音

 言葉には意味がある。
 僕らの頭は、言葉に触れた瞬間に、その意味を把捉する。
 でも、何も考えたくないとき、意味なんていらないときがある。
 そんなとき、僕は、歌詞のない音楽を聴く。
 身をゆだねる。音だけの世界に。

 赤信号が目に入り、耳からイヤフォンを外す。いつもの交差点で信号待ちをしていると、道の向こう側に大きな犬がいた。犬の傍には老年の男性が立っていて、リールを短めに持っている。犬は長い毛の隙間から、僕を見ていた。
 信号の色が青に変わった。
 僕は横断歩道を渡る。男性はリールを軽く引く。犬はまだ僕を見ている。
 男性と犬は、ゆっくりとこちらへ向かって歩いてきた。僕は犬から目を逸らし、信号を見た。
 犬とすれ違うとき、僕の身体はわずかに緊張した。

 駅へ着くと、ちょうど電車がホームに滑り込んできたところだった。僕は慌てて、しかし駆け込まずに乗車する。人々が退屈そうにスマートフォンを見ていた。僕はリュックを前に抱えてつり革を掴み、つま先をじっと見つめる。
 目の前に、本を読んでいる女性がいる。何という本を読んでいるのだろう。表紙はよく見えない。
 電車が速度を落とし、本の女性は立ち上がる。駅に着くと女性は、人々をかきわけて、電車から降りる。
 僕は駅名を確認する。降りるのは次の駅だ。

 空は曇っていた。
 本屋に向かう。ほしい本があるわけではなかった。息が詰まりそうで、とにかく家から出たかった。本屋は、とりあえずの目的地だった。
 商店街を歩いていくと、左手に目的の本屋がある。思ったより人が多く、レジ前には行列ができていた。平日の昼間だというのに、これが巣ごもり需要だろうか。僕は文庫本コーナーへ向かうと、以前から気になっていた本を棚から抜き取り、行列に並んだ。足元には足跡の絵と、「ここで待つ」という文字が書いてある。うつむいて足跡の絵を見ていると、少しずつ前の人が捌けていった。少しずつ前に進む。レジに到着。会計を済ませる。
 僕は買った本を手に持ったまま、隣のパン屋に入った。
 店内で食事をすることもできる店だ。買った本をすぐに読むことができるので、気に入っている。ここのパン屋は、一人で来る客が多い。彼らは黙々と本を読むか、勉強をするかしている。店内は静かだ。
 パンを選び、レジへ行く。人差し指でメニューを指す。
 ――ホットコーヒー、レギュラーで。
 ――ホットコーヒーのレギュラーですね。パンは温めますか?
 ――あ、はい。
 ――かしこまりました。517円です。
 ――Suicaで。
 ――Suicaですね。こちら光りましたらタッチしてください。
 ――はい。……。
 ――……。こちらレシートです、隣でお待ちください。

 カウンターでパンとコーヒーを受け取る。空いている席を探し、広いテーブル席に座った。透明なアクリル板に囲まれていて、気持ちが落ち着く。なぜ落ち着くのだろう、と考える。自己と他者との間に、物理的障壁が存在する、そのことにより心理的安全性が生まれて……。
 マスクを外してケースにしまう。コーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜ、一口飲む。パンを一口食べる。買ったばかりの文庫本を開く。
 ポール・オースターの『幽霊たち』。
 主人公は人を監視しており、その相手は、ずっと何かを書いている。動きがない。何も起きない。僕はコーヒーを一口飲む。監視する。書いている。コーヒーを飲む。まだ何も起きない。コーヒーはしだいに冷めてゆく。
 何も起きないその話が、僕には心地よかった。

 本にしおりを挟み、コーヒーを一口飲む。
 突然、鼓膜の破れそうな音が、僕を襲った。ウオオオン、というような、低い音がする。どこか人の唸り声のようでもある。驚いて辺りを見回す。客は皆、平常通りに、本を読んだり勉強をしたり、スマートフォンを見たりしている。平気なのか、こんな音が鳴っているのに? 僕は耳を塞いだ。だが、音は同じように聞こえている。耳の中から聞こえてきているようだった。
 そうか。この音は、僕の中から聞こえているんだ。
 僕はテーブルに突っ伏すようにして、両耳を手で覆い、目をぎゅっと閉じた。

 これはなんだ、これはなんだ? 何かの罰か? 僕が何したっていうんだ? これほどの罰が当たらなければならないほどのことをしたのか? ああ、うるさい。早く止めてくれ。それとも、もう止まらないのか? 一生、このままなのか? 僕は――

 音はしだいに弱まり、消えていった。スマートフォンで時間を確認する。数分しか経っていない。もう一時間もそうしているような気がしていた。
 あの音は、何だったのだろう。他の人には聞こえていないようだった。自分にしか聞こえない音。幻聴だろうか。
 頭を振る。
 帰ろう、と思った。ひどく疲れていた。わずかに残っていたコーヒーを、一気に飲み干した。コーヒーはすっかり冷めていた。
 マスクを着け、マスクケースと文庫本をリュックにしまう。イヤフォンを耳に挿し込むと、席を立った。食器を下げて店を出る。

 店の客は誰一人、僕を見ない。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-05-10

CC BY
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