追想の漣

 スチール缶臭いアルコールと、酸化した油が混ざったコンソメの残り香。遠くから漂うほのかに饐えた臭い。
 ひどい宿酔に目を覚ました私は顔を顰め、ベッドを這い出た。床に落ちた置き時計は昼の十時を指している。潰れたスチール缶とスナック菓子の滓が卓袱台に散乱していてひどくげんなりした。げんなりしていると、あ、課題。大学のレポートは明日までだったと焦燥に駆られ、朦朧とする意識でベッド横机上のラップトップを開き、白紙の新規ワードプロジェクトを凝と見つめた。
 もう駄目だな。と私は側頭部を掻いた。夜まで眠ろと振り返ると、ベッドに横たわった女。調子づいて酒を鯨飲、昨夜早々に眠りこけた下戸。この祭りが過ぎ去った朝を作り出した主犯。気づかなかった。日がよく当たるベッドの上で、頭の悪そうな色に染めた長髪を顔にしだれさせながら、女はうんうん嬌声をあげていた。気分が悪いのだろう、髪の隙間から覗く顔面はいつにも増して蒼白である。大きすぎるパーカーから白い脚が伸び、もじもじしていた。犯そうかな。いやさ、デニムのショートパンツを履いている。
「じゃ、別れた祝いだね」
 一昨日、日の落ちかけた講義棟で、私に失恋を話させた女は意気揚々と言い放った。何を不謹慎なと不満がる私は、実は嬉しかった。寝取られた元カノを思い出すごとに、膨らんだ想像への吐き気と胸を締め付けられる暗澹たる気分に圧し潰されそうだったからだ。死のうかなと思いながらも根が真面目な私は講義を受け、そしてそれが功を奏したようだ。六人くらいで店の後あんたのアパートで大人数でパーッと行こと女は言った。あれよあれよと居酒屋まで決められ、準備できたら電話する覚悟しな云々でひとまず女と別れた。私は嬉々として家路へついた。
 飲んでは眠り、起きては迎え酒。酒が足りぬと買い出しへ行く昼下がりの陽光に身を焼かれ、這う這うの体で帰宅したら駆けつけ一杯。そんな狂宴が二日続いた。友人たちは最初こそ私を優しく慰め、労わってくれたが、酒が入ればなんのその。次だ、忘れろ、飲めや飲めやの大合唱。悪酔いに泥酔、文字通り吐瀉物で泥のようになった。
 二日目の深夜、喧騒遠のく意識の中で、私はこんな日々が永遠であれば良いと思った。今思えば捨て鉢であったのかもしれないが、しかし酒を飲んで酔っていれば厭なことは忘れていられる。嗚呼、忌まわしき元カノ。そこで意識は途絶えた。
 それで今日。あれほど騒いでいた友人たちは、女だけを残して皆帰っていた。流石にほったらかしはまずいと思ったのか、菓子の袋だけが申し訳程度にゴミ袋へ詰められている。浅ましい親切に苛々し、フローリングの所々が曇っていて、チューハイがこぼれたんだろうと推理する私は名探偵。やはり酔いが抜けていないあっはっはと笑うと、途端に饐えた臭いが鼻腔をついた。吐き気をもよおし、ユニットバスへ駆け、ガラス戸を引く。一層強くなった臭気に厭な直感が働くが時既に遅し。私は便器の中で浮かぶ先客に後客をぶちまけた。誰のものだったのか。いやどうでもよい。最悪である。流れる水の音を背に部屋へ戻る途中、そうだ、海行こうと思った。
 女など知らぬ。宿酔、いや三日酔いは私も含め、己の管理が至らぬ証左。そして奴は眠っている。夕刻まで目は覚まさぬだろう。それにショートパンツを履いている。あの面倒な。
 ロングピースと財布を手に、私は玄関扉を開け放った。
 私の住む大学近くの町は、あまり良い所ではない。しかし、治安が悪いといえばそうでもなく、不便な土地かと言われればギリギリ徒歩圏内に駅があって、要するに半端な町である。半端な町はつまり田舎である。しかも自然の悪い所と、街の悪い所を足して割ったような悪性の。娯楽施設はカラオケやダーツが併設されたネットカフェが一軒と、行ったことの無い雀荘。チェーンの牛丼屋とラーメン屋が一軒ずつ、食堂が数件。あとは居酒屋が何件かあって、その他は住宅やアパート。そこを更に外れて海へ向かう、打ち捨てられてどんよりとした線路沿いの道で私は元カノの銀チャリを漕いでいた。
 町で唯一誇れる海チカは、徒歩以外の足があってこそ。それでも自転車で三十分はかかる。移動手段を持たなかった私はこれ幸いと、別れた女が置いて行った自転車を有効に活用していた。
 元カノの銀チャリはキィキィとやかましく騒ぎ立てた。右ペダルを踏み込むとキィ。うんともすんとも言わぬ左の後にキィ。金属が擦れるような音がキィキィ一定の間隔で鳴く。キィキィキィキィ。私との行為ではついぞなくことはなかったのに。それは私が下手くそということか。しかし間男ではなくあああ。と気がふれる前に、そうだ、コンビニで缶ハイボール買おうと思った。
 高架を抜けてすぐの、青地に牛乳瓶が描かれたコンビニへ入った。やる気の無い店員の声を尻目に、私は一番奥にある酒・アルコールコーナーへと向かう。きりりと冷えたハイボールの缶を片手に、宿酔などどこ吹く風。我ながら酒に強いなと思った。颯爽とレジを抜けると、やる気を出すためのやる気すら厭う店員の声を背に、自動扉を抜け、元カノの銀チャリに跨った。海まであと半分。キィキィと鳴き出した自転車に聞いたことの無い元カノのなきごえを想像しあああ。
 いい加減鳴き声にも慣れてきた私は、黒々とした長屋のような木造家屋群に至った。普通車一台がやっと通れる細い道を挟んで、家と家がひしめき合っている。漁師の家なのだろうか。隔絶された雰囲気というか、違う時代へ来たというか、そこは潮の匂いの混じる異質な空間であった。長い時間を海と生き、潮風にさらされるとこのような黒い色に変色するのだろうか。いずれにせよ趣深いものである。
 厳粛な気持ちでペダルを漕いでいると、前方遠くに背の高い人物がかくかくしていた。あ、挨拶しなきゃ。と思った反面、不自然な挙動に違和感を覚えた。近づくにつれて、だんだんと男の姿がはっきりし、私は戦慄した。
 虎刈りに青のラインが入った灰色のジャージ姿の男は、誰もいない四方へ挨拶をしていた。コンニチワコンニチワと、壁、道路、壁、道路と順番に腰から深々とお辞儀をしている。あ、これやばい人だと直感した時にはもう遅い、男と目が合った。黒々とした瞳は白目を失していた。お辞儀を途中でやめた格好で首だけをこちらに向け、その黒い瞳を一心に私へ注いでいた。
 長屋に閉じこめられた道は当然裏路地など無い。男と会う事は必然、さもなければ引き返すか。否、背を向けたら最後。追いかけられ捕らえられ、私は一生誰もいない虚空へ向かって挨拶を続けることとなる。ならば。
 私は速度を保ったまま男へ近づいた。男は凝と私の顔を見ている。脇に厭な汗をかきながら、私も男の顔を凝と見返す。男の手が届く距離に至った刹那、私は爽やかな笑顔で、
「こんにちは」
 と大きな声を発した。挨拶は大切。気持ちの良い挨拶は平和を生むといういつぞやの恩師の言葉を思い出したからだ。男は少しビクッと首を竦めると、コンニチハと壁に向かって言うトーンと同じ声調で挨拶を返してきた。私は壁と同類なのか。
 挨拶が済むと緊張は解かれ、その瞬間お互いはそれぞれの日常へと帰る。何か落としましたよと声をかけぬ限り、すれ違った人間を振り返ることは稀だ。その道理に従って背を相手に見せたとき、私はしまったと思った。彼は道理の通じる相手なのだろうか。キィキィと鳴く音が早くなる。後をつけて来ているのではないか。後ろに彼がいるのではないか。長屋の継ぎ目、海へ繋がる裏路地へ至った時、私は恐る恐る後ろを振り返った。
「コンニチワ」
 彼は自転車の荷台に座っていた。
 そんなこともあって、ようやく私はひとり海へ着いた。
 波が白く泡立ちながら、ベージュの砂浜を撫ぜる。浜辺を持っていかんと陸へ上がる大きな波音に畏怖を感じ身を竦め、途端諦めたかのように消えゆく波音に解放を感じる。かと思うと、もう一度大きな波音。絶え間なく繰り返される緩急にいつしか安寧を感じ始めた私は、前かごからレジ袋をとり出し、自転車を乗り捨てた。細い河口を挟み海へせり出す、石畳の防波堤の突端まで歩き、腰を下ろす。視界全てが海になって、沖で浮いているようで、わくわくと無邪気な心持。左斜めすぐ後ろでは波の音が響いている。
 ガサガサと喧しいレジ袋から、少し重たい缶を取り出す。冷たく濡れた円筒を持ってプルタブを引くと、クシッという解放音が響く。勢い私はそれを呷った。チラチラと冷たい炭酸が口腔を刺激し、木樽の薄く香るアルコールが鼻を抜けた。ボーっと海を眺めていると穏やかな潮風が頬をそよいだ。
 火をつけたロングピースを咥えながら、あの女は帰ったのだろうかと考えた。オーバーサイズや変わったデザインの衣服をよく着ている。鼻筋の通った色白の顔。目元にぼんやりとしたチークが映え、耳元は銀色がジャラジャラと。虚勢をはったり、調子づいたり、そのくせ直ぐに毀れそうな華奢さ。
 帰ってまだ眠っていたらご飯でも誘おう。とそう思った。

追想の漣

追想の漣

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-22

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