王平伝③
時は西暦228年。南蛮を制し、北へと兵を向ける準備ができた蜀は、諸葛亮の指導の下で魏へと攻め込む。王平は漢中で育てた軍を率いて蜀軍の中核を担うことになる。
人物紹介
・趙統(ちょうとう)・・・蜀軍の総帥趙雲の長男。体格に恵まれ、魏延の下で用兵術を学ぶ。
・趙広(ちょうこう)・・・趙雲の次男。辟邪隊に興味を持ち、王平から忍びの技を受け継ぐ。
・楊儀(ようぎ)・・・蜀の文官。諸葛亮の下で働く能吏。魏延のような無骨な者が嫌い。
・夏候楙(かこうぼう)・・・長安太守。魏の大功労者である夏候惇の長男。無能。
・司馬懿(しばい)・・・長安の文官。麻が好きな夏候楙をしばしば諌める。有能。
・王訓(おうくん)・・・王平の息子。王双によって育てられる。
・張休(ちょうきゅう)・・・馬謖の部下。
・李盛(りせい)・・・馬謖の部下。張休の同僚。
・黄襲(こうしゅう)・・・馬謖軍で兵糧の管理を務める。
・郭奕(かくえき)・・・長安の隠密部隊「黒蜘蛛」の首領。
・夏侯覇(かこうは)・・・長安の将校で、張郃に見出される。夏侯淵の次男。
・郭淮(かくわい)・・・張郃の副官。
1.再び漢中へ
二年ぶりの漢中の街並みは、見違える程に様相が変わっていた。その規模は成都に比べれば劣るが、曹操が漢中の住民をごっそりと北へ移した直後に比べれば、格段に賑わいが増している。
ここに駐屯する蜀軍は二万を越え、それら兵士を相手にする商人が方々から集まり大小の商館を建て、その下での仕事を求める人夫が集まる。魏国内に比べれば蜀の税は安く、北からはるばる峡谷を乗り越え漢中まで来たという商人も少なくないようであった。王平も労役夫として参加していた山峡の橋造りが完成しつつあるということも大きいのであろう。
「民政のことになると、丞相の手腕は流石といったところだな。俺はここで治安を守っているだけで、面白いように人が増えていく」
椅子にふんぞり返った魏延が、顎鬚に手を当てながら言った。
魏延の屋敷内である。漢中に着いた王平が句扶を伴って挨拶に行くと、魏延は破顔させて二人を迎えてくれた。
「お前の活躍は知っているぞ。名に聞く将来の丞相を継ぐ者と良い勝負をしたそうではないか」
馬謖のことである。
「そのようなことはありません。もう一歩踏み込まれていれば、私の軍は敗走させられていたでしょう」
この気前の良い男に、本当は自分が勝ったのだと、堂々と言ってやりたかった。だが言ってしまうと、この男は成都のやり方に不満を募らせることになるだろう。隣では、句扶が無表情のままその話を聞いている。
「私は漢中で、何をすればいいでしょうか」
王平は、すぐに話題を変えた。
「うむ、やる気満々のようだな。南が片付けば、次は北だ。その北伐をやり易くするよう下準備しておくのが、俺らの当面の仕事よ。二人とも、こっちに来い」
通された部屋に置かれた卓には、南は漢中、北は長安周辺のことが記された地図が置かれてあった。二人は、その地図を食い入るようにして見た。
「蜀軍の第一目標は、長安を陥落させることだ。この城塞都市を占領し、さらなる北伐の足掛かりとするのだ」
魏延は、演説するように説明し始めた。
「ここから長安までの道は三本ある。先ず一に、子午道。道のりでいえば一番短いが、険しい。この道に兵を通せたとしても補給が難しい。二に、斜谷道。普通に進軍しようと思えばこの道だ。子午道と比べたら遠回りとなるが、補給はし易い。第三に、一番の遠回りとなる箕谷道だ。この道を行けば長安は遠すぎる。途中の街を占拠して拠点を確保しておく必要がでてくるであろうな。王平、お前はこの箕谷道を歩き、祁山、街亭を見て回ってきてもらいたい」
「丞相は、箕谷道を通って北へ進攻するつもりなのですね」
「それはまだ分からん。あくまで、万事に備えておけとの指令だ。俺から言わせてもらえば、子午道を通って長安を奇襲し、北から魏の援軍が到着する前に一気に攻め込むのが一番だと思うのだがな。はっきり言って、長安の兵は弱い。まだ涼州は魏の版図組み込まれてから日が浅いから、魏のために本気で死のうっていう将兵が少ないのだ。これは、長安に放ってある間者からの報告を見れば一目瞭然よ」
なるほどこの男は蛮勇ばかりかと思っていたが、意外とそうでもないのかもしれない。
「しかしそういった案は、丞相が嫌っておられるということですね」
「その通りなのだ、王平。お前もその辺りのことが分かってきたようだな。やはり丞相は文官なのだ。戦のことは、我々武官に任せてくれればいいものを」
魏延は眉間に皺を寄せながら言った。
「そしてそこの小さいの。句扶を言ったか」
句扶は、静かに顔を上げた。
「丞相から書簡が届いている」
魏延が懐から封をされた書簡を取り出した。
「これを開け、読み、すぐに燃やせ。必要なことがあれば、何でも言ってこい」
「御意」
王平の前ではよく喋る句扶は、他の者の前となると急に無口になることがある。魏延のような男は苦手なのだろうか、と王平は思った。
「今日は酒を飲もう、王平。成都の話を聞かせてくれ」
夜になり、酒と肉が屋敷の大広間に並べられた。その席には既に、句扶の姿はなかった。渡された書簡を読んで燃やすと、王平に一つ挨拶を残してさっさと北へと向かっていった。一晩くらい休めと言ってみたが、宴は苦手ですと苦笑いを見せて漢中を後にしたのだった。
並べられた料理に成都の辛さはなかったが、山中で採れた山菜がふんだんに使われており、獣の臭いが強い肉が懐かしかった。
「成都の女はいいだろう、王平。漢中のような最前線では。妓楼に行ってもばばあしかいやがらねえ」
「妓楼には、一度だけ蔣琬殿と共に行きました。確かに、成都には綺麗な女が多いと思います」
「蔣琬。あの戦下手の青瓢箪か。あいつは俺らが荊州にいた時に小部隊を率いていてな、危ないところを救ってやったことがある」
「魏延殿は南荊州におられたのでしたね。それはその時の話ですか」
「そうだ。劉備様の軍団が南荊州に進出してきた時、俺はその軍に加わった。劉備様はとにかく優しい人だった。部下を自分の奴隷か何かとしか思っていない野郎はこの世に五万といるが、あんな主君に恵まれた俺は本当に幸運だぜ。あの人はもう死んじまったが、俺がこんなばばあしかいない所で大人しく働いているのは、あの人のためなんだ。それは、あの人が生きていようが死んでいようが関係ねえ」
「劉備様のそのような噂は、周りから聞いておりました。さぞ御立派な方だったのでしょうね」
「そうか。お前は劉備様に会ったことがないのだな。いいか、王平。男の幸せとはな、ああいった人の下で働くことだ。後継ぎの劉禅様はまだ若く、蜀の実質的な権力者は丞相となった諸葛亮殿だが、人の上に立つこととなるとどうかな」
言って、魏延は酒を呷った。
「いや、楽しい席にこういう話はやめておくか」
魏延は丞相のことが好きではないのかもしれない。いや、文官自体を嫌っているという節がある。もしかすると、魏延が成都から遠く離れた漢中に置かれている理由は、そういうところにあるのかもしれない。
「しかし妓楼に一度とは寂しいな。本当は、成都に何人か囲っているんじゃないのか」
「いえ、そのようなことは」
歓のことを話そうかと思い、王平は少し迷った。
もう洛陽を後にして、三年以上が経つ。これほど一人の女に未練を残していることを、女々しいと思われたくなかった。歓のことを忘れたわけではない。触れることもできない女のことをここまで想い続けていることを、おかしいと思われるのが嫌なのだ。そう思われることで、歓との思い出を汚されるような気がした。だがその反面、この想いを誰かに吐露してみたいという気持ちもある。吐露することで、一人の女を想い続ける重さを少しでも軽くできるのではないかとも思えるからだ。
この魏延という男は、良くも悪くも男臭い。丞相に女の話をしても相手にすらされないだろうが、こういった男になら話してみてもいいのではないか。丞相と魏延を比較することで、少しだけ喋ってみてもいいかもしれないという気になってきた。
「実は、洛陽に」
歓のことを話した。酒が入っているせいもあってか、魏延はその話の一々に頷き、時に励ましてくれた。
「あまりこのことは、周りには言って欲しくないことなのですが」
そう付け加えることを忘れなかった。
「言わんよ。俺はそこまで口が軽くないし、無神経でもない。今の話は、俺の心の中にしまっておこう」
それを聞いて、王平はほっとした。軍を指揮する者が女のことで悩んでいると兵に知られれば、指揮官としての威信に関わってくる。
「そんな話を包み隠さずしてくれたというのが俺は嬉しいぞ、王平。さあ、もっと飲もう」
嫌な話をしてしまったと思う自分もいる。そんな気持ちが、王平に杯を重ねさせた。
それからの話題は、戦だった。魏延は荊州での転戦と益州攻めの話をした。ほとんどが自慢話のようであったが、退屈だということはなかった。
王平も辟邪隊を指揮していた時の話をした。山岳戦のこととなると、魏延は興味深気に耳を傾けてきた。さすがにこの辺は、生粋の軍人なのだろう。
王平は自分の口数がいつもより多くなっていた。成都から漢中に来たことで、少しでも歓のいる地に近づけたということがそうさせていた。
翌朝、王平は魏延に連れられ漢中軍の調練を見て回った。まだ少年の面影を色濃く残した二人の男が、こちらに向かって拱手しているのに王平は気付いた。
「こいつらはな、蜀軍の総帥である趙雲殿の子供たちだ。お前ら、あいさつしな」
「趙統です」
「趙広です」
兄の統はがっしりとした体格に恵まれていて、それに対し弟の広は句扶のように小柄であった。体は対照的でも顔が似ているところを見ると、なるほど二人は兄弟なのであろう。
「俺は趙雲殿に頼まれて、この二人を預かっているんだ。こいつらに軍のなんたるかを叩き込んでやっているってわけよ。なあ、お前ら」
「はい」
二人が白い歯を見せながら同時に答えた。この兄弟は、魏延に懐いているように見えた。一軍を率いる将ともなれば、こういう魅力に恵まれていなければならないのかもしれない。
「そこで王平殿に頼みがある。弟の広を預かってもらいたい」
「えっ」
趙広が不安そうな顔を見せた。
「何だ、嫌なのか」
「私は、魏延殿の下で学びとうございます」
初対面の男にいきなり預けると言われ、不安になったのだろう。まだ子供なのだと、王平は内心ほくそ笑んだ。
「こら、わがままを言うんじゃない。俺はまだ漢中にいるし、王平殿も漢中にいる。ただ先生が変わるだけだ。別にどこかに追い出そうってわけじゃねえんだから」
魏延の口調は荒っぽいが、嫌がる趙広に諭すように言った。粗野な男だとばかり思っていたが、王平は魏延の意外な一面を見る思いがした。
王平は腰を落として趙広と視線を合わせ、肩に手をぽんと置いた。趙広はそれで、直立した。
「そんなに力むことはない、広。年はいくつだ」
「十四であります」
「統、といったか、お前は」
言われて、兄の趙統も直立した。
「十五才です」
「そうか。二人ともいい目をしている。俺もな、十五の時に軍に入ったんだが、俺よりずっといい軍人になれるかもな」
言われて、二人はぱっと顔を明るくさせた。
「よしお前ら、わかったら俺がいいと言うまで駆けてこい」
「はい」と魏延の言葉に同時に返事をし、二人は調練場の方へと走って行った。
「突然のことですまんな、王平。俺一人が一度に二人を教えるより、一人ずつ教育した方がいいと思ったんだ。こいつらには未来の蜀軍を担う優秀な将になってもらわねばならんからな」
「素直で、良い指揮官になる資質は十分にあると思います」
「そこは、さすがは趙雲殿の子よ。しかしな王平、一つだけ言わせてくれ」
突然、魏延は顔をしかめて王平を振り向かせた。思わず、王平はさっきの二人のように直立した。
「あいつらが戦場で犬死するかどうかは、俺らにかかっている。決して半端な気持ちで接してくれるな」
「こ、心得ました」
「その点、お前は篤実な男だから心配はしていないがな、念のために言わせてもらった。頼むぞ」
「はい」
魏延の顔は、真剣そのものであった。魏延には子がいない。もしかしたら、あの兄弟のことを自分の子供のように思っているのかもしれない。
その日から、王平は魏延の部下として調練の指揮をすることとなった。やることは、成都でしていたことと同じだ。旗を振り、鼓を鳴らし、兵を自在に動かせるようにする。毎日同じことの繰り返しである。同じことを繰り返すのが軍である。成都にいた時と違うことは、傍で趙広が身辺の世話をしてくれるようになったことだ。この少年は、当然調練にも参加する。魏延の言葉を胸に時には過酷なこともさせたが、どんなに疲れていても一晩眠れば次の日にはけろりとした顔をしていた。それは若さだけがそうさせているのではないということは近くで見ていてよく分かった。心が、強いのだ。
兄の趙統は調練にへばってよく魏延に尻を蹴飛ばされていた。時には目に涙を浮かべながらも必死についていっていた。無理もない。魏延が率いる部隊はいざとなれば蜀軍の主力となる部隊で、その調練は蜀軍の中でも苛烈を極めているのだ。それに統は、まだ十五才の少年なのである。
趙統が調練で泣いた後は、魏延は決まって王平のところに酒を飲みにきた。そして他愛もないことを話して帰っていくのであった。王平には、それが何となくおかしかった。
ある日、調練が終わった後、趙広に腰を揉ませていると彼が言った。
「王平様は昔、山岳部隊を率いられていたと聞きました。本当でしょうか」
「そんなこと、誰から聞いた」
王平は趙統のあんまにうとうとしながら答えた。
「他の兵から聞きました。魏延様も、そんなことを言っておられました」
「嫌な部隊だ。森の中でじっとして、蚊にくわれるし蛭に噛まれても耐えねばならん」
「それは、普通の部隊とはどう違うのですか」
「そうだな、今の俺ら軍が表の軍だとしたら、裏の軍だ。相手の意表を突き、表の軍が勝ち易くなるよう工夫をしてやるんだ」
「今の蜀軍にも、そういった軍はあるのですか」
ある。そう答えようとして、王平は言葉を止めた。あまりこういうことは言わない方がいいかもしれない。
「何故突然そんなことを聞くのだ、趙広」
「私の体は小柄です。もしかしたら、そういう軍に適しているのではないかと思って」
「余計なことは考えなくていい。お前は言われたことを黙ってこなせばいいんだ」
そう言いながらも、王平の心は動いた。
「折角、王平様の下で学ばせてもらっております。そういった技があるのなら、是非教えて頂きたく」
「余計なことは考えなくていいと言っている。黙って腰を揉め」
「はい」
趙広はむすっとしながらも、あんまを続けた。
面白いかもしれない。王平は趙広を叱りながらもそう感じていた。
翌日、王平は魏延の館を訪った。趙広が言っていたことを相談するためである。
「趙統がそんなことを言っていたのか」
酒肴を前にして、魏延は腕を組んで唸った。山岳部隊は普通の部隊と違い、部下の先頭に立って敵陣へと乗り込む。当然、討死する可能性は高くなる。魏延はそのことを懸念しているのであろう。
「王平、お前はどう思うのだ」
「正直、向いてはいると思います。教えられたことを吸収する若さもあります」
魏延は、鼻からふーっと息を吐いた。
「そういう指揮官も、これからの軍には必要なのかもしれないな。他の者であれば二つ返事で良しとするところなのだが」
魏延は苦笑いしながら言った。王平も近頃はあの兄弟に対し、魏延と同じ想いを持つようになっていた。その気持ちはわかる。
「よろしい。自分でやりたいと言っているのなら、やらせてみろ。そのかわり王平、しっかりと教えるんだぞ」
「御意」
形としては、上官からの許可が下りた。しかし王平には、責任を押し付けてしまったという後ろめたさがないわけでもない。
「趙広、来い」
その日の調練が終わり、井戸で頭から水をかぶっていた趙広を呼びつけた。
「はい、なんでしょうか」
「お前、山岳部隊の技を身につけたいと言っていたな」
趙広の口元に笑みが浮かんだ。
「はい、言いました」
「今日から、お前に山岳戦の技を教える。ただし、通常の調練が終わった後にやるんだ。できるか」
「望むところです」
「馬鹿者。軍人の返事は、はいだ」
「はい」
趙広の若い声が、元気良く答えた。
王平はその日から、趙広に血がにじむような調練を課した。森の中でのこごみ歩き、狭い空間での短剣を使った格闘術、そして長時間に渡って体を静止させる訓練。時には動きを止めたまま、一睡もさせなかった。辛い調練を課すことで根を上げて欲しいという気持ちは確かにあった。しかし確実に、趙広は王平の技を会得していった。
趙広を心配するという反面、これはいい指揮官になるという期待が王平を楽しませた。もしかしたら定軍山で死んだ夏候栄も、生きていればこんな風になっていたかもしれない。
句扶が帰ってきたら、その下に趙広をつけるよう進言してみよう。もしかしたら句扶はそういうことを嫌がるかもしれない。しかし嫌々ながらも、彼は引き受けてくれるはずだ。そんなことを考えると、王平はたまらなく楽しかった。
2.楊儀
南蛮制圧戦が始まった。久しぶりの成都を満喫する間もなく、諸葛亮幕下の補佐官として南征軍に随行することとなった。成都から南へと続く街道は思っていた以上に整備されていた。軍を通すためでなく、南蛮から蜀へと物資を運ぶための、この戦後を見据えた上での整備であることは見ていてよく分かった。この辺りの仕事はさすがは諸葛亮だと認めざるをえない、と楊儀は思った。
元々は荊州で傅羣という男の下で働いていた。己の保身に全てをかけて生きているような、つまらない男であった。劉備が南荊州で台頭し関羽が襄陽の太守となると、その元へと走った。裏がなく実直であり、見ていて惚れ惚れする男。それが関羽であった。しかし度が過ぎる実直さは時に自分の首を絞めるということを楊儀はよく知っていた。恐らく、関羽自身もそのことは分かっていたのであろう。このような男には自分のような智謀の士が必要なのだ。これは、関羽自身の口からも言われたことであった。それが単純に嬉しく、つまらない者ばかりがはびこるこの世で関羽のような男の下で働くことができた自分は運が良かったのだ。
益州を制圧した劉備のところへ使者として派遣された。元は傭兵稼業をしていた男が主の国である。大した国ではないだろうと思っていたが、意外にも成都の治安はよく住人は活気に満ち、劉備の下には優秀な文官が数多く仕えていることが分かった。その文官の中には、自分と同郷の荊州人も少なくない。元傭兵部隊の頭に何故これほどの人が集まるのか、その疑問は実際に劉備と会うことで解けた。関羽と同じ、いやそれ以上の男であったのだ。劉備は荊州からの使者である自分を使者としてではなく一人の荊州人として迎えてくれ、関羽からの言伝以上に自分の言葉をよく聞いてくれた。関羽からの言葉を伝えればすぐ荊州に帰るつもりであったが、使者としての仕事を終えた後も何かと劉備に呼び出され、軍事や国政についての意見を聞かれた。その聞き方には決して尊大さはなく、むしろ謙虚さがあり、本気でこの男は一国を作ろうとしているのだなという気概がありありと伝わってきた。そして劉備に気に入られたのか、そのまま成都に留まり文官の仕事をするよう命じられた。荊州関羽の下での仕事ができなくなるというのが多少名残惜しくはあったが、楊儀は成都で働くことを受け入れた。この新興国の中で自分の力を存分に発揮してみたいと思った。
そこで、劉巴という男と対立した。政庁内での、法に関する意見の食い違いのためである。劉巴は自分よりもかなり年上で蜀の文官としての大先輩であったが、楊儀は構わず意見した。劉備は自分の能力を買ってくれたのだ。他の者から何か言われて簡単に意見を変えていては、その恩に報いることができないと思った。その想いは文官の元締めである諸葛亮にもぶつけたが、それを理解してもらえなかったのか弘農という田舎の太守となるよう命じられた。諸葛亮からは切々と地方を治める大切さを説かれたが、結局これは左遷させられるのだということは分かっていた。楊儀は眼を閉じ、悔しさを噛みしめながら弘農太守の印状を受け取った。組織の中では、力のない者はこうやってふるい落とされていくのだ。
蜀の中心から離れた弘農で、楊儀は数年を過ごした。その間に荊州は呉に奪われ関羽は死に、劉備も死んだ。そしてあの劉巴も老齢のため死んだ。楊儀が中央へと呼び戻されたのは、こうした中であった。
与えられた仕事は、南征軍の中での兵糧の管理と部隊編成の補佐をすることであった。攻撃部隊の頂点には馬謖がいて、その下に張休、李盛、黄襲という部将がついている。そして別働隊である他の二軍が東から回り込むように攻め込んでいく、総勢四万の軍である。これらの部隊に成都から送られてくる限られた兵糧を分配するのが自分の主な仕事である。大して難しい仕事ではなく、むしろ自分に適した仕事であった。数日間だけ諸葛亮と共に働くとその仕事ぶりを評価されたのか、蜀軍本隊の兵糧の一切を任されるようになった。この戦はその後の対魏戦に備えた実戦演習と思えと馬謖は豪語していた。三十をいくらか越えているが、まだどこかものの考え方に幼さを残している男であった。
南へと進む蜀軍は負けなしの快進撃を続けた。越嶲で高定という豪族を破り、別働二軍も勝利を重ねて残すは雲南の豪族である孟獲を残すのみである。馬謖らの攻撃部隊長はこの連勝を喜んでいたが、楊儀はそんな彼らを冷やかな眼で見ていた。勝てて当然なのである。そもそも戦の仕方からして違うのだ。中華の歴史は、戦乱の歴史である。その中で培われた戦略や戦術に、こんな辺境の者たちが敵うはずがないのだ。そう言って若い将軍たちを諌めようかと思ったが、やめた。馬謖という男は、諸葛亮の言葉ならともかく、他の者が言うことを聞くような男ではないと思えたからだ。下手なことを言ってしまえば、自分の首が飛ぶかもしれないのだ。軍とは、そういう厳しい場である。
楊儀は、雲南へと攻め込む直前の兵糧配分について話をするため馬謖の幕舎へと向かった。衛兵に話を通して幕舎の中に入ると、そこには嗅ぎ慣れない臭いが漂っていた。麻の臭いである。奥から上半身裸で、眼をうつろにさせた馬謖がのっそりと出てきた。
「何の用だ、楊儀」
馬謖は面倒臭そうに床几に腰を下ろしながら言った。
「兵糧分配の最終確認に参りました。何も連絡は入っておりませんでしたでしょうか」
「ああ、そう言えばそうであったな」
馬謖は嫌な顔で言った。
その時、奥から物音がして何も身に着けていない女の姿が見えた。色の浅黒い、一目見て南蛮の出だとわかる、まだ幼い女だ。
「中に入っていろ」
そう言われ、女は奥に身を隠した。こいつは何をやっているのだ。楊儀の体の芯から黒々としたものが湧きあがってきた。
「今の女は、誰ですか」
思わず楊儀は口にしていた。
「何のことだ、楊儀」
「丞相の前で南蛮攻めは南蛮人の信を得ることだとおっしゃったのは馬謖殿ではありませんか。それをこんな、略奪のようなまねを」
言い終わる前に馬謖は立ち上がり、その太い二本の腕が楊儀を突き飛ばし、尻餅をつかせた。
「誰が略奪をしたのだ。言ってみろ」
「では、あの娘は」
今度は左肩に蹴りが飛んできた。突然の暴行に成す術もなく、楊儀はその場に突っ伏した。
「この前まで地方に飛ばされていたお前が、俺の軍に難癖をつけようと言うのか。もう一度言ってみろ、どこの軍が略奪を働いたというのだ」
確かにこの南征中に蜀軍が略奪をしたという話は聞かない。それが蜀軍の魅力であり、楊儀がここで真剣に働ける一つの理由である。だが、あの幼い娘は何なのだ。軍を統轄する者が、麻を吸いながらこのような行いをして良いというのか。そう言ってやりたかった。しかし言えば、首が飛ぶ。
「あの娘はな、自ら望んでここに来ている。当然、その対価は払ってやっている。何も問題はないであろう。よそで何かおかしな噂でも流してみろ、楊儀。その時はどうなるか、知りたくば試してみればいい」
感情の高ぶっているこの男に、もう何を言っても無駄だと悟った。楊儀は馬謖の気を鎮めるために、わざとおびえるような仕草をして見せた。
「兵糧のことは、黄襲にでも話しておけ。お前はな、楊儀」
急に馬謖の声が優しくなり、その大きな手が楊儀の肩に置かれた。
「少し力み過ぎているのだ。中央に戻されていきり立つのは分かるが、何も心配することはない。蜀軍は強い」
その口調は、まるで自分が強いと信じきっているようであった。
「このまま何も問題なく、南蛮は平定されるであろう。だからお前も少しは楽しんで帰れ。よかったら、俺が好みの女でも手配してやろう」
馬謖の熱い息が、楊儀の耳元で囁いた。楊儀は一応、それに頷いて見せた。
「では、兵糧のことは黄襲殿にお伝えしておきます」
立ち上がりながら、震える唇でそう言った。馬謖はつまらなそうな顔をしながらも、楊儀の衣服についた埃を払って見せた。
「それでいい。話は後でしっかり聞いておこう。それで良いか」
そう言われ、うやうやしく拝礼した。こんな場所からは、早く離れてしまいたい。
「突き飛ばして悪かった。力み過ぎているのは、俺の方かもしれないな」
と言いながら、馬謖は笑った。わざとらしい笑みだったが、楊儀もそれに合わせて笑ってみせた。
「それでは、失礼させて頂きます」
「待て」
出て行こうとすると、引き止められた。
「もう一度言うが、あの女は自らの意志でここに来たのだ。それを決して忘れるな」
馬謖の笑っていた顔が、さっと冷たくなった。楊儀はもう一度恭しく拝礼し、その場を後にした。
黄襲は自分と同じくらいの年齢で分別もあり、兵糧分配の説明をするとよく聞いてくれた。軍の強さとは馬謖のような男にあるのではなく、こういう篤実な男にあるのだ。終わると、すぐに自分の幕舎へと戻った。
なぜあのような男が国の要職に就けられているのか、楊儀は不満に思った。しかしそういった不可解なことが起こるのが、組織であった。傭兵部隊の時ならまだしも、一国という大きさまでになると、ああいった男を使わなければいけなくなる事情も出てくるのであろう。仕方のないことなのだ。楊儀は自分にそう言い聞かせ、納得しようと努めた。
今日のことは、丞相に言上すべきであろうか。楊儀は寝台に身を横にして考えた。さっき見た女のことが明るみに出て馬謖が罰されることとなれば、蜀軍の進攻は停滞するであろう。もしそれを諸葛亮が嫌えば、獄に落とされてしまうのは自分かもしれないのだ。下手をすれば、さっき言われた通り殺されてしまうかもしれない。楊儀は南征直前に行われた蜀軍演習の噂を思い出した。王平が勝ち馬謖が負けたが、それを諸葛亮が引き分けとして裁いたという噂だ。その噂が真実なのであれば、自分は口を噤んでいるべきであろう。諸葛亮の馬謖への溺愛が、時として屈折した愛情に見えるのは自分だけなのだろうか。
「くそったれ」
楊儀はそう呟き、寝返りをうった。すると、さっき蹴られた左肩に痛みが走り、舌打ちをして右に寝返りをうちなおした。
3.夏候楙と司馬懿①
行き交う人々の言葉が微妙に違う。これが長安に来て一番に気付いたことであった。句扶はその身を商人にして李栄という偽名を使い、魏の領土であり涼州の要となるこの大都市に潜入していた。ここでの目的は、長安の軍勢を調べ魏の人物を知ること。そしてできれば長安太守である夏候楙に近づきたかった。
長安の市場は住民に開放されているものとは別に、ここでの兵しか買い物ができない税が格段に安い軍市が開かれている。商人の数も半端なものではなく益州から物資を仕入れている商人もいて、句扶は怪しまれることなく蜀から送られてくる物資で商いをしていた。
南では蜀軍が勝ちを重ねているようで、犀の角や象牙などの珍しい物資が送られてくるようになった。それらを一度に売り捌いてしまうとさすがに怪しまれてしまうので小出しにし、且つ長安の役人の目につくような売り方をした。大きな怪しまれ方ならいきなり捕縛されてしまうかもしれないが、小さな怪しまれ方なら歓迎である。それがきっかけとなり、長安内部へと入り込めるきっかけとなるかもしれないと踏んだからだ。
半年も南方の特産物を売っているとさすがに李栄の名が広まるようになり、役人から取り扱っている物資について事情を聴きたいという呼び出しを受けた。句扶はその役人にうろたえたような顔を見せたが、内心ではほくそ笑んでいた。
長安城郭へは、南方特産物で満載にした荷車一台と共に向かった。ここでの権力者へと賄賂を贈る小心な商人を演じるためである。城郭内のさらに内の城郭に備え付けられた小さな門をくぐり、政庁へと向かった。句扶は歩きながら、見えるもの全てを頭の中に叩き込んだ。後ろからは句扶と同じく商人に扮した数人の部下が荷車を押してがらがらとついてきている。
政庁内はさすがに古都と呼ばれているだけある豪奢なもので、成都のそれとは比べものにならないくらい派手であった。
政庁内に入ると、眼光の鋭い文官が句扶の前に立った。
「お前が李栄か」
句扶はその場にひざをつき、恭しく拱手して頭を下げた。そして、おびえたような声で返事をして見せた。
「李栄、顔を上げろ」
言われて、その通りにした。その眼光鋭い男はじっと句扶の顔を見つめてきた。恐らく、顔を覚えようとしているのだろう。
部屋の奥が開いた。句扶が入っていたところから反対に位置する扉から、一人の男が眠そうな顔をして入ってきた。
「おい、弱い者いじめをするなよ、司馬懿」
聞いたことのある名だと思った。確か、税の安い軍市を考案したのは司馬懿という文官だったはずである。
「あなたが司馬懿様でございましたか。あなた様のお蔭で我々商人共は大きな利を上げさせて頂いております」
「そうか。それは良いことだ」
奥から入ってきた男が、台座に腰をおろしながら言った。司馬懿はこちらにじっと鋭い視線を向けたまま、その男の隣に立った。
「私が長安太守である、夏候楙という」
句扶はおびえたふりをして身を縮めた。ここが正念場である。
「商人のすることにはあまり干渉したくはないのだが、この司馬懿がどうしてもと言うのでな」
夏候楙が続けて言った。そして司馬懿が一歩前に出た。
「お前の扱っている品物は、南蛮から蜀を通ってくるものだと聞いている。間違えはないか」
「はい、ございません」
句扶は頭が地につく程に礼をして答えた。
「その入手経路について教えてもらおうか」
言われて、句扶は淀みなく物資の入手経路について答えた。諸葛亮から送られてきた書簡に書かれてあった通りの経路である。そこに、落ち度はないはずだ。
「見たことか司馬懿。李栄はただの商人ではないか」
それでも司馬懿は、すぐにそれを良しとしようとはしなかった。
「ここ長安の市場でいつも商いをさせて頂いているお礼と言っては何ですが、南方からの特産物を納めて頂きたく、これをお持ちしました」
後ろから、部下が二つの木箱を持って前に出た。
「ほう、それは特殊なことだ」
眠そうな夏候楙の目が、ぱっと見開かれた。
「もうよいであろう、司馬懿。下がっていろ」
そこで初めて司馬懿は鋭い眼をやめ、困ったような顔をして見せた。
「しかし」
「下がっていろと言っているのだ。二度も同じことを言わせるな」
不仲なのか。そう思い、句扶はその二人のやり取りを見ていた。司馬懿はまだ何かを言いたそうだったが、夏候楙に手を振られてようやくその場から立ち去った。句扶の体から、緊張が解けた。
「悪いな、李栄」
夏候楙の眼は、まるで子供のようにらんらんと輝き、これから献上される木箱の方に目をやっている。
「私は徳の人でありたいのだ。こうやって人を疑うような政治など、本当はしたくはないと思っている」
すかさず句扶は木箱を前に出して蓋を開いた。中には象牙でできた装飾品や孔雀の羽、強いにおいを放つ麻が入っている。
「これは珍しいものを。誠にありがたい」
そのらんらんと輝く眼は、麻に向けられていた。なるほど、夏候楙とはこういう男か。
「南方で採れる麻は良質なものが多く、これを麻沸散に加工すれば大変有用なものになると評判がよろしゅうございます」
麻のことに触れたのが多少気に障ったのか夏候楙は少し嫌な顔をした。しまった、と句扶は思ったが、夏候楙はすぐに笑みを戻して言った。
「我々魏軍は、いずれ蜀軍とぶつかることとなる。医療品として麻は、たくさんあって困ることはないであろうな」
夏候楙は眼を空中に泳がせ、一人言でも呟くように言った。
「恐れながら、太守様のお蔭で私は利を貪らせて頂いております。もし必要なものがございましたら、全力をもって献上させて頂きます」
「何を無茶なことを言う。お前の大事な売り物を黙ってもらうようなことはしない。さきほども言ったが、俺はここで徳の将軍となりたいのだよ。よろしい、良質の麻があれば買い取ろう。こういうものが民の間に出回り過ぎるのは、私にとって喜ばしいことではないからな」
「ここに持ってこさせて頂いた荷は、ほんの一部でございます。外には南の特産物で満たされた荷車をお持ちしましたので、どうぞお収め下さい」
「李栄、私はそんなことが目的でお前を呼び出したのではないぞ」
「長安で商人が良い商いができるのは、太守様のお蔭です。賄賂を贈ろうなんてつもりは毛頭ございません。これは良い商いの場を与えてもらっているということに対する、当然の礼でございます。この品がここ長安のためとなるのであれば、喜んで献上させていただきます」
「商人は利を上げることばかり考えているのかと思っていたが、お前のような商人もいるのだな。そこまで言ってくれるのであれば、ありがたく受け取ろう。何か、望みがあるなら言え」
「望みなどはございません。ここで望みを言ってしまえば、今日献上させていただく物品が全て賄賂となってしまいます」
「気に入ったぞ、李栄。これから商いをする上で何か困ったことがあれば、いつでも私のところにくればいい。それくらいなら、良いであろう?」
「ははっ」
句扶は身を低くして答えた。
それからしばらく、蜀国内のことについて少し聞かれた。蜀の人口や物品の相場などではなく、女や風景や音楽のことについてである。蜀の食べ物について夏候楙は詳しく、辛いものが食べたくなれば成都から来た料理人につくらせていると言った。乱世の大都市を任されている太守の話としては、あまりに他愛ないものであった。句扶はその話の一々に笑顔で頷いて見せた。その話の間、夏候楙はどこかそわそわしているように見えた。恐らく、早く南蛮の麻を試してみたいのであろう。
思っていた以上に上手くことを運べた。ここの太守は御し易く、長安に益のある義商としてここでの出入りすら許された。だがあの司馬懿という男には注意が必要だと句扶は感じていた。あの猜疑の眼は、彼が優秀な文官である証拠である。
そんなことを考えながら政庁から大手門への道を帰っていると、突然声をかけられた。政庁から門へと続く石畳の上である。
「御苦労であった」
司馬懿である。句扶は身を縮めてそちらに拝礼した。
「ところで李栄よ、こちらを見てみろ」
「はい」
言いながら、顔を上げた。司馬懿がじっとこちらを見つめてきた。何かを探ろうとしている、攻撃的な視線である。
「何故お前は、軍市をつくったのが私だと知っているのだ」
句扶は一瞬、背が粟立つのを感じた。いや、それを知っていたところで何の不自然もあいはずだ。現に、それを知っている商人に会ったことがある。間者などではない、普通の商人である。
「それはもう、商人の間では持ちきりの話でして」
かまをかけられた。言った後で、はっきりとそう感じた。
「そうか」
一瞬見せた焦りを読み取られたのか、司馬懿はにやりとして見せた。やはりこの男は、油断がならない。
「もう行っていいぞ」
そう言われ、句扶は内城から逃げるようにして出て行った。収穫もあったが、眼をつけられもした。その証に、街中を行く句扶の背後から誰かがつけてきている気配を感じた。恐らく司馬懿の手の者であろう。
刺すような視線を感じながら、句扶は自分の屋敷へと帰った。その視線に気付いたということは、絶対に表に出してはいけない。何故ならば、それは普通の商人には決して察することのできない程度の気配だからだ。
4.夏候楙と司馬懿②
高価な着物に袖を通し、帯を締めた。はじめは着ていて違和感があったが、今ではすっかり板についてきた。今日も、長安太守府へと出仕する。夏候楙に南で採れる上質の麻を献上するためである。その代わりに、市場で最高の場所で商売をできるよう夏候楙に頼み込んだ。そう頼んだのは稼ぎたいからでなく、それが商人として自然な姿だと思えるからだ。夏候楙は、それを二つ返事で了承してくれた。それほどに句扶が献上する麻にのめり込んでいるということだ。そして長安で得た金と情報は、全て諸葛亮のもとへと送った。
「太守様、また南より最上の麻が届きましたのでお届けに参りました」
夏候楙は長安の太守としてそれなりに忙しいようではあったが、句扶が会いに行くと顔を綻ばせて会ってくれるのであった。
「いつもご苦労、李栄。商売ははかどっているか」
「それはもう、太守様のお蔭でそれは大いに繁盛しております」
夏候楙は徳の将軍を目指していると言っていたが、この男は根本的なところでそれを勘違いしているようだった。下々の者を思いやることは太守として大切なことなのだろうが、厳しさが一片もなかった。厳しさがなければ、それにつけいって調子に乗るのも民の一つの姿であるのだ。そして最近は女に溺れているという噂も聞く。これでは徳の将軍でなく、ただの怠け者である。
句扶の狙いはそれであった。夏候楙の麻好きを見抜き、麻を送り続けることにより長安を内部から崩していく。夏候楙に麻を与え始めてから、軍の方にも緩みが見えるようになってきたと部下からの報告があった。大きな緩みではなく、例えば調練の時間が少し減るなどといった小さな緩みである。こういった小さな綻びが、やがて大きな破れになるのだ。
こういった中で、句扶側に問題がないわけではなかった。司馬懿という男である。司馬懿の手の者であろうと思われる監視者の視線は常に感じていた。それも、極めてさりげない監視の仕方である。ただの商人がそれに気づくはずもないので、句扶はそれに気づいていないふりをすることに注力した。少しでも気付いた素振りを気取られれば、何かを口実に捕縛されることも十分にあり得るのだ。それは、かなり神経を使う仕事であった。
例えば仕事帰りの夕暮れ、薄暮れの中を歩いていると闇の中から数人の男が歩いてくる。いずれも見た目は普通の通行人である。その通行人は何人かで句扶を囲むようにして歩を進めて来て殺気を放つ。それに応じてしまえば負けであった。句扶はその殺気に対する緊張感を隠しながら、平常を装って歩いた。自分はただの商人なのである。しばらく歩くと殺気は消え、通行人は消えるようにして去っていくのであった。司馬懿からの、明らかな挑発であった。その挑発に乗ってはいけない。そう言い聞かせながらも、句扶は危機感を募らせた。
時に自室で寝ていると、外で誰かが動く気配を感じることがあった。外で何かをしているのではなく、ただその気配をこちらに放っているだけである。厠に行くふりをして外に出ると、その気配は霧のように消えるのであった。句扶はそんな監視の中で必死に一人の商人を演じ続けなければならなかった。そんな忍びを使っている司馬懿を恐れもした。この男が長安にいれば、それはいずれ蜀が進む道の障害となるのではないか。
司馬懿をこの世から消す。そう思ったことは一度や二度ではない。しかし近づこうにも近づけず、夏候楙に会う時すらその姿を見ることはなかった。姿は見えないが、その視線は常にどこかしらにあった。句扶はそれに対して、ただの商人を演じることでしか対抗できなかった。
太守府から自宅へと帰る道中、市中にひとだかりができていた。そちらに行ってみると、首が一つ晒されていた。「長安で反乱を企てた者」と立札には書いてあった。また少し行くと同じように首が晒されてあり、同じことが書かれた立札があった。そうして太守府から自宅まで点々と五つの首が晒されてある。広い長安城郭内で、太守府から自分の屋敷への道筋に狙ったように置かれているのだ。明らかに司馬懿からの差し金であった。部下に探らせてみると、それらの首は呉からの間者のものであった。「お前もいつかこうしてやる」そう言われているのだ。だが長安から逃げ出すわけにはいかない。
そうやって圧力をかけてくる司馬懿に反し、夏候楙はあくまで自分に好意的であり、呼び出し回数も増えていた。その度に句扶は上質の麻を持参し、時にはそれを一緒に吸って食事をすることもあった。ただの一商人と仲良くするという太守の有り様に、夏候楙は酔っているようであった。
「太守様、実は聞いて頂きたいお話がございまして」
そう切り出したのは、ある日の食事の席である。
「どうした、李栄」
「大変申し上げにくいことではあるのですが」
「何を水臭いことを。俺が民の声を無視するような太守に見えるか」
夏候楙は得意満面に言った。
「それでは申し上げさせて頂きます。私がここに麻を持ってくることに、少なからず不快感を示しておられる方がいるように思えまして」
それを聞いた夏候楙は、難しい顔をして酒をぐいっと呷った。
「司馬懿のことか。それは俺も前から薄々と感じてはいた」
俺はよく知っているだろう。その声には、そんな響きが含まれていた。
「あれは非常に優秀な男なのだがな、少し疑いすぎるところがある。麻のことではなく、お前を間者ではないかと疑っている。そういうことであろう」
句扶は身を縮ませて頷いて見せた。
「言っておくが俺はお前のことを疑ってはいないぞ。蜀の間者なら南の物産を扱う商人でなく、別の形で潜入してくるだろう。蜀の間者が蜀から物資を仕入れくる商人になるなんて、そんな単純な話があるか」
それが、あるのである。
「私もそう思います」
「そうであろう。よし、司馬懿には俺からよく言っておこう」
「ありがとうございます」
ちょろいものであった。所詮、貴族のぼんぼんはこの程度なのだろう。
それからしばらくの間、司馬懿の手の者と思われる影を見ることはなくなった。そして仕事が以前より格段に増してやり易くなった。だがこれで司馬懿が完全に手を引いたとは思わない方がいいだろう。泳がされているかもしれない、という疑念は絶えず持っておくべきであった。どこで蜀の間者だという証拠を掴まれるか分からない。また、どういう証拠をでっちあげてくるかも分からない。決して気を抜くことは許されない。
句扶はふと市中で晒されていた首を思い出した。ああなって死ぬことは怖くない。怖いのは、仕事ができないと評価され、後ろ指をさされることだ。仕事ができずに捨てられれば、また昔のように一人になってしまうではないか。そんな風になってしまうくらいなら、死んだ方がましである。
5.句扶対司馬懿
その日も太守府に麻を持っていくと、夏候楙から意外なことを言われた。司馬懿が、句扶に謝罪をしたいのだというのだ。謝罪だけでなく、自分にも麻を売ってほしいとのことであった。夏候楙はその話を、麻を吸いながら嬉しそうに言った。不仲であったがようやく仲直りした、とも言っていた。そんなバカな話があるか。恐らく夏候楙は司馬懿に言い包められたのであろう。今まで散々に挑発してきた司馬懿が、自分のことを諦めるなどあるはずがない。
句扶は後悔した。自分の後ろ盾は夏候楙という愚昧な男しかなかったのだ。他に何か、自分を守るものを用意しておくべきだった。しかしあまりに多くの情報をここで得ることができるので、それが句扶の判断を鈍らせたのであった。
「司馬懿は何かと忙しい。明日にでも、あいつの屋敷に行ってやってはくれまいか」
夏候楙の口ぶりは、いつもに増して上機嫌である。断ることはできそうになかった。句扶は自分の屋敷に戻り、部下と話し合った。
長安から脱出するか。そう思ったが、長安の城門はすでに司馬懿の手の者によって監視されていると部下が知らせてきた。
正に袋の鼠である。こうなることが何故予測できなかったのか。だがこれは考えようによっては司馬懿を討つ千載一遇の機会かもしれない。そう思いはしたが、それを準備する時がなさ過ぎる。
句扶は寝台に横たわり、考えた。理由もなく俺のことを殺せば、司馬懿もただではすまないだろう。では司馬懿は、何をもってして俺のことを殺そうとしているのか。それを防ぐためには、どうすればよいか。
決定的な手を見つけられないまま夜が更け、明けた。一睡もすることはできなかった。
約束の時刻が迫っていた。こうなれば、殺されてしまえ。ただ殺されるのではなく、司馬懿を潰せるくらいの最高の死に方をしよう。句扶は腹をくくり、真新しい上等の着物を身につけた。着物の下には、山岳戦で使う短剣を忍ばせた。
日が昇ってくると、司馬懿のもとから迎えがやってきた。どう見てもただの使用人ではない、顔こそにこやかではあるが隙のない男であった。もう逃げられないぞ。そう言われているようであった。
外に出ると長安の街は相変わらず活気に満ちていた。句扶は先導する男と歩きながら、先日見た晒し首を思い出した。俺もあのようになるのか。死ぬことは怖くない。ただ殺される間際になれば、少しは恐怖を感じるのだろうかと思うだけだ。それよりも怖いのは、ただ犬死にしてしまうことである。
総勢で十四名の部下には、すぐに長安から抜け出すよう命じておいた。その中の何人が無事でいることができるのか、句扶にはわからなかった。
高い塀に囲まれた司馬懿の屋敷が見えてきた。賑やかな街並みの中で、そこだけが不気味に静まり返っていた。
「李栄でございます。この度はお招きいただきまして、誠に恐悦至極に存じます」
屋敷内の客間である。周りからは、姿を見せぬ司馬懿の手の者からの視線が痛いほどに伝わってきた。
「こちらから出向くべきところを呼び出してしまい、申し訳ない。私も何かと忙しい身でありましてな」
初めて会った時の鋭い視線とは違う、温かい笑みをもって出迎えてくれた。余裕に溢れた笑みだ、と句扶は思った。
司馬懿の着物は所々が妙に膨らんでいて、その下に甲冑を身に着けていることが目に見えてわかった。そして隣には、護衛の大男がぴったりとついていた。腕が立つ男だということは、一目見てわかった。
句扶は持ってきた木箱を司馬懿の前に差し出した。
「司馬懿様にお近づきになれるとは、商人である私にとって最高の喜びでございます」
句扶は平伏して言った。
「もうよいであろう、李栄。いや、句扶」
やはり全てはばれていた。それも自分の名まで知られているとは、やはりこの男はただ者ではない。刺し違えてでも、ここで殺しておくべきだ。しかし、隣の護衛が一分の隙も見せてこない。
「はて、句扶とは何のことでしょう」
句扶はとぼけた。とぼけ通すことだけが、句扶のできる唯一の抵抗であった。
「お前はよくやったよ。俺からの挑発にも、よく耐えた。もう楽になりたいであろう」
「挑発とは何のことかよくわかりませんが、前から司馬懿様には麻のことで睨まれていたことは存じております。しかしこうしてここに招かれるようになろうとは、私は幸せな商人でございます」
句扶は頭を下げたまま言った。
「ふん、まだ言うか。それより句扶、俺の下で働いてみないか。お前ほどの者なら、高禄で召し抱えてやってもよい。蜀の情報を私の元へと持ってくるのだ。働きによっては、官位を得ることも夢ではないぞ」
ふざけるな。句扶は心の中で呟いた。裏切るくらいなら、ここで殺されてしまった方がましだ。有能とはいえ所詮はこの男も文官である。身を切らせながら働く男の気持ちなど、わからないのであろう。
「長安政府に召し抱えられる商人になれということでございましたら断る理由はございません。私の持ち得る蜀の情報とは、彼の地の物価でしかありませんが、それでよろしければ」
「痴れたことを、全く強情な奴なのだな」
司馬懿の口調から緊張の色が薄れていることを、句扶ははっきりと感じた。既に勝ったつもりでいるのであろう。
「本日は、麻の取引にということで参りました。この箱の中身を御覧下さいませ」
「あくまで商人ということを貫き通すか。ますます気に入ったぞ、句扶。よかろう、では箱を開けてみよ」
言われて句扶は、木箱の紐を解いて箱を開けて見せた。
下げた頭の上で、司馬懿の顔が歪んだのが見てとるように分かった。箱の中には麻でなく、犀の角と象牙を一本ずつ入れておいたのだ。
「ふむ、そうきたか」
司馬懿が大きく唸った。
「ここでお前を捕えれば、俺の名は失墜するな」
箱の中身を間違えただけで一商人を捕縛した。世はそう取るであろう。そして夏候楙は、それに激怒するに違いない。なにしろ、自称徳の将軍なのだ。
「お前のことだ、ここで俺がお前を殺すことも想定して、手を打ってあるのだろうな」
手は何も打ってはいなかった。何しろ部下を解散させた後で思いついた苦し紛れの策なのだ。ただ、司馬懿はそう予測してくるだろうとは思った。
「これは司馬懿様、私としたことが持ってくる箱を間違えてしまいました。すぐに自宅に戻り麻を持って参りますので、どうかご容赦を」
句扶は全力で慌てふためく商人を演じた。苦しい策だとは思っていたが、意外と効果があるようであった。やはりこの男は、こんなことで躓くことを肯んじない、自尊心の強い男なのだ。
「これは一本取られたな」
司馬懿は声を上げて笑った。この男も、こんな風に笑ったりするのか。
「よかろう、では帰って麻を持って来い。その時にお前がどう出るか。とくと見させてもらうぞ」
そう言い残し、司馬懿は奥へと入っていった。司馬懿の手の者五人に囲まれて屋敷を出た。そしてその周りには、姿を見せない者が何人も潜んでいる気配があった。
自宅に戻ると、家を空けている間に来客があったことを使用人が伝えてきた。間者としての部下ではなく、長安で雇った市井の者である。来客のことなど構っている暇はなかった。どうすればこの場を切り抜けることができるのか、屈強な男に囲まれながら考えに考えた。
句扶は司馬懿の手の者に囲まれながら、自室へと戻ってきた。麻の入ってある箱はそこにある。句扶の後ろには見張りが三人、ぴったりと付いている。
「この箱に、麻が入っております」
「よし、空けて見せてみろ」
句扶は怯えた商人を装いながら、その箱を見張りに渡した。三人の注意が、箱に向けられた。
すかさず、思い切り蹴り上げた。句扶の小さな足が目の前の男の股間に鋭くめりこみ、男はうめき声を上げて膝から崩れた。もう一度、蹴り。今度は敵にでなく、柱だ。すぐに部屋の天井が崩れ、大きな音と共に部屋全体が崩れた。こういった時のため、この部屋は柱を一本倒せば崩れる仕組みにしていたのだ。句扶は鉄製の卓に身を滑らせ、懐に忍ばせてあった二本の短剣を抜き取った。粉塵が上がり落ちてくる瓦礫が句扶を隠す卓を包んだ。
見張りの三人は倒した。あとは屋敷を囲う者達である。一人、二人、瓦礫の周りに気配が近づいてくる。句扶は短剣で自分の頭を少し切りその血を腕につけて瓦礫の隙間から覗かせた。それに気付いたのか、句扶の周りから瓦礫が取り除かれ始めた。
句扶は全身の神経を研ぎ澄ませた。近くに五人。これなら抜けられる。句扶は腕を引込め、二本の短剣を低く構えた。
目の前の大きな柱がどけられた。瞬間、句扶は飛び出した。二振り、一人の首が血を噴き、もう一人の目を払った。そして、走った。
不意を突かれた残りの二人が句扶を追い始め、見張り三人を助けようとしていた者もそれに続いた。句扶は市中を走りながら追手を数えた。七人。周りの市民は何事かとこちらを見ている。
「そいつを捕えろ」
背後からの怒声。それに反応した市中の男が数人、句扶の前に立ち塞がった。
どけ。お前らには関係の無いことだ。伸びてくる数人の腕をかわし、走った。
「そいつを捕まえれば褒美がでるぞ」
その声で、また数人が立ち塞がる。形振り構っているゆとりはなかった。一人、二人、短剣で突いた。急所こそはずしたが、できれば避けたいことであった。だがこれで、野次馬は下がる。そしてまた、走る。後ろとの差は詰まってきている。また、立ち塞がる男。
「どけ、殺すぞ」
だが男は下がらない。句扶は短剣を突き出した。だが、短剣は空を斬った。しまった。そう思った時にはもう地面に転ばされていた。男は野次馬の一人ではなく、追手の一人であった。
追手が、句扶の周りに人垣を作った。句扶は立ち上がり、二本の短剣を両手に身構えた。いつの間にか追っての人数は十を越え、句扶を囲んだ。人の輪が、じりじりと狭まってくる。ここまでか。自裁の二文字が頭をよぎった時、敵の一人が倒れた。囲いが崩れ、二人、三人と倒れていく。何が起こった。そう考える前に、体がそちらの方へ動いた。
「句扶」
「兄者、何故ここに」
言いながら、二人を倒した。王平の他に、若い句扶くらいの小柄な男もいて、鮮やかに敵を倒していく。三人は囲いを脱し、走った。
「どけ、どけ」
短剣を片手に怒声を飛ばすと、野次馬が開けて道ができた。
「兄者、城内へ」
そう言い、走りに走った。追手は来るが、道を塞いでくる者はもういない。
夏候楙がいる太守府が見えてきた。幸い、門衛は句扶と顔見知りである。
「いかがなされました、李栄殿」
「説明している暇はない。早く夏候楙様に会わせてくれ」
門衛は頷き、句扶と王平の二人を素早く門内へと入れて門を固く閉じた。外からは、門衛と追手が言い争いを始めた声が聞こえてきた。
助かった。句扶は呼吸を整えながら、顔を知った者を見つけて水を無心した。
「兄者、ここでの私の名は、李栄です」
声は出していない。唇の動きでそれを伝えると、王平は頷いた。
「お怪我をされているようですが、大丈夫ですか」
水を渡されながら言われ、句扶は頭から血を流していたことを思い出した。血は既に止まっているが、句扶の体の所々がその出血のせいで赤く染まっている。
「怪我は大丈夫です。それより、太守様に」
二人は城内へと通され、すぐに夏候楙と対面することができた。
「どうした李栄、血だらけではないか」
夏候楙が句扶を認めると、走り寄って句扶の手を取った。
「司馬懿様の手の者に追われました。どうか、どうか御慈悲を賜りたく、勝手ながらここに逃げ込んでまいりました」
夏候楙の顔に、激情の色が浮かんできた。
「そういうことであったか。よくぞ生きていてくれた。それで、その者は」
「私が雇っておりました、護衛の者でございます」
「よくぞ李栄をここまで送り届けてくれた。お前らには後で何か褒美を取らせよう」
そう言う夏候楙に、王平と趙広は頭が地につくほどに平伏しながら言った。王平はそんな趙広の演技を横目で見て、内心くすりとしていた。
「ほとぼりが冷めるまで、二人はここにいるんだ、いいな。お前らは必ず俺が守ってやるから、安心するがいい」
「夏候楙様」
句扶は目に涙を溜めさせて言った。そんな句扶の態度に満足したのか、夏候楙は自ら三人を先導し、客室へと案内した。句扶はさすがに疲れたのか、寝台にどっと身を横たえさせた。
「信頼されているんだな、句扶」
「ここの太守夏候楙は麻が好きなので、そこに付けいっておりました」
通された客室には見張りすら立てられていないようだったが、句扶らは極力小さな声で話した。
「甘いのだな、ここの太守は」
「それはもう、かなり。ところで兄者は、何故ここへ」
「お前の仕事を手伝うように言われて来たのだ。それが、まさかこんなことになるとはな」
そういえば、屋敷の使用人が客が来たとか言っていた。あれは、王平らのことであったか。
「助かりました。私は、自分の首を切ることすら考えていました」
「そんなことを簡単に言うな、句扶。しかしあの状況ならそうも思うか」
「して、その者は?」
「ああこいつはな、趙雲殿の次男で趙広という。まあ、俺の弟子のようなものだ」
趙広は突然訪れた実戦で気が立っているのか、これまで何も喋らず肩を震わせていた。
「礼を言うぞ、趙広。人を殺めたのは初めてか」
「はい」
趙広ははっとして、震える手を後ろに隠しながら答えた。
「ははは、そうなるのも無理はない。俺も初めて人に手をかけた時は、そうなったものだ」
王平が趙広の肩に手をかけながらそう言うと、それでいくらか緊張が解けたのか、強張った笑みを見せた。連れてきて良かった。それを見て、王平はそう思った。
「兄者」
句扶は思いつめた顔をして言った。
「なんだ」
「このまま黙っているわけにはいきません。司馬懿の首は俺のこの手で取ってやりますよ」
「どうやって」
王平は困った奴だという顔をして言った。
「それは」
「句扶、もう蜀に帰るぞ。俺がここに来たのは、お前を蜀に連れ戻すためでもあるのだ。丞相も、句扶は十分に働いてくれたと言っていた」
句扶はぐっと拳を握った。ここまでやられていて、おめおめと蜀に逃げ帰るわけにはいかない。
「兄者、もう一手なのです。もう一手で、長安は内部から崩れるはずです」
「だから、次のその一手はなんなのだと聞いている」
句扶は黙った。突然の襲撃直後である。次の手などまだ考えているはずもない。しかし、これで夏候楙と司馬懿の不仲は決定的なものとなるはずだ。言ってみれば、これからが勝負ではないか。
「句扶」
王平の優しい目がみつめてきた。
「お前、熱くなっていやがるな。隠密がそう熱くなってどうする」
熱くなっている。言われて、句扶は大きく息を吸い、小さく笑った。
「お前はよくやった、句扶。これから蜀と魏で大きな戦が始まる。その時に、お前の力が蜀軍には必要なのだ。後の長安のことは、他の者に任せておけばいいさ」
「他の者に、ですか」
「手柄などそう焦るもんじゃない。命を失ってしまえば、立てられる手柄も立てられなくなるぞ」
「私は手柄を焦っているわけじゃありません」
「なら、もう帰ってもいいだろう。帰って少し休もうではないか。それでもお前がここに残ると言うのなら、俺も帰れないな。長安で死ぬというのなら、俺も付き合おうぞ」
句扶はうなだれた。ここまで言われてしまえば、帰るという他ないではないか。
「じゃあ、帰ろう」
句扶は頷いた。それを見た王平も満足気に頷き、部屋の灯を消した。
「寝よう」
「今晩は、私が見張りに起きています」
趙広が言った。
「よし、では見張りはお前に任せよう」
王平はそう言って、寝台に身を潜り込ませた。恐らく趙広は、今晩は寝ろと言っても寝付けないであろう。
暗くなった部屋の中で、句扶も寝台に身を入れた。久しぶりの、監視の無い寝床である。句扶の体から、張りつめていたものが徐々に抜けていく。その感覚が句扶には心地良かった。
「兄者、助けていただいた礼がまだでした」
「礼など、生きて帰って戦場で返せ。それまでしっかり休んで、力を蓄えておくことだ」
すると間もなく、王平が寝息を立て始めた。
昔から、人から優しくされることが苦手だった。全ての優しさには裏があると思っているところがあり、優しくされてもそれを素直に受け入れることができなかった。だが王平の言葉に、裏があろうはずがなかった。
この世に生まれ落ち、心から信頼できる人に巡り合うことができるのは、どれほどの確率なのであろうか、と句扶はふと思った。利害に左右されることなく、自分のことを助けてくれる人のことだ。百人いたとして、その内の十人もそれに恵まれることはないであろうという気がする。
ありがたい。本当にありがたいことなのだ。句扶は寝台に顔をうずめ、蜀へと帰ることを自分の中で納得させた。
6.漢中会議
雲が厚く空気が身を切るほどに寒い中、王平は調練場の櫓に立って続々と成都からやってくる兵の行列を眺めていた。いよいよ、魏攻めが始まる。全ての兵士が駐屯地に収容されると、諸将が集められて軍議が開かれた。中央に諸葛亮が、その右隣に馬謖が侍り、左には蜀軍総帥である趙雲が座っている。蜀軍は十万の兵をもって北へと進攻すると公表していたが、その実の兵力は六万程度であった。
魏の兵力は二十万だと言われていたが、これも誇称した数であることは句扶の諜報によってわかっていた。長安の常駐部隊が七万、洛陽からの援軍が五万、そして西方の羌からも五万が駆り出されるという情報が入っている。
「司馬懿が、失脚した」
おお、というどよめきが、一同から上がった。長安太守夏候楙からは疎まれていた司馬懿であったが、蜀の諸将内での彼の評価は高かった。これは句扶が送ってくる情報を元に、諸葛亮という蜀の頭脳が分析した結果である。
句扶がいかに良い仕事をしたかということを、王平はこの場で初めて認識した。
そして、魏延や王平らが気になっていた、どの経路から長安を攻めるかという発表である。
「我々は、斜谷道より攻め入る」
子午道は険しい近道で、箕谷道は楽な回り道である。その中間の斜谷道を取るのは順当であると、王平には思えた。隣にいる魏延は、子午道論者であった。
「丞相」
案の定、魏延は立ち上がって王平にいつも言っていたことを論じ始めた。やめておけばいいのに。王平は隣にいながらそう思った。諸葛亮も彼なりに考え抜き、斜谷道を選んだのだ。そうそう簡単に意見を変えないだろう。
「魏延」
しつこく論じ立てる魏延に、趙雲の大音声が放たれた。魏延の大きな体が縮こまった。この男でもこのようになることがあるのか。
「貴様はこれから国を上げての大事業をしようというのに、我が軍の秩序を乱そうというのか」
「申し訳ありません」
魏延が、蛇に睨まれた蛙のようになって座った。
そして、細かい部署が発表された。王平は魏延と共に、諸葛亮率いる本隊に属することとなった。趙雲と鄧芝は、別働隊を率いるのだという。
発表が終わり、諸将は解散となった。あとは進発の日が来るまで、成都から来た兵を交えて調練に明け暮れることとなる。
調練場へと足を運ぼうとした魏延と王平のところへ、一人の文官がやってきた。文官嫌いの魏延は露骨に嫌な顔をした。ただでさえ、先程の一件で機嫌が悪かったのだ。
「なんだ」
「趙雲将軍がお呼びです。すぐに向かわれるよう」
「だから、何の用だと聞いている」
多分、趙統と趙広のことについてだろうと王平は思った。魏延もそのことは分かっているであろうが、こういう時の魏延は意地が悪い。
「何打と言われましても、私は呼んで来いと言われただけで」
「言われたことしかできないのが文官だ。俺らはこれからお前らの言葉に従い、お前らの代わりに戦場で命を張るのだ。そのことを、よくよく心得ておけ」
そう言い残し、魏延は肩を怒らせながら歩いていった。
「すいません、悪い人ではないのですが」
閉口するその文官を気の毒に思い、王平は声をかけた。
「これだけの人数がいるのだ。ああいう者がいるのも、仕方のないことなのかな」
「それでも、軍人が皆ああいった人なわけではありません」
王平は慰めるように言った。
「私は王平といいます。あなた様は」
「私は楊儀という」
「これから長い戦陣になるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
そこでようやく、その楊儀と名乗った男は笑みを見せた。
「こちらこそよろしく。さあ、趙雲将軍がお待ちだ」
王平は頷き、魏延の後を追った。
趙雲は簡素な椅子に座って腕を組み、二人を待っていた。その身辺に華美さはなく、王平はふと魏の猛将張郃のことを思い出した。
「おお、よく来てくれた」
趙雲は立ち上がって二人を迎え入れてくれた。軍の総帥といえど、意外と謙虚なところがあるのだと王平は思った。
「統と広のことは聞いている。二人共、感謝しているぞ」
王平が平伏しようとすると、趙雲はそれを気さくに止めてくれた。
「聞いているって、まだ会いに行ってやってないんですかい?」
「私も軍を統べる者として、色々と忙しいからな。なかなかそうもいかんのだ」
先程の会議で魏延は趙雲に怒鳴られはしたが、二人の間にそれほどの堅苦しさはなかった。なるほどこういうところに蜀軍の強さはあるのかもしれない。
「なんなら、今から二人を連れてきましょうか」
魏延がそう言ったが、趙雲は首を横に振った。
「成都の将兵は、家族を残してここに来ている。私だけ特別なことをするわけにはいかない」
「そういうものですか。あいつらかなり頑張っていますよ。ちょっとくらい会ってやってもいいと思いますがね」
趙雲はそれにほほ笑みをもって返した。王平はそれだけで、この将軍に好意を持ち始めていた。
「それよりもな、もっと大事な話だ」
趙雲は卓の上に地図を広げた。
「さっき、丞相は斜谷道に兵を進めると言ったろ」
二人は頷いた。
「あれはな、敵の眼を欺くための嘘だ。今日の丞相の言葉は、何らかの形となって長安へと届くだろう。しかし蜀本隊は、箕谷道を進む」
「一番遠い道ですね」
魏延は皮肉をこめて言ったが、趙雲に睨まれてしゅんとなった。
「私と鄧芝殿は、本当に斜谷道を進む。だがこれは陽動だ。今回の出兵で、南安、天水、安定の三郡を得る。そして、羌族を味方につけ長安を窺う」
羌という民族は、長らく洛陽政府から虐げられていた。蜀は漢皇室を受け継ぐ政府だと公称していたが、彼らに蜀を恨む理由などどこにもないはずだ。そんな羌族の感情を利用しようということである。
「この策が成れば、長安へと援軍に駆り出されるはずだった羌の軍勢が、そっくりこちらの兵力となるのだ」
なるほど、と王平は顎に手を当てながら思った。
「長安攻めはその後ということになるだろう。私がしっかりと魏の本隊を引き付けておくから、君達は大船に乗った気分で戦ってこい。わかったか」
「御意」
二人は、拱手してそれに答えた。そして、そこから退出した。
「やはりこれは文官の戦だな」
自分の軍営へと戻りながら、魏延は王平に言った。
「兵力うんぬんがなんだ。戦は、数字でやるんじゃねえんだ。長安の備えが整う前に俺が手塩にかけた兵達と一丸になって攻め立てれば、長安の兵は蜘蛛の子を散らすように四散するだろうさ」
魏延の意見はわからぬでもなかった。いい考えであるかもしれないと思わないでもない。だが、自分らは軍人として、軍内にいるのだ。
「私は、上の者に従うだけです。もしかしたら、趙雲殿もその作戦に不満がありながら我慢しているかもしれませんし」
「けっ、お前までそう言うかよ」
言って、魏延は困ったような顔をした。
「しかし、そうだな。俺らは軍人だ。俺も王平のことを見習うか」
正直なところ、王平にとっては作戦のことなどどうでもよかった。王平にとって大事なことは、早く洛陽へと帰ることである。しかしそんなことは、軍内では決して口にすることはできない。
「よっしゃ、大戦が始まるぞ。思い切り暴れてやるか、王平」
「御意」
二人が軍営へ戻ると、兵たちの気合いの入った声が王平らを迎えた。
7.王双
蟻が、目下で列を作って何かを運んでいた。昔はそんなことを気にすることなどなかったが、最近はこんなものをじっと見ているとのが妙に楽しかったりする。
「おい、おっさん」
頭上から声がした。見上げると、髪から汗を滴らせた男が数人、こちらを睨み付けている。
「なんだ。今日の調練はもう終わりだ。さっさと帰って体を休ませておけ」
またか。王双はそう思っただけで顔色も変えず、また足元に目を移した。男の足が、蟻の列を踏み潰した。
「片腕のくせして、偉そうなことばかり言うんだな。俺は俺の剣技を使って欲しくて入隊したんだ。それを馬のように走らすだけとはどういうことだ。俺等は家畜じゃないんだぞ」
「走れない者は、戦場で先ず死んでいく。何度同じことを言わせるのだ。分かったら、さっさと帰って明日に備えろ」
ひゅっ、という音と共に、王双の前髪がはらりと落ちた。眉間に剣の切っ先を突き付けられている。
「明日は、お前の指示は受けん。どうしても言うことを聞かせたいのなら、俺と勝負して勝ってみろ。俺が勝てば、俺は俺のやり方でやらせてもらう」
王双は大きく息をつき、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がった王双の巨体が、男を二歩三歩と下がらせた。
「俺が隻腕だから、言うことを聞けんのか」
男の顔に、明らかに不安の色が過った。威勢こそはいいが本気では言っていないのだろう。
「俺より強ければ、言うことを聞いてやると言っているんだ」
「それが分かった時は、もう遅いぞ」
これで何度目であろうか。なめられるのは、隻腕だからということだけではないのであろう。妹が死んでから、鬱々とした日々を過ごしてきた。こういった奴らの反感を買うのは、自分のそんな暗い性格にもあるのだ。ならばこういう問題は、自分の手で片付けなければならない。
王双は右手で剣を抜き、途中までしかない左腕を前に突き出し、半身に構えた。
男が緊張の色を深めていく。後ろに付き従っている数人は二人を中心にして後ずさり、周りからは王双隊の兵が野次馬となって集まってきた。
「お前ら、手出しは無用ぞ」
王双は右足を半歩下げ、間合いを取った。右手に剣を逆手に持って腰に付け、刀身は王双の尻から尾が生えたように後ろに向けられている。そして意識を、目の前の首に集中させた。
「なんだその構えは。剣は前に出さないと、相手に当たら」
一歩。その瞬間、王双の剣が閃いた。男の首は前半分がぱっくり割れて大量の血が噴き出し、そのまま口をぱくぱくさせながら後ろに倒れた。しばらく痙攣していたその体は、やがて動かなくなった。男に付いてきていた数人は何が起こったのかもわからず、茫然としていた。本当に殺すとは思っていなかったのであろう。
「おい、お前ら」
その数人が、体をびくっとさせた。その中の一人が、腰を砕けさせて失禁した。
「片付けておけ」
それだけ言い残し、その場を離れた。
このような新兵は容赦なく殺した。こういった見せしめをすることで、他の新兵は従順となるのだ。今となっては、こうしてたまに見せる王双の剣技を楽しみにしている兵も少なくない。他の隊では、隊長の身が危険に晒されているというのにそれを部下が見物するなどありえない。だが王双は、こういった場合には部下に一切の手出しをさせなかった。強さを見せつけることで兵を手懐ける。これは王双の知恵であった。
妹の死後、王双はしばらく途方に暮れていた。軍に戻ろうと思ったのは、残された甥、王訓を育てようと決めたからだ。昔の隊長殿と妹の間に生まれた、大切な子である。自分だけ先に死ぬわけにはいかなかった。
王双が自宅に帰ると、いつものように夕餉の支度がされていた。王訓が生まれてきた時に手伝ってくれたお婆が家事をしてくれているのだ。王双は身寄りのないこのお婆に、軍人としての稼ぎを一切任せていた。
夕餉の準備ができると、奥から王訓が顔を見せた。もうすぐ十才になろうかという王訓は陰々鬱々としている自分とは違い、明朗闊達に育ってくれた。これはいつも軍営に詰めている自分に代わって訓の面倒を見てくれるお婆のお蔭であった。これは、感謝してもし尽せることではなかった。
王双は軍務の稼ぎで書を買い、お婆に頼んで王訓に文字を覚えさせ、多少なりの学問をさせた。訓はお婆に懐ききっていて、よく学び、そしてよく食った。お婆も訓を育てることを、残り少ない命の生き甲斐だと言ってくれる。王双は時に、お前の父親がどれだけ勇敢であったかという話をしたが、軍人にはなってもらいたくないと思っていた。書を買い学問をさせるのも、訓には軍人以外の道を歩んでもらいたいからである。この子には、自分達と同じような人生を歩むことなど絶対にさせたくなかった。
目の前に温かい粥と野菜を茹でたものが並べられた。自分が訓にしてやれることは、こうして粥と野菜と、少しの書物を買う金を稼いできてやることくらいだ。ならばそれに全力を注ぐことが、今は亡き二人のためにしてやれることなのである。
夕餉が終わって訓が寝ると、王双はその日のことをお婆から聞いた。
「いつも悪いな、ばあさん」
「悪いだなんて、私は毎日を楽しんでるよ。あの子も日に日に育ってくれてる。私の老後にこんな楽しみがあっただなんて、思ってもみなかったよ」
王双には、こんなことを言ってくれるお婆の存在がありがたかった。
「それよりあんたもそろそろ妻帯したらどうだい。私がもっと若けりゃあんたに抱かせてやってもいいけど、こんなばばあじゃそうもいかないだろうしね」
陽気な老婆であった。この陽気さが、塞ぎがちだった王双の気持ちに潤いを与え続けてくれた。
「俺は片腕だ。女は気味悪がって誰も近寄ってきやしねえよ。確かに婆さんがもっと若かったら良かったんだがな」
「片腕が無いからって何だい。そんなことで男の価値が決まるだなんて、私は思わないよ。私はね、本気であんたたちのことを思って言ってるのよ。あんたが子でも作れば、それが訓にとってどれだけ良いことか。あんたは分かってないのよ。そしてそれは、何よりあんたのためにもなることなのよ」
このことは、今までお婆に何度も言われていたことだった。その都度王双は、適当なことを言って話をはぐらかした。
隊長殿と歓は、自分に子供を残して逝ったのだ。ならば、自分はその子のためだけに働けばいい。自分だけが家庭を持ち幸せになるのは、おかしな話ではないか。それに自分は軍人である。いつどこに駆り出され、王平のように二度と帰らぬ人にならぬとも限らない。そう考えると、王双は自分が子を生すことに怖れのようなものを感じるのであった。
ごほっ、とお婆が咳をした。普通の咳ではなく、何かが絡むような嫌な音がする咳だ。ここのところ、お婆がこういう咳をする回数が増えてきている気がする。
「あたしはもう、長くはないかもね」
言っても、暗くはない。お婆はこういう時も努めて明るい表情でいる。
「何を言ってやがるんだ、ばあさん。あんたはまだまだ元気じゃねえか」
「いいや、自分の体のことは自分が一番分かるさね。あたしが逝く前に、早く妻帯なさい。じゃないと、あたしは逝くに逝けないよ」
「けっ、そんなこと言われりゃ、余計に妻帯できねえよ」
そう言う王双を、お婆はからからと笑った。王双は不安だった。このお婆には、まだまだ訓の近くにいて欲しい。
西方では、戦の気配が漂い始めていた。その空気はこの洛陽軍営内にも色濃く伝播してくる。またあの地に行くことになるかもしれない。そう思うと、王双の気持ちは重くなった。
お婆の容態が悪くなってきていた。咳と共に、おかしな色をした痰が出るようになったのだ。それでもお婆は心配する王双と王訓をよそに、まだ体は動くからといって働いてくれた。
「おい、訓」
非番の日、王双は訓をこっそりと呼び出して言った。
「はい、叔父上」
「俺が軍営に行っている時、ばあさんはどんな感じだ」
「最近は、あまり元気がないように見えます」
言って、訓は俯いた。賢い子であった。そう言っただけで、この子は自分が何を言いたいか分かったようだ。王双はそれに黙って頷き、まだ小さな訓の頭を優しく撫でた。
「お婆様は、死んでしまわれるのですか」
訓が、小さな目を赤らめて言った。小さいが、力強い目だ。これなら、死んだ隊長殿と妹は喜んでくれるだろうと思えた。
「はっきり言おう。ばあさんは、もうじき死ぬ。しかしこれは、例えば太陽が昇って沈むことと同じことなのだ。生きていくものは、それを受け入れなければならん」
大切な二人を失った時、王双自身が何度も自分に言い聞かせたことであった。
「いいか、訓。ばあさんが死ぬ時、決して泣き顔を見せてはならん。笑顔で見送ってやるのだ。これは叔父上との約束だ、よいか」
「はい」
この子も近頃のお婆の様子を見て不安だったのであろう。訓が王双の大きな太腿に抱きついた。王双は、その小さな背中を片腕で摩ってやった。
数か月後、お婆は痩せ細り、しかしながら幸福そうな顔をしながら逝った。最後を看取った二人であったが、訓は最後まで泣かなかった。そしてお婆の顔から生の色が消えると、糸が切れたように泣き崩れた。よくここまで育ててくれた。その感謝の想いと共に、王双はお婆の遺骸を手厚く葬った。
洛陽の兵に西下の命令が下ったのは、それからすぐであった。王双は悩んだ末に、訓も連れて行くことにした。訓を軍の中に入れることにためらいはあったが、まだ幼いこの子を洛陽に一人残していくわけにはいかない。王双は訓に自分の身の回りの世話をさせるという名目で従軍の許可を取ろうと、上司である張郃に願い出た。許可はすぐに下りた。厳しい将軍であるが、こういうことには融通が利く良い上司である。
王双は訓を伴い、馬上にあって軍列と共に洛陽城門を出た。二匹の辟邪。そこには十年前と変わらず、二つの木偶がどこかを眺めていた。
あの時と同じ風景であったが、王双の気持ちは違った。何故蜀は、この国に攻めてくるのだ。戦いがあるからこそ、訓は父母を失った。ならば、俺は一人でも多くの敵を殺してやる。頃し尽せば、戦は終わる。対蜀戦の一部隊を率いる王双は、十年前のあの時とは違い、全身に闘志を漲らせていた。
8.北伐開始
北伐が始まった。王平は諸葛亮率いる本隊に一部隊として従軍している。王平の他には、魏延、句扶、馬謖、楊儀、趙統といった見知った顔から、馬岱、陳式、張翼、高翔といった知らない顔もいる。王平が手塩にかけて育てた趙広はどこに行ったのか、この軍内にはいなかった。
涼州の諸郡には蜀の大軍を迎え撃つだけの備えができておらず、さして損害を出すこともなく攻略していった。攻略していく毎に、兵の顔に自信が浮かんでくるのが王平にはよくわかった。南蛮攻略を行った成都の兵に実戦経験はあったが、漢中の若い兵にはそれがない。いくら辛い調練に耐えた強兵といえども、実戦経験がなければ精鋭とはいえないのだ。なるほど長安から見て西方の諸郡を先に攻めようと決めた諸葛亮の策には、こうしたことも計算に入っているのかもしれない。
天水郡の都城である冀城を落とした時、諸葛亮は謀略をもって羌族の名士、姜維を帰順させた。これで蜀と羌族の同盟は成ったものだと諸葛亮は皆の前で言った。これで、兵の士気は大いに高まった。
蜀には人材が少ないだけでなく、人口も少ないのだ。蔣琬の話によると、蜀の戸籍上の人口は九十四万であり、動員兵力は十万人である。その中の三万を成都に残し、七万を北伐に連れてきている。
それに対し、魏の人口は四百四十万、兵力は六十万である。ただ魏は北方の異民族に備えねばならない。そして東方では、蜀と同盟を結んだ呉が魏へと攻め上がっているのだという。これで長安戦線へと動員される兵力は、十万程度にまで抑えることができる。これなら、十分に勝機はあると思えた。
全ては今のところ、計算通りにいっていた。諸葛亮は冀城を本営とし、腰を落ちつけていた。羌族との交渉を進めるためである。
思惑通り、羌族はあっさりと魏に背いた。長年漢に虐げられていた羌族の恨みに、諸葛亮は目をつけたのであった。蜀の人口は少ない。呉と結び、羌から人数を借りねばこの戦には勝てない。
しかし、羌との交渉は思いのほか難航した。蜀は羌に頭を下げて力を貸してもらうわけだから、当然その見返りを与えなければならない。羌は諸葛亮の提示した条件より、何倍もの見返りを欲してきた。これに、諸葛亮は閉口した。その要求に従っていれば、蜀は戦を続けられなくなってしまう。
蜀は中華の中心から離れた独立国家だが、羌族から見れば魏と同じ、漢民族の国なのだ。また彼らは蜀に人数がいないことをよく知っていた。そこで足元を見て、ふっかけてきているのだ。この羌族の反漢民族感情は、もっと計算に入れておくべきだった。
諸葛亮は言葉を尽くして今の状況を説明し、羌の有力な名士である姜維を蜀の政治に深く関わらせるということで、羌族を納得させた。
羌族との同盟が成れば、長安への進攻である。趙雲率いる別働隊は長安の主力である曹真軍を釣り出し、交戦中であるという。一刻も早く、本隊を長安へと向けるべきであった。
そう思っていた矢先、漢中の東隣に位置する上庸に放っていた趙広が、間諜の仕事を終えて帰ってきたという報告が入ってきた。趙広を忍びとして育てたのは、王平である。その趙広にこの戦で経験を積ませろと進言してきたのは、句扶であった。そこで諸葛亮は、句扶に心利きたる者を五人選ばせ、趙広につけて上庸へと向かわせていた。上庸には蜀への寝返りを約束させた孟達がいる。北伐開始に呼応して、同時に魏へと攻め込む約束である。その孟達を監視させるため、趙広を向かわせていたのだった。
その趙広が、帰ってきた。早すぎる。諸葛亮は、嫌な予感がした。
趙広の報告によると、孟達がいる上庸は司馬懿の率いる大軍に包囲され、討滅されたのだという。
馬鹿な。諸葛亮は目を見開いた。魏軍が上庸に達するには一月を要すると諸葛亮は見ていた。後から入ってくる報告によると、司馬懿は魏国内のあらゆる手続きを無視し、独断で軽騎を率いて十日足らずで上庸に到着し、あっさりと上庸を陥落させてしまったのだという。
歯車が大きく狂い始めていた。全てが上手くいくとは思っていない。しかし上庸がこうも簡単に落ちるとは、想定外であった。
そして長安からは、魏の猛将張郃が率いる五万が蜀本隊へと向けて進発したという。
蜀としては、魏に先手を取られた形になってしまった。これでは、趙雲に曹真軍を引き付けてもらった意味が無くなってしまうではないか。諸葛亮はその心情を表に出さないよう努めていたが、内心焦っていた。しかし五万であれば、迎え撃つことができる。そしてこれを打ち破れば、長安攻めは成ったも同然だ。こちらも早く兵を出し、有利な場所を確保しておかねば。
「馬謖を呼べ」
小気味の良い返事と共に、使いの者が走っていった。
長安に赴任した矢先、張郃将軍は五万を率いて西方へと向かっていった。涼州は、良馬の名産地だ。その良馬を使った精鋭騎兵の五万である。王双ら洛陽から来た兵は一旦長安に留まり、予備兵となって次の指令を待った。
長安に着けばすぐに戦場だと思っていた王双は、肩透かしを食らった思いがした。だがそれも良かったかもしれない。王訓が、初めて見る長安の地を思いのほか喜んでくれたからだ。
長安には司馬懿という人物が考案した軍市が立っており、軍人は様々なものを安く買うことができた。しかもこの軍市は、蜀が宣戦布告をすると同時に大きく規模を拡大したのだという。なるほどこれは士気が上がる。王双はそう思い、司馬懿という男の知恵に感心した。
軍市には、毎日訓を伴って出かけた。小さい頃からこうして色んな物を見せておくことは良いことだと思った。訓を洛陽に置いてこようか迷っていた王双であったが、今では連れてきて良かったと思っていた。
長安滞在から半月が過ぎようとしていた時、王双隊に軍令が下った。長安の南に迫る蜀軍を迎撃に出た曹真軍が苦戦をしているのだという。王双は三千の兵を率い、他の同僚と共に総勢一万で曹真軍の援軍に向かうこととなった。
進発の前日、心配そうな顔をする訓に、王双は言った。
「そんな顔をするな、訓。叔父上はな、片腕こそないが、軍内では誰にも負けたことがないんだ。必ず帰ってくるから、な」
訓は頷いて答えた。
王双は、指揮官が泊まる宿の娘に訓のことを頼んだ。どことなく死んだ妹に似た、子供が好きな娘であった。これなら、例え俺が戦場で死んでも大丈夫だろう。
「行くぞ、野郎ども」
部下の威勢の良いかけ声と共に、王双隊は進発した。王双は隻腕であったが、馬術は巧みであった。腿を締めることで、馬に自分の意思を伝えるのだ。しかしこれは自分の乗り慣れた馬でしかすることができない。張郃に置いてきぼりを食らわされたのは、恐らくこれが原因であろう。洛陽産の馬では、涼州の良馬についていくことができないからだ。
王平は、冀城にある宿舎の一室で寛いでいた。ここまでの蜀軍は、連戦連勝であった。とはいっても、ここまで大きな抵抗があったわけではない。劉備が死んでから既に五年が経つ。最後に魏軍と争った漢中戦から数えれば、十年の月日が過ぎていた。魏としては、国力が過少な蜀が突然攻めてくることなど寝耳に水だったのであろう。こう考えると、魏延が主張していた長安急襲策は、意外と妥当な案であったのかもしれない。
諸葛亮が考えていることも、それはそれで妥当だと思えた。蜀には手持ちの兵が十万しかいないのだ。国内の治安維持にも兵を回さなければいけないことを考えると、外征に出せる兵力はせいぜい七万である。これを敵の懐に飛び込ませ、負けることでもあろうなら、ただ一回の敗北で蜀は滅亡することになる。一国の宰相として、それを恐れるのは当然のことだと思えた。
羌族が、蜀に帰順した。この報せは蜀軍の下々の者達を喜ばせた。長安に魏の援軍として入るはずだった羌の軍勢五万が消滅し、消滅しただけでなく蜀軍の味方となってくれることとなったのだ。兵力の少ない蜀軍にとって、それは貴重な戦力となってくれるだろう。
しかしそれに諸手を上げて喜んでいる将は少なかった。なぜならば、羌は魏国討伐に乗り気でないことが交渉の様子から明白であったからだ。長安をさっさと落とせば自然と羌は蜀についていたのだ、と魏延は言っていた。
軍議での決定を伝えるから来いという報せを受け、王平は王双の部屋を訪った。中では魏延が鼻毛をぶちぶちと抜きながら、無言でそこに座れと目で合図を送ってきた。
「王平、この戦は負けるかもしれんな」
「いきなり、何を言われますか」
また冗談を言っている。そう思い、笑いながら椅子に腰かけた。
「なら、お前は勝てると思っているのか?」
「羌が、蜀に付いたと聞きました。これで兵力は、こちらが勝ることになります」
魏延は抜いた鼻毛を卓に並べ、満足そうにふっと吹いて飛ばした。
「羌からの援軍は、三万だ」
「三万・・・・・・」
「知っての通り、長安の魏軍へと向かう予定だった羌軍は、五万だ。値切られたのさ。恐らくこの三万は、戦場では役に立たんだろうな。そりゃそうだ。蜀と魏の戦争は、羌にとっては何の関係もないことだ」
「しかしそれで負けだというのは、あまりに早計ではありませんか。蜀軍には魏延殿がいます。魏延殿の用兵が優れていることは、一緒に漢中にいた私が一番よく分かっております」
これはお世辞ではなかった。趙雲や張郃と比べても、魏延の用兵は見劣りするものではなかった。その魏延の能力を見出し漢中に置いた劉備という人物は、やはり偉人であったのであろう。
「そう言ってもらえることは嬉しい。しかしな」
魏延は少し笑みを浮かべたが、すぐに不機嫌な顔になり、言った。
「長安からここに魏軍が向かってきている。それを迎え撃つ先鋒が、馬謖に決まった。そして副官は王平、お前だ」
「えっ」
王平の喉から思わず声が出た。あの男は、俺にすら勝てなかった男ではないか。
「ここに向かって来ているのは、張郃って将だ。あれは強いぞ」
王平は背筋が凍る思いがした。馬謖が、いくら逆立ちしたって勝てる相手ではないではないか。
「お前、張郃を知ってんのか」
「知っているも何も、洛陽にいた時に手合せをしたことがあります。私は、手も足も出ませんでした」
それを聞いた魏延は好奇心を顔一杯に浮かべた。やはりこの男は、生粋の軍人なのだろう。
「そうか、手も足も出なかったか。そりゃそうだろう。漢中争奪戦の時はあの男に散々悩まされたからな。一番悩んだのは、その時に蜀軍の軍師をしていた法正って人だ。悩み過ぎて、髪の毛がよく抜けると言っていた。その人は戦後に亡くなったんだが、張郃が魏軍にいなけりゃまだ生きていたかもしれん」
魏延が残念そうに言った。その言いぶりからして、その法正という人はかなり優秀だったのであろうと思えた。
「どうだ、王平。勝てると思うか」
王平は答えに困った。正直、思えない。
「丞相は、何故魏延殿を先鋒にされないのですか。魏延殿なら、張郃将軍に対抗できると思います」
「丞相はな、俺のことを嫌っているのよ。俺のような自己主張をする男より、自分の命令に黙って従う者を使う。自分でものを考えない奴が敵を打ち砕くことができるなんて、俺には思えんがね」
王平は黙って頷いた。戦場に先頭を切って立ったことがあるだけに、魏延の言うことはもっともだと思えた。
「王平」
魏延が卓に身を乗り出し、じっとこちらを見据えてきた。
「負けると思ったら、無理をせず退け。熱くなって、兵を無駄死にさせる将にだけはなるな。丞相は俺のことをどう思っているのか知らんが、俺はこう見えて戦場で冷静さを欠いたことがねえ。それは趙雲将軍にも認めてもらっていることだ。それにな」
と、魏延は目を逸らしながら言った。
「俺は、お前のことを友だと思っている。戦場で友を失うことは、何度あっても嫌なもんだ」
ふっと、王平は思わず噴き出した。
「くっそ、笑うんじゃねえ馬鹿野郎」
「御意。戦場で友を失う痛みは、私も知っています。無理だと思ったら、退きます」
魏延はそれを聞き、満足そうな笑みを満面に浮かべた。
王双は馬を走らせ敵陣の全容を視察していた。岩山に幾重もの柵を張り巡らせて一つの大きな砦となっている。それに対して曹真軍は、田園を挟んで五里の距離を置いた平地に陣を布いている。地の利は、圧倒的に蜀軍側にあった。
曹真軍の三万に対して敵の趙雲軍は一万である。何故苦戦しているのかと思ったが、これは布陣の仕方に差があるからだということがよくわかった。こちらの方が大軍とはいえ、攻め込めば大きな被害が出ることは必至であるし、退けば退いたで追撃を受け、この場合も甚大な被害が出るだろう。
西方の天水に蜀の本隊が出現したとの報告があったのは、曹真軍が長安を進発した後であった。つまり、この趙雲軍は囮であったのだ。曹真軍はそれに引っ掛かり、今や退くに退けない状況にある。
王双は馬を岩山に近づけ、できるだけ敵の様子を目に焼き付けようとした。兵の表情。その顔に倦怠感はなく、皆一様に戦意が漲っている。これは手強い、と王双は思った。敵将である趙雲という男は、よほどの統率力があるのであろう。
敵陣から数本の矢が飛んできた、王双の足元に突き立った。距離があるので当たりはしないが、これ以上近づくのは危ない。王双は馬首を返して、自陣へと戻っていった。
戻ると、自軍の大将である曹真の幕舎へと報告に上がった。あばた顔が暗い印象を与える将であったが、用兵の術には長けていた、それはあの曹操直伝の技なのだという。
「どうであったか」
曹真は腕を組み、低い声で聞いてきた。
「敵は守りを堅くしており、出てくる気配はありませんでした」
「それで、他には」
腕を組んだまま目を瞑り、仏頂面になって言った。恐らく本人に悪気はないのだろうが、人によってはこれを「そんなことはわかっている」と思っていると取られてしまうだろう。
「できるだけ近づいてみました。敵兵の顔に緩みはなく、長い滞陣に倦んでいるという気配はありません。迂闊に攻めかければ、大きな痛手を受けることと思います」
「そうか、そんなに近づいたのか」
この男なりに褒めているのだろう。そう言った曹真の顔が、ふっと笑った。丸々としたその顔は、軍人というより商人のようであった。もしかするとこの男は、軍人よりも商家の旦那となった方が似合っているのかもしれない。
「郝昭」
曹真が言うと、隣に座っていた副官が返事をし、二人は目を合わせて頷きあった。
「わしに考えがある。詳しくは、郝昭の口から聞くがいい」
郝昭が立ち上がった。王双は拝礼をして、その後に続いた。通された別の幕舎には、一人の男が待っていた。
「朴胡と申します」
忍びだ。その何気ない挙措を見て、王双は直観した。朴胡もそれを感じ取ったのか、王双の顔を見てにやりと笑った。
「王双、十年前にお前は王平という者の下で忍び働きをしていたらしいな」
郝昭が言った。意外な名前が出てきたので、王双は驚いた。
「その通りです」
「朴胡はな、その王平とやらの朋輩だ」
おお、と思わず王双は声を出し、朴胡に手を差し出した。朴胡もその手を、素直に取ってくれた。
「残念ながら、今の我が軍には目の前の敵を打ち破る手段がない。そこで朴胡を使い、敵将の暗殺を試みる。お前の戦歴を見ると、十年前に漢中で蜀軍と争った時に忍びとしてなかなかの働きをしていることがわかった。それにお前は隻腕とはいえ、剣をよく使うそうではないか」
調練場でしばしば起こしていた粛清沙汰が、この男の耳にも入ったのだろうか。そう思うと、少し気恥ずかしかった。
「確かに、あの軍は正面から攻めかけてもびくともしないでしょう。副官殿の仰ることは、妥当かと思います」
「おお、それではやってくれるか。実はな、お前は隻腕だから、こちらからは何となく頼み辛かったのだ」
そんなことを気にして戦ができるか。王双はそう思いながらも、その優しさが嬉しかった。
「戦場に、惜しい命など持ち合わせてきておりません。暗殺の御下知を下さるのならば、命をかけてその趙雲とやらの首を取りに参りましょう」
それから、王双と朴胡はどのように敵陣に忍び込むかを協議した。どこから攻めればいいかは既に朴胡が調査しており、敵陣で一番手薄な所を示してくれた。手薄といっても、他と比べればということで、敵に見つかる可能性は十分にある。そして二人は、星が消える雨の日に作戦を決行することにした。
三日間、晴れの日が続いた。その間は曹真軍が滞在している地にある軍市で時を過ごした。驚いたことに、こんなところにまで飯屋があり、妓楼もある。昼間は体を鈍らせないよう朴胡と走り、組打ちもした。そして夜は旨いものをたらふく食い、妓楼で女を抱いた。女に聞くと、ここでの方が長安に比べて給与が良いらしい。そのため、料理人や娼婦が出稼ぎに来ているのだという。そのため飯の味は良かったし、美しい女も少なくなかった。それにここは戦場であるため、奴らは皆胆が据わっており、軍人とも気が合うようだった。妓楼で抱いた女は王双の醜い左腕を見て、格好良いと言ってくれた。お世辞であろうが、王双にはそれが嬉しかった。
四日目、雨が降った。王双は、朴胡とその部下十名を伴い、馬に枚をふくませ草鞋を履かせて敵の拠る岩山へと向かった。雨のせいか、篝火が少ない。その分、見張りの兵が多いようであったが、雑兵の目を掻い潜ることなどわけもないことだった。
王双は夜陰に潜み、朴胡の後に続いて行った。
「あれだ」
朴胡は唇を動かすことで、王双に伝えてきた。雨霧に紛れて見え辛いが、遠くに一際大きな幕舎が見えた。雨の重みで萎えている「蜀」の大きな旗も見える。さて、ここからどうするか。
不意に声が聞こえ、王双らはさっと伏せた。声は、二人。小便をしに出てきたらしく、こちらが見つかった様子はない。王双と朴胡は目で合図をし、二人の背後に忍び寄り、音もなく殺した。死体を岩陰に隠し、具足を剥いで身に付けた。事は上手く運ばれていた。
蜀兵に扮した二人は堂々と陣中を歩いた。朴胡の手の者十名には、その間に退路を確保するよう命じた。
「お疲れ様です」
途中で、同じ格好をした二人の歩哨に声をかけられた。王双らは、同じように挨拶をした。闇が顔を隠してくれているので、ばれはしなかった。
趙雲がいる幕舎の前まで辿り着いた。
「将軍に、報告したいことがあります」
二人の衛兵に向かって朴胡が言った。
「こんな時間に何用だ。将軍はもうお休みであられるぞ」
「急用なのです。何卒、お察しを」
「ふむ」
衛兵は困った顔をした。その時、後ろから声をかけられた。
「おい、さっきの二人」
王双と朴胡の背中に、冷たいものが走った。
「聞き慣れない声だったな。ちょっと顔を」
言い終わる前に朴胡が後ろの二人を倒し、王双が前の二人を倒した。
その勢いで、王双と朴胡は幕舎に雪崩れ込んだ。
「曲者」
声が上がり、人が動き出す気配がした。
趙雲。目の前に現れた時は、既に剣を構えていた。しかし、具足は付けていない。白い髪と白い髭と蓄えたその将軍は、二人を前にしても一歩もたじろぐ様子はなかった。
「貴様ら」
右から声がした。同時に、朴胡の頭が燃え上がった。そして剣で胸を突かれて朴胡は絶叫した。
趙雲。その目はこっちを睨み据え、闘気を漲らせていた。ありがたい。俺のような雑兵にも、真剣に向き合ってくれるのか。王双も剣を後ろ手に、闘気を漲らせた。
「父上、なりません」
耳に入った時、訓の顔が頭をよぎった。くそ、どうしてこんな時に。
一歩。同時に王双も踏み出した。そして地を蹴り、外へ出た。目の前がおかしい。しかし、そんなことは気にしていられない。
外では朴胡の部下が敵兵とやり合っていた。さすがに闇の中ではこちらが有利だ。そんな中、味方の一人が見つけ出してくれた。どうしてそんな顔をする。腕は動くし、脚も動く。たださっきから、少し目の前がおかしい。そんなことはどうでもいい。早く逃げねば。
敵陣を抜け、岩山を降りた。そして予め馬をつないであった所に辿り着いた。ここまで来れば、もう大丈夫だ。朴胡の部下は、三人に減っていた。朴胡も、目の前で死んだ。しかしあの一撃には、確かな手応えがあった。少し血を流し過ぎたかもしれない。一息つくと、そんなことを考える余裕ができた。足元がふらついた。憶えているのは、そこまでであった。
9.馬謖軍
本格的な戦が、足音を立てて近づいてきていた。王平は馬謖の副官として、二万五千を率いて張郃迎撃軍の先鋒となり、街亭の城郭を目指していた。二万五千は全て騎兵なので、駆け通せば冀城から一日半で到着できるだろう。城内に籠って張郃軍を食い止める。そして後から続く羌軍を含む諸葛亮の本隊六万五千が街亭に到着すれば、いくら張郃でも手出しはできなくなるだろう。作戦としては、上々である。
上官となった馬謖は、意外なことに王平ことを笑顔で迎え入れてくれた。以前の模擬戦のことを根に持たれているかもしれないと思っていたが、そうでもないらしい。馬謖の両腕である張休と李盛も満面の笑みをもって親しくしてくれた。親切過ぎて少し気持ち悪いとも思えたが、小さなことを気にすることはやめておいた。
王平は馬謖と轡を並べ、中軍にあってのんびりと馬上に揺られていた。揺られながら、互いに色々なことを話した。王平は洛陽にいた時のことや辟邪隊のことを話し、馬謖は荊州のことや南征のことを話してくれた。会話はすこぶる弾み、時を忘れてしまうほどであった。蔣琬が言うほど、この男は嫌な奴ではないのかもしれない。
行軍速度が少し遅いということが、王平の気にかかった。これでは街亭まで一両日使えばいいところを、二日半も使ってしまうことになる。王平はそう思ったが、口には出さなかった。戦の前に、あまり角の立つようなことはしたくない。
その日は、河川のほとりで野営をした。兵たちは思い思いに馬を曳いて、川で馬の体を洗ってやっている。大事なことだった。戦場では、馬に自らの命を預けるのだ。王平も兵達に交じって馬を洗った。天水滞在時に与えられた馬だった。涼州の馬は、馬体が大きくよく走る。この馬を与えられた時、王平は年甲斐もなく興奮した。やはり自分も一人の軍人の前に、一人の男なのだ。
近くに、一際大きな馬が三頭入ってきた。馬謖ら三人の馬だが、洗っているのは兵卒達だった。あの三人は何をやっているのだ。そう思いはしたが、軍団長ともなると色々と忙しいのだろうと思い定め、深くは考えないようにした。
夕餉の時間になると、王平は馬謖に呼ばれた。焚火の周りを、馬謖、張休、李盛、王平が囲んだ。
出された食事は、炊いた米、そして蒸した肉と野菜であった。それらが、旨そうに湯気を立てている。まだ若い張休と李盛は、それを貪るように食い始めた。馬謖もゆっくりとそれに箸を伸ばしている。王平は心に決めていることがあった。それは、戦中にあっては兵卒と同じものを食するということだ。熟達の指揮官ならば、誰もがしていることであった。
「どうされた、王平殿。腹でも痛いのですか」
その様子に気付いた張休が、飯粒を飛ばしながら言った。
「それは困りますな。これから大きな戦だというのに」
李盛もそれに続いた。馬謖は無関心なのか、顔に微笑を浮かべながら箸を口へと運んでいる。
「私は、軍中では兵達と同じ物を食うことにしています。用意していただいて申し訳ないのですが、これは下げていただきたい」
張休と李盛は箸を止め、その場の空気がしんとなった。馬謖だけが調子を崩さず、暗闇の中で赤々と炎を受けている面のような顔に、笑みを絶やさずにいる。
その中で、張休が口を開いた。
「これは王平殿。少々それは堅すぎやしませんか。折角用意したのだから、今日のところは胃の腑に収めて片付けられればいいでしょう」
「もう一度言います。これはお下げください」
張休と李盛は顔を見合わせた。
「これは困った御方だ。この飯を食ったからといって、どうなるというものでもないでしょう」
張休が困ったような笑ったような顔をしながら言い、李盛もそれに続いて言った。
「お話によると、王平殿は女にもお堅いようで」
王平は、自分の耳が熱くなっていくのを感じた。
「控えろ、小僧」
目の前の膳を蹴り飛ばした。李盛はそれに狼狽し、飯を被った張休は王平を睨みつけた。
「もう一度、言ってみろ」
王平は言いながら、自分の右手が剣にかかるのを懸命に堪えた。
「まあまあ」
そこでようやく馬謖が立ち上がった。
「王平殿、そなたは大戦を前にして気が立っているのだ。こいつらの無礼は私が謝る。だから、ここは落ち着いてくれ」
馬謖は、王平の肩に手をかけながら言った。
「それにな、こいつらは若い。旨いものを腹一杯食わしてやりたいと思うのが、長者の徳というものではないか」
そう言われ、王平は腰を下ろして気持ちを落ちつけた。自分はとんでもないところに来てしまったのかもしれない。こんな奴らに兵の統率を任せ、戦に勝つことができるのか。
膳をひっくり返した王平のために、兵糧が運ばれてきた。兵が食べているものと同じ、穀物を団子にして茹でたものだ。運んできたのは、馬謖軍の兵糧を管理している黄襲という男だった。
「張休、李盛、お前らも王平殿を見習え。こういうものを食うことで、将兵は常に心を一つにすることができるのだ」
もう五十に近いだろうという黄襲は温和な笑みを顔に蓄え、二人に諭すように言った。それは遠回しに馬謖にも言っているのだ、と王平には思えた。
「王平殿も困りますな。陣中であのように怒鳴られますと、兵達に動揺が走りますぞ」
その通りであった。王平は、素直にそれを詫びた。
この男は飯の時間になると全軍を見回り、全ての兵の腹に兵糧が入ったことを確認してから自分も食う。今日もその確認が終わったのだろう。黄襲も王平の隣に腰を下ろし、自分の小鍋を焚火でよく温めてから兵糧を食い始めた。王平は内心ほっとしていた。黄襲が来てくれたことで、その場の空気がいくらか和んだからだ。
「王平殿、模擬戦の時はさすがでございました。あの時、王平殿の隊が一斉に反転したのを思い出すと、今でも全身が粟立つ思いがします」
模擬戦の時、馬謖軍の騎馬隊を率いていたのが張休で、歩兵を率いる馬謖を李盛が補佐していた。実際に手を合わせたことがある張休にそう言われ、悪い気はしなかった。
「そんな王平殿が我が軍にいてくれてるんだ。心強いな」
李盛も、そう言ってくれた。
険悪な空気は消えつつあった。王平は焚火で温めた兵糧を口に運び、歯で砕き、飲み下した。味はない。しかし、力にはなる。軍人はそれでいいのだ。
和やかになってきた空気の中で王平は、角が立つから進言を控えておこうと思っていたことを言ってみる気になってきた。角が立ったとしても、恐らく黄襲が取り成してくれるだろう。
「馬謖殿、行軍のことなのですが」
「おう、どうした」
馬謖がはっと顔を上げ、小気味良く反応した。
「敵の張郃軍は、手強いです。恐らくあの軍は、神速をもって天水方面へと向かってきているでしょう。街亭はさほど大きくない城です。一刻も早くあの城に入り、防備に時を費やすことこそ上策と思うのですが」
それを聞き、馬謖は難しげな顔をした。
「行軍速度を上げろというのか。しかしな、戦の前に兵を疲れさせたくない。我らが街亭に着けば、すぐに魏軍はやってくるであろう。私の理想は、魏軍が到着する直前に街亭へと入城する。そうすれば、兵は気持ちを緊張させたまま戦闘に臨むことができる。違うか?」
言っていることが矛盾している。そう思ったが、黙って聞いた。
「それにそんなに焦れば、その焦りは兵へと伝わる。焦りは敗北を生むのだ」
王平は、それ以上何かを言う気にはなれなかった。
馬謖軍はゆるゆると軍を進め、二日半を費やし街亭に入った。
街亭の城郭に入ると、さっそく軍議を開いた。敵の情報は、先に街亭に来ていた句扶が部下を使って収集してくれている。
「敵兵は、五万。全て騎兵です。二日後にはここに到着することでしょう」
馬謖、張休、李盛、黄襲、そして王平を前にして句扶は言った。
「二日後・・・」
王平は呟いた。さすがに速い。街亭は大きな城郭都市ではない。せめてあと一両日使い、城の防備を整えたかった。
城攻めの兵力は、守りの三倍必要だと言われている。馬謖軍の兵力は、二万五千である。敵兵力はその三倍を満たさないが、この城ではなんとも不安であった。それに相手は、魏の名将張郃である。
行軍速度が遅すぎたのだ。もう一両日あれば、例えば逆茂木を並べることができたし、城壁に泥を塗って火攻に備えることもできた。大がかりな防備ではないが、こういう細かな備えが兵に安心感を与え、力を出させることができるのだ。そう思ったが、もう言っても仕方のないことだった。
馬謖は腕を組みながら句扶の報告を聞き、ここら一帯の地図を前に立った。そして木の棒を取り出して言った。
「ここと、ここと、ここ。陣取ることはできないだろうか」
馬謖は、地図に描かれた三つの丘陵を指した。
こいつは何を言っているのだ。王平は驚いた。後方からは、諸葛亮率いる六万五千が来ている。これが到着するまで街亭城を守ることが、今回の任務である。兵を城外に出す理由など何もない。全軍を城郭内に入れ、本隊が来るまでの数日間を堅く守ればいいだけの話ではないか。
「何か言いたそうだな、王平殿。まあ、先ず聞け」
馬謖は棒を振り、地図の一点を指しながら言った。
「敵は、恐らくこの城を望んでこの位置に陣取るだろう。そして我々は、これらの三点に伏兵を置く」
「敵を囲むのに、絶好の位置となるわけですね」
李盛が言った。
「その通りだ。お前もなかなか分かるようになってきたではないか」
言われて、李盛が得意気に鼻をこすった。
「しかしこれでは、我らの少ない兵力を分散させてしまうことになります。それに、敵は魏軍の古豪です。伏兵が露見することでもあれば、各個撃破されてしまいますぞ」
王平がそう言うと、馬謖は大きなため息を吐いた。
「王平殿は、敵を恐れているのか。それは、軍の士気にも関わることとなるぞ」
「そんな話をしているのではありません。今は、全兵力を城に入れ、この地を守ればいいだけのことではありませんか」
「この城は、小さい。三千もあれば十分に守れるではないか。この城に二万五千は、いかにも大袈裟過ぎるではないか」
正論であった。この城に二万五千を入れても、かなりの兵が手持無沙汰になるだろう。しかし、それが兵を出していいという理由になるはずがない。
「王平様。ここは我々にお任せください」
「お前は、黙っていろ」
言った張休を、王平が睨んだ。張休はそれに対して呆れ顔をして見せた。
「王平殿。そなたは勘違いをしている。何も、伏兵をもって決戦を挑もうというのではない」
「当然です」
「最後まで聞け。戦は、緒戦が大事だ。相手の虚を突き、一撃を与えたらすぐに城に入る。そうして敵味方に我らの勝利を印象付ければ、丞相が到着した後の戦が大分楽になるだろう。どうだ?」
「上手くはいきません。どうかお考え直しを」
馬謖はもう一つ大きなため息を吐いた。
「頑固なのだな、王平殿は」
「蜀軍の勝利のためです。兵をこの城から出すことは、この私が許しません」
「許しませんだと」
馬謖が眉をひそめた。二人の間に、緊張が走った。
「まあまあ、お二人共」
今まで黙っていた黄襲が立ち上がり、二人の間に割って入った。
「馬謖殿が軍団長で、王平殿はその副官。王平殿、ここは一歩引きましょうじゃありませんか」
意外であった。あなたまで、そんなことを言うのか。
「ここは私が王平殿によくよく話して聞かせます。抑えてくだされ、馬謖殿」
それを聞いて、馬謖は声を立てて笑った。
「すまなかった。戦の前の仲間割れは禁物であったな。王平殿、悪かった。だがここは私に任せて頂きたい」
もう何を言っても無駄だ。王平は絶望し、踵を返してそこから退出した。
王平が自室に戻ると、すぐに黄襲がやってきた。何を話す気にもなれなかったが、王平は黄襲に椅子を勧めて向き合った。
「馬謖殿はね」
俯く王平に、黄襲はゆっくりと腰かけながら話し始めた。
「あれはあれで責任を感じているのだ。何せ、二万五千の大将だからね」
意外なことを言いだしたので、王平はふっと黄襲の方へ顔を向けてみた。
「馬謖殿の兄に馬良というお方がおられてな、大変優秀な方で、丞相とは義兄弟の契りを交わしておった。しかし残念ながら、馬良殿は呉との戦の中で戦死された」
「聞いております。だから丞相は、馬謖殿のことを大事になされておいでなのだと」
「その通りだ。ここだけの話だがな、馬謖殿の器だと、地方の県令あたりをやっているのが丁度良いのではないかと私は思っている。まして二万五千の大将ともなると、荷が重いのではないかな」
黄襲は声を潜め、顔を近づけて言った。
「それでも組織が大きくなると、色々なところで矛盾が生じ、その器ではないのに大きな責任を与えられるということがある。それが、今の馬謖殿だ」
平然と自分の上官を貶めることを言うので、王平は思わず笑みをこぼしてしまった。
「そういった者は、ほぼ必ずと言っていいほど下々の者から後ろ指を差される。当の本人は周囲のそんな目に怯え、なんとか名誉を挽回させようとするのだ。でもそういう時は、大体が裏目に出るものだ」
「今の馬謖殿が、正にそうではないですか」
「そうだ、王平殿。だからこそ、私は馬謖殿のそんな性格まで理解した上で、補佐せねばならんのだ。これは、張休や李盛のような若造にはできないことだ」
「馬鹿げた話ではありませんか。もう、子供ではないんですぞ」
黄襲は身を乗り出させた。
「いいや、子供なのだ。大人の背格好をしていても心は子供なのだという者を、私は今まで何人も見てきた。そして、そういう者が自分の上官になるということも、十分にあり得るのだ」
面白いことを言う人だ。こうして自分らの上官を貶めることで、自分のことを慰めようとしてくれているのか。
「そのような方に、口答えをするべきではない。しても、その言葉はその人の耳には決して届かないからだ。王平殿が言うように、それは馬鹿げた話なのかもしれん。上手くやろうと思うのなら反対意見を出すのではなく、同調している風を装い少しずつ考え方の進路を変えてやることだ。少なくとも、私はいつもそうしているよ」
「馬謖殿は、子供ですか」
「そうだ」
黄襲は静かに、しかし強かに頷いた。
「わかりました。黄襲殿がそこまで言われるなら、私もそう思い定めて馬謖殿を補佐しましょう」
そこで黄襲はようやく笑みを見せた。
翌朝早朝、また軍議が開かれた。昨日の五人の他、諸々の隊長が集められた。句扶は城外の調査をしているため、この席にはいない。その場の全員に、作戦内容が書かれた竹簡が配られた。馬謖は正面に立ち、その竹簡に書かれてあることの解説を始めた。王平は字を読めないため、竹簡を開かず馬謖の話を黙って聞いていた。聞いていると、突然馬謖が王平を指名してきた。
「王平殿。そなたには色々と意見があることだろう。ここに書いてある作戦について、何かあるか」
嫌らしい男だ。この男は、自分が字を読めないことを知っている。答えに窮していると、隣の張休が言った。
「指揮官ともあろうお方が、その様子では困りますな」
それに乗じて李盛が笑うと、諸隊長の数人もそれに続いて笑った。そう言われてしまうと、王平は何も言い返すことができない。
「やめんかお前ら」
馬謖が宥めるように言った。
「何も心配することはないぞ、王平殿。そなたには、三千をもってこの城を守ってもらう。それだけだ」
それだけだという言葉に反応して、また笑い声が起こった。もう、怒る気すら湧いてこなかった。
そして馬謖は、諸隊長に細々とした指図を与え始めた。細か過ぎる。王平は聞いていてそう思った。細か過ぎる指図は、混乱を生む。大将が下の者へと与える命令は、もっと大雑把なものでいいのだ。何故、こんな奴が一軍の指揮をしているのだ。彼を大将に任命したのは自分ではなく、丞相だ。これは自分とは関係のないことなのだ、と自らに言い聞かせた。
無理だと思ったら、退け。王平の頭の中に、魏延の言葉が甦ってきた。
句扶は馬謖の命を受け、潜伏予定の丘陵を見に来ていた。馬謖が言う通り、位置は悪くない。魏の張郃軍が街亭へと真っ直ぐ攻めかけてくれば、魏軍を包囲し、あるいは寡兵をもって敵の大軍を潰走させることも可能かもしれない。しかし、それは相手に見つからないということが大前提である。見つかってしまえば、分散した蜀兵を各個撃破されるのが末路であろう。
恐らく見つかるであろう、と句扶は思っていた。魏軍は曹操が軍を率いていた頃からの伝統で、斥候をよく使う。たくさんの斥候が持ち帰ってくる膨大な情報を分析し、作戦を練るのだ。句扶は長安で間諜をしていたことがあるので、そのことをよく知っていた。
馬謖が九千を率いて丘に登ってきた。いずれも軽装の歩兵で、敵の騎馬への備えなのか、全員に長槍を持たせている。しかしそれがどれほど役に立つものか、疑わしいものであった。
句扶は馬謖に会い、兵を留めておける広場と、兵を通せる道がどこにあるのかを説明した。句扶の部下らも張休と李盛のところへ行き、同じように報告しているはずである。
説明が終わると、丘を下りて街亭城内に帰るようにと指示がでた。句扶の仕事はあくまで隠密であり、戦闘ではないからだ。言われずとも、さっさと退散するつもりであった。こんな所にいては命がいくつあっても足りはしない。
この作戦に対して、王平はかなり反対したようだった。不器用な人であった。王平の言葉は確かに正論ではあるが、正論であるがために疎まれるということもあるのだ。そういう時は言葉を控えて出しゃばらず、一歩引いたところからものを言えばいいのだ。しかし王平はそういうことができない人であった。そして王平のそういうところは、句扶の目に魅力的なものとして映っていた。
句扶は五人の部下を連れ、木々が繁る茂る小径から丘を下りていた。すると、頭上から妙な気配を感じた。誰かいる。句扶は部下と一緒にその場に伏せた。気配は続いている。どこだ。句扶は目を凝らし、気配の正体を探した。
いた。木の上。黒装束に身を包んだ大男が、四肢を使ってその身をぶら下げていた。はて、と句扶は思った。どこかで見たことがある。
司馬懿の館だ。長安で司馬懿の忍びに連行された時、司馬懿の隣でこちらに向けてただならぬ気を放っていた男だ。その男が、何故ここにいる。
「思い出したようだな、句扶」
句扶はその言葉を半ば聞き流し、前後左右に意識を張り巡らせた。どこから、何が出てくるかわからない。
「そう気を張りつめることはない。今日はこの丘の様子を見に来ただけで、お前をどうこうするつもりはない」
確かに、殺気はどこからも感じられなかった。ではこの男は何のために自らの身を晒しているのか。
「不思議そうな顔をしているな、句扶。それは当然であろう。自分から名乗り出る間諜など、私も聞いたことがない」
よく喋る忍びだ。そう思いながらも、句扶は緊張を解かずに聞いていた。
「我らの仲間になれ、句扶」
「断る」
「お前はそう言うだろう。しかし、蜀は今回の戦に勝てると思っているのか」
思っていなかった。しかし、それと裏切りとは別次元の話だ。
「お前が我々の手引きをしてくれれば、互いに犠牲を少なくしてこの戦を終わらすことができる。お前ならわかるであろう。句扶、賢明になるのだ」
「断ると言っている」
軽口ではあるが、ただ者ではない。二人の間は近過ぎず、遠すぎない。忍び同士が会話できる、最適な距離だと思えた」
「それにな、句扶」
男は目を細め、長い舌を出して舐めた。
「俺は、お前が欲しい」
句扶は全身が粟立ち、背中に怖気が走った。こいつ、男色か。
句扶は懐の手戟を素早く取り出し、放った。男の姿がさっと消え、手戟は樹木に突き刺さった。そしてその場の枝々が、さわさわと揺れた。
「俺の名は、郭奕という。句扶、また会おうぞ」
郭奕の甲高い声が、周囲にこだました。
句扶はしばらくその場に留まり、安全を確認してから動き出した。部下の二人を馬謖の元へ、句扶ら三人は街亭城へと向かって駆けた。伏兵が露見したのだ。このことを一刻も早く指揮官達の耳に入れるのが、句扶の務めである。露見するのは当然のことだと思えた。街亭城から大軍が出て三つの丘に陣取るところまで、あの郭奕とやらはどこかでじっと見ていたのであろう。
それにしても、嫌な男に目をつけられたものだ。句扶は伏兵が露見したことよりも、そちらの方が気になった。
街亭に到着した。強行に次ぐ強行軍であったが、兵の中には一人の脱落者も出ていなかった。これは張郃軍の兵が精強だということの証であるが、それ以上に馬が良かった。張郃は長安に着くと先ず、渋る夏候楙から半ば強引に涼州産の馬を引き出し、全軍に乗り換えを命じた。
馬が代われば、人も変わる。それは騎馬隊に関わる者なら誰でも知っていることである。今の張郃軍は兵の下々にまで気性の荒い涼州馬の魂が乗り移っているかのようであり、頼もしかった。
敵は、馬謖率いる蜀軍二万五千。できれば蜀軍の先鋒が出てくる前に街亭を押さえておきたかったが、さすがにそれは虫が良かった。こちらには五万の兵力があるが、全て騎兵で攻城兵器はない。数に頼って迂闊に攻め入れば、大きな被害を出してしまうだろう。しかも後方からは、五万以上の蜀軍本隊が近づいてきているという。この本隊が到着する前に、目の前にいる二万五千に痛撃を与えたかった。さて、どうするか。
張郃軍は街亭の十里手前で全軍を止めた。傍らには副官の郭淮と、まだ若い夏侯覇がいる。夏侯覇は漢中で死んだ夏侯淵の次男で、蜀には大きな恨みを抱いていた。才気溢れる青年であったが、大きな恨みはいずれ己の身を滅ぼすことを張郃は知っていた。それを惜しいと思った張郃は、長安で軍務に励んでいた夏侯覇を自分の下に就けた。張郃は蜀と戦うために投入された将軍であるので、夏侯覇はそれに喜んで従った。
三人は轡を並べて前方を睨んでいた。もうすぐ、放っていた斥候が戻ってくる頃である。
「夏侯覇」
はい、という返事と共に、夏侯覇は馬上で背筋を伸ばした。
「お前が司令官なら、先ずどうするか言ってみろ」
夏侯覇は両腕をやり場なく動かし、難しい顔をして考え始めた。もうすぐ老境に入ろうとしている張郃の目には、まだ若い夏侯覇のそんな仕草が何とも可愛らしく見えた。
「工夫を凝らし、蜀軍を城外へおびき寄せることが第一だと思います。その方法は、斥候が帰ってきてから練るべきだと思います」
夏侯覇が、早口で並べ立てた。
「だそうだ。郭淮、お前はどう思う」
「私も、そのようにするのがよろしいかと思います」
「ではここは夏侯覇の言葉に従い、斥候を待つことにするか」
張郃がそう言うと、そこで夏侯覇はようやく表情を緩めた。そんなやり取りをしていると、斥候が戻ってきた。
郭奕である。この男は長安の「黒蜘蛛」と呼ばれる隠密部隊を率いる隊長であった。妙なところがある男であったが、その仕事は迅速適確であり、その点は父である郭嘉と同じであった。郭嘉は曹操軍の草創期を支えた優秀な軍師で、張郃も共に働いたことがあった。しかし若い内に病を得て死んだ。
父の元同僚ということがあってか、郭奕は張郃の言葉によく従い、よく働いた。
「馬謖は、城を出て近くの丘陵に兵を伏せております。その数は、およそ一万」
「よし」
張郃が言うと、郭奕はさっと姿を眩ませた。さらなる諜報に向かったのだ。
「お前は運がいいぞ、夏侯覇。敵兵をおびき出す手間が省けたな」
しかし夏侯覇は腕を組み、また難しい顔をし始めた。何かを考えている。張郃はこの若者のそんな横顔をじっと見つめた。
「罠ではありますまいか」
そう考えているであろうと思った。確かに、その可能性はある。
「まだわからんな。単に敵が阿呆だということもある。大事なことは、それを見極めることだ」
「しかし将軍、蜀軍の先鋒を任される程の将が、あのような安易な布陣をしますでしょうか」
「それは先入観だ。こちらがやられて困ることが、相手の目からは見落とされている。そういうことは、戦場ではよくあることだ。もう少し、待ってみようではないか」
夏侯覇は難しい顔をしながら、正面を睨み続けていた。
斥候が、続々と戻ってき始めた。敵の伏兵は、三か所に置かれているらしい。その数は、総勢二万。街亭の城には、五千程が入っているということか。
「真っ直ぐに街亭へと向かっていたら、我々は包囲されていたことになるな。危ないところであった」
そう言う張郃は、呑気そのものであった。そんな張郃を見て、夏侯覇の顔から力が抜けた。
「こんなに簡単なものなのですか。私はもっと、戦場では知恵を使い合うものだと思っていたのですが」
「相手によるな。聞くところによると、今の蜀には人材が不足しているらしい。敵の大将である諸葛亮は、恐らく人選を誤ったな」
「そういうものですか」
「では夏侯覇、どう攻めてやろうか」
夏侯覇はまた、考える表情を見せた。
「定石ですと、伏兵の拠る丘を一つずつ潰すといったところでしょうか。そして最後に、城を囲う」
「わしも、そうしようと思っていたところだ」
「しかし本当に罠が」
郭淮が一歩出た。
「出過ぎているぞ、夏侯覇。お前も軍人なら、黙って将軍の言うことを聞かんか」
叱られて夏侯覇はうなだれてしまった。夏侯覇の様子を楽しんでいた張郃は郭淮を黙らそうとしたが、やめておいた。ここで郭淮を黙らせてしまえば、血気盛んな夏侯覇が郭淮を侮る種になりかねない。それに、夏侯覇もちょっとしつこかった。しかし言葉を待つだけの者に比べれば、よほどましだと思えた。
「では各自、持ち場に戻れ。夏侯覇の初陣を華々しく飾ってやろうではないか」
「御意」
二人は駆け戻っていった。軍全体に、戦闘開始の気配が漲っていく。張郃は静かに軍配を振り、兵を前へと進めた。
目の前の敵が押し寄せてきた。整然と進む騎馬隊の中に、「張」「郭」「夏」の旗が浮かんでいる。
戦闘開始の命令は、既に告げてある。張休と李盛が伏せる二つの丘とも、鏡の光を使ってその確認をし合った。あとは、敵兵が予定戦場区域に入ってくるのを待つだけだ。
先程、句扶の部下が伏兵が露見したということを伝えてきた。馬謖はそれを一笑に付した。馬謖軍が拠る丘は、周囲を兵に隙間なく見張らせており、蟻一匹入り込む余地はないはずだ。それでも二人の句扶の部下は、何度も考え直すよう懇願してきた。馬謖はそれに苛立った。今更、これだけの大軍を陣替えできるものではない。こいつらはそのことを分かっていないのだ。あまりにしつこかったため、馬謖は兵達の前で二人の首を刎ねた。そしてその首を広場に晒して士気を上げようとしたが、兵達の反応は冷たいもののように感じられた。
魏軍の動きが、予想していたものと違った。真っ直ぐに街亭へと来るのではなく、李盛の拠る丘に向かい、囲み始めた。馬謖は舌打ちをした。やはり、ばれている。しかしこれで、自軍の敗北が決まったわけではない。
馬謖はすぐに連絡用の鏡を用意した。
「これから、助ける」
何度か交信を試みたが、李盛からの返答はなかった。恐らく、突然敵の大軍に囲まれて狼狽しているのだろう。馬謖はまた舌打ちをした。
馬謖は張休の丘にも鏡で光を送った。返答は、すぐに来た。それを確認した馬謖は兵をまとめ、丘から下りた。
郭の旗およそ一万が馬謖の前を遮った。同数の騎馬隊なら、長槍を持つこちらの方が有利なはずだ。しかし敵は騎馬を前に出さず、矢を打ち込んできた。盾を用意していなかった馬謖の兵は、矢雨を受けてばたばたと倒れていった。馬謖は兵力に損害を出すことを恐れ、兵を丘へと戻した。そして高所に立ち、全体の戦況を見渡した。
張休隊も敵に阻まれて前に出ることができないようであった。困ったことになってきた。一度そう思うと、馬謖の膝が細かく震え始めてきた。そして李盛の隊。激しく攻め立てられているが、囲む魏軍の一角が空いていた。罠だ。馬謖はそれを見て直観した。目下で郭の旗が、半数を連れて李盛の方に走った。
案の定、李盛はその一角から下りてきた。郭の旗五千がそこに突っ込み、李盛隊は混乱した。そこに、夏の旗。李盛隊は一方的にやられ、見る見る内に数が減っていく。
その中から、少数に囲まれた李盛が飛び出してきた。馬謖はすかさず下知をしてこちらに向かってくる李盛を援護させた。
しばらくして、兵に支えられた李盛が馬謖のところにやってきた。丘の下では、まだ兵達が戦っている声がこだましている。李盛は体のあちらこちらに傷を受け、その太腿には茶色い物が垂れ出た跡があった。
馬謖にはかける言葉が見つからず、短く、
「休んでおけ」
とだけ言った。
これはまずい。馬謖は自分の手を具足の中に入れて隠し、余人にその震えを悟られないようにした。伏兵の策が失敗しても、多少の犠牲に目を瞑れば城内に帰還することはできると思っていた。しかし、実際はどうだ。
敵兵が馬謖の丘の下へと集まってきている。敵は、騎馬隊である。丘の地形を生かせばあるいは諸葛亮率いる本隊が到着するまでもつかもしれないが、手持ちの兵糧と水が圧倒的に不足していた。奇襲をして、すぐに街亭へと戻る予定だったからだ。
丘を下りるしかない。しかし敵の馬郡が粛々且つ整然と、馬謖と張休がいる二つの丘を囲み始めている。丞相から与えられた二万五千が、一体どれほど減るのか。いやその前に、俺はここから生きて帰ることができるのか。
10.街亭の戦い
他愛もない敵だった。三つあった伏兵の一つは既に壊滅させた。こちらには数の利があるが全てが騎兵であるため、丘に籠って抗戦されたら厄介だと思ったが、包囲の一角を空けてやると敵はあっさりそこから下りてきた。で
そこに郭淮と夏侯覇の精鋭を突っ込ませた。虎豹騎と呼ばれる、魏軍騎馬隊の中も最も勇猛な部隊である。その虎豹騎一万を半分に分け、郭淮と夏侯覇に与えてあった。
戦意を失って逃げようとする蜀兵は、面白いように倒れていった。しかし、その兵を指揮していた敵の将は逃げてしまったようであった。
敵の一隊を壊滅させた夏侯覇が帰ってきた。その顔は、明らかに血を見て興奮していた。
「馬鹿者」
美酒に酔ったような顔をした夏侯覇に、張郃の怒声が飛んだ。
「あそこまで攻め立てておきながら、敵将の首一つ持って来れんのか」
夏侯覇は、緩んだ顔をさっと引き締めた。
「申し訳ございません」
本当は、あんな首のことなどどうでもよかった。逃したとはいっても、この戦いの大勢には何の影響もない。張郃は轡を寄せ、夏侯覇の若い顔をじっと見た。臆するところのない、いい顔だった。そしてその口元には、若者らしい無精ひげがちょろちょろと生えていた。
「あそこに張の旗がある。見えるか」
自軍にある張郃の旗でなく、敵陣にある張の旗だ。
「見えます」
「あの首を、奪ってこい」
「はい」
大きな返事をし、夏侯覇は勢いよく走って行った。幸い、敵は弱い。この内に、この若い将にたくさんの経験を積ませてやりたかった。
敵の主力らしい馬の旗には郭淮を当てている。見る限り、その主力が夏侯覇に横槍を入れてくることはないだろう。張郃はその戦の様子を、勝ちが決まった闘犬を見物するような気持ちで眺めていた。
思うように馬を動かすことができなかった。敵兵を倒せば倒すほど、地面は死体と武具で埋め尽くされていく。これは、戦場に来てみて初めてわかることだった。
夏侯覇は丘から下りてくる敵に、五千の先頭に立って突っ込んだ。敵の顔には恐怖が浮かび、抵抗らしい抵抗もなく、夏侯覇は麦でも刈るように敵の首を狩っていった。
敵将を見つけた。そちらへ走ろうとしたが、敵兵が阻んできた。夏侯覇は剣を振り、倒れた兵を馬で踏みつけながら進んだ。しかし地面が死体と武具で散らかっているため素早く進むことができず、ついには敵将を逃してしまった。
自陣に戻ると、将軍から怒声を浴びせられた。普段は穏やかな将軍が初めて見せる顔だった。当然だ、と夏侯覇は思った。あの将は、討てた。それを、俺はできなかったのだ。
夏侯覇は気持ちを引き締めなおした。張の旗。次に与えられた俺の獲物だ。五千の先頭で、馬腹を蹴った。右前方には、郭の旗。そちらから敵が出てくる気配はなかった。
人垣が待ち受けているところへ、夏侯覇は真っ直ぐに突っ込んだ。槍。馬を飛ばせて敵を踏み潰し、剣を振った。後ろから続く虎豹騎隊も、夏侯覇の後に続いて飛んだ。中には槍を突き立てられるものもいたが、虎豹騎の圧倒的な勢いにより敵は崩れ始めていた。崩れたところを幾つかにわけた小隊が追い打ちをかける。敵を潰走させるにはもう少しだ。夏侯覇は一度敵から離れて千騎をまとめて一丸となり、敵陣の一番堅そうなところに勢いをつけて突っ込んだ。大きな壁が崩れる手応えを感じた。夏侯覇は敵中に深く入り込み、馬上から敵を斬りまくった。
潰走が始まった。こうなると、軍はもろい。逃げ惑う敵の背中に虎豹騎の槍や戟が突き立てられていった。
張の旗。見つけた。夏侯覇はそちらに馬首を向け、馬腹を蹴った。俺は、お前の首が欲しいんだ。
周囲を守る兵を失った張の旗は、見る見る内に近づいた。敵将。こちらを見ているその顔が、ぐにゃりと歪んだ。夏侯覇は雄叫びを上げた。首が、宙に飛んだ。夏侯覇は違和感を覚えた。剣を持っていたはずの右腕が嘘のように軽い。力み過ぎて、首を飛ばした時に剣も一緒に飛んでいったのだ。夏侯覇はそれに気付いて苦笑し、腰にあるもう一本の剣を抜いた。そして剣を掲げ、叫んだ。
「敵将、討ち取ったり」
夏侯覇の大音声が、戦場に響き渡った。小さい頃から、一度は言ってみたいと思っていたことだった。
味方が次々とやられていく様を、王平は城門の上から眺めていた。張郃軍に動きに無駄はなく、李盛の拠る丘をあっという間に包囲し、壊滅させてしまった。そして張郃はその大軍をさらに前へと押し出してきた。
王平は城門から下り、手勢の千に出撃準備をさせた。漢中で育てた、文字通り自分の手となり足となる軍勢である。千は全て馬に乗せ、各々が得意とする武器の他に、小振りの弓を持たせている。具足を締める紐をよくよく確認し、王平も馬に乗った。
敵将討ち取ったり、という声が微かに聞こえた。そしてすぐに、鬨の声が続いた。王平は舌打ちをした。遅かった。やられたのは誰だ。李盛か、張休か、それとも馬謖か。
すぐに句扶の部下が、討死したのは張休であることを伝えてきた。外ではまだまだ戦が終わる気配はない。急がねば。
城門が開かれ、王平隊の千はゆっくりと城外へと出た。城内には二千を残し、指揮を句扶に任せてある。左に馬謖隊。右に張休隊。どちらも敗色濃厚だったが、将を失った張休隊の乱れは散々たるものだった。馬足を上げ始めた王平隊は、馬首を右へと巡らせた。千は縦隊となり、先頭を行く王平に続いていく。
必死に城内へと逃げようとする張休隊の兵がそれを見て喜びの声を上げた。逆へと走る蜀軍歩兵をかき分け、王平隊は前へ前へと進んだ。夏の旗。目の前の敵は張郃ではないとわかり、少し気が楽になった。
「構え」
縦隊で走る王平隊の千が一斉に弓を引き絞り、矢を構えた。絶好の間合いである。
「射て」
千の矢が夏の旗に襲いかかった。張休隊の追撃に夢中だった敵騎馬隊は突然の矢を受け、ばたばたと倒れた。
王平は弓を吊るして剣を抜いた。いくぞ。口の中で小さく呟いた。矢を受け乱れた敵に、王平隊は一体となって突っ込んだ。一つ、二つ、首を飛ばした。深入りする前に、王平は馬首を返した。数は圧倒的に向こうが多いのだ。迅速に離脱しなければ、こちらが囲まれてしまう。離れる直前、王平は視界の端で敵将の顔を見た。まだ、若い。表情までは分からなかったが、その顔はしっかりとこちらに向けられていた。
弓。一定の距離を置き、敵が体勢を整える前にまた射こんだ。敵兵が、乱れた。奪れる。そう確信した王平は剣を掲げ、手勢と共に腹の底から吠えた。咆哮する一匹の龍が、敵の体内に突き刺さった。勢いのついた王平騎馬を止められる者は誰もいない。夏の旗。手が届くところまできている。敵の将は逃げることなく剣を振り上げ、雄叫びを上げてこちらに向かってきた。小僧、奪れるものなら奪ってみろ。
剣を持つ右腕に力を込めた時、敵の顔がはっきりと見えた。王平ははっとした。夏候栄。何故、お前がここにいるんだ。王平は思わず馬首を返し、敵中から脱出した。離れると、すかさず敵騎馬隊が二隊の間に勢いよく割り込んできた。王平は背中を冷やりとさせた。もう一歩遅れていれば、王平隊は完全に包囲されていた。見ると、張の旗。敵の総大将張郃が率いる騎馬隊だ。
夏の旗が下ろされ、張の旗が敵中に翻った。兵の動きからも、指揮官が代わったというのがはっきりと見て取れた。もう一度騎射をと思ったが、張郃は絶妙の間合いを維持している。この距離では、矢に威力が出ない。かといってこれ以上近づけば危険である。
王平は周りを見渡した。張休の歩兵はほとんどが逃げ込んでいた。そして、城門に馬の旗が翻った。馬謖を収容したという句扶からの合図だ。目的は果たした。王平は張郃に注意を払いつつ、街亭城へと戻っていった。
夏侯覇が、敵将の首を奪った。それを遠くで見ていた張郃の喉から、よし、という声が小さく出た。そして城内から王の旗の騎馬が出てきた。数は、およそ千。敵将の名は王平だということは、黒蜘蛛の調べにより分かっていた。その名を聞いた時に張郃は、どこかで聞いた名だと思った。
王平騎馬隊は、他の隊に比べて動きが良かった。その王平隊が、夏侯覇の方へ真っ直ぐ向かっていった。
「まずい」
張郃は馬腹を蹴った。背後からは、麾下の五千が従ってくる。
夏侯覇は体力の全てを使い果たしているはずであった。実戦では体力の減りが激しい。しかもこれは夏侯覇の初陣である。兵の喚声と血を全身に浴び、正常な判断ができなくなっていてもおかしくない。
王平隊は縦隊を乱すことなく騎射を放ち、夏侯覇隊に突っ込んだ。思わず張郃は唸った。これは、良い騎馬隊だ。
馬首を翻した王平隊はもう一度騎射を放ち、勢いをつけて夏侯覇に向けて一直線に駆けだした。首を狙っているのだということが、はっきりと見て取れた。王平騎馬隊は一本の槍となり、その槍は咆哮を上げて虎豹騎を蹴散らした。王の旗が、夏の旗に見る見る内に近づいていく。間に合うか。いや、奪られる。そう諦めた張郃は、馬首を王平の背後へと向けた。夏侯覇を囮とすることで、敵将を討ち取る。それしか、選ぶ道はなかった。
才能に満ちた若者が戦場で死んでいくのは、今までに何度も見ている。身を置く場所が戦場である限り、それは仕方の無いことであった。しかしそれは、指揮官である自分の責任である。
やられた。そう思った瞬間、敵は馬首を返してその場から離れた。張郃はそれに目を見開いた。
「見事」
激しく揺れる馬上で思わず呟いた。王平隊は魏軍の包囲をするりとかわし、城内へと帰っていった。張郃は夏の旗に馬を寄せた。全身に血を浴びた夏侯覇は、肩で激しく呼吸をしながら顔面を青くさせていた。
「夏侯覇」
こちらに向けられた目は、真っ赤に血走っていた。
「なんだ」
その目ですぐに張郃のことを確認し、夏侯覇ははっとなった。張郃はそれに、にやりと笑って返した。
「大きく吸って、大きく吐け。それを、何度か繰り返すんだ」
夏侯覇は言われた通り、何度か深呼吸をした。それで幾らか落ち着いたようであった。
「俺の旗についてこい」
張郃は夏侯覇を従え、街亭城から離れた。戦果は上々であった。奪った敵将の首は一つであったが、二万五千いた蜀兵は一万前後にまで減っているはずだ。こちらにも被害は出ているが、蜀軍に比べればその数はずっと少ない。
張郃は街亭城から五里を置いて陣を布いた。そしていつでも攻撃に移れる体勢を整えた。
「郭淮」
呼ぶと、陣を布き終えた郭淮が、粉塵まみれとなった顔で近づいてきた。
「一万を率いて敵の後方に回れ」
「御意」
優秀な副官であった。それだけで全てを理解した郭淮は、一万と共にこの場から離れていった。
夏侯覇は、幕舎の中で休ませていた。幕舎に入ると寝台にばったりと倒れて泥のように眠り始めたのだという。戦場で甘やかすつもりはなかった。魏軍は初戦を制しただけで、むしろこれからが本番なのだ。それを、あの小僧にも見せておかなければならない。張郃は顔を引き締めてその幕舎へと向かい、寝ている夏侯覇を蹴り飛ばした。
城内に戻ってきた馬謖と李盛は憔悴しきっていた。王平は帰ってきた兵に手当てをさせ、まだ戦える者を城門に登らせた。
句扶は、城内の警戒に当たらせた。先程城門を開けた時に、敵の間諜が紛れ込んだ可能性がある。句扶は部下に命じて水が入った桶を大量に用意させ、城内の火事に備えた。
日が傾き、落ちようとしていた。王平は城壁の中央に床几を置いてそこに座った。前方では、魏軍が一万の方陣を三つ並べてこちらを睨んでいる。
城内の兵は、一万を切っている。五千もいれば、諸葛亮本隊が来着するまでこの城を守り通すことはできるであろうが、目を覆いたくなるほどの敗戦であった。
今一番恐れるべきことは、目の前で殺気を放つ魏軍に恐怖心を抱いた兵等が恐慌状態に陥ることだ。恐れによって大声を出す者がいれば即刻斬れ、という命令を全軍に伝えた。
篝火の数も増やし、見張りの近くに置いた。兵の体を冷やさせないためだ。空気が乾いた涼州の夜は寒い。体を冷やせば、心も弱る。城内に入った敵の間諜がそれに付け入り火事を起こすことは十分に考えられたが、背に腹は代えられなかった。そして飯を炊き、家畜を屠ってその肉を焼き、兵の腹に入れた。腹がふくれれば、体は温もり力も出る。
日が落ちると、魏軍も篝火を増やした。同じことを考えているのかもしれない、と王平は思った。涼州の夜に、二つの大きな炎の塊が轟轟と浮かんでいた。王平は腕を組み、一方の炎の中に座り続けた。
夜も更けてくると、句扶がひょっこり城壁に上がってきた。
「兄者、そろそろお休みくださいませ。お体を冷やしますぞ」
「なんの。戦いの最中だというのに休んでいられるか。兵らは、俺のこういう姿を見て力を出すのだ」
句扶もそのことはよくわかっていたので、それ以上は何も言わなかった。
「二度目の突撃をされた時、私は胆を冷やしました。間一髪で敵陣から抜け出してきたときは、ほっとしましたぞ」
こういう言い方をして、あまり無茶をするなと咎めているのだろう。王平はそれに、苦笑いをして返した。
「そういえば、敵に夏の旗を持つ将がいた。あれは何者か、句扶は知っているか」
「恐らく、夏侯覇という者だと思います。長安で下級将校をしていた若造で、漢中で討ち取った夏侯淵の息子の一人だと聞いております」
「なるほど」
と、王平は唸った。
「それが、何か」
「いや、なんでもない。もう少しで首が奪れそうだったので、気になってな。ところで城内の様子はどうだ」
「忍び込んでいた六人の首を討ちました。まだ城内に忍んでいる者がいるかもしれませんので、警戒は解かせておりません」
「馬謖殿と、李盛殿は」
「部屋に籠ったきり出てきません。本来なら、あの人がここに立っておくべきだと思うのですが」
句扶が苦々しげに言った。
「まあそう言うな、幾らか怪我もされていることだろう。それにな」
王平は句扶の耳に近づいて言った。
「あの人には、今は寝ていてもらった方がいい」
それを聞いて句扶が少し笑ったので、王平も笑った。二人のこんなところは、昔のままであった。
両軍が対峙し、二日が経とうとしていた。その間に王平は一睡もせず、ただ城壁の床几の上に座り続けていた。辟邪隊で鍛えた忍耐力があったので、王平にとってそれはなんでもないことであった。
目前の敵も、相変わらず陣を組んだまま攻めの姿勢を崩していない。そして時折、兵を後方と入れ替えている。さすがは張郃の軍であった。その動きに、無駄はない。
城内の蜀兵の顔には段々と疲れの色が出始めてきたが、それは向こうも同じことだろう。兵が馬上にある分、敵の疲れの方が濃いかもしれない。しかし張郃軍から発せられる殺気は、微塵も揺るぎはしなかった。
諸葛亮率いる本隊が、ようやく姿を現した。城内に到着すると、魏延がばたばたと城壁に登ってきた。
「王平、よくぞ生きていた。話は聞いたぞ。馬謖の阿呆が、やらかしてくれたそうじゃないか」
王平はほっとした。正直なところ、あの軍と相対することはとても体力のいることだった。魏延に拱手をすると、王平はがくっと膝を折った。その王平を、魏延の大きな腕が支えた。そして、持ち場にいる全兵士に向かって叫んだ。
「お前ら、今までよくぞ持ちこたえた。俺が来たからにはもう大丈夫だ。全軍持ち場を交代し、しっかりと休め」
城壁から喚声と笑い声が上がった。やはり大将はこうでなくてはならない。王平は姿勢を正しながら、そう思った。
最悪の報がしらされてきた。街亭で馬謖が兵を出して戦い、散々に打ち破られたという。どんな理由があってそんなことをしたのか。諸葛亮はその報せを聞いたとき、にわかに信じられなかった。諸葛亮は歯噛みした。そして無駄だとわかりつつも、馬謖に言ってやりたいことを伝令に対して怒鳴った。その怒りは、諸葛亮の身辺を警護している趙統が狼狽するほどだった。
行軍中、続々と敗戦の詳細が伝えられてくる。馬謖に与えてあった二万五千の兵は、今や一万にも満たない兵力になっているという。街亭という一点を守り、本隊を待つという使命を果たすためには十分過ぎる兵力を与えていたはずだった。
馬謖に対する不安は確かにあった。今まで諸葛亮が見てきた英傑に比べると、幾分も見劣りする。だからこそ、五千で防げる城に二万五千を差し向けたのだ。あるいは兵を与えすぎたから、この結果を生んでしまったのか。
諸葛亮は後方の兵糧集積所に後詰として残していた羌軍三万の内、二万を街亭へと向けるよう命令を出した。これで一応の補填はできるが、やる気のない羌軍はできれば前線に出したくなかった。
街亭に到着した。着くと、すぐに守将と兵卒を交代させた。守将の王平は一睡もすることなく城を守り、本隊の到着を待っていたのだという。そこまでできるなら、何故馬謖の暴走を止めることができなかったのか。諸葛亮の心には王平に対する感謝より、恨みの念が強く湧いた。
城から目と鼻のさきに、馬謖を破った張郃が布陣していた。全く隙の無い陣である。騎馬を整然と整列させた三つの方陣からは強い殺気が放たれていて、今にも攻撃をしかけてきそうであった。王平はこの緊張感の中でじっと堪えていたのか。そう考えると、王平に対する悪感情は自然と消えていった。
先ずは、この張郃軍を叩かねば。そう思った諸葛亮は城内の警備を趙広とその部下に任せ、句扶を外に放って張郃軍を調べさせた。
そして、馬謖がいる部屋へと足を向けた。城へと帰ってきた馬謖は、怪我を理由に部屋に籠ったきり一歩も外へ出てきていないという。情けない話だった。例えば昔の劉備軍を支えた関羽や張飛なら、体の一部分を失ったとしても城壁に登り、兵を叱咤していたことだろう。
部屋の前にいる衛兵を無視して、諸葛亮は勢いよく扉を開けた。そして驚く馬謖の顔を、思い切り平手で打った。寝台に倒れたその馬謖の顔には、反抗の色すら垣間見えた。こいつはもう、使い物にならない。そう思うと、諸葛亮の口からはいかなる言葉も出てこなかった。
「私は」
何かを言おうとする馬謖を尻目に、諸葛亮は無言で部屋から出て行った。そして何故負けたのかを細かく調べるよう、部下に命じた。
そうこうしている間に、句扶の諜報が第一報を伝えてきた。報せは、句扶が直接持ってきたのだという。嫌な予感がした。会った句扶は、全身が汗にまみれていた。敵に見つかったのかと聞くと、そうではないという。
「敵陣に、郭淮と一万の姿が見えません」
それを聞き、少し考えた。そしてすぐに頭の中が真っ白になった。すぐ目の前で殺気を放っていたあの張郃軍は、囮だったのだ。敵の本命は、兵糧庫。それも弱兵一万で守る兵糧庫である。
諸葛亮は麾下の部将である馬岱に一万の騎馬を与えて兵糧庫へと走らせた。しかし今からではもう遅いだろう。諸葛亮は祈るような気持ちで次の報を待った。
翌朝、目の前にいた張郃軍は忽然と姿を消していた。それが何を意味するか、諸葛亮には痛いほどわかった。兵糧庫が焼かれたという報が諸葛亮に届いたのはそれからすぐだった。これでは、もう兵を前に進めることができない。
諸葛亮は自室の椅子に座りこみ、天を仰いだ。
取り返しのつかないことをしてしまった。魏を倒すことは、劉備が存命だった時からの蜀の悲願であった。そのために蜀は呉と結び、南蛮を征し、羌と結んだ。そして満を持して臨んだ魏との戦で負けた。それも、二万に近い兵を失うという大敗北である。こんなことになろうとは、夢にも思わなかった。負けることがあっても、少数の損害を出して城内に逃げ込めばいいと思っていた。しかし、現実はそんなに甘くはなかった。
これからの蜀軍はどうするのだ。そんなことは、考えたくもなかった。自分が考えても、もはやどうすることもできないことだった。部屋に籠って寝台に潜り、二日が経とうとしていた。部下には怪我だと言っていたが、その実は大したことなどなかった。部屋の外にいる、馬謖を見てくる人々の目が怖かった。
兄が、優秀であった。兄の馬良は諸葛亮と組み、奪ったばかりの益州の仕組みを整えていった。その仕事振りは、誰もが認めるところであった。自然、兄弟である馬謖にも周りからの期待が寄せられた。そう思われていることを、馬謖は痛いほどにわきまえていた。
兄のようになりたくて、書をよく読んだ。そして学んだことは、必ず誰かの前で口に出して言ってみた。言うと誰かしらが認めてくれるからだ。
「さすがは馬良殿の弟だ」そう言われるだけで、馬謖は十分満足できた。
呉との戦で、兄が死んだ。成都から兵を送り出す時にその死は覚悟していたとはいえ、それは辛いことだった。そして諸葛亮は、自分のことを近くに置くようになった。いずれお前は蜀を背負うのだ。諸葛亮からは口癖のようにそう言われた。しかしそれは兄の馬良に対して通すべき義だったのであり、自分の能力を評価してくれてのことではなかった。
それでも、色々と教えてくれる諸葛亮の気持ちに応えようと、馬謖は努めた。しかし歳が三十を過ぎる頃にもなると、徐々に気付き始めるのであった。自分は、凡庸である。兄の馬良や諸葛亮のように、天才的なところは欠片もなかった。そしてそれを痛感させられたのが、王平との模擬戦であった。
自分は天才ではないが、それでも多少の才には自信があった。しかしそんなちっぽけな自信すら、王平によって打ち砕かれた。それを見た蔣琬や費禕が陰で何と言っているか、想像しただけで毛が逆立つほど苛立った。
南征の時、諸葛亮は常に自分に先鋒を命じてきた。そして与えられた策に従えば、必ず勝てた。その策は諸葛亮が考えたものだということ知らない部下たちは、馬謖に尊敬の眼差しを送ってくるようになった。それは、気持ちの良いことであった。
魏との戦では必ず大きな戦功を立ててやろうと心に決めていた。誰かに操られてではなく、自分一人の力で魏軍の先鋒を打ち破ってやれば、周囲の目はもっと自分のことを尊敬するようになるだろう。そうして戦功を立て、蔣琬らの鼻を明かしてやりたいと思っていた。
しかし魏軍騎馬隊は、南蛮軍とは全く異質なるものであった。その統制は隅々にまで行き届いており、兵の動きに無駄がなかった。話が違うじゃないか。馬謖はそう叫んでしまいたかった。
今になって思い返してみれば、何故あんな浅はかなことをしてしまったのかと思わざるとえない。もし策を誤ってもそこまでの損害は出ないであろうと、根拠もなく思い定めていた。失敗しても、どうにかなるであろうという気持ちがあった。
何故、李盛は見え透いた敵の策にかかったのか。何故、張休はもっと奮戦してくれなかったのか。何故、王平や黄襲はもっと必死になって自分のことを止めてくれなかったのか。何れも、声に出して言えるようなことではなかった。
唐突に、部屋の扉が開かれた。諸葛亮。何を言うわけでもなく、自分の顔に平手打ちをくらわし、黙って出て行った。言い訳をする余地すら与えてくれなかった。あんなに冷たい目をする諸葛亮を、今まで見たことがなかった。俺は、これからどうなるのだろう。
しばらくすると、今度は扉を叩く音がして、楊儀が入ってきた。戦の様子はどのようであったか、取り調べが行われるようだ。
馬謖は楊儀に連れられて、地下の小部屋に通された。石造りの壁に、幾つかの灯が揺れている。
少し間を置いて、李盛も入ってきた。粗末な服に身を包んだ二人は並んで座らされ、正面には楊儀が座った。その周りを、剣を携えた衛兵が囲んでいる。
「これは、まるで囚人のようですね」
顔前面を脂汗で照からせた李盛が言った。囚人のようなのではなく、囚人なのだ。李盛の言葉を聞いた楊儀が、低い声で苦笑していた。
馬謖は楊儀の質問に、包み隠すことなく答えた。その都度、楊儀は竹簡に筆を走らせた。李盛は楊儀の質問に、何も憶えていないと言うのみであった。糞を漏らすくらい恐ろしい体験をしたのだ。恐らく李盛は、本当に何も憶えていないのであろう。しばらくすると李盛はこの場の物々しい雰囲気に気付いたのか、自分がどれほど勇敢に戦ったのかをまだ体にある生傷を見せながらまくし立て始めた。その間、楊儀は表情を変えることなく黙って聞いているだけだった。
「楊儀殿」
馬謖は楊儀のただならぬ様子を前にして、思わず聞いてしまった。
「我らは、どうなるのだ」
楊儀は視線を虚空に泳がせ、大きく息をついてから言った。
「我ら蜀軍は、ここから撤退することになりました」
「蜀軍のことではない。俺と、李盛のことを聞いているんだ」
楊儀は首を横に振った。
「こんな時になっても、まだ自分のことしか考えることができないのか」
「何」
「あなたは何人の兵を殺したと思っているのだ。蜀軍の撤退を聞いてもまだ己のことしか案じることができないとは、情けないことだ」
以前とは、口調が違った。
「このままだと、死罪はまぬがれないな」
「待ってくれ」
李盛が席を立って叫んだ。卓についたその手は、小刻みに震えている。
「俺は、この人の言う通りにしていただけなんだ。それなのに、何故俺も死ななきゃいけないんだ」
周りの衛兵が、李盛の体を取り押さえた。
「俺は騙されたんだ。この人について行けば出世できるって、張休にそう言われたんだ」
「出せ」
楊儀が言った。衛兵は李盛の体を拘束し、担ぎ上げた。
「待て、そうだ。俺のことを平民に落としてくれ。俺が悪いわけじゃないんだから、それで十分なはずではないか。だから、平民に」
李盛が部屋から出され、扉が閉ざされた。外からはまだ李盛が何かを喚いているのが聞こえたが、すぐに聞こえなくなった。
「馬謖、お前は何かあるか」
馬謖は卓に肘をつき、頭を抱え込んだ。どうしてこのようなことになってしまったのか。
「俺は、自分で望んで出世をしてきたのではない。諸葛亮という男が、勝手に仕立てあげてきたことなのだ。俺の器は、そんなに大それたものではなかったのだ」
「それに気付く機会は、今までに十分にあったはずだ。ここへと辿り着く前にそのことに気付けなかったのは、お前の罪だ」
楊儀は静かに言った。
「お前に何がわかる。周りから期待され、励まされて、やっぱり自分は無能だから勘弁してくれとでも言えばよかったというのか」
「言えばよかったのだ。言えば、認められる。しかしお前は言わなかった。自分で自分のことを無能だと認める勇気がなかったのだ。己の無能を認めていれば、周りはお前のことを助けてくれただろう。認めなかったからこそ、お前は己の破滅を招いたのだ」
馬謖ははっと顔を上げた。楊儀の変わらぬ顔が、そこにはあった。
「俺は、死ぬのか」
壁にはまだ灯がゆらゆらと揺れている。馬謖の目にはそんな灯の揺らめきすら、羨ましいものに見えた。
王平伝③
演技では書かれていない人物のことを書くのが楽しすぎます。またよろしければ読んでやってくださいm(__)m https://twitter.com/nisemacsangoku