涸びた喉の粘膜にこれでもかと潤いを与えてくれる。砂漠の民もかくもという気分だ。無論、満たされてしまえばそんな華美な感想も塵芥と化してしまうのが常であり、途端にありがたみも消え失せる。現代社会の先進国に生きている以上当然と言えば当然なのだが、それを自覚しているあたり俗にして残酷かもしれない。



朝食を簡単に食べると、早速押し入れを漁った。ここに引っ越してきた時に何冊か本を持ってきていたのだ。新しく買ってもいいのだが、なにせ読書をするのは久しい。であれば読み慣れたものの方がいいだろうという寸法だ。普段は押し入れに用がないからか心無し埃っぽいように思える。つい咳き込んでしまい、一旦退散して窓を開け放った。外は目が痛むほど太陽が眩く照っていた。それと同時に入ってきた心地良いながらも冷たい風が部屋を一掃する。室温は一気に下がったが、しばらくは窓をそのままに作業をすることにした。ほんの十数分も探せば奥まった所にある箱の中から酸化して黄色く変色した本が見つかった。それは簡単に言えば『ドン・キホーテ』を現代風に書き換えた内容のものである。主人公への皮肉やウィットに富んだ文章が面白くて学生の頃は好き好んで暇があれば読んだものだった。ああ、懐かしい気持ちが蘇る。久方振りの高揚感にせっつかれながら日焼けした匂いのするページをめくった。



……



…………



あれから二時間ほどかけてやっとのことで本を読み終えると、自分の視線から外れるように机の下に押しやった。そして混乱した頭を冷やすよう窓辺へと寄りかかった。流石何度も読み込んだだけあって、内容は自分の記憶と相違なかった。けれどもここまで呆れ返るほど馬鹿馬鹿しい物語だっただろうか。面白いともなんとも思えない。単純に飽いてしまったのかとも考えたが、この如何ともし難い感情は少なくともそれとは違うように思えた。愚かな主人公の一挙手一投足全てが痛ましかった。現実を振り返らず無謀な夢に向かって見当違いな努力をし続ける描写が生々しく、ありありと想像できて読むのが辛かった。かつては共感できる点もあった筈なのにどこだったか見当もつかない。趣味とは本来楽しむべきもののはずだが、そんな余裕もなく義務感だけで読み切った。だからか徒労感が凄まじい。仕切り直そうと窓を閉め他の本も手に取ってはみたが、目が滑って途中でやめてしまった。



全身が酷い虚脱感に苛まれた。時刻を確認するとまだお昼前。読書を続行する気力はとうに消え失せていたが、時間は有り余っている。このまま家に引き篭もるのもどうかと思い、天気も良かったので買い物がてら散歩に出掛けることにした。



外は夜ほどではないものの、冷たく乾燥した風が吹いていた。防寒具を身に纏っていても十分なほど冬を感じる。鍵をかけさあ行こうとしところで、隣室の扉がガチャリと開いた。そこから顔を出したのは隣人、柔和な顔立ちの溌剌とした青年だった。彼もこれからどこかに行くのか暖かそうなコートとマフラーを着けている。ギターケースを背負っていることから大方楽器の練習にでも行くのだろうと予想出来た。彼はこちらに気がつくと人の良い笑みを浮かべて丁寧に挨拶をしてきた。最近の若者らしからぬ好青年ぷりと、情けない事に会社や店員との事務的なやり取り以外で久しぶりの会話にやや挙動不審な態度で返してしまった。正直恥ずかしい。彼は不思議そうにこちらを見た後、合点がいったかのような反応を示してケースを背負い直すような仕草をしながら苦笑した。



「すみません。毎日毎日うるさいですよね、これ」



どうやら視線がギターケースに行っていたことからかそっちに気を取られていたと判断をしていたらしい。相手が単にコミュニケーション不足に陥っていたのだとは露ほども考えなかったようだ。気にしていないと返事をすると安堵したような表情をした。



彼は今から練習に向かうのだと言い、これまた元気に別れの挨拶をして先にアパートを去って行った。階段の踊り場から姿が見えなくなったのを確認すると、鍵を開けて部屋に戻った。彼の陽気さに当てられて出掛ける気力すら失ってしまったのだ。出しっぱなしにしていた本を元あった押し入れに隠すように戻すと、残りの時間をただ無為に過ごした。



合縁奇縁、人の繋がりとはまさに奇妙奇天烈なものなのだと痛感した。あの日からどういう訳か隣人の彼とは挨拶を交わす以上の仲、友人一歩手前のような関係となっていた。世間話をするだけのしかも基本的に自分は話題も持っていないので聞き役。よくもまあ歳上の大した接点もない人間相手に色々話が出来るものだ。これが若者のバイタリティなのだろうか。彼はサークルだか部活動だか知らないがバンドを組んでいるらしく、日々練習に励んでいるらしい。近々お披露目する予定で、調整の為に仲間と集まっているようだ。音楽が余程好きなようでそれを指摘すると、将来はミュージシャンとして活躍したいのだと言う。嬉々として語る姿にドン・キホーテが重なった。なんて無謀な夢なのだろう。華はあるが茨の道だ。彼の実力を知っている身からすればとんだ笑い話だ。無論おくびには一切出さず頑張れと応援したが、内心憐んでいた。いずれは夢から覚める時が来る。それがせめて早ければ火傷を負わずに済むけれども、忠告するような無粋な真似は決してしなかった。自分はサンチョ・パンサではない。彼の事は彼一人で自己完結させるべきなのだ。楽しそうに話す彼の瞳は煌々としていて、そこに写る廃れた自分までもが輝いているように錯覚した。実際、彼には見るもの全てが輝いて見えているのかもしれない。適当に相槌を返しながらそんな事を考えた。



彼との会話は嫌いじゃなかった。時折彼の演奏を聴きながら取り留めなく話すこともあった。だが別れて部屋に一人になると、いつもあの本を読んだ時のような気持ちになる。何とも形容し難い感情に身を包まれるのだ。胸の奥底から湧き上がるマグマが黒い血反吐となって口から溢れ出しそうだ。ストレスではないと思うのだが、酒に加えて煙草まで吸うようになった。窓のレール部分にもたれて夜空を見上げながら火をつけるのが一日の醍醐味。ゆっくり肺にまで煙が行き渡るよう吸い込むと、先端部分が赤く燃焼する。そして口から離すと汚れのない澄んだ空気を犯すように天に向かって灰色の煙を吐くのだ。冷気で手が悴んだが己の中心部だけは生温かった。



数日後、彼はパンフレットを持ってやって来た。例の公演会に招待してくれるらしい。お忙しくなければ是非、と謙虚に、されどもこちらの是非を聞く前に押し付けるだけ押し付けて帰って行った。会場は近所の大学の広場。この時期にとも思ったが説明会があるらしく、そこで部活動の紹介もするようだ。つまりは学生やせいぜいその保護者くらいしか来ない場所に来いと言っているのだ。なんたる羞恥プレイ。揶揄っているのかなんなのか。日付なんて確認するまでもなく暇ではある。行かなくてもいいしあまり行きたくもないのだが、彼の誘いと好意を無碍にするわけにもいかず、スマホのカレンダーに時刻を打ち込んだ。



そうしてとうとう当日になった。校内にいる人間の大半は自分より歳下であり、且つその保護者よりかは自分は圧倒的に若い為とてつもない場違い感がある。受付の学生だってえ?という表情をしているじゃないか。居た堪れない。まあ、さっさと聞いてさっさと帰ってしまえばいい。旅というほどでもないがこの際恥は掻き捨てだ。



まだ準備中ではあったが広場には既に人集りができていた。こういった音楽系の部活動はいつの時代でも学生たちの憧れの的なのは変わらないようだ。活気溢れる若者の間に入るのは憚られるのでステージ正面の脇で待機する事にした。自販機で買った飲み物を飲んでいると、作業をしている学生の中に彼を見つけた。彼もこちらに気が付いたらしく、人好きのする笑顔で手を振ってきた。何人かの視線が刺さる中、引き攣る頬を堪えながら小さく振り返した。



しばらくしてようやく準備が終わり、並べられた楽器の前にそれの担当と思われる学生が登場した。楽器は至って普通のギター、ベース、ドラム、そしてキーボード。ギターは彼の他にもう一人おり、そちらはボーカルも兼任しているようでスタンドのマイクも用意されていた。てっきり彼が主役なのだと思っていたが違うらしい。とんだ拍子抜けだ。



演奏が始まった。曲は巷で流行っている今時のもの。若い子たちはキャイキャイ言って盛り上がっているが自分にはあまりピンと来なかった。上手いのか下手なのか微妙なライン。上から目線かもしれないが受け手とは常にそんなものだ。周りの保護者もなんとも言えない顔をしている。二曲目も似たようなものだった。一曲目の時点でもう飽いていたのでぼちぼち帰ろうとしていると三曲目が始まった。それは全く聞いたこともないイントロから始まった。このバンドオリジナルだった。ステージに目をやるとボーカルは彼に代わっていた。彼は力強く、それでいて優しい声で歌った。未来だの夢だの希望だのを強調した少しクサい歌詞は彼の声に非常に合っていた。ギターは思っていた通り覚束ない手つきではあったが、それがかえって味を出しているようにすら感じる。彼の熱さにいつのまにか身体は火照っていた。知っていた曲だからと騒いでいた若者も、興味なさげに付き添っていた保護者もこの熱に魅了された。芝生の上、そう広くはない敷地だがここだけはまるで別の空間のようだった。歌っている彼の瞳は爛々と輝いていた。それはこの場で聴き惚れている人間にまで伝染しているように見えた。きっと本当に彼には全てが輝いて見えているのだ。未来も夢も希望も何もかもが美しく眩いものに映っているのだ。



曲が終わると辺りは静寂が覆った。誰もが余韻に浸っていた。そしてそれも束の間、盛大な拍手と歓声が響き渡った。老若男女全員が惜しみなく手を叩いた。それを自分は遠目から眺めていた。



一足先に夕暮れの道を一人歩いた。目頭は熱く鼻はツンとする。彼に一声かけるべきだったがこんなみっともない姿を見せたくはなかったし、今彼をまともに見れる気もしなかった。紛れもなく自分は彼の音楽に感動したのだ。できることならアンコールしたいくらいだった。



だが同時にあの煮え滾る溶岩のようなドロっとしたものが胸中から湧き出た。何度も何度も味わってやっとこの感情の正体が何なのか分かった。嫉妬だ。彼に嫉妬していたのだ。彼がまだ若いからだろうか、それとも自分が老いてしまったからだろうか。夢や希望に対してどうしようもないパララックスがあるように感じた。かつては彼と同じ視点にいた筈なのに、今では陳腐なものしか映らない。自分にだって我武者羅になって追い求めたものがあった筈なのにそれが何だったのか思い出せない。色褪せた不満足に満足してしまっているのだ。この漠然とした事実がなによりも悲しかった。



彼はまさしくドン・キホーテ、夢を追う人間だった。この先彼が夢を叶えるのかそれとも挫折するのか分からない。だがきっと彼は諦めないのだろう。諦めない限り全てが輝いて見えることだろう。羨ましい、なんて羨ましいんだ。どこでこんな差が出来てしまったんだ。



帰り道の途中でまたあの度数の高い酒を買った。呑まなければやっていられない気分だった。脳を空っぽにしたかった。カシュッと乾いた音が時化た部屋に響く。その音は曇天の夜空に消え散った。

ドン・キホーテに憧れて

ドン・キホーテってはたから見れば空想と現実の区別がつかないヤベーおっさんなんですけど、いくつになっても夢を追い続ける姿勢はカッコいいですよね。

ドン・キホーテに憧れて

老いてしまった「私」と若き隣人の「彼」。昔は「彼」のようにもっと充実した生活を送っていた筈なのに、いったい何が違うというのだろうか

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-05-12

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