おんぶ

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 海のうえには山や建物がないので、ずっと、ずっと遠くの雲が見えます。空の海に漂う波のように、蝶々雲が、無言の愛を梳かす月見草のように淡く染まっています。思い出してください。ずっとむかし、紅茶に砂糖とミルクをたっぷりといれていたころ、わたしたちは波のまにまに漂うひかりの蝶でした。
 兄についてなにから話せばよいのでしょう。
 母が言うには、わたしがまだ赤ん坊のころ、ライトノベル作家で執筆に忙しかった母親の代わりに、兄はわたしに哺乳瓶でミルクを飲ませてくれていたらしいです。だから兄、と言うには年が離れすぎていて、けれども親という関係でもなかったのです。
 兄妹がいれば兄妹喧嘩というものを必ずするのだと思いますが、わたしたちにはそんなことは一度もありませんでした。
 駄々をこねるわたしを、兄は父のようにあやしてくれました。トマトを残したわたしに「食べなさい」と言ったのも兄でしたし、わたしが五時半のチャイムが鳴っても帰らず、日がすっかり暮れた頃に帰ってきたわたしを叱ったのも、母ではなく兄でした。わたしが家出して、実家の近くの神社の裏で泣いていたわたしを見つけてくれたのも兄でした。実際、わたしの両親は離婚していて、わたしには父がいませんでした。
 この気持ちは誰に対しても持ったことのない感情です。いままでも、そしてこれからも。彼は兄であり、そして父でした。兄に対してのこのおもいが、父としてのおもいなのか、兄としてのおもいなのかはわかりませんが、それでも彼はわたしにとって大切で、必要で、いとおしいひとでした。
 だから九つ上の兄がその冬、東京の大学に合格して、春から東京の下宿先へ引っ越すことになったとき、わたしは何度も何度も泣きました。わたしはまだ小学生でした。兄が進学する工学部、ということばさえよくわからなくて、兄がどんなところへ行って、どんな勉強をするのかもわかりませんでした。
 けれども兄は兄で大学へ進まなければならなかったし、わたしにはそれを止めることもできないということ、なぜかそのことだけをわたしは理解していて、わたしはわたしの部屋の隅で、母にも、そしてもちろん兄にも気づかれないように隠れて泣きました。体育座りをして、膝の間に頭を埋めて、いかないで、いかないで、と部屋の隅で泣きながらぶつぶつと呟きました。でも兄にはそのことは絶対に言えませんでした。わたしはどうしようもなくひとりでした。
 だから兄は遠い存在でした。わたしがまだ小さい頃に離れ離れになってしまって、もちろんいまでは、社会人になった兄とは正月やお盆休みに会いますが、それでもやっぱり、わたしにとって兄は薄れゆく思い出のなかの存在です。大人になったいまでも兄について思い出すとき、兄は学ラン姿の高校生で、わたしは小学生です。
 いつまでも変わることなく、学生服を着た兄の背中はあたたかかったことをおぼえています。二度と戻れないあの日々を、あのあたたかさをわたしはいまおもいだしています。
 わたしは兄におんぶされています。春の日差しに、冬の冷たい風がまじわった海辺でした。砂浜のうえを、おぼつかない足取りで、兄はわたしをおんぶしながらゆっくりと歩きます。足音は打ち寄せる波音にかき消され、わたしは兄の首筋に左頬をくっつけて泣いています。
 その遠くなりゆく波音を、おんぶされたわたしのこころは追って、遠く、遠く…、まだかすかに聞こえます。
 涙目にうつる灘の果ての水平線は、藍色の海と茜色の空の境目が、水彩絵の具でとかしたようにぼうっと混じり合っています。海から吹くひかり風に、わたしの前髪がなびき、濡れた頬ぺたっとにくっつきます。
「まだ痛い?」
 兄は聞きます。
「いたい」
 わたしは海辺で遊んでいました。三月の終わりか、四月の始めあたりの、よく晴れ日の袖ヶ浜でした。わたしにはあんまり友だちがいなくて、家から歩いて十五分ほどのその海辺へ、きょうもそこで遊んでくる、と母に言ってわたしはひとりで行き、波打ち際に流れ着く海藻だったり、貝殻だったり、流木だったり、野球ボールやえっちなビデオのケースなんかを拾っては集めていました。そういうものを集めて、自分の部屋の窓際に飾るのがわたしの遊びでした。
 その日の収穫物はきらきらと輝くガラスでした。そこらじゅうにたくさん落ちていて、浜辺は夢のように七色に輝いていました。わたしははだしになって夢中で拾い集めていましたが、
「いたっ!」
と、足の裏に痛みが走りました。ガラスを踏んで、足の裏を切ってしまったのです。
 慎重に足元を見ながら、ガラスを踏まないようにその場を離れたわたしは、砂浜に建てられた竹の柵のところまでひょこひょこと歩きました。柵に背をもたせかけて足の裏を見ると、くっついた砂が、流れ出した血に赤く染まっていました。
 どうしよう。痛くてもう自分では歩けません。海辺にはだれもいませんでした。もうすぐ日が暮れて、夕焼けに染まる海をわたしはあてもなく眺めていました。やけに美しかったのをおぼえています。チェリーセージよりも薄くて、ばらよりも濃いその空を見つめながら、ああ、わたしこのまま死ぬんだ、とおもいました。もちろんいまではなんでそんなことをおもったのかわかりません。でもそのときわたしは途方もなく不安でした。
 そのままどのくらいたったのかわかりません。
「はるか」
と呼ばれて、横を振り向くと兄がいました。
「あし、きっちゃった」
「そうか、おんぶするからはやくかえろう」
 うん、と言った自分の声が震えているのがわかりました。そうして、わたしは泣きはじめました。息ができなくなってくるしくなって、鼻をすすりながら
「おにいちゃん、とうきょうにいっちゃうの」
と聞くと、兄はなにも言わずに頭をなでてくれました。わたしはもっと泣きました。
 兄はわたしをおんぶして砂浜を歩きました。
 そのときまだ小さかったわたしは
「おにいちゃん」
としか言えませんでした。そして、その続きの、
「ごめんね」
がどうしても言えませんでした。でも言えない分、わたしはそのことばをずっと、何度もこころのなかで呟きます。おにいちゃん、ごめんね、ごめんね。
 そうしてわたしはもっとつよく、ぎゅっと兄を抱きしめます。兄は何も言わずに砂浜を歩き続けます。でも、いくら強く抱きしめても、兄は足を止めません。そのまま、東京へ行ってしまうのです。
 大人になったいまなら言えるのかな、と、わたしはおもいます。おにいちゃん、ごめんね、ごめんね、と。
 だから、いま、兄に言えなかったことばをここに書くことにしました。
 海のうえには山や建物がないので、ずっと、ずっと遠くの雲が見えます。空の海に漂う波のように、蝶々雲が、無言の愛を梳かす月見草のように淡く染まっています。思い出してください。ずっとむかし、紅茶に砂糖とミルクをたっぷりといれていたころ、わたしたちは波のまにまに漂うひかりの蝶でした。

おんぶ

おんぶ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-04-28

Copyrighted
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