ただの水色

 村営温泉は元日からやっているので助かる。アウトドアのシーズンには、ひとつ山の向こうからテントや車中泊のキャンパーがやってきたりするが、雪に閉ざされた今頃は地元のじーさんばーさんが世間話がてらつかりにくるくらいである。
 あたしは湯上がりの体をスウェットとブルゾンに包んで外に出る。三日前の雪が青白く凍りついている。トラクターの幅しかない道路を、登山用のがっちりした靴でザクザクと踏んでいく。コンビニは村で一軒しかない。
 うっかり足を滑らせた。肩にかけたスポーツバッグがうまいことクッションになって、軽く肘を打っただけ。バッグの中にはタオルや下着しか入っていないのだから、ついていた。
 あたしは今日もクロアゲハみたいなブラとパンツで、脱衣所のオバちゃんたちの注目を一身に集めてやった。うちのばーさんが死ぬまでは、こんな下着はつけられなかった。ブラのことを「乳バンド」などと云うばーさんだったのだ。別に黒い下着が好きなわけじゃないが、何となくつけている。
 国道のバス停に立ったまま、缶チューハイをちびちび飲んだ。去年の夏にばーさんが死に、あたしはあてにしていたアパートも父に取られて、この山間の村にやってきた。今はセメント工場で働いている。あたしは今、とても自由だ。自由、それをおもうと泣きたいくらいに。
 今年あたしは三十才になる。
 お正月だからといって何ということもない。本社からとばされてきて、近江の奥さんとゴタゴタしているらしい臣生(しんき)さんも、同じ会社指定のアパートでどんちゃん騒ぎをしていた。ほろ酔いのあたしは笑い声の洩れる部屋の窓をねめつける。臣生さんには、年末の飲み会のとき、うっかりキスされた。形のないものが伝わってきそうになって、あたしは気づかないふりをしてドアの前でおやすみなさいをした。そして床をのたうちまわった。臣生さんはタバコとアルコールの匂いがした。ヒゲがちょっと伸びていた。何だか初めて、男性というものを知ったような気がした。
 それなのに、あたしをそっちのけで面白おかしくやっているのが、何だか腹立たしかった。むしゃくしゃしたからか、コンビニのおかずでご飯を食べたら、久々にパソコンを開いてみようと思い立つ。去年から原稿がそのままになっている。
 仕事をしながら小説なんて、中々書けない。
 単なる怠惰だろうか。
 今日もお昼まで布団でうだうだしていた。夕方になるとポストも覘かずにお風呂に行ってしまった。じわりとイヤなものが胸の中に広がる。埋め合わせるようにポストを検める。どうせ友人はいないし、年賀状なんて侘しいものだ。ばーさんのうちの住所で、父からきていた。連名にはなっていないが、明白に折羽(おりは)さんの文字で「体に気をつけてね」とある。父からは何もない。最近は声すら聞いていないが、やはり折羽さんと同居しているのだろう。さっさと結婚すればいいのに。あたしに気をつかっているのだろうか。それがまた、うっとうしい。
 もう一枚、マイナーな猫エッセイ漫画「おしょうゆ日和」のイラストのハガキがきていた。イラストは、もちろん手画きだ。猫の「しょうゆ」のおなかに、そのうちあそびにいくよ! とメッセージがある。
 そもそも、ここの住所を教えていない。わざわざ父に問い合わせたのだろうか。あのひとならそのくらいやりそうだ。そして、何故オッサンが水色に、とへんなふうにとられるのもおかまいなしで、ニコニコしているのだ。
 オッサン、といってもお坊さんのことである。
 尚のこと訝しいか。
 うちは真宗である。だからあのお坊さんは坊主頭ではなかった。
 年令は三十二才だと云っていた。兄とみなすにも、年が近すぎる。若すぎる。それであたしには、法衣の他にお坊さんらしいところのないあのひとを、敬うという気持ちがイマイチ起こらなかった。
「みいろちゃん?」
 ばーさんの通夜のときに、あのひとは質問した。
「だったらいいんですけど…」
 あたしは愛想笑いをした。
 通夜ぶるまいのテーブルだった。あたしは内孫だし、ばーさんと同居していた人間として、忙しい父の代わりにお坊さんのお相手を申しつかり、向かいに腰を下ろしたはいいが、どうしてこのひとまだいるんだろう。お経が済んで、形式ばかりどうぞと云ったら、はいはいとついてきた。流石にビールは飲まないけれど、それ以外の料理はパクパクとよく食べて、そしてあたしに話しかけた。
「みいろちゃん?」
 集会所の外に並んだ供花の、名札を視て質問したのだ。
「うーんと、じゃあみしきちゃん?」
「ハズレです」
「みずいろってことないよね」
「はは…」
「え、みずいろちゃんなの?」
 そのときどっと、向こうのテーブルで何でか従兄たちがウケた。「そうです、ただの水色(みずいろ)です」
 あのひとも口許をほころばせた。
「そしたら、きっと今まで苦労しただろうね。水色ちゃんか、かわいい、かわいい。気にすることないよ、俺だって本名なんだから、日和(ひより)っていうの」
 お坊さんだからお坊さんの名前があるのだろう。それにしてもへんなことを云うひとだなとあたしはおもった。
 よく覚えてはいないが、あたしが六才のときに死んだじーさんの葬式には、つるつるの頭で年を取った、いかにも「お坊さん」というかんじのオジサンがやってきたはずだ。お寺が代がわりしたのは何年か前のことで、年に二回、お盆とじーさんの祥月命日に、それまで若院(じゃくいん)さんと呼ばれていた日和さんが訪ねてくるようになった。
 あたしはこの日和さんと、以前にも会話したことがあった。ばーさんの口汚さに打ちのめされて、初夏の日の夕方、ぼんやりと水たまりをみつめていたのだ、しゃがんで頬杖をついて。そうしたら、うかうかとお坊さんが釣れた。スクーターのエンジン音が近づいてきて、目の前に真っ白な足袋が下ろされた。
「何してるの?」
 あたしは耻ずかしくて、にやけてしまいながら水面を指差した。
「アメンボ」
 アスファルトの凹みにできた水たまりには、本当にアメンボがいたのだ。
 日和さんはハンドルにぐっと法衣の胸を押しつけて、わざわざあたしの云うことに乗っかってくれた。
「このアメンボ、何所からきたんでしょうねえ」
「そうだねえ、やっぱり空、かな」
「ですよねえ…」
 あたしはなんだか、アメンボが恨めしかった。
刈谷(かるや)さんとこの子だよね」しばらくして、日和さんが問いかけた。「年に二回、会うよね」Vサインを、日和さんは示した。
 お経のおしまいに台所に立ってお茶を淹れ、おかしとお布施を揃えて差し出すだけのあたしを、よくも区別していたものだ。
「はあ…」
「刈谷さんちは古いクライアントだから、元々前住職が伺ってたけど」
「はあ…」
「今度お寺にあそびにおいで」
 本気にするほど世間知らずではない。これは社交辞令というものだ。机の下のコアラのマーチだ。担任の先生とメアドを交換して、いつでもメールしてきていいよ、と云われても、中三のあたしは先生というのはただの仕事だとわかっていて、学校のある日中はそんな時間はなかろうし、アフターまで面倒をかけては悪いとおもっていたから、一回もメールしなかった。式典や何かがある日には、職員室の先生の机の近くまで行けて、あたしは先生たちの机の下にはこっそりとおかしが貯えられているのを視て知っていた。生徒が制服のままおかしを一口でも食べたなら、すぐさまお節介な子に告げ口され、次の日にはクラスみんなの注視の中で立たされ叱りとばされるというのに。そんなヤバいものを、先生は机の下にかくしている。先生なんて、所詮仕事なのだ。それと同じように、お坊さんも仕事だろう。なので「いらっしゃい」と云われても、訪ねていかなかった。
 通夜ぶるまいの夜は、日和さんのスマートフォンに電話が入ったので、話はそれきりになった。「あらあら、坊守(ぼうもり)さんがさっさと帰ってこいって」
 日和さんは翌日のことを少し父と打ち合わせ、立ち去っていった。
 坊守さんというのは、真宗のお坊さんの奥さんのことだ。このひと、こんなにフニャフニャなのに奥さんがいるのか、とおもうと、あたしはやはりコアラのマーチを連想した。

 火葬場のロビーのソファに、あたしは一人で座っていた。日和さんがやってきて隣に腰を下ろし、哀しいかいと尋ねた。
「さあ…」とあたしは答えた。正直なところ、哀しくはなかった。
 何だか、これまでの日常のローテーションが停止して、ほっとしたくらいだった。ばーさんが入院した時点でもうダメだなとおもったし、毎日病室に通うのは苦痛で、いつしか病人が死ぬのを期待するような、早く答えが決してくれないか、それを祈るような心になってくるから、そのときがきたらうしろめたいくらい平気でいられた。そういうことを、正直に云った。
 そうかそうか、と日和さんは頷いて、お寺においで、と重ねて促した。「いつでもいいからね」
 はあはあ、とあたしは生返事をしていた。
 父がいなければ、あたしは本当に訪ねていかなかっただろう。父は死んだばーさんと生活するのをイヤがって、ずっと別居していたのだが、いよいよばーさんが危ないというときになってやってきて、あたしとばーさんの生計を支えていたアパートを取り上げてしまった。あたしは面喰らった。これまでアパートの帳面をつけたり何やかやしていたのはあたしだし、ばーさんがいなくなればあたしのものになるのが自明の理だとおもっていたのだ。けれどあたしは、何かしっくりこないものを抱えながらも、父と争ったりはしなかった。それだけの気力がなかった。
 定職もない二十九才の独身女が何を云ったって、誰が耳を貸してくれるだろう。
 それよりあたしにとって負担だったのは、折羽さんという女性だ。父の会社のひとだというだけで、何から何まで手伝ってくれた。伯母さんたちは冷たい目で眺めていたし、従兄のお嫁さんたちのひそひそ話もやまなかった。あたしが小さい頃に女房に遁げられて、それからずっとやもめでいたのだから、当たり前のことではあった。だが、何も娘といっていい年令のひとをつかまえなくてもいいのに。
 ばーさんの葬式がおわると、その日のうちに父共々腰をおちつけたのはおどろきだった。ばーさんのいるときには、顔を合わせるのがイヤさに、お昼まで布団にいたあたしは六時に叩き起こされ、折羽さんの作った朝食を食べることになった。父はダイニングテーブルにふんぞり返って、ニヤニヤしていた。水色ちゃん、洗濯物あったら出しなさいね。水色ちゃん、りんご剥いたけど。水色ちゃん、面白いテレビやってるよ。水色ちゃん、晩ご飯何にしよう。水色ちゃん、おかわりは? 水色ちゃん、ネイルケアしてあげよっか。水色ちゃん、お風呂どうぞ。水色ちゃん、もうおやすみ? 一日で音をあげた。いや今日はパチスロに行くんで、と折羽さんの「水色ちゃん」をかわしたら、折羽さんはきっとなって、ギャンブルはダメよ。父が帰ってくるなり夕飯のテーブルであたしを拘束し、父はあたしとは目を合わさないで、水色も夏休みはおわりだな。クーラーのかび臭い風が、父の薄くなった頭をなぶっていた。テレビの中のスタジアムでドアラが踊っていた。このひとたちは、何の資格があってあたしにケチをつけるのだろう。
 折羽さんがそっと、タウンワークをテーブルに置いた。
 あたしは十代の頃に色々あったので、ばーさんは同居している孫が登録制バイトくらいしかせずにいるのを云々したことはなかった。それに、前時代的なひとだから、女の子ならお手伝いさん代わりにうちのことをさせて、そのうち結婚させるのが正当だとおもっていたのだろう。あたしはあたしで、やりたいことは他にあったし、アパートやばーさんの世話をし、たまにパチスロで有り金を殖やしたりスッたりしてはコツコツとパソコンに向かっていた。しかし改まって父たちに自分のやりたいことを説明するには、それはあまりに途方もなさすぎて、あたしはとうとうろくに云い返すこともできなかった。
 仕方なく折羽さんに差し出されたタウンワークを開いてみると、どの求人も「元気で明るい」などと指定している。元気でもなく明るくもない人間はどうしたらいいのだろう。条件を検討していくと、どうしても「単発・稼ぎたいときに一日だけ・履歴書不要」におちつくのだが、それでは父と折羽さんはうんと云いそうにない。あたしは一晩布団に腹ばいになって求人広告を眺めたが、解決できないまま睡ってしまった。
 煩わしい何日かがあって、あたしはふと、日和さんのことを思い出した。助言など要らないが、ただ話をしてみたくなったのだ。耳を傾けてさえくれればよかった。
 ばーさんは抹香臭いことがキライだったし、あたしはお寺やお坊さんにロマンチシズムをかんじてはいても、信心というか、そういう境地にはとおかったから、まともにお寺の門をくぐったことがなかった。面接に行くと折羽さんをごまかして、その夏の日、門前町を通っていくと、白いネコがのっそりと境内をそぞろ歩いていた。あたしはしゃがみ込んだが、白ネコは庫裡の裏手にかくれてしまった。仕方なく、格子戸の開け放しになった玄関を入って声をかけた。現れた日和さんは法衣にたすきがけをしていて。
 足許にさっきの白ネコがまつわりついていた。鋭い目で、ちろりとあたしを睨んだ。
「やあ、きたね」
 日和さんはニコニコしている。あたしの視線に気づいて「これはね、袖がうっとうしいから」
「そりゃそうでしょうけど…」
「こちら、しょうゆさんです」
 日和さんはネコの腋に手を入れて抱え上げた。ベースは白ネコなのだが、あちこちに茶色の斑があって、確かにしょうゆをこぼしたようだった。
「今ちょっと坊守さんいなくて」
「はあ…」
 スニーカーを脱いだ。
 庫裡と云ったって、お坊さんの自宅なのだから、当たり前の住宅のはずなのに、個人宅というかんじがしなかった。玄関を上がってすぐに広間があって、そこは明らかに本堂のつづきの公共の空間で、閉ざされた空気がない。いつでも何人(だれ)でも上がり込めてしまえそうだ。
 あたしはきょろきょろし、しょうゆに注目したりしていたので、立ち止まった日和さんの背中にぶつかった。法衣は樟脳の匂いがした。「おっと」と云って日和さんは全く気にしたふうもなく、うねうねと尻をくねらせたしょうゆが胸の高さの窓にふわりとジャンプし、地面へ飛び降りていくのを見守っていた。
「ここがしょうゆの専用出入り口でね、あの漫画に出てくるやつ」
 あたしは「はあはあ」と相づちを打っていた。突き当たって右に折れると、そこは台所だった。
 日和さんはてきぱきと、冷茶とおかしをお盆に揃える。
「水色ちゃん、俺の部屋においで」
 何をされるのかと、ビクつくことはなかった。何せお坊さんなので。ただ、初対面とさしてかわらないあたしを自室に入れてくれるくらい、このひとは他人に無頓着なのかと、少し呆れた。
 机の上にトレス台と原稿用紙と、ペン立ての中のGペンと丸ペンと色とりどりのコピックと、スクリーントーンがあった。
「漫画家さん…なんですか?」
「あれ、知らなかった?」
 日和さんは机の椅子にかけて、意外そうに答えた。そして視せてくれたのは、しょうゆを主人公にしたエッセイ漫画だった。
「俺はまだアナログ作画なんだよね。お坊さんのネコ漫画って、有名なんだけど」
 全く知らなかった。
「漫画とか読まない?」
「いや…読みますけど…」
 日和さんはよくあるネコ漫画誌を手渡してくる。ふせんのところを開くと「大人気! お坊さんのネコ漫画」とキャッチコピーが打たれ「おしょうゆ日和」とタイトルがある。間室(まむろ)日和、と名前もある。エッセイ漫画らしく力の抜けたイラストで、法衣の作者も「坊守さん」も出てくる。先代の坊守さん、つまり日和さんのお母さんだ。
「うちは貧乏寺だからね、お寺だけの収入ではやっていけなくてね」
 マイナーな出版社とはいえ、コミックスになったものを取り出してきたから、むっとした。漫画にしろ文字にしろ、他に仕事を持ちながらやっているなんて、気に入らない。
「まあ、漫画のほうが住職になるより先なんだけどね。漫画の収入だけでもやっていけなくてね」
「ふーん…」
「あれ、冷たいなあ」
「それで、あたしは何をしたらいいんです? 消しゴムかけとか?」
「よくわかるねえ」
 あたしは日和さんのよこした消しゴムをキャッチした。
 折りたたみ式のテーブルに向かって、せっせと鉛筆の下画きを消していく。
「なんで法衣なんですか?」「お坊さんだから」日和さんは机で、あたしの回した原稿にベタを入れている。「そうじゃなくて…」「あはは、俺好きなんだよ、この格好していると、いかにもお坊さんってかんじで」「お坊さんであることに、コンプレックスでもあるんですか」「あはは、ちょっとね。俺、何ていうか箔がないでしょ」「箔ね…」「本当は法話会とかするといいんだろうけどね。でもクライアントのじいちゃんばあちゃんを前にすると、俺はちっぽけな一人の子供に過ぎないのさ」「今、いくつですか?」「三十二才」「へえ…」「水色ちゃんは?」「ノーコメントで」「あはははは」「その、あははははって笑うのやめたらいいんじゃないですか」「これかあ、これはね、性分だから」
「和尚さんは、どうしてお坊さんになったんですか」「あはは、日和でいいよ。うーん、俺は一人息子だし、うちは真宗だし、お寺に生まれてしまったから」「イヤだとか、反抗とかしなかったんですか」「したよ、でも俺文系だから、食卓をがっしゃーんとかはできなかったな」「古いですよ」「あはははは」「でも、それでもお坊さんになったんですね」「うん、これがまあ、俺らしさだから」
 会話をするのがナチュラルだった。その特異さに、しばらく気がつかないほどだった。あたしは、予め一生の仕事が決まっているなんて、哀しいことだろうかと、ぼんやり考えていた。それとも安直なことだろうか、うらやましいことだろうか。
「ここ、涼しいですね」おやつにもらった栗まんじゅうを食べながら、あたしはつぶやいた。
「うん、クーラーつけることほとんどないよ」
 軒先におちる日差しがうす翠色をしている。風などはないのに、ひんやりとした空気が室内に通ってきて、じっとしていても不快ではなかった。おしまいの原稿を日和さんに渡してしまうと、あたしはテーブルにうつ伏して手首に頭をのせた。「おやすみ、水色ちゃん」と日和さんがおかしそうに云ったのは覚えている。あたしは本当にうとうとしてしまったらしい。
 気づくとテーブルに真っ白な原稿用紙があって「クライアントのところにいってきます。」日和さんの子供っぽい字が目に入った。あたしは捨てられたような気がした。
 廊下をこちらへやってくる足音がする。居住まいを正して首を伸ばしていると、現れたのはえらく派手な格好をした女性だった。
「あんた、何?」と向こうもきょとんとして詰問した。「あれは? いないの?」
「えっと、檀家さんのところに…」
「ふーん」
 女性はあたしをじろじろと眺める。あたしも面を伏せつつ女性を盗み視る。生足の爪には真っ赤なペディキュア、バミューダパンツで、グリーンが基調のひらひらの衣服に、首にも手首にもじゃらじゃらとビーズのアクセサリをつけている。白い帽子のつばにサングラスをのっけて。胡乱そうな目つきの面立ちは、日和さんにそっくりだった。
「あの…ひ、和尚さんの、お姉さんですか?」
「そうよ町子、よろしくね」
 お姉さんは廊下に仁王立ちしたまま、あたしに右手を突き出した。
 這っていってその手を掴むと「ちょっと、あんた汗臭いよ、いかがわしい」「はあ…」叱られてしまった。
「あの破戒坊主と何やってたのさ」
「漫画の原稿を…」
「なんだ、つまんないの」
 あたしは畏れ入ってちぢこまる。「刈谷水色と申します」
「水色?」
「はあ、ただの水色です」
「刈谷さんって、この間おばあさんが亡くなった」
「あ、はい」
 それで、町子さんは了解したようだった。
「あのしょうもない漫画のアシやらされてたの?」
「はあ…」
「あんたも物好きだね」
「はあ…」
 町子さんは何をおもったのか
「ね、あんたあれと結婚しなよ」大股を開いた、いいしゃがみっぷりで、あたしの目を覘き込んだ。「うちの不肖の弟、ちっとは好きなんでしょ? じゃ結婚しちゃいなよ」
 あたしは訳もなくにやけて、視線を外すしかなかった。
 お姉さんは呆れて立ち上がった。「ま、いいけど」首と手首の大ぶりのビーズがちゃらちゃらと音を立てた。「とにかく、あんたお風呂入んなさい」
「え…いや、そんな」
「いいから」
 云うとおりにするしかなかった。
 湯舟につかっていると、脱衣所から町子さんの声がして
「水色! あたしのパンツ、ここに置いとくからね」
 あたしには兄弟がいないから、よくわからないが、でも姉がいたなら、こんなふうにあけすけで、日和さんもあんなフニャフニャになるよな、とちょっと得心がいった。
 見下ろす硝子色の水面に、結婚という文字が映っていた。ばーさんはよく云った。あんた、働けんなら結婚しなさいよ。
 お湯から上がると、用意されていたのは黒のレースに赤と青のアネモネの刺しゅうのパンティで。
「あれ、可哀い格好してるなあ」
 台所に顔を出すと日和さんが帰ってきていた。立ったまま麦茶を飲んで、こちらをじろじろと視る。あたしは牡丹色の作務衣の前をつくろった。
「この天気だし、夕方までに乾くでしょ」
 町子さんがあなうらで、床に転がったしょうゆをなでている。
 あたしはおずおずと、日和さんに近づいた。
「あの…お姉さん、いらっしゃったんですね」
「そうだよ?」
「一人息子って、云ってませんでした?」
「あー、あれはさ。男兄弟がいないっていう意味。女兄弟は、不肖の姉が一匹…」
 ホットパンツから伸びた脚が日和さんの脛を蹴った。
「町子さんは、その…何をなさっているひとですか?」
「ナース。──ちょっと、どういうリアクションよ」
「ほんとにナースなんだよ」と、うずくまった日和さんが口をそえた。
「それで…今日はオフですか?」
「昨日の午前中仕事して、京都に行って一泊して、今日は夕方からまた仕事」
「お寺めぐり、ですか?」
「ミュージカル」
 姉弟の声が揃った。
 そういうことらしい。
「あんたは? 水色、命賭けてることとかないの?」
「ない…です」と、あたしは答えた。そうとしか云えなかった。

 洗った洋服が乾くまで、町子さんがあそんでくれた。
 いつの間にか、日和さんがいなかった。夕方になり、お姉さんがお風呂に行ってしまうと、居ても立ってもいられず日和さんの部屋に戻った。
 一足早く日のかげった部屋でスタンドだけ点けて、日和さんは机に凭りかかっていた。どうしてだか、初めて男性なのだなとおもった。
 顔を上げ、一拍があって口角が凹み「もうこんな時間か」とひとりごちたときには、元通りの日和さんだった。
 どうしてあたしは、他のひとと同じになれないんだろうか。
 日和さんに交際相手がいると知ったのは、帰りの車の助手席でだった。
「んー、内海(うつみ)のほうのお寺の娘さんでね、そこの住職とうちの前住職がトモダチで、いい相手がみつからなかったらって…」
 机の下のコアラのマーチ。
 そんな話、どうしてあたしにするんだか。
 あたしは口をつぐんでいた。
 車を降りるとき、日和さんは運転席から「またおいで」とにっこりした。テールライトが小さくなった。
 玄関の虫よけの折戸を開けようとしたあたしは、食卓からひびく父と折羽さんの声に打たれる。あたしは何所にでも行けるのだ。ふっと気づいた。あたしは自由だ。自由な己を発見したら、涙がにじんだ。

 それから、日和さんにはもう一回だけ対面した。
 アスファルトの凹みから、水たまりが消えている。
 しゃがみこんでいたら、スクーターが間近で止まった。
「日射病にならないかなあ、大丈夫?」
「はあ」
「うちの不肖の姉のところに行ったんだってね。返すものがあるなら、俺が預かるのに」
 あたしは返事をしなかった。
「何か気にさわったことでも?」
「ちがいますよ、ただ…」
 束の間ためらってから、この間のこと、本当なんですか、と日和さんを詰った。
「こないだのって?」
「ほら、覚えてない…」
 日和さんは急に真面目な(かお)つきになった。あたしはうろたえた。そんなの反則だとおもった。だから、あたしは遁げてしまった。
 今、あたしは雪に閉ざされた村で、セメント工場のアパートで、日和さんからきた年賀状を視ている。セメント工場の仕事は、インターネットでみつけた。一人で考えて、一人で決めた。面接に行ったら、どうしてか採用されてしまった。父も折羽さんも、県外の、それもヘルメット着用の仕事だというので、いきなり力みすぎだと反対したが、あたしはゆずらなかった。とにかく家を出たかった。口では色々に(なだ)めすかしたが、二人とも今頃はもう気にしていないだろう。工場の仕事はきつい。でも、あたしは自由だった。
 働かなくてはいけない。アパートの家賃やガスや水道や電気やご飯を賄わなくては。休みの日にしか、パソコンに向かう気力なんてない。それはそれでいいじゃないかという気持ちが、今のあたしにはある。あたしにはスムーズに名を立てられるほどの天才がなかった。仕方がないじゃないかと。
 諦めることを覚えたのだ。
 ただ時折、誰かと話がしたいとかんじる。ありのままに打ち明けられるひとがいればいいのに。あたしは、そんなあてなどないようなふりをしている。だから、ばーさんの四十九日にも列席しなかった。
 どんちゃん騒ぎの声が大きくなった。うわっ寒、と臣生(しんき)さんの声がした。スポーツシューズをつっかけながら廊下に出てくる。
「あ」
「おめでとうございます」
 あたしは一礼した。
 臣生さんとはキスされてから、ろくに向き合ったことがない。
 何を云うだろう。上っ面は平気を装って身がまえていた。臣生さんは部屋のドアを再び開けて、刈谷(かるや)さん帰ってきましたよ! と叫んだ。わはは、と酔っぱらいの笑い声が上がった。土間を足で掻き回す音がして、よろよろと現れたのは、日和さんだった。
 声も出なかった。
 日和さんは法衣ではなくて、当たり前の男性みたいにパーカとジーンズと、そんな格好でニコニコしていた。おどろいたのか、会いたかったのか、ただ訳がわからないのか、あたしは殴ってやりたいくらいだった。
「いや、水色ちゃんに会いにきたんだけど、留守だったし、ドアの前に立ってたら、いっしょに飲みませんかって誘ってくれて」
「飲んでたんですか」
「お酒は飲んでないよ、ウーロン茶」
「そういう問題じゃないでしょ!」
 あたしはボロボロ泣いていた。どうして涙があふれてくるのか、理解できなかった。
「ていうか! お坊さんがお正月にうろついてていいんですか!」
「うん俺、今日中に帰んないといけないんだけど…」
「電車なくなりますよ!」
「うん」
「ほらほら、自転車貸してあげますから!」
 あたしはぞんざいに目をこすって、自分の部屋に駈け込み、積み上げたネコ漫画誌につまずき、テーブルに脛をぶつけ、やっと自転車のキーを掴むと、何だかこのまま、二度と外へは出て行きたくなかった。
 じれったくなるようなスローモーションで、日和さんは自転車に跨り、早く早くとせっつくあたしに合図した。
「水色ちゃん、はい」
「は?」
「乗って」
 あたしはよくわからないまま、日和さんにしがみついてしまう。
 アパートの前の坂道で、タバコを買って戻ってきた臣生さんが、白い歯をみせて手を振った。
「……なんで、あたしも乗るんですか」
「だって、ほら自転車、駅に置いとけないし」
「もっとマシなこと、云えないんですか」
「あはははは」
「あたし、別に日和さんには会いたくありませんでしたけどね」
「うれしいなあ」
「日和さん、本当に何してるんですか、元日にこんなところきちゃって」
「うん、あの年賀状、ちゃんと届いたかなあって考えたら、よし今から行っちゃおうって」
 国道を無数のヘッドライトが流れていく。あたしは日和さんの背中に額を押しつけた。ああ、ダメだ。こちらにはいけない。やっぱりダメなのだ。あたしがあたしでいられなくなる。
「俺、今年の夏に結婚するんだけど…」
 日和さんは云った。あたしの返答は決まっていた。

初出
無料配布本 2018年10月

ただの水色

ただの水色

「みいろちゃん?」 「うーんと、じゃあみしきちゃん?」 「みずいろってことないよね」 「え、みずいろちゃんなの?」 「そうです、ただの|水色《みずいろ》です」 ばーさんの葬式に、法衣以外にはお坊さんらしいところのない日和さんがやってきた。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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