名前も知らない【09-10】

古瀬

名前も知らない【09-10】
  1. 09-1
  2. 09-2
  3. 10-1
  4. 10-2

▼前章
https://slib.net/105786

▼はじめから
https://slib.net/105096

09-1

09-1

 古びた原付に乗って自宅を出て、そこまでは最短で二十分だ。
 スマートフォンで、できるだけ混雑を避けつつ時間もかけずに到着できるルートを調べた。何度か候補を試して、表示されていた二番目の行き方が最も優れているとわかった。もっとも、このあたりは駅から離れたら畑と田園ばかりだから、少し慣れればいくらでも抜け道を見つけることができるのだが。
 少しだけ名の知れた公園の裏、十五軒ほどの建売住宅を抜けて、周囲に木々が増え始める大きな左カーブを曲がる。やや傾斜のきつい二十メートルをのぼるあいだに見晴らしはすっかり良くなって、その上に建つマグノリアハイツの駐車場からは周囲一帯がぐるりと見下ろせた。日当たりも、風通しも良好な高台にこの集合住宅は建っている。
 永遠、という意味を持つ隣のチャペルウェディングは、広くとられた駐車場の奥のほうに細長い形で作られていた。食欲をそそる匂いが厨房裏から漂ってくる。時には、館内で流れている音楽が小さく耳に届くこともある。

 駐車場に原付を止めてヘルメットを外し、僕は足早に階段を駆け上がる。マグノリアハイツ202。L字型の直角にあたる部分で、ベランダのむこうの駐車場に植えられているのは白樺とトチだということも、すでに知っていた。

 廊下を駆ける音に気づいたらしい彼女が玄関のドアを開けると同時に、僕は部屋に飛び込んで目の前に立つ人物を素早く抱き上げた。
「わ、ねえ、ちょっと――」
「愛情表現」
 驚きながらも高い声で笑っている千紘を抱きしめながら、すばやく靴を脱ぐ。勢いを落とさず、廊下を何度かくるくると回りながら中へと進む。ねえ亮太、とか、落ちちゃうから、と笑う声が聞きたくて、僕はあえて大きな動作でそこらを動き回ってみる。そのあいまに、何度も音を立てて彼女の顔じゅうに唇を押し付ける。
 そのまま千紘をキッチンまで運び、シンクの横にすとんと座らせた。同じ目線の高さにある顔は、まだちょっとびっくりしているように見える。
「待ちくたびれた?」
「そうでもないかな」
「ごめん、閉館に手間取って」
 そんな言い訳をしながら、乱してしまった彼女の髪に手を伸ばす。

 八月の半ば、土曜の十四時。設備点検とかで、ダンススクールが午後から休館になっている日だった。風が強いおかげでそこまで暑さは感じなかったが、日差しは強く身体が熱を吸い込んでしまう。
 冷房の効いた部屋で、彼女はリラックスした服装でいた。袖の短い白のブラウスに、幅の広いベージュのパンツをはいている。奥のディスプレイに何かの画像が映っているから、仕事をしていたのかもしれない。
「何かあったの?」
「生徒がいつまでも帰らないんだよ」
 不満を込めて告げた。
 様子を思い浮かべたのか、千紘はああ、という顔で納得しているみたいだった。
 週末だけあって、普段はいない家族の送迎も多い。ちょっと挨拶するつもりが長話になってしまうこともしばしばで、最後の生徒を送り出したのは閉館時刻の十五分も後だった。
「顔では笑って心で号泣」
「そんなに?」
「『俺はさっさと彼女に会いに行きたいんだ』」
 心の声を再現してから、千紘の額にかかった長い前髪を持ち上げた。
 小さくつるりとした額と、つんと上を向く小さな鼻。額は少し汗ばんでいる。
 額を合わせるようにして彼女の表情を覗き込むと、
「不埒」
「認める」
 真顔で頷くと、千紘は小さく噴きだした。


「でも、昼飯は買えたよ」
 背負っていたバックパックを下ろして、中に押し込んだビニール袋を引っ張り出す。
 上を固く結んだビニール袋の中には、牛丼チェーンのトマトハンバーグ丼が入っている。昨日偶然話題に出したところ、彼女が知らないと言ったのだ。こういった類の店にはほとんど行ったことがないらしい。
 それならデリバリーしてあげよう、と店に寄ることにした。昔は週二で食べていた、懐かしいものを彼女にも教えてあげたかった。
「こんなにすぐ叶うなんて思わなかった」
「だって、食いたいものなんて先送りするもんじゃなくない?」
 はいどうぞ、と彼女に手渡す。サイドメニューのパックも入っているビニール袋は縦に長く、抱きかかえるようになってしまう。
「ありがと」
 足を小さくぶらぶらさせながら、まだ温かいと袋を持って言っている。彼女は本来こういう場所に座るのは苦手な性格なのだが、僕が目の前に立っているから降りられないのだ。


「先週のカレーも、美味かったな」
 金曜の午後からこの部屋におしかけて、日が暮れるまで僕達は寝室にいた。
 外食に出るのも疲れるだろうと思い、何か頼もうか、と提案したのだ。千紘は数秒間黙ってから、カレーならあるんだけど食べる? と僕に訊いた。
 食べると即答してからふと思い立って、もしかして俺が来るから多めに作っておいてくれた? と尋ねた。彼女はちょっとむっとしたような顔で、そういうことわざわざ気づかないで、と顔を背けた。手料理というのが恥ずかしいらしい。
「そう? 普通のカレーじゃなかった?」
「俺にとっては違うの」
 手にしていた袋を脇に置き、彼女は降りるから手を貸して、というふうに仕草で訴えた。はいはいと再び抱き上げ床に下ろすと、そうじゃなくて、と困惑したような声を出した。
「千紘のすることの中に、俺が入ってるってことが嬉しいのであって」
 手を洗うために、シンクのほうに移動する。固く縛った袋の結び目を爪を立ててほどこうとしている彼女に、力入れて結んだから切ったほうがいいよと告げる。

 あまり家から出ない生活をしているらしい。
 自宅が仕事場になっているし必要なものは一通り揃っているから、と言っていた通り、リビングの一角には仕事道具が並んでいて、彼女は一日の大半をそこで過ごしているようだった。
 その手の仕事依頼サイトに複数登録しているけれど、最近は地元の個人事業主向けの印刷物を作成することが増えてきたと言っていた。店で使うメニュー表や値札、ポイントカードの説明用のポスターやリーフレットなどを作っていると言っていた。知人を介して近所の商工会の仕事をしてからはそこからの依頼が増えたとかで、最近はその商店街から入ってくる仕事ばかりしているようだ。ネット販売を始めたいと相談してきた相手に必要なものを揃えて販売方法を教え、開店まで付き合うこともあるらしい。直営の販売サイトは作ったことがないけれど、モールに登録して軌道に乗るまで何かと相談に乗ったりもしている、とも。
 それって千紘の職種とはちょっと違う仕事なんじゃないの、と尋ねると、彼女は素直にうんと頷いた。ウェブの仕事も出来たほうがいいかなって、対応できることはするようにしているうちにこうなってきちゃった、と。
 そんなことを言いながらも、自分のことはあまりフリーランス向きの性格じゃないと言っていた。いずれは今の仕事と同じ業種で再就職するつもりでいる、らしい。あまり焦ったような感じがしないのは、体調面で今はそうする他に選択肢がないせいだ。
 無駄がないね、と指摘すると、余裕がないだけと笑う。優先しなくちゃいけないことだけ最低限に詰め込んで、あとのことには手をつけていないの、と。
 そんな生活をしているせいか、彼女の生活には緩慢な雰囲気がまるでなかった。複雑な感情が入る仕事以外の人間関係とか、使うことのない物や服、契約したままになっている趣味の支払いとか、そういうものが。清貧、なんて言葉は失礼かもしれないけれど、何だかすべてがすっきりしていた。
 油断とか役に立たないことができるって、ある意味余裕があるってことなんだと思うよ。
 そう笑う千紘がいやに健気に見えて、僕は言葉を返すことができなかった。

 彼女の負担にならないように、僕と過ごす時間を作ることで予定が狂って他の物事に追われたりしないよう、僕もまた彼女との逢瀬のために知恵を絞った。突発的に彼女を誘い出すのは控え、部屋を訪れる時には一言断って出来ることはさせてもらった。
 彼女はそのくらいは大丈夫だと笑っていたけれど、僕が帰った後に散らかったキッチンや寝室をひとりで片付けさせるのが痛ましく思えて、原状回復(・・・・)して帰らせてと頼むことにしたのだった。

 実際に彼女と付き合い始めても、僕の心は簡単には穏やかにならなかった。
 目覚めれば姿を思い出し、一日の終わりには声をかけたくなる。
 気持ちも調子もらしくないように乱されながら、それでも会いたいと連絡してしまう。

 同じ部屋の離れたところに腰を下ろせば、もっとこっちにおいでよ、と言ってしまう。
 近づけば触れたくなって、気づけば後ろから抱えこんでしまうばかりだ。

 琴線に触れる存在。
 ふいに浮かんできたその言葉に、僕にとっての彼女はこれだ、と思った。
 千紘は、そこにいるだけで僕の深いところを小さくひっかいてくる。

 ――食事を買って来てくれて片付けまでして帰るような男の人なんて、本当になかなかいないと思うよ。
 僕を見送ろうと駐車場まで一緒に降りてきた彼女が笑って言う。
 ――だって、ふたりでいたら光熱費だってばかになんないし。
 ――そういうところ、しっかりしてるよね。
 ――ひとり暮らししてれば、わかることでしょ。
 ジェットヘルメットを取り出しながら告げる。
 想像力のある人ね、おかげで助けられてる、と彼女が微笑んだ。それは良かったなどと答えながら、内心ではガッツポーズをしてしまうのだから僕も単純だと思う。
 本心としては、押しかけ続けるよりも自分の部屋に誘いたかった。
 数回は迷ったが、千紘のような人を気軽に招くようなアパートではないと思い断念したのだ。築年数は長く住人は男だらけ、さらに壁も薄い。

 原付にキーを差し入れる前に、もう一回、と彼女を抱擁した。

 ――大事なんだもん。もう、俺、ばかでいいよ。死ぬほど大事。

 僕の腰にそっと手を回している千紘に囁くと、彼女は小さな声で、うん、と頷いた。
 甘えるように身体を寄せてくるのを、可愛い、と思う。失ったものの跡にまだ苦しむ日があるのに、彼女の中にあるものはふわりとあかるい。
 また連絡する、と言ってエンジンをかける。
 彼女のほんの少しだけ寂しそうな表情が見られるのは、この時だけだ。


 
『急にすみません。恭一さん、そっち行ってますか』
 宮津蓉子、という名前と、何かの文庫本をテーブルの上で撮影したらしいアイコンがトークアプリに浮かび上がった。
 思わず、うわ、という声が出てしまう。
「え、何かありました?」
 カウンターのむこうから、金子さんにそっと尋ねられる。ペットボトルのお茶がぎっしり詰められた箱の端に、会計済のシールを貼ってくれている。
「あったっぽいんだけど、これは何とも――」
 苦笑しながら告げると、同じ表情になった彼女の口からあらら、とこぼれた。個人的なことだとわかったのだろう。それ以上は訊かれることはなく、二箱もひとりで運べます? と心配してくれる。 
 問題ないことを伝え、僕はふたつ重なったダンボールを両手で持ち上げる。

 備品の買い出しに出てきていたところだった。
 普段はネットでまとめて注文しているのだが、今回は配達を待たずに茶類が切れてしまったのだ。麻子にビニールポーチを突き出されながら「裏の店で買ってきて」と命令され、少々お待ちをと事務室を飛び出したのだった。
 スクールのすぐ裏にある酒屋で、金子さんは店主の一人娘だ。うちの関係者の彼女でもある。
「開けますね」
 金子さんは会計の済んだレジから素早く出てきて、僕を出入口のほうまで先導してくれた。手動になっているガラスの押戸までちょこまかと小走りで出ていき、大きくドアを開けてくれる。
「すみません、わざわざ」
「喜和子先生のところは、もう長いお客さんですから」
 にこ、と微笑まれる。あまり口数は多くない人だけど、細やかなしっかり者だと聞いている。

09-2

 宮津さんとは、二度しか会ったことがない。
 正直に言えば、連絡先を交換するにも少し気が引けたくらいの相手だった。

 ――悪いけど、今日蓉子一緒でいいかな。あいつ俺のこと疑ってて、どうしても付いてくるって聞かないんだ。
 小声でそんな電話がかかってきたのは、いつものように櫂谷と会う約束をしていた日の昼休みだった。
 ――いいけど、疑ってるって?
 ――まあ、俺が悪い。社長んとこ泊まっちまった。
 ああ、という声が口から自然と漏れた。

 櫂谷が勤めているのは、そう大きくないグラフィックデザインの会社だ。イベント用の映像作品などを手がけているほかに、最近ではスマホ用のゲームを作ったりもしているらしい。
 入社した時から、彼が社長に大層気に入られたということは聞いていた。櫂谷より一回りほど年上の女性で、現代美術にもあかるい人らしい。面接の際にも別室から見物にとわざわざ顔を出してきたと言っていた。
 彼がどんなルーツを持った人物なのか、履歴書からわかったのだろう。同じ苗字で、出身地はあの画家ゆかりの田舎町だ。その名前は聞くのも嫌だというような、ふてくされた、ちょっと影のある青年に彼女の目の色は変わってしまったのかもしれない。
 入社当時から、人に紹介してあげるとあちこちに連れ出されたと言っていた。交友も華やかな人で、妹さんはモデルらしい。一時期は仕事を覚えるよりも社長の近くにいる時間のほうが長いくらいだったと彼がぼやいていたのを覚えている。
 華やかな人間関係にも、権威にも金にも大した興味がない櫂谷にとって、それは静かな苛立ちが溜まり続ける日々だったらしい。元々他人への関心が薄く黙々と手を動かしているほうが好きなやつだ。人間関係が広がりすぎるのが憂鬱で、普段は無愛想な対応を崩さない。
 あちこち引っ張り回されるのを煩わしく思った櫂谷がそれを表に出してしまったのは、彼がその会社に入社してから三ヵ月ほど経った頃のことだった。不機嫌そうな、けだるそうな態度は本来ならばたしなめられるはずのものだったが、どういうわけか社長の気持ちをさらに盛り上げてしまったようだった。それからも、何かあれば真っ先に声がかかるらしい。
 その社長の家に泊まった、と彼は言った。
 口ぶりから、そういうことになってしまったのかもしれない。本当に、ここまで何にもしないのに女が巻き付いてくるのは何故だ、といつか原が言っていたのを思い出した。
 ――普通にしていてくれたらいいから、頼む。
 異性のことになるとここまで切れ味を失うのが、彼だった。

 その日の十八時、約束の場所で僕は初めて宮津さんに会った。
 彼女は櫂谷の腕をぎっちりと抱きつつ、一歩下がったように彼の斜め後ろに隠れていた。宮津蓉子。市内の図書館で司書の仕事をしている、大人しそうな女性だった。
 肩下までの髪を同じ長さで切り揃え、細い眼鏡をかけていた。ほとんど色味を感じないほどの薄化粧に、後ろのほうでひとつに結った髪。黒の小さなバッグに、赤と白のチェックのマフラー。本当に心配だったのだろう、僕のほうを警戒心に満ちた表情で睨んでいた。
 本来は、読書好きで物静かな人柄の持ち主なのだろう。そういう人物がなりふりかまわない状態になっているような、それはとても異様な光景に見えた。
 困り果てた表情の櫂谷に、どうしたらいい? と目で尋ねた。彼はあいまいなサインしか送って来なかった。実際、本人もどうしたらいいのかわからなかったのだと思う。
 待ち合わせ場所の近くにある、カジュアルなイタリアンに三人で入った。席に座って櫂谷がそれぞれを紹介した時にどうも、と頭を下げたきり、宮津さんは僕に対しては気を許すつもりはないとでも言いたげに何も喋らなかった。

 食事前、櫂谷が手洗いに立とうとした時だ。
 取り残されそうになった彼女は、とても不安げな顔で彼を見上げた。
 ――亮太はガキの頃からの仲だから、何も危なくねえよ。
 くたびれたような、若干苛立った様子でそう告げ、彼はするりと席を立った。そのまま振り返らずに行ってしまう。宮津さんは頼りなく小さくなり、その場で俯いた。
 世間話でも振るべきかと思っているところで、膝の上に置いていた彼女の手に決意したように力が入ったのが見えた。
 身体の脇に置いていた黒のリュックのポケットからスマートフォンを取り出して、握りしめているのが見える。

 ――連絡先を、交換してください。

 彼女は僕のほうを見て、意を決したようにそう告げた。
 あまりに切実な、そして余裕のない様子に、僕はすぐに返事ができなかった。

 ――構いませんけど。

 その後を紡げずに、言葉に詰まった。
 宮津さんは、怖れと怒りを混ぜ合わせたような目で僕を見ていた。
 まともに喋った一言目がこれか、と思うと、先が思いやられる気がした。

 ――わたし、恭一さんのこと心配なんです。

 僕のことなんてほとんど見えていないような、それはとても切羽詰まった声だった。
 白熱球にやわらかく照らされた、漆喰風の黄色い壁や煉瓦風の床。クラシックギターだけで奏でられているささやかなBGMの中で、彼女はひとりスマートフォンを握りしめ、恋人を失うかもしれない恐怖で張りつめていた。
 すでに、別れ話は何度もされているはずだ。出て行ってくれ、とも。もう自分に彼の心が向いていない、ということを、認められないのかもしれない。そういう話になれば黙って俯き、少し泣いて、翌日は元通りなんだと櫂谷が言っていたのを思い出した。

 心配なんです、と彼女は繰り返した。

 ――心配なんです。彼、純粋な人だから、良くない人達に傷つけられそうで。あの人のこと、一緒に見ていて欲しいんです。

 だから連絡先を教えてください。
 一息にそう述べてから、彼女はグラスに手を伸ばし、強く掴んだ。
 コップの中に残っていた氷水を、そのまま飲み干してしまう。

 もう一度、構いませんけど、と繰り返した。
 もちろん、本心ではなかった。そう返す以外の言葉が浮かばなかっただけだ。

 ――構いませんけど、僕もそこまで頻繁に会ってるわけじゃないんで。緊急用と思ってもらっていいですか。
 少し強めに告げた。実際は、かろうじてそう言えたに近かった。
 彼女は眉を寄せながらも、目を反らさずに頷いた。


 講師はレッスンに向かってしまったのだろう、事務室には誰もいなかった。
 運び込んだダンボールを所定の場所に重ねて置き、会計用のビニールポーチを彼女のデスクの上のケースに戻す。ホワイトボードに連なっているクラスの一覧を確認して、どこにも自分の名前が入っていないことも確かめた。
 戻ったら月謝袋の振り分けをしていてと命じられたのを思い出し、スチールラックからケースを引っ張り出した。ひとつになっている大量の月謝袋をクラス別に分けるのは毎月僕の仕事だった。
 デスクの上にアクリルケースを置いた瞬間に、再びスマートフォンが鳴った。

『恭一さん、行ってませんか』
 宮津さんだった。

『お久しぶりです。こっちには来てないです。あいつも仕事じゃないんですか?』
『昨日から戻ってないんです。連絡もつきません』

 正直に言えば、心配する必要はないと知っていた。
 昨夜遅くに、蓉子が何か言ってきても知らないと言ってくれ、とメッセージが入っていたのだ。いつもの喧嘩の末に彼が蓉子さんとの空間を抜け出して、ビジネスホテルなりどこかの店なりで朝まで過ごしそのまま会社に行っているのを教えられていた。

『わかりました。あとで電話してみます』
『すぐにしてみてもらえませんか?』
『すみません、僕もバイト中なんですぐには』
 送信してから、思い立って続けた。
『トークは先に送っておきます。連絡ついたら、宮津さんが心配してると伝えます』
 何とかそう打ち込んで、相手から言葉が届く前に送信する。
 
 彼女の打ち込んだ文字に何とも言えない粘り気のようなものを感じて、頭を振りながら顔を上げた。事務所の照明、漏れ聞こえてくる音楽、どこかのどかな昼下がりの気配。
 ひとつため息をついてから、再び手元に視線を落とす。櫂谷恭一の名前を親指で探した。
『蓉子さんから連絡あった。仕事行ってる?』
 急いでそう打ち込んで、作業に戻った。

 

 生き急ぐやつだなあ、と笑ったのは、高校二年の担任だっただろうか。
 進級してすぐの二者面談の席で大学進学は考えていないと言った僕に、彼は顔を上げながらとても不思議そうな顔をした。
 去年までの成績は別に悪くなかったじゃないか、という彼に、成績が理由じゃないんです、と答えた。自分でも歯切れの悪い返答になったと思ったけれど、それ以上の説明は出来そうになかった。
 ――じゃあその、学費とか、経済的なこと?
 担任の野上先生はそう言いながら、僕の個人的な情報が記載されたある書類を持ち上げまじまじと見つめた。だって堀井のお父さんって、と呟いて、そういう心配はなさそうだよな、と不思議そうに続けている。
 まるでぴんときていないような様子に、この人はずいぶん健全な家庭に育ったんだな、という感情が湧いた。それなりの進学先を選べそうな成績と経済的な後ろ盾がある状態なら、他に進学をためらう事柄なんてありえないと思っているのかもしれない、と。

 ――この先四年間も、学生したくないんです。
 ――早く社会に出たいってこと?
 ――そういうわけでも、ないんですけど。

 渋った返答しかできなくなった僕に、彼はううん、と喉の奥を鳴らした。
 桜の花びらもすでに落ち切った、四月の終わりだった。放課後の教室から、淡い夕暮れの光が差し込もうとしていた。
 ――生き急ぐやつだなあ。俺なんか、ぎりぎりまで学生やりたかったのに。社会出てからのほうが人生長いんだよー? 
 少しふざけたような口調で、そう告げられた。
 僕が何も言い返さなかったことに、彼は若干たじろいだようだった。
 野上先生は、書類に目を落としたまま「まあ、何かしらあるんだろうな」と小声で呟いた。

 きっとこの、何かしら、は取るに足らないことだ。
 感じようとしなければ、目を閉じて見えないふりでやりすごせば、それきりのことだ。

 そう思いたかった。実際、そうしようとした。
 わき見をしないで、身体をじっと固くして通り過ぎてしまえば良かったのかもしれない。あんたの考えていることはわからないと、そんな期待には応えられないと、当然のように思えたら良かったのかもしれない。
 不穏な空気に満ちた時代を、鈍くなりながら通り過ぎようとした。できるだけ足早に、両手であのふたりの手を引いて、後ろから迫って来る暗く重いあの闇に追いつかれる前に。

 そう思っていたのに、するっと離れた。僕よりずっと小さな手のほうだった。
 しまったと思うより先に、遠ざかった立ち姿が暗闇に飲まれた。

 
『仕事来てるよ。悪かった。連絡するなって言っとく』
 二時間ほどで戻ってきたその言葉に、ひとまず安堵する。

 宮津さんの存在によって、保たれていることもあるのだと思う。実際に、櫂谷は自らの身体や健康に対してはどうも無頓着だ。その日その時の気分で動く偏った生活を好むし、彼女が来るまでは飲酒もそれなりにしていたはずだから、今の彼の身体的な健康を支えているのは実際に宮津さんなのだろう。ひとり気ままに暮らしていたら、社会人として生きていくのに必要な体力を彼が確保するのは難しかったかもしれない。
 同時に、彼女の中にある櫂谷への異常な執着に彼自身も疲弊していた。喧嘩の頻度が昔よりも高くなり、彼が一夜を別の場所で過ごす回数も増えている。
 ふたりの関係が膠着して、もう長い。

10-1

10-1

 千紘のした、小さく詰まったようなくしゃみで目が覚めた。
 リビングの小さなソファの上で、つい眠ってしまったらしい。
「――寒いの?」
 窓辺に近い場所にあるデスクに向かって仕事をしている彼女に尋ねる。
「ああ、ごめんね。起こした?」
 チェアをくるっと回転させて、彼女は僕のほうを見た。化粧を落とした、若干あどけなさを増した顔だ。ずいぶん大きいサイズのコットンシャツを着ている。
 午前一時二十分。
 周囲もすっかり静かになった高台のハイツで、彼女は依頼された仕事の修正作業を行っているところだった。
 
 椅子から立ち上がった彼女が、僕のほうに歩み寄って来る。
 かけられていたブランケットをまくってスペースを作ると、するりと潜り込んできた。
「亮太って、平熱高かったっけ」
 あったかい、と嬉しげに言う。気持ちよさそうに、ぴたりと身を寄せてきた。
「そうでもないけど」
「毛布に体温が移ってる」
 十月の夜の気温だ。冷えるというわけではないけれど、温かなものに触れればほっとする。
 最近少し伸びてきた彼女の髪に指を差し込んだ。いつものシャンプーの匂いが漂ってくる。 

 千紘と付き合うようになって、三ヵ月が経っていた。
 四月の雨の日に出会って、梅雨の天気雨の日に初めてこの部屋を訪れた。あれから数回ほど近場の名所に行ったりもしたけれど、僕がここに通って来るのが一番互いにとって負担が少ないと気がついてしまった。
 彼女は変わらず静かに暮らしていて、やはり普通の生活をするには少しばかり疲れやすい様子だった。
 会った瞬間から眠そうにしている日もあって、少し寝なよ、と寝室にまで連れて行ったことがある。わたしが寝ているあいだどうするの、と尋ねられたので、スマホいじるか本でも読んでる、と答えた。
 少し考えてから、彼女は「それなら本とスマホを持って一緒に寝て」と僕を布団に引っ張り込んだ。並んでベッドに入ると僕の左腕のほうに身を寄せ、ここにいてね、と僕に念を押し――しかも妙に真面目な顔で――すぐにすやすやと眠ってしまった。
 寝顔はあどけなかった。稀には、寂しげに見える日もある。彼女が普段表に出さない気持ちが眠りのあいまにふと浮かび上がってくるようで、痛ましく見えることもあった。
 心の深いところにある、寂しさや諦め、そういうものの残した跡のようなもの。
 そういったものが、内側から彼女の頬や目元を掠めていく。

 昔のことも話してよ、と言った僕に、彼女は少しためらったように見えた。
 もちろん嫌じゃなかったらだけど、と慌てて付け足す。
 ――面白いことなんて、全然ないからね。手短に。
 そんな前置きがついたあとに、千紘は自分の身の上話をし始めた。

 九歳を迎えてしばらくした頃、母親が再婚した。実家で祖父母と暮らしている中で、彼女の母親は勤務先で昔の知り合いと再会し恋仲になっていたらしい。
 互いに子供のいる男女の再婚で、相手には自分よりも年上の男の子がふたりいた。中学生がひとりと、小学校高学年の男子だった。父親の再婚には反対だったけれど、周囲が説得を繰り返すうちに新たな家庭を受け容れてくれた。
 互いの家の中間地点に家を借り、そこで五人での生活が始まった。子供達はそれぞれ了承していたものの、それはとてもぎこちなく難しい新生活になったらしい。
 新たな家族と打ち解けるのに焦った母親が、千紘を笑い者にすることで彼らとの距離を縮めようとした。
 大人しくて引っ込み思案な性格だった千紘にとって、それは少しずつ小さくなっていくような羞恥と落ち込みを感じさせた。誰にも言わないで欲しかったこと、今までの母親ならそうしてくれたことを次々となじみのない他人に披露する姿に胸を痛めながらも、我慢する他の方法を選べなかった。
 そのやり方が一度うまくいってからは、次第に家庭内で冗談交じりにけなされるようになったらしい。最初のうちは母をたしなめてくれていた、味方だと思っていた再婚相手も次第に同調するようになっていった。彼が初めて自分から千紘を揶揄した日の、周囲の景色や彼の着ていた服の色まで覚えていると言っていた。
 意思や感情を尊重されなくなってきて、あらゆる家の仕事を任されるようになった。生理中であることを家族全員がいる場所で告げられたり、女は勉強なんてできないほうがいいから、とノートを隠されたこともあると言っていた。最後は義理の父や兄が家族が寝静まった時刻に部屋に入って来るようになった、とも。
 僕が息を飲むと、彼女ははっとした顔つきで、最後まではなかった、と言った。拒んだし、何とか阻んだ。小遣いで部屋に鍵をつけたり、寝入ってしまったら身を守れないと家族の中で一番遅くまで起きていたりしてもいたらしい。
 そういうことが限界になったのが、十七の冬だった、と。

 ――相手に意見したら、捨てられてしまうって思ったのかもしれない。そういうこと、母はなかなか止めてくれなくて。

 一連の告白は静かに淡々と告げられたが、そう言ったときだけ、声が揺れて詰まった。
 事を荒立ててしまうことで、母親の幸せを壊してしまうような気がしたのかもしれない。本当の味方がいなかったのだろう。知恵を絞って、何とかそこで状況を止めていたのかもしれない。千紘はその時代のことを、悲しげに、僕に表情を見られないようにうつむきながら静かに喋った。
 ――友達に相談して、家出の段取りをつけてもらった。連れ戻されると思ってたから、家族の暴言とかも録音して。コピーしたものをテーブルの上に置いてきたの。大事にしたら人に渡すって。
 当時の彼女には実際にそれを持って駆け込めるような場所はなかったけれど、世間体を無視できない彼女の両親を抑えるには十分な効き目があった。
 学校は、と尋ねると、その時期はもうほとんど不登校だったから、と彼女は笑った。準備にも時間がかかったし、お金も必要だったし、と。
 信じられないといった顔を僕はしていたのかもしれない。彼女はいつもの口調に戻って、言ったでしょ、と笑った。十代の頃はもうちょっと、性格きつかったって。
 
 ――でもね、そんなの全然珍しいことじゃなかったよ。似たような経験してる子も多かったし。わたしなんか、まだ運が良かったほうなのかもって思うくらい。

 それから成人を迎えるまでの数年間を、店のオーナーが借りていたアパートで暮らしたと言っていた。
 ひどいことももちろんいっぱいあったけれど、ひどいだけじゃ全然なかった、と彼女は言った。友達も出来たし、楽しかったし救いもあった、色々な経験をしているからこその優しさもいっぱいもらった、と。
 昼間の仕事に就くまでが一番大変だったの、と千紘は続けた。わたしはやっぱり夜の仕事には適性がなくて、ずっとはできないなって思ってた。でも学歴も大した教養もないから、転職しても自力で生活できる気がしなくて、と。
 
 ――それにね、気持ちに後ろ盾がない状態でいると、とにかく変な男性がいっぱい寄ってくるんだよ。既婚者とかすごく寂しい人とか、とにかく怒ってる人とか、幼い感じの男性とか。

 言い終えてから僕のほうを見て、亮太みたいな人と付き合えてるってことは、わたしもだいぶ健康的な大人になったんだと思う、と笑った。
 同じ店で働いていた仲間の中には、同じような問題を持った相手ばかり選んでしまう女性もいたらしい。恋人を欠かさないでいるために常に次の候補が存在していた人も、先があかるくないとわかっていても関係が辞められず、暴力や裁判沙汰になってしまうような人もいた、と。
 そういうの全部がわたしには怖かった、と彼女は続けた。寂しさと怖いのどちらかを選ばなきゃいけないなら、寂しいほうがいいと思った。異性に関しては慎重すぎるくらいに慎重だったし、信頼できそうにない相手と簡単に連絡先を交換したりもしなかった、と。
 焦りもあった、と彼女は続けた。自分はここにいる子達と同じようにこの仕事に慣れていけそうにはないから、別の何かを探さなくちゃいけないと思っていたらしい。仕事も、居場所も、いずれは別のところに行きつかなくては生きていけない、と。
 そう決めてからは、意識して本と新聞を読むようにしていたと言っていた。真面目すぎる、人間案外どうにかなるものだから大丈夫だと言われ続けても、不安が残り続けてしまった。何でもいいから、五年十年後の自分のためになりそうなことをしなくちゃと思っていたらしい。

 不器用そうで、人の手を借りて助けられ続けてきた人物に見えていた。
 そんな彼女が、僕の思っていた以上に意識的にその時代を切り抜けていたことに驚かされた。
 素直にそう告げると、彼女は臆病だっただけだよと笑った。どんなに強がっても結局わたしは痛がりの弱虫だしひどい怖がりだから、どうにかしてそういうことを回避したかった。そのために色々考えるようにしてきただけ、と。

 言葉に、嘘は感じなかった。きっと、本当にそういうことがあったのだと思う。
 それでも、聞いた話が目の前に座る彼女の過去であると僕はどこかで信じられなかった。今の彼女に繋がっているような何かを、その話の中に感じなかったのだ。
 そういう場所にいた人には見えないな、と告げた。
 千紘は、もう色々吹っ切れてるからじゃない? と何でもないことみたいに答えた。

 ――それにわたし、昔からあんまり不幸そうに見えないみたい。毎晩寝る前にぐしゃぐしゃに泣いたりしてた時期も、恵まれて見えるみたいなこと、人からよく言われてた。

 そんな中、客のひとりだった三十代の男にひどく気に入られ身の回りのことを色々教えてもらったと言っていた。生活のこと、経済的なこと、それから事務の仕事に必要な知識なども。物静かで、真面目な人だったと言っていた。それが彼女の初めての恋人だと教えられた時は、自分で聞いておきながら胸が痛んだ。
 千紘が苦学生に見えたらしいその男は数年前に離婚していて、中古のパソコン売買で身を立てていた。一台を安く譲ってもらって、操作を覚えたらしい。別れたのは彼の元妻の再婚話が舞い込んで、娘が父親と暮らしたいと言い出したからだと言っていた。
 そのほうがいい、と答えたと言っていた。自分が母親の再婚相手にされたことを思い出したら、それ以外の言葉は出て来なかった。彼は別れまでは考えていなかったが、パパに恋人がいて、その相手が自分と年齢が近いのは傷つくはずだと千紘は説明した。
 その後はカーディーラーのショールームの仕事に転職した。受付がメインで雑用に追われる日々だったけれど、いい職場だったと言っていた。不況のあおりを受けて隣の営業所との合併が決まるまで、三年ほど勤めたようだった。裕道と出会った職場では、もう今の仕事に近いことをやっていたらしい。
 下腹部にしこりがあることに気づいて受診をしたのは二十七歳の終わりで、実際に手術をしたのはそれから二ヵ月後のことだった。

 十年ほどかけて今のところに辿りついたのか、と思わされた。
 周囲から軽くぞんざいに扱われ続けて、立っているのもやっとの家出少女だった人。不確かな足取りで、そこから今の彼女まで。
 目に見える部分では、そう大きなことをしてきたわけじゃないのかもしれない。けれど、水面下ではもっとずっと多くのことを超えてきたように見えた。目に見えて誰かを憎んでいるわけでもなく、過去をひどく引きずっているようにも見えなかったからだ。
 大人しい顔をして、実は恐ろしいことをしてきた人なんじゃないか、と驚かされた。
 今いるところまで、この人はほとんど駆け上がってきたのかもしれない。
 
 ――退院したあと、けっこうひどいこと言われちゃったけどね。女じゃなくなっちゃったんだね、とか、じゃあもう避妊しなくていいんでしょ? 次の男は喜ぶよ、とか。

 愕然として何も言い返せなかった僕に、千紘は言った。一度聞いたことがある言葉は何でも言っていいんだって、どこかで思ってる人もいるからね。特に性に関わることって、その人の考えてきたこととこなかったこと、全部出ちゃうんだと思う。
 逐一腹を立てたところで仕方ない。そういうことばかりを見てきたような言い方に、言葉を返すことができなかった。
 僕が怒りを感じても、どこかでもう遅いのだ、とも思う。彼女自身がすでに自らに起きたことをできる限り解決して、納得していた。彼女が懸命に落ち着けたものをいまさら掘り起こしたり、かき乱したりはできなかった。
 この人の悲しみを、後から来た者が荒らすのは間違いだ。
 そう思いながらも、僕はつい暗い気持ちになってしまう。そこに自分がいなかったこと、何もできなかったことを。
 時に息が苦しくなるような彼女の話を、途方もないような気持ちになりながら聞いていた。


「わたしのところにばっかり来てたら、旅費が貯まらないんじゃない?」
 僕の身体に背中をぴったりと合わせるようにして、千紘はおかしそうに言った。小さなソファに、ふたりで身体を押し込むように横たわっていた。
「今は、それよりしたいことがあるんで」
 目の前の頭に顎を乗せて告げると、くすぐったいと彼女が笑う。ここでこの格好しすぎて、ソファの形が変わってきた気がしない? とも。
「映画もけっこう観たからかな」
「出かける気にならなかったしね。暑くて」
 デスクのほうにちらと目をやりながら、彼女は言った。あと五分温まったら作業に戻る、でも三十分で終わらせる、と。明日は裕道のところにふたりで出かけることになっている。
「涼しくなってきたから、またどこか出かけようよ」
「うん」
 毛布を掻き合わせるようにしながら、彼女は頷いた。

10-2

 恥ずかしがる千紘の手を引いて、最初に連れ出したのは水族館だった。
 人の大勢いるような場所にはしばらく出入りしていなかったようだし、気後れする気持ちも少なからずあったのかもしれない。なるべく混雑した時間は避けたものの、その日の彼女は少し緊張しているようだった。少しずつほぐれて、クラゲの水槽の前で僕のほうを振り向いて見せた笑顔でやっと楽しくなってきたんだなと思えた。そういう、ふと気持ちが自由になる瞬間がひどくわかりやすいのだ。
 彼女はずっと大人しげににこにこしていて、そのくせ建物を出てしばらくしてから館内で知ったらしいものすごくマニアックな海の知識を諳んじてはしみじみと感動したりしていた。それどこで見てきたの、と尋ねると、フグのいっぱいいた水槽の前に書いてあったじゃない、と笑った。小さなバッグをぶらぶらさせながら。
 ――楽しかった。
 その日の帰りも、翌日も、しばらく千紘は言い続けた。
 そこで買った水彩画っぽいクラゲの絵のブックマーカーを、今もデスクの前にそっと飾っている。

「ここ、本当に静かだね」
「駅から距離あるし、近くにお店もないから」
 腕の中からそう答えられる。生活しやすい立地というわけではないけれど、夜から朝にかけては特に静かで空気が澄んでいる。澄んでいるのに、同時に濃縮もされている。
 そもそも恋人と共にいる時間なんて時間の感覚が狂いやすいものかもしれないけれど、僕達もまた、一緒にいると日常生活とは違う時間軸の中に入り込んだみたいに思えた。ただ進んでいくものというよりも、時間そのものが立体的になった。
 高いところは高く、深いところはすこぶる深くなる。それらをゆるやかに行き来しているうちに、あっという間に半日くらい過ぎていたりもした。もうこんな時間か、と思いながら外に出て車の繋がる大通りを走っていると、夢からだんだん覚めていくような感覚すら覚えた。


 迷い込んだ場所に、静かな泉があるように思えた。

 僕が迷い込むようにそこに辿りついた頃には、彼女はすでにそこにいた。
 素足を先に水につけた千紘が僕のほうを振り向いて、案内するように手を伸ばす。ふたりで、その泉の中に入っていく。
 優しく手を引かれ、気付いた頃にはやわらかな水に身を浸していた。
 沁みる場所は、少なくなかった。それでも、そこに沈み込んでしまいたかった。いつか彼女が自分のために作って使った、心の一番奥にある再生のための泉だった。僕がそれを自分自身に許しさえすれば、回復され、取り戻され、再びやわらかく潤っていく。そういう力のある場所だった。
 つまびらかにされてしまうことに時に抵抗を感じながらも、結局はやわらかく洗われてしまう。彼女にそんなことをしているつもりはなく、それでも僕にとってはそんな効能を持っている場所。
 生傷も古傷も、躓いた日についた泥も、誰かを傷つけた日に跳ね返ってついた血痕も。
 そういうものすべてが、そこで洗い流されてしまうような気がした。
 暗い夜の泉に浮かび、彼女に寄り添われながら、額や頬をぬぐわれる。
 そんな景色が、たびたび脳裏をかすめた気がした。


 小さな手が、僕の髪をかき上げる。目が凛々しいよね、とやわらかく囁く。
「俺の目、きつい?」
「そうでもないよ」
 微笑みながら彼女が言う。
 抱きしめるつもりで手を伸ばすのに、気づけば逆になっていることが多いと気づいたのはいつだっただろう。自分よりも小さな体に受け止められて、僕は油断したように安堵してしまう。
 倒れこんできていいよ、と千紘は言う。
 もちろん、身体ではとてもできないことだ。でも時折、心でしてしまう。千紘の中に、心が倒れこんでしまう。
 僕が時々しているらしい目に気づいたらしい彼女が、静かな声で尋ねた。悲しいの?
 いや、と答えて、でもその先の言葉が出てくることは稀だ。
「ちいちゃん」
 彼女は僕のほうを見上げ、目でなに、と尋ねた。
 僕が言葉の続きを持っていないと気付いたらしい。小さく笑って、首を傾ける。
「仕事終わらせてくるから。そしたら寝るまで話そうね」
 唇を離したあとに、彼女は少しだけ年上ぶってそう言った。


 ひどく繊細になってしまう時間を暮らしの中に持っているというのは、ある種の隙にもなるのだろうか。
 堀井くん最近落ち着いたね、とエディフィカンテのオーナーである喜和子先生に言われたのは、秋も深まってきた十一月のことだった。
 事務室で、発表会のプログラム作成をしていたところだった。いつもの上下黒のレッスンウェア姿で現れた彼女は、手にしていたマイボトルにお湯を継ぎ足しながら僕に声をかけた。作業進んでる? そして続けて言ったのだ。ねえ、堀井くんて最近ちょっと落ち着いたよね。

「え?」
「ああ、ごめんなさいね。わたし余計なこと言った?」
 ボトルで手のひらを温めるように握ったり離したりしながら、彼女は素早く告げた。
「いや、全然大丈夫です」
 喜和子先生は安心したようにそう、と頷いてから、低めのスチール棚の上にあった白い編み込みの籠に手を伸ばした。アレンジメントフラワーを貰うことが多いので、この手の入れ物をあちこちで再利用している。
 袋菓子の入った小さめの籠を手に僕のほうに近づいてきて、おひとついかが、と彼女が尋ねた。いつもの台詞だ。すみませんと頭を下げて、のど飴をひとつ貰う。

「堀井くんて、いつも忙しそうに見えてね。息つく暇なく動き回ってるイメージがあるのよ」
 若い男の子なんてそんなものかもしれないけど、と付け足してから、籠を元の場所に戻している。
「僕、そんなに慌ただしいですか?」
 おかしくなって訊いてみる。
 喜和子先生は黒飴らしき袋をあけながら、うーん、と首を傾げた。
「したいことがたくさんあるとか、何か目標があって急いでるとか、そんな感じかな」
 野望みたいな?
 冗談交じりでそう付け足してから、彼女は黒飴をひとつ口に入れた。
 還暦を迎えた今ではおっとりした風情の女性に見えるが、元々はフラメンコダンサーだ。二十六歳から七年ほどスペインで過ごし、日本に戻ってからもダンサーとして精力的に活動していたらしい。スペインに行く気になった時は声をかけてね、とよく言われている。

「したいこと――ってほどのことは、別にないつもりなんですけど」
 手持無沙汰に、デスクトップの上でマウスを何度かクリックしてみる。スクリーンセーバーが何となく苦手で、作動しないように適当な動作を入れてしまう癖が僕にはある。
 喜和子先生は、飴玉を口の中で転がしながら僕のほうを見ていた。
 麻子の母親とは四つ年の離れた姉妹で、若い頃は不仲だったと言っていた。帰国して別のダンススタジオでフラメンコ指導の仕事を始めて、やっと打ち解けたらしい。若い子に構うのが好きだからと、ダンス以外の夢を持っている生徒の話も色々聞きたがる。
「確かに、この頃はちょっと落ち着いてるかもしれないです」
 
 実際は、千紘と会う時間がそうさせているだけなのだと思う。
 微妙なバランスを崩さないよう慎重に生活している彼女に安易な真似は出来なくて、近づくたびにブレーキがかかる。何かとても壊れやすいものが自分の中に入り込んで来たような、脆い細工で出来たものを手渡されたような気持ちになる。
 手の内で、それは静かに僕を見上げる。安心できると、そっと微笑む。
 本来は、誰の中にだってある部分なのかもしれない。傷つかないように奥のほうにしまって、あるいは他の要素で埋め立てている、無防備でやわらかな部分。僕から見た千紘は、そういうところが一部でむき出しになっている人物だった。大きくひびや亀裂の入ったむこうに、恐ろしいくらいのやわらかな部分が覗いて見えた。
 共にいるだけで、その部分が視界に淡いフィルターをかけてくる。受け止められて、なだめられて、苦しくなる時すらある。自分の中に同じような部分が確かにあること、そこが欠けて、乾いて、養われたかったような気がしてくる。
 あふれださないように気持ちを抑えようとしても、それがうまくいくことはほとんどなかった。それならせめて傷つけないようにと、出口を細くする。
 アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようで、うまくいかない。いっそのこと、どちらかにさせて欲しいと願ってしまう。
 そんなことを思いながらも、彼女と過ごす時間のためにせっせと仕事を片付けている自分が嫌ではないのだ。
 
「いいわねえ」
 お茶の入ったボトルのキャップを外しながら、喜和子先生は言った。年齢を感じさせるような、しみじみと深い響きで。
「いい表情だわ。舞台に上がらない人なのが残念」
 感受性だって充分強いのに、本当に何の表現活動もしてこなかったの、と彼女に言われたことがある。ダンスじゃなくても、楽器でも絵画でも、何かやったらきっとすごく面白いのに、と。曖昧に濁してしまったけれど。
 ストレートな一言に何も言い返せなかった僕に、喜和子先生は唇を大きく持ち上げて笑う。
「若いっていうのは本当に、いいわね」
 そう続けて、彼女は機嫌よさげに肩を上下した。

名前も知らない【09-10】

▼次章
https://slib.net/106521

名前も知らない【09-10】

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-05-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted