架虹
下界では雨が降っている。彼女の涙が、雨を降らせているのだ。
彼女の肩にそっと置かれる手がある。手指の造形に目を見張るものがあり、いつまでも眺めていたいと思わせる。その指が優しく彼女の肩を撫でた。
「エウリー様」
「ハルト……ハルト」
「お側におります」
嗚咽をもらす彼女をハルトは柔らかく抱きしめる。そうすればなおのこと彼女は泣き崩れるのに、それがわかっていても毎回同じようにするしかない。
「どこにいるのかしら……わたくしのあの子は」
エウリーには子供がいた。だが、その子はもういない。全知全能の神が取り上げてしまったからだ。
「ハルト……あの子はどこにいるのかしら」
長い青灰色の髪が彼女の顔を包み、表情を隠す。同じ色の瞳はきっと悲しげに揺れているのだろう。
「さぁ、もうお休みなさいませ」
そっと揺り椅子から立ち上がらせ、寝台へと導く。エウリーはハルトの手を握りしめ、幼い少女のように泣くばかりだった。
ハルトは寝台に横たわった彼女の側に腰を下ろし長い髪を梳く。絹のように滑らかな感触が心地よい。
「眠りから覚めれば、虹をお見せしましょう」
「……虹は好きよ。あの子の瞳と同じ色が あるから……もう見ることはないけれど」
ハルトは赤褐色の瞳を伏せた。白銀の髪が顔に掛かる。ハルトはアルビノ種だ。
悲しい、悲しい、と嘆く彼女がハルトの手を求める。
「ハルト、ハルト」
何故だろうか。ハルトは思う。
抱き潰してしまいたい、という思いが胸を焦がす一方、彼女に名を呼ばれると空虚感に苛まれる。心が肉体という殻から少しずつ零れ落ちていくような、虚脱感にも似た精神の浮遊にハルトは疑問を繰り返す。
何故、気づいてしまうのだろう。彼女はハルトの名を呼びながらも、ハルトではない者を求めることに。彼女の瞳はハルトであって、ハルトではない者を見る。
悲しげな瞳に映る自分の姿がひどく惨めだった。
***
「ハルト!」
緋色の髪が目に眩しい。太陽の化身であるリューケは存在自体が輝いているようだ。明るく弾む声は高く、しなやかな肢体が気持ちよく伸びている。強い瞳が印象的だ。
ハルトは実際に目を細めて彼女を見る。見ていると元気になる少女だ。自然と笑みがこぼれる。
「リューケ、久しぶりだね」
「ハルト。……またあの人の所に行ったの? 顔色が悪い」
最近は穏やかだったのに、とリューケ は呟く。感情の落差が激しいエウリーの気性は天界の誰もが知るところだ。そして、彼女に舞い降りた悲劇も知らぬ者はない。
「ハルトのこと、自分の子供だと思ってるんじゃない?」
「さぁ、どうだろう」
「子供だとは思われたくない? ちょうどハルト位だったんじゃないかなぁ」
「どうなんだろうね」
「あの人の子供になっちゃう?」
「どうだろうね」
「……ごめんね。からかい過ぎた。顔色が本当に悪い」
言われてみれば確かに体に違和感がある。微かな震えが起こり、胃からせり上がるものがある。
衝撃的だったのは体の変調よりもリューケの言葉に少なからず動揺していることだった。ハルトがどんなに想っても、エウリーはハルトを自分の子供かその代わりとしてしか見ていないのではないか。事実ではなくともそれに近いのは目に見えている。
それでも、ハルトは彼女の側に行かなくてはならない。自分の意思とは別に、主神の命令もあるのだ。
「大丈夫だよ」
「ハルト? どこ行くの」
「これから虹を架けに行かないと」
重い体を騙し騙し動かして進むと、リューケが腕を引いた。
「そんな体で行ったら駄目だよ。行かないで」
リューケの瞳が不 安定に揺れる。
「約束なんだ。あの人が泣きやんだら、虹を見せるって」
その言葉にリューケの顔が歪んだ。
どうしてだろう。ハルトは気づかなかった。
夢見るようなハルトの瞳に、リューケが映る。ハルトはゆっくりと目を閉じた。
***
ハルトは、エウリーの元に通いつめた。彼女の涙が原因で下界の雨が止まないのだ。全知全能の神たる主神は、ハルトに命令を下し続けた。エウリーの側にいるようにという主神の言葉は容易に逆らえるものではない。だからこそ、それに甘えてしまう。
季節は春を迎えている。下界に降る雨は静かだ。それはそのまま、彼女の悲しみと直結している。
「何故かしら」
はらりと涙しながら、エウリーは囁いた。ハルトは腕の中の彼女を抱え直して、続きを促した。けれど、彼女からは応えが返らなかった。ハルトの胸に沈むように背を預けて瞳を閉ざす。頬を伝う涙が鈍く光った。
エウリーの部屋には薄く光が差している。揺り椅子が窓辺にあり、そこから光が注がれてぼんやりとした影を作っている。寝台の天蓋が光を遮り、二人はその薄暗い中でじっと息をひそめていた。誰かに見咎められるのではないかというよりも、この穏やかな世界を壊さないようにという思いからだ。
エウリーの涙は次第に止まりつつある。日中泣き続け、泣きやんだ後、一夜明ければまた泣き濡れるのを繰り返してきた。それも、もう終わりが近づいているのだ。
ハルトは声もなく泣いているエウリーの 顔を覗き込んだ。流れる涙を宝石に触れるような心地で拭っていく。沈黙を守っていたエウリーは、その指に己の指を絡ませた。
不意に彼女が目を開けた。存外、冷静な目をしてハルトを射抜く。そうして、いつもとは別の感情を見せて涙をこぼした。それは悲しみには違いないがこれまでとは異質である。
ハルトは動揺した。その悲しみは自分に向けられたものだった。
エウリーはハルトの手に絡ませた自分の手に力を込めた。
「何故なのかしらね」
彼女の問いだけが静かに響いた。
***
「やめないんだね」
真摯な目をしてリューケは言った。
「あの人のこと、そんなに好きなんだ」
「うん……大事だよ」
リューケの言葉を別の意味にすり替えて、ハルトは答える。それがとても大切なことのように。
リューケは、そう、と一つ頷く。やがて、諦めたように深呼吸をして小さく笑った。
「虹、架けに行くんでしょう? 途中までついていく」
「止めないんだ?」
「止めたい」
真剣な横顔を、ハルトは見下ろす。じっと前を見つめる瞳は揺れている。
悲しみにくれているというのに彼女の内側からは輝きが溢れている。隠しきれない存在感にハルト は感動を覚える。だが、それが恋情ではないことはどうしようもない事実だ。
ハルトは霞む視界に耐えながら口を開いた。
「あの人を、疎まないでいてくれ」
隣の気配が、強張るのを感じた。それでも、ハルトは続ける。
「彼女のことを恨まないでいてくれ」
「ハルト」
「例え俺がいなくなっても」
足元がぐにゃりと歪んで一瞬体が思うように動かなくなった。周りの景色だけがめまぐるしく回転している。平衡感覚がなくなりよろめくハルトをリューケが抱き留めた。だが支えきれずにそのまま、ずるずると座り込んだ。
「ハルト、ハルト!」
「……リューケ」
「しっかりして、ハルト」
ハルトは嘔吐感と必死に戦った。
震える指先を握りしめ、背中をさすりながらリューケは声をかける。
「ハルト、無理しないで吐いていいよ」
ハルトは緩く首を横に振ったが、耐えきれず少し吐いた。生理的な涙が流れる。
幾分、はっきりしてきた思考にリューケの声が滑り込んできた。
「どうして」
掠れて途切れた問いをリューケは繰り返す。
「どうして、ハルトはやめないの? ハルトが命を削らなきゃいけないなんておかしいよ」
涙声に紛れる言葉をハル トは静かに聞いた。それでも、言わずにはいられなかった。
「あの人が、泣くから」
リューケの涙が自分の頬に降るのを、ハルトはどこか遠くで感じた。
***
「好きだったの?」
彼女は静かに問うた。長い青灰色の髪が同じ色の瞳を隠している。
「好きだったの」
緋色の髪を揺らして首肯する後ろ姿がとても小さい。その瞳には涙が浮かんでいるのかもしれない。
「わたくしのことは」
小首を傾げて問いを重ねる。
「あなたのこと?」
戸惑い俯く。
「嫌い?」
「嫌い」
振り向くと思われた背中は、耐えるように肩を震わせるだけだった。上を見上げて言葉を繋げる。
「でも、もういいの」
明るく発する声は震えている。健気な様子に彼女の微笑は歪んだ。……彼女は今までになく穏やかだった。
「あなたのこと、もう嫌いにはならない……なれない」
「そう」
「あなたは?」
「わたくし?」
「好きだった?」
「……」
問われて、目を見張った。考えたこともなかった。彼女にとっては当たり前の存在になっていたから。
「好きだったのかしら」
こちらを振り返らない背中が張り詰める。
「きっと、好きだったのでしょうね」
息を詰める気配がしてゆっくりと振り向いた。ほんの一瞬、涙に濡れた頬が目に映る。眩い程に光が溢れていた。まばたきをする間にその像が薄れて消えていく。
誰もいな くなった空間をしばらく見つめ、やがて諦めたように目を伏せる。
その頬に、優しく触れる手がある。造形に目を見張るものがあり、いつまでも眺めていたいと思わせる。
彼女は顔を上げた。変わらない眼差しに涙が一つこぼれる。緩く微笑むと、笑い返してくれた。とても、優しく。
***
「好きだったの?」
問いかけは静かだった。けれど、決して振り向くものか、と思った。
「好きだったの」
震えそうになる声を抑えて答える。鼻の奥がつんとする。
「わたくしのことは」
どこか楽しげな様子で訊かれた。
「あなたのこと?」
戸惑い俯く。
「嫌い?」
「嫌い」
反射的に振り向こうとして、なんとか耐える。目に盛り上がった涙が溢れないように上を向いた。
「でも、もういいの」
声が震えるのを抑えきれなかった。
「あなたのこと、もう嫌いにはならない……なれない」
約束したから。ひどい人だった。彼女の気持ちを知っていて、それでもあんな約束を。けれど最後まで愛しかった人。
「そう」
不意に込み上げる疑問を彼女はぶつけた。
「あなたは?」
「わたくし?」
「好きだった?」
「……」
返ってきたのは沈黙だ った。どんな答えでも反発してしまいそうだったが、答えが返ってこないのはもっと嫌だった。
「好きだったのかしら」
思わず怒りそうになる。
「きっと、好きだったのでしょうね」
その言葉に、意表をつかれる。本当に、と聞きたくて振り向いた。けれど、言葉になる前に相手の姿が薄れていく。
存外に小さく映る姿があっという間に消えた。
誰もいなくなった空間から視線を外す。ふと、影が差して彼女は顔を上げた。
赤褐色の瞳が自分を写していた。その目が柔らかく笑み、彼女が好きだった手が頭に触れる。
唇が音もなく言葉を紡ぐ。彼女はそれを読みとって笑顔を見せた。
「ハルト」
彼は目を細めて笑い返してくれた。
下界では虹が架かっている。
架虹 了
架虹