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始業式

「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らは我が聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」(『イザヤ書』 第11章 第6節-9節)
 
 
 
第1章
 
 駅のトイレでネクタイを整え、クリーニングしたばかりのブレザーを身に纏い、武蔵は入り組んだ人波に向けて一歩を繰り出す。駅では、武蔵を含めた高校生の存在がひときわ目立つ。彼らの甲高い声は、駅のホームをいつも以上にざわつかせる。急に溢れかえった高校生に、少しいらだちを覚えているようなサラリーマンがちらほら。武蔵は、JR東海道山陽本線京都行き各停電車の比較的人込みの少ない先頭車両に乗り込む。乗車時間はそれほど長くないので、電車通学を不快に感じたことはあまりない。約十分の乗車時間を経て、西宮駅で降りる。駅から学校までも徒歩およそ十分である。
 少し通学するのが早かったのか、武蔵は学校へ到着するまでたった一人の友人とも遭遇しなかった。校舎の中へ入ると、武蔵は一人で新二年生の新たな階に向かい、エレベーターホールに掲げられたクラス名簿の紙を見に行く。
「二年六組 二番 有馬武蔵」
 自分の名前があるのを確認し、新たなクラスメイトの名前をじっくりと眺め、早々と二年六組へと向かう。武蔵の高校では、二年生から文系と理系に分かれる。理系は一組から四組。文系は五組から九組だった。高校の偏差値は中の上といったところだ。理系の生徒がそれなりに多いのが特徴だ。
 教室には、まばらに人がいた。友達同士で登校し、たまたま同じクラスだった女子生徒二人が興奮に駆られて、周りも気にせずに騒いでいた。それ以外に音らしい音はなかった。まだ朝は八時ちょうど。これから続々と新たなクラスメイトと顔を合わせることになる。武蔵は教室の一番左の列、前から二番目の座席に座って、彼らを待ち構える。武蔵は先ほど名簿を見た時に、いくつかの名前を覚えていた。去年同じクラスで仲の良かった斎藤伸二。武蔵と同じく硬式テニス部に所属している藤田裕樹。そして去年、武蔵のクラスの委員長を務めていた牧野(さとる)(さとる)。それ以外にも知った顔が何人かいた。
 武蔵はただぼんやりと教室を眺めていた。他にすることがなかったのだ。美しく磨きがかかった真緑の黒板、何の意味があるのか分からないでこぼことした天井、まだ何も貼られていない掲示板に残るいくつかの画鋲の跡。これから自らの生活の場となる教室の真新しい光景を目に馴染ませていった。
「おーい、武蔵。久しぶりだな」
 後ろから聞き覚えのある声が呼んでいる。友の伸二だ。
「伸二か。また同じクラスなれて良かった」
「ほんとだぜ。見たところあんま知ってる人いなかったからお前がいてよかった」
 伸二の登場は、武蔵の落ち着かない気持ちを和らげた。武蔵と伸二は、春休みに起こったことや、このクラスのメンバーについての話をしていた。途中で、藤田も到着して三人の小さなコミュニティができた。伸二と藤田はあまり面識がなかったそうだが、すぐに打ち解けることができた。新学期のアナーキー状態において、早いうちからコミュニティを形成できることは新たな戦場を生き抜く上で欠かせぬことであった。
 そうしているうちに、クラスのメンバーはほとんど揃っていた。八時二十分、担任の岡林先生が前の扉から勢いよく入ってきた。岡林真紀子。およそ三十代前半の女性の国語教員だ。この学校は今年で五年目になる。まだ若いが、意志が固く、生徒に有無を言わせぬ鋭い視線と、はきはきとし、無駄のない喋り口調で生徒から一定の尊敬を置かれている。彼女の特徴的なエピソードがある。一年五組の担任であった岡林先生は(武蔵は一年四組で隣のクラスだった)、入学したばかりでまだ浮ついている小うるさい生徒に喝を入れるためブチぎれたことがあった。それが岡林先生の初めて怒った瞬間だった。鬼の形相で教卓を思い切り叩き、凄まじい音が響いた(その音は、隣で数学の授業をしていた武蔵のクラスにまで聞こえたほどだった)。すると、教卓を叩いた勢いで、入り口のそばに置いてあった傘立てが倒れたのだった。プラスチックでできた比較的軽い素材であり、その日、傘は一本も刺さっていなかったので、傘立ての倒れる条件としては好条件だったのだが、それにしても数メートル先に衝撃を飛ばし、物体に影響を及ぼした岡林先生に生徒たちは度肝を抜かれた。それ以降、岡林先生はやんちゃな男子からも恐れられる存在となった。
「はーい、みんな席につけー! 点呼とるぞ」
 先生の掛け声でクラスの緊張感はさらに増した。
「一番、浅井一真」
「はい」
「二番、有馬武蔵」
「はい」
 こうしてクラスの点呼が始まった。武蔵にとってはクラスメイトを再確認する貴重な機会だった。いつも呼ばれるのが早い武蔵は早々に名前を呼ばれる緊張感から解放され、じっくりとその面子を確認していった。
「十番、加藤(あべる)
「はい」
 ん、あべる? 武蔵が今まで聞いたことのない名前だった。あべるは武蔵の隣の席に座っているいかにも優しそうな青年だった。あべると言えば、武蔵は聖書に登場するアダムとエヴァの息子アベルを想像した。そこから名前が取られたのだろうか。偉大な剣豪の名を持つ武蔵は、この珍しき名前の人物に勝手な同情の念を抱いた。きっと名前の事で色々面倒なこともあったのだろうとほとんど直感的にそう思った。「武蔵」という名前はそれほど珍しいわけでもないので、コンプレックスを感じることはあまりなかったのだが、それでも、かの「宮本武蔵」のように強い人になってほしいと親から勝手な期待を込められていることに、武蔵は少しばかりのプレッシャーを感じて生きてきた。それが「あべる」ときたらどうであろうか。そもそも、「あべる」という名前は日本中探して一体何人いるのだろうか。けれど(これは後で名簿を見て知ったことなのだが)、「善」と書いて「あべる」と読む名前を、武蔵はただ純粋に素敵な名前だと思った。
「二十五番、牧野聡」
「はい」
 そしてこの男が聡だ。武蔵と聡は一年の時に面識がある。聡を一言で言い表すならば生粋のカリスマだ。身長はそれほど高くないが、顔は文句なしの男前だ。しかしその顔に引けず劣らず、彼には人を惹きつける人間的な魅力があった。たとえ男であってもその魅力に気づかずにはおれなかった。一年の時はクラス委員長を務め、強力なリーダーシップを発揮し、クラスの精神的支柱となっていた。武蔵は、今年も彼が委員長になるだろうと思った。下手すれば生徒会長に立候補するかもしれない。
 全員の点呼が終了し、岡林先生は事務的な連絡を要領よく伝え、先生個人の自己紹介も済ませた。そして体育館に集まり、形式的な始業式を終えて、この日の活動は終了した。始業式の日は昼までというのが世の常識だ。
 硬式テニス部の武蔵と藤田はたまたま部活が無く、サッカー部の伸二も試合前で部活が休みということで、始業式を終えた三人は早々と自宅へ帰ることにした。
「どう思う? 二年六組」
 西宮駅へと向かう道中、伸二がどちらに質問したわけでもない質問を投げかける。
「担任岡林先生か。正直こえーよな。でも武蔵もいたし、伸二ともすぐに仲良くなれたからとりあえず良かったかな」
 藤田が気弱そうに答える。
「まあ俺は割と好きな先生だけど。あとはそうだな、加藤善って子知ってたか? そんな珍しい名前なら知ってると思うんだが全く知らなかった」
 武蔵も善という名前の人物がこの学校にいたことをもちろん知らなかった。
「なにやら、今年編入してきた子らしいぜ」
 藤田が得意げに言う。どうやらクラスで誰かから聞きつけていたらしい。
「へえ、うちの学校に編入生なんているんだな。珍しいな。明日また話してみようかな」
 社交的な伸二がそのように言った。伸二は人見知りという言葉を知らない。誰にでもお構いなく話しかけ、すぐに打ち解けてしまう明るい人間なのだ。ついでなので藤田についても少し書き留めておくと、彼は伸二とは違いどちらかといえば気弱な性格だ。あまり人と付き合うのが上手なほうではない。今日に関しても、伸二の親しみやすさが藤田の人見知りを上回り仲良くなれたと言えるだろう。そして武蔵はどこまでも中立的な人間だ。伸二の様にものすごく外向的というわけでもなく、藤田のように人見知りというわけでもない。それでも武蔵の事を嫌う人はほとんどいないであろう。始業式当日にできた三人組だったが、意外と良いトリオなんじゃないかと武蔵は思った。
 西宮駅に到着すると、武蔵は伸二と藤田と反対方向だったのでそこで二人と別れた。ほぼ初対面の伸二と藤田が二人で大丈夫だろうかと思ったが、伸二の外向性をもってすれば問題ないだろうと改めて思い直した。そして武蔵は西明石行きの列車が到着するのを駅のホームで待つ。しばらくして列車が到着し、乗り込んだ。武蔵は平日昼下がりのそれなりに空いた電車が割と好きだった。平和の象徴的風景のようにも思えなくもない。そこが粗々しく冷たい朝の通学時と同じ場所とは到底思えなかった。穏やかな南からの光が差し込むその車内は武蔵にとって非常に居心地の良い空間の一つだった。武蔵はどんな人たちが乗り合わせているのか周りを見渡した。シルバーカーを傍らに置き、優先座席で一息つくおばあちゃん、真剣な表情で文庫本を読む中年の男性、でかいヘッドフォンをつけてすっかり自分の世界へと入り込んでいる若い女性。また始業式を終えた生徒たちがまばらに乗り合わせている。大抵は人目も気にせずに友人同士で談笑していたが、その中にあって、一人ぽつんと窓の外に広がる六甲山の風景をただ眺める生徒がいた。よく見るとそれは武蔵の隣の席の編入生、加藤善だった。編入してきて、まだきっとこの街の風景にも馴染んでいないのだろう。彼の姿は新しいものを興味津々に見つめる少年そのものだった。どうやら武蔵には全く気付いていないようだった。声を掛けようか迷ったが、あまりにも景色に見惚れていたし、第一喋りかける勇気はなかった。武蔵は伸二ではない。彼のような抜群の外向性は身につけていないのだ。列車が家の最寄り駅に到着し、武蔵が座席から立ち上がると、善も降りる準備をして扉の前に立っていた。どうやら同じ駅で降りるらしい。扉が開くのを待っている間、武蔵と善は完全に目が合ってしまった。これはもはや逃げようがない。武蔵は仕方なく軽い会釈をした。すると善の方もこちらを見て笑顔で会釈し返した。プシャーという到着の音と同時に扉は開き、二人はほとんど並んで電車を降りた。
「君は確か隣の席の有馬武蔵君だよね?」
 先に話しかけてきたのは善の方からだった。
「覚えてくれてたんだね。君は確か加藤善君。珍しい名前だからすぐに覚えたよ」
「それは良く言われる。名前が珍しいと少し恥ずかしんだけど、覚えてもらいやすいのは良いことだね」
 武蔵はごく自然に善に対して好意的な印象を覚えた。善の話し方は全く人をいらつかせず、相手への気遣いが十分にこもった話し方だった。たった二文程度の会話で武蔵はそのことを感じ取った。彼らは途中まで帰り道を共にした。
「善でいいよ。僕も武蔵って呼ぶことにする」
「ありがとう善」
 善は武蔵が思っているより明るく、親しみやすかった。武蔵は善の事をもう少しシャイな人物と想定していた。それは優しい名前と編入生というレッテルからそう思い込んでいたのだろう。また顔もよく見ると整った顔をしていた。笑顔が素敵でどちらかといえばジャニーズにいそうな可愛い感じの顔立ちだ。何といっても、悪い印象を全く感じさせなかった。
「善は編入でうちの高校に来たって聞いたけど、前はどこに住んでたの?」
「前は関東の方に住んでいたんだけど、両親の都合でこっちに来たんだ。ここに来てからまだ一か月も経ってなくてあんまり慣れてないけど、良い街だね。海もきれいだし、山もきれいだ。今のところ気に入ってるよ」
「それは良かった。俺も割とこの街は好きなんだ。人も良い人が多いと思う。大阪の南の方に比べると関西色もそんなに強くないしな」
「それは言えてる。あっちの方はまだちょっと怖いかな」
 二人の会話は分かれ道まで途切れることはなかった。新学期のクラスメイトでなおかつ編入生となると話す話題にも尽きないのだろうが、それだけではなく善の親しみやすさがそうさせていたし、二人の波長も合っていた。
「また明日。喋れる人ができて良かった」
「うんまた明日」
 二人はすっかり仲良くなって別れた。これから何度となく一緒に帰ることになるかもしれない。善にとっても武蔵の存在は心強かったし、武蔵にとってもそうであった。空は春一番、満天の快晴。春の優しい風が、彼らの新学期の到来を歓迎するかのように街を包んでいた。

委員決め

 始業式から二日が経過した。自己紹介など新学期特有のお楽しみ期間は終了し、今日から授業もスタートする。またいつも通りの日常が帰ってくることに心なしか生徒には重たい空気が漂っているように見える。二年六組では六時間目のホームルームの時間を迎えていた。今日のホームルームではクラスの委員決めをすることになっている。
「ねえ武蔵。何か委員やろうと思う?」
 (あべる)が隣の席の武蔵にこっそり話しかける。
「今のところ委員をやるつもりはないな」
「えーやったらいいんじゃないか」
「そう言う善はやらないのか?」
「僕はやらないよ。忙しいんだ」
「何だよそれ。それなら俺だって忙しいよ」
「武蔵って何となく暇人なのかと思ってた」
「俺、部活やってるんだぞ」
 まだ始業式から日は経っていなかったが、いつの間にか善は武蔵を悪意なくからかうようになっていた。ただそのことで武蔵は悪い気はしなかった。
 委員決めはまず、委員長、副委員長から決めることになった。男子からは予想通り(さとる)が、女子からは出席番号二十六番松本明華(めいか)が選ばれ、二人の話し合いの結果、聡が委員長、松本明華が副委員長になった。明華は芦屋の高台に住むお嬢様で、成績も学年十位には入る秀才だった。ただ性格はか弱いお嬢様とは似ても似つかず、むしろその逆だった。自分の意志を持っており、これと決めたら決して曲げない頑固さが彼女の最大の特徴だった。小学生の頃、平気で男子を泣かせていたという噂もあったほどだ。その噂を聞いた藤田は完全にびびっていた。リーダーとしても優れており、女子の中では女房役で、聡がいなければ当然委員長になっていたであろう。
 委員長、副委員長が決まると、それからは男女に分かれて委員の選出が始まった。男子から体育委員に選ばれたのは、出席番号四十番楊(よう)紫(し)影(えい)。楊は大柄で筋肉質、太い眉毛と鋭い眼光、いかにも体育会系の見た目をしている。二年生ながら柔道部ではすでにエース格で、次期主将を明言されている。自信に満ち溢れ、好奇心旺盛、これまでどんな集団の中においても人気者で通っていた。だが血気盛んで暴力的な面もあり、自分の気に入らないことがあれば相手を威嚇することで自分の思い通りにさせてきた。そんな楊の存在感はすでにこのクラスにおいても一際目立っており、彼に歯向かう者はおよそ思いつかなかった。楊を上手く扱うことができるのは聡くらいだろうと武蔵は思った。それほどに聡の影響力は絶大なもので、それでいて誰に対しても全く臆することがないのだ。
 そのようにして他の委員もほどなく決定していった。希望者のいない委員もあったが、委員長の聡が上手く場を回し、円滑かつ平和的に委員が決定していった。しかしどうしても決まらない委員が一つあった。それが文化委員だった。なぜ文化委員がこれほどにも不人気かと言うと、一学期には文化祭が開かれ、文化委員はその実行委員を務めなければならないからだった。みなそれを理解しており、そんな面倒なことは御免だといわんばかりにいつまで経っても、誰も手を挙げることはなかった。もちろんその思いは武蔵も共有していた。
「武蔵、文化委員やりなよ」
 善がまたこっそり武蔵に語りかけてきた。
「さすがに文化委員はきついな」
「武蔵なら大丈夫だって」
 善は武蔵に文化委員をどうしてもやらせたいみたいだった。その言葉に少しばかり武蔵の気持ちも揺らぎかけるが、やはり手を挙げる気にも、声を発する気にもなれなかった。自分には責任が大きすぎると感じたのだ。
「見ての通り文化委員だけが唯一決まっていない。誰か立候補してくれる者はいないか? 一学期のメインイベントは何といっても文化祭だろう。その実行委員を務めることは大変な部分もあるだろうが、その分やりがいも大変大きい。その期間、クラスの主役を担うといってもいいかもしれない。そんな貴重な重役を担ってくれる者はいないか?」
 停滞した雰囲気を見かねた聡が男子全員に呼びかける。聡の言葉にどうしようかと迷っている生徒も少なからずいたが、やはりそれでも名乗り上げる生徒はいなかった。頼みの伸二はすでに風紀委員に決定しており、それほど積極的にクラス委員を務めようとする生徒はあまり残っていなかった。
「困ったな。自分からやってくれるという人がいないとなると、こっちとしては誰かを推薦せざるを得なくなる。推薦された者はどうしても嫌なら断ってもらってもいいが、できればこのクラスのためにその推薦を受け入れてもらいたい。もちろん委員長である俺や他の委員たちとも協力して文化祭を一緒に盛り上げていく。そこまで気負う必要はない」
 そう言って聡は最終的に推薦者を立てることにした。武蔵は何となく嫌な予感がした。あまり聡と目を合わせないようにしていたが、聡の視線がこちらを向いているのが横目で感じられる。こういう面倒な役はなぜいつも自分に回ってくるのだろうと武蔵は思った。まるで自分は天から嬉しくもない印をあらかじめつけられた人間なのかとしばしば疑うほどであった。しかし聡が言ったようにこれは光栄なことなのではないか、真面目な武蔵はそう思うようにもなってきた。頼まれたらきっと自分は断れないだろうと武蔵は思った。
「武蔵。どうか文化委員を務めてくれないか」
 見事に予想は的中し、聡は優しく語り聞かせるようにして武蔵に言った。
「去年一緒だったから、武蔵がこの役を全うできると十分に分かっているつもりだ。他のみんなのことをまだよく知らないということもあるが、武蔵なら必ずできると俺は確信している」
 それが聡の本心なのか、武蔵が引き受けるようにあえてそう言っているのか分からなかった。身構えていた武蔵だったが、いざそれが事実として宣告されてしまうと想像以上の体の興奮を感じた。心拍数は一気に上がり、体温もほんの少し上昇したような気がする。まるで赤紙が家に届いた戦時中の青年のような心持だった。
「本当に俺でいいの? 全く自信ないけど」
「ああ心配ない。みんなでサポートする。自信なんてなくたって、全力でやってくれさえすればその気持ちは必ずみんなに伝わるはずだ。文化祭の進行において一番重要なのはそうした能力だと俺は思うんだ。そして物事に対して全力で取り組む姿勢は武蔵の取柄だと俺は思っているよ」
 聡は何て言葉が上手いのだろうと思いつつも、まんまとその言葉に勇気づけられ、ようやく気持ちが定まった。
「分かった。やるよ文化委員。何とか頑張ってみせる」
「ありがとう武蔵」
 そうしてようやく男子の委員が全て決定した。前述したとおり伸二は風紀委員、善や藤田は委員にはならなかった。女子では出席番号二十八番の森ナオミが文化委員を務めることになった。
「よろしく、有馬君!」
 ナオミが満面の笑みで武蔵に話しかける。底抜けの明るさに武蔵の不安も少しは解消された。ナオミはバレーボール部に所属している小柄な女の子だ。決して美人とは言えないが、愛嬌のある丸顔とチャームポイントの邪気を全く感じさせないまばゆい笑顔でいかにも人から好かれそうなタイプだった。武蔵とは同じクラスになったことはないが、すぐに打ち解けられそうだと武蔵は思った。彼女は武蔵とは違って、志願して文化委員に立候補した。何やら文化祭のような青春味を帯びた行事ごとが大好きらしく、文化祭の実行委員は彼女の悲願であった。
「私ほんまに文化祭が大好きやねん。去年も実行委員やったんやけど、今年は劇もできるでしょ。もう楽しみ楽しみ。みんなを引っ張るのは難しいかもやけど、二人で力を合わせて頑張ろ!」
「うん。頑張ろう」
 文化祭まで残り二か月。望んだ形ではないにせよ受け入れたその役職は、いずれ武蔵にとって果たすべき大事な使命となるのであった。
 
 授業が終わり、部活が休みだったので、武蔵は善と一緒に帰った。まだ日は沈んでおらず、晴れやかな春の日差しが生徒たちを優しく照らしていた。西宮駅へと続く並木道では、満開に咲いた桜が騒がしい都会の景色を色づける。駅へ到着すると、西明石行きの電車がちょうどやって来ていたので、歩みを止めることなく電車へと乗り込んだ。
「武蔵、文化委員なれて良かったね」
「良くないぜ。一学期の文化委員めっちゃ大変なんだぞ」
「それは大体どこの学校も同じだよ。まあなったからには腹括るしかないね」
 少し込み合った車内で二人はつり革に手を掛け、互いに向かい合って会話する。
「それよりさ、まだ聞いてなかったんだけど、善って何か部活やるつもりあるの?」
「部活に入るつもりは無いよ。外でサッカーしてるんだ。社会人サークルみたいなもので、それほどレベルは高くないけどね」
「そっか。もしよかったら硬式テニス部に入らないかと思ったけど必要なさそうだな」
「お誘いは有難いけど遠慮しとくよ」
 電車は彼らの最寄り駅へと到着する。家への帰宅中も話は続いたが、武蔵は善との会話に何かしらの違和感を感じ取らずにはおれなかった。善は自分の情報、つまり好きな事は何なのか、普段は何をしているのか、なぜ転校してきたのか、親は何をしているのかといったごく普通の情報についてあまり語ろうとしなかった。どことなく答えづらそうにしている感じを受けた。そのかわり、武蔵のことばかりを尋ね、それを面白そうに聞いていた。それに善はテレビや漫画、スポーツニュースといった一般的な話題にひどく乏しかった。彼は家にテレビもなく、自分はスマホも持っていないと言った。
 一度話すことが尽きたので、武蔵は善を遊びに誘ってみることにした。
「善、今度休みが被ったら遊ばないか? 外でもいいし、うちの家でもいいし、もしよかったら善の家にも行ってみたいな」
 善は一瞬顔をしかめたように見えた。
「ごめん、うちは無理なんだ。外か武蔵の家ならいいよ。ただ毎日勉強があるからあまり遊べないかも」
 すまなそうに善が言った。
「それは学校の勉強? 毎日は大変だな」
「んー、それもある」
「そっか、分かった。また機会があれば遊ぼう」
「ありがとう」
 やはり武蔵は違和感を感じた。それ以上聞くことは彼のプライバシーに関わると思い聞かなかったが、何かを隠したような喋り方だった。それに受験生でもない高校生が毎日勉強というのも相当なものだ。「それもある」という返答も妙に気がかりだった。そのうち別れ道が来て、少々の心惜しい気持ちを残して彼らは解散した。家へと向かう善の姿はどことなく暗いオーラが漂っているように見えた。いや、どこか別人のそれのようにも武蔵は思った。それから武蔵は善のことが気になって仕方がなかった。
(彼には何か秘密があるのだろうか)
 

カミングアウト

 四月も終盤に差し掛かり、時折見せる冬の気配はもはや見えなくなっていた。ある晴れた日の日曜日、武蔵の所属する硬式テニス部は近くの高校で練習試合が組まれていた。練習試合が行われる高校は武蔵の家のすぐ近所の高校だったので、武蔵は電車を使わずに歩いてその高校まで向かっていった。日曜日の朝の光は、その他の曜日の光とは全く異なっているように見えた。その光は都会に蔓延る邪気のようなものを一時的に取り除く特殊な力があるようだった。そんな心地よい春の陽気に連れられて、武蔵も非常に清々しい気分で会場へと向かっていた。ゴルフバッグにも似た、どでかいテニスバッグを背負って、真っ白なテニスシューズと堂々と高校名が書かれた移動用ウェアという恰好にある種の誇らしさすら感じるほどだった。
 家を出て五分ほど歩くと、人通りの少ない住宅街に入った。見慣れている場所で、迷いなく歩を進めていた武蔵だったが、そんな平凡な日常にそぐわない光景に足を止める。そこには太陽の光に照らされ、最大限の光沢を放つスーツに身を纏った集団がいた。それらのスーツは就活生のものと比べるといささか自由すぎた。青や白やグレーなど明るい色が多く、黒はどちらかと言えば少数だった。カラフルなネクタイを巻いて、談笑しながら住宅街の一角にそびえ立つ一般的なビルに流れ込んでいく。人数はおよそ二十人。年齢は様々で、若干お年寄りが多い気がするが、まさしくビジネスマンという顔つきの人に、少なくない女性の姿もあった。何の集団だろうと不思議そうに武蔵がその光景を眺めていると、その集団の中に間違いなく見覚えのある顔を武蔵は見つけた。それは正真正銘、(あべる)だった。善も周りの人たちと同様、かなりの正装をして、いつも下ろされている前髪はジェルタイプのワックスでしっかりと上げられていた。動揺した武蔵はただその場でじっと善を見つめていた。一体どこに行くのだろうか。すると何かしらの視線を感じたのか、善は周りを見渡し、ついに武蔵と目が合った。善の顔には一瞬焦りのようなものが見えた。そして次第に顔が赤らんでいるのが遠くからでも分かった。武蔵が手を振ると、善も手を振り返し、そのままビルの中へと消えていった。
 もはやビルへ入っていく人がいなくなると、武蔵はビルに近づいて行って、その施設名を確認しようとした。それが善にとって、人に見られたくない類のことであろうことは武蔵を見つけた時の善の反応で察しがついた。だが武蔵はそれをどうしても確認したいという好奇心にもはや駆られていた。建物へ近づくと、そこには主張のない小さな文字で「神戸聖愛教会」と書かれていた。武蔵はだいたいのことを察した。つまりここはキリスト教系団体の教会なのだろう。そして善はその教会のメンバーなのだ。親がその教会のメンバーで善はその二世ということになるのだろうか。そうだとすれば「善」という名前が付けられたことにも合点がいく。この前一緒に帰った時、自分の事をあまり話そうとしなかったのは、教会に通っている事を他人に知られたくなかったからではないかと武蔵は思った。しかし一つ腑に落ちなかったのは、その教会のあまりの主張の無さだった。一般的な教会であれば、十字架を屋根などに取り付けて、外から見ればそこが教会だとすぐに分かるようにしているはずだ。教会名も分かりやすく外に張り出しているだろう。しかしここはいかにも住宅街といったぱっとしない場所に構えており、一度来ただけではきっと道を覚えられないだろうと思える。さらに教会名が書かれた看板は、それを見ようと建物に近づかない限り分からないような小さく簡素なものであり、まるで客を全く惹きつけようとしない隠れ喫茶店のようであった。しかしとにかく、善が教会に通っているという事実に武蔵は驚いたが、それ以外の感情は特に抱かなかったし、教会に通っているからといって善を今までとは違う目で見るようなこともないだろうと思った。
 
 後日、武蔵が学校へと向かっていると後ろから走り寄ってくる善の姿が見えた。善が教会に通っているところを偶然見てしまったのはまだつい昨日の話だった。
「おはよう武蔵」
 善は走って駆け寄って来たのでまだ荒い息をしていた。
「おはよう。どうしたのそんな走ってきて」
「遠くから武蔵を見かけたから走ってきたんだ。聞きたいことがあったから。その、昨日の、昨日僕を見かけた時、僕がどこに行っていたか分かった?」
 武蔵も善に会ったら昨日の事について話そうと思っていたが、どうも話しづらいなと気が引けていたので、善が自分から話しだしてくれたことに少しほっとした。
「ああ。教会だろ? 善らが入って行った後、建物の看板を見たんだ」
「やっぱり気づかれてたか。正直どう思った?」
「どうも思わないよ。別に教会に通ってたってそれがどうしたっていうんだ」
「それなら良かった。武蔵ならきっと気にしてないって思ってた。実は教会に通ってることはあんまり言いたくないんだ。日本はどうしても宗教人に対する偏見が根強いからさ。前の学校でもそれがばれてちょっと面倒だったんだ」
「そりゃつらいね。俺は絶対みんなに言いふらしたりしない。それは誓うよ。そして善を見る目も何も変わってない。むしろすっきりしたくらいだ。前々から何か隠してるなと思ってたんだ」
「悪いね。武蔵にも中々言い出せなかったんだ」
「何も謝ることじゃないさ。それはプライベートなことだし。善の秘密にどんな悪意もないことは分かるから」
「ありがとう。この際、君に嘘偽りなく話しておくよ。今日部活休みだろう? 終わったら一緒に帰ろう。今はゆっくり話せそうにないから、その時話そう」
「ああ分かった」
 そうしているうちに彼らはもう学校の目の前まで来ていた。二人は並んで同じクラスへ向かっていく。武蔵は話が帰りに持ち越されたことで一日中そのことが気になっていた。善は帰りに武蔵に話す自分の身の上話の構成を考えているのか、授業中どこか違う方向を向いて何か考え込んでいた。早く授業が終わらないか待ちかねていた武蔵だったが、その日の授業はやけに長く感じられた。ようやく七時間目の英語の授業が終わり、チャイムが鳴る。藤田が一緒に帰ろうと誘ってきたが、用事があると伝えて先に帰らせた。そして武蔵と善は一緒に学校を出て、二人の最寄り駅周辺にある適当な喫茶店に入った。二人とも申し合わせたように甘いアイスミルクティーを注文した。席に座り、一息つくと、善はミルクティーをストローで一口飲んでから、十分に間を空けて話を切り出した。
「よし、じゃあ話そうか僕の事について」
「そんなにもったいぶる話なのか」
「武蔵にとってどうかわかんないけど、僕にとってこれは大事な告白なんだ」
 善は一つ一つの言葉に魂を吹き込むような丁寧な話し方で喋っていく。店内は学校帰りの高校生やパソコンを開いて作業をする大学生、お喋りのために集まったマダムらで埋め尽くされていた。あらゆる方向からの雑音が逆に彼ら二人の会話を引き立てていく。
「僕が入っている宗教団体は普通のキリスト教団体とはちょっと違うんだ。何ていうか世間一般的に見たら新興宗教なんだよ」
「あんまりキリスト教の事とかは分からないけど、要するに最近できた団体ってことか?」
「まあそういう事だね。団体ができたのはおよそ三十年前。僕は親が団体のメンバーだったからもう生まれた時から教会通いだった。別にそれを嫌って思ったことはなくて、ただそれが僕の日常だったんだ。毎日聖書も読んでいた。親がよくしてくれた本の読み聞かせは聖書の話を基にした寓話ばかりだった。普通の小説やみんなが見ているようなアニメや漫画はほとんど見たことがなかったんだ。教義的にあんまりよろしくないんだよ。だからそういう世間的な話をされても僕はあんまりついていけない。社会とある種隔絶された世界に生きてきて、最初は良かったんだけど、やっぱり学校に行くようになると自分がマイノリティだって痛感させられるんだよね」
「確かにそれはずいぶん普通とは違ってるな。善は自分がマイノリティだってことがやっぱり嫌なのか?」
「嫌ってわけじゃないんだ。ただ僕は教会の外に出れば全くの孤独だったんだ。それも救いようもない絶望的な。年頃の子供が周りの話についていけないってのは割につらいことでさ。まるで身一つで山に放り出された気分だった」
「そりゃそうだよな。小学生の会話なんか大体はテレビやYOUTUBEの話題ばかりだろう」
「うん。それに親は教会の異動が多くて、転校もしょっちゅう。おかげで同級生の友達はほとんどいなくて、団体内の知り合いばかりさ」
「善は教会を抜けたいとは思わないの?」
「それは思わない。ある程度の事は満足しているんだ、もちろん多少の我慢はあるけどね。前にも言ったように、教会内でサッカーもできるし」
「こないだ言ってた外のサッカーチームっていうのは教会のサッカーチームだったのか」
「そう。まあだから教会を抜けたいと思ったことはないよ。というかむしろ抜けるっていう選択肢はないかな。そこが僕の生まれた場所であって、生活の全てだから。それを抜きにした人生っていうのは今のところあまり考えられないんだ。じゃあどうして武蔵にこんな話をしているか。そこだよね」
「ああ。俺はそんな生活に嫌気がさして、相談しに来たのかと」
「この話は武蔵じゃなかったらしなかった。今までこんな詳細に自分の身の上話をしたことはなかった。親にもあまり人に言わないように言われているんだ。だけど君ならどんな偏見もなく聞いてくれると思ったんだ」
 二人のミルクティーの残りは半分ほどになっていた。
「そして僕はやっぱりどうしようもなく孤独なんだよ。そりゃ孤独には慣れているけど僕だってずっと一人がいいわけじゃない。教会は悪いところではないけど、あそこは普通とは違う場所なんだ。学校のような普通の場所で、教会以外の世界で、僕の事を知ってくれる友人が欲しかったんだ」
「知って欲しい」と復唱するように武蔵は言う。
「そう、僕は武蔵に僕の全てをただ知って欲しかった。実はただそれだけなんだよ。これからどんな嫌な目に遭ったとしても自分を知ってくれる唯一の理解者がいれば僕は孤独じゃないと思える気がする。君の存在を通して初めて、僕はこの世界に生きているちゃんとした一人の人間であると確かめられると思うんだ」
「俺が善の存在証明になると?」
「そう」
 なぜ善の全てを知ることが善の存在証明に繋がるのか、その考えの全てを理解することはできなかった武蔵だが、善が教会外の人物に自分を知ってもらうことに何か重大な意義を感じていることはその熱量から伝わった。だから聞き流すことなく真剣に受け止めようと決意した。武蔵は善を真っ直ぐに見つめていた。
「君にこのことがバレたのは偶然だったけど、それから僕は君にカミングアウトしようって決めたんだ。まだ君とそれほど長い付き合いではないんだけどさ、それでも君なら必ず受け入れてくれる、そう思ったんだよ」
 善の口ぶりは少しずつ早くなっていった。喋っている間、善はコップをぎゅっと握りしめ、その手は微かに震えていた。
「そんなの当然だ。具体的に善に何かしてあげられるかどうかは分からないけど、善を知って、その全てをただ受け入れることはできると思う」
 武蔵も少し興奮気味に話していた。
「ありがとう。ただのそれだけが僕にとって何よりもうれしいことだよ。君が僕をまともなままでいさせてくれる。現実と非現実を結び付けてくれる架け橋となってくれる。そういういうことだよ。君に話してよかった。今はなんだかすっきりしてる」
 善はすっかり熱くなって話していた。
「俺も善が勇気出して話してくれてうれしいよ。これから俺には正直でいてくれよ」
「分かった」
 善の話はとりあえずの終わりをみた。話し終え、疲れた様子の善は残っていたミルクティーを一気に飲み干した。無事に語り終えた善を讃えるように武蔵は優しい眼差しでその姿を見つめていた。だが「現実と非現実を結び付ける架け橋」という善の残した暗示的な言葉は抽象的で武蔵には理解できず、心の微妙な引っ掛かりとなっていた。それになぜカミングアウトをする相手が他の誰でもなく、自分でなくてはならなかったのか。それも武蔵には知り得ない謎の一つであった。
 
 すっかり時間は経ってしまい、店内を出るとすでに夕日は落ちていて街は薄暗くなっていた。ある程度伝えたい事を伝えた善とそれを聞き終わった武蔵はすっかり疲れており、何とも言えない沈黙が妙に続くことがしばしばあった。その後の何気ない会話も何となくのぎこちなさを両者が感じ取っていた。しかしカミングアウトを終えた善は終始興奮しており、一つの役目を終えたような充実感の色が表情から読み取れた。一方の武蔵の方も、善が自分に何かを見出し、重大な告白の相手に選んでくれたことが純粋にうれしかったし、同い年ながら巨大なしがらみを抱え生きる善にただただ感心して、満足げな善の表情を見つめていた。この優しげな青年の心には、あらゆる孤独と避けられない運命とを乗り越えてきた決して折れない真っ直ぐな強さがあることに武蔵はもはや気付かずにはおれなかった。彼の秘密を守ることは自分の絶対的使命のようにも感じていた。 四月も終盤に差し掛かり、時折見せる冬の気配はもはや見えなくなっていた。ある晴れた日の日曜日、武蔵の所属する硬式テニス部は近くの高校で練習試合が組まれていた。練習試合が行われる高校は武蔵の家のすぐ近所の高校だったので、武蔵は電車を使わずに歩いてその高校まで向かっていった。日曜日の朝の光は、その他の曜日の光とは全く異なっているように見えた。その光は都会に蔓延る邪気のようなものを一時的に取り除く特殊な力があるようだった。そんな心地よい春の陽気に連れられて、武蔵も非常に清々しい気分で会場へと向かっていた。ゴルフバッグにも似た、どでかいテニスバッグを背負って、真っ白なテニスシューズと堂々と高校名が書かれた移動用ウェアという恰好にある種の誇らしさすら感じるほどだった。
 家を出て五分ほど歩くと、人通りの少ない住宅街に入った。見慣れている場所で、迷いなく歩を進めていた武蔵だったが、そんな平凡な日常にそぐわない光景に足を止める。そこには太陽の光に照らされ、最大限の光沢を放つスーツに身を纏った集団がいた。それらのスーツは就活生のものと比べるといささか自由すぎた。青や白やグレーなど明るい色が多く、黒はどちらかと言えば少数だった。カラフルなネクタイを巻いて、談笑しながら住宅街の一角にそびえ立つ一般的なビルに流れ込んでいく。人数はおよそ二十人。年齢は様々で、若干お年寄りが多い気がするが、まさしくビジネスマンという顔つきの人に、少なくない女性の姿もあった。何の集団だろうと不思議そうに武蔵がその光景を眺めていると、その集団の中に間違いなく見覚えのある顔を武蔵は見つけた。それは正真正銘、善だった。善も周りの人たちと同様、かなりの正装をして、いつも下ろされている前髪はジェルタイプのワックスでしっかりと上げられていた。動揺した武蔵はただその場でじっと善を見つめていた。一体どこに行くのだろうか。すると何かしらの視線を感じたのか、善は周りを見渡し、ついに武蔵と目が合った。善の顔には一瞬焦りのようなものが見えた。そして次第に顔が赤らんでいるのが遠くからでも分かった。武蔵が手を振ると、善も手を振り返し、そのままビルの中へと消えていった。
 もはやビルへ入っていく人がいなくなると、武蔵はビルに近づいて行って、その施設名を確認しようとした。それが善にとって、人に見られたくない類のことであろうことは武蔵を見つけた時の善の反応で察しがついた。だが武蔵はそれをどうしても確認したいという好奇心にもはや駆られていた。建物へ近づくと、そこには主張のない小さな文字で「神戸聖愛教会」と書かれていた。武蔵はだいたいのことを察した。つまりここはキリスト教系団体の教会なのだろう。そして善はその教会のメンバーなのだ。親がその教会のメンバーで善はその二世ということになるのだろうか。そうだとすれば「善」という名前が付けられたことにも合点がいく。この前一緒に帰った時、自分の事をあまり話そうとしなかったのは、教会に通っている事を他人に知られたくなかったからではないかと武蔵は思った。しかし一つ腑に落ちなかったのは、その教会のあまりの主張の無さだった。一般的な教会であれば、十字架を屋根などに取り付けて、外から見ればそこが教会だとすぐに分かるようにしているはずだ。教会名も分かりやすく外に張り出しているだろう。しかしここはいかにも住宅街といったぱっとしない場所に構えており、一度来ただけではきっと道を覚えられないだろうと思える。さらに教会名が書かれた看板は、それを見ようと建物に近づかない限り分からないような小さく簡素なものであり、まるで客を全く惹きつけようとしない隠れ喫茶店のようであった。しかしとにかく、善が教会に通っているという事実に武蔵は驚いたが、それ以外の感情は特に抱かなかったし、教会に通っているからといって善を今までとは違う目で見るようなこともないだろうと思った。
 
 後日、武蔵が学校へと向かっていると後ろから走り寄ってくる善の姿が見えた。善が教会に通っているところを偶然見てしまったのはまだつい昨日の話だった。
「おはよう武蔵」
 善は走って駆け寄って来たのでまだ荒い息をしていた。
「おはよう。どうしたのそんな走ってきて」
「遠くから武蔵を見かけたから走ってきたんだ。聞きたいことがあったから。その、昨日の、昨日僕を見かけた時、僕がどこに行っていたか分かった?」
 武蔵も善に会ったら昨日の事について話そうと思っていたが、どうも話しづらいなと気が引けていたので、善が自分から話しだしてくれたことに少しほっとした。
「ああ。教会だろ? 善らが入って行った後、建物の看板を見たんだ」
「やっぱり気づかれてたか。正直どう思った?」
「どうも思わないよ。別に教会に通ってたってそれがどうしたっていうんだ」
「それなら良かった。武蔵ならきっと気にしてないって思ってた。実は教会に通ってることはあんまり言いたくないんだ。日本はどうしても宗教人に対する偏見が根強いからさ。前の学校でもそれがばれてちょっと面倒だったんだ」
「そりゃつらいね。俺は絶対みんなに言いふらしたりしない。それは誓うよ。そして善を見る目も何も変わってない。むしろすっきりしたくらいだ。前々から何か隠してるなと思ってたんだ」
「悪いね。武蔵にも中々言い出せなかったんだ」
「何も謝ることじゃないさ。それはプライベートなことだし。善の秘密にどんな悪意もないことは分かるから」
「ありがとう。この際、君に嘘偽りなく話しておくよ。今日部活休みだろう? 終わったら一緒に帰ろう。今はゆっくり話せそうにないから、その時話そう」
「ああ分かった」
 そうしているうちに彼らはもう学校の目の前まで来ていた。二人は並んで同じクラスへ向かっていく。武蔵は話が帰りに持ち越されたことで一日中そのことが気になっていた。善は帰りに武蔵に話す自分の身の上話の構成を考えているのか、授業中どこか違う方向を向いて何か考え込んでいた。早く授業が終わらないか待ちかねていた武蔵だったが、その日の授業はやけに長く感じられた。ようやく七時間目の英語の授業が終わり、チャイムが鳴る。藤田が一緒に帰ろうと誘ってきたが、用事があると伝えて先に帰らせた。そして武蔵と善は一緒に学校を出て、二人の最寄り駅周辺にある適当な喫茶店に入った。二人とも申し合わせたように甘いアイスミルクティーを注文した。席に座り、一息つくと、善はミルクティーをストローで一口飲んでから、十分に間を空けて話を切り出した。
「よし、じゃあ話そうか僕の事について」
「そんなにもったいぶる話なのか」
「武蔵にとってどうかわかんないけど、僕にとってこれは大事な告白なんだ」
 善は一つ一つの言葉に魂を吹き込むような丁寧な話し方で喋っていく。店内は学校帰りの高校生やパソコンを開いて作業をする大学生、お喋りのために集まったマダムらで埋め尽くされていた。あらゆる方向からの雑音が逆に彼ら二人の会話を引き立てていく。
「僕が入っている宗教団体は普通のキリスト教団体とはちょっと違うんだ。何ていうか世間一般的に見たら新興宗教なんだよ」
「あんまりキリスト教の事とかは分からないけど、要するに最近できた団体ってことか?」
「まあそういう事だね。団体ができたのはおよそ三十年前。僕は親が団体のメンバーだったからもう生まれた時から教会通いだった。別にそれを嫌って思ったことはなくて、ただそれが僕の日常だったんだ。毎日聖書も読んでいた。親がよくしてくれた本の読み聞かせは聖書の話を基にした寓話ばかりだった。普通の小説やみんなが見ているようなアニメや漫画はほとんど見たことがなかったんだ。教義的にあんまりよろしくないんだよ。だからそういう世間的な話をされても僕はあんまりついていけない。社会とある種隔絶された世界に生きてきて、最初は良かったんだけど、やっぱり学校に行くようになると自分がマイノリティだって痛感させられるんだよね」
「確かにそれはずいぶん普通とは違ってるな。善は自分がマイノリティだってことがやっぱり嫌なのか?」
「嫌ってわけじゃないんだ。ただ僕は教会の外に出れば全くの孤独だったんだ。それも救いようもない絶望的な。年頃の子供が周りの話についていけないってのは割につらいことでさ。まるで身一つで山に放り出された気分だった」
「そりゃそうだよな。小学生の会話なんか大体はテレビやYOUTUBEの話題ばかりだろう」
「うん。それに親は教会の異動が多くて、転校もしょっちゅう。おかげで同級生の友達はほとんどいなくて、団体内の知り合いばかりさ」
「善は教会を抜けたいとは思わないの?」
「それは思わない。ある程度の事は満足しているんだ、もちろん多少の我慢はあるけどね。前にも言ったように、教会内でサッカーもできるし」
「こないだ言ってた外のサッカーチームっていうのは教会のサッカーチームだったのか」
「そう。まあだから教会を抜けたいと思ったことはないよ。というかむしろ抜けるっていう選択肢はないかな。そこが僕の生まれた場所であって、生活の全てだから。それを抜きにした人生っていうのは今のところあまり考えられないんだ。じゃあどうして武蔵にこんな話をしているか。そこだよね」
「ああ。俺はそんな生活に嫌気がさして、相談しに来たのかと」
「この話は武蔵じゃなかったらしなかった。今までこんな詳細に自分の身の上話をしたことはなかった。親にもあまり人に言わないように言われているんだ。だけど君ならどんな偏見もなく聞いてくれると思ったんだ」
 二人のミルクティーの残りは半分ほどになっていた。
「そして僕はやっぱりどうしようもなく孤独なんだよ。そりゃ孤独には慣れているけど僕だってずっと一人がいいわけじゃない。教会は悪いところではないけど、あそこは普通とは違う場所なんだ。学校のような普通の場所で、教会以外の世界で、僕の事を知ってくれる友人が欲しかったんだ」
「知って欲しい」と復唱するように武蔵は言う。
「そう、僕は武蔵に僕の全てをただ知って欲しかった。実はただそれだけなんだよ。これからどんな嫌な目に遭ったとしても自分を知ってくれる唯一の理解者がいれば僕は孤独じゃないと思える気がする。君の存在を通して初めて、僕はこの世界に生きているちゃんとした一人の人間であると確かめられると思うんだ」
「俺が善の存在証明になると?」
「そう」
 なぜ善の全てを知ることが善の存在証明に繋がるのか、その考えの全てを理解することはできなかった武蔵だが、善が教会外の人物に自分を知ってもらうことに何か重大な意義を感じていることはその熱量から伝わった。だから聞き流すことなく真剣に受け止めようと決意した。武蔵は善を真っ直ぐに見つめていた。
「君にこのことがバレたのは偶然だったけど、それから僕は君にカミングアウトしようって決めたんだ。まだ君とそれほど長い付き合いではないんだけどさ、それでも君なら必ず受け入れてくれる、そう思ったんだよ」
 善の口ぶりは少しずつ早くなっていった。喋っている間、善はコップをぎゅっと握りしめ、その手は微かに震えていた。
「そんなの当然だ。具体的に善に何かしてあげられるかどうかは分からないけど、善を知って、その全てをただ受け入れることはできると思う」
 武蔵も少し興奮気味に話していた。
「ありがとう。ただのそれだけが僕にとって何よりもうれしいことだよ。君が僕をまともなままでいさせてくれる。現実と非現実を結び付けてくれる架け橋となってくれる。そういういうことだよ。君に話してよかった。今はなんだかすっきりしてる」
 善はすっかり熱くなって話していた。
「俺も善が勇気出して話してくれてうれしいよ。これから俺には正直でいてくれよ」
「分かった」
 善の話はとりあえずの終わりをみた。話し終え、疲れた様子の善は残っていたミルクティーを一気に飲み干した。無事に語り終えた善を讃えるように武蔵は優しい眼差しでその姿を見つめていた。だが「現実と非現実を結び付ける架け橋」という善の残した暗示的な言葉は抽象的で武蔵には理解できず、心の微妙な引っ掛かりとなっていた。それになぜカミングアウトをする相手が他の誰でもなく、自分でなくてはならなかったのか。それも武蔵には知り得ない謎の一つであった。
 
 すっかり時間は経ってしまい、店内を出るとすでに夕日は落ちていて街は薄暗くなっていた。ある程度伝えたい事を伝えた善とそれを聞き終わった武蔵はすっかり疲れており、何とも言えない沈黙が妙に続くことがしばしばあった。その後の何気ない会話も何となくのぎこちなさを両者が感じ取っていた。しかしカミングアウトを終えた善は終始興奮しており、一つの役目を終えたような充実感の色が表情から読み取れた。一方の武蔵の方も、善が自分に何かを見出し、重大な告白の相手に選んでくれたことが純粋にうれしかったし、同い年ながら巨大なしがらみを抱え生きる善にただただ感心して、満足げな善の表情を見つめていた。この優しげな青年の心には、あらゆる孤独と避けられない運命とを乗り越えてきた決して折れない真っ直ぐな強さがあることに武蔵はもはや気付かずにはおれなかった。彼の秘密を守ることは自分の絶対的使命のようにも感じていた。

事件

 ゴールデンウィークが開けて間もないある日の月曜日。まだまだ休み気分の生徒たちは、これから再び学校が始まるという現実をそうそう受け入れられないといった様子だった。そんな生徒たちの気持ちを反映したか、憂鬱な色を浮かべた空が一日中続いていた。不吉な予感さえ感じさせる不気味な天気だった。(あべる)の秘密を知った武蔵だったが、ゴールデンウィーク中は善と会う事も、連絡を取り合う事もなく(善はスマホを持っていなかったので)、お互いそれぞれの休みの日々を過ごした。
「おはよう。久しぶり。ゴールデンウィークどうだった?」
 教室で自分の席に座っている武蔵に善が話しかけてきた。
「おひさ。部活ばっかりであんまり休み感なかったな」
「そっかそっか」
 カミングアウトをした後、初めて善と会ったが特に変わった様子はなくいつも通りの善だった。実は武蔵とはすっかり仲良くなった善だったが、それ以外の生徒とはまだうまく馴染めていなかった。なので武蔵と話している時以外の善の様子はただのおとなしい生徒に過ぎなかった。善は決して人見知りではなかったのだが、信仰の秘密があるため積極的に人に話しかけることをあえてしていなかったし、みんなが読んでいる漫画や昨日のドラマの話など流行の話題に関しては全くの無知であったため、共通の話のネタなどほとんどなかったのである。またプライベートでなかなか遊ぶことができないということもあって、善は意図して友達を作りたがらないようにしている風に見えた。周りの生徒たちは「不思議な子」といったイメージを善に対して抱いており、そして武蔵が善となぜ仲が良いのかもみんなの小さな疑問の一つであった。
 事件はそんなとき、突如として暗黙のうちに起こってしまった。すべての偶然が善にとって、そして武蔵にとって悪い方に流れてしまった。
 七時間目の英語の授業は二クラスに分かれて授業が行われていた。出席番号前半組の武蔵、善らは二年六組とは別の教室で授業を行い、後半組はそのまま教室で授業をするというスタイルをとっていた。それは後半組が授業する二年六組の教室で起こった。英語のような移動式の授業は人と場所がランダムで入れ替わるため必ずしも自分の机で授業を受かるわけではない。他の人の机で授業を受けるのが普通だ。その日、善の机に座ったのは楊だった。楊は実は賢いのだが、面白くない授業は露骨に聞かないという態度をいつもとっていた。日々の努力というより才能とセンスでこれまでそれなりに成績を残してきた、定期テストよりも模試の点数の方が高いタイプの人間だった。この日も例によって、楊は授業中退屈そうにしており、暇つぶしになるようなことを探していた。ふいに、何の悪気もなく楊は善の机の中を覗いた。人のプライバシーを勝手に覗く悪行に見えるかもしれないが、楊は決してそういう気持ちで、何か魂胆があって覗いたわけではなく、ただ単に暇だったから、ほとんど何も考えず机の中を覗いたのだった。そしてたまたまそこに、楊の暇を埋め合わす面白そうなものが出てきてしまったのだった。それは善が毎日書き留めて、常に携帯している「信仰ノート」と書かれた一冊のA4のノートだった。そのノートの存在は武蔵にも伝えていない正真正銘の善の秘密であって、善が最も人に見られたくない、見られてはいけないものであった。そこには善の信仰生活の葛藤や目標、祈りの項目、その他内面の秘密が刻々と刻まれていた。そんな大事なものを人に見られるところに置いていたことを善は後に後悔した。それを見た楊は先生にばれないように隠しながら、じっくりとノートを見ていった。
(なんだこれ、加藤はなんだか不思議な奴だとは思っていたが、どっかの宗教に入っていたのか。驚いたな。神様に向かって感謝しますだとか、愛していますとか正気で言ってるのか。これをみんなが知ったら驚くぞ)
 楊は善のことについて何の情報も持っておらず、不思議な奴としか思っていなかったのだが、そんな人物の一番弱いと思われるところを突如として知ってしまったのだ。普通の人間ならそんなものを見つけた時点で、見ない方がいいと何事もなかったかのように机の中に戻すことだろう。しかしこれもまた何の運命のいたずらか、そこに座ったのは最も座ってはいけない人物だった。楊はとにかく場を騒がせるのが好きであり、悪気はないことが多いのだが、相手が嫌がることについてひどく鈍感なのだ。この日も、善に対して気持ち悪いといったイメージを持ったのは間違いないが、善を破滅させてやろうと明確な悪意を企んだわけではない。彼はただおもしろいネタを一つ手に入れた、早くみんなに伝えたいと思っているだけであったのだ。それをクラスのみんなに拡散することで何が起こるのか、そんなことは彼の頭の中には露程もなかった。
 移動教室から帰ってきた武蔵と善にはまだ何が起こったか知る由もない。何事もなく自分たちの席につくと、教室の隅の方で楊たちが何やら騒いでいた。
「面白いネタがあるんだ」
 そうやって笑う楊の声が聞こえてきた。
 
 そして事態は水面下のうちにますます深刻なものとなっていった。武蔵はその日の夜、藤田からのメッセージを見て目を疑った。
「楊が言ってたらしいんだが、加藤君が宗教団体に所属してるって、聞いたか? お前結構仲良かったよな」
 メッセージにはそう書かれていた。武蔵はそれを見た時ぞっとして、携帯をベッドに放り投げ、しばらく返事をせずに無視していた。怒っているのか戸惑っているのか分からない居心地の悪い感情が押し寄せる。しばらく経って、藤田に噂の詳細について細かく聞いた。どうやら楊は仲の良い男子に善の情報を拡散し、回り回っていよいよ武蔵のところに辿り着いたみたいだった。もはや善の噂はクラスのほとんどの人に知れ渡っていた。一体なぜ善の秘密が楊に知られたのか、その点は武蔵には皆目見当もつかなかった。
(なぜ、一体どうして。しかもこんなにも早く噂が広まるものか? それにクラスみんながこぞってネタにするような話か?)
 武蔵はひたすらこういう問いを反芻していた。今回の件は善にとってひたすらに運が悪いことが続いていた。善の席に座ったのが楊だったこと、楊がそれを話のネタにしようと思った以上に躍起になったこと。楊は特に悪びれもなく拡散したのかもしれない。しかしその影響力は絶大なものだった。そもそも善に対するクラスみんなのイメージはまだ確定されたものではなかった。あまり話した人がおらず善についての情報がなかったからだ。そしてほとんど初と言っていい、明るみになった善の情報は、皮肉にも彼が最も知って欲しくない事柄に関するものだった。さらに楊は、アニメや漫画を見てはいけない、毎日朝晩声を出して祈る、聖書を毎日読むといった一見狂信的とも思える善の宗教実践を引き合いに出して、噂を流した。当然善の印象が良いものに映るわけもない。瞬く間にして、クラスの善に対するレッテルは「不思議な子」から「熱狂的な宗教人」に変わっていった。
 武蔵はすっかり憔悴しきっていた。明日の事を考えると憂鬱な気持ちになった。携帯を持っていない善は自分の秘密がクラス中に広まっていることを知るはずがない。明日そのことを本人に伝えるべきだろうか。また別の不安も武蔵の心に生じていた。武蔵はその不安を考えまいと自制していたが、考えを止めることはできなかった。その不安はあまりにも自らのエゴイズムの塊で、みっともない愚かなことだった。つまりその不安というのは、善と唯一仲良くしている自分の立場はどうなるのかという漠然とした不安だった。
(俺はなんて卑怯な男だ)
 
 後日、教室の様子は微妙な変化を見せていた。それは一見何も変わらないいつもの教室のように見えるが、武蔵にとっては陰惨な雰囲気が立ち込める魔窟のように感じられた。とにかく息苦しいそんな教室から一刻も早く出ていきたいという思いに一日中駆られていた。何も知らない善はいつもと変わらぬ調子で武蔵に話しかけた。武蔵はそれに対して、変に意識して何かを悟られないように努めた。武蔵が見るところ、善はそういった微妙な変化に関して鋭い人物だった。表情や言葉ぶりから何か違和感を感じ取るのだ。善に噂の事を話すにしても、教室で話すべきではない、二人きりになった時に話すべきだ、武蔵はそう自分に言い聞かせていた。善と会話していると心なしか至る所からの視線を感じた。それはどこかしら悪意に満ちた冷たい視線だった。遠いところでは、誰かが嘲りを含んだひそひそ話をしている。周りの様子を意識しすぎているのかもしれない、そう思いながらも武蔵は教室に起きた確かな異変に気付かずにはおれなかった。それらの変化は個人によるものではなく、全体によって生成されたものだった。喫茶店では全ての音や外観が合わさってその店の雰囲気を醸し出すように、教室における全ての所作が武蔵を苦しめる息苦しい空気を漂わせていた。事の発端となった楊はいつもと同じように得意げな顔をしきりにしていた。
 それから善の孤立は顕著なものとなっていった。いじわるをしたり、悪口を言う者などいない。生徒たちはただ善と関わろうとしなかった。それはただの無視ではなく、悪意ある無視だった。武蔵と善もなかなか二人きりになる時間を作ることができず、日を追うごとに二人の会話は少なくなっていた。それは彼らのどちらかが悪いわけでもなく、ごく自然なりゆきでそうなってしまった。もうすでに席替えをしてしまい席は離れてしまったし、部活のある武蔵とすぐに自宅へと帰る善ではお互いに交わる時間が減っていくのは当然だった。だがそのように会話が少なくなっていったことで、彼らはお互いに仲が疎遠になったと感じることはなかったであろう。彼らは表面的なつながりではなく、秘密を共有したより深い領域でつながっていた。そのことは時々武蔵に向ける善のやさしい眼差しからも読み取れた。おそらく善はもうすでに自分の秘密が何らかの形で広がってしまったことに気づいていたのだろう。それでも決して武蔵が広めたなどと彼を疑うことはなかった。会話が少なくなったことで、武蔵は気軽に善に話しかける勇気がなくなっていた。窮地に立たされてしまった友に一声掛けてやりたい、そう思うのと同時に周りの視線がどうしても気になってしまう。武蔵は自らの醜悪な考えをひたすらに呪った。だがどうしてもその壁を乗り越えることができずにいた。そんな武蔵に気を遣って、善も武蔵に話しかけにいくことをしなくなっていた。どこまでも深い善の優しさを受け、武蔵は自らの弱さと罪悪感を感じるばかりであった。
 
 どんよりとした天気が続く五月中旬のある日、部活が休みだった武蔵は藤田と駅で別れて、一人で家路についていた。隣には無論善の姿はない。以前までのように善が武蔵に一緒に帰ろうと誘ってくることはなくなり、授業が終わると善はそそくさと帰ってしまっていた。武蔵が教室を見渡した時にはもう善の姿はなかった。きっとどこまでも俺に気を遣っているのだろうと武蔵は思い、胸が苦しくなった。悶々とした気持ちで帰宅していると、武蔵の頭は善のことでいっぱいになった。まだ新学期が始まって二か月も経っていないのに、これからどうすればいいのか、そんなとりとめもなく巨大で、重苦しい悩みがのしかかっていた。自宅の最寄り駅へと向かう電車内でそんな下向きの考え事をしていると、隣の車両に紛れもない善の姿を認めた。武蔵は驚きで体が一瞬ギクっとした。買い物か何かの寄り道をして電車の時間が被ってしまったのだろう。善は二人が初めて会話した日と同じように六甲山の風景に見惚れ外を眺めていた。二人の位置はかなり遠く、武蔵はたまたま善の姿が視界に入ったが、一方の善は武蔵には全く気づいていなかった。この時、武蔵はほぼ直感的に立ち上がろうとした。実際、床に置いていたリュックを持とうと手に掛けるところまでしていた。善のところまで行って、楊が流した噂の事、これまで自分に気を遣ってくれたことに対する感謝、そしてこれからはそんなことをする必要はない、俺を頼ってくれとはっきり善に伝えようと思っていた。伝えなければいけないことがたくさんあった。しかし武蔵の中のおぞましい何かが彼の足を止めていた。立ち上がろうとする体に重力以上の何かがのしかかっていた。この場に留まっている理由など何もなく、善と話さなければいけない理由はたくさんあるのにも関わらず、一向に立ち上がることはできなかった。いよいよ駅に着いても体を動かすことはできず、武蔵は善が電車から降りていく姿をただ悲痛な眼差しで眺めていた。すぐさま何の思いやりもなく、無慈悲に扉は閉まった。武蔵は生まれて初めて目を覚ましたまま電車を降り損ねた。結局次の駅で降り、反対側のホームへと回って、一駅分だけ電車に乗って自宅へと帰っていった。
 
(なぜ俺はあの時善に話しかけに行かなかったのか?)
 時間が経つごとにそのことが悔やまれ、武蔵は自らの思考に何が入り込んでいたのかうまく掴めないでいた。ただ彼に残ったのは抑えようのない自分への怒りだけだった。
(善の秘密を知って、彼の覚悟と優しさを知って、なぜ俺は何もしなかった? ただ話しかけに行くだけで良かった。ただそばにいるだけで。俺は何のために善の秘密を共有したんだ? 俺の方が楊なんかと比べても何倍も卑怯者じゃないか?)
 とめどない内省で武蔵はすっかりおかしくなっていた。内側から破裂しそうなくらい頭が痛かった。この出来事をきっかけに彼は自らの恥辱と卑劣さを身に染みて実感することになった。そして彼の身と心を破滅させる決定打となった。

隔離生活

 何やら悪夢にうなされていた。目覚めは最悪なものだった。結局、武蔵は昨日自分がした(あべる)への罪深き行為への後悔に囚われて、まともにものを考えることもできず、何をする気力も起こらないで基本的に一日中寝込んでいた。だからいつ自分が深い眠りに落ちたのか分からず、気が付くと朝を迎えていた。目覚ましをかけていなかったので、もしかしたら寝坊したかもしれないと疑ったが、まだ朝は六時を回ったあたりだった。時間に安心したのもつかの間、武蔵は自分の体が妙に熱く、けだるいことにようやく気付いた。リビングにある体温計を手に取り、測るとおよそ三十八度の熱があった。武蔵は何となくこの風邪が昨日の絶望に駆られた心から引き起こされたと考えた。そして子どもたちには往々にして見られるが、武蔵は自分の体調の悪さが体温計の数値によって、まごうかたなき事実として実証されたことに少しばかり安堵の気持ちでいた。この絶妙なうれしさにはあの居心地の悪い教室に行く必要も、申し訳なさで思わずひれ伏してしまいそうな善に会う必要がないことからもきていた。少し考える時間が必要だと思って、しばらく仰向けになって天井を眺めていた。考えの対象はやはり善の事であった。ひたすらに答えの出ない後悔混じりの考え事をしていると、だんだん気分が悪くなっていった。ひどい頭痛とめまいにうなされながら、浅い眠りを繰り返し、現実と幻が交錯していた。
 母が武蔵の体調の悪さに気づき、車で近くの病院まで連れて行ってくれた。診断結果は時季外れのノロウイルスということだった。どこからうつったのか武蔵には見当もつかなかったが、一週間程度の出席停止が下された。家に帰ると、再びベッドに横になって、苦痛にうなされていた。
 現実と幻が目まぐるしく変化していった。それでも脳裏には善のことが常にあった。まるであの時の自分の罪が未来永劫、魂だけの存在になってもついて回る呪いであるかのように感じられる。論理的に物事を考える頭はすでになく、彼の意識は一時的、間欠的に現実とは遠くかけ離れた場所にあった。
 

 目の前は真っ暗だった。視界から得られる手がかかりは何もない。そこはまさしく黒の中の黒、闇の中の闇だった。意識が朦朧としている。彼は今自分自身が何者であるかについての確証がなかった。
(俺は一体誰だ)
「お前はベクター」
 どこかしらから声が聞こえてくる。抑揚のない機械のような声だ。周りに人がいるような気配はなく、彼の意識に直接訴えかけている感じがする。
「ベクターは媒介者。この世界の中立を保ち、あるべき姿へと方向づける」
 機械のような声が再び喋り始めた。
(ベクター)
 彼は突如突き付けられた名前なのか使命なのかを心の中で繰り返した。自分が誰であるかを見失っていたので、とりあえず彼はそれを自分の名として受け入れた。ベクターは謎の声に返答してみた。
「ここは一体どこで、あなたは一体誰なんだ」
 語気を強めてそう叫んだ。
「ベクターは媒介者。この世界の中立を保ち、あるべき姿へと方向づける」
 謎の声は、さっきと全く同じセリフを全く同じ調子で言った。まさにマニュアル化された機械と話しているようだった。
「お前は大きな役割を担っている。お前は全ての苦しみを、痛みを耐えねばならない。それがお前の使命」
 謎の声がそう言うと、ベクターはその言葉を一言一句聞き漏らさないように耳を立てて聞いていた。
(やはりベクターとは何かの使命のようなもので、俺がそうだということか)
 とその時、突如としてこれまで感じたことのない、まるでこの世のものと思えない苦痛がベクターを襲った。皮を生きたまま剥がされているかのような痛み、鍋で体を煮込まれているかのようなとてつもない熱さ。ベクターはもはや何も考えることができずに、ただその痛みに耐えながら、「ベクター、ベクター」と心の中で唱え続けた。名を失えば、自分の存在が痛みの中に消えてしまいそうだったのだ。そうして彼は馴染みのないこの言葉を、自分の最後の砦として必死に守り抜いた。
 突然ピタリと苦痛は収まった。目を開くと、そこはもはや暗闇の世界ではなく、美しく広大な大地と清々しく澄み渡る青空が視界に広がっていた。それらの大自然には、細かい大小の概念をかき消す永遠性が内在していた。
(なんて美しいんだ)
 ベクターは先ほどまで味わっていた想像を絶する痛みをほとんど忘れるほどに魅了されていた。だがしかし、それはほんのつかの間の幸福に過ぎなかった。ふと視線を下に向けると、彼の心は一変して悲しみに包まれた。そこには目を覆いたくなるような生々しい戦場跡が残されていた。どうやらベクターはどこかの崖の上に立っているらしく、見上げることばかりをしていたため、眼下に恐ろしい惨状が広がっていることにしばらく気づくことができなかったのだ。撃たれた馬たちはどうすることもできず無防備に地に横たえ、鉄砲やら大砲などの武器は人の生気を奪った無愛想な冷気を十分に纏って無秩序に散らかっている。そしてまるで当然かのように、おびただしい数の人間の死体が巨大な血の水溜りを作っている。
(なんてひどいことに)
 自分が数秒前まで真逆の感動を味わっていたことが思い出された。ベクターの目に映る光景は文字通り天と地の世界だった。一方は誰をも魅了する広大で美しい大自然の風景、また一方では人間の卑劣さと虚しさが充満する悲しき地獄絵図。ベクターはまるで世界の真実を詰め込んだ芸術絵画を見入るような心持で、ただただその場所に立ち尽くしていた。
「あれらは全てハディネスの仕業です」
 突然何者かが後ろから声を掛けてきた。ベクターはすかさず振り返る。そこには青っぽいスーツを身に纏った黒人の男が立っていた。服の上からでも分かる頑丈なその肉体と風貌は、アメリカ映画のSPを思い出させる。だが表情は、その見た目から想像できないくらい柔らかで、子どもの相手をする近所のお兄さんのような優しい顔つきだった。
「あなたは一体?」
「申し遅れました、わたくし案内役のホワイトと申します。ベクターの使命を授かったあなたにお仕えするため参りました」
 非常に丁寧な口調でホワイトはそう言った。
「案内役? 一体何を案内すると?」
「あなたの使命と闘うべき敵についてです」
 ベクターは戸惑っていたが、ホワイトの真剣な語り口からふざけて言っているのではないことが分かった。
「使命と闘うべき敵? そういえばさっきあなたは『あれらは全てハディネスの仕業です』と言っていましたが、それはつまりどういう事ですか?」
「ハディネスこそがベクターであるあなたが闘うべき敵そのものです。あなたはここに来る前におよそ耐えがたい苦痛を味わったはずです」
「ええ、それは尋常ではないものでした」
「それはハディネスが体内に入った時の苦痛です。この惨状(ホワイトはそう言いながら眼下の戦場跡を指差した)の根源となったのもハディネスです。ほらあのあたりに黒い塊みたいなものが宙に浮いているのが見えますか?」
 ベクターは目を凝らして戦場跡を見ていると、死体の近くあたりにたくさんの黒い塊が宙に浮いているのを確かに確認した。
「あの黒い塊がハディネスそのもので、僕が闘う敵というわけですか?」
「要するにそういうことでございます。あれらは言わば負の概念。この世界に無数に存在しています。そしてハディネスを消滅することができるのはベクターの使命を授かった者のみなのでございます」
「僕にしかあれを消滅できない。ハディネスを消滅しなければ一体どうなるというのですか?」
「あれを消滅しなければ、こうした惨状や悲劇が繰り返されてしまいます。戦争だけではない。あらゆる悲しみ、痛みの源にはハディネスがあります。ゆえに敵は強大です。あなたには一つでも多くのハディネスを消滅して頂きたいのです」
 ホワイトがそう言い終わると、ベクターは直感的に自分が受けた使命の重大さと、ハディネスが体内に入った時の苦痛が思い出された。
「あなたの話ぶりからすると、僕一人がハディネスと敵対するわけではない、ベクターの使命を授かった者が他にもいるということですか?」
「ええその通りです。過去を振り返っても、そしてこの先の未来もベクターはハディネスの対抗者として現れ続けます。しかしあなたは今、そのことを考える必要はない。あなたはあなたの問題を解決すればいいのです。あなたの敵と全力で闘ってもらうことがあなたに与えられた使命です。決してそれ以上のことは求められていないのです。やはりそれだけハディネスは恐ろしく、果てしないという事です」
 ホワイトの表情が少し硬くなったのが分かる。
「とにかく下に降りてみましょうか」
 ホワイトはそう言うと、ベクターを小高い崖の上から血の海の戦場跡へと連れて行った。近くでその惨状を目にすると、悲痛さがよりリアルに伝わってくる。死体の腐りかけた匂いがベクターの鼻を襲い、夏の雨に見られるような、生温かくて気持ち悪い空気が辺り一帯に漂っていた。ホワイトとベクターは一つのハディネスの目の前まで来た。
「さあ一度このハディネスを消滅させましょうか。あなたがこれに触れると、このハディネスは消滅します。しかしその時異常な苦痛があなたを襲います。そう、あなたがここに来る前に味わったあの苦痛です。それを乗り越えるとようやく一つのハディネスを消すことができるのです」
 ベクターは一瞬身震いを起こした。
「僕はまたあの苦痛を耐えなければいけないのですか?」
  おもわずベクターは質問した。
「そうです。いきなりこんな場所に連れてこられたあなたに、使命のため苦痛を味わえと告げるのは大変心苦しく、申し訳なく思います。私が代わってあげたいところですが、やはり私ではだめで、あなたでなければならないのです。あなたなら必ずこの苦痛を乗り越えることができるはずです。そしてあなた自身もこの使命を全うすることを願っておられる。だからここにあなたは来たのです。覚悟はお決まりになりましたか?」
 ベクターは決して抑えることのできない絶対的な恐怖を感じつつも、ホワイトが言うように心では自分がこの使命を全うしないといけないということが分かっていた。大きく一息ついて、心身両方における覚悟を決める。
「分かりました。これは僕の必ず完遂すべき使命なんだろうと思います。世界のためにも、僕自身のためにも」
「そうです。あなたのその覚悟はいずれ必ずあなたのためになるはずです」
 そしてベクターは思い切りよく両手を黒い塊の中に突っ込んだ。すると、あの時と全く同じ痛みがすぐにやって来て、ベクターはその場にうずくまり、もだえ苦しんだ。どんな迷いや不満も許されない。彼はただ使命としてその痛みを受け止め、誠実な心で悪を自らの内に迎え入れなければならなかったのだ。彼は自らの存在全てを表す「ベクター」という名を決して忘れないように苦痛に耐え続けた。
 ずいぶん長く経ったろうか、あの時同様、痛みはピタリと止まった。荒々しくなった息を徐々に整え、開けられなかった目をゆっくりと開いていくと、目の前に心配そうな表情でベクターを見つめるホワイトの姿があった。
「お疲れ様です」
 重々しくホワイトがそう言うと、ベクターは自分が苦痛に打ち勝ったことをようやく正しく理解することができた。
「良かった。でもこれでようやく一つか。さすがに笑えますね」
「本当に。残念ながらハディネスを消滅させる方法はこれしかないのです。ただ何事も初めの数回を乗り越えれば、あとは徐々に慣れてくるものです。感じる身体的苦痛の大きさも段々小さくなっていくかと思います。まあとは言っても今日はここでお休みとしましょう。ではまた近いうちに」
 ベクターは初めての仕事を終え、周りに転がる死体と同じように寝転がり、仰向けになって空を見つめていた。
 
 
 いつしか武蔵は目を覚ました。そこには見慣れたいつもの部屋が広がる。一体自分の身に何が起こったのかうまく整理できない。ただ恐怖と痛みの感覚だけを体が覚えており、時間が経つごとにどんどんと夢の情景は薄れていく。全身は汗まみれ、額は熱く、どうしようもない吐き気がする。ほとんど体を動かすこともできないので武蔵はただ目を閉じて体を休めた。それはまるで戦場の兵士が次なる闘いに向けての束の間の休息を取るようであった。

ベクターの闘い


「お久しぶりです、ベクター」
 相変わらず図体にそぐわない害のない笑顔でホワイトが呼びかける。ベクターとホワイトの前に広がる光景は、こないだと寸分違わぬ戦場だった。
「またここですか」
 ベクターがつぶやく。
「まだここのハディネスを退治していませんからね。といっても、ひとまずこの場所を浄化することがあなたの使命です」
 ホワイトは愛想の良い口ぶりで、「浄化」という言葉に特に力を入れて言った。
「ここのハディネスを全てですか」
 ベクターはそう言いながら周りを見渡すと、おおよそ二十個ほどのハディネスが宙に漂っているのを確認した。ハディネスを見るや、あの苦痛が再び思い出だされた。
「一つずつ片付けていきましょう。時間はいくらでもあるので」
「分かりました」
 ベクターの覚悟はもう決まっていた。彼は決して自分の運命を理不尽なものだとは思わなかった。
 
 時間の概念があやふやなこの世界では、それは無限に感じるほど長く、一瞬に感じるほど短い時間だった。ベクターはようやく五個のハディネスを消滅させることができた。相変わらず苦痛はとてつもないものだったが、ホワイトが言ったように初めの頃に比べるとその苦痛にも幾分か慣れていた。それでも急いで消滅しすぎると体が苦痛の許容量を超えてしまう。十分な休息を取りながらベクターはハディネスに立ち向かった。五個目のハディネスを消滅させた後のベクターは、顔中が腫れ、体中の汗が止まらず、まともに声を出すこともできず、ホワイトの呼びかけにほとんど応えようとしなかった。
「今日のところはこれくらいにしておきましょうか」
 ベクターの様子をさすがに見かねたホワイトはここを限界とし、残りは次に持ち越した。
「ホワイトさん」
 息を整えながら、ゆっくりとベクターは話しかけた。
「ホワイトさん、絶望的な痛みを経験することで、ベクターという使命がいかに大変かつ重要な務めで、ハディネスがいかに強大かを文字通り身をもって理解できました。こんなものが世界中に無数にあるのでしょう。一体いつまで続ければこの闘いは終わるのでしょうか。本当に私たちはハディネスに勝てるのでしょうか」
「ベクター、それは私たちが決して諦めてはいけないことなのです。理想が砕かれれば相手の思うつぼです。私たちは無条件にその理想を信じなければならない。それが自分を保つ唯一の方法なのですよ」
「分かりました。少しネガティブになっていたみたいです。そこを失ってしまうと何もかもが無駄になってしまうことは自分でよく分かっていました。質問を変えましょう。ではホワイトさんはなぜハディネスを直接消すことはできないのですか?」
「私はそこから来た者ではないからです。あれらは人間から生じたものであるので、人間によって消滅されなければ意味がないのです」
「ホワイトさんは人間ではないということですか?」
「そうなりますね。それ以上は伏せておきましょう」
「人間によって生み出されるものなら、ハディネスはどんどん増殖していくものなのですか?」
「残念ながらその通りです。我々が想像する以上のスピードでハディネスは増殖しています。今現時点では我々の勢力は圧倒的にハディネスに及ばない。しかし物事は単純な数で計れるものではありませんからね。何が起こるかは分かりません。ただベクターは個人に与えられた務めを果たしていくだけです」
「なるほど、何となく分かってきました。ここがどこかも。どうやらここは現実世界と全く無縁の場所ではないのですね」
「そうですね。この世界は現実世界で現実世界はこの世界、両者は持ちつ持たれつ、表裏一体なんです」
 ホワイトがそう言い終わると両者の間にちょっとした沈黙ができた。
「それではおしゃべりもこれくらいにしときましょうか。ではまたこの場所で」
 ホワイトがそう言って話を切り上げると、ベクターは今日の務めを終え、ゆっくりと目を閉じた。
 
 
 例によって、武蔵は大変な苦しみを伴って飛び起きた。これで隔離生活三日目だ。あれは奇妙な夢だったのか、それとも単なる夢ではない何かか。考えようとすると頭痛がひどくなる。そもそも自分の無意識下で起こった何かについて、正確に思い出すことがもはやできなくなっていた。熱は一向に下がらず、まだまだ外に出られるような体ではなかった。一体自分がいない間、クラスはどうなっているのだろうか。文化祭準備は順調に進んでいるのだろうか。(あべる)は地獄のような教室で一人耐えているのだろうか。そんなことを考えるうちに武蔵はなぜか、自分が、耐えがたい苦痛を通して善と、はたまたクラスと繋がっているような気がしていた。武蔵を奮い立たす精神の火は、そんな何となくの感情から想起される空間を越えた、か細い連帯によって何とか保っているかのようだった。
 

「残りのハディネスはあと何個くらいでしょうか?」
 ベクターは落ち着いた様子でホワイトに問いかける。もはやベクターの顔には恐怖や困惑の色はなかった。
「およそ十五個ほどです」
「そうですか。分かりました。さっそく向かいましょう」
 ベクターはそう言うと、一層表情を引き締めて、邪悪な黒の塊の元へ、躊躇なく立ち向かっていった。ホワイトももはや余計な事は何も言わない。その勇敢なる後ろ姿に向けて、ただ静かで温かい眼差しを送っているのみであった。ベクターは、ふっと一息入れて、勢いよくその漆黒に突っ込んでいった。一気に三つのハディネスがベクターの体内へと侵入する。それまでただ浮かんでいただけの小さな雨雲のようなその物体は、獲物を見つけた猛獣のごとく、壮絶な勢いをもって彼の体を蝕んでいく。だがベクターも負けてはいなかった。決して折れない彼の信念は、痛みを越え、死をも越えていく。たとえ息の根が途絶えようと、その地に執念深く残り続ける呪縛のように、まるで信念それ自体が彼本体とは別の一つの生命体になったかのように、ハディネスに対抗するというたった一つの強力な意志に基づいた確固たる存在をベクターは自分の内に感じていた。
 そしてベクターはハディネスに打ち勝った。彼は血と泥の混じった大地に横たわり、無限の彼方まで広がる空をただ見つめていた。身体は、すでに想像力の外側にある苦痛の余韻で震え続けていたが、その目は真っ直ぐ、落ち着いた様子で、何もない、しかし全てを含んだ青の中にあった。五感を超えた感覚が妙に研ぎ澄まされ、周りが全て無音であるようだった。そのせいでホワイトの呼びかけに気付くことができなかった。
「ベクター、大丈夫ですか?」
 心配そうにホワイトは見つめていた。
「あ、ホワイトさん。ごめんなさい、ぼーっとしてました」
「一気に三つのハディネスを退治するなんて無茶を」
「体がバラバラになったようです。でも不思議と何故か今は心地が良い。もう僕は負けない気がしてきました」
「それは頼もしい限りです。死を越えた感覚を味わいましたか?」
「ええ。使命の重みが痛みと共に僕の中で膨れ上がり、まるでそれ自体が生きていて、それは痛みでは駆逐できないものであるように感じます」
「ハディネスが抗えないのは強力な意志の力です。信念の力です。あなたの中にあるそうした力は、運命によって背負わされた使命と共鳴して、もはやあなた自身の存在となりつつあるのでしょう。完全な形で同一化した決して揺れないそうした存在は、真のベクターである証です」
 名を失い、新たに与えられた「ベクター」という使命、もうその名は彼にすっかり馴染んでいた。ベクター自身もそれが自分の名前であることを違和感なく受け入れていた。使命が名となり、彼自身の存在を示すものとなった。
 それからベクターは十分な休憩を挟みながら、着々とハディネスを消滅させていった。ホワイトがもっとペースを落としていいと言いながらも、それを聞かず、自分の身体が崩壊しないギリギリで立て続けにハディネスを消滅していく。そしてついにベクターは、そのおぞましい戦場のハディネスを全て消し去ることに成功した。それを見届けたホワイトは驚嘆して、ベクターに感謝をのべ伝えた。
「いつもベクターの使命を与えられた人間には驚かされてばかりです。まさかこんなにも早くここのハディネスを全て消滅してしまうとは。時にベクターは我々の想像を遥かに超えて力を開花させます。あなたが見せたような非連続的で予測不能な人間の潜在能力は、単純な数では劣る我々の最大の希望となりましょう。あなたは使命を完全に全うされました。本当にありがとうございます。これはあなたにとっても、あなたの周囲にとっても必ずや良い影響を及ぼすでしょう。誰もあなたの存在に気付かなくとも、あなたが成し遂げたことの価値は私が、そしてあなた自身が保証しているはずです」
 ホワイトは涙ながらにそう述べた。試合を終えたばかりのボクサーのようにボロボロになったベクターはホワイトの言葉を聞きながら、自然と優しい微笑みの表情に変わっていた。
「何とか今の自分にできることはやりました。でもまだこれで終わりじゃないんでしょう?」
「ええ。またあなたにはここか、こことは別の醜悪極まるどこかかに来て頂くことになるでしょう。ハディネスとの闘いは果てしないですから。けれどひとまずはこれで一つの終着です。ずっと言っているように、あなたはあなた自身ができることで、個人に与えられた使命を果たせばいいのですから」
「そうですか。じゃあひとまず安心ですね。もうこんな生臭いところはうんざりですから。ただ今だけは、この瞬間だけは、この腐れ果てた戦地が、どんな美しい街よりも居心地が良いように感じます。世界とは全く不思議なものですね」
 ベクターは感慨深げに、仰向けで大地に背を合わせながらそうつぶやいた。
「ここには一時的な平穏が保たれていますからね。ハディネスのない地には不思議な美しさと幸福感に包まれています。今はそんな瞬間を噛み締めていましょう」
 ホワイトがそう言うと、ベクターはアイコンタクトで返事をし、一時的に澄んだその空気を味わうかのように深呼吸をした。二人は何の気まずさも籠っていない長い沈黙に入り、しばらくそれぞれの感動に浸っていた。
「さあ、そろそろ戻りましょうか」
 ホワイトがそっとささやくように言った。
「そうですね。ここでホワイトさんに会えてよかった。忘れることはありません」
「私もあなたのような澄んだ瞳をした方と仕事ができて良かった。柔らかだが、その瞳には真っ直ぐな強さがある。あなたならどんな闇をも打ち砕き、あなたの課題を乗り越えていけるはずです。まあまたいずれ会う事になるでしょう。ではその時まで」
「お元気で」
 地上から空を見上げる彼の視線は、まるで一筋の光のように遠くかけ離れた天と地の二つの世界を結びつける。その光の道によって天の恵みが行き届いた地では、いかなる混沌も消え失せ、大地が生き生きと輝いて見えた。ベクターは消えゆくそんな一瞬の光景を決して忘れないようにと心に留めた。その一瞬のために人生の全てを捧げられるほど、あらゆる幸福に包まれた見事な光景だった。
 
 
 武蔵の体は徐々に快方へと向かい、身体的な不安、また善に対する罪の意識から生じていた精神的な不安も解消され、隔離期間を終えた。学校復帰当日の月曜日、忘れかけていた朝のルーティンをいつもよりゆっくり丁寧にこなし、余裕をもって家を出発する。懐かしさすらある夏の気配が少し混じった穏やかな春の風が彼の体に優しく触れる。一週間前と何ら変わらなく見える学校へ到着し、校舎へと入る。階段を上り、いつもの二年六組の教室へと向かう。揺れることのない確かな覚悟と全体的な緊張感とが醸し出される彼の後ろ姿は、新たな戦場へと向かう戦士のように見えた。

文化祭準備

 学校生活において一週間の時のずれは、まるで自分だけ別の世界の中にいるような感覚に陥らせる。世間話でも、学業でも一人取り残されていた武蔵は、早急にぽっかりと空いたその穴の埋め合わせをせねばならなかった。そして彼が何よりも気を配らなければいけない問題は、やはり文化祭準備であった。文化祭本番までとうに一か月を切っており、武蔵が休んでいる時から準備は進められていた。準備の進捗状況は同じく実行委員のナオミから聞いており、ナオミに一人で実行委員の仕事をさせてしまったことに申し訳ない気持ちでいっぱいであった。六組は文化祭でミュージカル劇を行うことが決定している。ナオミによる猛烈な推薦があったそうだ。
  ミュージカルの内容は「ハイスクール・ミュージカル」を簡易版にアレンジしたもので、(さとる)、明華、ナオミを中心にストーリーを練り上げ、武蔵が復帰したときには配役を決める段階まで至っていた。一方、クラスの雰囲気はと言うと、決して良いと言えるものではなかった。一見、文化祭が近づいてきたことで、クラスとしてのまとまりがあるように感じられるのだが、依然として(あべる)の周りには人がおらず、邪気を纏った不気味な何かがまだまだ教室に漂っていた。孤立した善の姿を見ると、武蔵は一週間前の胸を痛める感覚が思い出された。楊はもうすっかり善の話題など遥か昔の話であるかのように、周りにたくさんの人を惹きつけ、新しい話題で盛り上がっている。武蔵から見ると、この一週間で教室の様子は良くなるどころか、さらに悪化しているように思えた。善に関わろうとしないクラス全体の空気は、時と共に常態化し、すでに当たり前の了解の内に溶け込んでいた。その空気はもはや聡でさえも、明華でさえも変えることができずにいた。武蔵はこのクラス全体が内在的にもつ根本的な狡猾さと不気味さとを直観的に感じ取っていた。
(俺はまたここに戻って来たんだな)
 自分のいる場所と現状、そして彼がすべきことを再度確認し、気を引き締め直す。武蔵は自分に躊躇の隙を与えず、以前電車で感じた重たい石のような何かをはねのけ、善の元へと向かっていった。二人が会話するのはいつぶりのことだっただろうか。
「善、久しぶり」
 第一声何を言おうか迷ったが、ありふれたセリフを意味ありげに言う。
「本当に久しぶり。僕は携帯持ってないから連絡できなくてごめんよ。体の方はもう大丈夫かい?」
 善の口調、話している時の表情、何もかもが好意に溢れていた。日ごとに変わるトレンドが支配するこの教室において、まるで善の時だけが止まっているかと錯覚するほどに、善の武蔵に対する態度に一切の変化もなかった。
「いやもう体は大丈夫。それより、その、善は元気?」
 武蔵は思わずぎこちない質問をしてしまう。
「僕は元気だよ。心配する必要はないさ」
 善は笑顔ではっきりと答える。特に落ち込んだりはしていないようだ。これまで孤立の経験を何度も味わってきたから慣れているのだろうか。
「それは良かった!」
「うん。でも元気出すのは僕より武蔵の方だろ? 今からだって準備があるんだから早く行きなよ」
 善は武蔵に気を遣ったのか、半ば強制的に準備の方へと武蔵を追いやった。武蔵は善のいつもと変わらぬ様子に一瞬安堵の気持ちになったが、状況は何一つ好転していない。やはり善はクラスの誰とも関わろうとしていなかった。自ら孤立の中に身を置くことによって、何をも干渉させない見えない障壁を張っていた。それは彼が経験から習得した自らを守る最良の術であった。そしてその障壁へと入ることができるのは世界で唯一自分だけであると武蔵は確信しており、何とか善を壁の外にあるクラスの世界へ結びつけたいという欲求に駆られていた。もちろん善にとっては、クラスとの関わりなど必要ない、ましてや害を与えるものとまで思っているかもしれないが、彼の一番の理解者である武蔵としては、今の状態が決して良い状態とは思えなかった。お節介とも思えるかもしれないが、善とクラスの両者の全体的な調和こそが武蔵の求めるものであり、彼にとってそれは自然的かつ根源的な欲求であった。そうして漠然としたある思いつきに至る。
 
 ある時、武蔵とナオミは聡と明華の正副委員長に文化祭準備の話し合いをしたいということで放課後の教室に呼び出された。武蔵が復帰したので、もう一度準備の進め方を確認したいとのことだった。
「武蔵もナオミもすまないね、部活もあるのに残ってもらって。本来文化祭準備は実行委員主体で動くべきだとは思うんだが、武蔵の意見を聞く機会を設けて、実行委員と正副で意思統一したいと思ってね」
 聡がそう言って、三人を順番に眺める。
「謝るのは俺の方だよ。こんな大事な時期にいなくなってしまって申し訳ない」
 すまなそうに武蔵が言うと、気にせんでええよとナオミが持ち前の愛想の良さで返してくれた。
「念のため準備の流れを確認しておこう。我々のクラスはミュージカル劇をする。ストーリーはもう僕と明華とナオミで決めさせてもらった。明後日の準備の時間で配役は全て決めたいと思ってる。今日埋まらなかったところがあるからね。配役が決まり次第、各チームに分かれて練習や準備、その後全体ですり合わせるといった流れだ」
 そう言って、聡は武蔵に物語のあらすじをおおまかに説明していった。内容は非常にシンプルで分かりやすく、かといって雑に作られているわけではなかった。無駄を極端に省き、物語のメリハリがきっちりとつけられていた。よく作りこまれたシナリオに武蔵は感心した。
「こんな感じだけど、どうかな? 何か武蔵から提案とかはない?」
「うん、すごく良いと思う。配役はどこが決まっていないの?」
「主演はおよそ六人。主人公は俺が、ヒロインはナオミが務めることになった。明華はお金持ちの女の子の役を演じる。その他の役がまだ決まっていない。歌を歌うこともあってハードルが高く、なかなか決まらなかったんだ」
 武蔵はこの時、善と話し終わった時の思いつきが頭に浮かぶ。そして思い切って三人に提案してみようと決意した。
「あのさ、一つ提案があるんだけど」
 少し下向きながら、恥ずかしそうにして武蔵は言う。
「善に、善に主演をやってもらわないかな?」
 聡と明華とナオミは、思わぬ提案に一瞬止まったように見えた。武蔵は続ける。
「いやこっちが配役を勝手に決めるわけにはいかないんだけどさ。きっと今のままじゃ善はこの文化祭に積極的に関わろうとはしないと思うんだ。それはみんなも知っての通り、彼がクラスで孤立していて、彼自身もあえてクラスのみんなと距離を取っているから。けれど、俺は善に何とか文化祭に積極的に関わってほしいと思ってる。それが彼にとっても、クラスにとっても必要だと思う。俺から善に提案してみるよ」
 武蔵の思いつきというのは、この文化祭を善とクラスを繋ぎ合わせる機会とすることであった。この思わぬ武蔵からの提案に対する、三人の反応は正直予想外のものであった。
「それは悪くないな。俺も正直、善君の今の状況は気になっていた」
 聡がそう言うと、ナオミも続く。
「私もめっちゃええと思う。もちろん加藤君が良いって言うならやけど。楊君に噂流されちゃって、みんな近づこうとせんくなったし。これは仲良くなる良い機会かも!」
 明るい調子でナオミは答える。
「確かに良い考えだけど、そもそも加藤は歌を歌えるの?」
 明華は逆に落ち着いた調子で武蔵に聞き返す。
「いやそれは分からない」
「まったく、本当に思いつきで言ったのね。ちゃんとそのあたりも確認しておくのよ」
 呆れた様子の明華だったが、提案自体は受け入れてくれた。
「無理矢理やらせるのは良くないから、ナオミと明華が言うように、本人がやりたいという条件付きだね。そこのところは自信あるのかい武蔵?」
 聡も相変わらず落ち着いた口調で、的を得た質問をする。
「自信はないけどやれるだけのことはやってみたい。もしかしたらく彼もほんとはやりたいと思ってるかもしれないし。善は実は陽気な奴だから」
「意外やね」
「そうね」
「ああ意外だ」
 四人は同時に少し微笑んだ。提案が思ったより好意的に受け止められて武蔵は安心した。みんなも心の中では、善の状況を何とかしたいという気持ちが少なからずあったのだ。それが分かっただけでも、このクラスは変化する可能性を秘めていると思えた。絶望しかない魔窟ではない。一人一人の心奥には小さくとも確かな光が存在していた。
 
 後日、武蔵は帰り際の善をすぐさま捕まえて、学校から出てすぐのところにある小さな公園のベンチへと連れて行った。連れて行ったと言っても、強制的に連行したわけではない。話があるから来てくれと言うと、善は特に訳も聞かずに武蔵についてきた。話の目的はもちろん、昨日打ち明けた提案を善に直接話すためだった。なるべく人がいない場所が良かったので、ちゃんとした名称があるのかも怪しいようなその古ぼけた公園はある意味絶好のスポットであった。周りでは都会に住む鳥たちの優しいさえずりと近くの国道を通り過ぎる車の怒ったようなエンジン音とが交互に聞こえてくる。人は一人もいなかった。少し遠くの視界には、それぞれの帰路へと向かう生徒たちの姿が見えた。
「いきなり呼び出してごめん。ちょっと文化祭のことで一つ善に提案があって呼んだんだ」
 そう言うと、分かったと善は答える。
「善、もし良かったらミュージカルの主演をやらないか?」
 何の飾りもつけずに、率直に結論から述べた。
「僕が主演に? またどうして僕にお願いするの?」
 驚いた様子で聞き返す善。武蔵の狙いに、ある程度察しはついていたが、その真意を語らせるべく問いかけた。
「もちろん善がやりたければでいい。これはお願いというより提案だから。出て欲しいと思った理由は、善がもっと積極的にクラスと関わるようになって欲しいと思ったから。でもその前に俺は善に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
 武蔵は込み上げる恥辱を堪えながら震えるように言った。
「謝るって何を? 秘密がバレたことなら気にしなくていいよ。どういう訳かクラスにバレてしまったことはもう知ってるし、そのことで武蔵を疑ったりしてないから」
 やはり善はすでに秘密がバレたことに気付いていた。
「秘密は楊が広めたんだ。善の机の中にあったノートを見て。でもそのことじゃないんだ。俺は楊が広めたことを知っていながら善に何も声を掛けなかった。それだけじゃない。ある時俺は帰りの電車で善を見かけた。俺も善も一人だったのに見て見ぬふりをしたんだ。善の全てを知っていながら、善が孤立していく姿をただ傍観していた。善と関わると俺もクラスから除け者にされるんじゃないかって怖かったから。本当に申し訳ない。この件で最大の罪があるのは楊よりも、善の理解者でいるという約束を破った俺の方だ」
「約束を破ったわけじゃないだろ? 話さなくとも武蔵が僕を見捨ててないことは分かったよ。僕はそれで平気なんだ。孤独ならもう慣れてるし」
「いや良くない。このままで良いはずがない。もう善が孤立しているのは見たくないんだ。善は強い。今までその強さに甘えてただ見ていただけだったけど、これからは善の唯一の理解者として俺なりにできることはしたいんだ。そしてだからこそ善にこのミュージカルに出て欲しい。出て、クラスのみんなと一緒になって文化祭を作り上げて欲しいんだ」
 感情的になって武蔵は語る。理性のフィルターが掛かってしまうと伝えるべきことが伝えられなくなる気がした。善は黙って武蔵の次の言葉を待っていた。
「みんなのことを諦めないで欲しいんだ。ちょっとしたきっかけでこのクラスは良い方向に進んでいく気がする。そしてこの文化祭が最大のチャンスだとも思う。だから善には俺以外の人にも心を開いて欲しい。そうすればみんなきっと受け入れてくれるよ。それが誰にとっても一番良いことだと俺は思うんだ」
 武蔵はもう二度と同じ過ちを犯さないと、なるべく正直に自分の気持ちを吐くように努めた。すると、善は真剣な表情から一転して少し笑った。
「なるほど、武蔵が僕を出演させたい理由はよく分かった。でも主演って歌も歌わなきゃいけないし、踊りもしなきゃいけないだろ? そんな簡単にできるものじゃないと思うけど」
「ああ。もちろん簡単なこととは思ってない。ただ一番分かりやすい役を与えられた方が善とクラスの両方にとっていいと思ってな。駄目元で提案してみた。ちょうど配役もまだ決まってないらしいし。主演じゃなくとも、裏方としてクラスに協力してくれるならそれはそれで大歓迎だ」
「大変だけどそれが一番いいか」
 善はそう言うと、少し間を開けてから答える。
「分かったじゃあいいよ。僕が主演をやるよ。どうせなら派手にやろう」
 威勢よく善は答える。
「え、本当にいいの? 嫌なら嫌でいいんだぞ」
 正直断られると思っていたので、武蔵は善が気を遣って役を受け入れたのではないかと疑った。
「僕にやってほしいんじゃなかったの?」
 からかうように善が言った。
「いやそうなんだけど、まさかこんなすぐに承諾してくれるとは思わなくて。また俺に気を遣ったりしてない?」
「してないしてない。これは本心で言ってるよ。武蔵が文化祭でクラスを変えたいと思うんなら、僕もどうせなら一番目立つ主演をやってやるよ。それに一度こういう劇とか出てみたいと思ってたし、歌うことも実は好きだからね。昔から教会でよく讃美歌を歌ってるんだ。まあ踊りはからっきしだけど。クラスのみんながいいって言うなら喜んでやらせてもらうよ」
「必ずみんな認めてくれるさ。本当にありがとう善」
 武蔵は嬉しさと安堵で一気に力が抜けたような気がした。
「武蔵、ちゃんと文化委員の役目果たしてるね。やっぱりなって良かったじゃん。心なしかちょっと変わった気がするよ」
「変わった? そうかな? どういうところが?」
「うん、全体的に」
「それは良い意味で?」
「うん、良い意味でめんどくさくなったと思うよ」
「それほんとに良いのか?」
 善は笑っていた。武蔵は善の心からの笑顔を久しぶりに見た気がした。その表情を見ていると、武蔵の顔も自然と微笑みに包まれていた。
 武蔵はまだ部活があったので、善とは校門の前で別れた。善は駅の方へ、武蔵は再び学校へとそれぞれの方向に向かって歩を進める。一つの重要な務めを果たした武蔵は、善が言ったように今では文化委員になって良かったと自分でも思うようになっていた。そして今後彼が文化委員として果たすべきことと見据える未来の像が次第に明確な形を伴って見え始めていた。

文化祭準備2

 配役も全て決まり、本格的な文化祭準備が始まっていった。(あべる)は無事に主演を務めることが決まり、結局主演六人は、主人公の(さとる)とナオミ、それから伸二、明華、楊、善が務めることになった。武蔵は主演には立候補せず、クラス全員でダンスを披露するラストシーンのみの出演にとどまった。基本的には裏方の仕事を受け持って、みんなをサポートする側に回ることになった。武蔵、ナオミ、聡、明華の四人は、事あるごとに話し合いを重ね、委員と協力しながら円滑に準備を進めていった。
 準備において特に異彩を放っていたのはやはり聡だった。彼は実行委員を準備の中心に据え置きながらも、その突出した政治能力で場をコントロールし、効率的かつクラスのポテンシャルを最大限引き出すよう努めた。あらゆるところに目を配り、戸惑う生徒たちに文化祭に向けての軌道を見事に示していった。聡の提案によって、踊りはダンス部に振り付けを覚えてきてもらい、彼女らを指導役として任命した。歌は、まず洋楽の曲を正しく歌えるようになるべきだと言った聡が、YOUTUBEの発音解説の動画を持ってきて、主演メンバーと共に発音練習をした。また聡は準備を最大の能率で行うには、クラス全員の精神的な貢献が必要不可欠であると心得ていた。すなわちクラス全員が積極的に文化祭に関わる必要があると考えたのだ。実際にミュージカル劇をすると聞いて、あまり乗り気ではない生徒も一定数存在した。その問題を解消するために聡が最初に手を付けたのは楊だった。クラスの人気者であり、その性格をある程度把握していた聡は、楊の影響力を利用してクラス全体の士気を引き上げようとした。楊は地味で面倒なことは基本的にやりたがらないが、派手で注目されることには多少大変でも全力で取り組む性格だった。聡は楊に配役を与えることで、彼が文化祭に本気で取り組むよう促そうと目論んだ。聡から主演の依頼を受けた楊はノリノリで承諾し、それから自発的に準備に関わるようになった。そして聡の狙い通り、楊が文化祭に本気で取り組み始めたことは、他の生徒たちに好影響を及ぼし、多くの生徒が積極的に準備に関わるようになった。この頃から二年六組は確かな一体性を持った組織として始動していった。
 そうして役を得て、劇の中心メンバーの一人となった楊は自慢の集中力とセンスで、メキメキと演技力を上げていった。演じることに夢中になった楊は、サボることもなく真面目に練習に取り組んだ。また彼は持ち前の明るさとでかい声で演技チームだけでなくクラス全体のムードメーカーとしての役割も担った。今や彼は聡や武蔵たちにとっても非常に頼もしい存在となっていた。
 一方の善はと言うと、初めの方は緊張していたのか、やはり他の人と打ち解ける気があまりないのか、目立たないように無難に練習をこなしているように見えた。だがデュエットを組むことになった明華とコミュニケーションを取るようになり、明華、伸二、聡らの気遣いもあって段々と輪の中に溶け込めるようになっていった。そして彼には類稀な演技センスがあった。まさしく隠れた才能というもので、役の特徴を捉えるのが上手く、自然と役に入り込むことが最初からできていたのだ。またチームの輪に溶け込んでいくにつれて、その演技も思いきりが良くなり、迫力が増していった。さらに彼が自分で言っていたように歌は感心するほど上手で、見ていた生徒たちは善の新たな一面に驚くばかりであった。徐々に彼の「熱狂的宗教人」というスティグマも剥がされていった。その姿を傍(はた)から眺めていた武蔵は、演技をする善が輝いているように見え、とにかく嬉しかった。
 ヒロインの座を掴み取ったナオミも強烈な存在感を教室中に見せつけていた。普段はふわふわしているように見えるナオミだが、ひとたび演技になると人が変わったかのように演技に集中した。幼少期からのミュージカル経験者であったナオミは、当然のように歌、踊り、演技全ての完成度が高かった。舞台上を可憐に舞う彼女の姿は、水を得た魚のように生き生きしていた。演技中の彼女が、日常生活で見る彼女よりも幾分美しく見えることを武蔵は認めざるを得なかった。歌の指導や、演技のアドバイスを彼女らしい、決して人をイラつかせない口ぶりでみんなに伝えていく。演技チームのリーダーとして、実行委員として立派に役目をこなしながらも、時々信じられない天然行為を見せつけ、クラスに明るい話題を提供し続けた。そうした彼女のギャップに誰もが好感を持った。
 伸二と明華はまるでクラスのお兄さんとお姉さんのように常に落ち着いて、目まぐるしく変わる状況を整理し、それを周りに伝えていった。演技チームの善が心配だった武蔵は、あらかじめ二人に、善が孤立しないよう配慮してくれないかと頼み込んでおいた。二人はもちろんと言って快く受け入れてくれて、実際二人のお陰で善は演技チームに武蔵がいなくとも自然に溶け込めた。むしろ武蔵がいない方が、面倒が起きずに良かったのかもしれない。また二人はパニックに陥りやすい武蔵にもちょくちょく声を掛け、暇な時は裏方の仕事も積極的に手伝ってくれた。武蔵はいつも二人に感謝の気持ちでいっぱいだった。
 こうした個性溢れる人物たちが自らの個性を十分に発揮し、それぞれに与えられた役目を果たしていた。そうした中で武蔵の仕事は彼らに比べると地味で目立たないものだった。もちろん実行委員としてクラスの中心的役割を担っていたことは確かだが、彼の主な実際的な役割は小道具・衣装チームのリーダーであって、いわゆる裏方の代表であった。その仕事内容は、劇で用いる小道具の作成、収集、管理等であった。時には自ら足を運び、必要なものを買い集めることもあった。その他にも、劇の概要を示した紹介文を生徒会に送ったり、クラスTシャツの作成の手配を製作会社と話し合ったりなど表には出ない仕事のほとんどは彼が関わっていた。大変であるにも関わらず、称賛されにくいそのような仕事を武蔵は自ら引き受けた。自分にとってはこれらの仕事こそが自分に向いていると直感的にそう思ったのだ。彼としては成果が目に見える演者でいるよりも、影でみんなを支える裏方に徹する方が居心地は良かった。その方が彼の性に合っていたし、そもそも歌や演技に全く自信がなかったのだ。そして彼は自分が受け持ったそれらの仕事一つ一つに、決して円滑とは言えないながらも全力で向き合っていった。委員決めの時に聡が言ったように、何事にも全力で取り組めることは武蔵の個性であって、そしてその姿勢は他の生徒たちに確かに伝わっていた。演者以外の生徒たちの中には、準備に対するモチベーションが低い生徒もいたが、武蔵の真面目で、文句も言わずに準備に取り組む姿勢を見て、徐々に彼らも準備に関わるようになってくれた。彼らは武蔵が何も言わずとも、不思議と自発的になっていったのだ。
 こうした武蔵の他者への影響力は、聡とはまた違った種類のリーダーシップの形を示していた。もちろん意図的に彼がそうしたリーダーシップを行使したのではない。彼はただ誠実な努力でもって、眼前の課題に取り組んでいるだけであった。そもそも武蔵と聡には物事の捉え方の時点において根本的な違いがある。武蔵はあくまで理念を主眼に置きながら現実の物事を捉えている。だがそうした理念は明確な形を伴わない漠然としたイメージに過ぎない。そうしたイメージをなるべく形ある存在として可視化するため、あるいは理念と現実の狭間に生まれた空虚を埋めるために彼は自らの想像力を利用する。一方で聡の思考プロセスは徹底的に目に見える現実に基づいている。形ある存在として理解できる情報のみを信用し、それらを出来るだけ多く集め、比較したり、組み合わせたりすることで最終的な最適解へと導く。つまり聡は論理的思考力によって目に見えぬ物事の行間を結びつけているのである。
 この二つの、一見対立にあるとも思える世界認識は、当然課題解決の方法においても異なったプロセスを辿ることになる。だがそうした二つの物事の捉え方に優劣はなく、むしろ両者が結託し、課題解決の両輪をなすことによって組織の真の潜在能力は発揮される。そういう意味で、二年六組は今、組織として完成された状態にあったのだ。
 
 六月中旬、いよいよ文化祭前日を迎えた。一ヶ月弱という限られた時間の中で、生徒たちはできる限りの準備を進めてきた。二年六組は本番一週間前にもなると、毎日のように夜まで練習し、部活が終わってから参加している生徒もいるほどであった。すでにリハーサルで本番の流れも確認し終わり、本番に向けてやるべき事はほとんど残されていなかった。それでも放課後になると、実行委員や主演たちは最終確認のためしばらく教室に残っていた。ダンスをもう一度合わせてみたり、明日使う小道具を何度も確認したりするが、みなどこか集中できていない様子だった。それはついに本番がやって来るという緊張とここまで準備をやり終えたことに対する達成感をみながそれぞれに感じていたのだろう。文化祭というものは、本番よりもむしろ準備にこそ本質があるものなのだろうか。そのようにしてしばらく何かしらの作業をしていたが、さすがにもうすることが見つからず、生徒たちは帰宅の準備を始める。その場の成り行きで武蔵、善、伸二、藤田は一緒に駅まで帰ることになった。四人が支度を済ませ、教室を出ようとしたその時思わぬ人物の声が聞こえた。
「加藤」
 無愛想な声で善を呼んでいるのは楊だった。声の方へ振り返った四人は一瞬唖然とした表情で楊の顔を見た。文化祭準備で善が演技の練習をするようになってから、善のクラスでの株は確かに上がり、武蔵以外の生徒と会話する善も頻繁に見られるようになった。それでも楊と善が話しているところは未だに見たことがなかった。楊は何の脈略も前置きもなく話し始めた。
「悪かったな、前の事。勝手にお前のノート見てもて、みんなに広めてもて。俺の考えが甘かった。それだけ言いたかった。じゃあな」
 彼の口から出たのは、突然の謝罪の告白であった。不器用で、言葉足らずではあったものの、その気持ちは確かに善に伝わった。きっと楊は善に対してずっと罪の意識があり、邪念を残したまま明日を迎えたくなかったので、今こうして突然の謝罪をしたのだろう。恥ずかしいのか、楊は返答も待たずに立ち去ろうとするが、善は背中むきの楊に向かって言葉を返す。
「いやもういいよ、過ぎたことだ。明日頑張ろうね」
「おう」
 楊はそのまま背中を向いたまま返事をする。そしてスタスタと教室を出て行った。しばらく四人はそのでかい後ろ姿を見ていたが、それから自分たちも教室を出て、四人並んで楊とは反対方向に向かって歩いていった。

開演

「さあみんな、待ちに待った本番だ! 思う存分楽しもう!」
 朝から岡林先生は元気で、興奮しているのか声量はいつもより少し大きい気がする。お揃いのTシャツを着た生徒たちも同じく興奮して、落ち着かない様子を紛らわそうとしているのか、いつもより口数が多く、教室は終始ざわついていた。普段なら注意される程度にうるさかったが、今日は無礼講なのか、岡林先生は特に注意しなかった。
 校門の横では、保護者たちが朝から行列を作って並んでいる。保護者たちは、子どもたち以上に大きな声で雑多な話題を楽しげに話している。あらゆる音が祭りを盛り上げる愉快なBGMとなって、文化祭独特の雰囲気を作り上げていく。校内の装飾は派手に施され、校舎の一番目立つところには、今年のテーマである「百花繚乱」の文字がでかでかと掲げられている。テーマは生徒会が勝手に決めたものだ。
 二年六組のステージは午後からだったので、午前中はみなそれぞれに各クラスの催しを楽しんだ。お化け屋敷に喫茶店、焼き鳥にアイスクリーム。素人が作るそれらのものはクオリティが高いとは言えないが、それらには生徒たちの純粋な熱意が込められており、不思議と人々を幸せな思いにさせる。武蔵や(あべる)も、これから始まる舞台の緊張を少し忘れるほどに、心行くまで楽しんだ。
 いよいよスタンバイのため、二年六組の生徒たちは派手な衣装を身に纏い、体育館裏に待機する。傍から見れば、彼らは何やら異質な集団のようにも思えた。さて舞台をもうすぐそこに控えた生徒たちは想像以上に緊張しているようで、やけに静かであった。それを察した(さとる)は何か事を起こそうと、武蔵を引っ張ってきて、全員を注目させる。
「みんな緊張しているようだから、実行委員から魔法の一言頂こうか」 
 聡が真面目な顔してそう言うと、もう話していいですよと言いたげにそっと中央から退いっていった。武蔵は突然のふりで頭が真っ白になった。みながにやけながら武蔵を見つめている。当然用意してる言葉などなく、武蔵は勢いのまま話し始めた。
「えー、みんな。き、緊張せずに楽しんでいこう……」
 声を震わせながらそう言うと、ちょっとした笑いの後、「お前が一番緊張してるじゃねえか」と突っ込みが飛んできた。
「ま、まあとにかく、思い切ってやりきろう。結果はどうであれこれが終わったらみんなでパーティーだ」
 とっさに思いついたことを担任の許可も得ずに告げると、クラスのみんなも「それいいね、やろうやろう」、「教室で打ち上げだー!」と乗ってくれた。岡林先生はやれやれといった様子で、武蔵に向かってグーサインをする。やってもいいということだ。たじたじな短い演説のおかげで、みんなは笑顔を取り戻した。聡はよくやったと囁いて、武蔵の肩をポンと叩いた。
 
 静寂と歓声が交互に立ち現れるアリーナ。ついに二年六組の出番がやってくる。生徒たちは舞台袖にて緊張の面持でその時を待つ。
 放送部からのアナウンスがある。
「続きましては、二年六組『ハイスクール・ミュージカル』。ミュージカルをすることは私たちにとって簡単な挑戦ではありませんでしたが、クラス一丸となって全力で準備に取り組んできました。映画『ハイスクール・ミュージカル』を私たちになりにアレンジした物語とポップな歌と踊りをお楽しみください。知ってる曲があれば是非一緒に歌って、盛り上げてくださいね」
 この紹介文は武蔵が考えたものだった。そして観客からの数秒の拍手の後、舞台幕が日の出のようにゆっくりと上がっていく。
 暗闇からたった二つのスポットライトが主人公の聡とナオミを照らす。掴みはいきなり二人のデュエットから始まるという過酷なものだったが、聡とナオミはさすがの貫禄で最初の山場を難なく乗り越えた。掴みは見事に成功し、観客は二人の想像以上の歌唱力に思わず呆気に取られているようだった。主人公二人の上々の滑り出しは、その後出演する生徒たちに圧倒的な安心感を与えた。一曲目を終えると短い拍手があって、その後ストーリーに入っていった。場面が移り変わる度にステージ照明は暗転を繰り返す。
 主演の六人、ならびに脇役の生徒たちはみな生き生きと演技をしており、声もよく出ていた。特に楊は時々ユーモアを交えたセリフで笑わせ、完全に観客の心を掴んでいた。彼の演技自体の完成度も高く、見る者が自然に好意を抱くような魅力に溢れていた。
 そしていよいよ善と明華の最初のデュエットが始まる。その直前、善は武蔵の方を振り返り、にっこり微笑んだ。言葉は交わさなかったが、小さくグータッチをして善はステージへと走っていく。武蔵はその後ろ姿をあらゆる意味を含んだものとして見つめる。その姿は以前までの悲哀に満ちたそれとは完全に異なって見えた。衣装のせいだったのか、その眩い輝きは新しい生命の誕生を彷彿とさせる。
 二人のデュエットは見事な出来だった。善の優しく透き通るような高音と明華の宝塚スターのようなクールな歌声が絶妙なコントラストを生み出していた。二人の息もぴったりで、本当に楽しそうに演じていた。そのまま無事に曲を終えると、今日一番の拍手が起こる。あまりに大きかったので、すぐに次のセリフへと入ることができなかった。
 その後も順調に演技は続いていく。華々しいステージの裏側では、武蔵たち裏方の生徒たちが次の場面の小道具を用意したり、演者の着替えを素早く手渡したりと忙しなく動き続けていた。舞台照明の上杉と武田は、観客がほとんど注意して見ることなどない二階のキャットウォークの両端から、主演めがけタイミングを合わせてスポットライトを当てる。音響の黒田は舞台の様子を直接確認しながら間違えることなくBGMや挿入歌を入れ、生歌が始まると、主演の声を阻害しない絶妙な音量に調節された音を、想いを込めて体育館全体に送り出す。こうした顔の見えない生徒たちの働きは、場面と場面の間を埋める暗闇のように必ずなくてはならないものであった。
 またストーリーを本家よりもできるだけ簡素に、分かりやすくし、歌と踊りに比重を置いたことも功を奏した。観客は物語の展開に戸惑うことなく付いてこれた。文化祭劇でいくら凝ったストーリーを作ろうと、それが観客に伝わらなければ、あまり良いリアクションは期待できない。この特殊な舞台では分かりやすさが何よりも重要な要素なのだ。さらに本家の映画や歌を知っている人が多く、観客が気軽に乗ることかできたので、合いの手なども自然に生まれていった。
 ラストのエンディングの曲では裏方の生徒たちを含めたクラス全員がステージに上がり、踊りを披露することになっていた。これは武蔵が提案した演出だった。いよいよエンディングが近づくと、舞台照明、音響の生徒は急いで舞台袖へと降りてくる。そして派手な衣装を着た演者たちと無地の体操服を着た裏方の生徒たちが一緒になって同じステージへと駆けていく。主演がローテーションで前に出て歌い、全員で手拍子をしながら踊る。踊り自体は簡単なものだったが、数が揃うとやはりそれなりに凄みがあり、会場全体もそれに合わせて手を叩き盛り上がる。歓声は際限なく飛び交い、手拍子のリズムに合わせて体育館は少し揺れる。そうしてエンディングは終了する。最後に、曲のBGMだけを残して、文化祭劇ではありがちなキャスト紹介に移る。主演を最後に残してチームごとに紹介されていく。武蔵たちは一番初めに呼ばれた。
「最高の演出をありがとう! 舞台照明、音響、小道具・衣装チームのみんな!」
 キャスト紹介役の浅井が生かした声でそう言うと、武蔵をセンターにし、十人ちょっとの生徒たちは上手から下手をいっぱいに使って一列に並ぶ。そして客席に向かってお辞儀をする。観客は拍手喝采で迎える。
その後全員の紹介を終え、主演六人は前へ出て、最後に手を繋ぎ大きなお辞儀をもう一度する。同時に他の生徒たちはその少し後ろでまばらに並び、大きく手を振り続ける。長い拍手と悲鳴にも似た歓声があって、そのうち舞台幕が今度は日の入りのようにゆっくりと降りていく。
 二年六組のミュージカル劇は誰が見ても完璧と言える成功だった。幕が床につくやいなや、生徒たちは主演の方へ駆け寄って、みなそれぞれに手を合わせたり、抱擁し合ったりする。歓喜の瞬間だった。武蔵もみんなの方へすぐに向かおうとするが、一度立ち止まる。誰もが同じ喜びを共有し合い、興奮の中、立場も性別も越えた幸福が目に見える形となって現れている。その一瞬は永遠のようにも感じられる。武蔵は目と心のシャッターでその瞬間をとらえ、大切な記憶として保存する。それから武蔵も同じ輪の中に加わった。幕の向こうでは、いまだ鳴り止まぬ拍手が聞こえていた。

共存

 夕方になり、空が赤らみ始める。いつの間にか学校に残っている人はかなり少なくなっていた。二年六組は全ての作業を早々に済ませ、武蔵が出番前にとっさに言った打ち上げが今に始まろうとしていた。教室の中央には、いくつかの机を繋げて作った大きなテーブルがあって、大量のお菓子やらジュースやらが所狭しと並べてあった。少し前に何人かの生徒が買い出しに行ってくれたのだ。費用は全て岡林先生が持ってくれたという。聞いた話によると、生徒たちの劇を見ていた岡林先生は感動し、思わず号泣してしまったという。怖い印象が強かった岡林先生であるが、このエピソードは生徒からの好感度を上げることになった。
 みなそれぞれ紙コップ一つと紙皿一枚を手に持って、バイキング形式で好きなお菓子やジュースを取っていく。準備が整うと、乾杯の合図を待った。ナオミが前に出て音頭を司る。
「えーみんなほんまにお疲れさまでした! みんなの協力のおかげで最高の文化祭になりました。初めは私が結構強引にミュージカルをやりたいって言って、嫌やと思った人もいたかもしれんのに最後まで文句ひとつなしにクラスのために準備手伝ってくれてほんまに感謝しかないです。ありがとうございました。私にとっては二度と忘れられない思い出になりました。みんなにとっても楽しい思い出になったと信じたいです。私が上手くいかない大変な時も、武蔵君や(さとる)君やみんなが助けてくれたから、もうほんまに、私、私......」
 なんとナオミは乾杯を言い切る前に泣き出してしまった。みんながどうしたものかとどきまぎしていると楊が前へ出てきて、自分のコップを前へ突き出した。
「とにかく乾杯!!」
 楊が代わりにそう言うと、みんなも「乾杯!」と声を返す。やわらかい紙コップ同士がぶつかった時にこぼれないよう慎重に近くの人とコップを突き合わせて、ゴクゴクと各々ジュースを飲み始めた。そして生徒たちの中に溜まっていたこれまでの疲れが全て解放されたかのように、一気に教室は騒がしくなった。ナオミは相変わらずうずくまったまま泣いており、女子生徒何人かが慰めていた。悪意らしいものは教室のどこにも見当たらなかった。
 武蔵はそういう教室全体の光景を俯瞰的に見て、なぜかどうしようもなくうれしい気持ちになった。劇が終了した時のみなが同じ喜びに包まれたあの瞬間と同様に、今のこのたまらなくうれしい気持ちをどこかで味わった気がするのだがうまく思い出すことができない。メロディのみが思い浮かび、曲名がどうしても出てこない時に似て、確かに経験したことのある感情の記憶が彼の中で漂い続ける。しばらく幸福感に囚われ、武蔵がぼーっとしていると、突然前に現れた伸二がお菓子を武蔵の開いたままの口に突っ込もうとしてきた。
「ぼーっとして口開けてるから、お菓子詰めてやろうってな。お前今めちゃくちゃニヤニヤしてたぞ。何考えてたんだ?」
 伸二が完全にからかいながらそう言うと、武蔵はどうしようもなく恥ずかしくなった。横からすっと(あべる)も現れて笑いながら言った。
「ナオミのことでも考えたんじゃない? ずっとあっちの方向いてたし」
「考えてない!」
 とっさに否定した。そのときナオミのことは事実考えていなかったが、名前を出されると、それから何となく意識的にナオミのことを見てしまうようになった。むきになって反応する武蔵を見て伸二と善はまた笑った。
 
 ジュースにアルコールでも混じっているのだろうか。生徒たちは留まることを知らず、無限の体力で喋り続ける。武蔵もこの時ばかりはいつもより饒舌であって、普段あまり喋らないような生徒ともよく会話をした。武蔵が中央のテーブルでオレンジジュースを注ぎ足していると、奥の人だかりからふらっと聡が出てきて、武蔵の方へと向かってきた。
「俺のコーヒーも入れてくれるかい」
 聡はそう言いながら自分のコップを武蔵に手渡そうとしていた。どうやら片手に小皿を持っていて、手が離せないみたいだった。
「聡、コーヒーなんて飲むのか? それにコーヒーなんて買ってあるの?」
「ああ、まあインスタントだが仕方ない。一人くらいコーヒーでも飲んで落ち着きぶってる奴がいた方がいいだろ。あそこに一本あるよ。買い出し行く前に一本だけ頼んでおいたんだ」
 聡はそう言うと指さしで場所を教えてくれた。確かにペットボトルの無糖コーヒーが一本置いてあった。中はほとんどなくなっていなかった。武蔵はそれを丁寧に注ぎ、聡は礼を言った。そのまま自然の流れで会話は始まる。
「落ち着きぶってるって実際落ち着いてるじゃないか。みんなテンションが上がって周りが見えなくなってる今でも聡はクラス全体を見てるんだろ?」
 先ほどの聡の言葉に答えるようにして武蔵が言う。
「まあな。これは癖みたいなもんで、すぐに周りの状況を確認してしまうんだ。ただこれでも今は興奮してるんだぜ。ばれないように隠してるだけさ」 
「そんな風には見えないけど」
「それはいいんだ。とにかく、実行委員お疲れ様だったね武蔵」
 話を変えるようにして聡が武蔵を労う。
「ああなんだか肩の荷が下りたよ」
「そういえば委員決めの時、俺が武蔵を文化委員に推薦したんだったね。やってみて正直どうだった?」
「そりゃ大変だったよ。これまで人前に出る経験もそんなになかったし。でも最終的にはやって良かったと思う。俺にやれることはやりきれたと思うし、満足してる。みんなに助けられてばっかりだったけど」
「俺も武蔵にかなり助けられたよ。お世辞抜きで武蔵が文化委員にならなかったら、ここまで良い文化祭劇にはならなかっただろう」
「それほど大したことはしていないと思うけれど。実際、準備が順調に進んだのはほとんど聡の指示のおかげだろ?」
「俺はその場の状況を見て、どうすれば一番効率的になるかを見つけることに関しては得意だと自覚しているが、それでも全くもってすべてに対処できるわけじゃない。むしろほんの一部分しか対応できず、そんなものは情報の処理の方法さえ理解すれば誰だってできるんだ。だが例えば人が何を思って、何をしたいのか。あるいは論理が通用しない直感だとか。こういう類の事には良くも悪くも一般的な目しか持ち合わせていない。その枠を超えたことに関しては手の出しようがないんだ。だから善君のことも正直どうしようもないと初めは思っていた。だが武蔵はなんの根拠もなく善君がクラスに溶け込めると信じ、実際そうなった。クラス全員が文化祭に本気になるなんてことも、俺には想像できなかった。おそらく俺の手が及ばないところの武蔵の影響力が大きかったんだと思う。本当に武蔵が文化委員をやってくれて良かった。改めて礼を言うよ」
 武蔵はただただ驚いていた。聡がそんな風に思っていたとは全く意外だったのだ。自分に聡が言うような影響力があるとも思えなかった。
「ありがとう。でも正直、俺は聡が言うようなことをできたとはほんとに思えないね。ただ目の前のことで必死だったんだ」
「何となくだけど、武蔵って何をしても悪意を感じないというか、行動に嘘がないんだと思うんだ。だから周りにも武蔵の頑張りが正しく伝わるし、武蔵が困っていたら純粋な気持ちで助けたいと思うんじゃないか」
「なんだか分かったようで分からないなあ」
「無意識的にそれをやって周りに影響を与えてしまっているところが、俺には理解できないところだよ」
 聡は笑いながらそう言い残すと、早々とまた別の場所に行ってしまった。聡は何もかも完璧にできてしまう、自分より遥か先にいる存在だと武蔵は思っていた。だから聡の言葉に純粋なうれしさと、聡ほどの人物が自分をなぜそれほど評価してくれるのか完全には分かり得ないといった不思議さが入り混じった感情になった。
 
 窓の外はすっかり暗くなっていた。すでに何人かの生徒は雑多の理由で帰っていたが、依然として多くの生徒たちが教室に残っていた。
「さあみんな、さすがにもう帰るわよ。学年主任に怒られるわ。お菓子とジュースのゴミを片付けて!」
 いよいよ岡林先生がそう言うと、「えー」と多少文句を垂れながらも、生徒たちはせっせとゴミをペットボトルと燃えるゴミに分け、袋にまとめ始めた。食べ残しはもったいないと、何人かの男子が掻き込むようにポテチやらポッキーやらの残りを食べていた。ごみを片付け終え、机も元の状態に戻すと、いつも通りの見慣れた教室が姿を現した。廊下に出ると、もうほとんどの教室の電気は消えており、昼間とは一転した息を呑む静けさだけが学校全体に漂っていた。生徒たちは揃って校門まで向かい、岡林先生もそこまで付いてきてくれた。
「それじゃ、みんな気を付けて! また週明けにね」
 岡林先生はそう言うと、再び学校の方へ振り返って、そのまま暗闇の中に消えていった。生徒たちは初め、大所帯で騒がしく帰っていたが、分かれ道が訪れるたびにその数は減り、静けさが増す。夜の街は月や星よりも、住宅の明かりや車のブレーキランプによって照らされている。武蔵と善はJRの駅に着くと、残っていた数人と別れを告げ、三ノ宮方面のホームへと向かった。そちら側へ帰宅するのは二人だけだった。
「終わっちゃったね文化祭」
 電車に乗り込み一息つくと、善がつぶやくように言った。車内は少し込んでいて座れなかったので、二人は立ってつり革に掴まった。窓から見える夜の神戸の風景をぼんやりと眺める。
「そうだな。うちでの初めての文化祭はどうだった? 」
「ほんと楽しかったよ。これまで文化祭なんて自分とは縁のないものだったのに、まさかミュージカルで演じることになるなんてね」
「それはもしかして俺のせいか?」
「間違いないね」
「でも善、演技めちゃくちゃ良かったぞ。歌も上手いし、本格的にそっちの道でも進めるんじゃないか?」
「無理無理。武蔵はやらなくてよかったの?」
「俺は反対にそういうのは向いてないんだ」
「そうだろうね。大事なところでセリフ飛んじゃいそう」
「バカにしてるだろ」 
「してるよ」
 電車は彼らの最寄り駅に到着し、二人は改札を抜ける。駅周辺では、中学生数人が周りもはばからずにスケボーの練習をしている。数台のタクシーが空車マークを出して止めてある。缶ビールとつまみが入ったコンビニの袋を持ったサラリーマンが真っ直ぐ自宅へと帰っていく。遠くの大通りからは、やけにうるさいバイクのエンジン音が聞こえてくる。二人は駅前の喧騒を抜け出し、静かな住宅街へと入っていく。
「というか、武蔵ありがとうね」
 歩きながら善が思い出したように言った。
「何のことだ?」
「これまでのこと全体的に踏まえてさ。君が言う通り、僕はこの文化祭に参加してよかったよ。生まれて初めてクラスに馴染めて、たくさん友達もできた。話してみると良い人ばかりで、みんなが僕を避けてたというより、僕がみんなを避けてたってよく分かった。本当は秘密を知られたとき、クラスの人たちとはもう関わらなくていいやって思ったんだ。もちろん武蔵を除いてだけど。孤立していれば増えるものはないけど、失うものはないって。君がいなかったらきっと一年間そのままだったろうね」
「善のために何かしてやれたんなら良かった。俺は学校を休んでる間、善への罪悪感でいっぱいだったんだ。劇を終えて一緒に喜び合う善とクラスメイトを見た時ようやくそれを晴らせた気がした」
「君が罪を感じるなら、僕だって君に助けを求めなかったっていう罪がある。不正直に強がってたんだ。あの時君に僕の心の孤独を告白したのに、また自分から孤独に入ろうとしてたんだ。お互い様だよ」
「まあそうだな。とにかくもう孤独でいようとするのはやめてくれよ」
「ああ。秘密はもうばれてしまったからね。あの教室ではありのままでいたいと思うよ」
「それがいい」
 街路を抜けてきた涼しげな夜風が、優しく彼らに吹きつける。とうとう別れ道まで来て、「じゃあまた月曜日」と言って二人はそれぞれの道へ行く。
 武蔵は一人になる。だが孤独ではなく、心は満たされていた。歩きながら意識をあちこちに散らす。何かの考え事をし、かと思えば数秒後にはもう別の事を考えている。いつの間にか、武蔵は舞台で歌った曲のフレーズをでたらめに口ずさんで帰っていた。
 
 

ベクター

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  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 始業式
  2. 委員決め
  3. カミングアウト
  4. 事件
  5. 隔離生活
  6. ベクターの闘い
  7. 文化祭準備
  8. 文化祭準備2
  9. 開演
  10. 共存