投擲



 一応、仮の話としよう。
 不審さを利用して、顔も知らないどこぞの住人に嫌がらせを仕掛け、自殺に追い込んで殺害を試みているある地域の住民の方々がいたとして、その方々が採用する方法は杜撰な不審さの表現であったと想像する。すなわち、ただ単純に(ある意味で純粋に)住居周辺を彷徨くなどの不審者としての行動を採用するのである(と、対象者に指摘されたときは、「ああ、アイツは俺又は私のやっていることを認識し、書かなきゃいけないぐらいに苦しんでいる!」と興奮して再度同じ行動をすることをその範囲に含む)。
 しかしながら、その方法は観る側となる対象者がどう判断するかを配慮しない、自分勝手な評価基準に拘る定型的な表出のオンパレード又は決まってしまった失敗を誤魔化す意味のない差異をもたらす細部の変化であり、あるいは殺人者のふりをして相手を怖がらせるといった年齢制限のないごっこ遊びなどとなり、白ける以外にどう反応すればいいのか、観る側が苦笑いを浮かべて困ってしまう。そういうものになっただろう。
 また、電気信号を受領し、知覚として統覚する際に生じる脳内の意識的な観察主体があるとして、それが自己認識を可能とする電気信号の反応の一作用として働く、といったSFチックな妄想を駆使すれば、日常的な殺意の表現の結果を共同し続けたあげく、脳内の反応の一々が規格として統一されることもあるだろう。その結果、先の住民の方々の肉体の違いに関わらず、プログラムのように捉えられる個々の人格の識別の必要がなくなる、と判断することもやむを得ないかもしれない。
 さらに、そのように危険な人格が統一された集団内部で強まる互いに殺し合う殺人の危険が住民の方々の行動によって確保されているが、部外者にはもとより関係ない話である。こうして、観る側が興味を抱ける対象がその集団内部から消失する。そうなってしまうのは理由のあることだと筆者は思うのである。
 さて、下らない仮の話をさっさと放って、現実に腰を落ち着けて記すと、その内容が単純といえるメッセージを「意味深な」ものと感じる人がいるとすれば、その人はその表現をテキストとして「深く読みたい」と望んで接しているか、その表現上の文字などの記号にどこか不審な部分を感じ取っている可能性がある。具体的に存在する作り手自身とは異なる、小説や絵画、映像などの発表物に立ち現れる、語る口や視線を宿した仮想としての表現主体が本当に言いたいことを、わざと言っていない。しかも、そういう受け手が感じる疑惑の視線を自身に向けるよう、工夫を施し誘っている。そのことも何一つ隠してはいない。不審極まりないという表現が似合う、そういう類のものと対峙している。
 その表現も例えば、デイヴィッド・ホックニー氏の『Sprinkler』のようにとても明白に、単純に、軽薄に行われると、塊のような風格をもってこちらを拒みもしないのだから、裏側に生じるコントラストは深まるばかりだ。一軒家のどこにも見当たらない者たちが常日頃着けている、例えば「家族」などといった社会的な記号の仮面に彫られた口元からは、籠った体温が笑顔のように怪しく漏れる。画面上でたった一つ、動きを表現したスプリンクラーの水の爽やかと、海外ドラマなどでお馴染みの、あの「シュッ、シュッ、シュッ!」とする定期的な射出音の乱れのなさはシールのように代替可能な「ぼくたち」や「わたしたち」を画面外で動かし、平面上できっと廃棄している。「決まりきった」という言葉が氏の描く一枚のあちこちに存在し、その言いたいことはこうして言語化可能である。その内容を検証し、現代社会では定型的な主張だと壁に掛けたコルクボードに赤くピン留めすることができる。 
 それ程に氏のメッセージは明確だ。明確だから、パンチがある。機能と一体となって形を与えられた庭付き家屋の一風景に宿る見えない不審さが、絵の表現としての重みを与える。
 他方で、氏の作品にある不審さが一発KOの重さにあるとすれば、美術手帖で特集されていた松山智一氏の作品は完成されたアウトボクサーの印象が強まる。
 本の特集を一読しただけであり、実際に作品を目にしたことがないため、この印象への記述には慎重さを駆使したいと思うが、下絵からサンプリングし、自然的要素又は文化的要素を記号としても、古来からある技術としても採用し、画面上に描き、相互関係を窺わせる配置を試みる松山氏の作品は、模様や色使いにはデザインの知識、技術を用い、画面上の各記号から読み取れるテキストを地層のように単純に重ねることなく、解体する意識をもって表す。しかしながら、テキストの意味は記号を認識する側が見出すものであるため、どのように配置しようとも各記号同士が画面上で呼応し合っている、と観る側が認識することを、描く側は止められない。勿論、素人である筆者が気付けるようなことは国外で活動されて来た松山氏は承知済みで、それを大いに利用し、まるで辞書に記載されている言葉を辞書の中の言葉で調べていくように、情報として重ね合わせることで生じる言語の無限定さをもって、新たな意味で編まれたテキストの「見えないかたち」を自身の出自を踏まえて表現されている。
 その結果となる作品は模倣といえば模倣だろう。カリフォルニアロール、という評価もあったようである。かかる評価には良いニュアンスも、悪いニュアンスも読み取れる。松山氏が各作品に用いた記号及びその関係性を、背景事情を含めて論理的に説明できるという点で実に広告的だと筆者は感じた。けれど、不自然なくらいに「自然」に配置された各記号とその関係から生じる不穏さは滲み出るものであり、それ自体を上手く語れない。どうしても、先述した作品中の各記号とその関係性の記述に還元されてしまう。記号間で生じるあらゆる記号同士のズレのような、記号が与えられなければそもそも取り出せない背景のような、得体の知れないこの不穏さが広告という概念では型どれない、アートとしての構えをしっかりと残している。そういう読後感に浸れた。



 テキストとして編み、その隙間から不審さや不穏さを感じさせる。
 曖昧模糊で、はっきりとしなくて、不透明であるために何かしらの力となって足取りを鈍らせていたものが、不審さをクリアに扱った作品や、多層的で人工的なテキストの存在を実しやかに感じさせる点で世界が揺らぐ不穏な作品を前にしてその正体を表したとき、表現した者と受け取った者との間でしっかりと結ばれた言葉の網目が容易に切れることはない。
 投擲の技術が未熟なら、許される限り、何度もそれに挑めばいい。手本となるものは既に見ている。あとは趣味と、それを育んだ興味に任せるだけである。

投擲

投擲

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-05-10

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