オアシス、あるいは
「安藤って、かわいいよな。正直。めちゃくちゃ」
洋介の品定めするような視線の先には、安藤夏帆がいて、彼女がかわいいという意見には、ぼくも賛成だった。彼女は、黒い髪の毛をきれいに伸ばしている。彼女が髪をくくろうとするときには教室にいる誰かしらは振り向いて、彼女のその、揺れる髪や、唇をかたく結んだ真剣な横顔、あるいは汗の滲んだ頸にじいっと見入る、それくらいには彼女はきれいであった。じりじりと暑い教室の中でオアシスを求めるみたいに、ぼくらは粛然として椅子に腰掛ける彼女を見つめる。斜め前の彼女の席にだけ、涼しい風が吹いているように思う。ときどき黒い髪が、風に揺らされるのを見た。それでも、相も変わらず教室は暑苦しく、風は彼女のために吹いているみたいだった。
「ナホ」
彼女が名前を呼ばれて、振り向く。振り向いた彼女の目と、ぼくのそれが一瞬重なって、ぼくはどきりとする。洋介が、ヒュウ、と冷やかすような声を出す。彼女は目を逸らした。呼びかけた女子生徒と彼女がなにか話をする間にも、ぼくは、彼女に釘付けになったままだった。睫毛を揺らして微笑む彼女は遠く、ぼくは無性に喉が渇いていた。
サイダーのペットボトルを開けると、ぷしゅう、と、間の抜けた音がした。
炭酸のペットボトルの向こう側にみる彼女は、まるで別人だった。輪郭が溶けたように歪み、泡がぷつぷつと発生する。僕は、げんなりとした気持ちになる。向こう側で彼女がこっちをみる。「なにしてんの」
ナホは僕からペットボトルを奪い、サイダーをごくごくと飲み干した。豪快だね、と僕は言う。ほとんど呆れからくる言葉だった。
「ね、問題出していい」
ナホが言った、僕は返事をせずに、ナホの隣を歩いた。学校からの帰り道で、もう夕方だったから、風がすこし、冷たかった。風は、僕とナホのスカートを揺らしながら、どっかへ消えた。「あたし、今日は何人から告白されたと思う?」「そのことば、告白した人が聞いたらびっくりするだろうね。可哀想」「なんと、ふたり!」
あ、そう。「前は、三人のときとかなかったっけ」
よく覚えてるね、とナホは嬉しそうに笑った。「あたし、告白されるとかより、そういうのが嬉しいな」「そういうの?」「ユイが、あたしが話してくれたこと、覚えてくれてるの」黒い髪を揺らしながらナホは、僕の少し前を歩く。
「ナホ」
呼びかけると、振り向いたナホと目が合う。彼女はにっこり微笑んで、僕を見つめた。それから僕は、ナホの隣に並んだ。サイダーはもうぬるくなっていたから、途中で捨てて、帰った。
オアシス、あるいは