ロシアン・フェティシズム

吉田克彦

コロナ禍のニューヨークで安楽椅子で回想する画家のロバート。回想の舞台はロシア。助けると言う事は・・・

コロナ禍のニューヨークで安楽椅子で回想する画家のロバート。回想の舞台はロシア。助けると言う事は・・・


「レナードさん、これ・・・・・・どうします?梱包しますか?それとも清掃業者に連絡を入れて破棄して貰いますか?」
運送業の職員がキャップを取り困った様子で頭をポリポリかいている。職員の目の矛先にはロバートの実の息子であるフィーヴィーが、強烈なイタズラでロバートのアトリエにある全て絵をズタズタに果物ナイフで切り裂いたものだ。
老人は職員の問いかけに気づいていない。眠るように揺れる安楽椅子にもたれかかり、抜け殻の表情でずっと目の前に映る巨大な海のしぶきを眺めている。あるいは目だけが海のしぶきへと行き何も見ずにフィーヴィーの事を考えているかもしれない。
職員は何度も老人に問いかけても返事が返って来ないので、老人の肩を揺さぶった。
「ん?何だって?」
「絵ですよ、あ、ちゃんとマスクして下さい」
ロバートはマスクが息苦しく顎までずらしていた。ロバートは、あんたがコロナにかかっても死ぬ確率は極めて低い、俺の確率は高いがね、と老人の口臭が充満し、塞いでいる、塞がれている口をモゴモゴと動かし囁いた。その囁きはウィスパー・ヴォイスのウィスパーでは無い。閉ざされ、落ちた囁き、ロック・ダウン・ウィスパーだ。老人は顎のマスクを上に引き上げた。
「このボロボロになって床に散らばっている絵、これ捨てるんですか?それとも梱包して持って行くんですか?」
「ん・・・・・・少し考えさせてくれんかね」
「はぁ?こっちは仕事してるんですよ?ここが終わったら次の引っ越しもある。こんな言い方もアレだけど、俺たちゃ、あんたみたいにボケっと海を眺めてるほど暇じゃぁ無いんだ」
「だから少し考えさせてくれと頼んでいるじゃないかね。それに海なんて眺めてない」
職員は呆れ果て、「じゃぁ絵は、あんたの方でやってくれ。今の会話はコレに録音してる。どう考えたってこっちに非は無い」と言ってユニフォーム・ジャンパーの胸ポケットからスマート・フォンを取り出し、誇らしげに、そして挑発の目で老人に見せた。
「あんた達は片時もそいつ離さない。ソイツに依存し切ってる。今に何にも見えなくなっちまうぜ」と無表情に言った。職員はめんどくせえジジイだな、相手にしねえ方がいいなと思い、つかつかと自分の作業バッグがある所まで歩きボールペンと書類を持って戻って来た。
嫌味の声で作業員が、「作業は終わりました、ここにサインをして下さい」と、芝居じみた敬語を使いロバートに突き出した。作業員の挑発に乗らないロバートはペンを持ったけれど、自分の名前のスペルが思うように書けない事に手こずっている。
「レナードさん、俺だって何度も文句は言いたくねえんだ、皆、マスクで肉体労働だから辛いし、1時間後にはニューヨーク郊外で、また仕事だ。ちょっと前にテレビでワレンスキーが、これから大変な事になるって言ってる。レナードさんの様な老人はワクチン打ってるけどさ、俺たちはまだなんだ、みんな不安なんだよ、あんただけじゃないんだよ」 
「なんだって私がアンタとコロナの話をしなければいけないんだ?私は疫病など怖くない、ただ、もう歳で物事を上手く運ぶ事が出来ないん」
職員はロバートの言葉を遮り、老人の手から盗人の様に書類を取り上げ、老人のフルネームを汚い字で記入した。「あんたのスペル、これで合ってるでしょ?」
老人はちらと書類の記入欄に目を向け、すぐに作業員を哀れみの目で見た。
「あのね」
そう言葉を発した後、老人は口をつぐみ眉間に深いしわを寄せ、目は落ちた。たった数秒前に彼の脳みそを通った言葉が彼から抜け、俺は本当に駄目になったかもしれない、と囁き、格調ある木目の床が引っ越し作業によって、白いゴミの床に変わり果てたーーーーーーそんな床が彼の落ちた目に映っている。
老人は思い出した顔になり、「あのね、私みたいに歳をとっちまうと物忘れが酷いんだ。とにかく酷いんだ。若い頃のようにスラスラと物事を運ぶ事が出来ない。間違いも多い、それ」
作業員はまた老人の言葉を遮り、老人の手から書類を取り上げ、老人のフルネームを汚い字で記入した。
「あんたの名前、これで合ってるでしょ?」
老人はチラと書類に目を向け、眉をひそめて言った。
「「あんたは・・・・・・その、さっき言ったように、歳をとると物忘れが酷くなったり動きも鈍くなる。私がそうなっている状態を・・・・・・その、私の身になってみたりとか、想像する事はしないのかね?」
作業員は老人が話している最中に背を向けながらスマート・フォンを使い、LINEで本社と連絡を取り合っていた。
「おーい、お前らの方はもう終わったかー?」
「はい、終わってます」
作業員はLINEで本社に作業終了を報告した。
「よし、じゃぁ行くぞ」
引っ越し作業員の4人は足早に部屋を出て行った。作業員がドアを閉めて行かなかったので、老人は杖でもって立ち上がり、痛む左膝をかばう様にドアへと向かった。ゴツ・・・・・・ゴツ・・・・・・と言う杖の音と床の軋む音がいつもと違う。老人はしゃがれた声で、「ああ」と大声を出してみた。響く。残響の音。家具やソファー、ベッドなど、何も無い部屋は残響の音となる。取り残された音だ。老人は作り笑いのほうれい線を指でなぞりながら、「ふっ、人間も音も何もかも変わっちまったときたもんだ。礼儀のれの字も知らない、このボンクラ共めが」と小さな声で呟いた。
落ちるように安楽椅子に座り、「まぁ、世の中こんなもんさ」と、先程の作業員を真似て芝居じみた口調で声を出した。老人はこのセリフを呪文の様に何度も繰り返し言い続けた。そのセリフの後に次の言葉を付け加えた。「世の中は最初からこんなもんで、世の中は非常の塊で、人間は無機質なスマート・フォンの奴隷となり、聖書に何度も登場する疫病を過剰に恐れる臆病者しかいない」と。
しかし老人は分かっていた。そんなセリフを自分に言い聞かせても、濁った心はそのままだし、そのままの心で夜を迎え、宅配ピザ一切れと薄っぺらいカップに入ったホット・ミルクをすすり、寝袋に入って窮屈な思いをする事を。
老人は息子であるフィーヴィーが唐突に現れる前は二つ大きな葛藤に何十年と悩み続けていた。
耐え難い孤独は、彼の中からやがて作品へとつながるインスピレーションとなる。人間は利他的な存在でなければならないのに、友人や仲間を作らずに絵だけを描く自分は利己的の極みだと自分を責め続け、その葛藤の揺れ幅は目の前の巨大な海のしぶきように大きかった。
長年の葛藤は葛藤で終わった。変わることを迎えずにして、このまま誰にも看取られずに死んでいく。
若くして芸術家としての地位を築いても未婚のまま、天涯孤独としてこの世と別れる。早かった。ジミヘンの言った通りだった。人生は目の瞬きの如く短い。
フィーヴィーが現れる前の孤独と苦痛は、フィーヴィーの登場によって溶けていった。しかしフィーヴィーは溶けるようにではなく、唐突にいなくなった。
一度知った愛。二人で釣り三昧の幸福な日々。葛藤の元であった絵をズタズタに斬り殺してくれたフィーヴィー。
Lost.
愛を失い、これから手に入れるには遅すぎる年齢。
It•s too late.
俺は遅すぎる存在の、ただの老ぼれだ。

彼は世界中の独り者の老人がそうである様に、夜中は小便に起き、昼は白昼夢を見ていた。老人は静かに安楽椅子に揺れながら、静かに目を閉じ、短い期間ではあったがロバートに師事したアイリーンの娘である、当時13歳のアイシャに抱いていた恋心を回想していた。アイリーンが、ソレに気づき娘を注意し、そのような理由で二人は自分から離れていった。
俺はもう72だ。いつ死んでもおかしくない歳だ。
彼は彼自身が創り上げた世界に閉ざされている。72の老ぼれでも女が寄ってくる。地位と金があるからだ。整形しまくった軽薄なモデル、整形しまくったハリウッド女優の卵たち、整形しまくったオカマのダンサーたち。
自分で閉ざした世界なのに、老人は閉ざされたと好き勝手に都合よく変えていた。このような思考になるのは、彼が人の為に生きてこなかったからである。
人は自分の為だけに生きられるほど強くはない、とYukio Mshimaが言っていた。グレン・グールドが尽き果てた瞬間にもベッドの下には、Soseki Natsumeの小説が転げ落ちていた。Natsumeの『坊ちゃん』は、主人公以外、ほとんどが出鱈目な存在だ。老人は白昼夢の中で囁いた。「人間は出鱈目な存在だ。であるが故に世界も出鱈目である」
しかし、老人の白昼夢そのものが出鱈目であった。小難しい事を考え、すぐにアイシャの顔と麗しく若い匂いと臭いを思い出し勃起する。
過剰に彫ったタトゥーの女たちとオカマたち。そう、そんな奴らは決して俺を見ない。ロバートと言うアイコンだけを見て企んでいるだけだ。
ああ、俺に強烈なフックをかますアイシャの匂いと臭い。老ぼれの俺を奮い立たせていたのは、いつだって少女だった。
このご時世、俺のような老ぼれが、少女と親しくしているだけで、児童ポルノ、児童買春、性的暴行、そう、今度は言葉のアイコンが出鱈目に錯綜し、入れ乱れ、彼女たちと健全でデリケートな会話をする事も許されない。
老人は目を開け鋭い眼光で荒れる海のしぶきを見つめ始めた。老人の脳みそからアイシャや少女たちが消えた。
「俺は、マックス・ウェーヴァーが言った没人格の人間だろうか。それとも没していない人間だろうか。俺は、この72年、ウェーバーが言った『鉄の檻』の外を歩いて来ただろうか」
彼は白昼夢の螺旋階段をくねくねと下へ下へと下がっていった。
2011年、彼は62歳だった。すでにトレード・マークである長髪と長いチリチリのあご髭も白髪であった。この年、彼の個展とサイン会がロシアのモスクワで開かれた。
会場に一人、妙な女が居た。女はロバートとの握手が終わると、色紙を小脇に挟み、まるでロバートの顔そのものを、食べるように話し始めた。赤く派手に口紅が塗られた大きすぎる唇をパクパクさせながら、ロバートの最高傑作と言われている絵画、『俺の光の管が通る、海底の蜘蛛の巣』に使った自然の花はなんの花だった?ねえ、なんの花だった?と、執拗に尋ね始めた。


                                ※


「ねえ、何の花を、そして何種類、そしてどれ位の量、そしてどうやったら、あんな風に美しくなるの、そしてどうしてあんな事思いつくの?後、結婚してないんでしょう?あたしダメ?歳は32、そしてバツイチ子持ち、だけどあんた優しそうだから子供愛してくれる、そして3人で絵を描いて、ああ、幸せ、分かる?」
と、一気にまくしたてた。側で聞いていた警備員は、「こいつは病んでいて危ない女だ」と判断し、退場させようとして女の右腕をつかんだ。
「ちょっと待ちなよ、腕を離してあげなさい、嫌がってるし、痛がってる」
警備員は女に喧嘩を売るような目つきを投げている。ロバートに言われた通り女の腕を離した。女は警備員を全く意識しておらず、ロバートに、「ありがとう、そして紳士ね、そして絵を見た時とおんなじ、そしてなんだかあたしったら濡れてる、そしてあたしの今の頭、あたしとあんたと娘、ああ、幸せ、そしてこのいつも曇ってるロシアの空を抜けて、そしてあんたのアトリエでニューヨークの摩天楼見ながらファック、そし」
「ちょっと待ってくれ。言葉を遮ってすまんね。でも、そうしないとお前さんはいつまでも喋り続ける。それはそれでいい。しかし・・・・・・」
やたらと唇が大きく、まるで体をはって日常を生きているような、アグレッシヴな女ではあるが、ちょっと待ってくれと頼むと素直に応じる。一方的と素直さが女の「ヘン」と言う印象を更に拡げているが、犯罪を犯すタイプには見えない。
「返事はイエスかノーだ。ロシア人かね?」
「イエス」
「それで、そんなに英語が話せたら大したもんだ。あんたは一方的だが、私も一方的な人間だ。まぁ絵を描くヤツも好きなヤツもヘンなヤツが多い。ウィリー、個展とサイン会が終わるのは何時かね?」
「18:00です」
「そして、これ終わったらさ、二人でさ、そして、どこかのパブで一杯やりながら、そして、あんたのモノ、トイレであたしブチこまれてさ、ああ、幸せ、そして」
「分かった、分かった。この個展が終わったら二人で一杯やろう。その時に、『俺の光の管が通る、海底の蜘蛛の巣』で使った花や、どうやってキャンバスに色をつけたか教えてあげるよ」
「ダメよ、マーマ。今日は7時からレッスンよ、ここが終わったら車で送ってくれるって約束したじゃん」
いつの間にか警備員の後ろに美しい10代の少女が立っていた。ロバートは目を凝らし、一瞬にしてこの少女にヤられてしまった。ロバートは視線をベラベラと話す口の大きな女に変え、「君の娘さんかね?」と、低い声で訊いた。
「そうよ。チッ、忘れてた。ゾーヤ、タクシー代あげるから今日はそれで行ってちょうだい」
「帰りは?」
「その分もあげるから」
ロバートのマネージャーのウィリーが口を挟んだ。「ロバートさん、サイン会はまだ終わってません、ほら見てください、10人位のお客様が顔をしかめないで行儀よく待っている。とにかく早くサイン会を再開させてください」
ロバートは口の大きな女に向かって、「すまんが、あの辺に座って個展が終わるまでお嬢ちゃんと待っててくれんかね」と言いながら人差し指で会場の隅に並んでいるパイプ椅子を指した。
「なに、後、10分かそこらで終わる」
ロバートは壁に掛かっている時計をちらちら見るふりをして、ゾーヤという少女を舐める様に見ていた。その間、ゾーヤの母親である口の大きいヴェロニーカは、ショルダーバッグからメイク道具を取り出し、真っ赤に塗られている唇を、更に意味もなく小さな鏡を見ながら上塗りしていた。上塗りが終わる度に、その大きな唇を下と上で擦り続け、また口紅を塗って擦ってーーーーーーこの繰り返しをしている。この女は頭が少し弱いのか?くるくるにカールされた黒い髪は、くびれた挑発の腰まで伸びている。その長い髪をしきりに右手で振り払い、品性の欠片も持っていない。ぎょろりとした大きな目、長いつけまつ毛、赤のミニスカートにハイヒール、わざとピチピチの長いシャツを着て、大きな胸よりも加齢により出てしまった下っ腹を、しょっ中触って見せつけている。
エラが張っている顎など、娘のゾーヤと全く似ていなかった。ロバートは色紙に自分の名前とファンの名前を丁寧に書き、ファンと談笑しているが、口から出ている事とは違う事が彼の脳みその膜を覆っている。ヴェロニーカはバツイチと言っていた。ゾーヤは恐らく腹違いの子供だろう。
ゾーヤは黒いパンストの上に黒のストレッチ・デニムを履き、靴はロー・ヒールだ。足が大きい。ロバートは、その黒いパンストで蒸れてしまった大きな足の臭いを想像し勃起していた。
会場には多くのファンが居る。みんなロバートが愛すべき変態で変わり者だと分かり切っている。ファンに「それ」を決定づけたのは、2015年、ニューヨーク・タイムズにデカデカと載った、「世界的画家であるレナード・ジョーンズ(通称ロバート)逮捕」の記事の内容であった。高級レストランで、一気に飲み干したグラス・ビールに、ウエイトレスの小便を執拗に要求、一気に平らげたスパゲッティーの皿の上にウエイトレスの大便を執拗に要求ーーーーーー
ロバートは逮捕され3ヶ月間の刑務所生活を送った。鉄の檻で描かれた『社会も鉄の檻って知ってるか?』と言う鉛筆だけで描かれた抽象画にも、熱狂的なファンは多い。出所後、「ペイント・ウォール」という絵画雑誌でのインタヴューで、大きな口のヴェロニーカがしつこく尋ねていた、草花の色をキャンバスに使った時、その花を抜き取る度に、「神様、ごめんなさい」と、真剣に謝りながら抜き取った、と言う文章をファンが読んだ時、「ロバートはただの変態なんかじゃない、世界一優しい男だ」といったツイートが無機質なディスプレイに輝いた。
静寂を超えた、ある種、神聖とも言うべき会場にブライアン・イーノの『Ambient1.Music for Airports』の音が会場を潤うように流れている。
ロバートの近くにいる個展のスタッフの一人だけが、ロバートがゾーヤに魂が奪われる程ぞっこんで狙っている事を見抜いていた。ゾーヤはどう見ても、まだティーン・エイジャーで、もし、ロバートと性的関係を結びメディアにすっぱ抜かれでもしたらロバートは監獄行きだ。児童が絡む性犯罪の罪は重い。おそらく懲役刑だ。そんな事になると、もう二度とロバートの新作が観れなくなる。見抜いているファンはロバートに忠告する勇気が無かった。
個展が終了するアナウンスが四角四面の天井の角に設置されているBOSEのスピーカーから流れた。ウィリーが会場の関係者と何やら話をしている。ロバートは最後の一人のサインを書き握手を済ませると、突然何かのスィッチが入った様に席を投げ出すように離れ、老人の駆け足でヴェロニーカとゾーヤの所へ向かった。
「何か飲むかね」
そうヴェロニーカに訊くがチラチラとゾーヤの蒸れた大きな黒パンストの足を嗅ぐように見ている。ゾーヤはロバートの姦淫の目など気づかず、右手の爪の先を注意深く繊細な紙やすりで擦っていた。
「あたしはビール、ええと、ゾーヤは?」
ゾーヤは爪を擦っている真剣な顔から笑顔に変わり、愛らしくロバートの目を見て、「バイカル」と呟いた。
「えっ?何と言ったのかね?」
そうロバートがゾーヤに訊いている最中でも、チラチラとバレないように、蒸れて黒いパンストの大きな足を、やはり嗅ぐように見ている。ヴェロニーカが割り込む様に、「バイカル、それね、あー、そしてね、それはね、あんたの国のコッカ・コーラをなめらかにした様な味でね、そしてね、多くの若い子はこれ飲みすぎてね、そしてね」
「つまり太ってしまうんだね」とロバートはソフトに言葉を遮った。そうでもしないと、この女はたかがドリンク一つで何時間でも喋り続けるだろう。
この出鱈目な社会では異端・異物はハジかれる。ロバートも幼い時から、まともになりすました奴らから散々ハジかれてきた。なのでヴェロニーカの存在はストレスにならない。それよりもゾーヤの足を嗅ぎ、足の存在が無くなるまで舐め尽くすと言うたわけた妄想に魂まで奪われていた。
ああ、ゾーヤ、君は本当に美しい、その麗しく長い髪の毛が発散している子供のシャンプー、形の良い天使の羽ほどに白い肌、黒パンストの下は、そう、透き通って美しいに決まっている、それなのに・・・・・・その足は臭い、君だって人間だ、蒸れ切っている足は臭い、しかし私は、そのギャップが、この歳になっても信じられんのだ、その不信感が私にとっての至福なのだ、ああ、君は美しい、しかし何故臭いのだ?信じられん、全くもって信じられん、このギャップによる興奮の説明は、宇宙のビッグバンの説明よりも遥かに困難で時間を要する、この問題は難解を超えて不可解だ、何故にこの臭いは匂いになるのだ?この臭いから匂いに変化する脳の過程は最先端の科学も破壊される。
「ねえ、あんた、なにブツブツ言ってんの?ああ、あたしの事ね、そしてね、やっぱりね、早くパブ行ってさ、そしてさ、あんたのモノ、あたしにブチこんでさ、そしてさ」
「いや」とロバートはヴェロニーカの止まらない大きな口を閉ざした。
「バイカルの事を考えてたんだ」
ロバートは、しゃぁしやぁと嘘をついた。
「おじさん、いいから早くバイカルとママのビール持ってきて」
ゾーヤは眉間に白く浅いシワを寄せ、爪の先を研ぎながら小さな声で頼んだ。
「分かった、今、持ってくるよ・・・・・・あれ?君、今、ペラペラと英語を話したね?発音もネイティヴだった、どうしてロシア人の君がちゃんとした英語が話せるのかね?」
「前のママがアメリカ人だったから」
ロバートは、しまった、やっちまった、と思い俯いてしまった。さっきこの子は腹違いの子供だと分かっていたのに、本当に頓馬な俺だ、歳を取るとこんなにも忘れっぽくなっちまうのか、と彼は年齢に責任をなすりつけ、しばらくうなだれたままであった。
一体どういう言葉で謝ればいいだろうと思いながら目玉だけを上へ動かしてみると、ゾーヤもヴェロニーカも明るい笑顔で微笑んでいる。
「気にしなくてもいいよ、おじさん、だっておじさんのアメリカじゃぁ離婚してない夫婦は奇跡の夫婦と言われてるじゃない、それとお隣の口の大きいママはね、普段あたしがロシア語と英語を混ぜて使っちゃうから、それでヘンな英語になっちゃってるの。ほんっと、おっかしな英語!」
ヴェロニーカに向かってロシア語を使い、「ほんっと、おっかしな英語」の箇所だけ声を大きくしてからかう様に言った。
ヴェロニーカは笑顔で「あら言うわね、タクシー代あーげなーいぞー」と、ゾーヤの細い首にプロレスの技をかける様に腕を回した。ゾーヤはキャッキャと喜んでいる。とても仲の良い親子だ。こんな時でさえもロバートの意識はゾーヤの蒸れた足へといっている。完全にフェティシズムの細胞の中で縛られていた。
ロバートの腰がゆっくりと少しづつ引いていく。彼は少し気まずそうに、「バイカルとビールだね、今持ってくるよ」と言い二人に背を向けた。勃起していたのである。間の抜けた姿勢でドリンク・コーナーへと奇妙な足取りで向かった。
「ママ、あのおじさん、なんだか良い人だね、あたし絵のことは分からないけど、そんなに凄いの?あの、おじさん」
「ゾーヤ、おじさんなんていう言い方は失礼よ。あの方は現代最高の画家と言われてるの。ピカソは知ってるでしょ?」
「うん」
「そのピカソと匹敵するとまで言われてるの、ロバートの抽象画の影響は今後100年は続くだろう、と評論家も言ってるのよ」
「へー、凄いんだね」
「そう、凄いの」
ゾーヤは腕時計に目をやり、「あっ、ママ、もう行かないと遅刻しちゃうよ」
ヴェロニーカはショルダー・バッグから財布を取り出しルーブル紙幣を数枚、ゾーヤの手に握らせた。ゾーヤがその場を立ち去ろうとした瞬間、ロバートが両手にドリンクを持ってやって来た。
「おや、お嬢ちゃん、どこへ行くのかね?せっかくバイカルを持ってきたのに」
「おじさん、あ、いや、ロバートさん、ごめんなさいい、七時からレッスンなんです」
「レッスン?バレエとかピアノとかね?」
「ううん、クラシック・ギターです」
「ほう、イカしてるじゃないか、私は君の『アンブラハムの想い出』を聴きたいな」
「ちょっと、そしてさ、二人でヒソヒソ話、NO、NO、そしてさ、ロバート、娘はレッスン、そしてさ、あたし達はビール、そしてさ、トイレであんたのモノ、ファック、ああ、幸せ、そしてさ、帰りは」
「ママ、ごめん、あたし、ホントに行く。またね、ロバートさん」
ゾーヤは若い声と若い匂いと臭いをそこに残し、出口に向かって人を避けながら走り去って行った。
ロバートは呆然とゾーヤの遠い背中を見つめている。ヴェロニーカには全く興味が無い。ヴェロニーカは強引に、だらんと下がっているロバートの腕に絡みついてきた。
会場の隅で仕事をしているマネージャーのウィリーは遠くから叫んだ。
「ロバートさん、明日の朝は早いですよ、明日はポドリスクですよ!」
ロバートは振り向き、静かに頷いた。

              
                                ※


「わぁ・・・・・・この店、しょっ中使うのかね、えらくお洒落で高級な店じゃないか」
「使うも何も、そしてね、ここはね、そして、あたしの店なの」
「えっ、君がこの店のオーナーなのかね?」
ヴェロニーカはカウンターの中に居るウエイター4人に目をやり、曲げる人差し指一回の手招きをした。すると4人の内の1人が礼儀正しく会釈し、少し嫌味とも取れる真っ直ぐに伸びた姿勢で二人の席へと歩き始めた。
ヴェロニーカはウエイターに、「通訳してちょうだい。この方は世界的な画家のロバートさん」とロバートに手を添えて紹介した。
「初めまして、Mrロバート。私はこの店の店長を任されているミハイル・ラザレフと申します。本日はご来店頂き誠に光栄に存じます」
「おいおい、そんな堅っ苦しい社交辞令、私は嫌だね。どうだい、君もここで一杯やらんかね、もちろん私がおごる。ああ、君の英語はブリティッシュだね、イギリスに住んでいた事があるのかね」
「ええ、イギリスの大学に留学しておりました」
「どこの大学かね」
「ケンブリッジ大学でございます」
「ケンブリッジ?なんだって、そんな一流の大学を出て、こんな所で・・・・・・失礼、居るのかね」
「それは・・・・・・」
ミハイルはヴェロニーカの顔を見て反応を伺った。
「通訳して、あたしは大した事の無い実業家だと。バーを二件、セラピー・ラウンジを二件、美容室を一件経営している、と」
ミハイルは言われた通り、ロバートに英語で伝えた。
ロバートの顔つきは急変し、鋭く冷たい目をヴェロニーカに投げた。
「君の目的は何かね、それと、ヘンな英語は芝居かね」
ヴェロニーカはニュアンスで言葉のほとんどを理解したけれど、芝居と言う意味が分からず、ミハイルに訊いた。
「芝居と言う意味です」と、ミハイルが無機質にロシア語で伝える。
ヴェロニーカは慌てふためき、「NO,NO,あたし、そんな女じゃなーい、そしてさ、あたしはさ、せ、誠実を目指す、目指すさ、そして、だから、あたし、Believe in me.そしてさ」
ロバートは初めてヴェロニーカの口を右手で塞ぎ、すぐに離した。
「失礼だが君は何かの病気かね」
ヴェロニーカも初めてシリアスな仕草を行った。右手に拳を作り中指だけを突き出し、ゆっくりとこめかみに中指の先を置いた。そこだけ切り取るとピストル自殺の仕草だ。
「病気or障害or個性or・・・・・・」
「君と私はついさっき会ったばかりだ、君は私の何を見ているのかね?金かね?君は本当に絵画が好きなのかね」
ヴェロニーカはミハイルに通訳してと言った。今までの「ヘン」なヴェロニーカは消え、ロシアの実業家ヴェロニーカになっている。ミハイルのロシア語を聞いたヴェロニーカは咄嗟に、「あたしが、貴方の絵で一番好きな絵は、貴方が刑務所の中で鉛筆一本で描いた『社会も鉄の檻って知ってるか?』
あの絵から感じたのは、鉄の檻の描写は社会でしょう?その鉄の檻の描写の真ん中に鉄の柵に入った人間の目や耳や口が出鱈目に描かれている。頭が悪いあたしは鉄の檻は何を意味しているのか、ミハイルに尋ねた。彼は、社会学者のマックス・ウェーバーが、本の中で社会を鉄の檻と表現していたと教えてくれた。鉄の檻である社会は、あたし達の自然にお腹の底から出てくる、なにかやりたい、と言う心を社会の法律が、それはダメだと締め上げる。あたしはそれがたまらなくイヤ。ミハイルはこうも教えてくれた。ウエーヴァーは、そのバカげた法律に従い損得でしか生きられない人間を没人格な人間だと。貴方は、その鉄の檻を破ってウエイトレスにヘンな事を要求した、法があなたを罰っした。でも、あなたがした事、そんなに悪い事かなぁ、刑務所に入れられる事かなぁ」と、長々と話した。ミハイルは同時通訳をした。
ロバートは目を瞑り、ヴェロニーカが真剣に話している最中でさえ、ゾーヤの蒸れた黒いパンストの大きな足の臭いを想像していた。
全くヴェロニーカの話を聞いていなかったロバートは、さもヴェロニーカの長い話に感銘を受けた表情を作り、笑みを浮かべ、こくりと頷いた。
ヴェロニーカはミハイルに、「もう、いいわ、カウンターに戻って」と、心を込めて言った。
ミハイルが去り、二人だけになって、店のスピーカーからアップ・テンポの曲が流れ始めると、ヴェロニーカは「ヘン」なヴェロニーカに戻った。
「だからさ、小難しい話、Get out here, アイ、ワナ、ファック、ユー、アンド、ミー、ゴー、トゥ、ザ、トイレット、トゥギャザー、ハリアップ、ハリアップ、そしてさ、だからさ、私のおしゃぶりで、あんたストロング・ショック、そしてさ」
「分かった、分かった、私のコレ、ダメだと思うよ。アイム、オールド・メン」
「大丈夫、大丈夫」
大きな唇を広げて声を出したヴェロニーカは席から立ち上がり、ロバートの手を強く握りしめ、トイレに引っ張って行った。ロバートの老いた足は、されるがままで、もつれながらトイレに辿り着いた。
トイレのロバートはまるでヴェロニーカに犯されている様だった。ヴェロニーカは一生懸命フェラチオしているが、ロバートは勃起しない。ヴェロニーカは顔をクネらせたり、イラマチオをしたり、フェラチオをする様に睾丸を舌で遊んだりと、自身が持っているフェラチオ・テクニックのすべてを使ってもロバートは勃起しなかった。フェラチオを諦めたヴェロニーカは、娘のゾーヤとお揃いで買った黒のストレッチ・デニムとTバックのパンティーを下ろし、指に大量の生唾をだらりと垂らし、その生唾をヴァギナに付けた。ヴェロニーカは後ろ向きになり、生唾にまみれたヴァギナをロバートのペニスに擦りつけ、尻を痙攣させるように横振りした。それでもロバートは勃起しなかった。
ヴェロニーカは動作を止め、正面を向いてロバートの目をまじまじと見た。
「ねえ、歳取っちゃうとホントにダメになっちゃうの?モノが」
ロバートはヴェロニーカのロシア語を、表情と言葉のニュアンスで、無表情に「イエス」と低くしゃがれた声で答えた。
ヴェロニーカが突然、ロベートを抱きしめた
「ペイン、ペイン、ユア、ハグ、イズ、ベリーストロング」
しばらく二人は清潔なトイレで抱き合っていた。するとヴェロニーカがすすり泣き始めた。
「あたしとゾーヤは上手くいってる様で・・・・・・いってないの。あたしのせいよ」
ロシア語だったけれど、ロバートは「ゾーヤ」と言う名前は聞き取れた。しかし、その名前から連想される、大きな足の蒸れた黒いパンストの臭い、と言うたわけた妄想は彼の脳みその膜を一時だけ破った。この女はどうして急に泣き始めたのだろう?と言う疑問も彼の脳みそを通らなかった。
ロバートの撫でる手は、ごく自然に動いている。自分の心に自分は存在せず、ヴェロニーカのみを感じている。
清潔で、壁の所々に黒い大理石が埋め込められている豪華なトイレの中では、すすり泣く声と鼻をすする音、呪文のように繰り返されるロバートの「ドント・ウォーリー」と言う響きだけが鳴っていた。


                                ※


ロバート、ヴェロニーカ、ミハイルの三人は店を出て、ヴェロニーカの自宅のキッチンで遅い夕食を食べていた。夕食と言っても、三人がヴェロニーカの自宅に向かっている途中で買ったケンタッキー・フライド・チキンとポテトだが。
ヴェロニーカはウォッカが大量に入っているブラック・ルシアン、ミハイルはコーヒー、ロバートはビールを飲んでいる。
ヴェロニーカの部屋は、彼女と同じように「妙」であった。壁はすべて紫、カーテンもソファーも紫、ヴェロニーカが着ているポリエステル生地のブラウスも紫だ。
不審に思ったロバートがテクニックを使ってヴェロニーカに尋ねた。
「君は紫が好きなんだね」
ロバートの顔は満面の笑みだった。
「好き。そしてね・・・・・・」
ヴェロニーカが「そしてね」と口走ると、その後はマシンガンのように、出鱈目ではあるが相手に通じる英語が出てくるのだが、この時は違った。わがままな天気のように突然曇った。
「症状」
ロシア語だった。ヴェロニーカは「ソーリー」と言って、上品にナプキンで大きな唇を拭き静かに席を立った。個展会場や店に居た時のヴェロニーカとは別人のように変わっている。彼女はショルダー・バッグからスマート・フォンを取り出し、グーグル翻訳を開いた。そして英語で「症状」と、囁き俯いた。
ミハイルはヴェロニーカの囁きが耳に入っていないフリをしながら、黙々とチキンを食べている。
「私は君の事をほとんど知らない。知っているのは、実業家と言う事、高等なフェラチオ・テクニックを持っていると言う事。だから君が何かしらの問題を抱え悩んでいても迂闊な事は言えんのだよ」
ヴェロニーカは隣にいるミハイルを見た。ミハイルは少し待って欲しいと言うジェスチャーをし、口の中のチキンを飲み込んだ。そして通訳をした。
「部屋中、紫でしょう?」
ヴェロニーカは今にも泣いていまいそうな声を出した。
ミハイルが通訳する。
「ああ」
ロバートはじぃっと目の前のポテトを見つめながら答えた。
「この病気の特徴。一つに事に異常にこだわるの。こんなね・・・・・・イカれた人間と一緒に暮らすとあの子もオカシクなっちゃうと心配してる」
ミハイルが通訳する。
ロバートは、じゃぁ何故、養女にしたんだ?と思いながらポテトの塩を指で払いながら口へ運んだ。会場に居る時も、店に居る時も、今こうして、この家に居る時も、夫の存在は塵ほども感じない。
しばらく気まずい空気が食卓を覆っていた。
「でもメリットもある。なんだか独特の発想をするみたい、あたしの厄介な病気は。あたしは、あたしのセックス・テクニックで釣った男を、あたしの虜にさせて、あたしのパトロンになった。お店の資金を出して貰った。いや、出させたと言う言葉が合うわね。設計者に色々と注文をつけたの。その結果、店の造りや、あたしが考えた接客サービスが客に受けた。でも、それだけ。お金はある。お金なんかで、物なんかで幸せにはなれないって、ちゃんと分かってる」
ミハイルは同時通訳をした。
ロバートはヴェロニーカの深刻な話の途中で、ゾーヤの蒸れた足の臭いを妄想していた。
「話題を変えよう。ゾーヤは何時頃帰ってくるんだね?レッスンから」
ミハイルが通訳する。
ヴェロニーカは紫の置き時計を見て、「ナイン」と呟いた。ロバートは家の中の時計を探した。すぐに見つける事が出来た。背後にあるソファーの上に、枠が紫で出来ている丸い大きな時計が壁に取り付けられている。8:40。もうすぐじゃないか。あの麗しく美しい長いティーン・エイジャーの髪。少しだけ太い太もも。蒸れているパンストの足。あと二十分もすれば、俺にとって夢のような女性と話す事も出来るし、演技をかまして近寄り、麗しく美しい髪だが、一日の終わりの頭皮の臭いを嗅ぐ事も出来る。そんなたわけた妄想をしていると、ふと、個展の会場でヴェロニーカが、『俺の光の管が通る、海底の蜘蛛の巣』で、キャンバスに使った花に、異常なほどに拘り、うるさくわめいていたのに、今はその質問が全く出てこない。これも彼女が言っている厄介な病気の症状なのか?と、たわけてはいるが、彼にとって夢のような心から、何かが一気に彼を深い疑問へと落とした。それは、この家に着いた時から続いているヴェロニーカの悲しみが、ロバートの心に依りかかったかも知れない。
「ただいまー」と言う声が玄関の方から聞こえてきた。ゾーヤが帰って来たのだ。
ヴェロニーカはテーブルから離れ玄関へと歩いて行き、ゾーヤはギターのハードケースを床に置いて、二人はハグをした。ミハイルともハグをした。
ロバートは、「君たち家族と仲良くなる為の証として君とハグをしたいんだが駄目かね?」と、またしても、しゃぁしやぁと嘘をついた。
ゾーヤはニコリと笑い、ゾーヤの方からロバートの方へ寄って来た。ハグをした瞬間、ロバートは集中力を高めゾーヤの頭皮の臭いを嗅いだ。ほんのりと臭い。たまらん。臭いから匂いへと変わった。
ロバートは勃起した。ヴェロニーカの店のトイレで、あれだけアグレッシヴにモノを責められても勃起しなかったのに、16歳の美しい少女の臭いはロバートにとっては凄まじいフェティッシュ・ボムであった。
「マーマ、あたし、なんか風邪ひいちゃったみたい」とゾーヤは顔をしかめて言った。
「えっ!大変!熱があるなら病院へ行かなくちゃ」
ロバートがミハイルを見る。ミハイルは、もう、うんざりとしていたが、仕事だと割り切り、嫌な表情を出さずに無表情で通訳をした。
「いや・・・・・・風邪ってのは・・・・・・神様からのギフトなんだ」
ミハイルは目を落とし、抑揚の無い口調で通訳した。
ヴェロニーカとゾーヤはミハイルの口から出た言葉を聞いて、「はぁ?」という顔でロバートを見た。
「ちょっと!あんたがイカれてるのは分かってる、十二分に分かってる。でもね、病気となると話は変わるわ。それも大事なあたしの一人娘よ?自分が一体何を言っているのか分かってるの!?」
ヴェロニーカは目を吊り上げ、初めて声を荒げた。
ロバートはこの発言で三人が怒ったり呆れたりするのを知っていた。ちらりとミハイルを見る。お互いの目は合わなかったけれど、俯きながらボソボソとヴェロニーカの言葉を通訳した。
ロバートは笑みを浮かべ、口調も穏やかにして三人に向かって言った。
「酷い風邪をひくと高熱が出る。それからは沢山の毛布をかぶるんだ。沢山の汗を出す。沢山の汗や小便などの排泄物には、体の中にずっと溜まっていた毒素や菌が入っている。つまり・・・・・・ここが重要なんだが解熱剤を使わず汗を沢山出したら熱も下がるし、長年の毒素や菌も体から出る。しかし解熱剤で熱を下げたら熱は下がるが毒素や菌は出ない。酷い高熱だったらインフルの検査」
ミハイルは無気力に同時通訳をした。


                                  ※

21:31

アルコールが入っていないミハイルが、ヴェロニーカの車の運転をし、ヴェローニーカが付き添って、ゾーヤを救急外来の病院へ連れて行った。ゾーヤは後部座席に座り、ヴェロニーカの脂肪の腹にぐったりともたれかかっている。
十五分程で病院に到着し、ミハイルがゾーヤを抱きかかえる様に歩いた。受付を済ませ、ゾーヤがだるそうに問診票に記入し、検温、血圧測定を済ませた。
熱は38度4分。医師が看護師に「インフルの検査」と指示を与え、看護師がその準備を始める。
「ちょっと痛いからね、我慢してね」と看護師が言い、ゾーヤの鼻に検査キットのスワブと言う長い綿棒を鼻の奥まで入れた。
「うぅ」とゾーヤは呻き、体は緊張し閉じた目に深いシワができる。
「終わったよ、痛かったね、ごめんね」と背の高い女性看護師はにっこりと微笑み、その場を去って行った。ゾーヤは薄い黄色のカーテンで仕切られている狭いベッドに寝かされ、ひどく辛そうだ。ベッドの横にはヴェロニーカがゾーヤの手を握り心配の目で見守っている。ゾーヤの手を握っている時、ヴェロニーカは気づいた。ゾーヤの親指を除く左手のすべての指の腹にタコが出来ている。この子は学校の勉強をしながら、こんな指になるまでギターの練習をしていたんだ。親子なのに、こんな事もあたしは知らなかったんだ。今日、この子がこんな指でレッスンをしている時に、あたしはトイレでロバートのモノで遊んでいた・・・・・・あたしは、やっぱり母親失格だ、と、行き過ぎた自責の念に苛まれ、ゾーヤの手から見守る手を離し、その手は自分の頭を抱えるワガママな手と変わった。
唐突にシャッとカーテンが開き、ヴェロニーカが頭を上げ医師の顔を見上げた。
「検査の結果は陰性です」
ヴェロニーカは、「ああ、良かった、良かった」と、安堵のため息と共に呟いた。「いや、でもですね、数時間後か明日になると陽性になるかも知れないんですよ」
「えっ!インフルってそういうものなんですか?」
「ええ。ですから二時間位はここで様子を見て、また検査します」
それを聞いたゾーヤは「えええ?また、あの、とんでもなく痛い思いするのぉ?」
「仕方ないんだよ、娘さん。レントゲン見たけど肺炎にもなってないし、まぁ普通の風邪だよ、おそらく」
「先生、明後日は私の大事なギターの発表会があるんです、それまでに治るでしょうか?」と、ゾーヤが身を起こして医師に尋ねた。医師は少し呆れた笑みを浮かべ、「それは君、分からないよ。神のみぞ知るってやつだ。お母さん、今は忙しくてね、二時間後の検査で何とも無かったら帰ってもいいです。薬は出しません」
「ええ?お薬頂けないんですか?」
医師は厳しい顔をして次のような事を言った。
「あのね、あんた達、すぐ、薬、薬って騒ぐけど、それ、やめなさい。風邪ってのは熱を出して、汗を出して出して悪いものを出すんだ。汗をびっしょりかいてパジャマを着替える。また汗を出す、着替える。これでいいんだよ」と、言い残し急患の所へ走って行った。
ヴェロニーカと赤い顔のゾーヤは、医師がロバートと同じ事を言ったので呆然としている。
窓の外では小雪がちらちらと降っている。白い外灯が放つ光は無数の雪に反射し、その反射光と反射光がランダムに飛び交い、雪よりも白く光り、風によって全体の反射光が左に傾いている。ミハイルは二人から目を外らし、その光景に目を移した。風によって傾いている雪のながれ。雪の粒が光よりも輝いているようにミハイルの瞳に映っていた。

同時刻 21:31

ロバートはゾーヤの部屋に入り、パンティー、パンスト、Tシャツの脇の部分、と片っ端から嗅いでいった。嗅ぎ終わるとバレない様に元の形にきちんと形を整え、クローゼットに戻した。Tシャツの脇の部分に少しワキガの臭いがする。彼はズボンのジッパーを下ろし、そこでオナニーをしようとしたその時、彼の動作も目の動きもピタリと止まった。「洗濯機」「洗濯カゴ」——————彼の脳みそはこの二つのイメージのみとなった。嗅ぎ終わったゾーヤのパンティーなどが床に落ちている。
彼はそれらを拾い上げ、慎重な手でもってケースに戻した。作業が終わると、霊が彼に憑依したように顔の表情がガラリと変わり、形容しがたい笑みを浮かべ、洗濯機へと走った。ズボンは足元まで、パンツは膝まで下りている。かなり間抜けだ。途中、居間の床に置かれているギター・ケースにつまづき、彼は転んだ。非常に滑稽な有様だが、とても62歳とは思えない俊敏な動きで立ち上がり、洗濯機へと走った。
洗濯機の横に洗濯カゴが置かれているが、中は何も入っていなかった。彼は洗濯機をじっと睨みつけ、ゆっくりとフタを開けた。またしても形容しがたい笑みが浮かび、その笑みと先ほどの憑依したような笑みが重なり、彼の表情は出鱈目となった。
彼は囁いた。「Ohooo,イッツ・マイ・ベイビー」と。ヴェロニーカの服や下着とゾーヤの服と下着は容易に見分けられる。用無しであるヴェロニーカの服や下着はロバートの手によってポンポンと放り投げられた。洗濯機の中にはゾーヤの衣服と下着のみとなった。これらの存在感は彼にとっては非日常であり、彼がここ数年味わったことの無い、強烈な存在を放っている。
彼はまず、汗が染み込んでいるTシャツを手に取った。白いTシャツで可愛いウサギとカメがプリントされている。ロバートは老眼だ。Tシャツの布が顔につきそうな程に脇の部分に目に近づけた。彼の瞳孔に映ったのはゾーヤの汗の黄色いシミであった。彼の瞳孔は大きく開き、興奮は最高潮を超えレベル・オーバーとなってしまった。レベル・オーバーの脳は、常識と言う思考を破壊する。ズボンとパンツは既に下ろされているのに彼は気づいていない。震える指でジッパーを下ろす仕草をする。しかし、彼の耳には実際にジッパーを下ろす音が鳴ったのだ。ベルトを外す音も、ズボンを下ろサッーと言う音も彼の耳へと入り脳内の細胞が聞き取ったのだ。
彼は性的興奮のスピードでモノを握りしめ、しごき始めた。読者さん、あんたもやってるでしょ?
すぐに射精しそうになったが、彼は、「まあ待て、落ち着くんだレナード、こういうもんは、ゆっくり楽しむもんさ、そうだろうベイビー、なぁ、そうだろう?」と、しゃがれた声を発し、しごきのスピードを緩め、射精の調節に入った。
「お次は、そう、これさベイビー、そろそろメインディッシュと行こうじゃぁないか」と、二度目のしゃがれた声を発し、パンティーを手に取った。パンティーのヴァギナの部分には赤いシミがついている。
「シミってやつは・・・・・・洗濯をしても・・・・・・落ちないのか・・・・・・」
彼は飢え切った犬のように、貪るように、その赤いシミを鼻に当て、62歳にしては信じられないスピードでしごき始めた。彼はすぐに射精した。情けない程に早漏であった。昔よりも色が薄まった精子は若い頃のようには飛ばず、ダラリと彼の太ももから足へと下降していった。
「何してるの」
ヴェロニーカの低く冷たい声が背後から聞こえた。ロバートは声の方へゆっくりと振り向いた。
「ミハイル」
「はい」
「警察に電話してちょうだい」
「はい」
と、ミハイルがスーツの胸ポケットから携帯電話を取り出そうとした瞬間、「ちょっと待って」と、赤い顔のゾーヤが制した。
「確かに、おじさんが、あ、いやロバートさんがした事はいけない事だわ。でもね・・・・・・さっき、あたしの先生の口癖の、最後に必要なのは勇気だよって言う言葉を思い出したの。あたし熱でフラフラだけど勇気を出して言う。あたし・・・・・・あたし・・・・・・ギター・ペグ音フェチなのっ!」
ゾーヤはヴェロニーカの為にロシア語で言った。ヴェロニーカの目には、かなりの力が込められている。
「ゾーヤ・・・・・・ペグって・・・・・・何?」
ゾーヤの熱の赤い顔はさらに紅潮し、身振り手振りでペグの説明を始めた。
ロバートは紅潮しているゾーヤの顔に、性的興奮ではなく、愛のようなものを感じた。そして、その勇気を心の中で称えた。
「マーマ、もう、ペグって分かったでしょ?」
「うん、形は分かった。音というものが分からないわ」
ゾーヤはふらつく体で床に置かれるハード・ケースからガット・ギターを取り出し、ナイロン弦が張られているのペグを回し始めた。
「ほら、ペグを回すと、こういう風にキシキシって音がするでしょ?この音を聞くと・・・・・・感じちゃう・・・・・・濡れちゃう」
ヴェロニーカとミハイルは、ゾーヤの言った言葉と感覚は全く理解出来ないといった顔をしている。ロバートがミハイルに向かって、「すまんがゾーヤが言った事を訳してくれんかね」と頼んだ。ミハイルは床に宇宙人の顔が転がっており、それを眺めているような顔つきで訳した。
ゾーヤは高熱で感情が高ぶり、普段なら絶対に言えない事が言える、ある種のトランス状態に近い心になっていた。
「私・・・・・・オナニーしながらペグを回して、その・・・・・・その・・・・・・キシキシを聞きながらオーガズムに達するのぉぉぉぉ!」
事もあろうか、ゾーヤは自身のオナニーの詳細を叫んだ。それも高らかに。
形の良い美しい鼻から鼻水がダラダラと垂れている。ヴェロニーカとミハイルは、眉間に強烈なシワを寄せ、床を見つめながら固まったままだ。ロバートはいつの間にかパンツとズボンを履き、ズボンの後ろポケットからポケット・ティッシュを取り出し、ゾーヤに向かってゆっくりと歩を進める。
「さあ、これで鼻をかむんだ、可愛い顔が台無しじゃぁないかね」と、優しい手でもってゾーヤにティッシュを手渡し、抱きかかえているガットギターに鼻水が付いているので、ロバートは潤いの手でギターをゾーヤの胸から離し、自分のハンカチでもって鼻水を綺麗にふき取った。
ゾーヤは気が高ぶり過ぎているのか、感極まっているのか、涙を流しながら泣いている。
固まっているヴェロニーカとミハイルは疑問をすり抜け、自身が持っているフェティシズムを考え始めた。二人とも、とてもじゃないが、簡単に人に言えるフェティシズムではない。
ケンブリッジ大学を出ているミハイルは、「人のイタズラは、どこまでが許され、どこまでが許されないのか?」「人を助ける為に、とても人には言えない自分のフェティシズムとオナニーを、高熱で具合が悪いにもかかわらず、勇気を出してカミング・アウトをすると言う行為は、利他的であり、崇高そのものだ」と、考えていた。

                                                         完
                             

                                                                                                                                   

ロシアン・フェティシズム

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登録日 2021-05-07

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