逃亡
きみのみているものを美しくしているのは、きみのその心なんだ。僕はそんなきみの心が、一番美しいと思う。月並みな表現だけど、そんな心を持っているきみに出会えて、僕は本当によかったと思う。
きみに出会えて、この世界のことがほんの少しだけ好きになった。きみに出会えて、きみに出会えてって莫迦みたいに繰り返しているけれど、嘘じゃないんだ。いまさら嘘を言う必要なんて、どこにもないんだから。
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きみは僕の莫迦さ加減を、一番よく理解している人間だった。僕はそれまで、誰のことも信用できない捻くれた人間だった。自分のことも信用できなかったのは言うまでもない。何せ、僕はこれまで、あらゆる現実から目を背けて、逃げつづけてきたんだから。受けとめられない、受けとめきれないことにぶつかるたびに、僕は逃亡してきたんだ。そんなことを繰り返していたら、逃げ道もいよいよ全滅して、僕は完全にひとりになった。そう思ったんだ。
そんな無様な僕に残ったものは、心だけだった。皮肉にも、いままでずっと疎ましがっていたものが残ったんだ。何かの因縁のように、鎖縁のように。僕はその事実に耐え兼ねて、それは悲痛な叫び声をあげたよ。それで、その場に倒れ込んだんだ。その時にみた青空をよく憶えている。
堰を切ったように涙が溢れた。雲ひとつない青空が、憎くて、愛しくて、綺麗で仕方なかったんだ。そんな僕を見下ろす人がいた。それがきみだった。どうしたの、と訊かれ、空からは逃げられないんだよ、と僕は応えた。それが堪らなく哀しいんだ。すると、きみは何も言わずに抱きしめてくれた。僕はわけがわからなかった。きみの頬には一筋の線が浮かんでいた。きみは泣いていた。僕はわけがわからなかった。綺麗、ときみは消え入りそうな声で呟いた。空、綺麗ね。僕は状況が呑み込めなかったけど、なぜか嬉しくて、ただ笑うことしかできなかった。ああ、いまは綺麗さ、何もかもが。仰向けのままきみと目が合う。どうして僕なんかを。きみは一瞬驚いたような顔をして、それから屈託なく笑う。あなたも死にたいのかな、と思って。僕は笑った。きみもそうなんだ。
空は依然として青い。これからは、一緒に逃げようよ。きみは、空をみつめている。ああ。僕はそんなきみをみつめながら応えた。
逃亡