日記 2021.4.19

 今日は病院の日でした。
 このところはよく眠れています。先週、先生に処方してもらったエスタゾラムという、長めに効く睡眠薬のおかげでしょうか。中途覚醒は相変わらずしますが、へんな夢だったり、こわい夢はあまりみなくなったようになった気がします。それか、あるいはそういう夢をみても、お薬のおかげで忘れてしまうのか、いずれにせよ、目がさめてベッドの上で泣くようなことはなくなりました。ずっと続けばいいな、とは思いますが、先生は、
「いずれはお薬の量を減らしていきましょう」
と言っていました。もちろん先生の言った意味はわかりますし、何もお薬を飲まずに眠れるのなら…とはおもうのですが、いまはお薬を飲み続けてずっとこの状態が続けば、と思っています。いまはいまで眠ることができてしあわせなのに、いつかお薬をやめるときが来てしまうのがこわかったり、と、複雑な気持ちです。
 待合室では文芸雑誌を読んで待っていました。僕がそのとき読んでいた短編はセックスのはなしばかりで、そう、なの…、とよくわかりませんでしたが、ずっと昔から読み込んでいた僕のすきな作家さんの小説の
「僕は、セックスだって知らないまま、死ぬんだ」
というせりふを思い出しました。その言葉に、その小説なかの主人公である姉は
「セックスって、そんな特別扱いするべきものじゃないわ。生活の一部、繰り返しの一部よ」
と答えていました。だから僕はセックスという行為も、ほかの生活の描写のように純粋に、そして素朴に描かれるべきものなのかな、とおもいました。
 十五分くらいでしょうか、僕が診療室へ呼ばれました。
 診療室に入ると、先生はいつものように
「どうでしたか、その後は」
と聞きました。
「実はきょう、先生への手紙を書いて持ってきていて…、長くなっちゃったんですけど、読んでくれますか」
「だいじょうぶです、時間はたくさんありますので」
 手紙、とよぶのかどうかわからないけれども、調子が悪かったときにその病状を書いた七ページのレポートパッドを、僕は先生に渡しました。その内容は長すぎるのでここには書けませんが、自殺をしようとしたこと、夜の希死念慮、自傷と、自傷の強迫観念についてかいたレポートを先生は、うん、うん、と頷きながら読みました。
「ロープをもってるの?」
「はい、去年の夏頃に自殺しようとしたときに買って、いまでも部屋の中にあります」
 先生に「それは捨てたほうがいいよ」と言われるかと思いましたが、先生は「そっか…」と言うだけでした。先生はやさしい、というか、もちろんやさしいのはあるのだけれども、僕が自分のつらさだったり、自殺企図について話すのがくるしいのだとわかっていたと思うので、深追いすることはありませんでした。そして先生は次のページをめくりました。
「どうして死にたいとおもうのかな?」
先生はけっして問い詰めるのではなく、ふんわりと僕にそう聞きました。
「どうして…」
 僕にもわかりません。
「よくわからないです。でも、そういう気持ちって、不自然なものじゃなくてなんていうか、どうして?ってきかれるほど不自然なものじゃなくて…」
「そうだね、お腹が空いたー、っていうのと同じかんじの、自然な感情なのかな」
 僕は大きくうなずきました。先生も、マスクをしていたけれども微笑んでいるのがわかって、うなずきました。そのまま、僕が書いた手紙をぜんぶ読んで、先生は入院の話をはじめました。けれども僕は足を骨折したときに入院したことがあって、入院だけはどうしてもいやです、と言いました。
「実は、たとえばきょうなんかは調子が良くて、僕はずっと前から調子がいいようなふうにおもっていたのですが、朝目がさめて机の上に、いなくなりたい、とか、きえたい、みたいな文章…、いま先生に渡した文章が置いてあってびっくりするんです。なにかを書いたことは覚えているんですけど、なにを書いたかは覚えてなくて。だから今日みたいに調子が良くて楽な日にどうして精神科に受診しなきゃいけないのかなとか思いますし、その手紙は決して嘘を書いたわけではないとおもうんですけど、本当に自分が書いたかどうかわからないから、先生にその手紙を渡すのに勇気がいりました」
「まずは、ありがとうね、手紙を書いてくれて。いまみたいに斉藤くんの調子がいいときと、希死念慮のある調子が悪いときっていうのは、はっきりとは別れていないんだと思う。グラデーションのようなのだとおもう。斉藤くんはなにかつらくて、くるしいことを無意識のうちにこころの奥へ押さえ込んでしまうみたい。だからその分が、いきなりどんと飛び出して、自殺企図とか、わるい方向へ急にいってしまうのかな。だからもちろん医者としてもだけど、ひとりのひととして心配なんです。私は平日の昼間ならいるけれど、夜に、斉藤くんがそういうわるい気持ちになってしまったらいけないから、だから入院という手もあるんだよ、って言いたかった」
「わかりました…、どう、すれば、いいですか」
「…どう、っていうのは? 入院のこと?」
「はい」
「そうだねえ…でもさっきも言ったけど平日の昼間ならいるとおもうから、そのときは電話して」
「わかりました。ありがとうございます」
 そのあとはお薬のお話をしました。先週と同じお薬にしときますね、と先生は言って、処方箋をもらい、僕は病室を出ました。
 今夜も自傷をしました。お酒を飲みましたが、それでもとても、とても痛くて、それでもカッターは左腕を走り続けます。やっぱり自分の意思ではないように感じます。僕のこころのなかにもうひとりの、自分ではない自分がいて、彼に操られるように、カッターを持った右腕に力が入りました。
 昨日は斜めに切ったので、今夜はまっすぐに、横に切りました。昨日の、そして一昨日の傷がまだ治っていなかったので、その傷の上から切ることになって、たくさん血が湧き出ました。僕は右手の流れるままに何本か左腕を切りますが、そのあと「まだ、まだだ」という思いがして、その並んだ傷の間をさらに切りつけます。だからカッターには血がつきます。それに気がつくのは血を拭った後なので、もう赤黒いそれは刃から拭いとれません。そうして、だんだんとカッターの刃は黒く染まります。
 左腕の血をティッシュでぬぐいながら、僕は後悔します。どうして切らなければならなかったのかと考えます。けれどももう、そんなことを考えたって、傷が治るわけでもないですし、どんどんと左腕の傷がひりひりと痛くなってゆく気がします。ただ僕にできることは血を拭うことです。
 他の人がどれほど深く自傷するのかは知りませんが、僕の場合は自傷をして、血が止まるまで二十分ほどかかります。そのあいだ、ティッシュでぺたぺた、ごしごしと拭っているあいだ、いろいろなことを思います。親も、お友だちも、そして先生も、みんなやさしくて、僕はやさしいひとに囲まれて、やさしくされているのに、想われているのに、どうして自傷をするのか、こころを病んでしまったのか、この世からいなくなろうとしているのか、ぜんぜんわかりません。もう、いっそのことみんなから嫌われて、はやく死んでしまえばいいと思われたりすればこんなにもくるしいことはないのに。こんなにもしあわせだから、僕はもっと悲しいです。
 けれどもどうしようもなく僕はみんなを愛しているし、きっと、たぶん、愛されているから、僕がいなくなったら悲しませてしまうのかなと、思わず目をつむってしまいます。そのことがなによりもつらいです。

日記 2021.4.19

日記 2021.4.19

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-19

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