ぶち猫錬金術師
2010年くらいの作品です。
漫画にしてもらってますw
http://walk-with.jugem.jp/
第一章 第一話 異世界からの召喚
ときは中世、世の中が剣ではなく銃器類を発明した学者が出始め、大航海のお供にはぜひ一丁、といったフレーズの飛び交う時代。
イタリアの、大都会の喧騒をものともしない古びた町の一角で、ひとりの錬金術師が小さなアパートに住んでいた。
名を、アルベルト=マグナスという。
アルベルトはアパート暮らしをしてはいたが、それなりに裕福だったので生活に不自由さはなかった。
財布は人並みよりも、少し多い金貨で膨れた、画家で言うとラファエル・サンティのような、あるいはメディチ家唯一軟派な青年ジュリアーノ・デ・メディチのような、愛嬌があり、ほどほどに男前の錬金術師を嫌うものはほとんどといっていなかった。
アルベルトの師匠アグリッパという男は、インチキと名高かった、というのも、ケルン生まれのネッテスハイム家の貴族であったにもかかわらず、無謀な性格が災いし、ローマやドミニコ修道会を敵に回し、孤独にこの世を去ったのである。
師匠のことを回想しながら、アルベルトは友人のトマス=ヴィスコンティとよく語っていたものだ。
「あのとき先生が農家の主婦を魔女裁判から救ったりしなければ、フランスで死んだりしなかったのに」
北欧生まれのためかパステル調の淡い金髪で、利発そうな面差し、それでいて人付き合いは苦手。口数の少ない二枚目男、アルベルトとは正反対の性格をもつトマスはこう反論するのが常だった。
「お前も先生も人がいいからそう思うんだよ。あの老人の生き方がお粗末なだけさ」
「そうだろうか」
「そうに決まってる」
二人の会話は、いつもこうだった。
「ねえ、アルベルト。今度の日曜日、ミサが終わったあとに家でパーティやるんだけど、来てほしいの」
幼馴染で亜麻色の長い髪を揺らす娘ルチアは、酒場で働くアイドル。
そのアイドルを射止めたアルベルトのことは、町の男衆なら誰もがうらやんだ。
歌も上手くて華奢な容姿は妖精のごとく美しい。
すべてにおいて恵まれた彼女のことを、憎むものはいないだろう。
要するに全体的にみて、のんびりした町なのだ。
それはさておき、アルベルトはルチアの問いに応じねばならず。
「日曜日にパーティって、なんのだっけ」
「まさか、忘れたの。ひどい人ね。思い出してよ、さ、早く」
アルベルトは懸命に思い出そうとするが、記憶の欠片は情報を上手く引き出せないようだった。
「わかんないよ」
「私とあなたの婚約パーティじゃない。どうしてこんな大切なこと、かんたんに忘れるのよ」
「面目ない」
実はアルベルトには抱えている大仕事があったので、たしかにルチアとの婚約も大切だが、それ以上に、家庭を持つ長としての責任もある。手放すわけにいかなかったのだ。
「ごめん、埋め合わせは必ずする」
「それじゃあ、日曜はダメなのね」
「悪い。このとおり」
半ば乱暴な足取りで、これまた乱暴に扉を閉めるルチア。
「美人だけど、怒りっぽいのがなぁ」
と困ったような表情をしながら、アルベルトは頭をかいた。
だがじきに再び振り返る。人の気配がしたのだ。
「だれ」
アルベルトが呼びかけると、その『影』は返事をした。
「これはこれは。よくわたしに気がつきましたね、アルベルト=マグナス」
「わかるさ。僕はこう見えて、天才とうたわれたアグリッパの弟子なのでね」
容姿はそこそこ美麗で黒い外套を羽織った、赤毛の長髪。印象強い男である。
「ほほう、アグリッパ先生のお弟子様、でしたか。さすが、ですな」
どうも言い方がわざとらしい、と、アルベルトは勘が働いたのか、尋ねてみることにした。
「ところできみ、ここで何をしていたの。天才の弟子である僕の私生活でも知りたかったのかい」
「え、まあ。そんなところですね、あるお方のご命令で、あなたの行動を見張っておりました。メタトロンと申します」
メタトロンだって。アルベルトは心の中で叫んでいた。
怪しかった、右を左に考えても怪しい言動である、メタトロンといえば、ヘブライ教の大天使であるからだった。
「あるお方って、だれのこと」
思い切って尋ねてみることにした。するとメタトロンは、即座にこう答えた。
「あるお方とは、偉大なる我らの最高神、テトラグラマトンです」
「やはりそうきたか」
と心の中で言って、アルベルトは唇をゆがめていた。
「あなたのお力を見込んで、わが神テトラグラマトンからお願いがあるそうなのです」
「僕にかい」
「そうです。あなた様にしかできない、大切なお願いなのです」
しかし、メタトロンの言い様では何か裏を含んでいそうな物言いである。
アルベルトはメタトロンとの会話中、始終、懐疑していた。
「わが主は、とある邪悪な存在を排除してほしいというのです」
「とある邪悪な、とは、いったい」
「悪魔の生んだ娘です。彼女は『アキュアール』という剣を持ち、この世界、いえ、天界にさえ破滅をもたらします。ゆえに、どうかお力添えを」
アルベルトにはあまりに唐突過ぎて、わけがわからなかった、だが、自称であれ神の使いを名乗っている、この怪しい人物をむげに追い返すことなどとても出来ない。ここで断っては何をされるかたまったものではないからだった。
アルベルトは、しばらく考えさせてくれ、とだけ答え、メタトロンを帰すことにした。
とはいえ、どうしたものだろうかと部屋を右往左往して悩むアルベルト。
ちょうど友人のトマス=ヴィスコンティが訪ねてきたので部屋に招き入れ、今の話をざっとかいつまんで聞かせたが、予想のとおり鼻で笑われ、あしらわれてしまった。
「おまえ、どうかしてるぞ。悪魔だの天使だの、神だのって。師匠みたいに壊れちまったのか、もうじき結婚するんだろう。しっかりしたほうが」
「僕だってそうしたいよ。でも気が狂いそうなんだ、もしむげに断ったりして、呪いとかかけられたら、どうしてくれるんだ」
「呪いねぇ。あるわけないんだが」
トマスは一風変わった若者。
修道士でありながらそういったミステリアスな事象などはきっぱり否定する性格のため、
「忘れたほうがいい。どうせ幻でも見たんだろうよ」
と、こういうことを話題にするとき、表情を変えずに言う癖があった。
「し、しかし」
心配性のアルベルトはといえば、気が気ではなかった。
期限は三日後、その日までに返事をせねば命の保証はない、何故かは知らぬが、そのような不吉な予感がアルベルトを襲うのだ。
レンガ造りの大きな竈、フラスコなどの器具がテーブルや棚へ小奇麗に整頓された錬金術工房で一人、ローマ皇帝や諸貴族らの注文で陶器作りに励むアルベルトは背後に奇妙な気配を察知した。
「お見事なほど鋭いですな、アルベルト=マグナス殿は」
例の『メタトロン』だった。
「して。お返事はいかがなものですかな。待ちわびましたぞ」
「ひとつ、訊いてもいいか」
メタトロンは小首をかしげながらも、
「どうぞ」
と答えた。
「この間言っていた悪魔の娘とは、人間なのか、それとも魔物か」
「聞くところによると、人間型のようで、切れば真っ赤な鮮血が流れるようです。それがどうかしましたか」
アルベルトはそれを聞くと、ようやく決意を固めた様子で、大きく呼吸した。
「断る。僕は人殺しにはなりたくない」
「是が非でもか」
メタトロンの口調がいきなり変化し、アルベルトを脅すようにして地面の底から響くような、ドスのきいた声で質問してくる。
「無論だ。天が地に変わろうが、な」
「ならば問答無用で貴様を殺し、存在を消すのみ」
「なぜ僕を殺す必要があるのだ、なぜなのか言え」
メタトロンは魔法で出したのだろうか、いつの間にか右手に大きな剣を構えていた、その剣をおろすと
「冥土の土産にでも教えてやろう、貴様の錬金術は我々神にとって、厄介なのだ。わが主はそのことを懸念しておられる、アルベルト=マグナス、貴様に生きていてもらっては困る理由があるのだ。故に、死んでもらう」
メタトロンは一気にまくしたて、それから再び剣を構え、振り上げた。
アルベルトが死を覚悟し、腕で顔を覆うと、メタトロンの背後から青白くほとばしる眩い閃光が飛び散る光景が視界へ飛び込んできた。
「なにっ」
その光は、メタトロンの想定外のものだったらしく、かなり憔悴した様子だった。
「どうしたんだ。この光はいったい」
アルベルトは冷静に、意外と眩しくはないその光を眺めていた、ふと視線の先に奇妙な服を着た少女がいつの間にか倒れており、抱き起こした。
黒い髪のショートカット、胸にはリボンを結んだ変わった服装だが、太ももがあらわとなり、アルベルトは視線を泳がせた。
「くっ、こうなれば」
メタトロンは閃光の力に弱いらしく、アルベルトの目から見てもそれは明らかだった、メタトロンは残された力を振り絞り、アルベルトに呪文で起こした風をぶつけてきた。
風圧はアルベルトの全身を包み込み、意識を失い、床へ突っ伏した。
黒髪の少女は起き上がると、アルベルトが温和そうな紳士からぶち猫に変化する瞬間を目の当たりにしたのだった。
「起きて、だいじょうぶ」
大きさは犬ほど、まだら模様の、少女の腰くらいの身長になりはしたが、兎も角、アルベルトは生きていた。
「ぶ、無事ですんだのか」
アルベルトは胸を撫で下ろしたのもつかの間、ルチアやトマスにどう説明したらよいのか、皆目見当がつかず、肉球でぷにぷにとした両手を顔に引っ付け、これからのことを悲観して、嗚咽した。
「この間まではあいつ、メタトロンに殺されるとばかり思い、恐ろしかった。だが今度は人間ではなくなってしまっている。僕はどうすればいいんだにゃん」
「私も。こんな知らないところに何で呼ばれたのか、わからないよ。あんたさ、誰かに相談できないの」
「誰かといっても」
アルベルトは思い当たる人物は、すべて思い起こし、ひとりだけ該当した。トマスだった。
「ううむ。同じ師匠を持ち、錬金術師といえばトマスしかおらぬ。よし、いこう、トマスのところに」
アルベルトは昔飼っていた兎用のフードとローブを被り、ありったけの金貨を持ち、家を出た。
ルチアの裁縫してくれた服は、今のアルベルトにぴったりの寸法だったのだ。
「喜ばしいことなのか、それとも嘆くべきなのか」
「むずかしいところね。まあ、あんたがそのかわいい耳を隠せれば、それでいいんじゃないの」
「そういうことにしておくか。ところでお前さん、名前くらい訊いてもいいかにゃ」
短足になったせいか、小走りなのが可愛らしい、とシホは思ったのだろう。アルベルトの背後で歩を進めながらにやついていた。
「私、桜庭シホ。女子高生よ、セーラー服着てるから、わかりそうなものだけど」
「にゃん。セーラー服って、にゃんだ」
アルベルトとシホが通りかかった裏通り、そこはちょうどルチアの働く酒場の前。
夢中になりすぎたのか、アルベルトはまるで気がつかない様子で、シホに話して聞かせていた最中だった。
「こんばんは、お嬢さん、それにあなたのお子さん。かわいいわね。今夜は月がきれいだわ、お散歩の途中かしら」
「あのね」
親子連れと見えたことにショックを受けたらしいシホは、あわてて反論しようとした、しかしアルベルトはそれを制した。
「お腹がすいた、母ちゃん。メシ食べよう、メシ」
「それならウチが安いわよ。サービスするわ」
ルチアは片目を閉じながら店の奥へと入っていく。
さあ大変、シホはすっかりご機嫌斜めになり、アルベルトのことを責め始める。
「ちょっ、だれがあんたのおっかさんだってのよ」
「僕は、あいつの婚約者だったんだにゃん。でもこの姿じゃみっともなくてにゃ、合わす顔がないんにゃもん」
「あ。そっか、ごめん」
すっかりしょげ返ったアルベルトに、シホはしまった、と思ったのか、頭をかきだした。
「今度の日曜、ミサが終わったら婚約パーティ開こうって、おいおいおいおい」
突然号泣するアルベルトを、シホは慰めることで精一杯。
「ああ、わかった、わかったから泣くなって。こりゃあ、とっととトマスって人んとこ、いったほうが無難みたいね」
ひとつ気になることがあったので、シホはさりげなくアルベルトに尋ねてみる。
「ねえ。昔兎飼ってたって言ったけど、いまはどうしてるの」
「実験に使った」
シホは、
「聞くんじゃなかった」
と、激しい後悔に苛まれるのだった。
第二話 あだ名はマーブル
トマス=ヴィスコンティは修道院で生活していた。
門限にうるさいが、新鮮な野菜とスープ、硬い黒パンくらいなら食べられるので、まだ我慢できた。
もしこれで食事を満足に取れなかったら、トマスは恐らく破門されようが修道会を飛び出していただろう。
ともあれ、扉を叩く音で眼が覚めた。
「はい」
戸を開けると、黒髪のかわいらしい少女が突っ立っており、足元には何やら小さいのがうごめいていた。
「何か用か、ここは女子禁制の修道院だぞ。場をわきまえろ」
門限破りの少女を叱咤する父親のような顔をし、つっけんどんに言い放つトマスだが、閉めようとするタイミングを見計らって、小さい生き物が飛び込んできた。
「うわあ。びっくりした」
「そう無碍なことをするでない、トマス。あの子を叱らないでくれ。僕だ、アルベルトだ」
「ア、アルベルト」
半信半疑のトマスだったが、姿かたちを一切変えたこの化け猫、ではなくアルベルトを不憫に思い始めていた。
「悪かったのかなあ。あのときお前の話を微塵でも信じていたら、こんなことには」
「いいんだ、トマス。それよりもルチアのこと、どうすればいいのか」
猫人間となってしまったアルベルトを無表情のまま見つめながら、トマスは言った。
「選択肢はふたつあるぜ、アルベルト。正直に話すか、それとも正体を隠してこの先も生きるか」
「どっちの道を選んだら」
「さあ。そんなこた、知らん。自分で考えな」
「ひっどい、お兄さん。アルベルトの友達なんでしょ、意外と冷たいのね」
トマスは二本目のタバコをふかし、故意になのか無関心を装っていた。
「ちょ、黙ってないで答えなさいよ」
「周りが騒いだところで、アルベルトの代わりにはなれないだろ。決めるのはアルベルトだよ。俺やお前じゃない。そこを理解しろ」
トマスの一喝は、的を射た意見だった。シホはそれ以上責める気になれずにいたが、それでも小石を蹴り蹴り、夜道を歩き続ける。
「なによ、あいつ、エラそうにさぁ。ねえアルベルト。このままになっちゃうかもしれないんだよ。これでよかったの」
「トマスは気難しい男だからにゃあ。それでもお前サンのことは、少し気に入ってたみたいだ」
「うそ。あ、あれで。修道士というもの自体初めて接したけど、私、理解できなかった」
アルベルトはシホのとぼけた意見に、心の底から大笑いするのだった。
「そうだ、アルベルト。あのね、あだ名を考えてみたんだけどさ」
「あだにゃ」
「そう。あ・だ・名。でね、まだら模様でしょ。だから、マーブルはどうかと思って」
アルベルトは何度も頷き、
「いいんじゃないか、それ、使わせてもらうにゃ」
「やったあ。ホントにいいんだね」
「いい、いい。すまなかった、見ず知らずのシホにまで苦労をかけて。それでにゃ、もしもずっとこの姿のままだったら、僕と一緒にいてくれにゃいか。いやなら、いいんだけど。あ、やっぱり忘れてくれ」
シホは、尻尾振りながら自分のほうへ向けられた背中をじっと見据えながら、返事は渋っていた様子だった。
「そういえば、訊いてもいい」
「どうぞ」
「あのメタトロンとかいうオッサン、どうしてマーブルのこと狙ってたのかな」
マーブルは上目遣いでシホのことを見上げると
「たしか、僕の魔術がヤバイとか話していたな。聞き出せたのは、それだけだった。そのあと不思議な光が現れて、シホが飛び出してきたので、それっきり」
「ふうん」
シホは何事か呟いていたが、大きくため息をついて手ごろな石へと腰を下ろした。
「今度は僕が聞いてもいいかにゃ」
「どうぞ」
「どうやってシホはここに来たのか、その経緯を聞きたいんだけどにゃ」
シホは、ここがどういう世界なのか、まだよく把握できていないので、話す内容に自信が持てずにいた。
「えっと、セーラー服がわからないんだよね」
マーブルは頷いた。
「じゃあ、ライターは」
マーブルは頭を左右に振った。
「ほかには、お箸とか、も、わからないよね」
今度は頷いた。
「何から話せばいいんだぁ」
思い悩みはしたが、長い付き合いになりそうな仲間としてマーブルのことを認めていたシホは、概要だけでも伝えようと躍起になった。
「私の住んでいたのは、日本なの。といっても、2010年だけどね」
「に、にせん」
「ようするに、遠い未来からやってきたってわけ。トマスさんとこで哲学か何かの雑誌読んでわかっちゃった。ここ、14世紀なんだね。私、学校の下校途中だったんだけど、道歩いてたら急にめまいがして、フラフラっとした途端、意識がなくなっちゃったみたい。気がついたらここに来ていた。それにね、学校って正直言って嫌いなんだ。みんなと同じことしなくちゃいけないし、団体行動なんて苦手もいいとこ。勉強もあんまり好きじゃないしね、だって、なんの役に立つのかって話になるじゃない、あんなもの。習うだけ時間もったいないよ」
「勉強が、嫌い、か。未来の子供はみんな、そうなるのかにゃ」
「好きなやつの顔が見たいね、けったいだ」
シホは道端に転がっている石ころを蹴り上げた。
「ふうん、ここにいるけどね、勉強好き。それにトマスも勉強は好きだな、だから二人して錬金術師やっているんだ」
「物好きだよねえ、あなたたち。ねえ、面白いの」
眉をひそめてシホが尋ねると、マーブルは、
「楽しいよ、フラスコで小人作ったりもできるし、卑金属(鉄や鉛)を純金に変えることだって可能だし、賢者の石を作ることも、不老不死の肉体を得る薬を発明することだって出来る。理論を超越してしまえば神にだってなれる」
「まあそうか。フラスコで人間作るんだもんね、まるで魔法見たいじゃん」
「魔法だよ。ただし、その研究費用のためには、それなりの信頼関係を築かなくちゃならん。貴族がパトロンになってくれるんだ、そのためには身体を売ることも必要だとか」
「え、まさか、男にも」
シホは真っ青になるが、マーブルは涼しい顔をして続けた。
「やるよ。必要ならね、ただ、僕の場合はその必要性はなかっただけ。何せ先生のお墨付きだったから」
「まさかトマスさん」
「あいつもやらんって。そういうことをするくらいなら、上を目指すのはやめちまうだろう。くだらない、とかいってな」
「言いそう」
シホとマーブルはトマスのことを想像し、苦笑していた。
「そうすると、見えてきた。マーブルの狙われた理由って、神の理論を超越しそうだったから、ってこと、だよね」
「鋭いなシホは」
マーブルは、満足そうに咽を鳴らして微笑んだ。いや、猫の顔なので、だれが見てもたぶん、としか言えないのだが。
「漫画で鍛えたアタマはどうよ」
腰に手を当て、ふんぞり返るシホの様子にマーブルがツッコミを入れる。
「マンガ、というのがどういうのか知らないが、僕の勘では威張れたものじゃなさそうだな。まあ、それはおいといて、神の理論への到達は、意外とけわしいので、そこまで至らない、というのが現実なのだがね」
「わかった。それじゃあ、私も付き合うよ、マーブルの元に戻るっていう、目的の旅にね。どうせ帰れないもん、付き合うしかないんだけど」
「僕の勘だけどね、シホ。この旅を無事終えることが出来れば、シホにもいい結果がつく気がするんだよにゃ」
マーブルは腕で顔をこすりつつ、ゆったりした、だがしっかりとした口調でシホを見上げてこう云った。
「ありがとう、マーブル」
驚いたような表情をして、それから、徐々に微笑んだ。
「ちゃんと猫みたいに顔も洗うんだね」
「顔が痒いだけにゃんだよッ」
第三話 海賊センチメンタル
「テトラグラマトン様。申し訳ございません、邪魔が入りまして、マグナス殺害は失敗に終わりました」
薄暗い、紫色のカーテンが揺れる小部屋で、メタトロンと名乗った男は、カーテン越しの最高神に向かい、しきりと頭をたれ謝罪を繰り返した。
「フン。まあよい。しかしその邪魔というのは」
「は。奇妙な服の小娘でした」
「よもや、破滅の娘ではあるまいな」
「確認はしておりませぬが」
メタトロンが言うが早いか、声の主は杖を投げつけ、怒号を散らした。
「愚か者。すぐに確認してまいらぬかッ」
「は、ただちに」
一方でマーブルとシホは、イタリアの国境、スイスの山の麓まで歩を進めていた。
「車があったら、ヒッチハイクできるのに。なんでまたこんな不便な時代へ飛ばされたんだか。魔法使えるんなら使ってよ」
「魔法といってもにゃあ、空飛べるわけじゃないんだから」
先にあるのは険しい崖っぷち。足がやっと入るか入らないか、といった狭さの崖である。
「こんなの歩いたら、絶対命なくなるって。やめようよ、マーブルゥ」
「ここしか足場がないんだ、気をつけてあるくんにゃ」
舌を打ち、シホも観念したのか、狭い足場を恐る恐る歩き出すが、崖が崩れてシホは転落しかけた。
「シホッ」
マーブルは憔悴したが、次の刹那に胸を撫で下ろした。
落ちかけたシホの腕をつかんだ人物の姿があったからである。
「心配でついてきてみたら、やっぱりな」
「あ、あれ、トマス、さん。なんで」
シホを引き上げ、いつもと同じく無表情で語り始めた。
「なんで、じゃねえよ。そのう、つまりだな。お前たちが心配で、さあ」
「ついてきたのか。お人よしはお前のほうじゃにゃいのか、トマス」
「うるせえ」
後日マーブルの話したことだが、トマスにしては珍しく、少し微笑んでいたようだった。
「ところでどこまで行く気なの、マーブル」
シホが尋ねるとマーブルは山頂を肉球のついた手で指し示す。
「あそこにゃ」
「げえっ。どこまで登りつめる気だッ」
「山頂までいってその後降りる。降りた先には港があるから」
「国外脱出ってわけね」
とシホよりも先に答えるトマス。
「なるほど。のろまのお前にしちゃ、冴えてるなぁ」
「ほっとけにゃん。ともかくそこで船を拾う。そのくらいの船賃はもってるにゃ」
小さな手のひらに金貨を数枚乗っけるマーブル。今にも零れ落ちそうだったが。
「落としたらもったいないでしょ」
シホはマーブルのリュックへと財布を乱暴に押し込んでやる。
「にゃん」
マーブルは不服そうに長い尻尾を振り続け先頭を歩いた。
「何か文句あるの」
「い、いえ。べつになにも」
「そう、それならいいけど」
この会話からトマスは、ルチアも気が強い娘だったな、などと思うのだった。
「俺は女の尻に敷かれるなんて、ごめんだね」
ぼそりと言ったのだが、シホはトマスを凝視していた。
山頂までの道のりはとてつもなく長かった。
何しろ崖っぷちを登るしかないのだから。
「まだつかないの」
「もう少し」
この掛け合いを繰り返すばかりで、いっこうにたどり着く気配などない、おまけに日差しも弱くなる。
「今夜はここで野宿しかないな」
「いやだぁ。服が汚れちゃう」
「虫とかたくさん出るかもよ。嬢ちゃんの全身を這いずり回るんだ」
トマスの口調だけは面白そうに、無表情のままでシホをからかう。
「やめて、蕁麻疹でてきちゃうじゃない」
からかうのにも飽きたのか、トマスは自分のケープを地面に敷くと、シホにこの上で休むよう言いつける。
「あ、ありがとう。トマスさん」
「トマスでいいよ」
「意外とやさしいね」
シホの精一杯のお世辞だったが、トマスは少々むくれ気味で、
「意外とは余計だろ。さっさと寝ろ」
とだけ言うと、マーブルのほうへ歩いていく。
「トマス。シホは寝たか」
焚き火に当たっているマーブルの隣へ腰掛け、枝を折り、炎へ放り込む。
「ああ。とっくに高いびきだ」
「よほど疲れていたんだろう」
「なあ、アルベルト」
トマスはポケットからタバコを出すと、美味そうにふかした。
「俺は嬢ちゃんのつけた『マーブル』なんて名前では呼ばないぜ。お前はお前、アルベルト=マグナスなんだからよ」
「トマス」
「いや。そうウルウルされてもだなぁ」
トマスは他人から感謝されるという場面に弱い男のようである。照れ隠しなのかこういうときのトマスは乱暴な口調になるのだった。
「国を出て、元に戻る方法を探すって言うんだろう。もちろん俺は止めないが、ルチアにせめて別れを言わなくてよかったのか」
「会うと辛くなるからにゃ。もしかしたら生きて帰れないかも知れん。あいつは強すぎる。だけど勝つしかないんにゃもん」
うなだれて弱気に本音を打ち明けるマーブルだった。
本当のことを言えるのは、やはり、友であり、同じ師を持つトマス以外いなかったのだろう。
しばらくの沈黙の後、その沈黙を破ったのはトマスだった。
「アルベルト。わかった、俺も行く。じつはな、俺、破門されてあの修道院にいられなくなっちまった」
苦笑いを浮かべるトマス。マーブルはあんぐりと大口を開いたまま、微動だにしなかった。
山を越えたり降りたりで、ようやくスイスの小さな港町へたどり着いたのは、二週間後のことだった。
服はボロボロ、靴は泥だらけの状態で、シホにとって過酷な旅は生まれて初めての所為か、半狂乱になりかけてもいた。
「もういやだ。ウチ帰りたいッ。お風呂もシャワーも浴びたい、テレビも見たいッ」
と、がに股で地団太を踏み、町の真ん中というのに人目を憚らず暴れ始めた。
「落ち着けシホ。それじゃあね、お兄さんが新しいの買ってあげるから」
トマスは洋品店へ入ると上等ではないが、見た目はシンプルで飾り気のない、地味で、しかしきれいになめしたスエードブーツを一足、買い求めた。
「ほら」
仏頂面のトマスは、割物を扱うかのように渡す。
「ありがとう。大切にする」
シホは小刻みに震える両手で、大事そうにブーツを受け取る。
「ずるいにゃん。シホちゃんには僕が買ってあげたかったのにッ。トマスは裏切り者だにゃあ」
「な、何怒ってんだ、アルベルト。早い者勝ちだろ、こういうのは」
トマスはマーブルの狭い額を小突いた。
「ああ、じゃあね、マーブルには服買ってもらうかな」
案外子供っぽいところのある男だと、シホはマーブルの性格がわかってきたおかげなのか、あやしかたまでマスターしていたようだ。
「上等の絹の服がいいかにゃ。それともエジプトの王女が着るようなヤツかにゃん」
「一番安い服でいい、先は長いんだし節約しないとね」
堅実なシホに面目が立たないと思ったのか、マーブルはうなだれ、言われるとおり安い服を購入した。
「馬子にも衣装って言うが」
シホの凝視にトマスは言いかけた言葉を咳払いでごまかし、飲み込んだ。
「似合うよ」
柄にもないことを言った所為か、トマスは頬を紅潮させる。
安い服と前述はしたが、トマスの言うとおり似合っていた。
薄いブルーのコットンベストに腰ベルトを巻いて、白いシャツ、スパッツのような軽くて分厚い、それでいて暖かい素材のものを履き、その服装が先ほどのスエードブーツによく合っていた。
「ありがと」
シホはトマスをちらりと横目で盗み見る。
対してマーブルはといえば、どうしたわけかむくれた様子で店の入り口に座していた。
「どうしたの、マーブル。機嫌悪いみたいだね」
「そうかにゃ。そんなことないけどにゃ」
言葉とは裏腹で、言動に棘があった。
「いや、怒ってる。絶対怒ってる」
トマスがからかい半分でそういうと、マーブルはムキになって言った。
「怒ってにゃい」
「もしかして、ルチアさんのこと思い出したんじゃ」
シホは思い当たることがあった。が、マーブルの答えは異なっており、
「ちがう。ルチアのことは、もういい」
マーブルの返答に小首を傾げるシホ。
「どうして。諦めちゃうの」
「そうじゃない。もういいだろう。僕のことは放っておいてくれ」
財布をトマスに預けると、マーブルは店の外へと飛び出した。
「どうしたんだ、アルベルト」
トマスとシホはマーブルの豹変振りに戸惑い、顔を見合わせていた。
店の近くには大きな噴水広場があり、マーブルは水面へ自分の姿を映してみた。
不細工な化け猫風情の錬金術師。
もはや人間の姿には戻れないのだろうか。
今後のことを思えば、マーブルにとってこれほどの苦痛はなかったはずである。
愛する女にも会えず、正体すら明かせない、四肢は獣同然、肉球つき。
なぜ自分だけがこのような目に遭うのだろう、とでも主張するかのごとく、マーブルは肉球のついた両手で顔を覆っていた。
「アクセル様がお帰りだぞ」
どこぞの店の主人が一言発すると、町中がワッと沸きだした。
次第に人だかりができ、マーブルもその騒ぎに参加することと相成った。
「アクセル様、今度の冒険はいかがでした」
若い娘が黒髪長髪を後ろで束ねた少年に語りかけると、アクセルと呼ばれた少年はもそもそと口を動かした。
すらりと伸びた長身で青いベストと白いコットンのズボンがよく似合う、洒落た格好の若者である。
背負った大剣はクレイモアソードだろうか。
二メートルはある大きな剣なので並大抵の騎士などには使いこなせない代物だった。
「海原はよかったよ。世界は広いってわかったんだ。みんなのいてくれるおかげだよ」
「何を申します、アクセル殿下のお父様が統治しておられるからですよ」
この会話でマーブルにもアクセルがこの国の王子であることが判明したわけだ。
アクセルの人柄をもう少し知ろうというのか、マーブルが耳を傾けていると、買い物を終えたトマスとシホがやってきた。
「ここにいた、マーブル。心配したんだよ。それよりこの騒ぎは何なの」
「あのアクセルという王子様が冒険からお帰りになったんだと」
三人は人だかりから少し離れ、遠目からアクセルのことを観察していた。
「ちょっとカッコイイんじゃない。アクセル様って」
シホは見たままの感想を言っただけなのだろうが、トマスはといえば、
「そうかね。ああいうのは、どこにでもいる」
いつもと変わらず無表情だが、口調は少々荒かったのでマーブルはトマスの些細な変化に気づき始めていた。
「すいません、アクセル様ってどんな人なんですか」
興味があるのかシホは、先ほどの店の主人に尋ねていた。
「アクセル様はご両親も立派な方でね。ノルウェーヴィーキングの末裔なのさ。まあ、ヴィーキング、つまり、ヴァイキングといっても昔の話で、今は政治が中心なんだよ。少しでも経済状況をよくするためにと、アクセル様は御自分で広い世の中を見聞し、この界隈の航路を他勢力から守っていらっしゃる。というわけだね」
「ふうん。偉いんですねえ」
「わしらの主だもの、当然さね」
主人は鼻息を荒くさせて店に引っ込んだ。
「そうとう興奮してるね、あれは。でもアクセル様って、顔もよくて実力もあって、しかも王子様なんて、三拍子どころか四拍子もそろってるなんてステキ」
「どうだか」
噴水の縁に腰掛けタバコをふかすトマス、トマスがタバコに火をつけた瞬間である、アクセルは何を思ったのか、群衆を避けてトマスとシホの前へやってきた。
そしてシホの手を握ると、唐突に宣言した。
「オレ、理想の女神に出会った。彼女と結婚する」
トマスは灰が落ちるのもかまわず、口をあんぐりと開いたまま呆けていた、が、しまいには火傷寸前でタバコを捨てた。
「おいおい、理想の女神って、ふざけてんのか」
トマスがアクセルに毒舌すると、アクセルはただシホを見つめ、
「ふざけてなどいない。大真面目だ。名をなんと言う」
「シホ、です」
「シホか。美しい名だ。やはりオレの妻にふさわしい。両親に会ってくれ、きっと幸せにするから」
アクセルはシホの返事も待たずに腕を引き、王宮へ駆け出そうとした。
だがトマスはそれを制した。
「待て、アクセル様、といったか。あんたはそれでいいかもしれないが、嬢ちゃんの気持ちはどうなる」
「えっ、シホの」
アクセルはシホの手を離し、トマスを振り返った。
「そうだよ。まったく、王子様ってやつは、みんなこうなのかね」
「シホちゃん、きみはどうなんだね」
それまで沈黙を守っていたマーブルがようやく口を開いた、その口調は何故か重々しかったが。
「たしかにアクセル様はカッコイイと思ったよ。でも会ったばかりだし、急に結婚ていわれても、正直困る。それに私は家に帰るっていう目的が」
「結婚してみないとわからないこともあるじゃないか、さっきも言ったけど、幸せにするから」
アクセルはそこまで言ってもなお、食い下がってくる。
「そんな安っぽいブーツよりも、高級な靴を買ってあげるし、服だって」
「安っぽいって言わないで」
シホの感情的な怒号に、アクセルは肩を大きく震わせた。
「気に入ってるの」
「アクセル殿下」
マーブルはフードを目深にかぶったままで話しかけた。
「お話したいことがあるのですが、よろしいですかな」
アクセルは頷き、マーブルと二人で食堂へ入ってしまった。
「さっきはどうして、あんなに怒ったりしたんだ。アクセル殿下の言うとおり、安物じゃないか」
トマスが穏やかに話しかけると、シホは、
「そんなことない。ただの安物なんかじゃない。大切にするって約束したでしょう、だから」
ほかにも何か、言いよどんでいるようにも聞こえた。
トマスはシホの言葉の意味を理解できたのか、それ以上何も言わず、シホを見守るかのようにして横に立ち、タバコをふかしていた。
食堂に入ったマーブルとアクセルは、適当な料理を注文すると、席に着いたマーブルは、自分の素性を明かすことに決めた様子でフードから耳をちらりとのぞかせる。
「人間じゃなかったのか」
「いいや、人間ですよ。今は正体を隠して放浪する身、マーブルと名乗っていますが、本当の名はアルベルト=マグナス、と申します。クレイモアを所持しているあなたならば、もしかしたらメタトロンを倒せるかも知れぬ、と踏んだのでこうしてお話しする所存と相成りましたわけで。ところで、船はお持ちですか」
「持ってるけど、それがなにか」
「じつは海原を越えたいのです。しかしこのへんの船は運賃が高いと知りました。もしよろしければ、あなたの船を拝借できないかと。あまり持ち合わせはないのですが、心ばかりの値段はお支払いしますゆえ」
アクセルは肩をすくめて返答した。
「そういうことかい。わかった、船は貸そう。そのかわり、オレの願いを聞いてくれないか」
「なんなりと」
アクセルはマーブルに耳打ちをする、その内容は。
第四話 ケストナー家の娘
「あ、戻ってきた」
トマスと噴水の縁に腰掛けていたシホは、店から出てきたアクセルとマーブルを見つけると、勢いよく手を振った。
「遅くなってすまない、アクセル殿下も一緒に旅をしてくれるそうにゃ。心強い仲間だろう」
とは、マーブル。
驚いたのはシホである。
「その相談してたわけ」
「まあにゃあ」
マーブルは小声でぼそり、と呟いた。
「まさか。アクセルさんが船を貸す代わりにオレも連れてけ、とか、いったんじゃないでしょうね」
「ぎく。な、なぜそれを。どこかで聞いていたのかッ」
「やっぱりね。そんなことだろうと思った」
トマスの表情を窺いながら、シホは尋ねる。
「どうしよう、マーブル、いえ、アルベルトの秘密も教えなくちゃいけなくなる」
「それなら、もうとっくに」
アクセルは苦笑いしながらそう言った。
「はぁ。もう言ったって、どうして」
「代価だにゃん。人に物を借りるときは代わりのものを差し出せと、親から教わったんだにゃ」
マーブルはゴロゴロと咽を鳴らした。
その様子があまりに猫らしいのでアクセルは必死に噴出すのをこらえる。
「いいんじゃないの。旅は道連れというし、仲間が増えたところで旅の目的は変わらないんだから」
トマスは八本目のタバコに火をつけると、美味そうにふかした。
「そんなのんきな」
「改めて、オレはアクセル=ブラントといいます。どうぞよろしく」
紳士らしく丁寧に挨拶をした。
「こ、こちらこそ」
「それで、旅の目的についてはある程度聞いたけど、オレは何をすればいいんだい」
アクセルはマーブルのほうを向いて、腰に手を当てた。
「先ほどのとおり『メタトロン』と『テトラグラマトン』を名乗る神どもに制裁の一撃を与えてほしいのです」
「制裁の、一撃」
アクセルはマーブルの凛とした態度に度肝を抜かれたのか、息を呑んでいた。
「さよう。あなたがもし、世界を見聞するという目的を達成したいのなら、これほど有意義なことはない、と考えますが」
「というと」
「結果的に『神の理論』を超越することが出来ます。つまりこの世の理とかすべての事象を捉えることが出来ると思うのです。すなわち、世界の王になることも夢や理想ではありますまい」
「な、なるほど。たしかにやってみる価値がありそうだな」
「よかった。僕は心配だったんです。でもあなたの腕を買った甲斐がありそうなので、一安心ですにゃ。ただし」
と、マーブルは付け加えた。
「ただし、命の保証は出来ませぬ。万が一死ぬようなことがあっても、我々は責任を取れない、このことだけは覚悟しておいてください」
「相手は神だから、保険すら適用されないんだったな」
アクセルは王子だから、死ぬなどということは縁が遠いことだと思ったのだろう、常に守られて生きてきたからである。だが今度は自分の身は自分で守らねばならず、危険と隣り合わせになるわけだった。
「にゃあ」
マーブルは何度も顔をこすりつけた。
「あしたは雨かにゃあ」
マーブルの予報どおり夜が更けて嵐になった。
窓から大荒れ模様の景色を見ていたシホは腹立ち紛れに枕をかじる。
「雨どころか大嵐。これじゃ船出せないじゃん」
「朝になれば晴れるだろ」
寝台へ寝転がり、小さな本を読みふけるトマスは、あくまで冷静に、何の気はなしに呟く。
「どうしてトマスはのんきにしてられるのかなあ。早くマーブルの呪いを解きたくはないの」
「騒いだところで元に戻りはしないさ。お前こそどうして気にする」
「責任があるの」
トマスはシホの感情が不安定になりつつあるのを意識してなのか、起き上がり、シホの頭をなで、落ち着かせようとつとめた。
「責任とは」
「あのとき、メタトロンがマーブルに魔法をかけたとき、私めがけて術をかけたんじゃないのかって。もしかしたら、私を庇ってマーブルは。そう思ったら、一日でも早く元に戻してあげたくて」
「そうだったのか」
トマスはシホを胸に抱き寄せ、軽く瞼を閉じ、シホの背中を長いことさすってやる。
次第にシホの嗚咽はおさまっていき、腫れぼったい顔を腕で隠すのだった。
「アルベルトのことは心配するな。きっと、どうにかなるさ。あいつはお前が思うほど今の姿に悲観していないかも知れないだろう」
「そうかな」
「そうだよ」
トマスのいつになく思いやりのある言葉で酔ったように、恍惚した表情でシホが頷いた刹那だった。
マーブルは擦り切れたローブに痣と傷をたくさんこしらえ戻ってくると、一緒にいたアクセルは疲れきった表情で床にへたり込んでしまった。
「いったいどうしたの」
「闇討ちにあってしまった。僕の正体がバレてしまってにゃ。アクセルにつられて酒なんか飲むんじゃなかった」
「マーブル、オレが誘って一緒に飲んだんだよ。酔っ払ってフード脱いだら、化け猫って騒がれて、このざま。オレがいたから殺されはしなかったけど、もうじき騒ぎが大きくなる。そうなる前に町を出よう」
「アルベルト。お前、下戸だろ。なんで大事なこと忘れるんだよ、このバカッ」
「ねえトマス。やっぱり一日も早く元に戻そうよ、マーブルのこと」
これにはトマスも否定できなかったという。
早朝から住民に見つかり、港までの道を急ぐ一行を待ちわびていたかのごとく、髪を三つ編みした少女が船倉に積まれた樽の上から飛び降り、腰に手を当て一行に叫んだ。
「こっちだ、急げ」
なぜかマーブルたちを誘導する。
「あの娘、なんなんだ」
トマスの問いに皆も不審がるが、いまは逃げるほうが先決とばかり、少女の後を追うしかなかった。
「李先生、連れてきたよ」
「ご苦労さん、ユーリ」
倉庫の裏で待ち構えていたのは、メガネをかけた道教の僧。
腰には太刀を佩き、黄色の道士服を身に着け、にこやかな顔でマーブルたちに接してきた。
「わたしは李と申す旅の道士です。この子はユーリ=ケストナー。ケストナー家という由緒正しき血筋の娘です。突然ですが、わたしたちもあなた方の旅にご同行させていただけはしないかと」
「いきなり無礼だな、理由くらい言って欲しいがね」
「どっちが無礼だよ」
トマスの不躾な言いようにアクセルが小声でつっこんだ。
「わたしは先を読むことが出来ます、半分仙人みたいなものですから。わたしをお連れ下されば、役に立つこと間違いなしということを、お約束しますよ」
「ほんとかねぇ。胡散臭い。どうするんだ、アルベルト。お前に任せる」
マーブルは李とユーリのことを交互に見比べ、うなって考えた後、
「わかったにゃ、先読みの力というのがどういうのか知らないが、一緒にいくにゃん。助けてもらった恩もある」
「謝謝。ありがとうございます、アルベルト=マグナス殿」
李は名前を聞かずにマーブルの正体を見抜いたので、一同は固唾を呑んで様子を窺った。
「ど、どうしてコイツの名前を」
「あなたはトマス=ヴィスコンティ殿ですね。イタリアで噂を聞きました。修道会を破門されたとかで」
「く、詳しいな」
無表情ではあったが、低くうなるような口調でくわえタバコを強くかみ締めた。
「いまじゃ修道士をやめ、ただの人ですよね」
「何を言いたい」
「いえ。ただなんとなくですが、そちらの可愛いお嬢さんとお似合いだと思いましてねえ」
李には何でもお見通しらしかった。
トマスはシホのほうへ視線を走らせ、頬を赤く染めた。
「お嬢さんじゃない。私にはシホって言う名前があるもんね」
「それはごめんなさい、シホさん。悪気はなかったのですが」
この言動から、シホの負けん気の強さをも、李は見抜けたのだろうか。
「ねえ、李先生。ここ早く立ち去らないと見つかっちゃうよ」
痺れを切らしたのか、ユーリは追っ手を気にしてか、李を急かしていた。
「詳しい話は海上で、というのはいかがです。わたしたちも様々な追っ手から逃げ回るのに少々疲れました。あんまり走ったので足がむくんじゃいましたよ」
「あなたたちも追われていたの」
ユーリはシホの言葉に頷いた。
「そうだよ、だからぼくが、きみたちを助けようって先生に言ったんだ。昨夜、猫さんが荒くれたちにボコボコにされてるの見つけて、すぐ助けたかったんだけど、そのお兄ちゃんが男たちをやっつけていったんで安心できた」
「何か悪趣味だな、それ」
アクセルは悔しそうな顔をし、小声で呟いた。
「おかげでオレはへろへろだよ」
「酒飲んでたからだろ」
トマスの毒舌に、アクセルは思わず握りこぶしを作る。
「とにかく。アクセル殿下の船に乗ろう。ここからが本当の旅の始まりになるのだからにゃ」
マーブルは毛づくろいをしながら、皆はマーブルの後に続いて、船の置いてある倉庫へと歩き出した。
「待て待てい。やっと追いついた」
ところがマーブルたちの行く先に息せき切って現れたのは、マーブルを猫人間に変えた張本人メタトロンだった。
以前は整っていた赤い長髪は、乱れに乱れ、汚れた衣服からは汗のこもった体臭を漂わせ、見た目からしてロクな目に遭っていないことが窺える。
「メタトロン。いまごろなぜ、僕の目の前に現れたのか」
マーブルの目つきは獰猛な肉食動物そのものに豹変する。
「こいつが噂の」
トマスは無表情のままメタトロンを見据え、アクセルは敵意を徐々に見せ始め、李は悠々とかまえ、ユーリは短剣を握り、シホは懇願するようにメタトロンの前へと進み出た。
「お願い。マーブルを、いいえ、アルベルトを元に戻してあげて」
「やはり、貴様がユーリ=ケストナーか。おとなしく『アキュアール』を渡すのだ」
メタトロンは、シホに烈風を浴びせると、意識を失わせ、あっという間に姿を消した。
「シホ、シホ」
必死にシホを捜すトマスだが、徒労に終わってしまうと、地面へとくずおれ、落胆の色を隠せなかった。
「ごめんなさい、ぼくのためにシホを危険な目に遭わせてしまって。でも大丈夫、きっと助けるから」
「どうやって助けるつもりだ」
トマスはうつむいたままでユーリを責めるようにいった。
「あいつの居場所はわかっている。神の住む城、天空城だよ」
「天空城、だと。どこにある」
「ぼくも行ったことはないので場所まではわからない。でも、この『アキュアール』が示してくれる」
ユーリは腰の鞘から剣を抜き放つ。
『アキュアール』は、水鏡のように透明感を帯びた聖剣である。
その美しさに誰もが心奪われるといわれていた。
特に武器を多く扱う騎士たちには、剣の魔性に耐えられるものが少ないと聞く。
「やれやれな回り道だにゃん、ではいくか。シホを救いに」
本心は計り知ることが不可能だが、マーブルもシホのことが心配のようだ。
「そうだね。思い知らせてやろうよ。ぼくとシホを間違えた間抜けな『神の使い』に」
ユーリは邪悪そうな笑みを目一杯浮かべ、狩りを楽しむといった様子だった。
「離して。私はユーリじゃないんだから」
シホはメタトロンの腕を振り払うと、鉄張りの床へと座り込み、胡坐をかいた。
「嘘を申せ、貴様がユーリ=ケストナーであることは明らかなるぞ」
「まだいうか、このっ」
「メタトロンはおるか」
シホが視線を走らせると、紫の分厚いカーテンの向こうで不気味な声を発するものの存在を認識した。
「趣味ワル。何あの色、いやな感じ」
「ひ、ひかえろ。テトラグラマトン様の御前なるぞ」
「と、そういわれましてもねぇ」
シホは鼻を鳴らすと、必死のメタトロンを嘲笑する。
「ふん、どうせ神とかいったって、大した事ないんでしょ」
「小娘、このワシを愚弄する気だな」
テトラグラマトンのくぐもった声が、シホの脳に直接響いた。
「だったらなに。私のいた時代には神なんてもの、天使なんてもの、存在すらしなかった。科学の力がすべてだからね。アインシュタインの理論とかが証明もしてきたし、あんたもインチキなんじゃないの」
「いわせておけば」
メタトロンがシホを押さえつけようとした刹那、テトラグラマトンの腕がカーテン越しから伸び、そして、自称『神』は、その容姿を現した。
栗色の髪に白い肌、見かけだけを取れば完全な人間の若者で、シホは、ギリシャ神話のアポロンを想像したに相違ない。
神の姿は、それほど、美男子だったのだ。
テトラグラマトンの腕は、まっすぐシホの咽元をきつく絞めていった。
「ぐっ」
シホは呼吸できず意識を失いかけた。だが、次の瞬間、テトラグラマトンは気まぐれを起こしたのか、手を離し、シホを床に投げつけた。
「貴様ら人間が、神に楯突こうなど。生意気にもほどがあろう」
「どうして」
シホは、絞められた首を押さえながら、神を見据えてこういった。
「どうして人間を困らせるの。アルベルトやユーリを殺そうと考えるの。あなた、きれいな顔してるじゃない、神様って言ったら普通、人間たちを守るものなんでしょう。傷つけたりしないはず」
「間違っているな、その道理。だから人間は間抜けなのだ」
テトラグラマトンは、シホの腹部に片足を乗せ、強く力を込めた。
「やめて」
「とくに、女は愚かの象徴。子を宿すことしかできぬ弱き存在。だから、殺す」
「テトラグラマトン様」
傷つくシホを見ていられなくなったのか、メタトロンがシホを庇うかのように躍り出た。
「今殺してはユーリたちをおびき出せませぬ、ここはひとつこの娘を囮にして」
「フン、まかせる」
シホは先ほどまでの勢いはどこへやら、テトラグラマトンの背中をいつまでも見送っていた。
「刺激しないほうがいい、あの方はこれから大仕事があり気が立っているのだ」
「大仕事」
シホは青ざめた表情でメタトロンを見上げた。
「世界を壊し、再構築するという大仕事だ。その邪魔をユーリやアルベルトにさせるわけにいかなかったのだ」
シホは驚愕したのだろう、両目を大きく見開き、小刻みに震え始めていた。
第二章 第一話 神話の嘘、ユーリの秘密
「青い空、白い雲。そして順風満帆。船旅最高。いやあ、酒がうまいですなあ」
李紅白は甲板に座り、昼だというのに老酒の瓶を傾けていた。
「おっさん。こんな揺れてるのによく飲めるなあ」
と毒づいたのはアクセル王子。李の人柄は認めていたが、あまりのウワバミぶりに呆れていた様子である。
「若い者が何を言いますやら。ささ、あなたも若き北欧の獅子ならば、わが国の老酒に挑戦なさい」
「いってること、無茶苦茶」
「ところで、世界の神話についての嘘、アルベルト殿ならばご存知ではありませんか」
李は昨夜からぶっ通しで酒を味わっていたもので、いい加減ろれつが利かなくなりかけてもいたようだった。
「にゃん。神話の嘘とは」
「創世神話ですよ。じつのところ、ユーリの出生とも関わりがあるのですが」
李は弁当を頬張るユーリに視線を送り、それからマーブルのほうへ向き直った。
「いかがですか」
「たしかに僕は錬金術師で、師匠も神話の類には触れていた、と思うんだが、僕自身は聞いてない」「そうですか。ではトマス殿は。ローマでいろいろ漁ったのでしょう、禁書、とか」
突然振られて動揺したのか、トマスは勢いよくむせ返った。
「俺は何も知らん」
「またまたぁ」
「本当だ。ヴァチカンの奥は怪しいぜ。南京錠を何重にもかけてやがる。俺たち関係者にさえ、それを隠しているかのようにな」
トマスの言動は、あくまで穏やかであった。
「まさしく『隠されしもの』。アポクリプスですか。ま、それはいいとしましても、ユーリの出生について少し語っておこうかと思ったしだいです」
「なんなのだ、いきなり」
「いえ、さして特別なことというわけではないのですよ。ユーリの両親は、つまりケストナーのご両親ですが、本当の親御ではなかったと、ユーリから聞いたのです。本当の両親がほかにいると。彼女はその両親を捜すため、旅をしているのです」
「へえ、そうだったんだ」
アクセルは瞼を細め、太陽の光に照らされ、甲板の上で鴎と戯れるユーリを眩しそうに見つめた。
「それで、その神話とどういう関連が」
マーブルの問いかけに李はしばらく沈黙した。
答えてよいものか、迷いでもあったのだろう。
「言っとけ。どうせあとで全部わかることだ」
トマスのいうことも尤もだ、と、李は思ったに違いない。
一呼吸おいてから、驚くべきことを口にする。
「その昔、テトラグラマトンと名乗る神には姉がいましてね、その姉のことを愛してしまったのです。姉神の名は、エル。じつはエルには恋人がいました。ルシエルといいます。エルとルシエルには双子の子供がいましたが、テトラグラマトンに見つかってしまい、殺されてしまったというものです。ところがじつは哀れに思ったテトラグラマトンの部下は、地上に双子を捨てたという。つまりは生きていたという説も飛び出てきました。これをどう見ます、錬金術師殿」
「ありそうでなさそうな、なさそうでありな話かにゃあ。まあ神話だから信憑性はないだろうにゃ」
「俺は、あると思う」
その場にいた全員が、驚いたような表情でトマスを見つめる。
「な、なんだよ、そんなに意外か」
「ありえにゃい。神話とかを小ばかにするトマスがそんなこというにゃんて」
「ありえない。トマスに限って、どういう風の吹き回しなんだ」
「お、おまえらなあ。特にアクセル。トマスに限ってとはどういう了見だ、おいっ」
半ば興奮気味に怒鳴りはしたが、大きく一息つくと、照れているのか小声で呟いた。
「シホがな。そういうの好きだから、つまりその、なんだ」
「はっはあん。シホの影響で変わっちゃったわけですかあ。なるほどねぇ。愛は人格をも変える、革命的だねぇ」
いやらしい笑みを浮かべ、アクセルは、懸命に意見を述べようとどもりがちなトマスを尚もからかう。
「てめっ、あとでおぼえてろよ」
アクセルを三白眼で睨みつけ、その雰囲気は恨めしげに見えるのだった。
「李さん。僕はまだわからないことがあるんだけど」
「はい、なんです」
「メタトロンのやつは僕の魔力が神にとって妨害になる、とこういったんだ。やつらは何を恐れているんだろうかにゃ」
李は酒を飲んでいても、こういう問いかけには結構まともに答えてくれている。
初対面の人間からは変態と思われるが、案外普通の人なのだろう。
「メタトロンたち神は、マグナス殿の力を恐れている、ですと。何を以って恐れる必要があるのだろう。最近、賢者の石でも作りましたか」
李は冗談のつもりで言ったのだろうが、マーブルは違っていた。
「そ、そういえば、それに近いものを作ってしまって、皇帝に献上しかけたかも」
「ええっ」
「そうだ。そういわれてみれば、あの依頼もおかしかったな」
マーブルの言っているのは、ルチアとの婚約パーティの一週間前にさかのぼる。
マーブルがまだアルベルトのときに請け負った皇帝や諸侯への献上品、それこそが『賢者の石』だった可能性があった。
「でも、それ陶器だったんでしょ、賢者の石は鉱石から作られますよ」
「ふつうはそうでも」
マーブルは李の言葉を否定した。
「あの陶磁器はそうじゃない。たしか生成法が師匠からの直伝のものだったはず。その素材に『賢者の石』を使った可能性は大いにあった」
マーブルの顔色は、次第に青ざめていった。
「そんな、馬鹿な」
「いや、赤が足りなくてつい」
と、頭をかき始める。
「それだけの理由で、賢者の石を溶かしちゃったとか。あり得ませんねえ」
「あり得ないのが錬金術師の技なのだよ、李さん。ていうかね、アルベルトは変わり者だから」
トマスはのんびりタバコをふかすと、マーブルをせせら笑った。
「『賢者の石』や『エリクシール』などといった不老不死の液体を作るような人間を、たしかに神様がたが放っておくとは、思えませんねえ。どうします、マグナス殿」
「いまは、シホを救うことだけ考えたい」
肉球のついた両腕を組むような格好をし、真剣な面持ちで船室に引っ込んでしまった。
「最近おかしいよなぁ、あいつ。なにか悩んでるんじゃないのかな」
アクセルは見張り台の上に立ち、マーブルのことを案じているようなことを言う。
「アルベルト、お前」
トマスもまた、友として、何かを察知しているようであった。
マーブルは船室にこもると、銀のロケットに貼り付けたルチアの似顔絵を見つめ、孤独にため息をつく。
その絵はアクセルに描いてもらった肖像画である。
いつだったかアクセルは宮廷画家から指南を受けてプロ級の腕前をマーブルに披露した。
「それほど上手くはないんだが、どうだい、そっくりかな」
「おお。似てる。上出来にゃん」
アクセルはルチアの顔を知らないはずなのに、本物のようなルチア像を描いてくれた。
「オレ、将来は画家としてもやっていきたいんだ。王子だからいけない、ってこともないだろうし」
マーブルは肉球をぷにっとさせ、アクセルの肩に手を置いた。
「なれる。男は一度決めたことに責任を持たねばならない。騎士の精神と同じだにゃン」
アクセルにはそういったものの、自分のこととなると話は困難を極めてくる。
「ああ、困ったにゃあ。ルチアに会いたいが、あの性格だと受け入れてはくれなさそうだ。かといってシホは今、敵に捕らわれてしまっている。しかし助けたところで僕のことを」
短い両腕で顔を覆ってしまった。
「アルベルト、やっぱりそうか。もしやと思っていたのだが」
扉の向こう側でマーブルの独り言を耳にしていたのは、トマスである。
友のことを案じ、やってきてみたのだが、想定外の事態となっていた。
「弱ったぞ、シホは俺のことを好きなんだ。今更アルベルトに乗り換えろなどと言えるわけがない」
「当たり前のこというな」
今度はアクセルまでもが話を横聞きして、トマスに突っかかってくる。
「でもな、オレだってシホのこと、諦めたわけじゃない。これからいくらでもチャンスはあるって、信じてるくらいさ」
「ガキに、なにがわかるってんだよ」
「わかるね。少なくとも、あんたよりはマシさ。シホのこと理解してる」
「寝たぜ」
アクセルは機関銃のごとくまくしたてていた文句を押し込め、急に押し黙り、トマスの顔を凝視する。
「俺はお前よりも早くあいつと出会ってる。それだけ愛情の深さが違うんだよ。そして本当の意味ですべてを理解している、と言えちまう」
「よせ。それ以上言うな。もういい、わかった。もういい」
それだけ言い放ち、アクセルは甲板へ戻っていった。
トマスは凝った肩を手で揉み解しながらタバコをかじった。
ふと足元を見ると、マーブルが涙で腫らした瞼をこすり、トマスを見上げているではないか。
「今の話、本当か、シホと寝たのか」
「ア、アルベルト」
トマスは、その場から一目散に逃げ出したい気分に駆られていた。
その日の夕食時。
船長が作った手料理を振舞ってくれたというのに、トマスの姿だけがなく、皆しんみりしていた。
「どうしちゃったの、みんな、元気ないね。トマスさんはいないの、じゃあ食べちゃえ」
「こらっ。ユーリ、意地汚い子ですねぇ」
「怒られちゃった」
李とユーリのミニコントでも反応は薄かった。
アクセルだけが不気味にくぐもった笑いをしているだけ。
「もう、やめてよ、アクセル。気持ち悪い」
アクセルも、そしてマーブルも、沈黙を守ったまま食堂の席を離れてしまう。
「あ、ねえ。ほんっとにどうしちゃったのかなぁ」
「シホさんの話題になった途端、ああなった気がしますよ。といってユーリにはあまり、関係ない話ですけどね」
李は横目でユーリを見てから、杯を傾けた。
「それどういう意味だよ」
「おしえなぁい。というか、大人にならないとわからない問題ですからね」
ユーリを馬鹿にした態度を取る李。ユーリは頬を膨らませ、椅子を乱暴に蹴り上げた。
「いじわるだなあ。じゃあいいよ、トマスさんかマーブルに聞いてくる」
「やめておきなさい、どうせ相手になどされな、って。おいっ」
李が言うより早くユーリは、あっという間に部屋から飛び出していった。
大きく伸びをして船室の扉が開き、現れたのはトマスだった。
ユーリと視線をぶつけるトマスは表情を悟られたくないのかそっぽを向いた。
「あれ。トマスさん、目が赤いよ」
「眠れなかったんだ、悪いか」
「そうじゃないけどさぁ。ねえトマスさん、なんですぐ怒るのさ。シホにはあんまり怒らないのに」
トマスは窓枠に顔をくっつけ、外を眺めた。
「どこまで行っても海ばかりか」
「そりゃそうさ、ここ船だよ。変なこというね」
ユーリはけたたましく大笑いする。
「そういや、俺、気になってたことあるんだが」
「なあに」
後ろ手に組み、ユーリは白い歯を見せ、満面の笑顔で聞き返した。
「李先生の話してた神話のこと。地上に降りた双子の子供は、その後どうなった」
「それなんだけど、じつは」
真顔で語りかけた瞬間、突如船体が傾いて、ユーリは舌をかんでしまった。
悲鳴を上げつつユーリはトマスの胸板につかまり、転倒したが、事なきを得た。
「だいじょうぶ、トマスさん」
無事でなかったのはユーリを庇ったトマスだけ。
「なんとか無事だな。腰打っちまったけど」
「なにがあったんだろう。ぼく見てくる」
表へ駆け出そうとするユーリを制するかのように、『アキュアール』が輝き始めた。
「この光、まさか」
ユーリは窓を覗くと、声を上げた。
「やっぱり。でたよ、天空城だ」
トマスは、ユーリの見せる凛々しい、だが鬼神のような笑みに息を飲んでいた。
「こちらから探す手間が省けた。これで、これでようやく戦える」
「ユーリ、なにを言って」
トマスの表情は憔悴しきっており、ユーリは肩を小さく揺さぶられ我に返ると、いつもの笑顔を取り戻した。
「どうしたの。ぼくの顔、どこか変」
「い、いや、なんでもない」
表へと走り出すユーリの背中に、トマスは小声で呟くのだ。
「ユーリが悪魔の娘と呼ばれるのは、あの子の中に何かが潜んでいるから、なのか」
マーブルたちの乗ってきた船は、暗礁に乗り上げ、お陀仏となった。
幸いなことに死傷者はなく、船長や水夫らは燃えるものを集め、救援を求めるのろしを炊き始めた。
「いやはや、大変なことになりましたねえ。おや、どうしたんです、ユーリ。怖い顔してますね」
「天空城が現れたんだ。あそこにテトラグラマトンがいる」
「なるほど、あれが天空城ですか。立派ですねえ」
地上と空中をこの世のものと思えぬ大きな鎖でつなぎ、歴代の王たちが何年かかっても築けないような巨大な天空城は、地上に住む住民たちを見下すようにして宙に浮いていた。
「バカにして。神といったって所詮、人間と同じじゃないか。槍や剣で突けば血が出るし、殺せば死ぬ。寿命だって尽きてしまうのに、どうしようもない嘘ばかりついて」
「ユーリ」
李はユーリの肩をたたいて落ち着かせた。
「だって李さん、許せないよ、そうでしょう。もしかしたら」
その次の言葉を聴くことは出来ずにいた、しかし、ユーリと李のみ知りえる何かがある、と仲間たちは思ったに違いない。
マーブルは咽を鳴らしてユーリからの指示を待つ。
「李さんよ、そろそろ本当のところ聞きたいね」
先ほどの事故で腰をしこたま打ちつけたトマスが李に近づき、
「何のことでしょう」
と嘯く李を少々責めるように言った。
「とぼけるな。さっき俺は認識したね、ユーリは人間じゃないんだろう、鬼神の類じゃないのか」
「だとすれば、いかがなさるおつもりで。ユーリを殺しますか」
李からの問いは、いささか冷ややかなものであった。
すべての真理をつかさどり、見抜くといわれる仙人。
李は、道教でもっともすぐれた僧侶の頂点に立つ男だったのだ。
トマスはそのことをいやというほど知らされたのに相違ない。
「ユーリが鬼神ならば、殺す必要があるのですか。あるいは天使かもしれません。悪魔だと殺して、天使ならば生かす。人間というのは、善か悪かでしか、比較しませんから。その言葉を吐くということは、あなたもそうなんでしょ」
「い、いや、それは」
トマスの言動は李の言葉の実証をあきらかにするものだった。
「今の状況を考えてみるがいい。あなたの友人であるアルベルトさんを、神が殺そうとしているのですよ。この世で一番正しいとされる神がですよ。人一人の命を奪って、それが正論だと主張できますか。悪魔が人間を救っても、それは正義になりえませんか。さあ、どうなんです」
トマスは返事に困ったのか、李の顔を二度三度盗み見して、終わってしまった。
たしかに李の言うとおり、それも一理ある。
「あんたの理屈は、オレの追い求めていた真理だぜ」
アクセルは李の両手を握り締め、大きく振るった。
「それはどうも。賛同者がいてくれるとは、光栄ですね」
李は鼻を鳴らしてこういった。
「そうだよなあ、善でも悪でもない。それがこの世の理だったんだよなあ。オレ、完全にめざめちゃったよ」
「そうですか、よかったですねえ」
トマスは李の言葉に衝撃を受けてしまったのか、しばらくの間、硬直したまま動かなかった。
アクセルは興奮し、あまり強く腕を振るったので、ペンダントを落としてしまい、それを拾ったユーリは、あっ、と声を上げそうになって、ペンダントをまじまじと見つめていた。
「どうしたんだ、ユーリ」
「これと同じもの、ぼくも持ってるんだ。ほら」
どういうことだろう、とでもいうかのように、アクセルとユーリは顔を見合わせた。
第二話 天空城潜入
一行はユーリを先頭にし天空城への潜入を試みた。
長きに渡り誰も足を踏み入れたことがない所為か、ところどころ手入れが滞っており、薄汚れていた。
それにもかかわらず、朽ちている箇所は意外なほど少なかった。
「さすが、神の城」
アクセルが皮肉のつもりで呟いた。
トマスとマーブルは列の最後尾を歩いていたが、シホの件以来、気まずかったようだ。
無論アクセルとトマスも気まずくはあったが、アクセルはトマスほどの執着心はなかったとみえる。
シホへの想いも忘却の彼方になりつつあるのだろうか。
「それにしても広すぎるよ。いったいどこにシホはいるんだろうなあ」
ユーリは聖剣を胸に抱きながら長い長い廊下を歩いた。
周囲の扉や床からの襲撃に備え警戒して。
ところが、何も起きはしなかった。
「人の声」
立ち止まり、ユーリは耳を研ぎ澄ました。
「みんな、こっち」
突然走り出す。
声の主はここにいる、とユーリは言った。
目前に立ちふさがる分厚い鉄の扉、この向こうから声が聞こえてくるのだと、ユーリは主張する。
「もしかして、シホがここにいるのかな」
ユーリは『アキュアール』を扉に近づけた。
重苦しい、こすれる音が鳴り響いて、鉄の扉はゆっくりと開いていく。
扉の奥から現れたのは、ぼろぼろに擦り切れたチュニカを身にまとった若い夫婦が、怯えるようなまなざしでユーリと仲間を見据えていている姿だった。
「あなたがたは、誰ですか」
ユーリは物怖じもせず尋ねていた。
男のほうが、
「私はルシエル。この城を治めていた神でした」
と、答えた。
つづいて女のほうも、
「わたしはエル。ルシエルの妻です」
ユーリは愕然とした様子で、素早く立ちあがると、
「偽者の神を倒し、必ず助けます。待っていてください」
と、誓うのだった。
「あなたがたは、どうやってこの城に入ったのでしょう。城のセキュリティは万全で、しかも今はユルのやつがのさばっています。彼にしかこの城の警備体制は解除できないはずですが」
ユーリは無言で『アキュアール』を差し出した。
ルシエルは聖剣を指先でたしかめると、堰を切ったように涙を流し続けた。
「おお、これは私がアールヴ(妖精)たちに作らせた、魔法の剣。そうですか、これをあなたがお持ちなら、きっとユルを倒せるでしょう」
「ユルって、だれのことです」
小首をかしげながらユーリが問うと、エルが答えてくれた。
「わたしの弟、つまり、今は『テトラグラマトン』などと名乗っている、愚かな男の名前です。きっともはや、その名でさえ忘れていますわ。両親から授かった名前なのに」
エルもまた、両手で顔を覆って嘆きだす。
「失礼ですが、あなたのお名前を教えてください」
ルシエルは穏やかだが、しっかりとした口調で、ユーリに尋ねた。
彼の凛々しげな雰囲気は心なしか、ユーリと酷似していることに、仲間たちの誰しも思ったことだろう。
「ぼくはユーリです。ユーリ=ケストナー。本当の両親を捜して仲間たちと旅をしています。ですが、もうその必要はなくなりました」
ユーリの表情には、迷いがまったくなく、晴れ渡った青空を連想させるのだった。
「それはどういう意味です」
ルシエルの問いには答えず、ユーリは、ユル、つまりテトラグラマトンのいる大広間まで一直線に駆け出した。
「俺はシホを捜すよ。きっと、寂しがってるだろうから」
トマスは苦笑を浮かべると、のんびり城の中を探索するかのようにのっそり歩き出す。
「それじゃあ、僕たちは先にテトラグラマトンのもとに急ぐんだにゃん」
第三話 神とユーリの関係
トマスが城の中をぶらついていると、粗末な木の扉から、すすり泣く声が聞こえてきた。
鍵穴から覗くと、泣いている声の主は、ほかでもないシホであった。
「シホ、だいじょうぶか」
たまらずトマスは扉を蹴破った。
「トマス。会いたかったよぅ」
シホは待っていた最愛の人に出会えた悦びで勢いよくトマスに抱きついた。
そばにいたメタトロンは、目のやり場に困ったのか、頭をかいていたのだが。
「貴様、シホに何かしたんじゃなかろうな」
「滅相もない。その逆なら充分あったんだけど」
よくみればメタトロンの顔には痣が数個はついていた。
「なにがあったんだ」
「かくかくしかじかで、シホさん怖いですよ」
トマスは泣き出すメタトロンと抱き合い、
「かわいそうになあ、わかるぞ、気持ちがよくわかる」
「どういう意味かな、それ。ムカつくんですけど」
「おっと、それよりもだな、みんなが神様ンとこ向かったぞ。お前たちはどうするんだ」
「といって、おれ様神側だし」
メタトロンは腰を上げようともせず、ぐずぐず。
「私はいってもいいけど、戦えないし」
シホはお手上げのポーズをした。
「そうだよなぁ。俺も錬金術師っていっても、アルベルトほど魔術知らないしなぁ」
三人は目配せをして、それから、ある結論に達した。
「ばっくれちゃおうか」
「きたか。愚かな傀儡めらが」
ユーリは重苦しい紫色のカーテンを『アキュアール』で押しのけて、テトラグラマトンと対峙した。
「傀儡とはどういう意味だ」
「ワシが貴様ら人間を土から作り出した、いわば傀儡だからだ」
「テトラグラマトン、いいや、ユル。ぼくはお前を許さない」
「なぜそれを。ええい、雑魚の分際で生意気なッ」
ユルはあくまでもその名を否定する。
だが、すべてを知ったユーリは強かった。
そしてなにより、ルシエルとエルの夫婦に出会えたことがユーリを強くしたのに相違なかった。
「覚悟」
「死ね、人間」
ユルは華奢な容姿をしていたが、おそらく魔法で肉体を強化したのだろう。
ユーリの一撃を受けてもびくともしなかった。
「はははは。どうした、人間。この光の鎧はミノタウロスの力を借りただけだぞ、倒せぬか」
「どいてろ、ユーリ」
アクセルが自慢のクレイモアを振るって、光の鎧をひっぺがそうとつとめるが、逆に跳ね飛ばされてしまった。
「アクセル、これを使え」
なにごとか閃いたユーリは『アキュアール』を投げ渡した。
神をも貫く剣。それを受け取ったアクセルに、もはや向かうところ敵なしと文言をうたっても、過言ではなかっただろう。
「お遊びはおしまいだ。小ざかしい、真の姿を見せてやるッ」
ユルは、人間型から恐ろしい魔獣の姿に変貌を遂げる。
ユーリはさすがに青ざめていた様子だが、アクセルは顔色ひとつ変えず、突進していく。
百獣の王のような頭部、どれだけ鍛えればこれだけになるのか、強靭な胸板。
肌の色は緑の混じった褐色をして、神話のキマイラ以上に醜く、汚らしかった。
怪獣の皮膚は強靭すぎて、さしもの『アキュアール』であっても、はじき返されてしまう。
「どうすりゃいいんだ」
アクセルは顎にしたたる汗を拭い、マーブルに助けを求めた。
「マーブルは錬金術師だったよな。何かいい案はないのかよ」
「ある」
即答するマーブルに、アクセルは呆気に取られたのと、期待が半分の視線を注いでいた。
「頼むぜ、マーブル」
ポケットから小瓶を取り出し、キマイラもどきに振りかけた。
「ぐああっ、よせ、やめろぉ」
「なんだい、あの液体は」
ユーリの問いに、
「不老不死の液体だにゃ。ただし」
とマーブルは付け加えた。
「失敗作だがにゃ」
なおも悶えるキマイラもどき。
「おっ、おのれえ。なめた真似をすると、どうなるか、みせつけてやるぞぉ」
アクセルもユーリも、エリクシールの失敗作で焼け爛れたヒドイ臭いに耐えられなくなり、鼻をつまんだ。
しかし、怪物の力は侮れず、とにかく力押しでくる。
アクセルがどうにか食い止めようとつとめるが、相手は偉大なる神である以前に魔法使い、一般人がかなう相手ではなかった。
「ぐわあッ」
「アクセル」
聖剣は宙を舞い、ユーリの手元に戻ってきた。
「どいつから殺して欲しい。立候補しろ」
勝算が見えるとでも言いたげに、魔獣は豪快な笑い声を轟かせた。
「冗談じゃない、殺されてたまるものか」
ユーリは剣を強く握り、目を閉じた。
「頼むぞ、『アキュアール』。お前はみんなの希望なんだ」
威張ってはいたが、どうやらマーブルの薬のおかげで幾分か弱体化が進んでいたようだった。
聖剣は、魔獣の弱点をユーリの脳裏に伝達した。
「負けはしないっ」
「ほざけえ」
肩ひざをついたユーリは、構えた剣で魔獣の心臓に一撃を加えた。
魔獣は魔術を解除し、もとの美しい美青年の姿に戻り、ユーリたちを見据え、そして、吐血する。
「なぜだ、なぜワシは貴様らに勝てぬ」
「そりゃ負けますよ。あなたには団結する『仲間』がいないでしょ」
李がもっともらしいことを言う。
「なか、ま。そうか、仲間がいないと勝てぬのか。敗因だったな」
「ぼくたちを殺そうとしたのは、どうしてなんだい」
ユーリはユルを抱き起こすと、悲しそうに尋ねていた。
「さあ、なぜかな。人間が邪魔なだけだったと思う。そして英雄とか言う存在も、ワシにとっては面白くない存在だったのだろう、だが、今となってはどうでもいい」
「叔父さん」
ユーリはユルを抱きしめ、叫んでいた。
「ユーリ、叔父とはどういうことだ」
「ユルさんは、ぼくの叔父さんなんだよ。ぼくはルシエルさまとエルさまの、子供なんだもの」
ユルは驚きのあまり口を動かすことさえ忘れ、ユーリの頬をなでていた。
「道理で似ている。ルシエルの穏やかな顔つき。エル姉さんの美しい瞳。そうか、だから憎らしかったのだ。あのルシエルの子だからこそ」
「叔父さん、死なないで、死んじゃいやだ」
ユルは、姪の願いに背くかのようにして、息を引き取った。
最終話 紳士の正体
こうして、神と不思議な力を持つ人間たちとの戦いは終結を迎えたが、ユーリは亡き叔父のことを思うと、胸を痛めてしまうのだ。
そして、今度は喜びの再会が待っている。
大昔生き別れになってしまった、ルシエル夫妻との。
ルシエルは再び玉座に座ることができ、その御礼としてユーリたちを歓待した。
マーブル、もとい、アルベルトにかけられた呪いもようやく解け、アルベルトはいまだ城のどこかで休んでいて、いっこうに現れる気配のないトマス、シホ、メタトロンを迎えに行くことにした。
トマスとシホは心地よさそうな寝顔を浮かべ、夢の世界へ誘われていた。
メタトロンはというと、アルベルトが人間の姿に戻ったことを知り、腰を抜かしていたが、アルベルトから静かに、のポーズをとられ、両手で口を押さえた。
シホの肩を小さく揺さぶるアルベルト。
ゆっくり重い瞼を持ち上げ、こすりあげると、見たこともない紳士がにこやかに、
「おはよう」
と挨拶をしてきた。
「あ、おはよう。だれだっけ」
半分寝ぼけているシホの声でトマスも目を覚ます。
「アルベルト」
トマスが叫んだ。
それでようやくシホにも、この男の正体を理解できた。
「うそ。トマスよりかっこいいじゃん」
「惚れ直した」
このやりとりに多大なショックを受けたのは、トマスである。
「シ、シホは俺よりアルベルトを選ぶというのか」
「そんなわけないでしょ。言ってみただけ。トマスが世界で一番かっこいいもん」
「はいはい。のろけご馳走様」
アルベルトは苦笑してごまかしはしたが、シホに対し淡い感情を抱いていたのは確かかもしれない。
その証拠に、トマスと戯れるシホの笑顔が、眩しそうだった。
「ごめんなさい、シホさん。あなたを巻き込むつもりはなかったのです。でも、人手が欲しくてあなたを未来から呼んでしまいましたの」
エルの言葉にシホは苦笑するほかなかった、という。
正装したエルは女神の器にふさわしく、それは美しかった。
ルシエルと幽閉されていたときとは、まるで別人。
華やかな貴婦人に変身していた。
「ところで、アクセル王子。あなたはペンダントを持っていたのですよね」
エルがアクセルに言うと、
「これですか」
アクセルはペンダントを渡した。
「やはりそうですわ。神の一族の紋章です。あなたはユーリの双子の兄」
「と、そういわれましても」
アクセルは困惑の色を隠せなかった。
「今のオレにはブラント家を守るという使命があってですね。それに、いきなり双子の妹がいたなんて、にわかには信じがたい」
「そうですね、わかりましたわ。でも忘れないでいて、あなたはわたしと、そしてルシエルの子であるということを。心の片隅でいいですから」
「はい」
アクセルの心中は定かではなかったが、おそらく本当の両親に感謝していたのだろう。
そして、数日後。
メタトロンがアルベルトの家にやってきて、シホを家に帰してやる、といってきた。
「なんでもエル様がもとの時代へお返しになられるそうだ。来たまえ」
しかし、シホはその申し出をきっぱり断った。
「いかない。帰るのよす」
「あれほど帰りたがっていたのに」
とメタトロンが苦笑した。
「未練なんてあるわけないでしょ。あっちよりこっちの世界のほうが、不便なことあるけど、楽しいもの。だからこっちにいる」
「ふうん。思い切ったねぇ。トマスもいるしね」
シホはうつむき、赤面した顔でアルベルトを張り倒した。
「やっだあ、冗談きっついなぁ、アルベルトはぁ」
「ト、トマスが聞いたら、喜ぶよ」
「それじゃあ、トマスさんに教えておいてやらぁ」
メタトロンは魔法を使って姿を消し、それきり現れなかった。
「ねえ、ねえ、アルベルト。ルチアさんとはどうなわけ」
「どう、って。どうもしないよ」
「うそうそ。毎晩酒場に通ってるじゃない。やっぱさあ、仕事が終わったアイドル裏通りで抱きしめて、あんなことやこんなこと、しちゃうんでしょ」
「ばっ。はしたない、どうすればそういう下品な想像が出来るんだい」
アルベルトは、はた、と思い直したようで、唇を歪めながら、
「そういえば、トマスとはどこまでいったんだい。僕はそのへん知りたいな、あの偏屈がかなり変わったし」
「やっだあ。それ以上はノーコメントだってばッ。アルベルトのバカッ」
シホはアルベルトの背中に、もみじをつけた。
「ごめんなさい。聞いた僕がほんと、バカでした」
シホには一生かなわない、と悔し泣きするアルベルトであった。
アルベルトとルチアの結婚式は、盛大華やかにおこなわれ、その三日後には、トマスとシホが正式に夫婦となった。
「私ね。式のときに神父さんがいう『健やかなる時も、病めるときも』って文句、好きなの」
ウェディングドレスを身に着けたシホは、満面の笑顔を浮かべる。
「そうか。俺はあんまり好きじゃないな」
「どうして。元修道士でしょ」
「だからだよ。自分が言われる立場になる、というのが、いかに苦痛か」
シホはトマスの胸に寄りかかり、
「余計なこと考えなくていいから。今日の式のことだけ考えるの。いい」
「へいへい」
すっかりシホのペースだ、と、トマスは思っていたのだろうか。
気の抜けた表情で頭をかいた。
「おめでとう、お二人さん。これお祝いの品」
李そして、アクセルとユーリも駆けつけてくれ、準備は整った。
「ありがとう、アクセル、ユーリ。私、幸せになっちゃうからね」
「あのさ、シホ」
アクセルは李やユーリと話をしているトマスには聞こえないよう、耳元で囁いた。
「もしもあいつが、お前を泣かせるようなことがあれば、そのときは、お前をさらってやるからな」
アクセルは何事もなかったかのように、ユーリのところへ歩いていく。
「もてる女は、ツライよねぇ」
シホの言動からして、まんざらではない、ということが窺えた。
アクセルの描いてくれた集合絵は、のちのレンブラント=ファン=レインの『夜警』を上回る人気だった、ということだ。
〜 fin 〜
ぶち猫錬金術師