天使の羽
ちょうど朝の八時だった。わたしは寝ぼけ眼をこすりながら階段を降りる。一階のリビングのドアを開けると、うちで飼っている二匹の犬のうちの一匹、フランちゃんという子が尻尾をぶんぶんと振りながらわたしに飛びついてきた。
「おはよう」
この子はまだ一歳かそこらの、雌のジャックラッセルテリアだ。去年からわたしの家で預かることになっている。本当は一昨年結婚し、わたしの実家の隣町に家を建てた兄が飼っていた子犬だ。けれども彼女を買ったころ、義理の姉、わたしの兄の嫁が妊娠し、どうか子供が生まれ育って大きくなり、生活が落ち着くまで、わたしの実家で預かってくれないかと兄夫婦がわたしの両親に頼んだのだった。
わたしの実家ではそのまえ、わたしが中学生になった頃に黒柴の子犬を飼っており、さくら、という名前のこの子はもう九歳になっていた。そこへフランがやってきた。
最初はふたり、というか二匹の仲はわるく、別々の部屋で飼っていたのだけれども、ようやく互いに互いの存在を認め合うようになり、いまではひとつの部屋、わたしの実家のリビングで一緒に過ごしている。
黒柴のさくらはおとなしく、めったに吠えない性格だけれども、ジャックラッセルテリアのフランは好奇心旺盛というか、よく吠え、よく食べ、よく遊ぶ、元気のよい子だ。毎朝、わたしが一階のリビングに入るとわたしに飛びついてくる。
その日もフランはわたしに飛びついてきた。そのとき、わたしは彼女に左腕を引っ掻かれてしまった。でも親にも、もちろん犬にも、わたしが自傷をしたことは言ってなかったから、左腕を引っ掻かれたわたしは、痛い、なんて言えずに、ただなんてこともなく、おはよう、と、朝のひかりをうつすこの子をなでる。起きたばかりの犬の耳は冷えている。
わたしは洗面所に入って、ドアをしっかりと閉める。誰にも言えないのだから、犬がわるいわけではないのだから。わたしは洗面所の床にぺたんと座り込んで、ひっそりと隠れて袖をまくる。引っ掻かれた左腕の傷はまた開いてしまって、血がにじみでている。袖をまくったときに、滲み出た血はこすれて、肘のほうへ流れている。
けれどもわたしは知っている。血は水のようにさらさらとしているのではなくて、泥のように粘性があって、それに、くさい。魚のような匂いだ。みんなの血がそんな匂いなのか、それともわたしがへんなものを食べているからくさいのかはわからない。わたしの部屋には血をぬぐったタオルが隠してあって、変色して黒くなったそれらのタオルのにおいが部屋を満たしている。わたしはそのタオルを洗いたいのだけれども、親に見つかってはいけないし、捨てようとおもっている。でも、タオルが少なくなったら、それも親にばれてしまう。わたしはどうしたらいいかわからない。わからないまま、わたしの部屋に放置している。そして、匂いに耐えている。
犬がわるいわけではない。親がわるいわけでもない。昨夜、左腕を切ったわたしがわるいわけでもない。たとえば、庭に咲くハナニラが、チェリーセージがクレマチスが、彼らのあいだを吹き抜けるたわやかな朝風がわるいわけでも、もちろんない。そして、神さまがわるいわけでもない。絶対に、だれもわるくなんてない。
だれのせいでもない傷がある。それはわるいことではなくて、もっと純粋で、自然で、たとえば花が咲くように、蝶が羽化するように、ただわたしの腕に傷が咲くだけ、それだけのことだと感じる。
けれども同時に、矛盾してしまうけれど、傷ついたわたしの左腕は、だれにも見せてはいけない。親や、友人、そして先生に見せたときの彼らのこころをおもうと、どうしてもこれは、これだけは隠さなければいけない。自然なことであると同時に、見せてはいけないという、その矛盾に、床に座り込んだわたしは立ち上がることができない。
「自傷してしまったからえらくないとか、自傷しなかったからえらいとか、そういうわけではなくて、自傷はあくまでもこころの病気の症状なのだから、たとえば頭痛がしたとき、その痛みにえらいとかえらくないとかは言えないように、どうしようもないことだからね」
と、先生はわたしに言った。
でも、かなしいのは、自傷を止められるような薬がないことだ。抗うつ薬や抗不安薬、睡眠薬はあるけれども、自傷したい気持ちを止められる薬はない。
「どうしてリスカするの」
と聞かれることは、多くはないけれどもある。先生だったり、自傷していることを告白した友人などに。
「もやもやしたのがすっきりする」
とか、
「血を拭っていると落ち着く」
とか、
「自分への罰だから。贖罪?だから」
とか、いろんな説明をわたしはするけれども、わたし自身にもわからない。だから自傷をする理由を聞かれるのがとてもつらい。
たとえばふつうのひとに、
「いまから自分の腕を切ってください」
と言えば、いやだ、と答えるのと同じように、わたしもいやだ。腕を切る、とてもひどいことだとおもう。カッターを左手首に押し当てて、いやだ、いやだ、と独り言を言う。絶対にわたしはわたしの部屋で、ひとりのときにしか切らないから、その独り言は誰にも届くことはない。
いちばんつらいのは切ったあとではなくて、切る前の、カッターを右手で握りしめて、これから傷つける左腕をぼうっと眺めているとき。声がする。やさしい声。痛いのはちょっとだけだよ、とか、らくになれるよ、とか、だいじょうぶだよ、とささやかれる。
切るときは、あまりにも痛くて、本当に、本当に痛くて、足をじたばたさせる。だって、切るのだから。呼吸が荒くなって、息苦しくなる。
どうして自傷するのかと聞かれて、わたしがそう答えたことはぜんぶ違って、でもぜんぶ本当のように感じるけど、やっぱりわからない。切ったあとに、どうして? と自分に聞く。どうして切らなきゃいけなかったの?
でも答えは返ってこない。あれほど、切れ、切れ、と言ってきたのに、切ったあとはだんまりで、その代わりにただ血が溢れるだけで、わたしはタオルやティッシュで拭って、捨てて、拭って、捨てて…。
わたしにとって自傷はひとつの強迫観念のようなものだとおもう。強迫性障害というものをわたしはよく知らないし、先生もわたしの病名を教えてはくれない。
わたしのすきなお友だちに、
「腕を切らないとどうしても眠れないんです。ずっともやもやして、頭のなかで、切れ、切れば楽になる、と言われます」
と告白したことがある。
でももちろんそんなことはないともわかっていて、でも、嘘でもない。相反するおもいがある。たとえ腕を切らなくても、きっと眠れる。けれども、わたしはどうしてもその強迫観念に負けてしまう。
「私もまえはお酒をのまないと眠れなかったし、そういうかんじなのかな」
と返信がくる。そっか、とおもって、ひとにはそのひとにとっていろいろな習慣が、強迫観念があるのだとおもう。それは儀式のようなものなのかなとわたしはおもう。よい儀式も、わるい儀式もあって、わたしにはわるい儀式しか残らなかった。自傷という儀式。
わたしはそのお友だちがすきで、彼女にはできればお酒をのまずに眠ってほしいし、わたしには自傷をしないで眠ってほしい。ほかにもいろいろなひとがいろいろな理由で眠れなくて、いろいろなことをして眠っているのだとおもうと、どうして、神さま、と手をぎゅっと握りしめてしまう。眠ることは純粋なことなのに、生きることは、祈ることは、純粋なことなのに、と。
今日もわたしは自傷する。ふつうは横か、右ななめか、左ななめかに切るのだけど、今日はぜんぶ、横にも右ななめにも左ななめにも、ぜんぶ一気に切る。最近はお酒をのんで切っている。お酒をのむと自傷したくなるのではなくて、自傷のために飲んでいる。自傷はすごく痛くて、お酒をのんだり、ときにはお薬をのんだりしないと耐えられない。耐える、耐えられない、の問題でもないのだけれども、すこしでも痛くなくなるように、手術前の麻酔のように、睡眠薬をお酒で流し込む。もちろんそれでも痛いものは痛いし、ほんとうにいけないことだとおもっているのに、けれども自傷がやめられないいまはそうするしかない。残酷なことだとおもう。おねがいだから、これ以上傷つけないでほしい。
左腕をタオルで押さえながら窓から見えた四月の薄雲は天使の羽のようだった。わたしも飛べたらいいのに。あたたかで、痛みも、くるしみもない、自傷をしなくてもいい世界へ。
天使の羽