教室で魚が死ぬ
百合子は、特別かわいいわけではない。
百合子は、化粧っ気がないし、目のかたちも左右で違う。右目がいまにもほつれそうな二重で、左目が奥二重だ。眉毛の手入れはまったくされていなくて、生まれたままうすい細い眉をしている。睫毛もあまり長くなくて、唇には色がないし、なにを考えているかわからない。背は低い。レースのついた服をいつも着ている。ぱっちり化粧を施した女の子の隣にいると、百合子のぱっとしなさがよくわかる。からだも貧相だ。
それでも百合子は、目についたときはいつでも、必ず誰かに囲われていて、その誰かの視線は決まって、百合子に釘付けになっている。男子にも女子にも人気だが、恋人はいない。百合子が笑うと、周囲は花が咲いたようになる。そこにさっきの可愛い女の子がいたとして、場を支配するのはいつだって百合子のほうである。思うに、百合子はほとんど、赤子なのだ。百合子がはしゃぐとみんなが微笑み、奇想天外な行動をしても、許される。飼っている金魚を彼女の不手際で殺してしまったときも、誰も咎める人はいなかったし、百合子が泣けば、どうしたのなにが悲しいのって、よってたかられて、ほんとうに産まれたての赤ん坊だ、彼女は。その証拠に、百合子の頬はもちもちとしてやわらかい。そして、彼女の肌には、毛穴ひとつないのである。
それが、僕がこの学校に転校してきてから、川上百合子についてわかったことのすべてである。これがすべてということは当然、僕と百合子は仲良しではない。喋ったことすらない。いつも誰かしらに囲まれている百合子は、転校生の僕には高嶺の花的存在として映ったりさえするのである。もっと言えば、僕は百合子が嫌いだった。教室の金魚の世話を主にしていたのは、僕だったのだ。ああ、ハチ太、あんな女に殺されてしまって、かわいそうに。まだまだこれからだったのに。唯一の親友に手をかけた百合子を、僕は、恨まずにはいられない。故意ではないからと周りは言ったし、百合子もさも不慮の事故を悲しむかのようにきれいに涙をこぼしたけれど、僕には、誰もいない教室でひとりほくそ笑む、そんな百合子の姿が見えるようだった。ようするに僕は、ほんとうに川上百合子のことが嫌いなのである。
バイバイ、とクラスメイトたちが言い合うなかでひとり俯いているのには、もう慣れた。ひたすら上履きどうしを擦り合わせながら、教室から誰もいなくなるのを待つ。この学校は服装は自由なのに、上履きは指定なんて、ありえない、と百合子がこぼしていたことを思い出した。僕はそれを、教室の掃除をしながら聞いたはずだ。じゃあまた明日ね、と最後の集団が解散して、そのなかには百合子の声も含まれていた。僕はひとりになった教室で、息を吐いた。
顔を上げると、陽は沈みかけて、教室は闇に呑まれる前のようだった。僕の席は窓側の一番端だから、夕陽が眩しくて、席を立った。
金魚のハチ太が泳いでいた水槽では、もうほかの魚が泳いでいる。金魚ではなく、メダカ。メダカのほうがかわいい、百合子がそう言ったからだ。小さい尾鰭をぱたぱたと動かして、浮かんだり沈んだりする。ときどき石にぶつかる。白だったりオレンジだったり、鱗が橙色の光を受けてきらりと光るのは、綺麗だと思った、ハチ太ほどではないにしても。内臓であるだろう場所が丸見えだったり、水面にわずかに残った餌を情けなくも、ぱくぱくと啄むようにしていたり、どこか哀れっぽいのに、当の本人(魚)は平然と澄まして泳いでいて、すこし恨めしくもある。メダカたちが悠々と泳ぐ様子は、ボブカットの黒髪をはらはらと揺らしながら歩く百合子を思わせて、それがさらに僕を不快にさせた。百合子はきっと、メダカたちのこういう姿が好きなんだろうと思った。僕が嫌いだからだ。僕が嫌いなものは百合子が好き、逆もまた然り、と僕は勝手に思っている。百合子が、どうあっても、嫌いだからだ。
教室に残ったことに特に意味はなかった。誰もいない道をひとりで帰ることさえできればよかったのだ。スクールバッグが肩に食い込んで、痛い、これも百合子が嫌う学校指定のもののひとつだ。百合子が忌み嫌うものをきっちり、丁寧に使うこと、これが僕なりの彼女への叛逆だった。そのせいでクラスで浮いたことは言うまでもなく、ただ、百合子への嫌悪感が友達のいない虚しさに勝ってしまうほどだったのだから、仕方がなかった。ひとりで歩く。廊下には、僕の足音しか響かない。百合子が歩いている廊下と、僕のそれとは、まるで別物なんだろう、と思った。虚しくはなかった。すべて百合子のせいだからだ。
「大変! 大変! ユリちゃん、ねえ、ちょっと、ユリちゃん見なかった? 見てない? まだ体育館にいるのかなあ、ね、見てない? ユリちゃん。ね、見つけたら教えてね、もう、どこにいるんだろ、大変なのに!」
体育が終わって、教室に戻っているところだった。ぼうっと歩いていた僕の横を、ひとりの女子がものすごい勢いで駆けていく。彼女は僕に話しかけたのだろうか。返事をしようと口を開いた時には、彼女はもういなかった。ツインテールの揺れる毛先と、大変! という叫びだけが廊下に残って、そういえば彼女は百合子とよく一緒にいる子だ、と言うこと以外、僕にはなにもわからなかった。友達にわざわざユリちゃんと呼ばせるなんて、趣味が悪い、と空いた頭の隙間を埋めるように、百合子を詰る。これはもうほとんど、趣味みたいなものだった。これがないと、趣味が悪いのはどっちだ、とか、自虐の方向に走るから、困る。
大変なことってなんだろう、とかは、あまり気にならなかった。百合子の友達であるツインテールの彼女は、些細なことでもすぐに騒ぎ立てるから、さっきみたいな出来事は、ほとんど日常茶飯事だったのだ。
大したことは起きていないだろう、という僕の予感は、大方当たった。大方、というのは、僕からしたら大したことはなかったけれど、百合子にしてみれば大いに大したことであった、だから判断に悩む、の大方である。
百合子は泣いた。その、大変、の内容を聞いた瞬間、膝から崩れ落ちたし、うずくまって声を上げることも厭わなかった。僕は、百合子のこんな姿を、はじめて見た。クラスメイトもみんな、唖然としていた。それでも構わず、百合子は泣いた。自慢の淡いレースのついたワンピースを、憎むべき学校指定の上履きで踏んづけて、それでも百合子は泣いていた。百合子が顔を上げたとき、そのやわらかな頬に真っ黒い髪が張りつき、けして長くはない睫毛を水滴が伝って、僕はそんな百合子が、ほかの誰より、哀れに思えた。僕は百合子が嫌いなはずで、こんなことを思ってはいけないとすぐに思った。だから俯いて、いつもの生意気な、無邪気な、それでいて近寄り難い、百合子を頭に浮かべた。僕が思い浮かべる百合子はずっと、笑っている、そのことに気がついて、僕はますます深く首を垂れた。嫌いなのに、泣いてほしくないなんて、馬鹿みたいだと思った。百合子が嫌いなことには変わりがないのに、と思う。むしろ、嫌いであるからこそ、僕は百合子の泣くところを嫌に思うのだろうか、百合子が閊えるように嗚咽するたび、僕のほうが吐きそうになる。百合子が泣いている間、僕は馬鹿だ、と空いた頭で自虐を繰り返した。
ロッカーの上の水槽では、メダカたちが相変わらず、悠々と泳いでいる。昼間の日光を浴びて水面はきらめき、鱗が視界をちらつき、僕はそれをいっそうきれいだと思う。そのどれか一匹と、目があったような気がした。真っ黒な目と視線がかち合う。百合子の髪の色に似ている、と思ったのは一瞬だった。その真っ黒な目から吸い取られるようにして、僕の視線はメダカに釘づけになった。いつか放課後に見たものと、同じ、魚のはずなのに、メダカはあまりにも美しかった。百合子に似ている、と思った。金魚の名前も、とっさには思い出せなかった。
そうか、と気がついた。これは百合子だ。僕が見ていた百合子は、メダカだったのだ。百合子はいつだって、こういうふうだった。百合子は泣かない。百合子は自分の着たい服をきっちり着る。上履きでそれを踏んだりなんてしない。百合子は金魚を殺した。百合子は常に誰かに囲われている。メダカが群れをなして泳いでいる。百合子だ。百合子は泣かない。百合子が嫌いだ。百合子は僕が、嫌うに値する人間だ。百合子は笑っている。メダカは鰭を醜くばたつかせたりはしない。
僕はメダカの水槽ばかりを見ていた。百合子の泣き声も、遠くなっていくようだった。僕は群れで泳ぐメダカを見て、きれいだと思ったはずだ。百合子もきれいだった。だから僕はメダカが嫌いだった。百合子が嫌いだった。ひぐ、あ、うう、ときどき誰かの嗚咽が聞こえる。
気がつけば教室には、誰もいなかった。体育のあとは移動教室だったのだ、と思い出したけれど、どこか別の世界のことをいっているようで、すぐにどうでもよくなった。僕の足元には、惨めたらしく啜り泣く女子が、まだいた。陽の光を浴びて、彼女の髪が茶色にひかる。彼女はひとりだった。
彼女は顔をあげて、僕を見た。涙がきらりとひかった。それよりも、胸元の名札を目に入れずにはいられなくて、僕は目を逸らした。彼女が川上百合子だということは、どうしようもなく事実だった。
百合子は僕をじっと見つめたままでいた。「どうして」百合子が言った。彼女の声を聞くのは、そうじゃないはずなのに、はじめてである気がした。どうして。僕がひとり、教室に残っていることを言っているのだろう。僕が答えないでいると、百合子は僕の隣に立った。僕の視線の先を追って、水槽にたどり着く。百合子はうすい唇を開いた。「あたし、ほんとは、メダカって嫌い」
僕は百合子の目をまじまじと見た。
メダカを見ると、さっき目があったメダカが、苦しそうに浮かびあがるところだった。上に下に、メダカは泳ぐ。もうすぐ死ぬのだろうか。鰭をばたばたと動かす様は、あまりにも惨めだった。とうとうメダカは、完全に沈んだ。鰭はぴくりとも動かなくなり、きらめいていた鱗は死に、目は濁り、それなのに、ほかのメダカはまだ動いている。なにより美しいはずだった、一匹のメダカだけが死んだ。その事実は、僕の心を急速に冷えさせた。
死んだね、と百合子が言う。「僕も、メダカは嫌いなんだ」僕が言うと、百合子はかなしそうな顔をした。「金魚、可愛がってたもんね。ごめんね」それから百合子は、ちょっと微笑んだ。
「あたしたち、気合うかもね、意外と」
「そうかな」
どうでもよかったから、そう言うほかなかった。僕が嫌いな百合子はもういないのだと、死んだメダカを見ながら思った。そもそも、僕が見ていた百合子など、ほんとうは存在しなかったのかもしれない。そう思わせるほど、メダカにかつてのきらめきの面影はなかった。
僕と百合子は、背を並べて帰った。無断での早退だったけれど、それもどうでもよかった。今日、好きなアイドルが結婚したの、と百合子は言った。
教室で魚が死ぬ