本棚
自室の本棚を見上げた。自分の身長が175センチとして、それと同じくらいの高さだが、所々空白(空間というよりも)が目立ち、そのために斜めに倒れかかっている本が多い棚だった。
博士(ひろし)は読書は好きで、古書店通いもよくした。今はその反動で、増えすぎた本をリサイクルに出した後だった。
選別の際、この本はもう読まない、という基準で売りに出しはした。だがこうして見ると、気に入っていた本も合わせて悉く去っていったという光景に見えてくる。本たちに済まない気持ちが込み上げて来、本棚の空白も、叫び声を上げて博士を恨みだしている、そんな姿に思えてきた。
「ここにある本はまだいいとして」
売り払ってしまった本たちは、いまどうしているか。別の買い手のもとで読まれているか。まだ古書店の棚にいるのか。
「同じ本をまた買い直して、ここに並べたら…」
売り払った本を、全く同一のものを、買い直していって、棚に戻していく。それを続けて、売る前の本棚と違わぬ姿に…そんなことを想像した。
「軽々しくできることじゃないよ」
そうつぶやいて博士は、本棚から一冊取った。
『ゴッホの手紙』岩波文庫で上中下巻のものだ。これは売れなかった。
「売れなかった」
そう言い直して博士は身震いをした。
ゴッホが生きている間に売れた絵は?
僕は何をしているのだろう。ゴッホの手紙を本にしたものは手元においておきながら、当時のゴッホの絵を買ってあげられたら…
空想に空想が重なり、当時の南フランスで一心に仕事するゴッホの背中が見えてくる。目の前でゴッホが描いている。日差しが強烈さが凄まじい。土埃が吹き上がり、博士の目に入った。
「こする前に見るんだ」
博士は声を聞いた。
「ここの土埃は厄介だが、目をこすってはいけない。目を開き続け光景を見たまえ。ただ見るんだ。おお、この輝く麦!」
男は土埃の中で、ひしゃげた洋服に身を包み、ブラシを絶え間なく動かす。
「僕、あなたの本を持っています!」
男の動きが止まる。振り向き、痩せ細って浮き出た頬骨を手で触りながら足下に目をやっている。
「創造は嘘との戦いだ…。君は日本人だろう?君たちの創造精神から私は真実を直覚した。だから目の前の嘘とも戦える。君自身はどうだ?」
「ぼ、僕は…」
博士に言えることはなかった。必死に言葉を探す。何の言葉を?
「問題ない。君は土埃と日差しの戦士だ。今はそうでなくても、いずれ、そうなる。サムライとは言わないでおこう。私はその言葉に少々疑問の余地があるから…」
博士はただ立ち尽くし、男の、何かを超越した姿に打たれていた。
「さあ、もう行くといい。私を見ても、私を崇拝してはいけない。真実というものは、いつだって、嘘の土埃にまみれているものさ。それでも目を見開き続けることはできるよ。君が何かを見たければね。サヨナラ」
…博士は本棚の前にいた。手には本があった。
男が、最後に日本の言葉で挨拶を言ったとき、彼は笑っていた。厳粛な顔立ちに宿った安らかな笑いだった。
博士は鼻をすすり、その後頬をぴしゃりとたたいた。言いようのない実感、男は直覚という言葉で話していた。それが胸にあるのを、目に見えるのがわかって、涙がこぼれた。
本棚