偏狭な鶯鳴

 鶯の鳴き声が変だなと思った。庭の草を刈っている時だった。
 私の記憶が正しければ、「ホーホケキョ」と鳴いていたはずである。強い自己顕示を示すかのような彼らの鳴き声は、ほかの鳥たちの鳴き声を有象無象へと変容させるほどよく目立っていたので間違いない。しかし最近の彼らは、もっぱら「ホーホケキョキャ」であったり、「ホーホケキョヒ」であったり、龍頭蛇尾、最後の詰めが甘い気がして、聞かされているこちらの身にもなれとむず痒いばかりである。
 慣れない鎌を使いながら、鳴き声の練習中であるのかと思った。教えられたその瞬間、一朝一夕に完璧にこなすという人間はそうそういない。一で十を理解できる人間はごくまれにいるが、そんな者であっても何かしらの事に鍛錬している。スポーツにせよ、楽器にせよ、長い長い年月を重ねてやっと人並みという者が大半であるから、鳴き声一つにとってみても同じことであると言えよう。
 放り投げた鎌を尻目に軍手で草を引き抜き、言葉の変化だろうかと思った。我々の言葉は時代によって目まぐるしく変化する。次々に新しい言葉が生み出され、そして瞬く間に死語と化す。歴史学者の教えるところによると、奈良時代の人間とは会話すらままならないらしい。親から子、子から孫へ言葉が伝わる際のニュアンスの微妙な変化、また世代それぞれの環境の違いによって言葉が変化していく現象が鶯たちにも起こっているのではないか。
 心地の良い達成感から裏庭を思い出して落胆したとき、山という閉鎖環境も関係しているのだろうかと思った。閉じられた狭い世界の常識は、もっと広い世界の常識とは異なる独特の文化となりやすい。狭い世界において影響力のある人物が、良しと言ったことがその世界の常識となり、得てしてそれは広い世界の人間に特異に映る。閉じた世界の正しさは、閉じた世界を閉ざさせた世界の正しさから置いて行かれやすいのである。
 結句私の、ヒトの主観を通して感じたことであるから、彼らトリの常識とはかけ離れた考えなのだろう。こと人間に関しても家族、所属する社会、そして国ごとによって全く異なる常識が繰り広げられているのだから、種族の違う彼らと私の常識を照らし合わせるのは見当違いはなはだしい。
 綺麗に雑草が刈り取られた庭はオオバコやヨモギで美しく映えていた。

偏狭な鶯鳴

偏狭な鶯鳴

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-21

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