名前も知らない【06-08】

古瀬

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06-1

06-1


 閉まるドアにご注意ください、という声を背中のあたりで受け止めながら、エスカレーターを目指して歩く。
 いつもの電車がホームを離れていく音と空気の振動に、帰ってきた、という気分になった。十四時半。時間帯のせいか駅の利用者はまばらで、いつもよりやや風がある。
 のどかな昼下がりといった雰囲気の駅構内を、僕はとりあえず得た安堵の気持ちで歩いていく。

 昨夜は久々に会った妹と少しばかり飲んで、自室に戻ったのは日付が変わる直前だった。スマートフォンの通知の中から急用のものがないのを確認して、そのまま眠りに落ちた。
 酒を飲んだところで亡霊は消えないと知っていたけれど、身体の感覚を鈍らせておけば多少はごまかしが利くかと思っていた。やはり期待したほどの効果はなく、夜中に一度目覚めたときに意識にあらゆる過去の記憶が付着しているのを感じた。
 言い合いの、屈辱の、憤りの記憶。他責の気配。そういうものが家屋に染み込んでいるのか、眠っているあいだに身体を出たり入ったりしていたようだった。
 これだから嫌なんだ、と声に出して、前髪をかきあげた。暗がりの中でスマートフォンに手を伸ばし、最近のやりとりを見返して今の自分のほうに気持ちを引っ張ってくる。立ち上がって窓をわずかに開け、外の空気を室内に取り込みながら再び眠くなるまで小さな画面を眺めていた。
 結局、時計が四時をまわる頃から掃除機の音で目覚めるまでの数時間でようやくまともな睡眠を取ることができた。
 エンジンをかけるように、いつもの自分に姿を変えていく。過去に浸ったところで気分が悪いだけ、何てことないと心の中で繰り返す。母にいつもの調子で冗談を繰り返し、リズムを取り戻しながら頼まれた力仕事をいくつか片付けた。
 正午過ぎの電車に間に合うように、再び母のパッソに乗り込んだ。
 駅前の駐車場で、また来るよと運転席に向かって告げた。母はこれから近所で買い物をして、今日も夕方には病院に行くらしい。
 ――あんまり、無理しないでよ。
 別れ際にそう付け加えると、母はあいまいに笑いながら頷いた。
 言っても無駄なことばかりを言い合ってしまうのは、僕達の中にどれだけ働きかけたって決して変わることのないものがひとつあるからだ。
 ――あなたも、身体は大事にね。
 了解、と頷きにんまりとした。しんみりとした別れは苦手なのだ。

 いつもの駅の光景が目前に広がっていることに大きな安心感を覚えて、僕はそこで長い息を吐き出していた。今の僕がいる街、そして日常。
 久々の休日が、まだ半日近く残っていた。溜まっていた洗濯を片付けようと決めて、切れかけていた液体洗剤を購入するためにドラッグストアに立ち寄る。
 買い物を済ませて自宅の方角へ歩き出した時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
 規則的な振動にテキストメッセージの受信ではないと気が付いて、慌ててそれを取り出す。

『中上千紘』

 表示されている名前を見て、一瞬夢かと思った。
 彼女から電話がかかってきたことは、まだ一度もなかった。

「はい――」
 応答のマークをタップしてから、急いで耳元にスマートフォンを運ぶ。
「あ、堀井さん?」
 千紘さんの声が、やわらかく耳の中に入ってきた。
 
 はい、と返事をしながら、この人はやっぱり他の人と何かが違う、と思った。
「今大丈夫? あ、もう、こっち戻って来ました?」
「今、駅に着いて家に戻るところです。全然話せます」
 人気のないほうに向かって歩きながら、早口でそう答えていた。
 昨日の午前中、この周辺を歩きながら彼女からのメッセージを読んでいたことを思い出す。たった一日なのに、感覚としてはずいぶん遠い。そのくらい遠くから戻って来たんだ、と改めて思う。
「そっか。おかえりなさい」
 千紘さんは、どこか慎重さを感じさせる響きでそう言ってくれた。

 腹のあたりに温かいものが広がるのを感じて、すぐに返事ができなかった。
 寝苦しい夜の中で、この人のことを何度思い出しただろう。暗闇の中で、出会った日から覚えている限りの彼女の表情を頭に思い描いていた。交わした言葉も。
「ただいま、戻りました」
 僕の不自然な返しに、彼女は小さく笑ったみたいだった。
 昨日から続いていた重苦しい気分を、この人の声は簡単に蒸発させる。

 こんなタイミングで電話すべきじゃなかったかな、と彼女は前置きしてから、
「あの、さっき旅先の友達から宅配が届いて」
「宅配?」
 僕の一言に、彼女はうん、と頷いたようだった。
「今、熱海にいるみたいで。魚介の加工品とか、おだしとかいっぱい送ってきてね。堀井さん自炊もするって言ってたから、少し貰ってくれないかなって」
 恥ずかしそうな声で、彼女は答えた。
「だって、千紘さんにって届けてくれたんでしょ?」
「ひとりで食べられるような量じゃないんです」
「――気前のいいお友達がいるんだね」
 僕の返答に、彼女は楽しげに口をひらいた。そうなんです、と。
「仕事でストレスが溜まると、海のあるところに逃げちゃうの。それで現地で酔っぱらって、ばんばん買い物してこうやって送ってくれるんです」
 楽しい子ではあるんですよ、と付け足してから、彼女は続けた。
 干物もふりかけも、よくわからない健康グッズまで入ってる、と。

 おかしそうに告げる声に、楽しそうだな、と思った。
 その友達のことがすごく好きなんだろうな、とも。

「だしもあるって言った?」
「うん」
「わかめとかも、ある?」
「半生のがあったかも」
 彼女が箱の中をがさごそやっている音が響いた。
「ああ、あった」
「俺、千紘さんに地元の生麺買ってきたんだ」
 秘密を打ち明けるように続けると、察しの良い彼女はすぐにふ、と笑った。
「材料が、揃っちゃいましたね」
「ついてる」
「本当だ」
 彼女の楽しそうな声に、気持ちがどんどん軽くなっていく。

 空を見上げながら、どうしようか、と問いかけていた。
「正直、作ってあげたい気持ちもあるんだけど――場所がないな」
 彼女はそれまでの笑いを止めて、そう、ですね、と小声で呟いた。想像もしていなかったのだろう、声に驚きと困惑が含まれている。
「俺の部屋に呼ぶわけにもいかないし。そっちに押しかけるわけにも――」
 言葉を濁しながらも、彼女のいる部屋を想像していた。細い木蓮が二本植えられた、あの静かなハイツ。
「どこか別の場所で、トレード、しましょうか」
 彼女の最寄りの駅近くに、手頃なカフェか何かあっただろうか。

 調べて再度連絡しようかと思っているところで、千紘さんが何かを思い出したようにあ、という声を出した。
「わたしこれから車で納品と打ち合わせなんです。その後、堀井さんの家の近所まで届けに行くっていうのは?」
 ああ、今日じゃ疲れてるかな、と付け足したので、急いで否定する。
 まさか会いに来てくれることになるとは、思いもしなかった。

「それ、すげえ嬉しい」
 出した声は、無防備な感動に満ちていた。
 千紘さんは電話の向こうでほっとしたみたいだった。
「会いたい」
 続けて口をひらく。驚いたのか、返事はなかった。
「千紘さん」
「うん?」
「会いたいな」
 繰り返した言葉に、気持ちがこみあげてきてしまう。

 冗談じみたことだったらいくらでも言える気がするのに、一度本心を口にするとそこに入る感情の強さに嘘がつけなくなる。
 会いたい。会って、この人の小さく動き続ける表情や、ふっと笑ったときの目元なんかを許される限り眺めていたい。素直に澄んだ言葉遣いや、僕を見上げる遠慮交じりの視線を感じたかった。
 千紘さんは、少しの間を置いてから、うん、と言った。
「わたしも、またお話したい」
 連絡するから、家の場所を送ってくれる? と彼女は続けた。

 自宅に戻って洗濯を終え、ベランダと室内に衣類を並べて干していった。散らかっているものを拾い上げては元の場所に戻し、部屋の掃除をしながら僕は何度も時間を確認してしまう。
 最後のモップに手を伸ばしたところで、再びスマートフォンが鳴った。今度はアプリのほうだった。
 十六時に近所の店の駐車場で待ち合わせはどう、という提案だった。公式ページのURLが続いて、それが僕の家から徒歩で十分ほどの場所にあるカフェだと知る。
 存在は知っていたけれど、実際に入ったことはない場所だ。ウッドデッキがついていて、周囲にイングリッシュガーデン風の植物が多く植えられているらしい。ランチプレートとケーキの店、と書かれている。
 わかりました、今から出ますと送信する。
 何となく顔を洗ってから着替え、僕は部屋を出た。



 千紘さんは、約束の時間の二分前にそこに到着した。
 落ち着いた、ココアブラウンの軽に乗っている。バック駐車は苦手ではないらしい。きれいな曲線を描いて、一度で駐車枠に自らの車を収めてしまう。
 何か言おうとしたのだろうか、じい、と下がった窓に向かって僕は自然に近づいていた。
「運転、上手なんですね」
 挨拶よりも先にそう告げると、彼女は不思議そうな顔をして僕を見た。どうして、と尋ねてくるので、停め方、と簡潔に答える。
 わずかに寄せられていた眉間が緩んで、彼女はああ、と納得したみたいだった。
「駐車場の中だけは大丈夫なんです。公道は下手で」
 言いながら、シートベルトに手を伸ばしている。
 静かな所作でそれを外したものの、その後に続く行動が取れず彼女の表情はぴたりと静止した。
 僕が肘をつく形で全開にした窓に張り付いているせいだ。僕がそこから離れなければ、窓を閉めて外に出ることができない。

「ええと――まだ、なにかある?」
 僕のほうをゆっくりと見ながら、高く細い声で彼女が訊いた。
「可愛い人だな、と思って」
「やめてください」
 つい呆けて言ったことだったけれど、冗談だと思ったのかもしれない。笑われてしまった。時には人の言うことを軽くかわすこともある、大人のほうの彼女だ。

 頬杖をついたまま、僕は千紘さんを見つめ続けた。
 見たかったものだ、と思った。
 彼女が居るわけがない場所ですら、実はずっと、視界の中に探してしまっていた人。

「あの、本当に恥ずかしいから」
 困ったように言うところが可愛くなって、ますます目が離せなくなった。
 このまま黙って見つめ続けたら、彼女は恥じらいでどんどん小さくなってしまうのだろう。そういう姿も見てみたいけれど、やりすぎたら怒られてしまうかもしれない。今心を閉ざされては困る。
 残念、と呟いて、僕は窓から身を離した。

06-2

 向かい合わせに座ったカフェで、彼女は何だか楽しそうだ。
「ケーキ食べません?」
 テーブル脇のメニューを手にすると、彼女は僕にそのページをひらいて見せた。
「でか」
「全部ズコットなんです、ここのケーキ」
「だって、この一切れ千紘さんの顔くらいない?」
 フルーツやクリーム類の詰まった、ドーム型のケーキが切り分けられている写真が大きく掲載されていた。彼女はそんなことないですよ、と笑っている。たまにフルーツのものが食べたくなって来るのだと言う。ひとりのときも、同業者の知り合いと来ることもあるらしい。
「甘いの、だめですか」
「いや、そうでもないけど――」
 写真では、それは圧倒されるようなサイズ感に見えた。
「それが、おすすめ?」
「はい。チョコレートのほうが好きなら、チョコバナナもあるけど」
「千紘さん、どっちも好きなの」
「たまに迷うくらいには」
 ちょっと恥ずかしそうに、彼女が答えた。
 なじみのクライアントのところに行ってきたという千紘さんは、今日も色味のない服装をしていた。飾りのないほぼ白に近いベージュの直線的なブラウスに、細身の黒のパンツをはいている。薄青いバングルと腕時計を左腕に着けている。
 
 ケーキが運ばれて来るまでのあいだに、土産を手渡した。
 色気ないものだけど、と手渡した袋に、彼女はわずかに首を傾げたようだった。
「ひもかわ?」
「うん」
「これ、うどんなの?」
 初めて見るものらしい。不思議そうにしている。
「一応、地元の名物なんです。家でも、たまに買ってた」
「美味しそう」
 小さな甘い声で、千紘さんは言う。嬉しそうに礼を告げられた。
 簡単な調理法を説明してからおまけも入れてるよ、と手渡した袋を指差すと、彼女はおまけ? と楽しそうに僕に尋ねた。何だろうとそれを取り出してから、数秒のあとに小さく噴きだす。
「――可愛い」
 県の宣伝部長である、ポニーのキャラクターのクッキーがレジの横に並んでいたのだ。キャラクターものを持ち歩くような人には見えないから、食べ物のほうが良いだろうと思ってその小さな箱を追加した。
「本当に、お土産だ」
「千紘さんに乗せられちゃったんだよ」
「わたし、上手だったんですね」
 くっくとおかしそうに笑っている。しばらく飾っておこうかな、とも。
 ひとしきりその箱を眺めてから、彼女は隣の椅子に置いていた紙袋を持ち上げ、僕のほうに差し出した。じゃあ、トレードね、とまだ笑っている。
 家にあったものなのだろう、どこかのアパレルショップの袋のようだ。

「でか」
 受け取りながら、二度目のそれを繰り返していた。
「これでもけっこう頑張って詰めて来たんですよ」
 見てみて、と言うので中を覗いてみる。 
 箱から出して、色々詰め合わせてくれたのだろう。焼き菓子が数種類、練り物、塩辛、わさびの加工品やあごだし、現地野菜で作られたレトルトカレーまで入っていた。
「――これは」
「すごいでしょ」
「熱海が来た」
「わたしも、開けたときそう思った」
 ちょっと神妙な感じで言って、彼女は僕のほうを見た。目が合うと、楽しげににっこりと笑う。不意打ちだった。そんなに無防備に微笑みかけないで欲しい。
「――ありがたいです。噛みしめて、食います」
 動揺してしまったのを気づかれたくなくて、僕はわざとらしく居住まいを正した。
 千紘さんは僕の冗談交じりの動作に、ちょっと驚いた顔をしている。

 ケーキと飲み物が運ばれて来てからも、僕達の話は止まらなかった。
 千紘さんはフルーツのズコットケーキ――という名前なのを知ったのは実は今日が初めてだった――を少しずつ、かつペースを落とすことなく切り崩していく。
 ご実家はどうでした、と彼女は聞かなかった。
 二時間も電車でどうやって時間を潰してたの、とか、地元には仲の良いお友達はいるの、とか、絶妙な距離感の質問が続く。
「一番仲が良いふたりは地元出ちゃってます。ひとりは、この近所にいるんだけど」
「近くに?」
「月に一度くらい会いますね」
 櫂谷の姿を思い出しながらした返事に、彼女はいいな、と目を伏せた。
「大人になると、なかなか友達ってぱっと会えないから。近くにいるほうがいいですよ」
「千紘さんの仲の良いお友達は?」
「今熱海にいる子は、岐阜の人です。もうひとりは岡山」
「会いに行くだけで旅行だね」
「一年に一度は会おうねって言い合ってるんですけど、三人ともインドアで」
 なかなか実現しないのだと、彼女は言った。
 どちらも、地元を出てから出会った友達らしい。ひとりは彼女の勤めていた店にいた人で、もうひとりはその後個人的に出会ったと言っていた。熱海から荷物をたくさん送ってきたほうの友達は今も現役で水商売をしていて、そのうち独立するつもりでいると教えてくれた。もうひとりは美容師で、今は一児の母として地元で子育て中とも。
 
 なかなか会えないという友達の話をした後に、彼女は僕のほうを見て静かに口をひらいた。
「堀井さんは、わたしよりずっと身軽な感じ」
「そういう生活に慣れちゃってますからね」
 そう口にした後に、何となく胸のあたりがざわざわとした気がした。
「――何にも、考えないで生きてるんで」
 浮き上がってきたその感触に従うように、僕は冗談っぽく自虐していた。

 口が滑りすぎかと思わないわけではなかったけれど、それはいつもの軽い一言のつもりだった。
 そのまま、彼女がちょっと困った顔で笑って受け流してくれるだろうと思っていた。
 でもそれは、大きく外れた予想になった。

 僕の放った一言に、千紘さんは瞬きと同時に目を大きくした。
 それからわずかに眉を寄せて、見方によっては悲しげにも見えるような表情を浮かべたようにも見えた。
 あれ、という驚きと、まずい、という気持ちがそろって心の片隅に立ち上がる。

「それは、違うと思います」

 静かな目で、それでもまっすぐに僕を見ながら彼女は言った。
 いつになく真剣に、そして少し、怒ったように。

 どぎまぎするよりも、こんな目するんだな、という気持ちのほうが先に出た。
 千紘さんはそれまでとは違う、ちょっと厳しい顔つきになって僕を見ていた。

「――あの」
 言葉に迷って、動けなくなった。
 それまでの、ささやかながらも柔らかくくるくると動いていた彼女の表情が、目の前で静止していた。
 様々な細工の施された金色の華奢なフォークを右手に、僕は彼女と目を合わせながら固まっていた。そんな間抜けな姿をどこかで自覚しながらも、次の言葉も動きも、身体からは出てこなかった。

 僕の投げかけた言葉が、彼女の中に引っかかっている。
 小さな困惑の入った、少し難しい表情で千紘さんは僕を見上げている。

「――わたしには、考えすぎる人にしか見えないです」
 数秒間押し黙っていた千紘さんは、そう言って俯き加減に笑った。
 引っかかっていた何かが外れて、またゆるやかに流れ出したみたいだった。
「色々悩んで、考え尽くして、今のやり方になったんじゃないですか」
 それは少しだけこわごわとしたような響きを含んだ、ひどく静かな指摘だった。

 力を持つ言葉は、必ずしもその場に強く響くわけではない、と知らなかった。
 彼女のその一言で、僕の内側にあった突っ張っていた部分、引き攣れていた部分がすっと元に戻った気がした。
 どこか不自然に別のものになっていたところの力が抜けて、正しいところに戻されたような。

 再び訪れた沈黙は、もう気まずいものではなくなっていた。
「千紘さんは、不思議な人だな」
 僕の出した声には、おかしさと苦み、負けを認めるような感情が混ざり合って含まれていた。
 踏み込みすぎたかと、余計なことを言ったかもしれないと揺れているような様子の彼女と、ゆっくり視線を合わせてみる。
 どうしてこういう話になったんだっけ、と頭の中で声がした。
 順を追うことはできても、その理由まではわからなかった。
 思いもよらない相手の中で、僕の変形していた気持ちを元に戻す言葉が待っていた。


 そこはずっと、僕が自分自身で守ってきた場所だった。
 守るつもりが、気づけば置き去りになっていたかもしれない場所。鬱蒼とした、森の中みたいな場所だ。
 そこに、きっと僕は長いあいだ自分自身の一部を隠していた。
 表に出しては身が持たないと、きっとうまくやるからここに隠れていていいと、いつかそこに押し込むように隠した、もうひとりの僕がそこにいた。人の目から隠して隠して、やがて僕自身からも置き去りになりかけていた僕だった。他人にはあまり見せたことがない、僕の心の裏にいる、もうひとりの僕。呆れるほどに傷つきやすくてすぐに落ち込む、わずかな誤解でもいじけて悲観的になってしまう、手のかかる子供のままの僕だった。
 僕自身にもろくに相手をされていなかった僕を、彼女達が迎えに来た、と思った。
 自らの中にいる小さな彼女と仲良く手を繋ぎ、千紘さんはあっさりとそこにいる僕を探し当てていた。
 その場でうずくまっていた僕に必要なもの、全部を持って。

 ああ、俺本当はずっと、こういう人を求めてたんだ。

「千紘さん」
「なに?」
「どうしよう。俺、もうあなたが本気で大好きなんだけど」
 気持ちの蓋が自然に開いてしまった僕は、彼女にそう告げていた。
 
「な」
 千紘さんは小さくそう漏らしながら、身体をわずかにびくっとさせた。そして、内気な子供みたいに頼りなくじわっと赤面した。
「なんてこと言うの」
 小声で、ようやくそう付け足される。

 僕は声が小さくないから、今の一言は店内に響き渡ってしまったはずだ。
 実際に、僕達の周囲は静まり返っていた。近くの席で談笑していた女性達が、あらあらといった感じで聞き耳を立てているのも伝わってくる。
 構うものか、と思った。
 そこで起きていること全部が、何だかとても、愛おしく思えた。


 昨日の今頃は、地元の病院の三階病棟にいたはずだ。個室の窓辺に立って、外を眺めていた。
 先客は、やはり彼の勤める会社の部下だった。入室してすぐに、母と並んで深々と頭を下げた。気の毒な若き部下である二宮くんは、私服姿で僕達に向かって同じように挨拶してくれた。
 数分後、ベッドをリクライニングさせた父はしわになった病院着の裾を直しながら得意げに彼に語っていた。

 ――君よりふたつも年上なんだがね、まあ風来坊で。まともなことなんて何にも考えてないんだよ、自分の人生だっていうのに。海外旅行ばっかりして、好き勝手やって。なあ君、少し叱ってやってくれないか。

 母がいつもの静かにたしなめる調子で「お父さん」と声をかけたが、彼が無邪気に発する僕への批判が終わることはなかった。
 何も聞こえないふりをして、窓辺からの景色を眺めていた。
 ちょうど、二十四時間前だった。

「堀井さん」
 周囲からの視線に真っ赤になって困り果てている千紘さんは、今にも泣き出しそうにも見えた。ひとまわり小さくなったように身体を縮め、今度は助けを求めるように僕を見ている。さっきの、どこか厳しいように見えた目が嘘みたいだ。
 夕暮れ前の、住宅街にあるのんびりとしたカフェの店内。
 どちらかが発するだろう次の一言を、店中の誰もが待っているのがわかる。

 彼女に顔を近づけて、声を落とした。誰にも聞こえないように。
「それ食べたらさ、ちょっとだけ、外、歩こうよ」
 内緒話のように告げる。
 彼女に対して、初めてする表情をしていたはずだ。
 
 千紘さんは、しばらく僕のほうを恥ずかしそうに見上げていた。
 それから、本当に小さな声で、うん、と頷いた。

07-1

07-1

 もしも、同じことをしている成人男子が身近にいたら言ってしまうかもしれない。
 俺達は中学生か。

 カフェを出た後、僕達は彼女の車でしばらく近所を走った。公道の運転には自信がないと言っていた千紘さんの運転は、時には慎重すぎると思うほどに慎重だった。
 長く暮らす住民も「生活には困らないけれど正直なところ何もない」と言うような、のびのびとした、かつだだっ広い住宅街が占める街だ。入りたい店があるわけでもなく、夕暮れの時間から行けるような場所も思いつかなかった。
 結局、運動公園のような場所の駐車場に車を停め、閉園までの三十分あまりをベンチに並んで座って話した。
 駅前のベンチでも同じように座った、と口にすると、彼女は少し恥ずかしそうに頷いた。あの時一緒だった人が仲の良いお友達? と訊かれたので、嶋岡のことを少し話した。
 その日はやはりいつもより風が強く、声が聴きとりづらいからという理由で少しだけ僕から身を近づけた。彼女はちょっと驚いた顔をしたが、それだけだった。少しずつ気を許してくれているような気はしているけれど、今の彼女の気持ちがどこを向いているのか、僕にはまるでわからなかった。

 ――千紘さんは、俺のこと、好き?

 それを聞き出せるほどは強気になれなくて、それでもすぐ横に置かれていた小さな手を、自分のそれで包み込みたくなってしまう。
 僕のじりじりとした精神状態に気づいているのかいないのか、千紘さんは変わらずほのかにあかるく、楽しげに口をひらき続けた。
 

 嫌われてはいないはず、なんだよな。
 ダンススクールの玄関で、子供達を送り出しながら思う。キッズジャズダンスはこのスクールでも人気のクラスで、終了時刻のフロントは小学生達で賑わっていた。
「リョータ、何やってんのー」
 奥のほうから走ってきた小学二年生男子に、尻のあたりをばちんと叩かれる。
「大人に向かって呼び捨ての上に暴行するとは。堀井さんと呼びなさい」
「やだ」
 汗拭き用のフェイスタオルをぶんぶんと振り回しながら飛び跳ねている。省エネの概念がないのが子供のすごいところだな、と無駄な動きを一生懸命しているのを見る度に思ってしまう。
 鎌田(かまた)雄大(ゆうだい)。タオルのタグに、マジックでそう書かれている。わけもなく周囲の大人に声をかけたい盛りらしい。麻子にセクハラめいたことを言って、本気で怒られているのも見たことがある。

「うちのかーちゃんがさー」
 ハーフパンツのポケットにタオルをねじ込みながら(入らないと思う)、雄大くんは言った。
「お母さんが?」
 手にしていた名簿ファイルを閉じて尋ねる。彼はぱつんぱつんに膨らんだポケットを小さな手のひらで叩いて、何とか余白を作ろうとしている。
「おまえのこと、イケメンて言ってたぞ」
「まじか」
「韓国のハイユー? に似てるんだって」
 雄大くんは得意げにそう続けた。俳優、というのをおそらく誰かの名前だと思っている。
 それさすがに無理がない? とポケットに収まりきらずにだらりと垂れているタオルを指さすと、彼はにたっと笑ってそれを勢いよく引っ張り出した。しわだらけのタオルに引っ張られて、ポケットの内布まで出てきてしまう。

「なあ、色気って、なに」
「はい?」
「かーちゃんが言ってた。色気があるのよねって」
 ああ、雄大くんのお母さん、ずいぶん軽はずみなことするな。こんなに人懐こい息子の前で何か言ったら、本人の前で吹聴する可能性しかないじゃないか。
「魅力の一種、かな」
「ミリョク」
「ちょっといいところ」
「ふうん」
 どうでもよさそうな相槌ではあったが、帰宅したら無邪気に母御にむかってこの会話の内容を披露してしまうかもしれない。回答を薄味にして、なるべく印象に残らないように口をひらいた。
 雄大くんはその後、かーちゃんの趣味が韓国ドラマ鑑賞であること、とーちゃんに内緒で、何度か空港まで来日した芸能人を見に行ったと僕にむかって説明した。とーちゃんにばれてしまってからは追っかけ行為を禁止されていたけれど、息子のダンス教室に良く似た雰囲気の先生らしき人がいる、と喜んで仲間に電話していた、とも。

「だから、これからはリョータのファンになるって」
「そっか――それ、お父さんには言うなよ」
「なんで」
「鎌田家の平和を守るためだ」
 僕の発言に、彼は若干神妙な顔つきになっている。
 その場にしゃがんで、僕は小声で続けた。
「俺がそう言ってたっていうのも、ご両親には言わないほうがいいな」
「そうなの?」
「そう、君にかかってるぞ。オッケー?」
「わかった」
 言っていることの意味はわからなくても、大人の事情に入れてもらえたと思えるのは嬉しいことらしい。芽生えた使命感を隠すことなく、彼は真剣に頷いた。
 玄関ホールから出ていく後ろ姿を眺めながら、雄大くんのお母さんってどんな人だったっけ、と記憶を呼び覚ましてみる。気が強そうな面立ちの、はきはきとした喋り方をする女性ではなかっただろうか。お気に召していただいたことに関してはありがたかったが、知らなくても良かった内容だ、とも思っていた。
 関心があまりにひとりに集中していて、笑ってしまう。
 今一番好かれたい人の気持ちにしか、興味がないなんて。



 本人が体調を優先して静かに暮らしていることから、混雑した場所や体力を消耗しそうな行き先に彼女を誘い出すのは気が引けた。千紘さんはそこまで気を遣ってもらわなくていいと言っていたが、時折見せる青白いような顔色や無理をしているふうの笑顔がどうしたって気になってしまう。
「お腹に力が入らないって、思っていた以上に弊害があるんだなって思って」
 買い物の休憩にと入った、小さなショッピングモールのカフェでのことだ。
 バイトを終えた夕方に連絡すると、これから近所にあるショッピングモールまで行くつもりだと言われた。モール内にある家電量販店で、レーザープリンターのトナーカートリッジを買うつもりらしい。重そうだし同行しても構わないか尋ね、僕はそのままその店に向かった。
 目当てのトナーカートリッジは、すでに生産が中止になっているものだった。最終特別価格と大きく書かれたそれを、千紘さんはふたつ購入した。もうネットでしか手に入らないと思っていた、ラッキーだった、と。
「何か、生活していて大変なことがあるんですか」
 僕の質問に、彼女はカップを両手で抱えながら一度困ったように微笑んだ。
「重い物も以前より持てなくなるし、声を張るのも疲れちゃうし。何をするにも、勢いがつかなくて。結局、知らず知らずのうちに一番消耗しないやり方を選ぶようになっていくんです」
 手術の影響というよりも、病気そのものに体力を奪われてしまったらしい。人によっては、このくらい経ったらすっかり元気になっていてもおかしくないんですけど、と言っていた。病院での治療が終わった後に以前の生活を取り戻すべくそれなりに頑張ってみたものの、思うようにことが運ばず観念して時間をかけることにした、とも。
 今は、自分の現実を動かしていけるような強い力を身体から全く感じないのだと言う。ふわふわしていて、不確かで、思いもよらないタイミングで電池切れしてしまうような感じらしい。夢の中にいるような気がすることもあると笑っていた。すぐ寝ちゃうからかもしれないけれど、と。
 そして彼女は今の私生活の形を、僕に静かに打ち明けてくれた。
 買い物は週に二回、夜の空いている時間帯に。大きな物は配達や通販に頼っていて、睡眠時間は七時間以上、飲酒は控えてなるべく身体を温めている。仕事はあまり入れすぎず、消費もそれに合わせて抑えているらしい。ゆっくりそろそろ歩くみたいな生活だけど、地元を出てから一番穏やかな気持ちで過ごしていると言っていた。
 この生活を乱さなくてはいけなくなるような付き合いからも、今は思い切って距離を置いているようだ。世間一般の空気から少し離れたところにいるように見えたのは、そのせいらしい。
 本来の彼女の姿とは少し違うのかもしれない、ゆっくりと、そっと営まれている毎日の中に千紘さんはいた。

「だから、ヒールも体力が溜まるまでは禁止」
 彼女は笑って続けた。今日はほとんど高さのない、それでいてやわらかい曲線のサンダルを履いている。
「千紘さんも、ハイヒール履くの?」
「すごく高いのは履かないけど。でも、お気に入りが二足だけあるんです」
 秘密を打ち明けるように、彼女は言った。
 口にするのはそこまでで、色やディテールまでは細かく説明しない人だ。相手はそういうところまで興味がないだろうと、そう思っているのかもしれない。自分の話を聞いてほしいとかわかってほしい、という気持ちが、どうやらあまりないらしい。
 それでいて、それならその靴を履かせてやりたいな、と思わせてしまうのがこの人のすごいところだ、と思ってしまう。静かに嬉しそうにしている姿が想像できるせいだろうか。
 ――頼りなく生きていそうで、やっぱり何か、楽しそうなんだよな。
 彼女がカップをソーサーに戻す仕草を眺めながら、僕はそんなことを考えてしまう。



「それは構わないっていうか、こっちは助かるんだけど。でも、ぶっちゃけうちのほうが時給安くない?」
 事務机の前でパソコンを起動しながら、麻子は言った。
 一日の仕事を終えて、スタジオの片付けをしながら小声で声をかけたのだ。相談があるんですが。彼女は片方の眉を持ち上げてから、じゃあ終わったら事務室ね、とさらりと答えた。
 シフトを増やして欲しい、と言ったのだ。単発系のバイトは入れるのも移動や手続きにもそれなりに時間が取られるし、どうしたってスケジュールが変則的になってしまう。今は週の半分が午後からラストまでになっている勤務を、朝からに変更してもらえないか打診した。
 断られることはないだろう、と思える理由もあった。
 最近、事実上こことライバル関係だった同じ市内のダンススクールがひとつ閉鎖になったのだ。同じくらいの規模の、キッズダンスからフラ、ヒップホップもジャズもフラメンコも学べるようなスクールだった。厳しい指導者が多かったとかで、その後近所にあるフィットネスジムのダンスクラスに移動した生徒達が物足りないとここに流れてくるようになった。おかげで、今までにない賑わいを見せている。
「どっちにしたって、ここ休みの日は別のバイトしようと思ってたところだし」
 インスタントコーヒーを淹れながら答える。講師の誰かの土産らしい、封の空いた東京ばな奈の箱を見つけた麻子に誘われたのだ。ねえホリー、コーヒー飲もっか。淹れてってことだろ、と言い返しているあいだに、彼女はわたしパソコン起動しなきゃだからとすたすたデスクに向かって行ってしまった。三分ほど前のことだ。

「働くねえ。えー、女関係?」
「麻子ちゃん、気軽にぶっこみすぎじゃない?」
 カップを渡しながら言い返すと、麻子はわたしならいいでしょー、と拗ねたような声を出した。
「だって、変な女におかしくなっていく手助けはできないじゃない?」
 演技じみた、こぶしのきいたような物言いだ。ご親切にどうも、と流してしまう。
 空いているソファに腰を下ろして、淹れたばかりのブラックコーヒーをすする。面接のときに初めて腰を下ろしたソファだ。僕はここの求人情報をネットで発見し彼女の叔母の面接を受け採用されたれっきとしたアルバイトなのだが、最近では大多数の人に麻子の友達がそのまま雇われていると思われている。面接をした当人である喜和子先生すら、この頃はそう思っているらしい。
「心配ないのよね?」
 麻子は繰り返した。ないない、と僕は大げさに首を横に振る。
 
「――すごい偶然が重なって、たまたま会えただけ、って感じがする人なんだ」

 手渡された銘菓のパッケージを破きつつ、そう答えてみる。
 麻子はパソコンから目を離し、こちらをちらと見て尋ねてきた。どういうこと。

「本来は、俺みたいなのとあんまり接点なさそうなの。きれいな感じだし、色々苦労あったはずなのにすれてなくて」
 麻子がうんと頷くのを見ながら、恋愛相談なんて俺も焼きが回ったな、と思う。
「偶然知り合えただけで、本来はもっと良い男と釣り合う人なんだろうなって」
 むかつくけど、と付け足してふわふわの菓子を口の中に放り込む。
 千紘さんに今言ったことを伝えたら、彼女はいつものびっくりした顔をして、その驚きに追いついたように首を横に振るだろう。そんな、買い被りすぎです、と。あまりにたやすい想像だ。
 それでいて、彼女のちょっとした仕草や言い回しの中には誰かに心から大事にされた経験があるようにも見えるのだ。今までしてきた恋愛について彼女に直接訊いたことはないけれど、その相手はぼやっとしたような人物ではないように思えた。

 もしも今、そういう男が彼女の前に現れたら。
 彼女を支えられるような、確かな力を持った男が、千紘さんと出会ったら。

「かっさらわれたくないわけ」

 麻子は僕の言葉に、しばらく動きを止めたみたいに見えた。
 そして慎重な様子で、ガチだ、と呟いた。
 しんとした空気に我に返って、気恥ずかしくなってしまう。

「だからさ、男ならまずはメイクマネー」
 少しだけ茶化すつもりで、そう言い足した。
 若干たどたどしくはなってしまったが、いつもの調子に何とか戻った。

 今までは、学生に毛が生えたような経済力でも構わなかった。
 たとえすべてがエコノミーでも、身一つで眠って起きて、また一日を自分自身で生きられれば、それで良かった。
 自由。喉元を絞められたような気がしていた時代を何とかやりすごした僕が、浴びても浴びてもまだ足りないと思っていたもの。溺れていた人が酸素を求めるように、灼熱の砂漠をさまよっていた人が水を求めるように、渇いて、飢えて、必要だったもの。
 自分を強く縛る可能性を持つものは、何ひとつ欲しいと思えなかった。家も、家庭も、社会的な立場だって。
 一生、そんなふうにしか暮らせないかもしれないとも思っていた。
 千紘さんの中にある何かが、僕の中で固まりかけていた部分に新しいものを注ぎ込もうとしていた。

 せっかくあかるく切り返したというのに、麻子の表情にはあまり変化がなかった。
 数秒後、軽いようで一途だね、と彼女は笑った。そして、頼りにしてる、とパソコンのディスプレイに映る僕の名前に音を立てながらカーソルを合わせた。

07-2

『小森の再々々々(略)出発を祝してくれ』
 翌朝七時に、原が毎度おなじみのコメントを送ってきた。
 日付を見ながら、今日だった、と思い出す。
 少し前に酔っぱらって半泣きになりながら「俺だって好きでこんな生活してねえんだ」とグラスを揺らしていた小森は、その後一週間ほど軽井沢の祖父母宅で頭を冷やしてきたらしい。嶋岡の助言を受け入れて、今度は自販機補充員の求人に応募したと言っていた。

『無理すんなよ、職場にも当たり外れってあるから』
『肉体労働だな。小森、腰やるなよー』
『まあ、ほどほどに頑張れや』

 通勤途中の連中から、すぐにメッセージが届く。
 最初のうちはさんざん小森をいじってからかっていた友人達も、さすがにこれ以上同じことを繰り返すのは酷だと気付いたらしい。ログが増えていく度に、彼らの言葉は慎重になっていった。同じように、僕も似たような一言を送信する。

 小森は痩せぎすで、常にぴりぴりとしたような細かい神経の持ち主だ。傷つきやすいというよりも過敏なたちで、けんかっ早いというか、血気盛んにも見えるような噛みつき方をする。しばらく喧々囂々とした後には異様に素直な気持ちを必ずふっとこぼすから、パターンを覚えてしまった後は友人として付き合うのにそう難しいやつじゃない。
 それでも、この年齢になるまでに彼に一種の叱られ癖のようなものがついてしまっているのは僕達にもよくわかっていた。同じように並んでいても、苛立ちを受け止め慣れていたり雑な扱いをされ続けてきたやつというのはわかるようにできているらしい。軽い気持ちで小森に悪意をぶつけはじめる人間はどこにでもいて、そして小森はそういう人間がちょっとびっくりするくらい、あっさりと彼らに噛みついた。意外な反応にたじろいだ相手は、そこで黙るか、さらに挑発するかで二分していくことがほとんどだった。

 数分後、小刻みに震えるスマートフォンが新しいメッセージが入ったと知らせた。
『世の中なんておまえが思ってるほど大したもんじゃない。媚びるな』
 櫂谷だ。
 ポップな絵文字とちょっとしたデリカシーを含んだメッセージが並ぶ中で、彼のその一言はむき出しみたいに見えた。子供の頃からずっと目を開けて、時にはそこで見えるものに絶望しながら、それでもずっとどこかで醒めたまま。
 誰かが雰囲気を和らげるかなと思った。櫂谷、相変わらず激しいな、とか、小幡あたりが送ってくるかと思っていた。でも、誰もそうしなかった。
 しばらくメッセージは途絶えて、次に反応したのは小森本人だった。
『恩に着る。行ってくる』

 ――本当に、余計なもん作ってくれるよ。
 いつか彼は笑ってそう言った。地元の駅の、改札からエスカレーターの周辺に改修工事がされた時のことだ。
 長い階段の右側の壁は、それまでは何も飾られていなかった。よくある、くすんだグレーのパネルが一面に張られていただけだった。
 鞄の金具の跡や落書きなどでだいぶ薄汚れて見えていたその壁面の上に、ダークブラウンの塗料が塗られ、大きな白い線画のステッカーが貼られた。
 作者は、もちろん彼の父親である櫂谷正臣だ。
 他愛のない、人物や動物のイラストだった。市報にも、観光用のパンフレットにも載っているのを見たことがある。温かみと愛嬌のある丸い線で、郷里に住む人間には慣れ親しんだタッチのものだ。ある文学賞を受賞した小説の表紙画で一躍有名になるまでは、絵画の他にアニメやイラストの仕事もしていたらしい。
 俺は好きじゃない、と櫂谷はよく言っていた。直線的で無機質な印象のデザインを好む彼にとって、その人情味あふれる雰囲気のイラストは何とも居心地の悪いものだったらしい。父親の作風は、息子にはまるで影響しなかった。
 それでも、当時の櫂谷には周囲からあらゆる期待が押し寄せていた。
 妙に存在感のある、地元きっての著名人である芸術家の一人息子、櫂谷恭一。
 色の白い、美少年と言っていい容姿に癖のある性格の持ち主だ。生まれつき底に烈しいものを持っていて、隠しておきたいこともすべて見抜いてしまう子供に見えた。欺瞞の匂いに人一倍敏感で、周囲には気づかれなくてもいつだってそれに葛藤していた。
 話題性のある少年だった櫂谷の動向を伺い続けている大人が、あの町には少なくなかった。それがあまり上品な種類の関心ではなかったケースも多かったし、彼を櫂谷正臣に繋がるためのパイプやパーツに見えた人物だっていたはずだ。
 くだらない、というのが中高時代の彼の口癖だった。くだらねえよ、なあ亮太、どっか抜け出さない?

 あの町の夜更け。
 隣室からよく聞こえていた、すすり泣くような呼吸の響き。夜半を迎えても鎮まらなかった僕の苛立ちと、小石が家の壁にぶつかる音。
 音を立てないように開けた窓から入る、乾いた草の匂い。夏は昼間の熱を吸い込んでどこか粉っぽく、冬は霜で冷たく滑った、屋根の感触。
 月明かりの下で、彼は僕に向かって降りて来いと顎を動かした。
 まるで夜を背負っているような、時には恐ろしくも見えた研ぎ澄まされた表情で。

 あの町に移住してからずっと同じ場所にアトリエを構え続けている彼の父親は、今までに何度も市や県から表彰され、今は地元のあらゆる文化的事業をまとめる団体の主宰としても活動している。
 櫂谷は駅舎が改修されてからは、あの町には帰っていないはずだ。


 
「ねえ、これって城址公園のところじゃない?」
 同じ電車に乗った地元の女子高生が、ドアの近くで固まって騒いでいた。ひとりのスマートフォンを覗き込みながら、近所だ、とか、これやばくない? とか言い合っている。
 梅雨入りしたばかりの、六月の十五時半。うんざりするような湿気に曇った窓ガラスには、手で曇りを拭ったり何かを指で落書きしたような跡があちこちに残っていた。 
「あ、ねえ、コトコー」
 輪の中のひとりがぱっと顔を上げて、少し先に座っている友人を若干焦った様子で呼び止めた。
 コトコ、と呼ばれたその高校生は、ゆっくりと振り向いた。耳の中に押し込んでいたらしいワイヤレスのイヤフォンを外して、なにー? と声を上げている。

「コトコん家の近所の店に、車突っ込んだって。あの、チャペルの下のほうにあるスーパー」

 そう告げた彼女も、少し離れた場所にいる友達ではなくすぐ横のシートに座っていた男に反応されるとは思っていなかっただろう。僕の息をのむ音は、騒がしいはずの車内にできたほんのわずかな隙間に響き渡ってしまった。
 彼女達は、揃って僕のほうに顔を向けた。
 素早く、そして充分に怪訝そうな表情で。

「車?」
 思わず尋ねると、スマートフォンを持っていた本人は怯えたように浅く何度か頷いた。
「どこのニュースか、訊いてもいいかな」
 僕の焦りを抑えたような声に、彼女は慎重にニュースサイトの名前を答えた。僕がスマートフォンを取り出しているあいだに、詳細を読み上げてくれる。
 一時間ほど前に、八十代の男性が運転する車がスーパーの出口扉にむかって突っ込んだこと。アクセルとブレーキの踏み間違いらしく、入ってすぐの場所にあるクリーニング屋の受付にいたパートの女性と、女性客ふたりがけがをしたこと。けが人の詳細は現在不明。
 当事者に近い立場の人間だと思ったのかもしれない。怪しんでいたような雰囲気は、いつの間にか心配のそれに変わっていた。
 スマートフォンを操作する指が、焦りで小刻みに震えてしまう。電車はもう彼女の家の最寄駅に到着する前の減速をはじめていた。
 コトコと呼ばれていた高校生も、気づけば輪の中に加わっていた。家族にはメッセージを送ったらしい。この時間じゃ皆市外だから平気だと思う、と他の友達に話しているのが聞こえた。
「話してたのに割り込んじゃってごめんね。ありがとう」
 立ち上がって、僕は改札に一番近い出口になるだろう扉の前へと向かった。

 ホームに降りてすぐ、いつも見ているポータルサイトをひらいた。
『八十代男性 運転する車がスーパーに突っ込む アクセルの踏み間違いか』
 やはり、それは彼女の家の最も近所にある店だった。ブラウザを閉じて、小走りで改札に向かう。
 駅の階段を駆け下りながら、彼女に電話をかけた。近くで何人かがさっそくそのニュースを話題にしている。最近多いよね、とか、うちも親が返納したがらなくて、などと話す声が呼び出し音のあいまに耳に入ってくる。

 留守番電話に切り替わるまで、彼女は電話には出なかった。嘘だろ、とつい口から漏れた。すぐにもう一度かけなおす。
 中上千紘。
 スマートフォンを耳から離して何度も名前を確認しながら、呼び出し音が切れるのを待つ。
 中上千紘。中上千紘。
 頭の中で、うわごとみたいに彼女の名前が繰り返された。

『現在、電話に出ることができません』
 なんでだよ、という声をどうにか口から漏らさないように、スマートフォンをポケットに押し込んだ。いつか彼女を見送ったバス停の時刻表に駆け寄る。次のバスまでは二十三分。冗談じゃない。
 小雨が降り出していたけれど、鞄から傘を取り出して悠長に歩く気には到底ならなかった。
 着ていたパーカーのフードをかぶって、僕は彼女の家に向かって走り出していた。

07-3

 スーパーの駐車場には、まだパトカーが停まっていた。
 置かれたカラーコーンを繋ぐように立ち入り禁止のテープが張られ、中でまだ検証のようなことが行われているのが見える。
 駐車場の入り口に立っていた守衛の男性に、僕はけが人の詳細について尋ねた。
 運転手を含め、すでに全員病院に運ばれていると言う。車の運転手の男性とクリーニング屋の受付女性は救急車に乗ったが、あとのふたりは軽傷で警察の車で市内の病院に移動したとのことだった。

「年齢は、どれくらいでした?」
「二十代くらいの若い人と、僕と同じくらいの人かな」
 すでに一度別の企業で定年を迎えてから今の仕事に就いたというような風情の男性は、落ち着いた様子でそう答えた。
 年齢的には、千紘さんの可能性もある。
 僕の表情に気が付いたのか、男性は付け足すように続けた。
「若い人のほうは、ずいぶん服も髪もあかるかったな。赤っぽい橙の、つなぎみたいなスカートで。頭も後ろでひとつにまとめて――」
 そう言いながら、彼は両手を後頭部に持っていった。
 結った髪が背中に向かって垂れているような仕草に、別人だろうと少しだけ安堵する。今までの千紘さんの服装から考えて、全身オレンジのワンピースは彼女の好みとは思えない。
「知り合いかもしれないんですか」
「たぶん違うと思います。電話繋がらなかったんで、ちょっと心配になって」
 正直に告げると、彼はそうですか、と頷いた。
 心配なら警察にも聞いてみるといいですよと言われたが、先に家に行ってみますと答えた。

 それは、裕道の店からイクイネンを通って彼女の住居に行った、反対のルートだった。
 ぱらぱらと雨の降る坂道を速足で駆け上り、そのあいだにも電話を二回かけた。
 先ほどまでの焦りは感じなかったものの、とにかく顔を見なければ気持ちが落ち着きそうにない。

 マグノリアハイツの手前まで辿りついた時だ。
 駐車場のほうから、赤い傘をさした人物が出てくるのが見えた。

「千紘さ、」

 走ってきたせいか、声は掠れ、僕の呼びかけは彼女の耳には届かなかった。
 それでも、何かに気づいた様子の彼女はふっと顔を上げて、僕を認識した。

「――堀井さん?」

 十メートルほど先に立っているというのに、彼女のきょとんとした様子がはっきりと伝わってきた。頭が真っ白になるというほどではない、でも少なくとも余白はたっぷりの、彼女の表情。
 高い声で名前を呼ばれて、僕はよたよたと彼女に駆け寄っていた。たすきを渡したばかりの駅伝選手みたいに。
 彼女は、ちょっとくすんだ水色とグリーンのあいだのような何ともいえない色のシャツに、ぴったりした黒のパンツをはいている。この人らしいと思えるような、小さなアクセサリーをいくつか身に着けている。赤い傘はプレゼントで貰ったから使っているのだと以前言っていたし、ああ、やっぱりこの人は赤に近いオレンジなんて目立つ色普段から着ないよな。

 千紘さんの目の前で、力が抜けてしゃがみこんだ。
 雨に濡れて光を反射するアスファルトの地面が近づく。

 だあああ、という声が、自分の腹の底から響いていた。
「良かったあああ」
 それは情けないくらいの安堵がそのまま彼女に伝わるような、本当にばかみたいな声だった。

 久しぶりに走って、足も腿も熱を持ちがくがくとしていた。
 小雨に打たれて、汗だくで、顔もきっと上気して真っ赤だ。
 
「あの、堀井さん」
 顔を上げると、彼女は僕のほうに赤い傘を差し出してくれていた。途中で雨の感触がなくなったのは、どうやらそのせいだったらしい。
 問われる前に、彼女を見上げながら答えた。
「だって、けが人が出たって言うからさあ」
 よろよろした声のまま告げて、何とか立ち上がる。
 額の汗を手の甲で拭い、僕は着ていたマウンテンパーカーのジッパーを下ろした。だいぶ汗をかいていると気づいたが、元に戻すのも不自然だとそのまま下ろし切ってしまう。

「――下の、スーパーの?」
「そう。電車の中で、車突っ込んだって聞いて」
「それでわざわざ?」
「電話、繋がらないんだもん」
 背伸びするように僕に高く傘を掲げていた千紘さんは、それを聞いてはっとした顔をした。そして何も言わずに、僕に傘を押し付けるようにして預けた。
 持っていた鞄に手を入れ、彼女らしからぬ少々乱暴な仕草でスマートフォンを引っ張り出す。
「――ごめんなさい。わたし今日診察で。サイレントモード、解くの忘れてた」
 手帳型のカバーをぱたんと閉じて、そのまま千紘さんは両手を合わせ僕を拝んだ。
 無事だったんだからいい、と言っているあいだも、頭から額から雨と汗が混ざったものがだらだら垂れてきてしまう。

「もしかして、駅からここまで歩いて来てくれたの?」
「走って」
「だって、二十分くらいかかるんですよ?」
 彼女はちょっと泣き出しそうな顔をしている。
「十分くらいで来たよ」

 言いながら、何とも言えない笑いが自分の中からあふれてきた。
 あんなに必死になって走ってきたのに、この人は今日の事故とは完全に無関係で、うっかり電話が鳴らないようになっていただけで、傷一つなく無事だ。
 その上何だかぼけていて、いつも通りに平和で愛らしくて、それが嬉しい。

「今けがされたら、俺本当にへこむ。立ち直れない」
「そんな」
「見てよこの足、まだ痙攣してるから」
 運動不足だな、と告げた。
 僕の言葉には答えず、彼女は一度泣くのをこらえるような顔をした。

 淡くあかるい、細かな天気雨の降る空の下、ふたり顔を見合わせていた。
 スノードームの底に向い合って立って、きらきらとしたものをふたりで浴びているみたいに。
 笑い出しそうで泣き出しそうな、この揺れる気持ちは何て言うんだろう。
 目尻に涙を溜めながら微笑み続けている彼女の姿を見ながら、そう思った。

 この人が今日も生きていて、痛かったり苦しい思いをしていないこと。
 僕のしてしまう心配や不安が届かない場所に、存在していてくれること。
 誰に感謝を告げたらいいんだろう、この人と向かい合って、今笑いあえることに。

 千紘さんが、僕に向かって一歩足を進めた。
 そして、背伸びをして僕の額にそっと右手を伸ばした。

「うちのお風呂、使ってください。こんなに汗もかいてるし、何か飲まなきゃ」
 優しい声でそう言って、彼女は僕の額に張り付いていた前髪をそっとよけた。
 あの夜の僕が彼女にしたのと同じ、それよりもずっとやわらかな動きだった。

08-1

08-1


「上着脱いで。タオル持って来るから、ここで待っててください」
 千紘さんは、繋いでいた僕の手をゆっくりと離して言った。

 ドアを開けた瞬間から、そこは彼女の空間だった。
 白に近いグレーのやわらかなマットに、少しのかかとがついたルームシューズが並んでいる。彼女はそれにすばやく足を通して、ぱたぱたと中に向かって駆けて行った。淡い香りが玄関に広がっている。
 ハイツの共用階段を上りながら、どちらからともなく手を繋いでいた。ほとんど絡めあったに近かった。僕よりもずっと小さな、やわらかな手だった。

 言われた通りに鞄を下ろして、ずぶ濡れになったパーカーの袖から腕を抜く。
 千紘さんは奥からタオルを何枚も持ってきて、僕の鞄をくるんだ。
「そのパーカーは、洗えるもの?」
 見上げながら尋ねられ、どこかぎこちなく頷く。
「ごめん、俺すごい汗臭い」
「わたしのせいでしょ。すぐにお風呂沸きますから」
 囁くみたいに彼女は言って、僕の着ていたマウンテンパーカーを自らの腕にかけた。シャワーだけでいいと言ったけれど、間が悪いくしゃみを目の前でしてしまい却下された。
 靴と靴下を脱ぎ、濡れた足を拭わせてもらうことにする。やわらかく乾いた上等そうなタオルを汚してしまうのは気が引けて、雑巾みたいなのないかな、と聞いた。彼女は少し悩んでから、夏場の汗拭き用のボディシートをケースごと持ってきてくれた。
 そのまま、洗面と浴室に案内される。
「女性の部屋の匂いだ」
 緊張をほぐしたくて呟くと、彼女は困ったように小さく笑った。

 物があまりない部屋だった。目に見える場所に何か置くのが苦手な人らしい。生活感のあるものはすべて収納されていて、殺風景なほどだ。ごくわずかな生活用品は彼女好みの色とかたちで統一されていて、それはある意味想像した通りの空間だった。
 シャンプー類は中にあります、脱いだものはここに入れておいて、と説明された。上がったらこのタオルを使って、部屋着を出しておくのでそれを着てください、とも。
「ああ、下着だけは、そのまま」
 目を逸らしつつ気まずい感じで言われて、同じように了解、と答えた。男性用の下着がストックしてあったら逆に傷つく。
 ガラスのドアのほうにいますね、と千紘さんは言った。
 玄関から廊下を通って、右手のドアはガラスの窓がついていて、左手はシンプルな木製のドアだったのを思い出した。

 千紘さんが洗面から出てドアを閉めると同時に、自分の心臓の音が騒ぎ出したように思えた。
 濡れて身体に貼りついたTシャツやパンツを脱いで、言われた通りに洗濯機に入れる。履いていたボクサーだけは脱いでから丸めて、浴室の濡れないところに入れてしまうことにした。

 小さな窓のついた浴室には、すでに湯が張られていた。
 彼女のシャンプーを使って髪を洗い、ボディソープを手のひらに出して体に擦り付ける。甘いような匂いと、まだそこまで暗くないすりガラスの外の色合いに気が遠くなるような気がした。
 ぬるめに張られた湯に、ゆっくりと浸かった。駅から走って強張っていた筋肉が、ふわっと緩んでいくような気がした。
 ――まあ、緩まない場所もあるんだけど。
 なだめるにもなだめられない気分をとりあえず横において、深呼吸をする。
 清潔な浴室だった。足が伸ばせる浴槽だったのは、ちょっと意外だった。
 彼女がいつもくつろいでいる場所に思いがけず紛れ込んでしまったようで、不思議な気分だった。

「堀井さん。洗濯機、回しますね」

 洗面から聞こえる千紘さんの声に、うわ、はい、と答えていた。油断していたせいで、ひどく間抜けな響きになる。
 高い電子音のあとに、洗濯機の動き始める音が聞こえた。すぐに出て行ったらしい。
 初めて女性の部屋に入ったというわけでもないのに、この余裕のなさは一体何なのだろう。

 千紘さんの用意してくれていたのは、白の大きなTシャツとパジャマに近いコットンのパンツだった。Tシャツは問題なく着られたけれど、パンツのほうはふくらはぎの真ん中くらいまでしか届かず、若干情けない格好になった。
 濡れた髪を拭いながら、彼女の言っていたガラスの扉のほうをノックする。
「どうぞ」
 高い声にそう告げられて、僕は扉を開けた。

 キッチンのシンクの前に、彼女は立っていた。
 自宅に戻って、気分も落ち着いたのだろう。安心できる場所で、僕に気づいて微笑む姿に目を見張ってしまう。
 その表情を見て、あっという間にさっきまでの熱が戻った気がした。

「お風呂、熱くなかったですか」
「――うん」
「飲み物、何がいい? いくつかあるから、好きなの選んで」
 冷蔵庫のほうに、身体の向きを変えている。

 冷蔵庫のドアに手をかけようとした手を、近づいて捕まえていた。さっき触れた、頼りない手首の感覚が再び伝わってくる。
 彼女が小さな声で、あ、というのが聞こえた。
 嫌なら突き飛ばして、と、僕は千紘さんを腕の中に引っ張りこんでいた。

 堀井さん、という声が、自分の胸元で聞こえた。
 小さな、囁きみたいな声だった。
 
 抱きしめる腕に、自然と力が入った。
 こうしたかった、というはっきりした声が、自分の中で聞こえた気がした。
 この小さくて頼りない、静かに僕を安らげかき乱すこの人に、こうしたかった。
 
 言葉にならないまま、僕は彼女の背中に手を回していた。
 僕の胸元くらいまでしかない、温かい身体だ。ずっと、隙間なくぴたりと身体をつけてしまいたかった。
 身体の輪郭を確かめながら、背中を撫でていく。驚いたような、小さく鋭い吐息が聞こえた。それでも、彼女は僕のとった行動を拒絶しなかった。
 左手を、ゆっくりと後頭部に回す。
 身をかがめると、彼女は恥ずかしそうに僕を見上げた。

 初めて合わせた唇の、薄さと小ささにくらくらした。
 そのやわらかな感触に、泣きたいような気分になった。

 ついばんで、かたちを確かめ、くすぐって、隙を見て、そっとひらく。 
 キッチンの壁のほうに向かって彼女を押しやりながら、キスを繰り返した。
 千紘さんは何度か切なげな息を漏らしたが、一度も僕を突き放そうとはしなかった。
 次第に深くなるそれを、気づけば夢中で続けていた。

 息継ぎに、彼女はん、と声を漏らした。
 触れていた場所から離れて見下ろすと、頬が紅潮して両目がすっかり潤んでいる。

 目を合わせて告げた、好きだよ、という僕の声に、彼女が身体をわずかに震わせた。
 もう一度唇を重ねて、さっきのところまでひといきに舌を絡ませる。
 もっと、やわらかく溶かしたい。とろとろになるまで繰り返したい。彼女を奥までゆっくりとひらいて、そこに自分を沈めたい。
 先走る願望を追いかけるように、身体が動いていった。千紘さんも、もう僕のすることをただ受け容れる側ではなくなっていた。
 互いの呼吸が限界になるまで、キスを繰り返した。満たされたくてしているのに、すればするほど切なくて飢える気がした。もっともっとと、激しくなっていってしまう。
 
 そっと呼吸を整えている彼女の、首筋に頬を寄せてみる。
 感触を確かめながら、耳元や頬に唇と舌を這わせていく。
 後頭部に添えていた左手を頬のほうまでずらして、僕は親指で彼女の濡れた唇をゆっくりと撫でた。押し殺したような甘い声に、尾てい骨のあたりがじんと痺れるようだ。

「堀井さん」
「亮太って、呼んで」
 耳元で囁くと、彼女はん、と高い声を上げた。
「亮太、くん」
 すがるような声だ。腕の中で、小さく赤くなっている。
「呼び捨てがいいな」
 彼女の着ていたシャツの襟に触れながら告げると、彼女の目は僕の言葉と手の動きのどちらに反応するかで、ゆらゆらと揺れたようだった。
「亮太」
 ひらいた襟の中に入り込むみたいに、鎖骨から肩への線を唇で追いかけていく。
 嬉しい、と告げると、彼女は泣きそうな声で僕の名前を繰り返した。

 いつの間にか、キッチンの壁に背中がつくまで彼女を追いこんでいた。
「――わたしも、シャワーに」
 行きたい、と言いたかったのだろう。
 答えずに腰のほうから服の中に手を入れると、千紘さんは小さな声で、いや、と言った。
 ほとんど懇願に近い声の響きに、さすがに我に返った。

 ゆっくりと、身を離した。
 彼女の髪も服も乱れて、目尻は先ほどよりも赤く、うっすらと涙が溜まっていた。
 
 僕はよほど情けない顔をしていたのだろう。
 千紘さんはふっと表情を緩ませ、背伸びをした。
「そんな顔しないで。あなたが嫌なんじゃない」
「でも」
 昂ってしまった気持ちが、急激に鎮まっていくみたいだった。
「わたしも、汗を流したいだけ」
 彼女は言った。少し困った様子で、僕をなだめるみたいに。
 次の言葉が出てこなかった僕に、千紘さんは小さく微笑んだ。
 目一杯背伸びしてやっと届いたような、触れるだけのキスをされる。
「飲み物を持って、隣の部屋にいて。すぐに戻るから」

08-2

 シャワーを浴びて戻った彼女の身体からは、自分と同じ匂いがした。
 起き上がって部屋の入口まで迎えに行き、両手を取る。
 ベッドに着くまでにも、何度も唇を合わせた。彼女の着ていた袖のないワンピースの肩をずらして、先ほどと同じように唇や頬で辿った。
 そこに横たわって、やわらかく濡れた目でこちらを見上げる千紘さんは残酷だと思うくらいに魅力的だった。中性的な服装をしているがゆえに隠されていた、彼女の控えめながらも女性的な身体の線ややわらかさに僕は息を呑んでいた。

 着ていたワンピースを脱がそうとすると、彼女の目に少し切なげな色が浮かんだ。
 僕の手に自らの手を重ねて、それを拒もうとする。
「お腹、痕が残ってるから」
「気にするようなことじゃないよ。それとも、痛い?」
 小さな頭を抱きながら続けると、彼女は首を横に振った。
「痛くはないんだけど」
「嫌じゃなかったら、見せて」
 大丈夫、と告げながら、僕は彼女の頬に何度も唇を落とす。
 
 丁寧に、彼女の着ているものを脱がしていった。
 今度は、千紘さんは何も言わなかった。少しだけ緊張したような、恥ずかしそうな表情を浮かべている。一枚一枚身体から離れていく服や下着の感触にわずかに身をよじり、目を遠くのほうへと反らしている。
 身に着けているものすべてを脱がしてしまうと、彼女は薄い毛布に手を伸ばして自らの身体を隠そうとした。
 覆いかぶさって、それを阻む。
「隠さないで」
「でも」
「きれいだから」
 繰り返すと、彼女は泣きそうな顔で僕を見上げた。

 それは、壊れ物みたいに思えるような身体だった。
 めまいがしそうになるくらい、僕の求めていたかたちをしていた。

 もっともっと丁寧に扱ってあげたいのに、逸る気持ちがそれを許してくれない。
 借りた服を脱いで後ろからそっと抱きしめると、腕の中の身体は一瞬驚いたように強張った。重なった地肌のあいだを熱が行き来し、しずかに馴染んでいく。
「肌、すごくやわらかい」
 小声で告げると、腕の中で彼女は消えそうな声でうん、と答えた。
 実際に、彼女の肌はちょっと驚くほどやわらかかった。刺激に弱そうな、すべすべと潤った肌だ。後ろからすっぽりと抱きしめているだけで、ぬくもりとやわらかさになぜか悲しくなるような。

 胸の下から手を滑らせていくと、途中でわずかに感触が変わる箇所があった。
「ここ?」
 ゆっくりと、手術の痕らしき場所に触れながら尋ねる。
 千紘さんは、前を向いたまま静かに頷いた。
 ゆっくりとそこを撫でながら、彼女のうなじと頬にキスを繰り返した。
 指先で辿るたびに、確かにそこに腹腔鏡を挿入した痕跡があるのが伝わってくる。

 あ、という声を出して、千紘さんの左目から大粒の涙がこぼれる。
 悲しげな涙ではないように思えた。痛い? とも尋ねた。彼女は小声で言った。ううん。
 続けても平気? と、重ねて訊いた。
 千紘さんは小さな声で、うん、と頷いた。

 四つの手術痕を、抱きしめながら撫でていった。
 何も言わずにそうしているだけで、彼女の心が揺れたり震えたりするのが伝わって来る気がした。
 怖かっただろうな、と触れながら思う。
 頼れる身内もいなくて、ひとりこんな思いをして。
 その時に、そばにいてあげたかった。

「さっき、がっついてごめん」
 静かに泣いている千紘さんに向かって謝罪すると、彼女は僕のほうを見ずに首を横に振った。
「本当はこうしたかったのに、変なスイッチ入った。俺、今日は本当にだめだ」
 突き動かされたりかき乱されたりして、衝動ばかりで動いていた。頭の中で繰り返していた、彼女に対するあらゆるシミュレーションはすっかり水の泡になっていた。
 この人への感情は、強すぎて時に抑えがきかない。コントロールが難しい。いくらでも生まれて、手に負えないままいくらでも膨らんであふれてしまう。
 千紘さんは一度すんと洟をすすってから頬をぬぐい、いいの、と答えた。
「わたしも、触りたかったから」

「その――しても、いいの?」
 大事なことを、実は尋ねる前だった。彼女が手術を受けて内側にできた腫瘍を切除し、さらに癒着していた周辺の部位も摘出したのは男の身体にはない部分だ。
「うん。もう、大丈夫って言われてる」
 僕に少し身を寄せて振り向き、彼女はそう囁いた。
「でも、ゆっくりしてくれる?」
「もちろん。どうすればいいか教えて」
 さっきはあんなに夢中になって彼女を求めたけれど、どこかで止めなければとも思っていたのだ。病名と術後の生活については遠まわしに聞いていたけれど、こういうことまで前もって調べてしまうのはさすがに気が引けた。勝手な欲望をぶつけているようで。

「千紘さん」
 後ろから抱きしめながら、彼女の名前を呼んだ。
 声に出しただけで、胸の中が震えた。

 出会った日から、どうしようもなく惹かれていた。
 この人の中に、探していた何かがある気がした。その空間に、自分を置いてほしかった。ささやかでやわらかい、静かに続く安らぎのある場所。
 僕の呼んだ名前に、彼女はうん、と返事した。
 僕の腕の中で、纏っていたもの全部を脱いだ姿で、ひどく優しい声で。

「今まで出会ってきた誰より大事にするって、約束するから」
 抱きしめながら告げる。
 彼女はまた少しこみ上げたみたいになって、濡れた声で繰り返した。うん。
「俺の中にあるもの、全部、あげるから」
 続けると、泣きながらも彼女はふっと笑った。
 優しく無邪気な響きで、許し受け止めるように、一度だけ。

 目の前にあるやわらかな首筋に、僕はもう一度唇を押し付けた。
「俺のそばにいて。一番近くにいて。お願い」
 
 絞りだした僕の言葉に答えるかわりに、彼女は自らの手を僕の手の上に重ねた。
 そっと折り曲げて顔の前まで互いの手を運び、僕の手に唇を寄せる。
 重なった手を使って祈るみたいな恰好で、彼女は頷いた。


 キッチンでの激しさが嘘のように思えるような、やわらかなものが底に流れる行為になった。
 後ろ抱きにしたまま、確かめるみたいに彼女の身体を愛撫した。腕に、肩に、乳房やわき腹に。彼女は小さな声をあげながら、少しずつ僕にむかって身体をひらいていった。
 互いにわずかに不安を感じながら指を差し入れると、そこは潤んではいたもののまだ強張っていて、少しだけ冷たかった。ゆっくりと、探りながらほぐしていく。じきにやわらかく温められ、彼女の声もつられて甘く伸びていった。
 ためらいながら、奥まで指を滑らせた。様子を見ながら繰り返すうちに、彼女は僕にしがみついて唇を噛み、小さく一度昇りつめた。
 向かい合って繋がるときは、もう互いの心がすっかりとやわらかく重なり合っていた。
 好きだ、と繰り返しながら、ごく弱い力で腰を打ち付けた。加減しながら、彼女の求める強さになるように。わたしも、と彼女は答えた。好き、と耳に届いただけで、涙が湧きあがりそうになって腕に力が入ってしまう。
 寝室の暗がりの中で、僕達は続けて二度抱き合っていた。
 絡めた指の感触にも慣れ、互いに再び薄い汗をかき、そこにぐったりと横たわることしかできなくなるまで。


 ベッドの中に埋もれていた身体を何とか動かして、彼女が首をもたげた。
 サイドテーブルの上の時計に目をやっているようだ。ああ、と言いながら再び力が抜ける。
「――服、乾いたかな」
 動くことができないといった様子で、力なく千紘さんは呟いた。
「鳴ってたよ、音」
「え、聞こえなかった」
 今までにない、ぽつりぽつりとした口調だった。
 寝室のカーテンの端を、僕はわずかに捲ってみる。外はすっかり暗くなっていた。
 雨は降っていなかったが、梅雨の夜空だ。くすんだ灰色の雲があちこちに浮いているのが見える。
 彼女に続いて顔を上げて時計に目をやると、すでに二十時近かった。
「没頭してしまった」
 すばやくキスをして告げると、彼女は眠そうな表情で、ふふ、と笑った。

「すごい今更なんだけど。予定とか、なかった?」
 今日は確認すべきことを何ひとつしなかったな、と思いつつ、彼女の乱れた髪を直してみる。頭も気も遣わないで、衝動だけで走り抜けてしまった一日だ。
「今日はね。昨日だったら、今頃大慌てだけど」
 肘を立てたうつ伏せの姿勢でいた千紘さんは、少しだけいたずらっぽい目になって僕を見た。
 昨日は、二十一時からオンラインでの打ち合わせがあったらしい。リビングの一角に、大きな仕事用のデスクが置いてあったのを思い出した。


「――いつから、俺の気持ち気づいてた?」
 上を向いた小さな背中に、手のひらを滑らせながら訊いてみる。彼女は気持ちよさそうに目を閉じている。
「只野くんの、パーティの夜かな」
 ささやくようにゆっくりと答えてから、そうそう、と自分で確認している。
「初めて会った日は、そんな感じしなかった。そんなつもりもなかったんじゃない?」
 少しけだるそうな、眠そうにも甘えているようにも聞こえる響きだ。
「――そうでもなかったんだけど、自覚はなかった」
 心や身体はすでに反応して動き始めていたけれど、頭が全面的に見て見ぬふりをした。
 理性が危険視したのかもしれない。それまで培ってきた自分自身を崩されてしまう、と。 
「二度目のときは――わたしが余裕なかったから。ベンチまで運んでくれたのはびっくりしたけど、単純にいい人だなあって」
「その後が、パーティだったっけ」
 身を寄せて尋ねたが、彼女は次の言葉に迷ったみたいにわずかに首を傾げるだけだった。
 言ってよ、とねだる。頭の中に答えはあるのだろう。口にするか、悩んでいるらしい。

 しばらくそうしてから、彼女は特別ね、と僕のほうを見た。
「あの日、接客が一段落したあとね。ほり――じゃない、亮太、テーブルの後ろの壁に寄りかかって、腕を組んだ恰好でずーっとわたしのことを目で追ってた」
 彼女は静かな声で、でも懐かしそうに僕に言った。

 突然、腹のあたりがかっと熱くなった。
 身内に頼まれたとはいえ、あれは仕事のつもりでいたのだ。

「そんなこと――」
「してたよ」
「してないって」
「してた」
 子供みたいな言い合いが始まってしまう。
 
 千紘さんは懐かしそうに続けた。
「その目がね、わたしのむこうに何か別のものを見てるみたいな、ぽーっと見惚れてる感じだったの。心がここにいないみたいな」
 片肘で頬杖をつくようにして、彼女は優しげな視線で僕を見た。
「ああ、周りが気づくほどじゃなかったよ。だから、帰りに下の駐車場で切り出されるまでどんな気持ちでわたしを見てるんだろうって思ってた」
 思い返してみれば、確かにあの日彼女が店のどこにいたのかずっと記憶がある。
 僕の前から店内をぐるりと見て歩き、以前の同僚の人らしきひとりを見つけて話したり、水分補給をしに来た裕道に開店祝いの挨拶をしに来たりしていた。
 いつもより少し華やかだった、あの日の彼女の姿。

「だって、こんなに自分に自信がありそうな人がね、すごく切ない、悲しげな目で見てくるから。不思議だった」
「不思議」
「こんなに堂々とした人なのに、わたしのことなんて気にしたりする? って」
 何だか目立つし、背も大きいしと彼女は付け加えた。
「今は、俺よりでかいやついくらでもいるよ」
「わたしには、充分大きいなって思う」
「努力の甲斐があった」
 再び抱き込みながら、色々やったんだと告げる。彼女はふふ、と笑った。
「男子っぽい男子だったんだね」
「そう。健全な青少年」
 彼女の耳朶をくわえて告げる。
 言ってることとしてることが合ってなくないかな、と言われてしまう。
 充分合ってるよ、と言いながら、僕はもう一度彼女の身体に腕を回した。


 結局、マグノリアハイツを出たのは二十二時を過ぎた頃だった。
 彼女がスマートフォンでデリバリーのピザを注文し、到着を待つ間に散らかしてしまったものをふたりで片付けた。ひどく色気のない時間だったけれど、濡れたタオルやシーツを洗濯し、靴の中で雨を吸ったキッチンペーパーを捨てたりしながら僕達は上機嫌だった。
 建物のすぐ下にある自販機で飲み物を買い、湯気の上がる甘辛いピザを食べ、次の約束をした。
 くたくたになっているのに家まで車で送ると言ってくれた彼女の申し出を断って、僕は再び来た道を歩いた。
 数時間前にはひどく濡れて身体に張り付いていた衣服はふわりと乾いて、控えめな、花みたいな匂いがしていた。

 大通りを歩きながら、何度も空を見上げた。
 重い色の綿を千切ってまぶしたみたいな、暗い梅雨の夜空だ。
 それでも、目を凝らして見ると小さな光の粒が見えるような気がした。 
 
 彼女の身体の中にあった、細やかな光を貰ってきたと思った。
 あまりに粒子が小さすぎて、意識しなければきっと気づかない。彼女が今日まで大事にしてきたもののすべてだ。失わないように、奪われないように抱えてきたもの。ささやかで小さな、そして間違いなく貴いもの。

 長い一日だった。
 何だか間の抜けた、手落ちだらけの、でも特別な一日だった。

名前も知らない【06-08】

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名前も知らない【06-08】

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更新日
登録日 2021-04-13

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