創作文 ワインの匂い
2021年作品
僕の中学二年生の頃の思い出。
一行瑠璃さんは吹奏楽部だった。中学の放課後、音楽室の方から時々、聞いたことのないピアノ曲が流れてくることがあった。クラブは休みの日だったと思う。誰もいない部室で、一行さんがピアノを弾いている。僕は気になって尋ねてみた。
「何の曲?」
「あ、びっくりした。後ろにいたのね。」
「ショパンかな?」
一行さんはそう僕が聞くと笑い出した。
「違う違う、適当に作ってみただけだよ。そんな感じ。」
「そうなの?」
「そう。思い出に捧げる曲かな。いとこのお兄さんの。この前外国に行っちゃったんだよ。」
「え、そうなんだ。」
「ちょっと憧れてたんだ。なんてね、うそうそ。」
と言うと、一行さんはバタンと古ぼけたグランドピアノの蓋を閉めた。そして一行さんはいそいそと部屋を出て行ったけど、その後も時々部室でピアノが鳴っている時があった。一行さんはピアノが好きなんだなと思った。
一行さんは山の手のちょっと大きな古い家に住んでいて、洋館と言えるみたいな実家だった。横浜の異人館にあるみたいなのとちょっと似ていた。いいところのお嬢さんという話だったけど、一行さんはごくふつうの女の子だった。ある時昼休み、家のカレーに何を入れるという話になって、一行さんの家ではカレーに赤ワインを入れているという話になった。僕はその頃そんな洋酒とかにはめったにお目にかかれなかったから、ちょっとへえとなった。同級生のやつは、「俺んちのかあちゃんは、ウスターソース入れるぜ。」と言って、他の男子は「ちくわ入れるよな。ふつう。」とか言った。そんな中で赤ワインというのは、別人種みたいな発言だった。一行さんは両手をふりふりして、「たいした事ないよ。そのうちみんな入れるようになるって。」と言った。一行さんの家は商社の仕事をしているとその後で誰かに聞いた。輸入ワインなんだろうなと思った。
それから幾日かたった頃、僕がまた廊下を歩いていると、音楽室の前で一行さんが立っているのに出くわした。窓の青空を見上げながら、涙を流している。どうしたんだろうと思ってどきっとした。僕が突っ立っているのを見て、一行さんは気づいて手の甲で涙を拭いた。
「堅書くんいたんだね。」
「あ・・・・うん。」
「あ、私ね、今度転校するんだ。家、変わるんだよ。外国に行くんだ。」
「えっ、ほんと?」
僕はひっくり返った声を出した。間が悪いことしかできない僕だった。一行さんはしかし、そんな僕には気づかずに低い声で続けた。
「そう、海外の学校に入るの。・・・・私はたぶん・・・もう誰も好きにはならないよ。」
「えっ。」
「うん、この学校のやつらが好きだったから。」
僕はそんなこと言うなよ、とよくある青春ドラマのかっこいい保護者然とした青年のようにふるまおうとしたが、できなかった。それでやっとの思いでこう言った。
「・・・・・新しい学校でも、一行さんのこと好きになるやつはいると思う・・・・・。」
「・・・・・うん、そうかもしれない・・・・。堅書くんはいい人だね。」
そして一行さんはにっこりと微笑んで言った。
「ありがとう、堅書くん。」
そしてちょっとからかうように言った。
「私も今度女の一人旅に出てみようかな?ほら、テレビでやってるディスカバージャパンだよ。」
と笑った。
僕は白状すると一行さんのことが好きだった。ひそかに愛していた。一行さんはその三日後、クラス会で「転校します。今までありがとうございました。」と言って、教壇の上で丁寧な礼をした。一行さんを僕が見たのは、それが最後だった。
僕はその後、丘の上の一行さんの洋館を見に行った。雨の日曜日の午後だった。青い傘を差してのぼって行くと、洋館には玄関の鉄柵に「売り物件」の立て札がついていた。僕は背のびして中をのぞいてみたけれど、洋館は本当に誰もいない様子だった。
一行さんとはそれっきりだ。あの雨の日、傘の中で僕がついた大きなため息は、彼女に聞こえたかしら?
創作文 ワインの匂い
まだ話が続くみたいな終わり方ですが、ここで終わりです。なんとなく昔見たテレビドラマにこんなのがあったような気もします。「北の国から」みたいなドラマだったですかね。