青の時代

【青の時代】
(一)
激しい雨が滝のように降り注ぎ、フロントガラスの上を幾筋もの小さな川となって流れ落ちていた。
 地面を叩く水煙がヘッドライトに映し出されるのが見える。住宅街の道は少しずつ狭くなり、暗さもさらに増してきた。
 賢治は道が分からなくなってきたので、後部座席の客に声をかけた。
客は酒に酔っているのか、車の揺れに合わせて気持ちよさそうに眠っている。
「お客さん、ここから、どう行けばいいんでしょうか。」
客は眠りを邪魔されたことに不快感で顔をしかめた。
「ううん・・・。もう、着いたんか。」
「いいえ、近くまで来てるんですが、この先の道が分からなくて。」
「あの信号を右に曲がって、そして、すぐに左、まっすぐ行って突き当りを右や。」
 激しい雨の音で客の声がかき消されそうになった。
 賢治は客の言う方向にゆっくりと車を進めた。
 ほんの少しだけ、雨が小降りになってきた。前方の見通しが良くなった。
「そこや、その角や。その家の前で止めてんか。」
客ははっきりした口調で叫んだ。
車は急停止して、立派な門構えの家の前に止まった。
夜中の一時を過ぎているというのに、玄関の明かりが点っている。
客は金を払うと、よろけた足取りで玄関の方に向かって行った。
賢治はルームランプの明かりを頼りに乗客カードに料金と方面を書き込んだ。
また、雨足が強くなった。時間も遅い。今日は終わりにしよう。
賢治はそう思い、会社に向けて車を発進させた。

(二)
 真一は眠れなかった。時計を見ながら、今日も家に帰りそびれたことを後悔した。
 こんな日がどれだけ続いたことだろうか。少しずつ、真一の身体に、この生活が当たり前のようになって染み込んできている。
 大きな柿の木が部屋の窓一杯に広がっている。真夜中になると、見知らぬ大男が手を拡げているように見える。不気味さを覚えた。
「眠られへんの・・・・・。」
 玲子は何回も寝返りをうつ真一を気遣った。
「うん、なんか、疲れているんやけど、頭だけ冴えてるんや。」
 真一は頭を抱えるようにして、玲子に言った。
「やっぱり、家に帰ったほうがええんちゃう。そう思うけどな。」
 心配そうに玲子が言った。
「そうやな、暫く帰ってへんし。そうしようかな。」
 真一は明りを落とした天井の照明を見つめながら言った。
「おばちゃんは・・・・。」
「さっき、電話があって出て行ったわ。」
「誰からや。」
「よう分からんけど、きっと、あの男の人とちゃうかな。」
 真一と玲子の間に暗欝な空気が流れた。
 真一が口を開いて尋ねた。
「あの男の人って、誰や。」
「この前、学校から帰ってきたら、家の近くの路上でよう見るタクシー停まってんね。その日はバイトやったから、着替えて、すぐ出なあかんのやったけど。気になって居間の方に行って、ちらっと見たら、お母ちゃんと一緒に寝転んで誰か男の人、テレビ見てんね。 後ろ姿見ただけやけど。」
 玲子は頭の後ろに両手を組んで話した。
「その男の人、玲子に挨拶せえへんかったんか。」
「お母ちゃんはお帰り、もう行くんかって聞いてくれたけど。その男の人、知らんふりして、黙ったままでテレビ見てんね。」
「なんや、けったいなおっさんやな。おばちゃんとどういう関係や。」
「分かれへん・・・・。」
玲子は黙ってしまった。真一はもうそれ以上聞く気がなくなった。
「帰るわ、おまえ、ひとりにして悪いけど。」
「この時間から帰るの。明日にしたらええやん。」
「思い立ったらなんとかや。」
 玲子は真一が家に帰ったらいいと思いながらも、自分から離れるようで寂しかった。
「明日、また、学校で会えるやんか。まあ、とにかく、帰るわ。おまえ、明日、学校に来るんやろな。」
 真一は帰り支度をしながら、玲子の方をちらっと見た。
 玲子はそんな真一をただ黙って眺めていた。
 真一は玲子の家を出て、澄み渡る冷たい夜風の中を自宅に向かって自転車を飛ばした。

(三)
 賢治は会社で日報と洗車を終えて家に帰った時には、もう、疲れは最高潮に達していた。
 真一の部屋を覗くと、久しぶりに帰っていた真一がベッドに潜り込んでいた。
 賢治は無性に腹が立った。叩き起こして今までどうしていたのか、問い詰めたい気持ちになった。はやる気持ちを抑えて、賢治も寝床に着いた。横の早苗は亭主のことも忘れてぐっすりと寝込んでいた。
 こんな家族のために身体を酷使して、不自由な身でタクシー会社に勤めていることが情けなかった。やがて、賢治も眠りに落ちて行った。
 翌日は非番だった。
 賢治は電話に向かって話している早苗の大きな声で起こされた。
 枕元の時計を見ると午後一時を少し過ぎたところだった。
「真一がお宅の家の方が良いと言ったんですか。真一の育て方が悪いって。あなた、なに様だと思ってるの。あなたには関係ないでしょう。とにかく、真一がお宅に行ったら追い返して頂戴。お願いします。」
 早苗は叩きつけるように受話器を置いた。
「なに、大きな声を出してるんや。なにかあったんか。」
 早苗は、まだ、興奮が冷めやらぬようだった。
「真一の同級生の女友達の藤本っていう子、知ってる。彼女の母親がうちの育て方が悪いと言うんよ。だから、家に帰ってけえへんって。」
 早苗は大阪生まれの大阪育ちだが、暫くの間、東京で働いていた。その後、また、大阪に戻ってきて知りあいを通じて賢治と見合いして結婚した。
「真一、今までどこに行ってたんや。その女友達の藤本っていう家か。しょうないな、あいつは。」
 賢治は義足をつけて洗面所に行った。
「あんた、私、あの藤本という母親にどう言われたと思う。」
「なんて、言われたんや。」
 賢治は歯を磨きながら、適当に相槌を打った。
「勉強、勉強って厳しく育て過ぎたのと違うかと言われたんよ。どう、思う。あの母親、自分の主人が入院しているんで、二人とも元気な私たちに焼き餅焼いているんや。きっとそう思うわ。」
「酷い母親やな。そんなことまで言うたんか。」
賢治は居間に移って新聞を拡げた。
早苗は賢治の後をついてきながら、話しの続きをした。
「今日の夕方、真一の担任の先生に呼ばれてるねん。」
「何の話や」
 賢治はテレビのスイッチを入れながら聞いた。
「きっと、真一の進路の話やと思うわ。」
「あいつ、勉強塾もやめたし、学校もサボってるし、家にも帰ってけえへんし、高校行けるんかいな。行く気あるんかいな。」
 賢治はテレビの画面を見ながら言った。
「とにかく、先生に相談してみるわ。」
 早苗は賢治の朝昼兼用の食事の用意をするために、台所に入った。
「ところで、藤本っていう真一の女友達やけど、どこに住んでるんやろ。」
「たしか、三丁目の団地やって聞いたけど。」
「真一がそう言うとったんか。」
「邪魔くさそうに話してたわ。」
 早苗は野菜を刻みながら、賢治に言った。
「何の病気なんやろ。」
「さあ、私にも分かれへんわ。けど、かなり長い間、入院してるみたいなんよ。」
 賢治はテレビを切って、また、新聞を読み始めた。
 早苗も炒めものをするために、フライパンに火をかけた。
「ところで、真一は藤本っていう彼女の家にずっとおったんかいな。」
「そうらしいわ。家で食事を作って貰ったり、外食に一緒に出かけたりして楽しかったて言ってたわ。」
「ふーん、一体、真一はどっちが自分の家やと思ってるんやろ。困った奴やな。今日は帰ってくるって言うてたか。」
「分かりません。糸の切れた凧みたいなものなんやから。」
 早苗は食卓に少しずつ料理を並べ始めた。賢治も食卓の方に移動してきた。
「今度、真一の顔を見たら、しっかりと言い聞かせとかなあかんな。」
「無理ちゃうの。こんな長い間、家を出て外泊するぐらいなんやから。」
 真一のことでは賢治も早苗も悩まされると思っていた。
 晩秋の長い日差しが食卓の二人に差し込み、沈痛な面持ちが漂うそれぞれの顔を照らし出していた。

(四)
 校庭は夕焼けに染められていた。グラウンドでは放課後の生徒たちが運動クラブで汗を流していた。一面では野球クラブの練習、そして、もう一面のコートではテニスクラブが練習していた。
 早苗は暫し立ち止まり、この光景を見ながら、中学時代のクラブ練習を想い出した。時間が来たので、急ぎ足で真一の担任の先生が待つ会議室に向かった。会議室はすぐに見つかった。ドアをノックした。部屋の中から、担任の山本先生らしき声が聞こえた。
「お待ちしておりました。さあ、どうぞ。」
 山本先生は早苗に椅子をすすめた。早苗は深々とお辞儀した。
「ご足労頂いて申し訳ございません。早速なんですが、真一君の高校進路のことなんですが、このままでは、はっきり言いまして公立のH校は難しいと思います。受験まであまり時間がありません。そこで、E工業高校であれば、何とか行けるのではないかと思っています。それも、確実とはいえませんが。本人がやる気を出して頑張ってもらうしかないのですが。」
 山本先生は下を向く度にずり落ちてくるメガネを指先で押し上げた。
「そうですか。このE工業高校は公立高校の中でも一番最下位のランクにあるようですが、   
もう少し、上のランクは可能でしょうか。例えば、C高校のような普通高校は駄目でしょうか。真一にはぜひとも普通高校から大学に進学して貰いたいと思っていますので。」
 早苗は縋るような気持ちで、山本先生を見つめた。
 山本先生は大きなため息をついた。
「かなり難しいと思います。工業高校からでも大学進学は可能です。本人のやる気さえああればのことですが。」
「分かりました。帰って主人とも相談してみます。それと、真一にも高校受験に対する気持ちも聞いてみます。」
 早苗と山本先生の間に重たい空気が流れた。
「そうしてください。私の方から真一君には進路のことを聞いていますが、彼はE工業高校に進学しても良いような口ぶりでした。」
「そうでしたか。」
 早苗は落胆の色を隠せなかった。
「ところで、お母さん、真一君と藤本君のことなんですが。何か、お家で変わったことはないでしょうか。」
「先生、そのことなんですが。実は、最近、真一は家に全く帰ってこないんです。ところが、昨日、久しぶりにひょっこり帰って来たのです。それも真夜中に。朝には学校に行く用意をしていましたが、小遣いが欲しいと言ってきたので仕方なく3000円を渡しました。」
「そうですか。でも、、学校にはちゃんと来ています。授業態度で何か問題になったこともありません。私の綬業の時にはよく居眠りをしますが、それ以上のことはありません。ただ、今の中学生は私たちの子供時代に比べて大人びいていますからね。いろいろなマスコミの影響も大きいのでしょう。特に、男女関係ではあまり恥じらいもなく平気のようです。実は真一君と藤本君は学校でも大変、仲が良いようなんです。でも、他の同級生もいろいろとカップルがいるようで、そんなに目立ちませんが。私が一番恐れているのは、男女の関係に深くのめり込むことなんです。勉強にも差支えるし、プラスになることがありません。また、男女関係の集団グループができて、非行に走ることも心配です。これだけは絶対に防止しないといけないと思っています。父兄のみなさんにもご協力を頂きたいと思っています。」
 早苗は山本先生の話を聞いて、さらに心配が増幅してきた。一体、真一は何を考えているのか。これから先のことをどうしたいのか。
「お母さん、どうしました。」
 山本先生は心配そうに尋ねた。
「いえ、少し、めまいがしてきたもので。もう、大丈夫です。」
「そうですか。まあ、真一君のことは気長に見てやることも大切かもしれません。私も彼の担任として良き理解者になるつもりです。」
 あたりはすっかり暗くなっていた。放課後の生徒たちも、クラブの練習を終えて家路に着き始めた。
「すみません。すっかり遅くなりました。」
「あっ、先生。もうひとつご相談したいことがあります。」
 山本先生は姿勢を正した。
「何でしょうか。」
「実は藤本さんのことなんですが。真一は彼女の家に入り浸りなんです。何回も注意しましたが、全く聞き入れる様子はありません。主人も私もほとほと困っています。彼女のお母さんも真一が家を空けることに対して、あまり理解を示してくれません。」
「そうですか。それはお困りですね。担任の立場から彼女のお母さんに、プライベートのこともあるので、慎重に話してみます。」
「まあ、とにかく、これからの受験のこともありますし。真一君には早く自分自身を取り戻して貰いたいと思っています。これからも、担任の立場で精一杯にサポートして行きます。」
「宜しくお願い致します。」
 早苗は会議室を出た。会議室と隣り合わせになっている職員室では何人かの先生が事務をとっていた。足早に校門に向かった。生徒のいなくなったグラウンドが夜の暗闇の中でひっそりと静けさを取り戻していた。

(五)
「真一、今日は家で勉強せなあかんよ。」
「ちょっと、用事があるね。」
 真一は自分の部屋でボストンバックに着替えを入れながら言った。
「おまえ、いい加減にせえよ。藤本っていう女の子の家に泊まり込んでいるようやけど。もうちょっと、考えなあかんで。高校受験も近いことやし。もう、勉強せえへんのやったら、家に帰ってくるな。」
「そんなこと、親父に言われる筋合いないわ。ほっといてくれ。」
「なんや、親に向かってその言い方は。もう一度、言ってみい。」
「ああ、なんぼでも言うたるわ。この家におったら、うっとしいわ。あいつの家の方がましや・・・・。」
 賢治は真一の胸ぐらを掴んで思い切り突き飛ばした。
「なんや、親父、やる気か。」
 真一はかまえた。賢治は情けなかった。真一との深い溝を感じた。
賢治は真一の頭を強く殴った。真一はよろめきながらも抵抗した。早苗が止めに入ったが、二人は取っ組み合いになり、賢治は真一を壁に強く押しつけた。真一は賢治をはねつけた。  
体力的には賢治と互角になっていた。その瞬間、真一のパンチが賢治の胸のあたりに鈍い音を立てて当たった。賢治は息苦しさでしゃがみこんだ。
「真一、ええ加減にしい。」
 早苗は泣きながら叫んだ。
「もう、こんな家、出たるわ。絶対に帰ってけえへん・・・。」
 真一は玄関のドアを乱暴に開けて出て行った。早苗は、ただ、呆然とそれを見送るしかなかった。賢治は苦しそうに呻きながらうずくまっていた。
 外は冷たい雨が降っていた。真一は後味の悪さを残しながら、玲子の家に向かって自転車を走らせた。

(六)
 真一は家に帰らなかった。玲子と一緒に学校を休むようになった。
 玲子の家では幸恵の居ることが少なくなった。きっと、浩三と会っているのだろうと想像できた。
 山本先生は心配して玲子の家を訪れた。二人は先生に学校へ行くことを約束したが、来なかった。高校受験までに出席日数が足りないと内申書に響くことになる。いや、卒業までもできなくなってしまう。でも、二人は学校に行かない日が続いた。
 賢治と早苗は真一のことが心配だったが、どうしようもなかった。山本先生とも相談したが、本人しだいなので時間をかけるしかなかった。
 何とか授業日数もギリギリ足りて、真一も玲子も山本先生の説得で高校受験をすることになった。結果は二人とも合格だったが、それぞれの高校のレベルは最低だったので満足できなかった。
 その年の地元の秋祭りの季節がやってきた。真一はだんじりを引く役に当たった。勉強も全くしないし、高校も休みがちだったが、地元の青年団のだんじりを引く練習だけは熱心にしていた。
 秋祭りの当日、賢治と早苗はだんじりを先頭で引く真一の姿を見ていた。
「ねえ、あんた、真一はあれでええのやろうか。」
 賢治は早苗の肩を抱きながら言った。
「あれでいいんや。あいつはやっと自分の生きがいを見つけたんや。俺はそう思う。」
 二人にも秋祭りの熱気が伝わってきた。

(七)
 真一は相変わらず、玲子の家にいた。
 ある日の夜中に幸恵が浩三を連れて帰ってきた。二人はかなり酔っていた。
「おまえが山崎ところの子倅か。お父ちゃん、元気か。おまえのお父ちゃん、足悪いけどよう働くな。けど、気にくわんところがあるんや・・・・・。
 この前、おまえのお父ちゃんの車に傷をつけたんと違うかって、わしに言いがかりをつけてきたんや。おまえのお父ちゃんのすぐ横にわしの車を置いとったもんやからな。どこにそんな証拠があるねって言い返してやったら、すごい剣幕で怒鳴りやがった。それで、取っ組み合いの喧嘩になりそうやったけど、会社の所長に仲裁に入られてな。大きな喧嘩にはなれへんかったけど。おまえとこの親父、足ちんばのくせに大人ししとったらええのにな。」
 浩三は酔いの勢いで言葉を続けた。
「今度、家に帰ったら言うとけ。いつでも、相手になったるさかいな。」
 真一はその言葉に逆上して、浩三に飛びかかった。浩三の力は強く、真一はねじ伏せられた。真一はなおも挑みかかった。幸恵と玲子が止めに入ったが、か細い女の手ではどうすることもできなかった。興奮した浩三が真一の顔面を殴打した。真一はよろけながら、顔を覆った。
 大人の浩三と高校生の真一とは体力には差がなかったが、浩三の迫力に圧されてしまった。
 真一は台所に駆け込み、包丁を持ってきた。気が狂ったように浩三の腹を突き刺した。そこらじゅうに鮮血が飛び散った。浩三は腹をおさえたまま、うずくまった。部屋の中は修羅場と化した。幸恵と玲子の甲高い悲鳴が聞こえた。
 真一はただ、呆然と包丁を握りしめて立ちすくんでいた。

(ハ)
 真一は鮮血を浴びたまま、自転車に飛び乗って無我夢中に自宅へと走らせた。家に飛び込んできた真一を見て、早苗は驚いた。
「どっ、どうしたん。な、何かあったんか。」
 真一は玄関にへたり込んだ。
「れ、玲子の家で・・・・・。」
 それだけをいうのが精一杯だった。
「ちょっ、ちょっと待っとき、今すぐ、お父ちゃんのお父ちゃんの携帯に電話入れるから。」
 早苗の携帯電話のプッシュボタンを押す指が小刻みに震えていた。
「どうしたんや。今、仕事中やで。」
「あんた、すぐに帰ってきて、真一が真一がおかしいんや。服に血を浴びてて何かあったようなんや。」
 早苗の震える声に、賢治は強く反応した。
「分かった、待っとけ。今からすぐに帰るから。」
 早苗は自分でどうして良いのか分からなかった。ただ、真一を居間のソファに座らせて、水を持ってきた。
「飲むか・・・・。どうしたんや。」
 早苗は恐る恐る聞いた。
「玲子の家で人を刺してきた。親父の会社の人や。玲子のおばちゃんと一緒に帰ってきたところで。親父のことで・・・・。」
 真一の目から涙が止めどなく流れていた。
「ええっ、本当か。それでどないしたんや。」
早苗の頭は真っ白になった。パニック状態でこれからどうしたらいいのか、分からなくなった。
 暫く経って賢治が帰ってきた。賢治は息を切らせながら、家に入ってくると、その雰囲気に驚いた。
「真一、ど、どないしたんや。」
 賢治の顔面は蒼白になった。
「親父の会社の浩三というおっちゃん、刺してしもた・・・・。」
 賢治はその男が分からなかった。
「親父の車の傷のことで、トラブルになった相手や。」
「横田のことか。」
「そうや、今さっき、玲子の家で刺してしもたんや。あいつ、親父の足の悪口を言うたんや。」
「そうか・・・・。」
 賢治はなぜか妙に落ち着いてきた。側で早苗が警察に電話しようか聞いた。
「真一、久しぶりに銭湯に行こうか。」
真一は怪訝な顔をした。
「セントウ・・・・・。」
「そうや、銭湯や。お父ちゃん、足が悪いからあまり外の風呂、入りに行ったことないね。真一を小さい時から連れて行ったこともなかったな。」
 早苗は泣いていた。父と息子の強い絆を感じた思いだった。
「仕事柄、タクシーでお客を乗せてまわってると、いろいろなところを見ることができるやろ。おまえ、T駅の近くに銭湯があるの知ってるか。そこに行ってみようや。」
ソファに座りこんでいた真一を、賢治は引っ張りあげた。
「銭湯か、そうやな。」
真一は落ち着きを取り戻した。
「おい、あそこの銭湯に行ってるから、警察に電話しといてくれ。必ず、風呂から出たら自首させるからと。警察にはそない言うといてくれ。」
 早苗は大きくうなづいた。
「それから、藤本の家の方にも連絡、頼むで。救急車は早々に呼んでくれていると思うが、今頃、あの母娘、気が動転して待っているやろうから、なあ、真一・・・。」
 賢治は真一とともに銭湯に行く用意をした。賢治のタクシーに乗って、二人は銭湯に向かった。
 番台では主人が真一を見て驚いた。二人はお金を払って脱衣場に向かった。真一は血みどろになったTシャツとズボンを脱いだ。賢治は左足の義足を外した。まわりの客が奇異な目で見ていた。二人は平然としていた。湯船につかった。
「ああ、気持ち良いな。外の風呂は大きいし、最高やな。」
 真一は涙を流していた。
「真一、背中、流したろか。」
 二人は湯船から出た。賢治は真一の後ろにまわり、石鹸で泡立てたタオルで真一の背中を流し始めた。
「おやじ、ありがとう。」
賢治は真一の背中を流しながら、子供の頃、交通事故で左足を失くした後に、初めて親父と一緒に銭湯に行ったことを思い出した。

(九)
 あの忌まわしい事故は賢治が五歳の時に起こった。その年の四月から幼稚園に通うことになっていたので、園の下見もして楽しみにしていた。二月の暖かい日であった。
 一般道に隣接した空き地は、もうすっかりと夕闇に染められていた。まだ、賢治は近所の子供たちと鬼ごっこ遊びに夢中になっていた。
「賢ちゃん、今度は鬼や・・・。」と、ガキ大将の敏夫が言った。
 賢治は一緒に遊んでいた子供たちの中で、一番、年少だった。だから、いつも鬼になることが多かった。電柱に向かって顔をあてて、大きな声で叫んだ。
「もう、いいかい。」(まあ、だだよ・・・・。)
「もう、いいかい。」(まあ、だだよ・・・・。)
 友達の声が遠くに聞こえてきた。
「もう、いいかい。」(もう、いいよ・・・・。)
 友達はもう、みんな思い思いのところに隠れてしまったようだ。
 賢治は空き地の奥の材木置場のところに入って行った。高く積み上げられた材木の後ろに、いくつもの大きな土管が転がっていた。その材木に足をかけた。もう、見つかるのは時間の問題だった。あるひとつの土管の中に、孝ちゃんが隠れていた。
「孝ちゃん、みーつけた・・・。」と賢治は得意満面の顔で言った。
孝太は渋々、土管の中から出てきた。みんな、隠れていたところからゾロゾロと出てきた。すぐに見つかってしまった孝ちゃんに、みんなは不満を持っているようだった。
孝ちゃんの鬼の番になった。
日はとっぷりと暮れ始めていた。
「もう、やめへんか。」と敏夫が言った。
「もう、一回だけ・・・。」
 賢治はみんなにねだるように言った。
「仕方ないな。じゃあ、もう、一回だけやで。」と敏夫が言った。
 みんなも頷いた。
「始めるで。」
 孝ちゃんが電柱に顔をあてた。
「もう、いいかい。」(まあ、だだよ・・・・。)
もう、みんな隠れる場所をしっかりと見つけているようだった。でも、賢治はなかなか隠れるところが見つからない。焦りが出てきた。
空き地を出ると、一般道が走っている。
賢治は、通り過ぎる車を確かめもせずに素早く横切ろうとした。
「キィ、キィー・・・・。」
 砂利を積んだ大型ダンプが、けたたましい音を立てて急ブレーキをかけた。
 賢治は大型ダンプの真下でぐったりとしていた。
 左足がタイヤに敷かれた。肉が裂けて骨が見えていた。周辺には多くの血が飛び散っていた。
 みんなも、急ブレーキの音を聞いてびっくりして集まってきた。
「賢ちゃん、大丈夫か・・・・・。」
 敏夫が叫んだ。
 運転手が慌ててダンプから降りてきた。そして、賢治をダンプの下から引きずり出した。
 賢治の身体を起こしたが、左足がブランブランしていた。
「おばちゃん、呼んでくるよ。」
 孝ちゃんが慌てて言った。
 すぐに、賢治の両親が現場に駆けつけた。辺りは騒然としていた。
 賢治は運転手の腕の中でぐったりしていた。
 運転手の側に駆け寄り、父親の隆夫は賢治を抱きかかえた。傍らで、母親の京子は泣き崩れている。
 やがて、救急車のサイレンの音が近づいてきた。

(十)
 初春の優しい日差しが病室の窓に差し込んでいる。
 賢治はやっと麻酔から目を覚ました。ベットの側には京子の憔悴しきった顔があった。もう、悲しみの中で涙も枯れ果てている。
「お母さん、痛いよ、痛いよ・・・・・。」
 賢治は顔を歪めながら泣いた。京子は賢治の身体をさすっている。
 もう、賢治の左足は膝から下がなかった。あの忌まわしい事故で切断したのだった。
「左足が何か変な感じだよ・・・・。」
 賢治は痛みの中で精一杯、自分の身体の変化を京子に訴えかけている。
 京子にはどうすることもできなかった。
「京子、先生が話あるんだって・・・・。」
 隆夫が息を弾ませて病室に駆け込んできた。
 京子は賢治を宥めながら、隆夫と一緒に詰め所に向かった。
 詰め所では看護婦たちが忙しそうに点滴を詰めていた。
 小林先生は奥の長テーブルに座ってカルテを書いていた。
 隆夫と京子に気付いたのか、小林先生は二人に向かって言った。
「どうぞ、入ってください。賢治君の様子はどうですか。」
 小林先生は隆夫と京子を交互に見ながら尋ねた。
「はい、かなり痛がっています。側にいると賢治が可哀そうで、可哀そうで・・・・。」
 京子はうなだれて言った。
「そうですか。麻酔から覚めたようですね。後で診に行きましょう。ところで、入院は長引くと思って覚悟してください。これからは義足をつけて歩く練習もしなければなりません。」
 隆夫と京子の二人には小林先生の話がズシンと重たく響いた。
「左足の手術の経過は順調なのでしょうか。」
 不安げに隆夫が聞いた。
「大丈夫です。一年もすれば、義足をつけられるぐらいに回復しますよ。只、賢治君の心の傷が心配です。積極的にリハビリに取り組んでくれればいいのですが。」
「先生、賢治はまだ、幼稚園ですよ。リハビリに耐えられるかどうか。左足のないことのショックは、あの子にとってはあまりにも大きすぎます。暫くはそっとして上げたいのです。」
隆夫は父親としての精一杯の気持ちを伝えた。隣で京子は肩をゆすりながら泣いていた。
「そうですね。賢治君の心の傷を癒すことが先なのかもしれませんね。でも、とにかく、賢治君が一日も早く、普通の子供と同じように歩けるように努力したいと思います。お父さんやお母さんにも、頑張って貰いたいと思っています。」
 小林先生は二人を勇気づけるように言った。
 病室に戻ると、賢治は看護婦さんから新しい点滴の用意をして貰っていた。
「早く良くなろうね。賢治君は男の子だから頑張れるよね。お姉ちゃんも一緒に頑張るからね。」
 隆夫は看護婦さんに向かって頭を下げた。
 京子が賢治のベットに近づいた。
「賢ちゃん、早く良くなってお家に帰ろうね。母さんはいつも賢ちゃんの側にいるからね。」
 京子は優しく賢治の頭をなぜた。隆夫もそんな二人を、ただ、黙って見ていた。
 やがて、鎮静薬が効いてきたのか、賢治は眠りに入って行った。

(十一)
 賢治が京子に言った。
「お母さん、僕の左足、おかしんだ・・・・・。」
「何がおかしいの・・・・・。」
 京子は精一杯に優しい顔を向けた。
「僕の左足の先、あまり感じないんだ。・・・・。ちゃんとあるんだよね。大丈夫だよね。」
 賢治は心配そうに言った。
 京子の涙が頬を伝わって、賢治のベッドの上にポトリと落ちた。
 もう、賢治には左足のことを話すべきなのだろうか。いずれ、分かってしまうことなのに。
京子はそう思うと涙がとめどなく流れ落ちるのだった。小林先生からこの事実を伝えて貰う時期が来たのではないか。京子はそう思い、自宅にいる隆夫に連絡を取って相談した。

(十二)
寂しい雨が、時折、病室の窓ガラスを強く叩いた。
賢治は寝苦しいのか、度々、寝返りを打っていた。
側で、京子はそんな賢治の顔を悲しげに見ていた。
「京子、賢治には左足のこと、やっぱり話そう。いずれ、わかってしまうことだし、早い方が良いやろ。」
 隆夫は京子に同意を求めるように言った。
 京子は涙で滲んだ目で、隆夫の方に向き直った。
「そうやね。賢治には辛いことやけど、しっかりと現実の中で生きて貰うしかないんやね。」
 隆夫は京子のその言葉にうなづいた。
 ふたりは病室を出て、看護婦詰め所に向かった。
「先生、賢治に左足のこと話して貰えませんか・・・・・。ふたりでそうしようと決めたんです。」
 隆夫は小林先生の目をじっと見ながら言った。
「そうですか、分かりました。早い方が良いでしょう。この後の回診の時に話しましょう。」
 ふたりは喉に痞えていたものが一気に降りたような気がした。
 暫く経って、小林先生が病室に入ってきた。
 先生は賢治の手を優しく握りながら語りかけるように言った。 
「調子はどうかな・・・。痛くない。実は賢治君にお話があるんだ。先生の話を聞いて貰えるかな・・・。」
「僕にお話しって・・・・。先生、何のお話・・・・。」
 賢治は真剣な顔になって言った。
 傍らで隆夫と京子が、小林先生と賢治の話をじっと聞いていた。
「賢治君の左足・・・。実は膝から下がなくなったんだ。少しずつ、感覚が戻ってきているようだから何となく分かるだろ。でも、人が作った左足を着けると、また、元のように歩けるようになるんだ。みんなと同じようにね。左足を曲げることもできるんだよ。だから、みんなと同じように歩けるように練習しようね。先生の言ってること分かってくれるかな・・・・。」
 賢治は、もう、目に涙を一杯溜めて小林先生の話を聞いていた。小さいながらも、精一杯泣くのを堪えているようだった。
「そうよ、先生の言うことしっかり聞いて、早くお家に帰れるようにしようね。そして、来年からは小学校に行こうね。」
 京子は涙まじりに賢治に話しかけた。
隆夫は賢治の頭をなぜながら、ずっと無言だった。
 隆夫は父親として、賢治にどういう言葉をかけたらいいのか分からなかった。
 病室の空気が重苦しく感じた。雨がさらに強く、病室の窓ガラスを叩いた。そして、いくつもの細い筋となって流れ落ちた。
「僕の左足、本当にないの・・・・・。先生、お母ちゃん、お父ちゃん、ほんと、本当に・・・・。」
 賢治は泣いた。やがて、落ち着きを取り戻してくると。
「僕、頑張るわ・・・・。頑張って早く友達と鬼ごっこしたいし。それから、小学校にも行きたいしな。お母ちゃん、僕、頑張ったら歩けるようになるよな。みんなと同じように歩けるように・・・・。」
 病室の窓の外では、あんなに強く降っていた雨も静かになった。
「そうだ。賢治君。頑張ろう。みんなで頑張ろう・・・・。」
 賢治は小さいながらも、先生の言葉を噛み締めるように聞いていた。
 隆夫と京子はほっとため息をついた。ふたりの胸にはこれからの不安と、そして、ちょっぴり安心とが交差するのだった。
「そうや、賢治、この病院の近くにも風呂屋があるんや。ふたりで家の近くの風呂屋によう行ったな。先生のお許しがもらえたら、行ってみよか。
「先生、あきませんか。」
「暫くは無理ですが、退院の直前ならいいですよ。」
「先生のお許しもでたことやし。人目なんか気にせんでもええ。広い風呂でお父ちゃんと一緒にゆっくり入ろ。気持ちいいで・・・・。」
 入院生活は長く続いた。やっと、退院の目処がついて、小林先生から銭湯に行く許可が貰えた。
 時間が早いのか、客も少なかった。隆夫は賢治をおぶって洗い場に向かった。
「賢治、背中、流したるわ。どうや、外の風呂屋は広いから気持ちがええやろ。」
 賢治の左足が痛々しかった。隆夫は賢治の小さな背中を流しながら、涙が流れ落ちるのを抑えることができなかった。

(十三)
 賢治の目から止めどなく涙が流れた。
「おやじ、こんどはおれが背中、流したるわ。」
 真一が言った。
 外ではパトカーのサイレンの音が響いていた。
 それはやがて近づいてきて、銭湯の前でとまった。
                                  (了)

青の時代

青の時代

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-05-02

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