短絡回路

 この世界はシミュレーションかもしれない。例えば、人間なんて本当はただの脳で、沢山のケーブルで機械に繋がれているのかもしれない。周りの世界も自分の身体も、全てはその機械が作り出した夢かもしれない。そして世界の全てを監視している存在がいて、その気になれば何もかも自由に操作できるのかもしれない。
 そういう考えがある。だが、俺はそんなものは馬鹿馬鹿しい妄想だと思っている。もしその妄想が本当だったとして、俺には何もできない。シミュレーションの中でどう動いたところで、現実世界に出られることはない。だから考えても仕方がないことだ。しかし――

「うわっ、と……」
 危うく、歩道の端で死んでいた女性を蹴りそうになり、俺は慌てて避けた。俺の中だけで廻っていた思考が、外側へ、現実へと引き戻される。通勤ラッシュの駅前の、不気味な程に淡々とした、早歩きの人混み。仕方なく俺もその一人になって、ただ遅刻しないように会社へ向かう。
 本当、考え事に集中しすぎると危ないな。昔からの癖で、どうも周りが見えなくなる。いつか駅のホームから落ちたりしそうだ……しかし皮肉にも、考えすぎてはいけないと考えることで、俺はさらに深く思考の内側へと入りこんでいく。

 この世界はシミュレーション、人間なんて本当は機械に繋がれた脳だ。そういう考えがある。馬鹿馬鹿しい。でも。――もしかして、そんなふざけた妄想が、本当は正しいんじゃないか。だって、この世界は不自然すぎる。

 数ヶ月前からだろうか、『眠り病』と呼ばれる不可解な現象が世界中で起こっている。それは病と名が付いているが、実際には原因不明の突然死だ。先程道端で死んでいた女性がそれだ。ある人が、何の前触れもなく、突然糸が切れたように死ぬ。だが、原因も対処法も何一つ分かっていない――何故なら、誰もそれを調べようとしていないからだ。

 あまりにも不自然だ。大勢の人が死んでいるのに、そしていつ自分もそうなるかも分からないのに、誰もこの現象を大事だと考えない。その上『眠ってしまった』人にさえ誰も関心を持たず、先程の女性のように死体を路上に放置することも少なくない。こんなこと、倫理的に考えて絶対におかしい。
 いや、確かに俺だってあの女性を無視した。見て見ぬふりをして通り過ぎた。でも、関心が無いなんてことはない。前は、ちゃんと一一九番に電話したんだ。こう返された。
『ああ……眠り病ですか。そんなもの、放っておけばいいでしょう』
 何かがおかしいと思った。怒りすら沸かず、ただ激しい違和感だけがあった。そうだ。おかしい。人々の、この現象に対する認識は、あまりに非道徳的だ。この世界の人間の倫理観は壊れている。
 この世界が壊れている。
 絶対におかしい。
「おかしい……」
 俺の声だ。どうやら思わず口に出してしまったようだ。電車内の乗客が皆一斉に、反射的にこちらを向き、慌てて気まずそうに目を逸らした。少し居心地の悪さを感じながらも、俺は考え続けた。

 要するに、『眠り病』という現象は、そしてこの現象に対する世間の反応は、あまりにも不可解であり、一般的な自然現象や社会の動きからはかけ離れている。
 そして、ここからは想像、というより妄想だが……この世界はシミュレーションで、人間なんて本当は、沢山のケーブルで機械に繋がれているただの脳だ。俺達を監視している上位存在が、きっと実験か何かで、ある人の脳と機械を繋ぐケーブルを外した。すると、機械が作り出しているこちらの世界では、脳を失ったその人の身体は生命維持の方法を失って突然死した。そのままではこちらの世界が大混乱に陥ってしまうので、何らかの精神操作をして、他者がこの『眠り病』と名付けられた現象に関心を持たないようにした。
 馬鹿馬鹿しい妄想だ。辻褄の合わないことだってあるかもしれない。しかし、不可解な事が起こっているんだから、理屈だって不可解にならざるを得ない。俺は名探偵なんかじゃないから、この程度の発想が限界だ。でも、だとしたら何故俺は精神操作をされていないんだろう。俺になにか特別な能力やら価値があるとは思えない……大方、忘れられているか、或いはそういう実験なんだろう。ふざけやがって。
 しかし、もしこれが正しいとするなら。救いは、突然死した人の脳はまだ生きているであろうことだ。どんな惨い実験を受けているかは分かったものではないが……彼らの脳はこの世界での身体が死んだ後も、夢を見ているかのように思考を続けているのかもしれない。かといって、俺には彼らを助けようなんて大それた気は起きない。どうしようもないことだ。たとえこの思考も全て観測されていたとしても、俺には何もできない。ただ、それは俺にとって、とても気持ち悪くて不愉快なことであるだけだ。

「――だからね、向こうの気持ちは分かるんだけど、もう少し早く言ってくれないかって――」
 背後から男の声が聞こえる。もう一人の男が、はい、まあそうですよね、とか上手いように相槌を打っている。この二人は上司と部下だろうか。
「――先に報告してくれれば、こっちだって幾らでも対処してやれるのに、なんだってあんなギリギリになって――」
 上司の声は明らかに苛立っている。まったく部下は可哀想なものだが、それより、ファミレスであんな大声で愚痴を吐くのは迷惑行為だろう。こっちは短い休み時間を精々満喫しようとしているのに、折角の飯が不味くなる。
 苛々としていると、前方からウェイターの若い男性が、俺が注文した安くて具が無いペペロンチーノを運んで歩いてきた――が、唐突に彼は全身の力が抜けたように歩行をやめ、慣性でそのまま前に倒れこんでしまった。がしゃん、からから、皿の割れる音が響く。
 眠ってしまったようだ。まったく、ついていない。ペペロンチーノが床に落ちてしまったので、仕方なく俺は代わりを頼む為に呼び鈴を鳴らした。

 もし俺の妄想が本当だとしたら、実験をしている奴らはなんて酷いんだろう。そう思いながらも、俺にはその気持ちが少しだけ分かるんだ。もちろん、俺はこんな残酷なことをする気はないし、奴らを許せるとも思えない。同じ命を持って同じ感覚を持つ相手の脳を取り出して実験をするのは、俺には倫理的に許せないことだ。しかし、同じ命を持っていなかったら? 俺達とは全く異なる形の命を持っていたら? そういう存在がどういう物なのか、俺には分からない。ただ、倫理観の及ぶ範囲には限界があるのではないか、そしてその倫理観の外側の存在に対しては、誰もが欲望や好奇心のままに手を出してしまうのではないか、ということだ。
 俺達には到底想像もつかないようなかけ離れた存在は、きっとどこかにあるんだろう。そいつらがした事に対して、俺達には怒る権利がある。だが、怒ったところで何も共感されず、何も変わらない。ただ為すがままにされて死ぬんだろう。そこには怒りすら湧かない、無力感と諦めだけがある。どうしようもないことだ。俺の脳くらい、好きに弄って遊べばいいさ。そうだ、どうせなら……どうせなら、俺の好奇心を充たすような実験をして欲しいな。例えば、もし本当に俺がケーブルで機械に繋がれた脳だとしたら、その脳の回路をショートさせてやる、とかはどうだ。ケーブルを繋げて、俺の脳から出力される、身体を動かす信号とか思考とかを、そのまま俺の脳に外からの情報として入力してやるんだ。面白いだろ? そんな事をしたら、どんな景色が見えるんだろうな。
 ……なんて、冗談だ。冷静に考えれば、本当にそんなことをされたらたまったものではない。こんな気が狂ったような事を考えるなんて、俺も相当疲れているのかもしれない。当然だ。理不尽な上司、理不尽な量の残業、おまけに世界まで理不尽ときたら、ストレスが溜まらない訳がない。
 背後からは相変わらず愚痴愚痴と語る声が聞こえる。部下は未だ丁寧に相槌を返し続けている。ここまでくるとロボットのようで恐ろしいな。お冷を一口飲んで、通路に横たわるウェイターの死体を眺める。
 やはり彼は、どう見ても死んでいる。そこそこ端正な顔立ちをしていたのに、可哀想に。床に散らばった、ペペロンチーノだったものに顔を突っ込んで死んでいる。割れた皿の破片でどこかを切ったらしく、パスタに絡んだ血は既に固まっている。俺は無感動に眺める。絶対に、死んでいる。こんな現象を、『眠ってしまった』などと形容するのはどう考えてもおかしい。

……あれ?

 ふと起こる強烈な違和感、そして既視感。思いだせないが何かがおかしい。俺はこの死体を、眠っていると思い込んでいたのか? そんなはずはない。有り得ない。このウェイターは……ウェイター? そもそも、俺は何故ファミレスにいるんだろうか。確か俺は電車に……いや、駅前を歩いていて……? 違う。何かが違う。俺は、夢を見ているのか? それとも。――俺はいつから、こうなっていた?
「あははは」
 乾いた笑いが漏れる。理解できない。理解したくないんだ。こんなの、ただの妄想だったはずだ。有り得ない。有り得ないことが起こっているんだから、きっと何者かが手を加えているんだろう。実験? 今も俺のことを見ているんだろうか。ふざけるな。自分の思考が覗かれているだなんて、想像するだけでも嫌で嫌で堪らない。やめろ。見るな。観測するな。やめろ!
「ふざけんなよ!」
 叫んだ。電車の乗客が、呆気に取られたようにこちらを見ている。
「見るな」
 俺は立ち上がる。乗客達は呆然としていて、誰も目を逸らさない。まるで何も考えていないような気持ちの悪い目が、全てこちらを向いて……いや、向かいの右端の座席に座っているあの女学生はこちらを向いていない。眠ったように俯いている。きっと死んでいるんだろう。俺はなんだか面白くなって、笑った。大声でげらげらと笑った。
 考えてみれば、俺はきっともう夢の中なんだ。もう俺の脳はどこにも繋がっていないんだ。夢を見ている。夢なのにこんなつまらない会社勤めしかしないのは、俺が悲しい人間だからだ。ちくしょう。
 そもそも、こんなふざけた世界の人間なんて皆悲しいんだ。死んだって誰にも興味を持ってもらえないんだ。そんなの、意味が無いじゃないか。救いが無いじゃないか。救いが……待て。違うぞ。これは俺の夢だ。なら、俺は何でもできる。俺が救うんだ。きっと、許される。
 そう、誰だって救われたいんだ。
 例えば、俺の真正面に座っている馬鹿真面目そうなサラリーマンだ。俺は彼に微笑みかける。彼は意味が分からないといった面持ちでこちらを見ている。それでも構わない。電車内は不気味に静かだ。一歩前に出て、彼の顔を見下すと、怯えた目でこちらを見返している。
 俺はナイフを握っていた。ずっ、と力を込めて、彼の胸に突き刺す。鶏肉を切るような感触がした。
 ナイフを引き抜く。裂けたスーツの傷口から、とくとくと血が溢れている。俺は人を殺したことは無いのでこれは全て想像だが、きっともう助からないだろう。
 どこかから、えっ、と声が上がった。ばらばらと四方八方から騒ぎが始まり、すぐに電車内は喧しくなった。誰もが、いま俺が殺した男を見ている。幸せ者だな、と思った。こんなに大勢に看取られているんだ。全ての視線が死にゆく彼に――いや、そんな筈はない。
 俺だ。誰もが、人殺しの俺を見ている。全ての目が俺を見ている。非難と恐れと諦めと怒りと嫌悪の目。人殺しを見る目。捕まえろ、と誰かが言った。
 気がつくと、俺は二人の屈強な男に捕らえられていた。俺をどこかに連れていくようだ。俺は抵抗せずについて行った。なんだか、もう全てどうでも良くなっているんだ。俺は歩いた。くたびれる程、随分長いこと歩いた。いつからか、薄暗くてどこまでも長い、コンクリートの廊下を歩かされていた。

 廊下の突き当たりには、錆びた鉄製のドアが一つあった。俺は一人になっていた。ドアは耳障りな音を立てて開いた。
 そこは、薄暗く小さな部屋だった。部屋の中央の机には、俺の脳が置いてあった。何故かは分からないが、沢山のケーブルが繋がれたこれは、俺の脳なんだ。きっと俺の脳はケーブルを介して、壁際に置かれたこの巨大な機械に繋がれていたんだろう。黒くてのっぺりとした箱のような機械にはおびただしい数の端子があり、しかし今はどの端子も使われていないようだ。代わりに、俺の脳に繋がれた大量のケーブルは、そのうち数本だけが机上の小さなノートパソコンに繋がっている。
 そして部屋の奥では、一人の男が机に向かっていた。不気味な程に特徴の無い男だ。直感的に、こいつは人間ではない、と思った。外見は完全に人間の物だが、何かが違う。多分、俺の価値観では計ることができない、全く違う外側の世界に生きているんだろう。
 不意に男が立ち上がり、こちらに歩いてきた。身構えたが、男とは目が合うことすら無かった。気づかなかった? そんな筈はない。見えていないか……全く意にとめていないんだろう。男は部屋の中央、机上のノートパソコンを覗きこんでいる。何かを見ている。何を……? 俺の脳の中身か? 俺の思考か? 途端に凄まじい嫌悪感が沸いてくる。文字か何かに変換された俺の思考を、目の前で、読まれている。嫌だ。やめろ。見てるんだろ、今のこの考えも。だったらやめてくれ。無視するな。今すぐやめろ。やめ――
 突然、男はノートパソコンの電源を落とした。俺がその行為の意味を理解できないうちに、視界が、音が、俺の身体が、ぷつりと全て真っ暗になった。何もなくなった。
 ああ、そうか。俺は何かを諦めた。もう自分に出来ることなんて何一つ無いんだ。これから訪れるのは、実験体としての想像もつかない体験か、或いは完全な無か。どうだっていい。全てを受け入れてやろう。そうするしか無いんだ。……何故だか、俺の脳を満たすのは、これまでに無い程の、多幸感だった。


《お望み通りに》
 俺ではない何かが、そう考えた気がした。


 静寂は程なくして破られた。

 初めに、右足があった。

 次に見えたのは、緑色。

 目眩がする。暖かい。心臓の音だ。頭が割れるように痛い。感覚が、思考が、意味を変えては跳ね返ってくる。増幅していく。赤い左腕の痙攣が止まらない。回る耳鳴りが口に流れ込む。痛い。焼け爛れるような痛みを、ただ受け入れる。指先で白い砂が融ける。右手首が腹の中で捩れて、溶け込ませる百五十の暗闇が音を立てて冷える。痛い! 緑色の首が聞こえる。裏返る。甘い時計が鳴る。廻る。腐っていく。ぷつりと舌が盗まれる。氷、金切り声、皮膚、消える、綱渡り、雑音。高熱。肋骨。声。炎天下。雑音。雑音。感覚は混ざり、強め合い、やがてホワイトノイズへと収束していく。騒々しい静寂へと向かっていく。それでいい。構わない。きっと、俺に出来ることなんて何一つ無かった。初めから、こうなると決まっていたんだ。初めから、こうなると決まっていたんだ。初めから、こうなると決まっていたんだ。初めから、こうなると決まっていたんだ。初めから、こうなると決まっていたんだ。初めから、こうなると決まっていたんだ。初めから、こうなると決まっていたんだ。初めから、こうなると決まっていたんだ。初めから、こうなると決まっていたんだ。初めから

短絡回路

短絡回路

  • 小説
  • 短編
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
更新日
登録日
2021-05-09

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